FC2ブログ

2008-05

08年 5月(第354回)例会のご案内

 08年5月(第354回)例会は下記の通りです。

と き   5月25日(日)午後1時30分~5時
ところ   名古屋YWCA(電話052-761-7707 地下鉄「栄」 下車、5番出口より錦通りを東へ約100m)

テキスト  会の文芸誌『架橋』27号合評パート2
報 告   立花 涼(作家)

 4月例会につづいて『架橋』の合評です。今回は、

 磯貝治良「ボクシング表現考」
 立花涼「闘いながら歩いていくこと―磯貝治良『弾のゆくえ』論」

 を中心に。
 お気軽にどうぞ。お待ちしています。

 磯貝治良

「架橋」15号

架 橋 15
              1995夏



目   次

○小  説 
ビー玉 ……………………………………………… 文 真弓
苦い果実酒 ………………………………………… 渡野玖美
成仏を願う男 ……………………………………… 申 明均
夢のこちら ………………………………………… 磯貝治良
郭公の故郷(翻訳) ……………………………… 柳 基洙
○短 歌
 赤とんぼとハルモニ ……………………………… 吉岡 卓
○エッセイ 
文字の表記、言葉の変化などについての雑感 … 朴 燦鎬
「読む会」200回によせて …………………………
磯貝治良・間瀬 昇・趙 眞良・成 眞澄・
中山峯夫・浅野文秀・朴 燦鎬・西尾 斉・
劉 竜子・蔡  孝・大泉幸子・加藤建二
○会録   名称のこと
○あとがき   





 ビー玉

文真弓(ムンまゆみ)          

 放置自転車が煩雑に立ち並ぶ埃っぽい通りをゆっくりと抜け、駅から西へとバスは曲がった。一呼吸する間に家並は途切れる。遠く彼方の山裾まで開けた田園地帯を朱色の単線電車がたった二両で進んでいく。
 今頃の季節が、山へ行くのには丁度いい。なだらかな丘陵を飾る何種類もの緑色には眩しい光が満ちている。その光は表層で大気と交錯して、山全体を覆う霞と化す。
 垂れ下がる雪柳を仰いで山に入ろう。
 車内には、他に、やはり山へ行くらしい乗客が五、六人、車の振動に身をまかせていた。私の前に、ひと組の中年の夫婦が座っていた。藍染めの木綿の帽子を被った妻が、窓の外を見ながら、絶え間なく夫に語り掛けていた。その声は今にも消え入りそうに、か細い声だった。夫は時折、思い出したようにうなずいて妻のほうを看やる。そして左肩から下げているステンレス製の銀色の水筒を始終気にしていた。
 私は目を閉じて深呼吸をした。そしてバッグの中から一通の手紙を取り出した。それは東京に住む娘が私に近況を知らせるために書いた定期便だった。

『朝鮮の楽器で「ソゴ」というのがあります。太鼓です。ママは知っているかもしれません。私は初めて見ました。大きさと厚みは目玉焼き約二個分のフライパン、あるいはちょっと大振りの手鏡。獣皮が貼ってある両面を、菜箸みたいな太くて短いバチで叩きます。最近はずっとこれを習っているのです。
 音はね、なんか中耳の詰まったような音。サイレンサー付き拳銃の銃声みたい。違うか。たぶんほら、練習が始まると杖鼓(チャンゴ)やケンガリの音でいいかげん耳がおかしくなっているから、叩いている私にソゴの音がよくわかんないのかな。消音機が付いているのはきっと私の耳の方かもしれないね。
 ソゴはねえ、杖鼓よりもずいぶんたくさん踊りながら叩くんですよ。顔の前でボン、胸のところでボン、回りながら跳びながら、スキップしながらボンボンと鳴らします。体を動かすと本当に楽しいです。私の習っているソゴ隊のダンスの中で、くるくる回りながら何メートルも移動するところがあるんですが、そこへくるといつも必ず目が回ってしまって、気が付くと私だけが一人であさっての場所へ進んで居るんだよね。これはもう、超かっこわるいです。あなたの一人娘はほんとうに朝鮮の血を引いて居るのかしら。けっこう私、悩んでいました、あはは。
 それがね、ママ、今日突然、そのくるくるが出来るようになったんです。少しは目が回るんだけど、ちゃんと列から外れずに進んでいます。私、もうすごーく嬉しくて、くるくるくるくる、今日は回ってばかり居ました。ママ、私、杖鼓でちょっと苦労してたでしょう。だいいち杖鼓って太鼓自体が大きいし、覚えることもいっぱいなんだよね。でもね、ソゴはいいよお。軽い。小さい。音も小さいから帰ってから復習も出来る。私、杖鼓のときには全く出来なかったステップがこのごろ出来るようになって、ちょっと自信ついて来た。あはは、安易かな、これって。
 あのね、私の所属している農楽の同好会は来週、K商店街のお祭りに出演します。もちろん私もソゴ隊で出演。とうとうデビューだよ。ママ、私のソゴダンス見たい? でも来なくていいからね。まじで。そういう手紙じゃないの、これ。今日はなんか嬉しくって、ただ書いてるだけなのだ』
 バスが登山車線に入ると、乗客の顔には、木の葉の形の暗い影が差し込んだ。むき出しの山肌に生えた山ツツジの先端が、バスの胴体部分に当たって、車中にバチバチという音が響いた。山道は車がようやく擦れ違える位の幅しかなかった。対向車はまだ一台もない。かなりの高度をバスは果敢に進んだ。耳が鳴った。
 私は涙をハンカチでぬぐい、目を閉じて深呼吸をひとつした。ふと、テーブルを転がっていくビー玉を追う時の焦燥を感じた。ずいぶん前から、私はなにもかもを薄々感付いていたのに違いない。そして、そのとおりに娘は旅立っていった。私には朝鮮の記憶のなにもかもが、古ぼけた玩具を慈しむようで懐かしくも悲しい。色とりどりの歪んだ光をその芯で凍結させたままの、小さくて冷たい硝子玉を、私は今もこの胸の中に隠し持つ。
 私は喉が乾いていた。そういえば水筒を持ってこなかった。そうだ、駅で缶ジュースを買えばよかった。山頂に、はたしてジュースの自販機があっただろうか。
 私の後部の座席に、四歳ぐらいの男の子と若い父親が座って居た。男の子は初め機嫌よく窓の外を眺めていたが、そのうちに、飽きてきたらしく愚図りはじめた。若い父親はなんども嘆声を漏らすだけでとくに言い含めることもしない様子だったが、とうとう男の子に慰撫するように柔らかい声を掛けた。すると、驚いた事に、男の子が座席を離れて、私の隣へやって来た。
 男の子はにこにこ笑いながら、嬉しそうに私に切符を見せた。それは、切符ではなくて、乗車料金を判別するための整理券のようなものだった。私も彼にお返しに整理券を見せようと、バッグを探った。ところが、どこで失ったのか、どういうわけか整理券が見つからない。近い過去をさかのぼってみたが、自分がどうやってこのバスに乗ったのか、それすらをも思い出せなかった。
 私は動揺した。
 ジャンパーのポケットを探った時、思わず鳥肌が立った。
 ジャンパーのポケットにビー玉がひとつ入っていたのだ。それは黄色の芯のビー玉だった。私がそれを取り出して眺めていると、男の子は私の手の中をまさぐるようにして私からそのビー玉を取り上げようとした。私は少し考えて、男の子の小さな手のひらに、黄色いビー玉を乗せてやった。男の子は珍しい物を見るような目でビー玉を凝視して、それから私の顔を見た。私は心臓が高鳴って止まないのを感じた。
 バスが山頂に着いた。乗客が順番に降りて、私も降りた。書き割りのような見事な山の遠景に、私は言葉を失った。
 喉の渇きは、もう我慢仕切れないほどに強かった。息をすると、足元がふらついた。その場にしゃがみ込むと、踏みつぶした雑草の青臭い匂いが鼻を衝いた。柵に寄り掛かるようにして立ちあがり、遙かな尾根に目をやった。その時、頭上で私を呼ぶ声に気付いた。私は目を伏せた。それが今ここに居るはずのない娘の声で、幻だとわかるまでにそれほど時間は掛からなかった。突然、太鼓の幻聴が私の内耳を襲った。
 二拍子のような三拍子のような、とても速い音の連打だった。ぴかぴかに磨かれた粒揃いの玉砂利が、降るようにして鳴り続いた。きつく貼った獣皮を打った乾いた右手の音が一つ、放たれるやいなやふくよかな余韻と代わる。漂う音の名残がじょじょにうすらいで、ある気配となって私を包んだ。
 虚空に一人の男が現れた。彼は最初、右脚だけで高く跳ねた。翻っては降りてくる爪先の朝鮮靴にはなんの足音も無かった。主の居ない杖鼓の音だけが響くこの山頂で、くるくるとまわり続ける彼の軌跡は、やがて空に大きな弧を描いた。背中を反らせ、膝を折り、輪の内側へと後頭部を落とす。ああ、また跳ねた。遠心力でサンモが宙を舞う。白い紐が渦巻くその先端を、私は懸命に追った。
 目の奥が熱くなっていくのを感じた。熱は徐々に増して行く。疲れを知らぬ杖鼓の連打が、私の心の静寂を温かい蜜でまぶしていく。私は空に我が身を投げ打ち、波間に行き戻りする小船を引き寄せるように、幻の男を摑まえた。怖々と抱いた男の頭は温かだった。杖鼓に共鳴して彼の体は振動していた。こらえきれずに動悸が重なる。生まれたばかりの軟体動物のいちばん最初の血の巡り。なにかの這った跡を追って進む哀しき音。決して鳴り止まぬ力強い律動。思慕の情と戦慄が責めぎあった束の間、私はふたたび娘の声を感じて振り返った。
 私は無意識に、ポケットの中になにかを探していた。ビー玉がふたたびそこに在った。杖鼓の音が止んだ。さっきの男の子が私に水筒のふたを差し出して、ボクノビーダマ、と言った。男の子のくれた水筒のお茶は、小さな赤いふたの中で泡だってほんのりと甘かった。私は少し大きめのビー玉を一つ、ごくんと飲み込んだような気がした。





 苦い果実酒
渡野玖美(わたりのくみ)

 金浦空港からシェラトン・ウォカーヒルホテルへと向かう沿道には、真っ赤なカンナが咲き誇り、ソウル市内に入るとカンナと無窮花、そしてまだ咲いてはいないがコスモスがあふれていた。一か月後にオリンピックを控えて、景観の整備に余念がないようだ。ホテルの部屋からは、河というよりも湖のようにゆったりと水を湛えた漢江が臨まれて、三十か四十か、赤、青、黄など色とりどりのウィンドサーフィンが帆をあげていた。平和な風景だった。
 午後六時からのパーティに出席するために、念入りに化粧して、この日のために新調した淡い赤紫色のパーティドレスで身を飾った暁子は、何度も鏡の前に立って自分の姿を映してみた。絹のような光沢のある薄い布でできているドレスは、動きに合わせて、ふわふわと揺れる。
 六時までにはまだ三十分も間があった。暁子は意を決して、電話をかけた。自分の幼稚な韓国語が通じるのか不安だったが、ともかく崔基一先生を呼び出してもらえばいいのだ。そうすればあとは日本語が通じる。崔基一は、彼の駐日中に暁子が八か月だけ韓国語を教わった先生だった。韓国へ来ることがあったら、必ず連絡しなさいと崔基一は生徒の全てに言っていた。身分は外交官で、仕事は在日韓国人に母国の文化全般を教えることだと言っていたが、具体的にはどんなことをしているのか、暁子にはわからなかった。三年の任期を終えて帰国してから、二年が過ぎていた。その間、何度かの手紙の遣り取りがあって、日本語でしか手紙を書かない暁子に対して、韓国語での手紙を要求したこともある崔基一だった。だが、あくまでも先生と生徒であった。厚かましく電話をかけていいのだろうかと迷っていたのだが、漢江をぼうっと眺めているうちに心が大らかになってきたようだった。初めての外国で、気持ちが高ぶっているのだろうか。
 直接に電話口に出た崔基一は、暁子の突然の電話に素直に驚き、今晩会いましょう、私は明日から二週間カンヅメになります、パーティの終わる九時頃にホテルへ迎えに行くと、ちょっと無愛想に言った。
 飛行機の中で隣合せて親しくなった道場美千子が、パーティ会場へ一緒に行こうと誘いの電話をかけてきたので部屋を出た。道子はブルーのドレスをまとっていた。美人とはいえないが背が高くてスタイルの良い美千子に似合っていた。訪問販売のみで売上げを伸ばし続けている大手化粧品メーカーの、セールスレディの研修旅行だった。日本全国の優秀セールスレディが各地区代表で三十二名、初めて顔を合わせた者同士のぎこちなさがあった。会社側の男性スタッフが五人いた。韓国へ進出するために、韓国にもセールスレディを養成しなければならない。今日の歓迎パーティは韓国の企業が我々のために開いてくれるのです。皆さんは日本のセールスレディの代表です。精一杯のおしゃれをして参加してください。すてきな男性もたくさんいると思いますよ。今度の企画の中心人物らしい三十代後半と思われる男性が部屋割りの発表の後に言った。二人部屋の者がほとんどだった。暁子は一人部屋希望だった。五万円の自己負担だが、見知らぬ他人と相部屋をできる神経は持ち合わせてはいない。美千子も一人部屋のようだ。
 パーティ会場へ入っていくと、暁子は色鮮やかなチマ・チョゴリの韓国女性たちに取り囲まれてしまった。互いに何か言いながら暁子にも話しかけてくるのだが、さっぱり理解できない。誰かに間違われているようだ。ナヌン イルボンサラミムニダ(私は日本人です)。胸の名札を指で示しながら言うのが精一杯だった。彼女たちは信じられないというふうに、大袈裟に驚き、次々と仲間を呼んで暁子を見せた。暁子の周囲は一際華やかな雰囲気になって、みんなが暁子と並んで写真を撮りたがった。片言の韓国語と英語で話し、分からないことは笑顔でごまかしていても、韓国女性たちに囲まれているのは心地良かった。
 トイレを探してパーティ会場から出たところで、年配の男性から、ヨボセヨと声をかけられた。暁子が立ち止まって目を向けると、男性はあっと声を発し、ひと間違いをしました、と日本語で言った。
 トイレから戻った暁子は少し疲れを感じて、壁際の椅子を置いてある場所へ行った。美千子が男性を交えた五十年配ばかりの五、六人のグループと談笑していた。
「道場さん、もてるじゃない」
「この方たちは日本語を話せるから。貴方みたいに韓国語ができないでしょ。びっくりしちゃった。あっという間に韓国の女のひとたちにさらわれてしまって、私なんか近付けなかったのだから」
「私の韓国語なんて挨拶程度よ。でもここにいる女性たちが韓国内でセールスレディになるのかしら?」
 若い人が少ないのを訝って暁子が言った。
「そうじゃなくて、今日のメンバーはオーナー格か文化人なんですって。名刺を何枚か貰ったけど、大学教授とか詩人とかの肩書なのよ。企業がアピールのために招待したみたいよ」
 美千子が耳元で囁いた。研修といっても、売上げ成績が上位の者に会社が御褒美の観光旅行が目的とばかり思っていた暁子は、盛大なパーティの性格がよくつかめなかった。
「先程は失礼しました」
 誰かと間違えて暁子に声をかけた男性が、ジュースの入ったグラスを片手に近づいて来た。
「日本語が上手ですね」
「ああ、まあ。私ほどより年上の者はだいたい日本語がわかります。ただ永く使っていないのでちょっと間違えるかもしれませんが。貴方は韓国は初めてですか? 先程はほんとに驚きました。何度か会ったことのある韓国の女優の姜美子(カンミジャ)にあまりにも似ていたのです。それで思わず声をかけてしまいました」
 他の人も頷いている。韓国女性たちに取り囲まれたのも同じ理由だったのだろう。
「何か料理を持ってきましょう」
 暁子は美千子とともに生ハム、カナッペ、寿司などを適当に二皿ずつ取って、元の場所へ引き返した。暁子は児童文学研究者金相哲と名乗った男性に一皿を渡した。
「お酒は飲めないのですか」
「昔は浴びるほど飲んでいました。六年前に胃の手術をしてから止めています」
 旅行の日程を聞いた金相哲は、ソウル自由行動の日には、市内観光案内をしてあげたいと言った。美千子と暁子を招待するが、あと一人増えても良いという。スウォンの民族村、慶州の観光を終えて、再びソウルに戻って、同じホテルで一泊の予定だった。ふたりは彼の好意に甘えることにしたのだった。
 九時にロビーへ行くと、崔基一は既に来ていた。自動車で来ているから市街へ出ようと言う。崔基一の車には、日本で何度か乗ったことのある暁子だ。安全運転だったし、なによりも紳士的だったから迷いはなかった。韓国語教室の帰り、方向が同じだということで崔基一の車で送ってもらい、道中をレッスンに使っていた。そのわりには上達しなかったのだが。
 観光客が行かないちょっと汚いけどとてもおいしい焼肉やヘ行って、韓国の焼酎を飲みましょう、と崔基一は言って、屋台店の並ぶ裏通りへ車を乗り入れた。屋台はがらが悪いからよしましょう、男同士なら構わないけど。入ったのは、ドレスを着ている暁子を連れて入るのにふさわしい店とはいえない。七輪の上に網金を乗せて、カルビを焼いた。日本では骨付きカルビなんて変な言い方がありますが、カルビとは骨の付いているのを言うのです。三十五歳の暁子より十五くらい年上の崔基一は、先生の言い方だった。暁子も生徒に戻っていた。真露という韓国焼酎は焼肉にぴったりでおいしい。程好く酔ったふたりは、歌あり踊りありの舞台を見ながら飲食を楽しむ、ナイトクラブへと足を延ばした。歌の意味を崔基一はいちいち説明した。そして明日からのカンヅメの意味も説明するのだった。
「貴方は本当に悪いときに来ました。明日から二週間は家族にも会えないのです。外交官としての研修期間で、とても厳しく、試験もあります。これを終えなければ何もできません。外交官の資格もなくなります。貴方をいろいろな所へ案内してあげたいのですが、それもできないで残念です」
 崔基一は苦渋に満ちた顔をした。
「私も仕事の仲間と一緒で、自由時間もあまりないのです。気にしないでください。こうして先生と再会できて、ここで韓国の舞踊と歌を聞いていることが不思議なくらいです」
「そうです。貴方は私の生徒になったとき、別れた夫の母国のことを知りたくて韓国語を勉強するのだと言いました。そして、言葉を話すことよりも歴史、文化、習慣などを知りたいから言葉を勉強するのだとも言いましたね」
 暁子は、深く頷いた。舞台でサムルノリのチャンゴを叩いている男性が別れた夫にそっくりだ。説明のできない感動が身体の中心を走った。韓国へ着いてからずっと感じているこの懐かしさは一体どうしたことだろう。別れた夫ではなくて、自分自身が朝鮮民族の血を受け継いでいるような懐かしさを感じている。子を三人も生んだから、韓国籍の子供の母としての感慨なのだろうか。
 部屋まで送ってくれた崔基一は、こんな高いホテルではなくて民宿のような所を利用して、もっと安い旅をしましょう、必ずもう一度韓国へきてくださいと言って帰っていった。
 翌日からは、慶州への観光へ旅立った。何処へいっても、暁子は得体の知れない感動に襲われて涙が込み上げてきた。特に仏国寺での僧の唱える経の声を聞いたとき、感動のあまり体が震えた。在日韓国人と結婚して、子供たちを引き取って離婚して、必死で生きてきたこの数年間をじっくりとかみしめる時間でもあった。
 二日後にソウルに戻った暁子に、金相哲から電話があり、運転手付きの国産車で迎えにきた。誰も誘う者はなく、美千子とふたりで行くことになっていた。胃を切除してからは、三十万ウォンで運転手を雇っているのだと言う。ハンドルは左側にあり、金相哲が助手席に乗り、彼の後に明子、運転手の後に美千子が乗った。市内観光ガイドをひととおり読んでいたので、何処へ行くのかと興味津々でいると、車は静かな丘へ登っていった。
 そこは墓地だった。暁子は墓地が好きだ。だが、選りによってソウルまで来て、案内を請うたわけでもないのに墓地へ連れてこられるとは、と暁子は不思議な気持ちで雑草の中にぽこりぽこりとある土饅頭とぽつんぽつんと建っている墓石を眺めた。別れた夫の係累の墓がないと誰が否定できようか。暁子の生まれ故郷は能登半島にある。遠い先祖は朝鮮民族だった可能性もあるのだ。目に見えない糸に手繰り寄せられて、今ここに立っているのだと思うと、涙が胸の底からせぐりあがってきた。韓国は決して無縁の地ではないのだと実感している自分に驚く。
 両班(貴族階級)は独自の墓地を持っているが、常民(平民)は共同墓地で、この墓地は後者なのだと、金相哲は四十年ぶりに話すのだという日本語で説明してくれた。日本の植民地時代の産物で、年配の韓国人は日本語を上手に話す。名前も言語も奪い取ってしまった過去の歴史を知るにつれて胸が痛む。私の創氏改名の日本名は水島哲でしたと、金相哲は苦笑した。
 車から降りて、案内された墓がふたつあった。ひとつは、反戦詩を書きつづけ投獄され、そして死後評価された詩人のもので、「萬海韓龍雲先生」の墓碑名が刻まれていた。詩人を敬愛する人が私費で建立したのだそうだ。真新しい立派な墓だ。墓石の後ろに功績が漢字まじりのハングル文字で刻んである。
 もうひとつは、韓国の児童文学の先駆者方定煥のものだ。日本の児童文学者巌谷小波を尊敬していたので、筆名を小波(ソバ)といった方定煥の墓は、背の低い落ち着きのある白い石でできていた。三十三歳の若さで病死したらしい。あたりに野菊が可憐に咲いていた。大きな木はほとんどなく、ソウル市街が一望できる丘だ。最近はデートコースにもなっていると金相哲が説明する。
 墓地を後にすると、金相哲は、昼食の用意をしてあるからと、運転手に命じ、ふたりを自宅まで案内した。家の建てこんだ細い道を走って着いた高い塀と鉄の門をくぐって、わりと小さな玄関を入るとすぐに、小さなテーブルと椅子がある。金相哲が奥に向かって大声で呼ぶと、小柄な飾り気のない楚々とした夫人が現れて、にこにこと笑った。美千子は大きな声で、こんにちは、お邪魔しますと言った。暁子は、アンニョンハシムニカ、チョウム ペッケスムニダ(こんにちは、はじめまして)と挨拶した。韓国の滞在に馴れてきた暁子は、簡単な韓国語が口から出るようになってきていた。
 満五十六歳の金相哲には二人の息子と二人の娘がいて、娘は既に嫁ぎ、息子のひとりは文学者でもうひとりは大学生だという。韓国の家屋を知ってもらうためにと言って、金相哲はすべての部屋を案内してくれた。二階がふたりの息子の部屋だった。日本の家屋と著しく違うところは、ひとつひとつの部屋が狭いことだ。四畳半か六畳くらいの部屋がいくつもあり、狭苦しい。スウォンの民族村を訪れて、昔の韓国の家屋を見たが一室一室は両班の家でも狭く、それはどうやらオンドルを使うためのように推察された。金相哲の部屋は二間をひと続きにして一間としてあり、客が多いのでこうなったのだと説明した。書庫にしているらしい部屋には、古呆けた日本の小説や詩集もあった。文学は日本の本で学んだと打ち明けた金相哲は、
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  かにとたわむる

