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2020-02

「架橋」第7号 思い出の朝鮮人たち

思い出の朝鮮人たち (二)

      渡(わた) 部(なべ) 一(かず) 男(お)

   「マリ子」という女
 戦地での思い出である。
 それは、朝鮮人女性との擦れ違い、のような淡い恋の追憶である。一九四三年(昭和十八年)、日米決戦の戦局は、アッツ島の日本軍守備隊玉砕から約半年になる頃、ここ中国の華北戦線は、まだ平穏であった。処は歴史で有名な「邯鄲(かんたん)の夢枕(ゆめまくら)」の古蹟がある河北省は邯鄲の街での出来事である。
 ここには兵団司令部の外に、各部隊の本部があった。私の所属する部隊本部も街中(まちなか)にあり、無線通信手として勤務していた。
 前線と違い後方なので治安状態も良い。可也(かなり)の日本人と朝鮮人も居住していた。日本の国策会社や商社の社員、飲食店関係の人、軍関係に従事する人等々、また日本人及び朝鮮人の経営する食堂や料理店が数軒あった。
 大陸特有の暑い夏も終り、厳しい勤務から解放される楽しみに日曜外出があった。交代で外出するのである。
 本部より左程、遠くない処に朝鮮人経営の食堂があった。屋号を「日の出食堂」と言う。その食堂には若い女性の従業員が四、五人いた。その中に丸顔で年頃、十七、八歳ぐらいか「マリ子」という女がいた。
 純情で可憐な乙女であった。呑み助グループの気の合う戦友と外出のたびに、日の出食堂へ繰り込むのである。今日も例のメンバーで、その食堂へいく。皆、ほどよく、ほろ酔い気分になると、嫌(いや)な上官の悪口やら色気話から唄となる。当時、戦地で流行(はや)っていた小畑実の「勘太郎月夜唄」である。
 私がいつも、その唄を歌うので勘太郎という綽名(あだな)を付けられてしまった。その名付親は「マリ」ちゃん、である。そこで本日より○○上等兵は、マリ子部隊長より勘太郎上等兵と命名されました。謹んで申告致します、てな事になり、いくらか嬉しくもあり、気を良くした訳である。
 それからというものは、病み付きとなり、外出が待遠しく、その日が来れば脇目もふらず「日の出食堂」へ一直線。戦友も気を利かせて必ず私の隣に「マリ」ちゃんを座らせるのである。
 戦友の盃が「マリ」ちゃんを通じて廻ってくる。彼女が勘太郎サアーン、十八番の唄をと指名である。いい気分で又、歌うのであった。帰営、門限ぎりぎりまで飲み、千鳥足で帰隊したものであった。
 それから半年位過ぎた或る日の事だった。その日は勤務であり、無線室にて電鍵のキーを叩いていた時である。日曜外出から帰隊した戦友が顔中、血だらけで無線室へ入ってきた。アッ、どうしたんだ。彼が言うには、ある飲屋で他部隊の兵隊三、四人のグループに袋叩きにされたと言う。酒の上の喧嘩である。
 いづれにしても、数人で一人を痛めつけるという事は以(も)ての外(ほか)である。相手の兵隊は自動車隊の連中との事。戦友が殴られッ放しでは腹の虫がおさまらない。熱血漢である勘太郎上等兵の血は逆流するのである。ヨシ、来週の日曜外出には敵(かたき)を討ってやろう。幸いに通信班長は同年兵である。無理に頼んで外出許可を取り、その日を待った。相手の自動車隊は胸に黄色の識別マークを付けているので見分けはつく。
 待った外出日が来た。例の呑み助グループは揃って営門を出る。馴染みの「日の出食堂」へ繰り込むのである。
 相棒の戦友が、今日は別に酒一升、奢(おご)れと言う。それは「マリ」ちゃんとの事をもてはやすのである。「マリ子」が恥じらい乍ら調理場の方へ隠れると戦友が引っぱり連れてくる、という事で、酒盛は続くのである。惚れた弱み、とはこの事か。兵隊の俸給は知れたものだ。無けなしの金、痛いが気前を張る。
 頃合いをみて戦友の敵討、決行を打ち明けると、戦友も「マリ子」も「止めとけ」と制止するのである。何しろ気の荒い自動車隊の連中である。返り討ちに合うぞと脅(おど)すのであるが、彼女の手前もあり、引き下る訳にはいかない。勘太郎の名がすたる、匹夫(ひっぷ)の勇かもしれないが一矢(いっし)でも報(むく)いれば、それでよい訳だ。
 日の出食堂より少し離れた処にも別の食堂があり、自動車隊の連中が馴染みにしている店のようである。一寸様子を見てくると言って外へ出、その食堂をのぞき見ると、いた、いた。黄色のマークを付けた下士官が、ちびりちびりと一杯やっている。相手に不足はないぞ。中に入り、話があるので外にきて貰いたい、と言う。彼は胡散(うさん)くさい顔で出てきた。飲食中、誠に申訳ないが、実は俺の相棒の戦友が貴隊の兵隊に袋叩きにあった。その為の挨拶をさせてもらう訳であると身構えた。彼は、何処の部隊の兵隊か知らぬが、朕(ちん)の上官に対し刃向い、侮辱する気か、と突っかかってきた。
 そりゃそうだろう。いい気分で一杯やっているのに兵隊風情(ふぜい)に水を差されたのだ。こちらも一杯入っている、何を小癪(こしゃく)な、底辺の兵隊は明日知れぬ命、何が朕(ちん)だと、持ち前の叛骨精神に火がついたのである。兵を見下げた、その態度が許せない。身体は小さいが相撲で鍛えた根性があり、自信はあった。暫く揉み合っていたが、取っ組み合うと同時に投げ飛ばし、意気揚々と帰隊したのであった。相棒達は一足先に帰隊していた。
