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2020-02

「架橋」第7号 丸山静氏への手紙

   丸山静氏への手紙
 たいへん無沙汰をいたしております。先々月でしたか、病気の報に接し、心配していましたが、回復の様子なので安堵いたしております。
「イルボネ チャンビョク」についての批評、拝読しました。懇切な紹介もさることながら、容赦ない批判には、どういうわけか、言葉のきびしさ以上に、何か暖かいものを感じてしまい、胸に響きました。ずいぶんと丸山先生の肉声に接していなかったという思いと、おそらく私の文学的停滞にたいする苛立ち、なにをモタモタしているのかという叱咤の声とが、甦ってきたからでしょうか。かつていろいろと示唆を受けたことの一つ一つ、先生の文学にたいする言及の一行一行が、この小さな批評文の背後にふくらんで聞こえた、と感じました。〈文学の再生〉という普遍的かつ現代的な要請にもとずいた批判として、痛くこたえました。
 にもかかわらず、書き手として、それをそのまま飲むことはできないという、衝迫めいたものが、私のなかにあります。たぶんそれは、普遍的な作品評にたいして、一箇の作品の特殊・固有な〈顔〉ないし〈事情〉を守らなくてはならないといった気持のようです。この特殊・固有な〈顔〉ないし〈事情〉から発しなくては、「イルボネ チャンビョク」は普遍的な領域に包まれることはないだろうという予感があるからです。
 丸山先生は、「政治的に困難な問題をそのまま文学に持ち込み・・・・・・」と批判しています。私にはこの作品がそのようなものには、どうしても思えません。たしかに、在日朝鮮人は存在そのものが政治的にならざるをえない――という意味では、作中崔星子が遭遇する困難は〈政治的〉でしょうが、作中彼女が出会った出来事、彼女が強いられた人生、そしてそこで経験する内面生活(葛藤と意思と選択)は、要約した言い方をすれば、在日朝鮮人二世三世が置かれた、あるいは彼女・彼らを取り巻く境遇と経験の典型だろうと思います。
 もちろん在日二、三世世代の彼女・彼らのすべてがあのような苛酷な出来事に遭遇し、あのような内面生活をいま実際に経験しているというわけではありませんが、日常の表相をめくれば、あのような境遇は、彼女・彼らの現実の、人生の、生存状態の真相であり、あのような内面生活もまた真相であると思います。そのよってきたるもとが、くにから切断されて日本で生きざるをえないこと、民族がふたつに断ち裂かれていることなど、個人の心次第ではどうにもならないさまざまな条件によるのでしょうが・・・・・・
 したがって、私がこの小説でそのまま持ち込んだものがあるとしたら、「政治的に解決困難な問題」ではなく、在日朝鮮人二、三世世代の人間的実存にかかわる問題だと思っています。ましてや「政治的な運動」の領分ではありません。そもそもこの小説の〈文体〉のどこが政治的でしょうか。にもかかわらず先生の目にそのように映ったとしたら、小説の特殊・固有の〈顔〉ないし〈事情〉を捨象して、〈政治〉と〈文学〉を一般論で二元対立させ、〈文学〉をいつくしむ思いが強いからでしょうか。
 丸山先生は、星子と北山の作中関係を「二律背反的哲学、『民族』とか『祖国』という観念に金縛りされて・・・・・・」と批判しています。そして「カラスになったぼく」(東海文芸展望において「イルボネ チャンビョク」とともに紹介されている作品)の父さんの「からすは、りっぱなとり族だ」という考えにいたく感興を覚えています。そこに「本当の『ヒューマニズム』」を見ています。
 そのことをふえんして星子と北山の関係に置き代えると、朝鮮人(星子)も、日本人(北山)も、りっぱなにんげん族だ――ということになり、それが「本当の『ヒューマニズム』」ということなのでしょうか。