  大という字を百あまり砂に書き
  死ぬことをやめて
  帰り来れり

 と石川啄木の「一握の砂」にある詩を暗誦して、少年のようにはにかんだ。
 六畳ほどの居間で食卓を囲んで坐った。奥さんの嫁入りのときの調度品だという螺鈿(らでん)の箪笥が二方に並んでいた。狭い部屋に大きすぎる箪笥だ。小さな扇風機が二個首を振っている。真鍮の器に盛られた種々の韓国の家庭料理が食卓いっぱいにあふれていた。暁子と美千子の前には銀製の箸が置いてあった。銀は毒に触れると変色するので、来客用として最大の歓待を意味するのだ。つまり毒物は盛ってありません。敵意はありませんということなのだろう。李朝時代の王室では、すべて銀製の器を使用していたらしい。日本の将軍がお毒味役を置いていたのと同じ理屈だ。
「ヨボ、ヨボ! マジュアン」
 金相哲が台所へ向かって叫んだ。叫んだという表現は大袈裟ではなく、実に大きな声だった。何度も同じ言葉を繰り返していたが、台所では忙しいのか何の応答もない。苛々したらしい金相哲は、立って行った。立って歩きながら、再び、ヨボ! と言った。
「韓国でも奥さんのことを女房って呼ぶのかしら」
 美千子が楽しそうに、目を大きく見開いて言った。好奇心にあふれているときの美千子の表情らしい。唇を少しとがらせている。
「違うわ。おい、ぐらいの意味よ。日本の男性も自分の奥さんを呼ぶときに、おういって言うでしょ。あとの、マジュアンというのは何でしょうね、ちょっとわからない」
 そんな会話を交わしていると、金相哲が戻ってきた。そして再び、
「ヨボ、ヨボ! マジュアン」
 と叫んだ。台所へ行ったのではないらしい。小用だったのだろうか。
 奥さんが味噌汁を運んできた。日本の味噌汁とはちょっと趣を異にしている。貝汁だが、玉ねぎが入ってごってりした感じだ。
「マジュアン」
 金相哲が言うと、奥さんは笑いながら台所へ去り、一本の果実酒を持ってきた。その果実酒の名前が「マジュアン」だった。韓国産の白ワインである。適当な渋味があり、甘味をおさえた口当たりの良いワインだ。金相哲は胃を手術して以来、禁酒しているとのことであったが、グラスに一杯のマジュアンを口にして暁子と美千子を歓待してくれた。
 食卓には、すきやき風の鍋もの、キムチ、豆御飯、薬飯(ヤッパプ)、ナムル、果物、草餅などがあふれんばかりに並べられた。
「暁子さんは、確かパーティのときに夫は韓国人でしたと私に言いましたが、本当ですか」
 金相哲が暁子の顔を食い入るようにみつめて言った。美千子はびっくりした顔をして暁子を見た。いつの間にそんなことを話しあったのだと言いたげだった。
 貴方は韓国を好きですか、という金相哲の問いに対して、興味があると答えると、何故かと言われて、言わずもがなことを口ばしってしまったのだった。
「ええ、本当です。在日韓国人ですけど」
「別れてしまったのですね」
「ええ。もう七年になります」
「私はそのことを聞いて心が痛みました。同国人が貴方を不幸にしているのは恥ずかしい。私が代わりに謝ります。だからその意味で今日は自分の家へ招待したのです。その男は悪い奴だ。貴方は子供はいますか?」
「三人います」
「一緒に暮らしているのですね」
 頷くと、金相哲は傍らの奥さんに韓国語で通訳した。奥さんは、アイゴーと言って驚きの目を暁子に向けた。そしてふたりで、興奮した口調でひとしきりしゃべりあっていた。
「私の妻が、私たちの国の子供を育ててくれてありがとうと言っています」
 金相哲が訥々とした日本語で言った。暁子はびっくりして、ふたりの顔を見比べた。そして、自分を労ってくれた優しさに涙があふれてきた。自分こそ前夫を不幸にしてしまったのかもしれないのに、と暁子は思った。夫の母国の人に、親切にしてもらっていることが面映ゆかった。
 帰りの車の中で、助手席に坐った金相哲は後ろを振り向きっぱなしの状態で、能弁だった。文学をはじめ韓国の現状など多岐にわたって情熱的に語った。
「今こうして私たちがいることが本当の韓国と日本の友好なのですよ。あんなに大騒ぎしてパーティを繰り返していても仕方がないのです。ところで今晩はどんな予定ですか」
「ねえ暁子さん、夕食が済んだらホテルのなかのクラブかバーでどうかしら? 今日のお礼の意味で金さんをお誘いしては」
「それはいいわね。どうでしょうか」
「喜んで誘惑されますよ。ディスコクラブがいいです」
「ディスコ?」
 韓国ではディスコは若者だけのものではないのだと金相哲は言ったが、行ってみて納得した。五十六歳の金相哲が体を揺すって踊りだし、暁子も美千子もつられて踊った。半数以上が中高年だ。ホテル内のディスコだからかも知れなかったが、三人は汗だくになって踊り、マジュアンを飲んだ。暁子が金相哲のグラスに酒を注ぐと、彼がしみじみと言った。
「韓国では妻かほんとうに愛しあっているひとしか酒を注がないのです。店のボーイが注いでくれるのを待っているのが普通です。日本ではいま貴方がしたようにするのが普通なのだと思いますが、私はとても嬉しい。パーティのとき、夫が韓国人だったと言ったことにも興味を覚えましたが、本当は違うのです。貴方が私の分の料理と酒も持ってきてくれましたね。初めてです。韓国の女性はそんなことはしないのです。それで好感を持ったのです」
「はあ、そうですか」
 暁子はどぎまぎしてしまった。
「暁子さんに会って、忘れていたお酒の味と日本語を思いだしました。そして恋も。今日から私たちは韓国の愛人、日本の愛人になりましょう」
 愛人という言葉にどれほどの意味が含まれているのかわからない。日本語の愛人とは多少違うらしい。恋人というぐらいの意味なのだろう。だが愛人は性関係をも暗示して、ドキッとする言葉だ。暁子は曖昧に笑うしかなかった。
「暁子さんはいつも笑ってごまかしている。面白くない。そういうのを韓国では笑いを売ると言います」
 売笑婦という言葉が浮かんだ。暁子は再び曖昧に笑った。
「私は本気で言っているのです。私は五十六歳、胃を手術して、実は癌でした、あと何年の生命なのか。お互いに若い間にもう一度会いましょう。老人になってからでは寂しすぎます。きっとですよ。ひとは恋をなくしては駄目です」
 金相哲は暁子の目をじっと覗いて、手を強く握った。
 翌朝、お土産にと赤い薔薇の花のデザインの愛用の煙草「チャンミ」と果実酒「マジュアン」をホテルに届けてきた。

 北陸の温泉町に住んでいる暁子が、日本に来ていると知らせる金相哲からの手紙を受け取ったのは、半年後のことだった。
 日本の児童文学研究のためで、大阪で三ヵ月間の図書館通いだという。毎週水曜日が休館日だから、一度出てきませんかと書いてあった。
 韓国と日本の間での二、三の手紙の遣り取りのなかで、再会を願っていると互いに書いたものの、暁子は金相哲に会うために大阪まで出かけていく気にはならなかった。
 韓国での思い出は大切にしていたかったが、日本に戻って日常に流されていると、思い出は思い出でしかない。むしろ、思い出のまま過去に閉じ込めてしまっていたほうが美しいのだった。暁子の心のなかに恋は育ってはいない。「韓国の子供」を育ててくれてありがとうと言われて、感激したことは決して忘れないが、自分の子供たちは「日本の子供」でもあるのだ。時が経つに連れて、暁子の胸裡に反発心が育っていった。金相哲の手紙が恋文めいてくるに従って、暁子は重苦しい気分になっていった。「愛人」という言葉が重かった。
 暁子には三年前から付き合っている男がいる。いい関係だと思っている。離婚後、いくつかの恋もして、結婚を望んだ相手もいたが、どれも一年足らずで破局し、暁子は恋に臆病になっていた。だが、今の男との関係は年齢差のせいか気持ちの負担が少なく、安心感があった。
 大阪へ誘われていると男に相談してみた。嫉妬心など見せたことのなかった男が、絶対に行ってはいけないと感情を露にした。愛情を感じて嬉しかった。韓国でのもてなしに対してのお返しのつもりなら、こちらへ来てもらえば良い。費用は全部持つからそうしなさいと言うので、暁子はその旨を書いて金相哲に送った。
 しばらく何の音沙汰もなかったので、諦めてしまったのだろうかと思っていた。その矢先、手紙が来て土曜日に行くとあって慌ててしまった。手紙の届いたのは木曜日で、来訪は二日後のことだ。土曜日に温泉町で一人客の宿泊は、平日だったら多少の無理はきくホテルでも、まず受け取ってはくれない。暁子は金相哲に電話をかけて、日を変更できないかと言った。
「ああ暁子さん、貴方が大阪へ来てくれないから、私がそちらへ行きます」
「土曜日はホテルの都合が悪いので、土日以外に日を変更できませんか?」
「ああん? 土日以外?」
「はい。土曜日と日曜日はこちらは温泉町なので予約なしでは難しいのです。シーズンですし」
「よくわかりました。だけど私はその日しか駄目なのです。来週になったら妻が韓国から来るので、そうしたら出かけられなくなります。妻は暁子さんからの手紙に、とてもやきもちの気持ちを抱いていますから。民宿でもどこでも良いのです。私は暁子さんに会いたいだけですから」
 金相哲の強い意思を感じた。そして言葉の裏にある真意、の通じない外国人相手だと言うことも。どうそ、いらっしゃってください、お待ちしております。暁子は答えていた。妻が嫉妬していると聞いて、心が痛んだ。
 男は約束どおり、ホテル、料理屋、二次会のクラブまで手配してくれた。男は運転手としてついてきているかのように、ひっそりと影のように金相哲と暁子に付き添っていた。
 フィリピンダンサーのショーをやっているナイトクラブで、明子の右隣に坐っていた金相哲が思い詰めたように囁いた。
「私は暁子さんとふたりで過ごしたいのです。あのひとに帰ってもらうわけにはいかないのですか」
 ぎこちない雰囲気はずっと続いてはいたが、日本語が流暢だといっても完全な意思の疎通は困難で、一つの言葉を幾通りにも言い替えなければならず、つい口数が少なくなっていた。だが、この金相哲の言葉の持つ心は、ストレートに暁子に響いた。最も恐れていた言葉だった。できれば、男との関係を明らかにしないままでいたかった。暁子の左隣にいた男にも聞こえたかもしれない。
「それはできません。私のスポンサーですから。言ってませんでしたが、私は小さな酒場をしています。その酒場のスポンサーです。このひとがいないと私の生活はないのです」
 暁子は、ショーに目を向けたまま言った。金相哲は深い溜息をついた。酒場をしているというのは、咄嗟の嘘だった。
 そのあと、金相哲はひとが変わったように陽気になって、フィリピンホステスとダンスを踊った。暁子も、韓国語の歌をカラオケで披露した。男は終始変わらず、一緒にいるのが自分の義務でもあるがごとくの態度をとりつづけていた。
 金相哲をホテルに送り届けて、暁子と男は居酒屋で少し飲んだ。男は暁子に、韓国人は嫌いだと言った。
 翌日、午後の列車で帰る金相哲を九時過ぎに迎えに行き、浜辺の観光案内をした。金相哲は、暁子と男の関係が分かったからか、前日の意気込んだ態度はすっかりなくなって、学者然としている。暁子はほっとしたような、ちょっと寂しいような申し訳ないような気持ちで、ふたりの男性のお伴をした。主役は、いつしか男になっている。日本は何処へ行っても美しい、と金相哲は男にもてなしのお礼のような感じで言ったりした。
 加賀大聖寺藩の菩提寺である実性院の境内にある一つの碑の前で、金相哲は立ち止まった。「日韓併合記念」と彫ってある。
「どうして今頃こんなものがあるのですか。どうして取り除いてしまわないのですか」
 金相哲は不愉快の表情を露わにして、男を睨んだ。
「そうですねえ、昔はたくさんあったでしょうが現在では珍しいですね」
 気色ばんだ金相哲の声に比して、男の声はのんびりしていた。男と金相哲の年齢は、違っても二つくらいだ。同じ時代を生きたのだ。
「日本は、韓国を植民地にしていた罪を反省していないのではないですか。こんな恥ずかしいものを残しているなんて、ここに来る韓国人がどんな屈辱を味わうか考えないのですか」
 金相哲の声も、一本伸びている白い鼻毛も震えていた。
「金さん、広島の原爆ドームをどう思いますか。壊して、新しいビルを建てたら良いと思いますか」
 男の声はあくまでも落ち着いていた。
「そんなこと思うわけがないでしょう。戦争の原爆の悲惨さを後世に伝えるためのメッセージの役割ですから」
「それじゃ、この碑も歴史の証言として残っていてもいいのじゃないですか」
「そうです、しかし、この形は好ましくない。何かの説明をしていないと。この碑は威張っている。日本は韓国を征服したみたいに・・・・・・」
 それっきり二人は黙りこくってしまった。
 駅前の食堂で遅い昼食をとってから、金相哲は長身の背を少し丸くして、すっかり無口になって列車に乗って行ってしまった。
 数日後、男のもとに礼状が届いたが、暁子宛には来なかった。男への礼状にも暁子のことは何一つ記されてはいなかった。





    名称のこと

「在日朝鮮人作家を読む会」には、朝鮮籍だけではなく韓国籍のひと、日本籍を取得しているひと(私は「帰化」という言葉を厭う)も含む。むしろ韓国籍が多く、最近は日本籍取得者が多い。“民族は一つ”という気持から、国家ではなく出自を同じくする人びとの統一的な民族の総称として会のネーミングにしたわけだが、会の発足当初は「在日朝鮮人文学」が自然で、「在日韓国人文学」という言い方はゼロに等しかった。
 私自身、ここ十年ほど前から「朝鮮韓国」あるいは、「韓国朝鮮」などと書くが、これは民族が一つになるまでの過渡的な“仮称”として言っている。だから朝鮮と韓国のあいだに、分断線を表わすような中黒は入れない。「韓国」と「朝鮮」とを特に並記する必要のない場合は、民族的総称として「在日朝鮮人」である。「韓国」か「朝鮮」かを論議すれば、日帝時代の「朝鮮」、大韓帝国時代の「韓国」、李氏朝鮮時代の「朝鮮」、三韓時代の「韓国」、古朝鮮時代の「朝鮮」とさかのぼって、現実的には意味の乏しい論議になる。思情的になるが、これまで日本人が貶しめてきた「朝鮮」(という言葉)をみずから“まっとうな場所”に置きなおすためにも、私はこの言葉を大切にしたい。  (良)




 成仏を願う男

      申明均(シンミョンギュン)  