 それから二日位の後に、自動車隊から抗議の申し入れがあり、その兵隊を出せと言ってきた。部隊と部隊の人事問題に発展したようだ。歩兵部隊の符号は胸に白糸で縫い付けてあり、その下部(かぶ)の白布に氏名が明示してある。それを揉み合っている時に見て取ったようだ。困った事になったな、と思っていると、わが部隊の准尉さんが、その件は俺が話を付けてやる。任せとけ。文句があるなら電話では話にならん。直接部隊本部まで出向いて来いと取り合わなかった。
 相手の人事係は、上官侮辱で憲兵隊へ訴えると言っていたようであるが、何しろ酒の上の喧嘩である。憲兵隊としても一々取り合っていられない訳である。結局、自動車隊の面子(めんつ)もあり、その兵隊を中隊復帰させるという事で一件落着したようだ。やれやれ、助かった訳である。それから暫くして、中隊に復帰させられた。
 又、敵情の最も悪い前線の山頂にある「トーチカ」守備に飛ばされ、悶々(もんもん)の日を送っていた。要するに隊内罰をくった訳である。これで「マリ」ちゃんと会う事も出来なくなった。私の一件が、その後も「日の出食堂」や部隊本部でも話題となっていると、戦友から便りがあり「マリ」ちゃんも淋しがっている、と書いてあった。
 その間、敵襲も何回かあった。
 ある日の夜、敵襲があった時の事である。隊長が「トーチカ」から出るな、と言われていたが、切ない思いもあり、敵弾に当ってもよい、と討(う)って出た事もあった。言ってみれば、やけくそ、である。
《敗戦後、戦地から六年振りで日本に帰って来て知ったのであるが、「マリ」ちゃんとの間を取り持ってくれた戦友は、昭和二十年六月、戦死したとの事。彼とは特に気が合い、同じ通信班の軍鳩(ぐんきゅう)通信手であった。心から冥福を祈る》
 やけくその勤務から五ケ月程経った頃、私に南方方面に転属の命令が来たのである。一九四四年(昭和十九年)の七月頃であった。大陸戦線の戦局は、ビルマ方面の敵の重要拠点である「インパール」攻略寸前のニュースあり、又、在中国のアメリカ空軍基地覆滅(ふくめつ)と、中国とベトナムを結ぶ大陸打通作戦、いわゆる一号作戦が開始された。その作戦要因としての転属、つまり消耗品という兵隊の運命である。ささやかな送別会もそこそこに、山頂のトーチカを出発したのであった。母隊を離れ、道の部隊へ行くのは、不安で誠に残念であるが、ひょっとすると、「マリ」ちゃんに会えるかもしれないぞ。集合場所が邯鄲の部隊本部である。思慕の情、一縷(いちる)の望みで、本部に向った。
 久し振りでの戦友に別れをつげ、部隊副官に申告して懐かしの衛門を出る。衛門脇の楊柳(ようりゅう)も送ってくれる如く、夏風に吹かれ揺れている。早く会いに行けと言っている様だ。
「マリ」ちゃんの面影が浮んでは消えていく。邯鄲発の指定列車には少し時間があった。一目でもよい。彼女に会って出発したい。時計を見ながら「日の出食堂」へと足は急ぐ。
 午後三時頃であった。店には顔馴染の女は居たが、彼女は今いないよと、留守である。では彼女に宜敷く伝えてくれと頼んで、駅に戻った。駅舎も、プラットホームも、強い日差に耐えている。熱い鉄路は力強くそれを支えるように、彼方に走っている。
 発車時刻は迫ってくる。邯鄲の街ともこれでお別れだ。再び来ることはないだろう。ぼんやりと車窓より外を見る。発車五分前である。兵隊達がプラットホームで誰かを見送っている。その時である。窓外に頼んだ女と、「マリ」ちゃんが居るではないか。
 誰を送りに来たのか、と問えば俺を送りに来たと言う。感激の余り目頭(めがしら)がうるむ。まさか会えるとは夢想だにしなかったのに、頼んだ彼女の義理堅い好意、水商売の日本の女なら、果して来てくれるかな。大陸に来ている日本人の女は、兵隊を見下げ、馬鹿にしていた。それに比べると、朝鮮人の女性は親切で、情が深い。儒教で培われた民族的土壌から生れた美徳であろう。
 ガラン、ガラン。発車の鐘が鳴っている。哀調の音(ね)は、引き裂かれ、哀愁を掻きたてる鐘の音(ね)であった。ガタン、と列車は動き出した。速度を早め、吐く黒い煙は後方へ逆流してゆく。熱い胸は、切なく震えている。手を振っている彼女達の姿も、速度と共に、小さく消えていく。車窓から身を乗り出し、手を振りながら別れたのである。
 よくぞ送ってくれた。ありがとう。心置きなく出発したのであった。
 あれから四十余年になる。その後、彼女は、どうして居るのか。心やさしい彼女の幸福を神は守ってくれるであろう。年齢も六十歳に近いと思う。良き主婦、よきオモニ(母)になっている事であろう。行き摺りの人か、擦れ違いの儚(はかな)い恋か。
 もしかして、片思いだったかもしれないが、生あらば幸多かれと祈る。
 四十余年前の忘れ得ぬ、思い出の人であった。

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磯貝治良

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