 日本人とか朝鮮人とか、国境とか民族とか、そんなことにこだわるのはおかしい。同じ人間なのだから――民族差別が言挙げされるとき、よく言われる俗論です。一見、正論のようにも聞こえます。しかし、星子が置かれた、在日朝鮮人であることによる決定的に困難な状態と、日本人北山の関係をそのような〈ヒューマニズム〉に解消しきれないところに、朝鮮人と日本人の特殊・固有な間柄があるのではないでしょうか。日本人作者・私が、その特殊・固有の間柄をあっさりと飛びこえて、朝鮮人も同じりっぱなにんげん族だと言ってすますなら、たちどころに星子の境遇・内的経験を文学的にも現実的にも葬り去ってしまうことになり、いわゆる同化を飲むことにもなるのではありませんか。〈ヒューマニズム〉が陥穽〈おとしあな〉になりかねません。
 星子=朝鮮人と北山=日本人の関係性は、「本当の『ヒューマニズム』」からさえ隔てられたところで、回復されなくてはならない。丸山先生のいう「終末論的なペシミズム」のどん底で対峙し合い、そこから突き抜けて差し込んでくる光を見出すほかにない、そう思います。
 しかし、突き抜けた明るさが、「本当の『ヒューマニズム』」といったモラルの範形では手に入らないとしたら、出口のない関係性そのものの追求が、文学のパン=場になるのではないでしょうか。政治的な解決とか「運動」としての解決とかに還元されるものでなく、文学のパン=場である以上、人間と人間の関係性そのものの回復が問われていると思います。作者にとって「憂さ晴らし」をする必要など毛頭ありません。「本当の『ヒューマニズム』」ではなく、〈本当の関係性〉の発見、回復が、ひとまずいま、文学の次元として私をとらえているものです。丸山先生の言う「主題の積極性」とか「日本の障壁」とかは、そのために避けて通ることができずに描かれるべくして描かれたものであって、それを認めよとか、直視せよとか、作者が錦の御旗あるいは有無を言わせぬ大義のごとくふりかざしているように受けとめられたとしたら、心外というほかありません。
〈民族〉とか〈祖国〉とかの゛観念”についていえば、それらは文学のパン=場において関係性を回復するための仕掛けではないでしょうか。現実には〈民族〉とか〈祖国〉とかは、在日朝鮮人にとって゛観念”ないし゛理念”であると同時に、それとのかかわり方が彼女・彼らの在日の生き方をきびしく左右している以上、それはめしのように暮し向きの問題であり、゛観念”にあらざるものです。そのような朝鮮人にとっての〈民族〉とか〈祖国〉とかが照らしだしたのが、北山の口にする「日本(社会)」とか「日本人」です。
 丸山先生は「二十年の歳月が経過しているのに、すこしも人間として成熟してゆかない」と批判しています。しかし、星子の環境と人生は、さまざまな出来事に遭遇しつつ、十歳のときには考えられもしなかった、在日朝鮮人のそれに変化していくし、それに促されて彼女の内面生活と意思も進展していきます。北山のほうも、星子=朝鮮人との関係をいくらかはせっぱつまったものにしていきます。
「成熟」ということが、私のなかでいまひとつ明確な像をむすびませんが、たぶんそれは、作者私の文学的深化、発展の不足と重ね合わせての評言であろうと、勝手な判断で噛みしめ、反芻しています。
「ソホクレスでもシェークスピアでもよい、スタンダールでもドストエフスキーでもよい・・・・・・」以下の結語の叱咤は、ほとんど丸山先生の肉声を聞く思いで読みました。おおやけの批評文のなかでのこのような言い廻しは、ちょっと乱暴にすぎて気にかかりますが、たしかに私自身が自戒とするところでもあります。
 最後に、丸山先生は提言の対象を「磯貝たちは・・・・・・」という言い方で示していますが、「イルボネ チャンビョク」という作品は、なにかの文学エコールとか政治エコールとかとは関係のない作品であることを、断っておきます。
 以上、勝手な書き手の言い分を(非常に狭い視野から)ながながと書きつらねました。いま、私の全身を丸山先生の批評の全体がおおうようにしてつつみ、ちぢこまった手足をひらかせようとしているのを感じます。そんな実感に励まされて、ひとまずペンを置きます。
 暮々もお体をご自愛なされるよう、祈っております。
  一九八五年七月二十日
 丸山静様                               磯貝治良

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