「テメエたちはジンプン製造器か。アタマを使え、頭を」
 社長の金山がいきなり怒鳴った。一人の男が、掘った溝から出て来た大きな石に手こずっている。人夫頭の佐川が飛んで来てツルハシを使いながら、二人掛かりで石を退けた。彼らは、平田が勤めている会社の土木工事をしていた。
 平田には、金山が言った「人糞製造器」の意味が分からなかった。しばらく考えてから笑ってしまった。笑ってから「オレもそうだろうか」と思った。
 仕事を請け負っていたのは金山組である。組といっても社員が一人もいない会社で、社長の金山は、工事のたびに人夫出しの会社から人を借りて仕事をしていた。
 佐川たちは人夫派遣会社のプレハブ小屋に住み込んでいた。賄い付きで、昼は弁当を持って来る。平田は弁当の値段を聞いて驚いた。高くても断れないらしい。一日三度の食費は、食べなくても給料から必ず引かれるという。酒やビールも食堂に置いてあるが、スナックや飲み屋の値段と変わらない。金のあるうちは酒屋から買ってくるが、無くなると給料日までのツケが効くので、会社の食堂で飲む者が多いという。
 彼らの仕事は、外での土方作業がほとんどで雨が降れば仕事はない。そんな日は朝から酒を飲み、中には前借りをしてパチンコに行く者もいる。喧嘩をしては休み、宿酔だといっては休んでしまうので、月末の精算日にはわずかの金しか手元に残らないという者がほとんどだ。働いた分から食費や酒代、それに前借り分などを引くと赤字という者もいるという。平田はそんな話を聞いて、一種のタコ部屋を想像した。
 平田は、人夫出しの会社の経営者が朝鮮人であることを知っていた。
 そういう会社が日本の各地にあり、人夫たちは情報を寄せ合って渡り歩くという。
 会社は排水溝の修理を金山に依頼した。平田が勤める会社の社長と金山は懇意にしており、土木工事はすべて金山に任せていた。
 電気の保守係として勤めていた平田は、金山組のしている仕事とは係わりはなかったけれど、金山社長とは知り合いだった。金山も平田も在日朝鮮人の二世である。
 金山は、年ごろになった娘の縁談に悩んでいた。何度めかの見合いでやっと決りかけた話を娘は断るという。金山が、平田を誘って酒を飲んでいるときにそう話した。
「相手の家に何度か行ってるんだ。向こうの親も気に入ってくれているのに、娘はそれでも断ると言うんだ」
「何が原因ですか。いちど決心して嫌になるなんて」
 金山の娘はウリハッキョ(民族学校)の大学を出て銀行に勤めていた。
「それがね、金持ちは嫌だというんだ。良いことじゃないかとオレは言うんだけど」
 週に一度は必ず兄弟同胞が親の家に集まって食事会をしなくてはいけない、という話を聞いて嫌になったらしい。娘の気持ちが分かるような気がする。
 平田は、金山の娘の選択が正しいように感じられた。週末ごとに親の家で食事をするために兄夫婦や姉夫婦と顔を合わせなければならないのは苦痛なことかも知れない。幸せな家族の一員を演じながら、財産や住む家、高級な自家用車や身に付けた装飾などを競ったりけなし合ったりするのは目にみえている。それは礼節の民として恥ずべきことなのだ。
 むかし、在日朝鮮人たちの生活はみな貧しかった。それでも、何かを作ると近所で分け合いながらして助け合って生きていたのだ。その頃のアボジ(父)オモニ(母)たちの心の中には東方礼儀の国の精神がまだ生きていた。戦後五十年近くの年月が経った今ではもう何もかもがすっかり変わってしまったのだ。
 平田の父が五年前に八十五歳で亡くなると、彼の長兄と次兄が、むかし父が飼っていた豚小屋の跡地をめぐって喧嘩を始めた。それまでは近くで仲良く暮らしていたのに互いの妻と子供たちをも巻き込む醜い争いとなり、その噂は村じゅうに広がった。二人の兄は往来を止めた。次兄は盆と正月の法事にも顔を出さなくなった。兄も呼ばなかった。彼は、次兄が長兄を殴ったと聞いて、同じ兄弟であることが恥ずかしく、縁を切ってもいいと思っていた。それからはどちらの兄の家にも一度も顔を出すことはなかった。
 平田がいま勤めている会社に就職の世話をしたのは金山である。
 金山は毎朝、現場に入る前に平田のいる機械部に顔を出していた。道具を機械部に借りに来ることもある。そんなとき機械部の社員はいつも黙って貸していた。ある時ひとりの人夫が道具を借りにきて、
「請け負ってんだろう。道具ぐらい自分たちで持ってこい」
 と、機械部の社員から怒鳴られたことがあった。請け負っているのは金山で、彼らは派遣されて来る人夫なのだ。彼らが叱られる筋合いはない。現場で社長の金山から「道具を借りてこい」と言われれば、機械部の者に頼むしかないのだ。彼らはそのことがあってから、道具を借りるときは平田だけに頼むようにしていた。
 平田は彼らが道具を借りにくると気を利かして余分に持たせてやる。違った道具を持っていってまた金山から怒鳴られる姿を見るのが嫌だったのだ。そんな平田に、人夫頭の佐川が頭を下げて挨拶し、何かと話し掛けるようになった。
 翌朝、ひとりの人夫が仕事に掛かる前のタバコをふかしながら「宿酔だ」と言って寄ってきた。息が臭く、足元もふらついている。孫がいてもおかしくない年配だ。
「オヤジさん、そんなに飲んだかね。あまりムチャしたら体をこわすよ」
 平田が言うと、
「体はじょうぶだよ。悪いのはここだけさ」
 と男は指で頭を指して言った。
「頭の悪いのは今さらどうにもならんサ」
 と言うと、男は気を悪くしたのか黙ったまま現場に向かって歩きだした。
 その日の昼、佐川が平田の耳元で、
「平田さん、あの男ね、ほれ、あの男。あれはヤクザだよ」
 と言った。佐川がアゴで教えてくれたのは、朝、悪いのは頭だけだと言った男である。
「どうしてヤクザが土方をしてるんです。それでは食っていけないのかな」
「何人かの女に店をやらしてるって自分では言ってるけど、どうもこれだよ」
 人差指にツバを付けて眉を撫でるしぐさをした。
「どうやら女房に逃げられ、家族にも見離されたようだ」
 一週間ほど前に、働かせてくれと飯場に現れたという。酒が好きで、酔った拍子にそんなことを話したらしい。
「ここからここまで体じゅうモンモンだよ」
 佐川は自分の手と足を手刀で叩きながらイレズミのことを言った。平田には想像のつかない世界だけれど、女房に逃げられ家族にも見離されたという男の人生がおぼろげながら見えるような気がした。
 佐川の顔は陽に焼け、艶のある褐色が乾いた皮膚に染み込んでいる。額に刻んだ数本の太いシワが、彼の過去をほとんど知らない平田に何かを語っているように思われる。おおきな鉤鼻が立派な風貌を代弁している。老人と言うには少し早いけれど、人生の裏の部分に詳しくて、時どき人を驚かせるようなことを言う。
「きのう健康ランドでね・・・・・・」
 ある朝、佐川がおかしなことでも思いだしたようにニヤニヤしながら、平田にいきなり話し掛けてきた。どうしても聞かせたい話の様子だ。口元がだらしなく歪んでいる。平田にも、どんな話だろうかという期待が段々と募ってくる。平田は、苦労している素振りも見せずいつも笑って話し掛けてくる佐川の性格が嫌いではなかった。
「こうやって念力でね、若い兄ちゃんのアレをおっ立てるんだ。きのうは三人やったよ」
 と言った。手のひらの念力で男の一物を自在に操ることが出来るという。何も知らずに寝ている男のパンツが、大勢の人が見ている前で脹らんだり縮んだりしておかしかったと笑った。平田は冗談だと思って聞いていた。
 佐川のいう『健康ランド』とは、最近、郊外に出来た温泉のことで、薬湯や滝湯やサウナ、それに温水プールまで備わっている大浴場である。和食、洋食の他にもいろんな食べ物の店があり、週末には歌手や芸人たちが来るので、佐川は、飯場と呼ばれている宿舎の仲間を誘い、土曜の夜は決まって出かけていた。風呂から上がり、気の向いた店で一杯飲むのが彼らの唯一の楽しみなのだ。
 平田も佐川に誘われて何回か行ったことがある。佐川とはそうやって時どきは酒を飲む間柄になっていた。平田は「オヤジさんは上手に生きているなぁ」と思ったことがあるが、それは率直な感想だった。
「これからは佐川さんとは行けないな。寝ているときにそんな事されたらかなわんから」
「いやっ、まだ二十歳(はたち)前の子にしか試してないんだ。若い子は敏感だから・・・・・・」
「それは女にも効くの? 開け、開けって」
「そりゃ出来るよ、タオルでこうして手を隠してね」
 と、もっともらしい手つきをして見せる。けど、女性に試したことはまだないという。
 平田は、人の手のひらからは僅かに電波らしいものが発生しているという記事を新聞で読んだ事があるのを思い出した。ひょっとしたらそれだろうか。
「それは誰にもできるの?」
「いやぁ、いくら修行しても出来ない人もいるよ」
 平田は自分のことを言われているような気がした。平田は幽霊とかUFOとかを一度も見たことがなかった。超能力についても、彼はそうした類いの話はどうでもいい事だと思っていた。佐川の話は本当かもしれない。嘘かもしれない。それはどちらでもいいように思えた。信じない訳ではない。仮に佐川がふざけてデタラメを言っているとしても、それはそれで良いではないか、と思っていた。
 平田は彼らに虚言癖があるのを知っていた。釜ヶ崎からきたというオヤジは、健康ランドの従業員に「オレは楽隠居の身だ」と言い、身寄りのない老人は「息子の仕送りで遊んでいる」と他の客に言う。そんな彼らが、次の日は現場でスコップやツルハシを握っているのだ。佐川にしても、
「遠くの町に息子夫婦がいて『帰ってきて孫の守りでもしてくれ』と言うけど、今の生活の方が気楽でいいよ」
 と平田に言ったけれど、それもどうやら嘘らしい。盆休みの迫ったある日、
「佐川さんは休みはどうするの?」
 平田が聞くと、
「息子の家に帰って孫のお守りだよ」
 と返事したが、休みの間はずっと飯場にいて、昼はパチンコ、夜は健康ランドで佐川と一緒だったと人夫たちが話しているのが聞こえる。
 佐川は「八人の女と結婚した」とも言った。だから人生に悔いは無いという。
「平田さん、人間は八千八回やらないと成仏できないんだよ。知ってる」
「八千八回?」
「オレはあと少しで八千八回になる。成仏できるように頑張らなきゃ」
 平田は、
「一年で三百六十五回として十年で三千六百五十回だから、八千回というと・・・・・・」
 計算しながら止めた。土曜の夜に健康ランドに行けることだけを楽しみにして、まいにち仕事が終ればいつもプレハブ小屋で飲んでいる男がどうやって女を・・・・・・
 しかし、それはどうでもいい事だ。佐川の話がみんな嘘だとしてもそれがどうしたというのだ。黙って聞いてやってればいいじゃないか。
 平田は、土方をしている人夫たちを見ながら、今はもう亡くなって居ない父を思い出すことがある。
 平田がまだ小学生のころ、父は土方をしていた。
 ある日、父は自転車に乗って出かけ、仕事もせずにそのまま現場から帰ってきたことがある。機嫌が悪かった。父は黙ってドブロクを飲み続けていた。平田はその晩、父がドブロクを飲みながら同胞たちにその日の事を話しているのを聞いていた。
 父は仕事先の現場で若い監督から侮蔑を受けたという。平田はそのとき父が、
「若造から『おいっ、そこのオヤジ』と言われて腹が立ち、仕事を放って帰ってきた」
 と言ったように記憶していた。
 父は土方で、相手はいくら若者でも現場監督だからそれぐらいの事は言うだろう。聞きようによっては、それは何でもない事なのかもしれない。むしろ、父を非難する人もいるだろう。平田が勤めている会社の工事現場でもそんな場面はいくらでもある。社長の金山は人夫たちをもっとひどい言葉で呼ぶことさえあるのだ。
 父にとって我慢ならなかったのは、現場監督が若い日本人であったことではなかったかと平田は思う。
「オレたちは強制的に日本に連れてこられ、昼も夜も無理やり働かされてきたのだ。国を奪われ家族と引き裂かれ、今まで散々屈辱を受けてきたのだ。何も知らない若造がオレに向かって何を言うか」
 若者から「おい、オヤジ」と言われて腹を立てた父の思いはそういうものではなかったかと平田は想像する。
 平田は、朝鮮人の金山が日本人である佐川たち人夫を怒鳴りちらし、時にはスコップを振り回して怒っている場面をよく見かけることがある。人夫たちを散々口汚くののしっている所を見られた金山は、
「間に合わない奴らばかりでどうしようもない」
 と言い訳のように言う。平田はそのたびに複雑な思いをする。三十年ほど前とまるで立場が逆転しているのだ。金山の父も平田の父も境遇はそれほど違うものではないはずだ。
「金山さんは日本人に復讐しているのだろうか」
『親の敵』という言葉が頭に浮かぶ。
 家族に見離されたヤクザも、楽隠居のはずのオヤジも、仕送りをしてくれるはずの身内を持たない老人も、もういくらも働けない体になってしまっている。まだ元気な佐川でさえ雨の降る日は仕事がないのだ。金が残るはずがない。
 宿酔でも、怠けものと叱られても、弁当を持って現場に出る間は飯場を放り出されることはないだろう。けれど、老いて働けなくなったり病気をしたら、ガメツイ朝鮮人の親方は彼をプレハブ小屋には置いてくれるはずはないだろう。そのとき彼らはいったいどこへ行くのだろうか。平田は、近くの公園で時どき下着などを洗っている老人のことを思い出した。
 その老人は雨の降る日は公園には居ない。何処かに雨宿りする場所があるのだろうか、と思いながら、平田は、誰もいない広場をながめて通る。老人を始めて見た日から、それが癖になったようだ。翌朝、雨のあがった公園で老人の姿を見つける。平田が会社に向かうその時が、ちょうど老人の朝食の時間らしく、立ったまま口をモグモグさせている。晴れてよかったですね、と声を掛けたいような気になる。が、老人はいつも平田をきつい目で睨み返すのだ。「おやじさん、そんな目で見ないでくれよ」平田は泣きたい気になる。特に宿酔の朝その視線に合うと、やりきれない気持ちがいつまでも続いて困った。
 佐川たちは飢えと隣り合わせに生きている。そう考える一方でまた、ケチな親方に稼ぎを絞られ、工事現場で怒鳴られながらも、ドッコイ彼らは図太く生きていくような気がする。公園の老人のように世間を睨み返しながら、何とか上手にやっていくだろう、という思いがしないでもない。
 佐川がこのごろスナックに通い始めたという。きのうはママの誕生日で、花束を抱えて佐川は出掛けた、と人夫たちが弁当の後で話していた。平田は佐川からは何も聞いていない。
「佐川の親父さんもやるじゃないか」
 平田は、その花束がどんな扱いを受けただろうか、と一瞬考えた。そして、佐川が言った八千八回という数字を思いだした。その時サイレンが鳴った。佐川は鉤鼻を秋風の中でぐずらせながら、無言で平田の脇を通りすぎていった。





 夢のこちら

      磯貝治良(いそがいじろう)

 妙に現実くさいところもあり、あいまいもことしたところもある、夢だった。たいていの夢にはそういう二つの属性が混りあっていて、その意味では夢らしい夢だった。夢にはいまひとつ、視覚によってそれを見る属性、それにくらべれば稀少とはいえ聴覚が聴く属性があって、ふたつながら備えていたという点でも夢らしい夢だった。
 どこなのか、光とも靄ともつかない乳白色の帳(とばり)が立ちこめる遠い高みに、二つの人影が向いあって立っている。岩の上のようでもあり、建物の屋上のようでもあり、岬の突端のようでもあり、そのいずれでもないようでもある。高みにいたる空間が、道なのか、階段なのか、懸崖なのか、蜃気楼みたいな虚空にまぎれこんで見えないからだ。夢にあらわれる情景にはどこか既視感がともなうものだが、それがまるでない。夢のなかで、それがいまにも崩落するのではないかという不安感だけがはっきりしていた。
 岩の上とも屋上とも岬の突端とも知れない場所に向い合う二人が誰なのか、わからない。その所作のいちいちを見分けられないほど、姿はぼやけているのに、猛烈に声を荒げて口論しているのがわかる。夢のなかで、私は口論の当事者が私自身であるかのように興奮して、その声を聞いていた。ところが、夢から醒めたあと、口論の内容を思い出そうとして、あれはパントマイムだったのか、と肩すかしを食った気分になった。夢のなかでは現実感覚で聞いていた言葉は、まるで夢のまた夢であったかのように、私の記憶から霧消している。
 おそらく夢の終わりに起った、あの一瞬が、言葉をすべて奪ってしまったのだ。そう、あの夢のカタストロフが・・・・・・


 私も人並み以上に夢を見る質(たち)だった。奇想天外な夢、日常そのままの写実主義の夢、風景だけの夢、物語の夢、不安な夢、コミカルな夢、色彩あざやかな夢まで見た。それが、三十歳代の終わり頃、ピタリと見なくなって、ここ十数年、夢とはご無沙汰していたのに、突然の到来である。夢の中身から判断すると因果関係は薄そうにおもえるが、原因はほぼ察しがつく。きのう、突然あらわれた青年が、十数年ぶりに私に夢を見させたのだ。
 夕方からの仕事に出るため、インスタントのとんこつラーメンとめしで遅い昼食をとっているときだった。玄関のインターホンが遠慮げに鳴った。なにかの訪問販売か新興宗教の勧誘だろうと無視していると、インターホンが苛立たしげにたてつづけに鳴り、ドアーの外で呼ぶ男の声がする。宅配便かな、と思いなおして食卓を離れ、玄関へ出たときには、青年がドアーを開いて靴脱ぎ場に立っていた。
「架橋(かきょう)の会の三分(さんぶん)の一(いち)さんですね」
 青年の言葉を聞きながら、私は玄関の間(ま)の明かりを点ける。小路に面した北向きの家は昼間でも薄暗く、来客のたび電気代が要る。
 清潔そうなGパンとスニーカーの下半身にしゃれたブレザーがよくマッチしている、長身の青年を眺めわたす視線になって、私は、架橋の会をやってる三分一です、と応じる。私の姓は三分一と書いてサンブイチと読むのだが、初対面のひとからは三分の一と呼ばれることが多く、あえて訂正もしないでいる。
 精悍な風貌なのに銀行員みたいな眼鏡とアタッシュケースはちょっといいただけないな――私は青年の風態に余計な感想をいだく。
「上がっていいですか」
 強引というのでもなく、へりくだった様子でもなく、青年は自然な感じで訊ねる。
 架橋の会というのは、日本籍を取得したひともふくめて在日朝鮮韓国人と日本人がいっしょになって十八年近く文化活動らしきことをつづけている小さな団体で、私がそれの主宰者ということになっているので、ときどき〈在日〉の見知らぬ人も訪ねてくる。玄関で挨拶を交して、あぁ〈在日〉のひとだな、と感じて、その勘がまず外れることはないほどになっている。青年の場合もそう思いながら、応接セットまがいに設えた玄関の間で向い合った。
「コーヒー飲む? もちろんインスタントだけど」
「いや、いいです」
「じゃ、ビール飲む?」
「仕事の途中で、クルマだから。でも、コップに二、三杯なら」
「車、どこに置いてあるの?」
「郵便局の前の広い通り」
「あぁ、あそこなら大丈夫。めったにパト来ないから」
 私は台所から、ビールとコップ二個、それに食べさしのとんこつラーメン、乾き物のミニ袋数個を、玄関の間に運ぶ。
 たがいのコップにビールを注ぎ、私がいっきに飲み干してとんこつラーメンを食べかけたとき、青年は唐突に訊ねた。
「三分の一さんは、〈在日〉がどれくらい日本人と結婚しているか知ってますか」
 いきなり面接試験のつもりか、と思いながら、私は答える。
「最近は八〇パーセントくらいが日本人との結婚だって聞いてるけどね」
「じゃあ、帰化した同胞は?」
「十八万人くらいかな。日本人との結婚や、その子どもで日本籍を取得したひとを合わせたら、四十万人くらいじゃないの」
 青年がさらに口頭試問をつづけそうな様子なのを私はさえぎった。
「名前、まだ聞いてなかったよ」
 青年は一瞬、表情にとまどいをみせたが、ブレザーコートの内ポケットから革の名刺入れを取り出して、一枚を私の目のまえに差し出した。
   合資会社 イシダ食品
     営業部長 石田 一
 その文字は、老眼鏡なしで読みとれたが、住所と電話・ファックス番号の活字は小さくて歯が立たない。
「食品会社というと、企業やオフィスへ給食入れてる、あれ?」
「うちは給食じゃなくて、パック詰めの惣菜関係」
「あぁ、スーパーマーケットなんかに卸してる、あれね。営業部長といえば、たいしたもんだ」
「部長といったって営業やってるのはぼく一人で、スーパーやコンビニ廻りをしてるだけ」
「でも、製造のほうは何人も従業員いるんでしょ? うちの連れ合いも近くのカクヨシ食品というのにパートタイマーに行ってるよ。なるほど、おやじさんが社長なんだ」
 石田一はうんざりとした表情を浮かべて、私の言葉には応えない。私は彼のコップにビールを注(つ)ぎ足し、とんこつラーメンの汁(つゆ)をすすりながら訊ねる。
「本名は、ソギル?」
「えぇ、ソクイルです」
「そっちのほうはあまり使わないの? 営業の仕事ではともかく、友だち関係なんかでも」
「本名使ってるのは、外登証だけ」
 石田一の返事があからさまにぶっきらぼうになったので、私はいつのまにか自分のほうが面接官の役まわりを演じているのに気づく。石田一が私に質問を浴びせてきたのがたぶんそうであったように、私もいきなり本題にはいるのをためらっているのだろう。だが、こういう場合は姑息にならず単刀直入に話したほうがよい。
「きみの用件というの、話してくれる?」
 石田一はすぐには応じようとせず、無駄な肉を削いだように鋭利な顎骨あたりに神経質な線をはしらせ、眼鏡の奥からことらに視線を注いだ。眼差しには困惑ではなく不快げな険が読みとれた。
 石田一はコップのビールをいっきに飲み干し、それの連続行為みたいに言った。
「日本籍を取得したいんです」
 なぜか、意外な感じはなかった。その言葉を予期していたかのような錯覚さえ覚えた。
「おやじさん――」と言いかけて、私は言い直した、
「アボヂの意向なの?」
「違います。ぼく一人ですすめていることです」
「すすめてる? もう帰化申請してるの?」
 返事はなかった。
「アボヂには内緒にしてるの?」
「アボヂだけでなくオモニにも家族の誰にも話してない」
「なんで、そのこと私に話すの?」
 苦い経験があたまをよぎる。
「力を貸してほしいんです」そう言って一拍置いた石田一の表情にはさいぜんの不快げな様子が消えている、
「じつは韓国から戸籍謄本も取りよせて、もう半年以上まえに申請手続きは済ませています。つい二、三日まえに法務局へその後の経過を問い合せたら、まだ審査中だけど、あんたの帰化はむずかしいかもしれない、と言うんです」
「親に内緒といっても、いずれ分かることでしょ」
 私が話を前にもどそうとするのには応えず、相手は気が急(せ)くままといったふうにつづける。
「おれ、高校生の頃、ワルやってて傷害事件起こしたことがあるんです。それだけならまだ大したことなかったと思うんですけど、暴走族グループとかかわってたんで、家裁送りになって保護観察受けてたことがあるんです」
「未成年の頃の事件を理由に日本籍の取得に難色示すとは国もあこぎだな。だからって私に貸すほどの力はないよ」
「だって三分の一さん、架橋の会やってるんでしょ。あんた個人には力なくても、会員が百人以上もいるっていうじゃないですか。そのひとたちが法務局に要求すれば、むこうだって無視できないのと違いますか。日本人は署名運動ってのも好きなんだし」
「ちょっと待って。日本籍の取得を許可するかどうかは実質上は主席審査官が握ってるとしてもタテマエは法務大臣の裁量ってことになってるんだから、そいつをタテに逃げられたら、なんのバックもない小さな団体が圧力かけたくらいではとても歯が立たないよ」
「三分の一さんが日頃、言ってること、口先だけなんですか」石田一は、気色ばむというほどではないが、直截な口調になった、「架橋の会が出している雑誌に三分の一さんが、外国人登録法だの、国籍条項だの、戦後補償だの、チマチョゴリ切り裂き事件だの、日本社会の差別のことくだくだと並べて、そんな社会は変えなきゃいかん、なんて書いてたから、ぼくは訪ねてくる気になったんです。新聞だって読んでるんだから。いつだったか架橋の会が二百回をむかえたとかで新聞に記事が載ったでしょ。三分の一さんが在日の会員と語り合ってる写真まで載って。あの記事のなかで、これからも在日のみなさんと共に活動をつづけたい、とか喋ってたじゃないですか。あれもこれも嘘なんですか」
「そんなカッコいいことは言ってないよ。架橋の会なんて、名前は大層だけれど、吹けば飛ぶ犬小屋みたいなもんだから」
「じゃあ、大山さんが嘘ついてるのですか。三分の一さんたちが骨折ってくれて特別永住資格を取れたから、あなたも頼みに行ってみなさい、と教えられたんです」
 大山さん? 唐突に出た名前に一瞬、首を傾げたが、それが架橋の会のメンバーである朴徳順(パクトクスン)さんのことであるのに気づいた。架橋の会では本名で呼び合っているが、彼女が酒の席などで口にする通名は大山徳子だった。
 彼女は、父親が植民地時代に日本へ渡ってきて戦後もそのまま日本で暮らしてきたひとであるにもかかわらず、母親が日本人で十七歳までその籍にはいっていたという理由で、旧法律一二六号の朝鮮籍のひとにもひとしなみ特別永住権が与えられたあとも、それが認められなかった。私たちが名古屋入国管理局と何度も交渉して、永住権を認めさせたのはたしかである。
「朴さんの場合は、帰化申請とは問題が違う」
 私個人は言うにおよばず、架橋の会にも日本籍取得のために貸すほどの力はないのはたしかだけれど、私の気持にはそれとは別に躊躇を強いるものがある。そのことを石一(ソギル)青年にはっきり言ったほうがいいと心を決めたのは、別の体験がいまも尾をひいているからだ。


 二年ほど前のことになる。長兄の息子が訪ねてきた。叔父と甥の関係とはいっても日頃は疎遠な血縁ぐらしにすぎず、二十歳代なかばの彼が私の家に来たのは初めてのことだった。たしか甥より二つ三つ年上と聞いている連れ合いもいっしょだった。彼女とは初対面だったが、名前があいかということは、長兄がなにかの折に口にしたのを聞き憶えていた。〈在日〉の三世である。
 甥とあいかは、いきさつまでは知らないが、五、六年まえに知り合って間もなく同棲していた。あいかの母親は以前に夫(あいかの父)と離婚して、小さなスナックバーを経営しながら娘を育てたらしく、そもそも二人が付き合いはじめた当初から交際には頑強に反対し、同棲したあとは娘となかば絶縁状態にあるらしい。そういったことを私は、正月などに実家で顔を合せた折、長兄やその連れ合い(義姉)の口からおぼろに聞いていた。長兄も義姉も、あいかの母親が二人の間柄を許さない理由は甥のちゃらんぽらんな性格を嫌ってのことだ、と口を揃えたが、私は、娘を日本人に奪(と)られることへのこだわりが母親にあるのだろう、と確証もなく推量していた。
 甥とあいかは、私の家を訪ねてくる数か月まえにハワイ旅行をし、そこの教会で二人だけの結婚式を挙げてきた。一九〇五年生まれの私たちの父などは、親戚縁者を呼ぶ正式な(?)結婚式を挙げずにそういう挙に出た孫を認めず、孫や曾孫の祝い事にはなにかと大盤振舞いをするひとなのに、祝儀さえ贈ろうとしないという。甥があいかを伴って初めて実家を訪れた日、彼女が悠然とタバコを吸うのを目前にして不快感をあらわにしたという父の心に、やっぱり朝鮮人は・・・・・・といった感情がまぎれこんでいはしないかと、ふと感じ、それが邪推であればよいと思いつつ、私は分相応の祝いを包んで長兄に言(こと)付けてあった。だから甥とあいかが私を訪ねてきたのは、礼を返すためだろうと思った。
 私の予想は、見事、外れた。玄関の間であたりさわりのない言葉を交したあと、甥が促し、あいかが大ぶりの茶封筒から取り出して私に示したのは、ハングルで記された戸籍謄本だった。
 子どもができるまえに日本籍を取得しておきたいので韓国から取り寄せたのだ、という。
 三枚綴りの謄本には、あいかの家系である宋(ソン)家の三代にわたる血縁とその生年月日、戸籍の移動などが並んでいる。ただし、名前があるのはあいかの父母の代までで彼女のそれはない。彼女が生まれたとき、たぶん両親は本国の役所にまでは届けなかったのだろう。私はかねがね、あいかの本名は愛華(エファ)あるいは愛花であって、それを日本風にあいかと呼びならわしてきたのだろう、と推測していたのだが、もしかすると、もともと日本風の名前としてあいかと名づけたのかもしれない。
 この戸籍謄本を法務局へ出すために翻訳してほしい、というのが二人が私を訪ねてきた目的だった。
 私はしばらく考え込み、あいかが私の父のまえで悠然とタバコをくゆらしたという話、自分自身の名前の韓国語読みも知らないこと、民族的素養らしきもののかけらも身につけず、そのことへのこだわりもあっけらかんと捨て去っているらしいことなどを思い浮かべて、二人の頼みを断る気持にはなれなかった。なんとなくOKするかたちになって、二人を待たせたまま、その場でハングルの戸籍謄本を日本語に訳した。はじめて出会う言葉もあったが、公文書なので前後の脈絡から類推ができて、それほど時間はとられなかった。どうしても解らない言葉が二、三あったが、それはウリマル堪能な〈在日〉の友人に電話で訊ねた。
 あいかと甥は、それでも私が悪戦苦闘したと気の毒がってか、彼らのほうが疲れた表情を浮かべ、礼を言って帰った。
 私が戸籍謄本の翻訳を情にほだされるようにして手伝ったことを後悔しはじめたのは、数日も経(た)たずだった。帰化に手を貸したという気持がしだいに募ってきて、私は落ち着かなかった。
 そんなある日、申東哲(シントンチョル)氏と酒を飲む機会があった。機会とはいっても、彼とは同世代でもあり家も自転車で十分ほどの距離に住んでいることもあって、なにかと誘い合っては付近の居酒屋や互いの家でいっしょに飲む。日頃、私が呼びならわしている言い方でいえば「トンチョル氏」とは気が合ううえに、彼の開かれた信条を好ましく思っている。申家の長男であり、一世の背中にほとんど接するようにして生きてきた彼は、この地域ではめずらしく子どもを本名で育て、〈在日〉同士の結婚がむずかしくなっている昨今なのに息子や娘たちを同胞と結婚させている。それでも、民族至上主義をうとい、長幼の序や祭祀(チェサ)などの伝統・習俗にも批判的で、なにかと「民主主義」を口癖にしている。ときには開かれすぎて、日本人への同質化を容認したり、彼自身、朝鮮民主主義人民共和国系の民族組織に属して分会長(ブネヂャン)を勤めた経験がありながら組織や金日成親子の体制をクソミソに言ったりして、私をうんざりさせることもあるが。
 その日、居酒屋「ぶるぺん」で酒がすすみ、話がはずむうち、私は彼の性格に気をゆるして、あいかの日本籍取得にかかわる話を持ち出した。すると、飲むほどに饒舌を楽しんでいたトンチョル氏の顔が、苦虫を噛み潰す表情に豹変した。
 三分一さん、そりゃ、まずい。
 私が戸籍謄本の翻訳のくだりを打ち明けたとき、トンチョル氏はひとこと言った。それきり言葉をつながなかったけれど、彼がこめかみあたりの皮膚をかすかに震わせつづけているのを私は見た。
 そんなことがあったせいばかりではないが、私は自分のした行為をいっそう悔んで、滅入った。
 甥とあいかからはその後、梨の礫(つぶて)の日日がつづいた。長兄の長女の結婚式に出席した折、二人とは顔を合せたが、その話題には触れなかった。彼女らの様子から、まだ法務局から返事が来ないのだろう、と察した。許可が下りなければ、それはそれでありがたい、こちらの気もすこしは楽になる――正直なところ、そう思った。
 ところが三日まえ、甥から突然、電話がはいった。彼らが訪ねてきてから二年近くが過ぎて、憂鬱な気分を忘れはじめていた矢先なので不意打ちをくらった感じだった。
 帰化の通知が届きました。
 甥の声は弾(はず)んでいた。
 そして三日後の、石一(ソギル)青年の訪問である。


「朴徳順(パクトクスン)さんの場合は、当然の権利である特別永住資格の取得」私は、言わずもがなのことと思いながらも、石田一に説明した、「日本の戸籍にはいることとは、全然、違う。韓国籍のままで暮すのが、きみの当然の権利だと思うけどね」
「そんなのタテマエですよ。どこの国籍を選んだって、ぼくはぼくに変りないんだから、自由でしょ。それが権利」
「きみがきみに変りないんだったら、日本籍を取る必要もないじゃないの。ともかく帰化に手を貸すのは、気がすすまん。まして署名運動なんてできないよ」
 私は、ぶっきらぼうに言って石田一が浮かべはじめた挑戦的な表情を見返した。居酒屋でトンチョル氏がみせた不快感あらわな表情を思い出したとはいえ、ちょっと演技っぽい言い草かな、と内心で照れながら。
 なんだ、こいつ? 石田一はそんな視線をまっすぐこちらに注ぐが、言葉にはしない。
「現代版内鮮一体みたいなこと、ごめんだよ」
 言ってしまって、私は唐突すぎる言廻しに自分でも驚く。
 若い〈在日〉世代の現状からして、そんな表現がうさんくさく、古色蒼然たるアナクロニズムととられかねないのは、目にみえている。
 何年かさきには、朝鮮籍、韓国籍を維持する〈在日〉と日本籍を有するそれとの割合が、ほぼ同じくらいになるのではないかとさえ言われている。くにの言葉や文化、歴史など民族的な同質感からへだてられて(ときにはすすんでそれを避けようとして)、日本社会の価値観を空気のように吸っている世代にむかって、国籍にこだわれといっても通じにくいのはたしかだろう。そういう消極的な場合とは反対に、民族だの国境だのの規範を積極的に否定して、ひとそれぞれのライフスタイルや生の根拠をこころざしているボーダーレス派にとっても、国籍の変更自体が目くじらを立てることではなくなりつつあるのは現実。事実、これに似た場面で、三分一さんはメチャ古い、と顰蹙を買った体験が私にもいくどかある。
 石田一からもそんな反応を予測したが、彼は別の方向から切り込んできた。
「ほんきでそう思ってるんなら」彼の口吻は苛立ちより皮肉っぽくなる、「三分の一さんの国、はよ変えてくださいよ、おれたちが帰化せんでも機嫌よく暮せるようにさ」
 私は口を噤んだ。石田一はにわかに石一(ソギル)に変身するのではないか。スーパーマーケットの店長が、彼が朝鮮人であることを知ってとたんに態度を変えた話しや、中学生の頃、授業で朝鮮半島のことが話題になるたび身を固くして耐えていた体験を喋りだすだろう、それだけではない、日頃は耳を塞いで避けている祖父母や両親の身世ばなし、それにまつわるウェノムへのチャンソリを猛然と語りだすだろう。私はそのとき、どういう切り口で返すべきか、あれこれ思案して口を噤んだのだったが、彼はそれとは別口の皮肉で私を責めた。
「わかったよ。あんた、やっぱり朝鮮人を利用して売名行為やってるんだ」
 相手の難詰がしばしば耳にする常套句だったのに肩すかしを食って、私は軽口で返す。
「売るほどの名前はないよ」
 相手が鼻先でふんと笑ったように思えたが、錯覚だったかもしれない。
「なんで、親に内緒にしてまで日本籍、取りたいの」私は挑発に乗るのを避けて、間を置かず話をずらした、「日本籍を取ったからといって機嫌よく暮らせるわけでもないという話よく聞く」
 石田一はしばらくとまどい、答えた。
「さんせいけん」
 えっ? と見返す私に、彼は繰り返す。
「参政権が欲しいから」
「議会に出たいの?」
「まさか・・・・・・」
「政治に関心あるの? 今どき珍しいな。国籍を変えてまで参政権が欲しいなんて」
「参政権は近代社会では人間の基本的権利でしょ」
「まぁ、基本的人権といえばそうだけど、ぼくは議会制民主主義ほどのまやかしはないと思ってる。いつも投票用紙に、積極的棄権、と力強く書いてるよ」
「そんなの、選挙権持ってる日本人の贅沢な言い草」
 石田一は木で鼻を括った言い方をしたが、語調に迫力がない。挑戦的な勢いが消えている。
 私が選挙のたびに「積極的棄権」と記して投票するのはたしかだけれど、そんな言わずもがなのことを口にしたのは、参政権を理由に日本籍の取得を正当化しようとする石田一に偽装を感じたからだ。以前、日本人男性と結婚している女性と話したとき、彼女も参政権がほしいので日本の戸籍を取ろうと思っていると打ち明けた。しかし、話し合っているうちにその理由はあやふやになり、実は大学の通信制で保母の資格を取って、その道にすすみたいのだと話の舳先を変えた。私が、名古屋市の場合、公立保育園の保母に国籍条項はなくなっている、と言ってしまい、たがいに間の悪い思いをしたことがあった。
「ぼくには付き合ってる女(こ)がいる。純日本人・・・・・・」
 石田一は私の腹の内を察知したふうに話をずらした。
「その彼女のために日本籍、取りたいなんて言いだすんじゃないだろうね」
「彼女は・・・・・・」石田一は意外にも弱気になった、「おれが日本人になったら結婚したいと言ってる」
「つまらん子に惚れたもんだ」
「彼女がそう思ってるんじゃないよ。親が言ってるんだ」
「親と結婚するわけじゃないだろ」
「だから、おれは親子の縁、切ったっていいと思ってる。おれの親父だって宇宙人の顔してニッポン人やって、おれが同胞の友だちつくるのさえ嫌ってるくせに、日本人と結婚する言いだしたら猛烈に反対するに決っとる。だけど彼女のほうは両親と縁を切るのは嫌だという。あんたが日本人になれば親たちは文句言わない、の一点張り」
「やっぱり、つまらん子だ。蛙の子は蛙って、その父娘(おやこ)のことだよ」
 石田一が不意にソファから立ち上がったのは、私の言葉が終らないうちだった。私はつられて腰を浮かし、ソファに掛けなおした。
「勝手なこと言わせるためにあんたを訪ねてきたんじゃないよ。せいぜい朝鮮人の味方してればいいさ」
 それだけ言ってアタッシュケースを手にするなり、石田一は踵(きびす)を返した。形相が変わっていたが、それでも玄関を出るまえに一礼してから背を向けた。
 私は、言うに言われない疲労感を覚え、しばらくソファに掛けたままでいた。目のまえのテーブルに置かれたとんこつラーメンは冷めきって、いかにも残飯のさまをさらけている。夕方からの仕事に出かける時間は、ほとんど残っていなかった。


 石一(ソギル)青年が憤然と私の家を去ったとき、すでに予測したことだったが、彼からはその後、音沙汰がない。私は、日本籍の取得に協力してほしいという彼の依頼を断ったのは、間違いではなかった、と思っている。
 そうは信じても、気持のうえで忸怩たるものが全然ないわけではない。戦後五十年を経て、この国の高度経済成長下で生まれ育った世代は、職業は限定され閉ざされているとはいえ、日本人の中流化された家庭とほぼ同質の生活環境で暮らしているのだ。その彼ら彼女らに民族の、国籍の、意識形態の異質性を教条のように求めるとしたら、それは日本人の得手勝手と非難されても仕方ない。気持のどこかにわだかまって吹っ切れない、胸の栓に水垢でも詰ったような鬱積感は、そのせいだろう。自分が正義をふりかざしているような、納まりのわるさなのだ。
 日を経てもいっこうに吹っ切れない、そんな私の内心を、ある言葉がおそう。つい感傷的になったりするとき、きまって脳裏に浮ぶ言葉だ。ひと綴りのことばのつらなりにすぎないのに、樹木の一本くらいは薙ぎ倒しかねない力をそなえた言葉。
 わたしたち在日同胞が、日本的なるものへの同化の誘惑にかられること自体、日本と朝鮮の不当な歴史が解決されていないことの証明です。そのような現実が払拭されずにいまも存在するかぎり、朝鮮人の恥であり、日本人の恥です。海峡をむすぶ二つの民族の、時効なき恥辱なのです。
 架橋(かきょう)の会が結成十五周年の集いの折に招いた、ある作家が、講演のなかで語った言葉だ。
〈在日〉は中国やアメリカ、ロシア、ヨーロッパなどに在住する同胞とは条件が決定的に異なる。たとえばアメリカにいる同胞にたいしてなら、帰化の問題をきびしく問うことはしない。しかし、在日同胞は植民地支配の所産であるばかりではなく、かつての植民者のくににいるという事実をつねに想起する必要がある――そういった意味を述べた文脈のなかで語られた言葉だった。濃くはねあがった眉毛と、黒縁眼鏡の奥に鋭利な光を放つ眼差しとをそなえた、意志的な容貌とは対照的に、訥々と語る口調にかえって切実な響きがあった。
〈在日〉が同化の誘惑にかられる現実がつづいているとしたら、それは五十年まえにすでに区切られた過去でもなく、歴史をひきずる現在(いま)にとどまる荷物でもなく、未来をも規定する、日本人の時効なき恥辱! そういうことなのか。
 なるほど日本の学校ではなにかにつけ行事のたび日の丸の旗を掲げ、君が代が歌われる、行政機関も企業も、日の丸を揚げたがる、皇民化政策はつづいているといえば、その通りだろう。本名では暮らしづらい日本社会の性癖に創氏改名はつづいているといえば、その通りだろう。あれこれ思いめぐらせば、日本人も〈在日〉も過去をひきずって現在を生きていて、このままでは「時効なき恥辱」から解かれないのだ。
 嵌(は)められた枷をさらに自分で締めつけるような真似だけは願い下げにしなくては・・・・・・
三分一(さんぷいち)さん、あんたの頭ん中はシーラカンスか、亡霊の巣窟か? いまどき流行(はや)りもしない歴史の感傷に溺れて、現在が見えなくなってるのと違う? 水といっしょに赤ん坊まで川に流すの譬もあるじゃないの。
いや、いや・・・・・・
姿を見せない石一(ソギル)青年の影に怯えているわけでもないのに、私は自問自答の習性に陥って首を振る。
帰化はもとも子もなくする。〈在日〉という、国家からはニュートラルな、せっかくの境域にいるのに、帰化はそれをかなぐり捨てて日本国に囚われることだ。日本という国家がそんなに好きか。
人間、他者(ひと)から見えてこその存在なのだ。ただでさえ〈在日〉が日本人(ひと)から見えなくなっているらしいのに、それに追い打ちかけるみたいな真似はできない道理。〈在日〉を虚構にするわけにはいかない。〈在日〉が虚構なら、日本人も虚構になる。
虚仮の一念――思案のタコツボにはまりこんだ私の脳裡に、不意にその言葉は浮かぶ。ともかく、アナクロニズムだの、石頭だの、なんと言われようと、おれはこけの一心で行く・・・・・・。
自分にそう言いきかせて一人相撲にとどめを差し、私は石一青年の影を生活の一齣から拭い去ったのだった。


夢のつづきを思い出したのは、石一青年との一件が決着したと信じこんでいたときだった。もちろん夢のつづき、あのカタストロフを忘れ去っていたわけではない。しばしば思い出してはいた。ただ、夢のカタストロフが、石一青年の訪問、そして彼との決裂とのあいだに明確な関連があるとはどうしても思えないままに過ごしていたのだ。
あの夢のなかで私は、岩の上のようでもあり、建物の屋上のようでもあり、岬の突端のようでもあって、そのいずれとも違うような遠い高みに、向い合って立つ二つの人影を見ていた。乳白色の光とも靄ともつかない帳(とばり)にぼやけて二つの人影が誰なのかも見定められないまま、猛烈に荒げ合う声だけを聞いていた。夢から覚めてのち、その内容をどうしても思い出すことのできない口論に、私は興奮していた。口論はいつ果てるともわからないふうにつづき、私は興奮のために疲れきって立ち上がれなくなるのではないか、夢のなかでそんな不安を感じていた。もしかすると、夢のなかですでに言葉は失われていて、私はそのことを知っていたのかもしれない。
二つの人影が立つ遠い高みにいたる空間に異変が起きたのは、私が興奮と疲労の極みに達しようとしていたときだった。もともと道なのか、階段なのか、懸崖なのか、蜃気楼のようにあいまいもことしていた空間が、ふくらんだり縮んだり揺れはじめて、あッと叫び声を上げるあいだに消えた。一瞬のことだった。虚空さえ消えた、という感じ。そして私を崩落感がおそう。虚空を凄まじい速さで落下していく。その感覚のなかで私は、二つの人影もろとも遠い高みが崩れ落ちていくのを見た。なんの音も聞こえないまま、光とも靄ともつかない乳白色のかたまりが落下していくのを、一つの情景を眺めるふうに見ていた。そして私自身の落下感に促されて、目を醒ましたのだった。
あの夢の終りが何だったのか、私にはいまも説明がつかない。もしかすると、ある日、その意味が雲間にパーッと陽光が差すようにわかってしまう出来事に遭遇するかもしれない。そのときはまた、なれないペンをとって小説らしきものを書く破目になるだろう。





 短歌 赤とんぼとハルモニ
    ――ソウル断想

      吉岡卓(よしおかたく)

マッコルリ 茶碗に注ぎし朋の瞳に 震える蒼穹 君の空 ハヌル

皺深き ハルモニ唄う赤とんぼ そよぐ ケナリよ われらを赦せ

黄昏に 母国語知らぬ君といて 喫い差しの煙草 われイルボンサラム

堤岩里の 丘陵に上りて瞳をつぶり 劫火に斃れし烈士らを想う

贖罪の証し われと君との明日の為 突きあげる拳 日本大使館前

「謝罪清算」 怒りてあげるシュプレヒコール われは主体を試されている

寝ころびて 喉の渇きに腕のばし 展ける掌 なにをか摑まん

拳握り 相手を見つめる鋭き眼差し 統一を説きし君は〆鯖が好き

失われしコヒャン 奪われし田園の痛み 眼閉じても忘られぬ農夫の屍
(独立記念館にて)
靴底で 煙草もみ消す君にとり 祖国のノレはいかに聞こえん

汗ばみし ポロシャツの裾めくりあぐ 肩に零るる花弁チンダルレ





文字の表記、言葉の変化などについての雑感

      朴燦鎬(パクチャンホ)

    其一 「YEBISU」ビール?
 「ヱビスビール」が再登場してから、かれこれ二十年ほどたつだろうか。当時、広告に「ヱ」と書いてあるのを見て、今風に言えばアンティークな感じを受けたものだが、アルファベット表記の「YEBISU」を見て、オヤッと思った。何故「YE」なのか。「ヱ(ゑ)」は五十音で見るならばワ行に属し、本来は「WE」である。そして「YE」はヤ行であるべきだが、五十音のヤ行には「E=エ」しかなく、「YE=イェ」にあたる単文字は日本語には存在しない。
 したがって、「ヱビス」は「WEBISU」と表記すべきなのだが、ここでハタと思い至った。日本円をアラビア数字で表記する時、頭に「¥」を記す。しかし「円(圓)」もまた本来は「ゑん=WEN」であるから、これも「W」とすべきである。何故そうしなかったのだろうか(ちなみに「W」の表記は、現在の韓国「圓=WON」で用いる)。
 こう考えていくと、あれもこれもと思い浮かんでくる。その一つがウイスキーである。旧カナ遣いでは「ウヰスキー」と書く。しかし、これも「WHISKY」なのだから(見栄えさえ気にしなければ)単純に「ヰスキー」でいい筈だ。
 元来「ヰ」も「ヱ」も「ヲ」も、あるいは「ハ行」の旧カナ遣いも、表記のままに発音されていたのが、時の流れとともに「W」「H」が消えていったのである。それに旧カナ遣いで、例えば「クワン=KWAN」と表記された「貫」「観」なども、新カナ遣いでは実際の音に合せて「W」が消え「カン=KAN」と表記されるようになった(これに似た現象はハングルにもあり、解放前「HWAL」だった「割」が、現在は「HAL」と表記されている)。
 古代日本語の母音には、現在の五音以外に複合母音がいくつかあり、ウラル・アルタイ語族に共通するという母音調和も存在したという(ハングルには母音調和がある)。あるいは、「ワ行」そのものが複合母音であったかもしれないが、これ以上は言語学の専門分野に入るので私の知るところではない。
 ともあれ、私がここで指摘したことは、カナ自体が表音文字でありながら、子音・母音の字母を持たないことから生じた誤用といえるのではないだろうか。
 いつだったか、筑紫哲也氏が「朝日ジャーナル」編集長からアメリカに転任した頃のことを書いた文章を読んだことがある。そこで彼は、ジュネーブが「ジェネバ」と表記されていることにカルチャーショックを受けたと書いていた。なに、韓国でも「ジェネバ」といってるよと、内心そう思っていたが、その後、戦前の日本の新聞を見て驚いた。何と、「ゼネバ」とあるではないか。昔は現地音を尊重していたのだろう。それが何故、戦後になって変えられてしまったのだろうか。
 固有名詞の読み方は、昔から苦心したようだ。ゲーテとかシーザー(カエサル)などにはいくつもの読み方があって、「ギョエテとは俺のことかとゲエテ云い」などという有名な川柳もある。この式でいうならば、「ジュネーブとは此地のことかとジェネバ云い」というところか。日本でいうマッカーサーは韓国では「メガド」。日本人や在日同胞が、韓国で朝鮮戦争について話をすれば、この有名な人物の名をめぐって、しばし会話が途絶えるだろう。そして、それが「MacArthur」のことだと知ると互いに仰天し、呆れ返って大笑いすることになる。
 最近も、韓国の週刊誌を見ていて首を捻ったことがあった。パソコンの記事の見出しに「バイロス」という言葉があったからだ。はて、バイロスとは? 記事を読み進んでいって、やっと解った。それは、コンピュータ・ウィルスのことだった。
 地元・名古屋弁についても思うことがある。最近、元来の名古屋弁の美しさを見直し、保存しようという立場からの本が出ているという。新聞で見ていて、そのカナ表記が気になった。たとえば「うまい」という言葉を例にとれば、これを「うめぁ」というふうに表記しているのだ。私がこれを表記するとすれば、「うみゃあ」となる。
 かつて「タモリの今夜は最高」というTV番組があって、その第一回で名古屋出身の写真家・浅井慎平と女優・竹下景子の両氏がゲスト出演した。彼らは名古屋人の「エビフリャー」好きなどを揶揄しながら、「ミャーミャー、ミャーミャー」と面白おかしく遊んでいた。かくいう私も「そのとおり、そのとおり」と、腹を抱えて笑ったものだった。以来タモリは、名古屋の不倶戴天の仇敵のように喧伝されたが、彼に名古屋人の特質を教え込んだ浅井氏や、竹下女史にはお咎めがなかった。
 それはさておき、誰が聞いても「みゃあ」と聞こえるのに、何故「めぁ」などと無理な表記をするのだろうか。察するに、「みゃあ」だと下品に見えるからなのではなかろうか。昔からの文献に「めぁ」と記されているのならともかく、素直に「みゃあ」でいいと思うのだが。

    其二 ソウル言葉の変貌

 韓国に「オッパ部隊」という言葉がある。オッパとは妹が兄を呼ぶ言葉で、いわば「兄さん軍団」ともいうべきもの。といっても何のことか判らないかも知れないが、日本でいえば「追っかけ」みたいなものだ。ただ、韓国では対象が歌手ではなく、バスケット選手だという点が異なる。女子中高生が、ひいきの選手に「オッパ、オッパ」と呼んで興奮し、その後を追っかけてまわる様は、一昔前には考えられもしなかった光景である。
 「十年たてば山河も変わる」も今は昔、昨今の都市は一年で著しい変貌を遂げる。ましてやソウルの場合は尚更で、その余波は言葉にも現われている。二十三年ぶりの韓国で耳にした新語に「チャガ ミッリダ」「チャガ マッキダ」というのがある。これは「車が押し寄せる」「車がつまる、ふさがる」という意味で、交通渋滞していることを指す。
 昨年の旧正月、厳寒のソウルの夕暮時に四寸(従兄)宅に電話をしたものの、姪の言葉がうまく聞き取れず、死ぬ思いをした顚末は前号の「架橋」に書いた。あの時は自分の聞き取り能力に自信を失い、本当にガックリしたものだった。思えば三年前、玄岩社の女性編集長から連絡があった時も、半分くらいしか判らなかった。
 当方はそれまで、韓国に国際電話をしたことは全くといっていい程なく、実際の韓国語の会話にも一抹の不安を感じていた。その私に、容赦なく機関銃のようにまくしたててくる。私はカラ(空)プライドもあり、もう少しゆっくり話してくれと言うのも嫌で、生返事を繰り返すばかりだった。ところが最近、ソウルの若い人の言葉が聞き取りにくいというのが、必ずしも私だけのことではないという話を、度々耳にするようになった。
 数年前から同年配の友人が、「韓国でニュース番組を見ていても、女性アナウンサーの早口言葉がさっぱり聞き取れん」と言っていたのを思い出す。彼は純粋の在日二世ではなく、高校まで韓国で終えた後、親を頼って渡日したという人である。彼はまた趙容弼の歌も、何をうたっているのかさっぱり判らんと言う。これは、一世からもたまに聴く話である。そういえば、思い当たるフシがある。
 九二年秋、二十三年ぶりの韓国でニュースを見ていたら、確かに女性アナウンサーの言葉が早口で聞き取りにくかった。それに、インタビューに応える市民も独特のイントネーションで話していたので、思わず側にいた姑従四寸(従兄)に尋ねた。
 「いま話しているのは、どこの方言?」
 「ウーン(としばし耳をそばだて)、ソウル言葉だよ」
 「えっ、これがソウル言葉? ずいぶん変わってしまったね」
 「そうかなあ? そういえば、そうかも知れないな。七〇年代から、ソウルの人口が急激に増えたからね。いろんな地方から集中してきたから、言葉も変わってきたんだろうな」
 こんな原稿を書く気になったのも、ある在日二世の知人から、自分も最近若い人の言葉が聞き取りにくいし、十五年前に結婚して日本に来た夫人が、「最近のソウル言葉は嫌いだ」と言っていると聞いたからだ。また、NHKのハングル講座でも、渡辺吉鎔さんが「最近は“ㅐ”と“ㅔ”の区別もなくなってきているし、言葉も変わってきている」と言っていたと聞いたことがある。
 そんな折のこの三月十一日、NHKスペシャル「空と風と星と詩・尹東柱・日本統治下の青春と死」の最後の場面を見て、シラケてしまった。尹東柱の「序詩」が日本の教科書でも取り上げられていると紹介し、日本の高校生たちに日本語で朗読させた後、韓国の学生にも韓国語で朗読させるのだが、彼・彼女らの発音が不明瞭なうえに早口でわかりにくく、イントネーションもソウルで耳にしたそれと全く同じだったからだ。
 言葉が変化していくのは自然の摂理だとは知りつつも、その昔、初めて祖国を訪れた二世青年たちの心を溶ろけさせた、あの(若い女性の)えも言われぬソウル言葉は、もうアジュモニの口からでしか聞かれなくなったんだろうかと、いささか寂しい気分になった。とはいえ、済州島の純粋な方言は本国では最早聞かれず、むしろ大阪の猪飼野、東京の三河島に残っているといわれて久しいから、それもやむを得ないのかも・・・・・・。





「読む会」200回によせて
気軽に、創造的に
      磯貝治良(いそがいじろう)
 在日朝鮮人作家を読む会が、今年(一九九五年)一月で二百回をむかえた。二百回というのは、会の中心である読書会とあわせて折に催してきた、一〇周年とか一五周年とかの記念イベント、講演会、グループ交流、フィールドワーク、会誌「架橋」の合評会、恒例の望年会などを合せたものである。
 記録を調べてみると、二百回の間に読んだテキストは一五五冊、著者は一〇〇名ほどにのぼる。会の名簿に載っているメンバーは〈在日〉と日本人あわせて一六四名。延べ参加者数は約二千七百名を数える。
 といったぐあいに数字をならべても、ほとんど意味はない。十七年間の会活動がふくみこんだものを語ったことにならないし、なにかを伝えることにもならない。かつて一〇年を経たとき「架橋」八号(一九八七年一二月一日)に「〈読む会〉一〇年の覚書」として会の歩み、内容、性格、めざすものについて少し詳しく書いた。二百回を機会にここでそういう文章を書いておくのも一案だが、いま私にその余裕がない。余裕の問題だけでなく、過ぎてきた活動の覚書など、あまりハラの足しにはならないだろう。
 ただ「覚書」の中で、在日朝鮮人作家を読む会という小さな場を、変革と対峙による共生の場=パンといってることは、現在(いま)とこれからのこととして生かしていきたい。「変革」とは〈在日〉と日本人双方による一人一人のそれであって、それぞれ自分のアイデンティティを探っていくこと。「対峙」とは、〈在日〉と日本人それぞれのアイデンティティ探求といういとなみが、共生的に対峙するということ。他者との正確で自由な関係はなれあいではなく、それぞれの「変革」が対峙する場でしか成り立たない。多分、こういう「苦労」を土壌にしなくては、国家とか社会とかいった制度をむこうにまわすことも、民族のレベルの難問もほどけないだろう。文学の場としての会の活動でいえば、文学的同化をまぬがれるのも、そういう足もとのいとなみによってだろう。
 ひどく固苦しい言葉をならべたけど、まぁそういうことだ。二百回は言うまでもなく、過去をふりかえることではなくこれからを問う機会だろう。一つだけ言えば、在日朝鮮人作家を読む会は、もっと「創造の場」になりたい。もちろん、月一回集まって、テキストをめぐり、あるいは〈在日〉と日本人のあれこれをめぐり、語り合うことが「創造」でないとはいえない。極端にいって、それがストレス解消になってもいいし、出会いという掛け替えのない場としての愉しさであってもいい。欲を言えばストレス解消や出会いの愉しさが、一口で言って、「自己変革」とか「対峙による共生」といった、互いの関係としてふかまれば、とおもう。普通の日本人がチマチョゴリの民族学校生徒をおそうといった、日本社会の痴漢症的偏見・差別をなくすうえでも、悲憤コウガイばかりしているよりも、そういった草の根の私たち自身のいとなみが、まず大切ではないだろうか。
 他人から「いまどきめずらしい」とあきれられるほど武骨な討論に明けくれている読書会にしても、テキストに対する感想、技術評に始まって〈在日〉の身世ばなしに終始することが多くても、それはそれで構わない。ただ願わくば、在日朝鮮人文学は今どうなっているか、その将来に何を求めていくのか、といった話題や、〈在日〉はこれからどう在るべきか、日本人と〈在日〉の関係をどんなふうにつくりだしていくのがいいのか、といった「ポリシー」にかかわる問題にふみこんでいきたい。
 それやこれはふくめて、もっと「創造の場」にしたい。そして、「創造の場」の当面の究極(?)が具体的なかたちとしての『架橋』ということになる。たいそうに「文学作品」を、といった発想ではなく、作文、雑文、ひとりごと、愚痴にうっぷんばらしに大言壮語。とにかく、書くことには不思議な力があって、確実に自分にインパクトをあたえ、他人との関係を確かにする。『架橋』今号には、〈在日〉、日本人が多士彩々の「作品」を書いて、こりゃ、さきがたのしみだぞ。

 私と「読む会」
      間瀬昇(ませのぼる)
 一九九〇年七月、旧京城医専時代の学友であり、後に作家として名を成した韓国の柳基洙が、鹿児島県霧島温泉郷での同期会にはじめて来日参加した。
 硫黄臭ある霧島の峰の溶岩丘陵地帯を歩きながら、彼は私に、
「韓国にいるぼくの友人が、ぼくの作品の日本語訳にとりかかっている。それが出来上がり次第、君に送るから、監修してもらえまいか」
と言った。彼の熱意にも打たれ、即座に私は応諾した。
彼からはその後、間もなく作品が送られてきた。簡単に引き受けたものの、韓国語を日本語に直訳したその文の監修は難事であった。そして、旧京城に生まれ、日本敗戦まで二〇年間、朝鮮に住んだ自分が、いかに朝鮮について無知だったかを知り「在日朝鮮人作家を読む会」に参加してみよう、と思ったのだった。
会を主宰する磯貝さんのことは古くから知っていた。この「読む会」以前の野間宏『青年の環』を読む会が続いていたことも知っていたし、そのころ参加しようか、と思ったこともあった。また、私が四日市で主宰して発行している『海』について、好意的な評を新聞紙上に書いてくれてもいた。もう二〇数年も前のことだ。だから、ほとんどためらうことなく参加することができた。
九一年四月初参加以来三年八ヵ月、自分が旧京城生まれ朝鮮育ちでありながら、末端の植民者二世としての環境と感性の中だけで生活し学んできて、どれほど多くの、とり返しのつかない欠落があるかを知った。過去、朝鮮を、朝鮮の人々をほとんど知ろうとしなかった非と愚を知らされた。二〇年朝鮮にいてハングル文字さえ読めないとは、何ということだったのか。今、「読む会」で多くのことを学びつつある。
九二年一一月、会の一五年記念集会には、金石範氏が来られた。その講演の中の「親日」という問題は、たいへん心に残った。
磯貝治良著『始原の光』は名著であり、最近上梓された『戦後日本文学のなかの朝鮮韓国』『イルボネ・チャンビョク』にも感銘した。仲間褒め、と言われようと敢えて書いておく。多くの人に読んでもらいたいからだ。
会でとりあげ、読んできた作品、一つ一つに教えられることは多い。
今年は、他の会合と「読む会」とが重なったり、病気をしたりしたこともあって、三月から欠席続きであったが、今後も可能なかぎり出席するつもりでいる。
最近の『文学時標』紙に「変容する在日のなかで」と題して書かれた磯貝さんの文は、「私たちは在日朝鮮人文学の“本流”を意固地に求め続けていく。そうでなければ『架橋』は成り立たない」と結ばれている。そのけれんのない決意を汲みたい。

 読む会と私
      趙眞良(チョーチンリャン)
 ずっと以前、一〇数年前、私が学生の頃から「読む会」の存在は知っていましたが、当時私は在日朝鮮人作家を対象とした読書会の存在を知り、ある種の驚きと親近感を感じた記憶があります。その後、私は色々な日常生活に心を奪われ振り回され、「読む会」の存在は完全に忘れ去られたのであります。
 私事で恐縮ですが、数年前に結婚そして離婚、母の死とあまり時間的間隔を置かず体験しました。
 その中でも、母親の死というもっとも身近な肉親を亡くし、生前の母の私に対する無言の愛がどれほど深く、その存在は新たに私にどれほど心のよりどころとなっていたかを痛感したのであります。私と母は親子というより母からみれば孫のような年齢差であり、母も私をとても可愛がってくれましたが、私は母が元気な時、兄弟の中で私が一番母と過ごす時間が短いと半分冗談で言い、半分心の中でいずれは訪れる死ということをほのかに考えたこともありました。母の死は私にとって肉親のなかでは初めてのことであり、その死の周辺の行事、身辺整理、墓のことなど一段落し、私自身呆然自失というか気持ちが落ち込んだのであります。
 そんな時、「読む会」の記事を新聞で見受けたのであります。一〇数年ぶりの再会でありまして、なつかしさと頼もしさを感じました。
 今となっては、「読む会」の存在は私の生活の大きな位置を占めるのであります。

 「読む会」との出会い
      成眞澄(ソンチンヂン)
 一九八七年五月、すっきりと晴れた日曜日。栄の人混みからやや離れたビルの前に私は立っていた。何年も前から訪ねてみたい会がこのビルで開かれているからだ。「在日朝鮮人作家を読む会」と名付けられたその会に興味をもったのは、ただ単に在日朝鮮人と表記している事に対してである。自分自身が在日朝鮮人といわれる存在であるために、朝鮮人という言葉、文字に過剰な反応を示してしまう。中日新聞の文芸案内欄に会の開催日時・課題・本名が書かれているのを見たとき、はっきりと在日朝鮮人と書かれているのに軽い驚きとともにすがすがしさを感じたものだ。
 老朽化したビル。きしんだ音をたてる階段。昼でも薄暗いロビー。どことなくほこり臭い空気。陰気な感じのするビルの一部屋のドアを開けたその時、私はこの会と出会ったのである。
 あの時から七年、私の日常、友人、多くのことが大きく変化していった。そして、またいろいろな人と出会い、新しいことを始めるキッカケとなっていく。私は「読む会」に出会えた事に喜びをもち、あの日あのドアを開けた私自身に対してほめてやりたいと思っている。

 一冊の本
      中山峯夫(なかやまみねお)
 在日朝鮮人作家の作品を読むことを、私は会に参加しなかったら、多分なかったと思う。私のなかに在日朝鮮人にかかわる問題意識があったのでなく、磯貝治良さんの文学活動に引かれて会に参加したのが動機で、在日朝鮮人作家のことなどほとんど興味がなかったのである。
 記録によると、私は第四回の会から参加している。途中休んだりしているが、それでも読んだ本の冊数は相当なものだ。私の小さな本箱に在日朝鮮人の本がぎゅうぎゅう詰めになっている。回を重ねるごとに押し込めて、私の読書歴に加えていく。
 金石範さんの「鴉の死」は、私にとって大切な本である。在日朝鮮人作家の作品を読む重要な意味を教えられたと思っている。講談社の文庫本を読んだ後、古本屋で単行本の初版を見つけ大喜びをしたのだ。新品同様で、手放した人のことをアレコレ思って、読まずに売り飛ばしたなら著者に失礼だと考えたりした。この初版本が私の本から失われることはない。いつか機会があれば、著者のサインを期待している。

 「読む会」と私
      浅野文秀(あさのふみひで)
 一年ほど前、朝日新聞の文芸欄に載った磯貝さんの「読む会」の活動を紹介する文章を読んだのがきっかけで初めて会に参加するまで、僕は在日朝鮮人作家にどんな人がいるかさえよく知りませんでした。ただ昨年初頭に名古屋に引っ越してきて、親しい友人もなく暇を持て余していた頃なので、(そういえばまだ転職先も決まっていない失業者だった)何でもいいから文学作品を素材に話し合える場であるなら、という程度の参加動機でした。
 初参加の時のテキストは深沢夏衣さんの「夜の子供」。参加十五名あまりで三時間半ほど感想や意見を述べ合う。正直言って(大体この手の集まりは二時間ほどで終わると思っていたので)途中「長いナ」と感じていたのですが、終わってみると「とことん意見を言い合うのだから当然かな」と思い直していました。
 以来、月一回の例会にはほぼ毎月参加しています。僕にとっては毎回のテキストが初めて読む作家のものなので新鮮だし、在日朝鮮人の文学には日本人のものに比べ「迫ってくるもの」を感じます。また参加者の構成が在日朝鮮人と日本人がほぼ半々ということもあって、作品を見る視点があることが討論を深めているように思われ、例会への参加を続けています。
 この会に参加するまで僕は在日朝鮮人と話す機会をほとんど持っていませんでしたが、一人ひとりの方が「民族」とか「自分の存在」について強い問題意識を持っていることを感じ、自分にそうした意識の足りないことを痛感しました。僕は最近、「日本人」の成り立ちや精神構造について興味を持って日本の近代文学を読み返すなどしているのですが、そうした事を考える契機の一つがこの会に参加したことであると思います。
 これから毎月の例会にできるだけ欠かさず参加させてもらい、日本人の一労働者としての意見も述べていきたいと思っています。

 磯貝さんとの出会い
      朴燦鎬(パクチャンホ)
 磯貝さんと始めてお会いしたのは、一九八三年頃だったかと思います。たしか、韓基徳さんの指紋押捺拒否についての集会の後で、大津橋の名古屋教会へみんなで歩いていった時だったと思います。韓さんは韓青時代の後輩でしたが、個人的なつながりができたのは、私が親しくしている韓青北海道委員長の林炳澤を通じてでした。
 そのころ私は、韓民統(「民族時報」編集局勤務)をやめて東京への五年間の“金帰月来”生活を終え札幌から下関まで散在していた仲間たちと宋建鎬氏の『韓国現代史論』を翻訳していた頃でした。この本は一九八四年に出版されましたが、磯貝さんの関心の対象とはならなかったようです。
 余談ですが、この本は東海林勤氏に依頼して、宣教師を通じて宋氏の許に届けていただきました。そして半年余り後、東海林氏より宋氏の返事が届けられましたが、その文面に「私達は仲間同志励まし合って、楽しい日々を過ごしていますが、異国でどんなに辛い思いをなさっていることでしょう」といった意味のことが書いてあり、愕然としました。あの“白紙広告闘争”で東亜日報を逐われ、民主化運動の最前線で戦っていた人にこう慰められて、何とも名状し難い思いにとらわれたのでした。
 八七年秋、『韓国歌謡史一八九五-一九四五』を上梓しましたが、これも記憶が不確かなのですが、その直後だったと思います。ある画廊でタルチュムの油絵で有名な呉炳学さんの個展が開かれていたので、出掛けてみました。そこで何人かの知人と出会い、談笑していたところ、ひょっこり磯貝さんが現われたのです。「これは有料ですが・・・・・・」と、今では入手し難い『始原の光』を差し出しました。
 磯貝さんと個人的な会話を交わしたのはこの時が最初で、「読む会」が十周年を向え、記念行事が計画されていることなどの説明を受け、参加を呼び掛けられました。私は誘われて「イヤ」と言うのが苦手でして・・・・・・。思えば、大学の同胞同窓会にも全く同じパターンで参加し、今では後継者のメドが立たない半永久代表幹事で苦労しています。
 飲食店を開業してからは「読む会」にもなかなか出られませんが、こういう地味な活動が二百回を迎えるというのは稀有なことだと思います。近年、めっきりオジサンっぽくなってきた磯貝さん、いつまでも青年の心で頑張ってください。考古学者江上波夫氏はこの頃、よくこう書くそうです。
 「ちりもつもれば山となる」

 入会とその後
      西尾斉(にしおひとし)
 入会のきっかけ
 いくつもの原因が重なって入会したわけであるが、当時(戦後から入会まで)朝鮮人が好きか嫌いかと問われれば、どちらとも答えがたく白紙の状態であった。朝鮮人に初めて接したのは小学校の時であるが、以後、中学校で同級生が一人いたくらいで、後クラス担任になって数人受け持ったにすぎず、接触と言えるほどのものはほとんどなかった。
 戦時中には一般的な風潮下にあって「朝鮮人はにんいく臭い、恐い」という認識しかなかった。朝鮮人の置かれている状況、日本に朝鮮人がいる理由なぞ知る由もなかった。
 戦後になって三国人という言葉は聞いたが概してそういうことには無関心であった。朝鮮で戦争があり、それによって大儲けをしている奴がいるという話を聞く程度のことであった。
 その後は朝鮮人とは無関係なまま、十数年が過ぎていった。中国には関心があったし、本も多少は読んでいた。それが突然「朝鮮」に興味を持つようになったのは本の影響によるものであった。
 金達寿の「朴達の裁判」を読んで、日本文学とは異質なものを感じた。一人の人間が見事に造形されている。それから金達寿のものを読み、「日本の中の朝鮮文化」まで読んだ時、何もかも朝鮮のものにしてしまってよいものかと疑いかけて、彼のものは読まなくなった。
 次に出会ったのが金石範である。「火山島」等をはじめ手に入るものはみな読んだ。ここにも日本文学とは異質の、日本文学が失ってしまった骨格の太いリアリズムの文学、ほんとうの文学があると感じた。ここで初めて朝鮮のことを知りたいと思うようになった。
 ちょうどその頃「金石範を囲む会」があって話を聞きに行き、金氏がいっぺんに好きになってしまった。これが入会した直接のきっかけである。
 今後の課題
一、会として
 (ア)磯貝さんがあっての会であることを痛感する。
 (イ)人数を増やすこと、といっても私には名案はないが。質を落としてはいけない。
 (ウ)読書ばかりでなく一般の朝鮮人の話が聞けないか。
二、個人として
 (ア)読まずに積んである朝鮮関係の本を読むこと。
 (イ)現在のように文学だけでなくさまざまなジャンルの本を読むほうが良い。
 (ウ)恨(ハン)についてもっと深く知りたい。
 (エ)私としては何一つ知らないことからこの十年間で多くのことが分かるようになった。異質のものが共存できる社会になるよう自分のやれる事を考えたい。
 (オ)病気持ちの私には無理だろうが多くの朝鮮人と知り合いになりたい。

 「読む会」と私
      劉竜子(ユヨンヂャ)
 「在日朝鮮人作家を読む会」を新聞の片隅の案内で知り、文学とは何かも分からぬままでかけていくことに躊躇しながらも、初めて「読む会」に参加したのが、七九年の十二月。まるまる十五年になる。
 月に一度、決められた在日朝鮮人作家の作品を読み、参加者の意見や感想を、末席に小さくなって連なり、それこそ全身を耳にして聴き入っていた私。
 月に一度の読む会に欠かさず出かけていくのが、その頃の私の唯一の楽しみであった。毎回、知のシャワーを浴びる思いであった。
 この一月で「読む会」の歩みが回を重ね、二百回を迎える。「読む会」の二百回は私の十五年と重なる。「読む会」の中で多くのことを学び、かけがえのない人生の友を得た。「読む会」と共に歩んだ十五年は、在日朝鮮人としての今の私の生き方とも重なる。
 この二、三年「読む会」に参加できずにいる。生活に追われて、とても淋しい思いをしている。それでも毎月決められた作品はなんとか手に入れて、いつも心の拠り所として「読む会」とどこかで繋がっていたいと願っている。
 「在日朝鮮人作家を読む会」の二百回記念を心から축하합니다。

 「読む会」と私
      蔡孝(チェヒョ)
 私が初めて「読む会」に参加したのは七九年一月だった。テキストは高史明(コサミョン)の『生きることの意味』だった。何を話したか全く覚えていない。品のよい感じの柳オモニも出席されていたが、ほとんどが日本人だったことに驚いた。柳オモニとはその後何度か顔を合わせたが、ある時、“七・四声明”に触れて、その後少しも進展しない状況を、「キャッチボールをしているだけなんだわ」と言われ、オモニとキャッチボールという言葉がうまく結びつかず、ハルモニに近い柳さんの顔を思わず見直したものだ。今でもよく、やわらかい空気に包まれたような彼女が、最初に参加した印象として心に浮んで来る――。
 日本の名前を名乗り、日本人の顔をして生きている自分に疑問を感じ、生まれた子供をなんとかしなければと思い始めた頃、新聞で「読む会」の案内を目にした。会場のYWCAの場所がわからないので磯貝さんに電話で聞いて出かけた。自己紹介の時、通名で「吉田です」といったりして、いま思い出しても穴があったら入りたいぐらいだ。その後、全く見ず知らずの人の前で本名で自己紹介したのは、私の人生の中で初めてのことだった。そしてその日から私も少しずつ在日朝鮮人の日本語の作品に触れてゆくことになった。
 テーマは明確だと思った。一世作家は日帝時代の克服と、なぜ日本語で表現するのかという問題で苦闘していた。そして分断の克服=統一を志向していた。二世作家はより私の思いに近く、民族的な自己主体の回復にテーマの比重が増した。貧困、酒乱の父、二世が朝鮮人であることに背を向けていく生い立ちの家庭。そして再び民族的なものの回復に向かう成年期。ステレオタイプ的に想起される二世像を越える力強さを二世作家に求めていた。それにしても、家族や暮らしなどの描写などに全く私自身と重なるところが多く、当たり前だと思う反面、ようここまで書くもんだと苦笑した。しかし、出席者にはまだ書き足りんというような人もいたりして、思わずうなずく私でもあった。
 金達寿、金石範、金時鐘、李恢成、金鶴泳など、当時歩み始めたばかりの「読む会」には、そういうテキストが事欠くことはなかった。
 ここ数年、何かと忙しく足が遠のきがちだが、いつも心の片隅には「読む会」がある。またこの会をすすめる中で、数々の作品を生み出していった磯貝さんに心から敬服すると共に、もっと長く続けてもらい、いろんな作品や人と出会い、在日としての生き方に教示や刺激を与えてほしいと願っている。

 周辺的存在の一人として
      大泉幸子(おおいずみさちこ)

「二番目に言いたいことしか/人には言えない/一番言いたいことが/言えないもどかしさに/絶えられないから/絵を描くのかもしれない/うたをうたうのかも知れない/それが言えるような気がして/人が恋しいのかも知れない」――星野富弘(事故による全身麻痺者)
 一人の障害者としての自分探しの旅路で、いつしか「在日」と出会っていました。私のするべき事は、障害者である自分を契機にして人間を見つめ考える事だと思っていますので、「読む会」には片足を突っ込んでいるような感じです。マージナル(周辺的)な存在として、または境界的存在として、二世・三世の書かれたものにはアイデンティティの問題をめぐって、同じ悩みを持つ仲間のような親近感がありました。「読む会」に参加するきっかけになったのは李正子著『ナグネタリョン』でしたが、折にふれて何度も読み返し、自分の思いと重ねてみることがあります。人前で話すのは苦手、普段は手紙以外は何も書かず、専ら読むばかり。どちらかといえば理詰めで考える方らしく、小説は苦手で評論の方が面白かったりします。機会があればこれからも皆さんと一緒に読んでいきたいと思っています。

 「読む会」はなぜ続いたか
      加藤建二(かとうけんじ)
 「読む会」が一九七七年から今年一九九五年まで一八年続いて、ついに二百回になった。「読む会」が継続した理由は何か。
①主宰者の磯貝さんの汲めどもつきぬ泉のごとき情熱があるからだ。磯貝さんの強い意志と健康がなくては、中断していたに違いない。
②テキストが日常的な常識や偏見を否定し、日帝時代、現代日本の時代的状況を反映した瑞々しい作品であったこと。ジャンルも小説、詩歌、随筆、評論、劇、翻訳など有名、無名の作家を問わず読んできたこと。
③『架橋』を発行していること。ただ出版された本だけでなく、「読むことは書くこと」であることを確認するために『架橋』という文芸雑誌を出し、合評会を開いていること。
④「読む会」の進行は民主主義的であること。「読む会」は個人の集まりであり、ここでの意見や感想はめいめい異なる。意見の相違を尊重し、意見の統一をしない。批判的意見の表明ができる。
⑤「読む会」の運営は自前であること。会場費、『架橋』の発行費、催しの経費、会の後の食事代などは「割勘」である。痩せた自腹でも切ってこそ得られるものが大きい。倹しくすれば長続きもし、奢れば続かない。
 これからの課題。「強きを挫き弱気を助ける」全国的な、横のつながりを作り出していこう。





 郭公の故郷
  柳基洙(ユキス)
              訳  加藤建二
              監修 間瀬 昇

     1

 保安処分の対象者は額に烙印を押されたのではないが、自責感のような特殊な感情を抱いて暮らすものだ。厄介なことであった。何のためにどこへ行くのか、どんな理由でそこへ行くのかというやり方で、河老人はいちいち当局に事前の許可を得なければならない身の上であった。そうして十年という長い歳月を身じろぎもせず、じっとソウルでだけ暮らして来た。
 出所する時から故郷へこれという縁故者がないせいもあって、ソウルに居坐った流刑の身の暮らしと違いがなかった。人々は墓参りに行くと秋夕(陰暦八月一五日)に用心深く切符を求めることによって騒ぎを避けたが、河老人はそうした苦労をしなくてもよいことが切なかった。
 若い頃はマッコリ(濁酒)の盃も飲めたが、今は体質が変わったのか酒にはとんと興味がわかない彼であった。昨晩も河老人は時々寝床からすっくと立ち上がった。深い眠りに入ることが出来ない癖がある。それは山で過ごしたパルチザン時代に身についた後天性習性かもしれなかった。古い着物についたキムチの汗のまだらは石鹼で洗えばなくなる性質のものだが、心の古い垢の汗はしぶとくくっつきまといつく。三ヵ月ごとに派出所へ立ち寄った。特別なことがあったからでなく、形式どおりに何事もないという内容で動態報告書を書いて出す。こうした恥ずかしい負担感だけはついに昨年に公安検事の前で烙印をはずされてひとしおさっぱりした。連帯保証人が必要だとして不動産屋金主事と町の傍らの理髪店の若者の印をもらって押した。
 河老人の眠りを妨げるものは、時を選ばず鼓膜に聞こえてくる郭公の声だ。河老人の郭公は降りしきる雪の中でも聞こえたし、時節でもない秋の季節にも鳴く。その声は智異山の谷間遠く聞こえてくる機銃の音とともにいきなりあらわれる。「かっこう、かっこう」と消えそうであり、そうでもないような切ない声は、水甕に入れて故郷の共同墓地に埋めた幼い時の小さな弟の赤ん坊の死体がむずかる声みたいであった。どうかすると、若い頃に長い間過ごした智異山の「山の人」として、広い智異山の風の中に悲しげに聞こえて来るような声であった。
 故郷の共同墓地は蓬の茎がまだらに生えた禿山の黄土であった。雨で傾いた丘の頂上のぱらぱらした黄土につんと露出した骸骨を見たことがあった。分別を知らない者が共同墓地で初めて聞く郭公の鳴き声が、彼にかよわい第一印象を残した。夜に聞く郭公の声は誰にも聞こえなかったけれども、彼にはこと新しいものではなかった。これまで二十年間、監獄でも、釈放された後の一人きりで寝る部屋でも、たびたび夢の中で彼を悩ますようにつきまとった。
「おまえ一人だけ生きるのか」
「おまえ一人のみ生きたいのかい、かっこう」
 胸に鋭い竹の釘を刺すようにうるさく惑わすような哀切な声はいつでも訴えるようであった。時には恨みに満ちた幽霊の声にも聞き取れた。寝呆けて聞く出所が分らない郭公の鳴き声が、夢うつつの間の胸に痛みをつむじ風となってかき乱し吹っ飛んだ後に、やっと目を覚ませば朝であった。郭公の声は教導所の監房でもそうであったし、今まで一間の部屋でもそうであったから、老いて死ぬ時までも郭公は聞こえるだろうと諦めている彼であった。五十坪ほどになる裏庭には母屋のお婆さんがよく手入れした樹木が茂り、郭公が訪れた。「郭公は空しく生き残った者の悲しみだな」河老人はいつもそう思った。
 朝に鍋飯を作って食べてから雑貨店へ出て行く河老人に、母屋の主人のお婆さんが尋ねる。
「河老人、今年も以北墓参りの道は駄目みたいね。向かいの崔老人がそう言ったのだが、何か以北と話し合いがうまく出来ない様子だそうね」
「そうだな。失郷民はどうして私一人だけだろうか。故郷を訪ねられないことこそ誰でも失郷民さ。失郷民は他にいない」
 すでに十年も家賃を入れて住む河老人は一家族のようだ。彼は故郷の地が屏谷黄州洞とだけ言って、その他詳しい話はちらりともしなかった。吐き出す言葉はいつも「以北であれ以南であれ行けなければ、故郷がないのも同然だ」という。河老人はなげやりに故郷をあいまいに言った。
 安家のお婆さんは「故郷が黄海道黄州だから・・・・・・」とこことまったく里人の出入りがなく、また訪ねて来る人もいない河老人の境遇を気の毒に思い、同じ村の崔氏の家の離散家族のような失郷民として心に刻んでしまった。
「晩年に一人どのように生きなさる。適当な後家が一人いることはいるが、その人も年頃になれば家政婦の仕事でもして食べていくだろう? ビルヂングの清掃婦の仕事も若くてということだが、つれあいも時期を失してはという訳ですよ」
 安家のお婆さんは自分が知る友の中に、自分の娘一人を嫁入りさせれば再婚して運を変えてみようという仲立ちの事情をほのめかした。しかし、河老人は親切な、そして人情のあるそうした言葉に興味がないというように話に乗らなかった。
 いつだったか、秋夕の日にそわそわして見える河老人がだしぬけに言った。彼に残された時間がまだあるようだった。
「実は黄海黄州に置いて来た妻がいる。いったい死んだのか、生きているのか、もう三十年になる。いつ、そんな歳月が流れたのか?」
 河老人が若かった時に黄州で会った乙女は村の娘としては色つややかなうるんだ瞳の人であった。まっすぐな鼻筋にどうしても忘れられずに思い描いてきた女、咸陽の順福のように静かで気品があった。河老人には一番の女は因縁を結べなかった順福であった。
 往来し会えるのがまた因縁と言い張る安家のお婆さんにわざわざぶちまけた理由は、そうした胸の痛みだけはいい加減なものではなかったからだ。彼が一九四八年越北し「党員か気違いか」というやり方で繰り言を吐く口ぶりには、
「りんご果樹園で働いていた気立ての優しい乙女だったなあ。その人には子供が一人出来た。名前を私が南北とつけた。河南北と」
「おやまあ、そうだったのかい。気の毒なことをしたね。国から北へ送ってくれるなら、南北のお母さんの所に行きなさるだろう」
「行ってしまう。犬も血筋、自分の子は可愛いいからね」
 河老人は南側の自由政治もよいが、血縁が生きている北へもっと切なく心が揺れた。
「したいことはやりなさい。実際に天国がどこにあり、極楽がどこにあるのか。愛と憎しみの情で生きる味こそが人生だからね」
「そうさ。失郷民はどうして北側の人だけか」
 河老人は北に残してきた妻の顔つきも今ははっきりしない。その女は河老人の故郷の地屏谷の一村で育った順福を連想させる女だった。
「いろいろな面で、一人で生きてこそ気楽というものだ」
 結局、やっとのことでそう言った。初恋のごとき順福は淡々とした思い出となって残っている。その上、耳に入ると目まいがいつもする智異山の郭公の鳴き声は、彼に女に対する心の門を固くかけ鎖すようにした。男やもめの暮らしにも慣れた今日、あえて新しい人に会うことも負担となってふくれ上り、三八度線が開かれる日になれば、互いがつらいような気がした。順福はすべてが思い出に通じる女だった。
 河老人は「帰れない故郷」と言い及ぶ時には人がよい穏やかな笑いも目のあたりからいつの間にか消えたりする。
「私の故郷は青い山、目を閉じても天王峰が見える」彼は感慨にひたる。
 泰陵(ソウル市道峰区)に近い墨洞になじみ、生きてきた河老人のたったひとつの部屋は森が近く、春になり、新緑の季節には郭公の鳴き声が焦立たしいほど聞こえるところだ。
「昔から時代が怪しいと郭公はやかましく鳴きつづけると言ったが」
 河老人は六十歳になる今日まで三冬雪寒の雪風景でも夢の中だけは郭公がしつこく訪ねて来るのだ。言葉尻ごとに失郷民と言った河老人がある日、いきなり田舎の故郷を訪ねると言うと、安家のお婆さんは呆気にとられた。
「なんだって? 黄州へ行きなさるというのかい。以北へ?」
「以北だって、咸陽の地屏谷面黄州洞が幼い時の故郷です」
「しかし、どうして今まで一度も故郷に墓参りに行きなさらないものだから、私は以北に故郷のある失郷民とばかり思って」
「約束もなく別れた故郷の山川、それだけの事情があったのです。行って来て話してあげます。毎年の郭公の声だが、郭公が鳴きつづけるから今年も、もうこれ以上は耐えられないのです」
 河老人は皺寄った額まで広々と広がるように笑った。彼の目にはおいしく熟していく稲の苗が実り、黍、栗などが密生し、穂が風に揺れる野原が何度もあらわれたり去ったりした。
「泥から生まれた私だ。広い野に穂を拾った私だった」
と言いながら、彼は空に浮かんだ野原に立ってみた。
「私は早めに野の草の露に濡れながら歩き回った。大地の声を聞き、それが生命の鼓動につながっていることを実感して行った・・・・・・」

     2

 郭公は彼の数十年ぶりの逸る気持ちの帰郷の道を知って、どこかもう出て来て咸陽の地、屏谷まで鳴いて彼を迎えるようだった。荒い土の匂い、水くさい樹木の匂いが彼をそわそわさせる。河老人の目は遠い日をほじくり出し今静かな故郷へ飛んで来て、きょろきょろした。今、野山から近く聞こえてくる寂しい郭公の鳴き声は、天王峰の山頂から響き渡るようだ。遠いこだまとなって飛び、野山の木の枝葉の間から出て来た。簡易停留所でバスを捨て、青い竹藪がたっぷり見える見馴れた小さな村を過ぎ、河老人は屏谷へ入り立つ。右側に夢に描いた天王峰を再び見つめながら歩いた。「故郷へ帰りたい心は人間だけだろうか」彼は粘り強い帰巣性のようなものを感じる。
 屏谷川に沿って五里足らずで、忘れることが出来ない黄州洞だ。若い時以来、見向きもしない草葺きの家は壊れたのか? あるいは誰が替りに住んでいるのか気になる。河老人は足を止め周りの山脈を見上げる。南のペム洞渓谷を分け入っても険しい道だが、東の七仙渓谷の上の峰が天王峰だ。河老人が幼い時から庭で見て来た天王峰は、青色の尾根で白い影の中にそびえていた。夏の天王峰は青年の山だ。
 五〇年九月、私は青年六〇名を引き率て天王峰へ隠れ入った。智異山が好機を呼ぶ土地であることを願いながら。河老人は智異山の山の人としての初めの頃が阿修羅のようだったことを思い浮かべた。屏谷川に沿って行く道には、かなり太い桜の街路樹が道端に陰を作ってくれた。
「この前には見馴れなかった木々だが・・・・・・」
 河老人は木一本には歳月の変遷を痛切に感じる。梅雨に近づく時であるから、蒸し暑い風にもかかわらず、一歩を移すたびに足の底の蒸し暑い熱気は真夏のそれと違いはない。しかし、久しぶりに甘酸っぱくほろ苦いながらも、むつまじくそして古いもののようでありながらも瑞々しい故郷の匂いが香しく、大地の熱気を通してにじみ出る。夜ならば蚊遣り火の蓬の茎が燃え、蛍の火がせわしげに飛び、明かり障子から漏れる故郷の道の石油を灯す光はまぎれもなく故郷だった。
「すぐに下山するようになるだろう。戦争は終ります。北で人民軍がじっとしていないでしょう」
 屏谷村を出発する時に、河準奎と私は村の大人たちと女子供の前で宣言しなかったか。嘘八百を並べて。今考えれば血気盛りであり愚かなこともしたし、悔い多い説得にすぎなかった。「村人たちはいぶかしそうにうなずいた」自分の心に潜んでいるもう一人の自分は、深刻な反省に陥る。「当時の若後家は今はすべて白髪になっているはずだ」
 みすぼらしい身なりの村人の憫れっぽい目つきは無言のまま、むしろ反抗として見えたその時、そのことを忘れないでいる恨、屏谷村に入り立つということが、なぜかしら自身には刑具でねじられ押さえつけられるような思いがした。「智異山で一緒に死なねばならなかった身なのに」山へ共に連れて行った友たちは大部分妻を娶っていた。幼い子供たちを置いて来た人たちだった。しっかりと保護する夫がいる若い妻たちだったのに・・・・・・私ひとり生き残り、どんな名目でその女たちと村人たちに会おうというのか。
 十余年来たくてもためらっていたが、河老人はがっくりと気がくじかれる。山で屍さえ収容できなかった死者たちだった。「おっ、ほっ、死んだ、死んだね、村の青年はみんな死んだよ」智異山の森の中に捨てて来た青年の顔が一、二眼前にちらつく。この場の人間の営みに関わり知ることのない智異山についに屈服した人たちだ。いわゆる「人民」たちだ。今は声のない戦場智異山。パルチザンが蠢いていた村のひとつが即ち屏谷だった。河老人の胸に罪悪感がついに油のごとく流れ出し、どんな言葉でも表現できなかった。一緒に入山した青年たちは雨の中に埋められて死んだ者、岩に伏せて息を引き取った者、血を吐いて松の根元に残された者、熱病で死んで行った者、特に五一年夏には体がかっかと熱くなり熱が四〇度も上る熱病が広がった。再帰熱といったか。飢餓をむさぼるようにして気力尽き、倒れた者たちだった。その中でも手榴弾で自爆した凍傷者、彼女たちは最後に「お母さん」と絶叫し、時には「人民共和国万歳」で最後を飾った。青年たちは専ら咸陽の一村出身であり、河氏本家の長男の物知りな河準奎――北へ行って人民軍南道富中将と呼ばれた――の小作人たちだった。河準奎はよく知れば孤独なインテリ青年であり、当時日本の東京留学生であった。日帝末期の一九四四年一月二〇日の学徒兵の強制動員を拒否していた彼だ。智異山七仙渓谷の奥深く逃げた者だ。河準奎は五親等の間柄の父のいとこになる河鍾其に心を打ち明けた。
「この地区の学徒兵たちは大邱に集合する。おまえや私は日本野郎が滅ぶ時まで山に生きよう」
 彼は山竹と葦で屋根にして山小屋を造り、徴用を避けて山へ入って来た村人たちと力を合わせ、普光党という野山党を組織した。猟銃などで武装し神出鬼没し、日本の警察に対抗していたパルチザンだ。
 河準奎、彼は八・一五解放になるやすぐに渓谷へ下山し建国準備隊を編成した。郡庁も警察署も接収した。泉石の町の田畑をすべて小作人に無償分配してやった。日帝時代に搾取された農民を憐れみ、小作人たちに人間的な愛を施した知識人だった。彼は他の人と考えが違い、愚かな農民を目覚めさせた善良な民族主義者だった。
「数多くの小作人たちを一躍自作農に変えた英雄的な主人公ではないか。新版林巨正(イム・コクチョン、李朝中期に民衆蜂起を指導した義賊として語りつがれる)が現れた」
 と咸陽の地ではそのように崇めたてまつられた彼だった。ある夜、江原道の炭坑から帰って来た河鍾其青年も、村の小作人とともに河準奎の家の客間のある棟で開かれた会議に出席した。とても狭い庭は市場の中みたいに騒がしかった。最も親しい友の河千植は野山隊の戦闘で足に銃傷を受け家にいた。昼も夜も河準奎は祖国をどう建設し、日本の植民地の残滓を清算するにはまず親日派を除去することが正しいと言いながら、彼の演説の結論は簡単だった。
「耕す者は田有り、植える者は山有りであらねばならない。皆さんは誠実な農夫としてまさしく土地の主人だ」
 と付け加えた。河準奎の五間の瓦の家の母屋は匸字に客間に使う棟と召し使いが住む棟、倉庫があった。客間に使う棟に小作人たちを集めさせたのだ。
「父さん、日本野郎が追われて去ったこの広場に人民の搾取のない新しい国を立てねばなりません」
「では、おまえの思いどうりにせよ」
 一九四八年の夏、河鍾其は河準奎と一緒に越北して海州へ行った。そして会寧にある遊撃隊の訓練所を経て、河準奎が南道富中将という人民軍ゲリラ隊長になり、江原道雪嶽山の襄陽地区に出没したのはその後のことだ。
 南道富中将の非合法闘争に同調し、渓谷の人たちは六・二五動乱前後の咸陽に小共和国を造るように「解放区」を設置し、人民軍の戦闘に積極的に加担した由来がここにあった。九月に入り、人民軍の進駐、南部戦線の敗戦により武装した「山の人」たちがパルチザンに編成され、若者はすべて天王峰にアジトを造り潜伏作戦に入って行った。ゲリラになった河鍾其は血気盛んであったパルチザン隊長として渓谷部隊を指揮した。
「河準奎が土地所有権利証を一つ一つ分けてやった旧家の敷地はどのようになったのか?」
 河老人は昔を回顧しながら、屏谷へとぼとぼ歩いて行く。ソウルで聞くに、河準奎の息子が元気で咸陽郡から国会議員に出馬をしたと言った。一足屏谷村の辺りに入ってからは、彼の頭の中にぼんやりと浮ぶ村の草葺き屋根とともに、山で戦死した青年たちの顔がひとつひとつ空に黒白写真のように浮かんだ。密林の智異山に身を隠す河鍾其パルチザン隊長は、馬川郡ペム洞からも七仙渓谷からも南原山内面百巫郡、そしてナタリ峰を越え南側の大成郡細石平田彼我郡ということなく、いつも風の便りに乗って来る屏谷の大地の匂いをしきりにかぎながら、土地革命をしてくれた河家の親族の甥の河準奎が言い聞かせた言葉を忘れなかった。
「ヤンキーたちの帝国主義を追放し、朝鮮民族の人民の政治、人民のための政治、人民がする政治が民族民主主義の基本だ」
 河準奎はスターリンがどうで、マルクス・レーニンがどうで、また二万五千里の長征の果てに二十二年ぶりに天下を統一した毛沢東がどうしたという類は一度も口に出さなかった。彼はただ朝鮮民族という言葉を押し出した。「行く道は困難だ。すべての力を合わせねばならない」と言った。皆の元気が出る言葉だった。
 河準奎が言う「人民」とは果たして誰か? 自分を反芻してみれば説明はさらに必要なかった。
「下人暮らしでも食べて生きるためにはどうすればいいか。食うためには悪いこともせざるをえない。やれやれ、倭奴だけがいなくとも・・・・・・」
 父の憂いに満ちた嘆きの声が上がる。
 荒々しい歳月は深い山中の智異山にだけとどまってはいなかった。入山三年目に入り、有頂天だったパルチザンの隊列は討伐軍の火力によって余すところなくばらばらに砕かれ、同志たちはすべて郡警討伐隊の銃の犠牲になってしまった。フヨン、ヨンタル、ジンス、キルドン、そして同じ村から入山した最年少の喜宰、千植の甥である。彼は河老人には永久に忘れられない名前だった。
 その頃、三度目の冬を死なないで越し、一九五三年に入ると、河鍾其は屏谷出身では単身残り、智異山南部軍総司令官である李鉉相司令官の政治参謀格として政治副司令官の職責を与えられていた。

 河鍾其には屏谷で亡くなった父と一緒に麦作の小作畑を育てた時が数日前のように回想される。
 智異山の東から太陽が上り智異山の西に日が沈む村、遠く波立つように散らばっている智異山の連峰が重なり山脈をなし、青藍色、淡青色に染まっていた。近くの墓の根元の下に広がっている野が一面にすがすがしい草緑色で目にさわやかだ。郭公の鳴き声が「かっこう、かっこう」とやきもきするように聞こえはじめる時には、木の葉や野草の嫩緑にはやわらかい黄色の芽が一面に出る。その中でもひときわ目につくのは屏谷川のほとりのゆらゆらと揺れる垂楊柳が噴き出すやわらかな柳緑色だ。
 力強くそびえた木々が、弱々しい枝や古枝だけでなく枯枝ひとつ見えず、一様に色でも塗ったようにかすかに染まる時、各様各色に色の階層を成していった。しなり流麗に垂楊柳が春風になびいている。軟らかく幼い葉っぱがそよぐ中から、つられて高麗ウグイスの声が口笛となって空に円を描き出す様子は、「ぴい、ぴいっ、ぴいっ」とやわらかな調べで春の日の光に溶け込むのだった。
 村の入口の前に河氏の始祖の高麗建国の功臣(忠正公)の祭閣を囲んだ垣根が新しく装われ、竹藪が調和しゆらゆら揺れた。
「河氏の親類が集まり暮らす屏谷は、山が美しく水がよいところと言われた」
 父は村の発生の由来を時々口にのぼせた。
「だから、忠正公の祖父から私まで三十代になる訳だ」
 やわらかい緑の木の枝はひよこの巣のようであったし、折って作った柳笛はむけた小さな子供のおちんちんのように可愛らしいやわらかさを感じさせ、ほほえましい。そればかりか、垂楊柳の手触りは恥ずかしさのあまり燃える十七歳の乙女順福の肌のごとく神秘さに満ち溢れていた。
 新緑の木は郭公の鳴き声につれて、一葉二葉が濃くなり、青白い木の葉がまるで順福のうっとりするような豊かさを示すかのように、ついに幹が見えないほど繁茂していった。垂楊柳はまさしく黒いチマをつけた順福の姿のようだった。周りの自然は生き生きと変貌していく。草色はその色彩を加えいっそう夏らしく盛り上げる。広い野ではすべての家族が飢えを免れられない春の端境期であったし、近くの山から聞こえて来る郭公の切ない鳴き声は、あまりに悲しすぎて身がすくみそうになるけれども、いつの間にか雲雀が鳴きはじめれば、麦の穂が黄色がかる季節に変わっていく。間もなく、飢えた人たちが暮らす野は安堵の息をつくようになる。
 しきりに濃く青くなる葉が毎日変わっていき、青々と光る葉は夕立の雨をいっぱい受けて飲んだように青さがひとしお深まり、思い切り激しい生命力と潜んでいる霊魂まで表出するのだ。豊かでない小作人の娘の順福も、豊かな自然の中ではすらりとして体がさらに大きくなっていくようだった。
 空の雷鳴が天王峰の荒々しい獣の叫び声のようにごろごろと轟いたあげく、さっと空を二つに切断する雷光が世の中すべてをぶち壊すように、智異山の峰にたたきつけた。
 夕立を避けて道端の木陰に入るや、順福は袖が短かくびっしょり濡れた麻布のチョゴリに柔らかい胸元の曲線をあらわにし、土まみれの草取りの鎌を持ったままだっが。彼女のふくらんだ乳房のあたりが激しく揺れる。
「順福、この手拭いを使って」
 順福が巻いて使った頭の手拭いは雨でたっぷり濡れているので、河鍾其は男の匂いがする綿布の手拭いを優しく手渡した。
 雨の降る日の彼女の顔は不思議なほどすがすがしく見える。まだ咲かない花のつぼみのようだが、野のみずみずしい青さの中で彼女が雨にびっしょり濡れてしまったせいか、あまりに美しく河鍾其は彼女を不思議そうにながめた。再びごろごろ、どんと雷鳴を打った瞬間、彼女はびくっと鎌を放り出し、とっさに河鍾其の胸に抱かれた。順福の口は蓋をとじた屏谷川の宮入貝のようにきっとつぐんだが、独身の河鍾其の愛は満ち潮のごとく目の光でそれを開けていった。
「順福、私はおまえがなぜかしら愛しくてたまらない」
 河鍾其がたどたどしく告白する愛に言葉は無用だった。順福の胸元をちらちらと見つめるだけで満足だ。彼女は河鍾其の男らしい目つきを意識してか、首をがくっとぐらつかせたかと思うと、顔に桃の花が咲いたように赤くなった。喜びの絶頂には名状しがたい悲しみが胸に満ちたのか、彼女は涙ぐんだ。感極まった河鍾其は雨に濡れてふっくらとした彼女の乳房に手が触れるやいなや、何か神秘的でやわらかい欲望が胸に高まってきた。
 毎年その頃になると、白昼の日差しは熱気を増し田畑の畔でせっせと働く人たちの額にじっとり汗がにじむようになる。村人たちは休み休み、自然と日陰に入りがちで、農村は日頃雨を願う気持ちから智異山の青さを一名「緑雨」という詩的な名をつけたものだ。緑雨の陰は緑陰であった。緑雨と緑陰が成熟するにしたがい、野には麦畑が、小麦畑が豊かに黄ばみ大地には農民のたくさんの汗が染み入り、夏至のジャガ芋は少しずつ丸く大きくなっていった。空と智異山の裾野は新しく美しい色彩で装いを重ねていった。その中で郭公は鳴きつづけていった。
 今、河老人の脳裡深い内部の追憶が彼を若返らせ、昔の風景がぼんやりと浮んだ。
 五月の端午節は季節の祭りとして知られていた。五月はまた蓮池の香りが満ち満ちる時期だ。村の女たちは遠く咸陽邑内からも、ここ山谷の蓮池へ大挙して集まり、その間汚れた頭に菖蒲をまきつけ、帰りにはいつも夕立に出会うあつらえ向きのよい季節だ。遅く家に着いた咸陽邑内の女房たちには、待ちくたびれた夫たちの嫉妬に満ちた拳骨が待っていたし、端午の日は昔から「水に会い、雨に会い、夫に会う」という歳時風俗の気分をそそっていた。蓬色の麦餅を作るのもこうした時だ。水田の作業に人手不足をもたらす月を前にした農村にしばらくでも息をつぎ、自然との融和に体を休ませる貴重な平和の日だ。
 米作りがすべて終った秋夕は正月十五日に次ぐ麦作の収穫の祭りであったが、日本が中国と戦争を始め、その上に太平洋戦争まで起こす戦争の大波乱があった。
 その年の慌しく追い立てられる気持ちの中、村中にもの寂しい気分さえ漂っていた。穀物の搬出が甚だしくなり、鉄物が足りないと言って古い針、真鍮のさじまで奪っていく殺風景が展開されるが、順福は戦争の渦中に村の少女三、四名とともに滅私報国といって挺身隊に選ばれトラックに乗せられ、ついに行方不明になった。村は泣き叫ぶ女房たちの慟哭で喪の広場を彷彿とさせた。彼女たちは葉に宿った小さな露であった。
「アイゴ、どうしよう、アイゴ、どうしよう」
 力のある男たちは日本の北方の樺太に徴用で引っぱられていき、内鮮一体という標語をかかげ、たまには志願兵という名目で中国へ連れ出された。
「ああ、屏谷の若者たちが毎日のように一人二人と消えるね」
「おやじ、私の心配は無用です」
 父が心配を漏らす時、徴用される危険を察した河鍾其は身をくらまし、江原道の太白炭坑へ隠れ込んだ。日本野郎は自分勝手に人間までつかまえ、修羅場のような戦慄が屏谷村を襲った。力ある者に奪われた野では麦の耕しや米作は老人の力に余ったが、穀物は侵略者の取り分になり、農村の百姓たちはいつも苦渋の皺を顔に刻みながら空腹を支えることが出来なかった。
「奪って行く者はすべて奪って行き、われわれ老人は年相応に生きて来たが、今は若者の生命まで奪っていくありさまになったな」
 その頃、彼は父母をなくした。解放になり、帰って聞いた噂では、配給される腐った豆粕を食べ下痢でなくなりなさったと言った。
 支配者の日本野郎の悪意に満ちた暴力が朝鮮全土を激しく揺さぶっていくが、か弱い郭公の鳴き声は止み、八・一五解放の日は予期せずに迫って来てしまった。
「十日も持つ赤い花はない。満つれば欠くる世の習いだそうだ」
 そうした村人たちには解放という実感は湧かなかった。咸陽邑内の町で、ごほんごほんと咳をしていた陸軍中尉野郎の声が空しく消えたのだ。河老人は自分が生きている自然こそ、天王峰近くの山にも、屏谷の谷間の水にも、青くなっていく稲葉にも、自然の愛の中で生きているという喜びと生命の流れを再び発見できることを知った。

     3

 河鍾其の回想はしきりに若い時へいくつもの階段を越えて飛躍し、智異山へ走った。五一年夏の智異山に心地よい山風が吹く。夜中に移動する時だから、「山の人」たちは昼にうつらうつら眠気が来た。むしむし蒸し暑い日に汗も汗だが、湿った山の空気がじっとりと体をとり巻く。
「智異山には山の神霊だけが生きていることは知っていたが、水の神、火の神も一緒に生きているようだな」
 平地から初めて山へ登ったような隊員の一人が、うんざりしたように人を笑わすことを言った。河鍾其はすすきの葉のざわめきにも神経をとがらせ警戒心を緩めなった。死は常にその側につきまとった。やがて真赤に夕焼けが燃え、西の般若峰の方へゆっくり落ち込んでいった。相互の伯仲した若さと若さの対決の場、深源渓谷の谷間、尾根斜面の穴の中、岩の隙間、木の下に死体が腐る臭いが鼻をつき智異山を揺るがせた。林傑嶺を越え、彼我谷の三興沼へ下りてくる河鍾其は歩いて行く林の中で、骸骨と手足の骨片ががさがさ踏まれるのを聞いた。
 ここでも「かっこう、かっこう」、あっちでも「かっこう、かっこう」という鳴き声は間断なく、山の風の翼に乗って聞こえて来る。そうした中でも、真似るような「かっこう、かっこう」という声がふと聞こえてくるようだった。河鍾其は首を傾けてうつ伏せになった。草むらと青々と編まれた葛のつるの間の声がする方向に目を注ぎながら、手でらっぱをつくり「かっこー、かっこー」と答える。連絡責任者要員の接触の暗合だ。しかし、「かっこう、かっこう」というその声は、線をつける要員の信号ではない本物の自然の声だった。河鍾其はかえってうつろな感じだった。同志が一人でも懐かしい智異山の中だ。運命を同じくする同志の情けが骨身に染みる。
 すやすや眠りながら聞いた夢うつつでもしきりにあがくように目を覚ませば、そこは山中であった。山中で聞く郭公の声は再びすうっと眠りの中へ吸い込まれていった。山での集団生活に個人の不平は無用な力の消耗にすぎない。個人の考えも思想もあらゆる思索が受け入れられない、そうしてそれは民族という大前提の前では一種の精神的消耗だ。
 ただ闘争のために目的から運命が投げ与える草葉のような弱々しい紐の切れ端にありったけの力を込めてしがみつかねばならなかった。ゆったりと待つことができず、渦巻くように忙しく生きねばならなかった。
 少し離れているところの渓谷の水音は無心にざあざあ音を立てる。毎日のように単調な自然の音は松籟に合わせ感情ばかりかきたてる。誰も互いに言葉を交わさないが、ひどい孤独感と虚脱感をどうすることもできなかった。慰労するでもなく戒めるでもなく、めいめいが分るからせよというように無心な郭公は鳴きつづけ、山陰の濃い所へ消える。そのように夏は過ぎ去った。
 河鍾其は昔の人が郭公を見て恨み嘆く歌を詠んだ意味を知ることができた。――血滴々あの杜鵑は声々吐血の恨をやめて幾千年、未だ帰らざる魂よ、おまえもまた悲しむ――といったが、パルチザンは郭公の声とともに多くの犠牲を出していた。智異山は血の記録としてつづり合わされる。郭公は死者のものではなく生きる者の悲しみだ。河鍾其には確かに死んで行った村の友だちに代わって言うムーダンの口寄せみたいで、耳が痛かった。細石平田一二〇〇mの高原の節気は朝日がだんだん射してきても、冷たさを一度にもたらした。夜空にきらめく星の光も声があるならば、「かっこう、かっこう」と短めな鳴き声をはじけさせるようだった。ふと順福が星ひとつになって揺れ河鍾其自身を見下している錯覚を感じる。
 いつの間にかすすきの花は真っ白に色あせ、山竹の青さは露を結び、さらによくそろって美しく山風に揺れる。急な深山幽谷の松の木の側のかさかさ鳴る枯葉の中に松茸がかぐわしく頭を突き出す。間もなく濃青の山竹も真白に雪をかぶるだろう。そのようにして、智異山の密林にはまた一つの非情な季節が足取りも重く訪れてくるのだ。へたばり、ぞっとする時間であった。
 積石山の葉が落ちた枯木地帯には、植物さえ耐えられない智異山の死が表出している。
 多くの熾烈な戦闘があった。飢餓の冬は再び三回目の夢の中のように退き、智異山には緑が繁茂した。五三年の夏になる。緑が茂れば、なおいっそう行動と移動がたやすくなった。野山に下りていけば、下の方に撤収した火田民が上って来て隠しておいた夏至じゃが芋の白色の花が咲く時だ。馬川の百巫洞にじゃが芋畑が多い。山中には火で燃やしてしまった木製器具の製造作業所もところどころ見える。火田民は青山に生きる一族だった。俗世をいやがり悩み、山へ入った人たちだ。精神的にも生活的にも彼らの祖先は青山がよく青山に定着した。政治が嫌いになり入って来た人たちだ。青山には歳月も避けて過ぎると言って、人々は智異山がよくて入って来たのに、火田民は討伐隊と「山の人」が互いに責任をはぐらかし抗争するため、昼も夜もいじめられる第三の一族であった。
 家はすべて木を斜めに積み上げ、上壁を塗り、屋根はすすきの草でとまを編み、「ユンパンの家」と言った。河鍾其が太白炭坑に隠れ込んだ時には、目についた山中の「石片の家」や「厚い皮の家」のようなものだった。山の斜面に縮こまらせている土幕が、すなわち彼らの居住地だった。
 季節により豆、粟、もろこし、じゃが芋を植えて食べる原始に近い生活だ。平和に山に生きる人たちは罪がなかった。純朴な火田民は人間の道理が何かを知っていた。ただ人間が人間を愛しただけである。政治も理念も知らない人たちだ。人間の道理を守ったから「山の人」に飯を与えた。それで「山の人」が民衆部族と言った。それゆえ、彼らは鞭で打たれ山から追放された。「山の人」は自然に隣接部落に「補給闘争」をせざるをえなかった。右に左に血の報復を受ける場所がどうして百巫谷供仙地区だけだろうか、河鍾其の苦悶はここにあった。五二年の春一番の戦闘を受けたところだ。河東岩の近くで包囲した討伐隊を撃退させた頃、李鉉相司令官の南部軍は士気が天を衝き、有利な攻撃の際には必ずラッパを吹き、攻め込んで行った。ラッパ部隊は谷間に包囲された討伐隊には死の合図だった。
 智異山の戦争が治まる頃、五三年七月下旬最前線で南北間の休戦が成立し、智異山のパルチザン残存部隊はほとんど五〇名程度で、李鉉相司令官の直接師団は二〇余名が残命をもちこたえていた。繁茂した木陰の上にゆらゆらときらめく日光、その木陰の間の岩を洗い、水泡を出しちょろちょろ流れる大成谷の上部渓谷が薄暗がりになりはじめる時、河鍾其は山鳥の声に杜絶されて一時は聞こえなかった季節遅れの郭公の声を聞いた。「うわごとか」と言いながら、彼の鼓膜に消えそうに弱々しく聞こえる声は、やはり郭公の鳴き声のようだった。その声は無残にも息絶えた同志たちのもがき苦しむ呻き声に変わり、山中の静かな空気をゆるがした。初めて入山した当時のパルチザンとしての激しい野望と愛情が、これまでのあらゆる辛苦と憤怒をしばらくぶりに晴らし除いてくれる。誰をうらやむのでもなく再び奮起し、石がにょきにょき出た山道を移動するたびに、敵の潜伏場所にひっかからないかと恐れ背には冷汗がにじみ出た。

 山中での平等とは錯覚と幻想の産物か? 何事もなく過ぎてゆく日、河鍾其は銃声がしない緑色の海に心が安定し、ふとそんな考えにふけった。ある夏の暑さの中、時々吹く風がそよそよと膚に接する。しばらくの間いたが、敵情がはっきりせず小部隊は渓谷の柔らかい雑草の上に坐り、夜が来るのを待った。智異山の低い特有の音がある。討伐隊の砲弾の炸裂音の前に、「シュ、シュ、シュー」という鋭利に空気をまるで紙切れでも裂いて行く音がするのだ。それは全身を緊張させる戦慄音であった。彼は僥幸を望むように肩につけたMIの武器も、腰にぶらさげた手榴弾の武器も、書類が入る重々しい背嚢も忘れたまま、空の白い雲を見上げる。たとえ三八度線は大地を南北に分離しても、しばらくの間銃声がやんだ智異山の北の空を二つに分割するにはあまりに美しく神秘的すぎる。
 ついに、夜の天幕は音もなく智異山一帯を覆いはじめる。三日月はすでに沈み、真暗な空にはいくつか悲しげな星だけが仲間のいない孤独な隊員たちの眼前に輝いた。そんな夜がふけて、未知の明日へ危険は近づく。
 かっか、かっかと熱を吹き出した夏の真昼がゆっくりと過ぎ、夜の息が吹きつづける微風は胸までしみる。高山の中のまぐさのような雑草は荒く鋭い草となってなびく。夏の夜には草いきれが鼻を刺激する原始林の木陰や山の中で、「山の人」としての男女が自分たちの内面で互いに相手を引き寄せ合うのは、知り得ない神秘的な紐があるからだ。動物でもない、ましてや人間であるためだ。
 そうしたものが愛の感情なのかと考えてみれば、わずかな時間でもそらごととして郭公は鳴いた。郭公はやはり生き残った者の悲しみだ。五年前に別れた順福の思いがしばしば心琴を揺さぶるのはどうしてだろうか。人間の男と女の間に共有の夢があるならば、その夢を成し遂げようというところに幸福感を享受するものならば・・・・・・パルチザンの使命がまさしくその理想かもしれない。
 こうした夢だけは揺らぐものがなく、パルチザンの河鍾其には最も濃い生の求心点であった。その時の記憶では山中から見た星が満天に輝く感動さえ弱かった。心が弱くなったせいかもしれない。どうかすると、空中に漂う硝煙に頭がぼんやりしたためと思いながらも、空が今にも南の片端が崩れる感じだった。
 山岳地帯の智異山に凍りついた冬がゆっくり去り、多島海河東の地を経て南風が吹いて来れば、生き延びたパルチザンはまだ残っている力を尽くし、うらさびしく叫び呻吟をしながらも猛烈な抵抗闘争をするようになる。
 李鉉相司令官は静かな語調で言う。
「軍人は戦場で死んで行くことが最も幸福だ」
 彼が力を与え教育する主張のひとつだった。互いに死なねばならぬ戦闘はせいぜい食べて生きるための補給闘争であり、集団が生き残るための火器の鹵獲を望むことだった。李鉉相司令官は隊員を目覚めさせ、このように鼓舞する。
「同志たち、同志たちはパルチザンとして戦うのではなく、わが人民が戦うと考えねばなりません」
 彼は若い同志にいつも敬語を使った。南風は微笑しパルチザンの拠点をかすめ峡谷を過ぎ、山々に積もった白雪を食い尽くし、百巫谷渓谷の分厚い氷も溶かしてしまう。春風は根の深い老松の枝をしきりに揺さぶる。南瓜の花の同志たちが女である自分を再認識するのもこうした季節だ。
 うすら寒い南風が吹く季節が来れば、「山の人」、特に南瓜の花同志と名付けられた女子部隊も活気を求め、凍った手やひび割れた手で山芋を掘る。その穴で育った南瓜が色む時まで自分の生命があるかどうか、それまではまだ考えもしない。南風に乗せられて南国の精霊は感性に刺激を与える。
 それほど自然は神秘な影響を及ぼしている。特に北方のアジトの精霊歯の近くあるいは深源渓谷に身を隠した部隊たちの貧弱な胸にしのび入り、残雪がおおわれた山村の朱川、環里の山村を憧れさせる。その頃ならば、南風が谷間の岩の間に散らばった米粒のような雪までゆっくりと溶かし出す。ついに智異山が蠢き春の女神は陽炎に乗って訪れ、花園を作らせる。春四月に最初に咲く花は野と同様に淡紅色と真紅のつつじだった。
 王鹿の角のように雄大に延び、果てしなく展開する重畳たる山の稜線を天王峰から般若峰まで等しく撫でるように、木々が翻れば壮観だった。この穏やかな自然の愛に鼓舞されるように、たまには鼻歌を歌った。「智異山のパルチザンの歌」を。南の海風の中にひそんだ甘く美しい世界を夢見る。豊かな夏が待ち遠しいからだ。

 山での南瓜の花同志と呼ばれる女性戦士が尊敬を受ける。男女間の性関係とは口にも出せない厳しい関係なのに、ある部隊員は同じインテリだからか恋愛に溺れていた。
 山では男と女がただ目で語り目の光で受け取め感じた。まさにパルチザンの愛とはそうしたありさまだった。一番節制が出来ないのが若さの特徴だが、山では山がそれを調和するように和らげてくれた。
 部隊再編成があり移動する時、死んでも一緒に死のうと言って共に付いて来た一組の男女のパルチザンをおき、李鉉相司令官は政治副部長の河鍾其にひそかに雅量を見せることもした。
「河同志、女性は山でも村でもなよやかでしとやかな人たちばかりではないよ。女子とはわれわれの生活に潤滑油のような役割を果してくれるものだ。規律を破らないかぎり、愛してもかまわない。愛するまで放っておきます。同志は女子を愛してみた経験がないか。どんな家でも個人でも大切なことは、女子らしい温かい情によって、意外に生命力を発揮し実際の戦闘でも引けをとらない賢い立派な戦士になりましたよ」
 南瓜の花同志という名称は李鉉相司令官が女性部隊員につけた愛称であり、また平等という象徴であった。南瓜の花同志の中には、入山した夫を探すために一人で訪れて来た女子もいた。鄭順徳はわずか一七歳の新婦だった。彼女は通匪分子という濡れ衣を着せられ、徳山からさまよって来た火田民の娘だった。彼女は智異山の最後のパルチザンとして一三年間も二人部隊として残っていた山村出身の「山の人」だ。
 彼女は一九五〇年代南で最後まで隠れていて自首をしなかった亡夫共匪と呼ばれて来たし、北では智異山の女将軍と呼ばれ、ゲリラ部隊としての使命を果したとして称賛されたパルチザンの女であった。河鍾其は青松監護所で彼女の消息を聞いた。
「片足が膝からばっさり切られた歴史の犠牲者だよ」と。
「徳山にある日、満潮のように人民軍が現れ引き潮のように郡警は去り、どうするすべもなかったよ」
 そのように山で告白した鄭順徳を河鍾其は忘れられない。親類の中で最も年少の喜宰が死んだ後に、会うことができた最も年の若い女子部隊員であるためだ。彼女は初めは作食隊員として従った。
「順福もあれくらいの年であった」
河鍾其は彼女を見て感じる最初の感情であった。人間としての憐憫の情であった。彼の胸の中にうつろな場所があった。
河鍾其は政治副司令官としてパルチザンがほとんどみな消滅して行った最後まで司令部二〇余名の要員と、過ぎた冬の死闘が開かれた大成谷の下の方を見下しながら、稜線で休んでいた。昨年に三〇里ほど広い細石平田へ移動してから大成谷の大決戦で、パルチザンは討伐隊のものものしい包囲網にひっかかり惜しくも一〇〇余名の戦士を失った。慶南道李英熙部隊は莫大な打撃を受け、戦闘力は急速に劣勢に立たされた。「後日の作戦をどうするか」李鉉相司令官は思索していた。隊員すべてがへたばり士気が落ちてから久しい。

隊員たちの山で続いている失望は破局を予想させた。
「河同志、しばらく私と話をしましょう」
李鉉相司令官はうなずく動作をし、重々しく言葉をかけた。
「負傷者たちはみな下山させなさい。戦う時まで戦ったから、その同志たちは人民のために任務を果したわけだ」
 まだ雪の解けない岩の下へ河鍾其を呼び入れた。三十歳のギャングに似た容貌、しっかり開かれた二つの肩、ぼろぼろの軍用ズボンをはいて、彼の愚直な目の光は飢えを知らないフクロウのような光彩を帯びる。
 四六歳の李鉉相は首がやや厚く、黒い眼鏡の一方はつるが折れたものを継ぎ目で直して使った。眼鏡のレンズから特別な知性人らしい目つきがきらりと光り、指導者らしい風貌を感じさせる。彼は国軍の服装に時々拳銃を下げていた。並の身長にがっちりした体格、顔立ちの整った面長が赤銅色に輝き、炯々と光る目は生き生きし、金切り声のする声は彼の重厚な緻密性を引き立てる。彼は河鍾其の闘争経歴を事前に詳しく知っていた。

 再び夏だ。日が長くなる夏の一日が過ぎ、中腰の姿勢だった太陽が頂から傾いていき、西方遠く光の尾をゆらゆらさせる。智異山八景と呼ばれる般若落照は荘厳で美しい。しかし、山が与える圧迫と悲しみで河鍾其はなんとなくうら悲しかった。じめじめした暗闇に包まれ、昼間の勢いはないそよ風が上着を脱ぎ捨てた背中にすっと吹き寄せる。森をじりじりと焼く夏だ。
 いつの間にか、月が碧宵嶺の峰の上にぽっかり上った。ぼんやりした月光だ。月の中でも智異山の山中のように、浅黒い影が垂れて細石平野がはるか暗闇の中ではあるが、広がっていると思われた。月が白雲の間を縫うように滑っていき、風は耳元をくすぐり、山中は草むらの虫の声だけが高く陰うつで悲しく聞こえた。
「月がひどく美しく見える。私は幼い頃に錦山で本当に兎たちがまめまめしく玉の斧で臼を搗くものと思った」
 李鉉相司令官は穏やかな顔をして急に少年の時を思い出すようだった。誰が聞いてもかまわないと一人ごとでそう言った。そればかりか、月は大きく洗ったように真白な月だ。その下の智異山は木々の影も斜めに描いていた。月光が雲の中から漏れ出て動くせいだ。李鉉相司令官は河鍾其に聞けというように独白を続けた。しばらく沈黙が流れた。
「革命とはあんな苦痛の中から生まれるものか」
 河鍾其は今になっても、空の明星みたいにふわっと考えが浮ぶ。彼が日頃近くで仕えている李鉉相司令官は時には山蟻一匹も踏めない性分であった。漏れる月光は李鉉相の肩に深い孤独を漂わせていた。河鍾其は何も言わなかった。智異山の渓谷の水音でその深さを知ることが出来るように、李鉉相司令官の多くなった溜息は河鍾其にはどんな痛憤よりも大きく感じ取れた。
 智異山の高かったり低かったりする山脈の渓谷と野と木の間にひしめいていたパルチザン、民族と人民のための革命事業とは語りつづければ、いつまでも長く残るような民族の骨身に染みる傷ではないか? 河鍾其は考える。秋風は紅葉が散った智異山の落葉から吹いて来るように、夏風は原始林の青さから吹くように感じられる。そのようにその当時、李鉉相司令官の目つきから河鍾其は人と人との間にゆらゆらとするかすかな友情と愛の風を受け入れる。しかし、それもかえって不安を芽生えさせた。冬が来た。
「河同志、河同志は直ちにソウルに上り、都市野地司令部を組織設置して下さい。わが部隊はこのまま残り、闘争し最後を迎えるものと知って下さい。われわれは反省しましょう。八・一五解放よりわれわれが歩いて来た道は分派闘争の働きがあまりにも多かった。それは表面では共産主義者のようでありながらそれでなかった。わが祖国における共産主義の運動は、それに先立ち徹底した民族主義者からならねばならない。私の言うことがどんな意味か河同志はお分りになりますね」
 李鉉相司令官は話の終りごとに民族を唱えた。
「ゲリラ戦でアメリカ野郎を無慈悲に殺して下さい。けれども、国軍はわが民族の軍隊であることをわきまえて、なるべく避けるようにしなさい」
 河鍾其は李鉉相司令官の非常に大きな民族愛に感動していた。河鍾其は山から離脱せよという指令であることをすぐに察した。望みのないパルチザンの運命を彼は誰よりもよく知る。李鉉相司令官は河鍾其の赫々たるゲリラ戦の戦果とその功績から判断し革命事業を地下組織で継続させたかったようだ。
「はい、司令官同志」
 隊員の誰でもと同様、河鍾其は司令官の指令に逆らうことができなかった。河鍾其は大邱一〇・一民衆暴動を黄泰善(一九六二年北の密命を受け下りて来て最高会議議長朴正熙の背信で死刑を受ける)、方準標(後の全北道党責任者、初期回文山パルチザン隊長)と同じく大事をおこし、その河準奎とともに四八年八月に越北した。
「その当時、朴正熙は南労党内傘下組織員であった。彼の兄も一組織員であった」
 今になって河鍾其は歴史のアイロニーを感じる。五〇年六・二五が起こる前後は海路を通じ中国の青島に渡り、西海内、法聖浦に浸透することに成功した。一行は一二名の特殊部隊であり、以北第三軍官学校を経て回嶺で半年以上ゲリラ訓練を受けて出た後だった。南へ来るまで河鍾其は黄海道黄州黄公部隊に駐屯していた。南へ下りてくるや洛東江戦線の倭館で深夜渡し舟に乗り、敵前上陸をし対岸のアメリカ部隊を襲撃した精鋭部隊を指揮したことがある。彼は肉迫戦によって酔いつぶれたアメリカ部隊一大隊を修羅場と化した。河鍾其のゲリラ活動は領南一帯永川、昌寧、達成、高霊、玄風、霊山など、最後には大邱北方の八公山まで浸透し奇襲戦で多くの成果を収めた。
「ヤンキー野郎、鶏を追った犬が屋根を見上げるかっこうだったなあ」
 その時、李鉉相司令官は河鍾其の脱出に先立ち訓示をした。
「同志の地下組織網を再建して、人民共和国の戦線を強化する責任を負って下さい。南半分の社会の腐敗現象で見て良心的で進歩的な知識分子たちの呼応を期待しよう。都市の群衆の中へ深く入り込み、人民大衆をわれわれの周りにまとめることが野地工作であることを肝に銘じて下さい」
 李鉉相司令官は慎重に指令を重ねて言う。

 智異山の各稜線と山頂と谷間へ春が来る知らせを嬉しく向かえたことはすぐ数日前のようだった。六〇里の山道のナタリ峰を越え、水がちょろちょろ流れはじめれば、討伐軍の追撃の銃声がいっそう入り乱れる。間もなく森の中につつじが血のように真赤に咲き出し、歳月は急ぎ、一冬の沈黙に包まれた智異山は太古然のように再び息をつきはじめる。
 そのようにして夏が来たが、河鍾其は今や情が移り親しい智異山に実際に別れの挨拶をすると思うと、残存部隊と霊魂を山に残していく心情がむしろ薄情みたいで混乱した。異常な気分にとらわれた。
「山にいる時、私は数多くの同志を死へ追いやった。多くの死んだ英霊よ、智異山よさらば」
 河鍾其は同志たちの多くの墓を後にして去って行く。裂かれんばかりの胸を抱きしめ、今は下山して行く。薄暗い山影を意味なく振返り見る時、足が前へ進まない。
「再びは戻れない所なのに」河鍾其はしきりに涙を頬に濡らす。徳坪峰(一一五二m)山脈の碧宵嶺を越えて六〇里の道の霊源寺を経て、渓谷に沿い下りていけば実徳村だ。ここからさらに五里を行けば、橋を越えて馬川だ。しかし、脇道を選ばねばならない。みすぼらしい質朴な農夫の身なりに着替えて咸陽邑を目標にし、夜露に当りながら夜陰に乗じ下山していく。夜明けになるや、雲霧でもやもやとさえぎられた山頂をのぞき見た。
「や、アジトだ、血で購われた約束の地よ」
 山は千古の神秘の中に眠っていた。山は一人の男の冒険を知らぬまま、まだ目覚めないでいる。河鍾其は山のふもとに着くやいなや、武装を解いたさっぱりした気分から久しぶりに手に何も持たず朝露に包まれた村を見た。村には民家と道と蔬菜畑が青々とながめられ、今すぐにも麦は収穫を待っているようだった。彼は急に足の力がなくなるようだった。一抱え余りの松の木に寄りかかり、はたと坐り込んだ。そして松を何度も撫でた。生きてまた再び見ることができない松のように思われた。彼は夜通し歩いていた疲労が一度に押し寄せて来た。しばらく目をつむっている間、彼は夢の中で聞こえてくる郭公の声にちらっと目を開けた。
「野地司令官を設置しなさい」
 河鍾其の頭の一隅で李鉉相司令官の声が鳴り響いた。ソウルへ上ろうとすれば、通り過ぎる貨物自動車にこっそり潜入する他ない。天佑か、貨物自動車でやっと大邱まで到着した彼だった。大邱まで来る間、何度もトラックは郡警歩哨所で検問検閲を受けた。彼は貨物の一塊になり底で息を殺し、ぴったり隠れていた。危機一髪のところで命拾いをしたことが一度や二度ではない。彼は冷や冷やし、峠を越えると縮みこんだ胸を伸ばし長い息をついた。
「ああ、私の自由の共和国はやはり智異山か?」
 そうした途上でも、野地司令官の任職が彼の双肩を思想の重さとなってやたらにぐっと押さえつけるのを意識しながら、河鍾其はただひとつ頭に浮かんだものがあった。
「この身が繰返し死に、何百回死んでも・・・・・・ひとつの命がつきる時まで、私は民族に報いよう」
 彼の意思はまた李鉉相司令官の祖国に対する忠誠心の発露であった。彼の胸ははしゃいでいた。
 思いは山を伝い、山から山へと疾走する。
 河鍾其は部隊に従い、咸陽の地ペム洞そして北進し徳裕山へ、東へは伽耶山へ、再び南下し智異山へアジトを移した過去三年間を脳裡に浮かべる。特に五一年の冬、供仙地区襲撃の時は片足を負傷した。
「生き残った者は運がよいから」
 そのように理由をつけざるをえない状況の連続だった。猪のごとく夜道や道のない山道を歩くことも、今はまあまあ熟達した。煙が出ぬように萩の茎を燃やし火をくべることも、他の部隊員を指導する立場となった。
 山で敵の潜伏奇襲を受ければ、胸元深くいきなり大きな落とし穴が見えて、その中へずぼっと落ち込むような恐怖と不安感がおきる。このような感情を超越していくことがパルチザンの力と言えた。
 洛東江遊撃隊の活動をはじめ智異山へ入り数十回の戦闘をしながら、ゲリラ戦を体験した彼だった。弾丸が不思議に彼の体を避けていくように、彼は敵を避けて有利に戦闘を始めた。
 智異山の酷寒零下十度を上下する風下でも、氷の大きなかけらの下でも、よくぞ耐えつづけたし、吹雪がうなる森でも千釣のように重くて疲れた足を伸ばし凍傷で腐らないように、目をかすかにつむり寝る方法も身につけることが出来た。安心し深い眠りに身をゆだねては必然凍死が待つ。闊達で勇敢であった義弟のように。河鍾其に付き従っていた連絡兵の喜宰が最初の冬にそれで凍死した。河鍾其は麦一握りなく、木の皮を噛み一週日を耐え続けたし、ひもじくなった腹を我慢できる力に替えたのだ。彼は体力を多く消耗しないでエネルギーをより少なく使う方法も学んだ。
「えい、知るもんか」
 と大の字で寝れば消耗は甚大だ。翼をたたんだトンボのように胸を組身をすくめればよい。
 河鍾其は再び夏が来て、自然と雲が多様な姿を見せてくれれば、山でもそのまま楽しかった。幼い時から糞桶をかつぎ畑を耕していても、疲れれば彼は腰を伸ばし雲を見上げることは快かった。目に慰めとなる。そしてひとしきり鳥の歌でも歌いつづければ安らかになった。

 鳥が 鳥が飛ぶ
 あらゆる雑鳥が飛ぶ
 南溟に 大鵬よ
 悟桐の葉に 鳳凰よ
 恋煩いに 雁よ
 故園を探す 杜鵑よ
 つがいになり 鴛鴦よ
 ・・・・・・
 エルファ よいやよい
 春だなあ 春だなあ
 ・・・・・・
 ああ――三千里の山河に
 鳥の便りが来たと・・・・・・

 青空の片端が痛みと怒りに揺れる彼の胸を覗き込むように見下す。空に浮んだ雲は祝福するようでもあり、智異山の山の神霊さまが作ってくれる食べられない贈物のようでもあった。時には雲が黒雲になり、討伐隊のように死神となって空を覆う。
 雷が鳴る。稲妻が峰の頂上に火をつける。そして火が出れば、雲がさまざまな形に染まり幼い時の夢をはらんでくれる。悲しむようにも楽しむようにも変貌する。雲は友達だ。そうしたものを鑑賞する心がむしろ彼が平地にいる時よりも鋭敏だ。雲は神の国といとおしく切ない大地の間に行き来しながら、パルチザンを鼓舞してもくれるし、叱ってもくれる。
「おまえたちは何のために戦うのか?」
 熱く質問を投げかけるし、
「人間の幸福は何か」
 と優しく悟らせてもくれる。雲を見る人の心によってたまにひそかに帰順する者も出るし、自暴自棄に蛮勇を発揮してから犬死をこうむる隊員もいた。智異山の霊は自由人ではない彼にあらゆる彷徨、探求、願望、欲望、愛、郷愁のような人間における永遠の象徴となって動く。
 手を伸ばせば届かんばかりに浮んでいる雲が話し相手になってくれ、この地球上に往来する場所がない「山の人」のために、パルチザンのためにためらいあこがれ、たまには栄光あるように人間の霊魂を呼び立てる役割も果たすのだ。その絶妙な自然の中に人間がどのくらいその霊魂とつながっているのか、それは神さまだけが知っているようだった。秋ごとに寂しい風にすすきがゆらゆら揺れ、丘の上に山菊の花はたくさん咲き出し、何かやるせない視線の「山の人」に優しいささやきを与えてくれるようだった。

     4

 高く低く整然とした多くの山脈となって並んだ智異山に銃声がやみ、長い歴史ははるか彼方の風の音のごとく聞こえるばかりだ。智異山の遊撃隊の三年という悪夢のような歳月と二〇年という獄苦生活は、いつも彼を回想の奈落へ落とし込んだ。
「その年の秋、私は故郷の青年六〇名を率いて入山した。咸陽川に沿い、馬川へ達しないイタン谷から急な七仙渓谷を上っていった」
 彼は七仙瀑布の近くに最初のアジトを配置した。忘れることの出来ない心の記録は刑罰だ。どう考えても髪は総毛立ち、胸の動悸はいつまでもとまらない、必死の闘争の道だった。落ち着かない人々の心は一旦山へ傾いた。山はむやみにうろたえた人々の身を隠す場所を提供してくれる雅量をもっていた。
「東学の乱の時もそうだったし、義兵の時もそうだった」
 憂いに沈んだ村の古老人たちは入山をうなずいてくれた。はるか遠い追憶も昨日のようだが、彼は一息に数万里離れたような山中へ思いが走る。それでも、若い一時期を智異山で真摯に過ごした彼だった。本当に今も火の塊のごとく衝き上る衝動におのれを支えることが出来ない時がある。生き残ったために最も目に涙がうるみ灼きついている光景は、久しぶりに故郷の近くの山頂の伽耶山脈からながめる野だった。一九五〇年初冬、智異山の東部の伽耶山の東部の伽耶山地区を襲撃する時だ。
「幼かった時、ぽこっとくぼんだように野山にたまった私の故郷の湖には魚も多く菱も多かったが、溜池には蓮の花が香しく咲いたし、田植えの時ならば蓮根も掘って食べた」
 なつかしい野は黄色かかった色彩から白雪におおわれた風景に、それが再び年が変わり鮮やかに色付いていき、しばらくしてから野は実り、濃い黄色になっていく。それほど歳月は山の中では早かった。孤立し切迫した歳月であった。そのような野の風景の流れは結局、時間の流れの象徴にすぎなかった。歳月が彼を山中に囲っておいているためだ。しかし、彼は乾草の山にめらめらと燃える火の道みたいにぐいと突き上る闘争の意志を一時も忘れなかった。胸元に火の玉を注いだように熱くなれば、すぐ火の玉が何であるかを知るようになった。山での河鍾其は政治副司令官として火種を隊員たちに蒔きつけることをしてきた。憤怒に火をつけることだった。
「とにかくすることがない。遊んで生きねばならない」という固定観念の破壊と新しい創造が山での政治学習の要点だ。「すべてのものが人民のために、民族のために、独立のため」だった。
 智異山からの冬風は毎年そのように刃の歳月を迫ってくる。その風は雑草もほとんど見えない禿山の細石平田のようなある山の背から谷間へ、野へ吹きつけていた。チョッテ峰(一七〇四m)の南側のゆるやかな丘陵地帯の細石平田は木がない。晩春にはつつじとしろふみつつじが幾山にも見える荒涼とした小石の平地だ。
 ある山裾の風は喊声となり、木の枝を揺すぶりつづける。谷間へ野へ討伐隊の突撃隊のようにかき混ぜていく。「山の人」である河鍾其は度々うなじを垂れねばならないほど、射た矢みたいに風は引っかいて飛んで行く。はるか眺められる山裾まで灰色に蹲らせて見える。目につく近くの美柳も樅も真黄に色あせている。
 その葉はたちまち投げつけられるようにつややかな木の枝から落ちていった。その風景をじっとながめてから、落葉がそのまま身動きの出来ないパルチザンの運命だとまで思ってみたのだった。そのように一、二の村の青年たちは武器を持ったか持たないかのうちに、討伐隊の迫撃砲とMI弾と手榴弾の破片に当り息絶えた。手足がなくなった負傷兵、腸がぐちゃぐちゃにこぼれ出た隊員、ごっそりと顎がなくなり、目玉がなくなった隊員、そうして智異山のあちこちの野戦患者収容所(患者棟)は血だらけの超満員だった。まるで山を動かすような呻き声なのに、山には薬品どころか麦米が底をついてから久しい。しかし、討伐隊は秋の葉っぱのような「山の人」には強風だった。
「ああ、その時大成谷の戦闘で凍傷のため動けない南瓜の花同志がめいめい手榴弾で自殺した凄絶な光景、地獄も。赤い血は真白な雪原の尾根を染めていた」
 花開川上流の新興村から十五里ぐらい上っていけば、大成谷だ。七仙峰(一五五六m)下の山脈の西に大成谷を成し、同じ山脈のチョッテ峰の下が細石平田だ。徳坪峰の南の谷間に位置を占めた大成谷は火田民村があちこち置かれていた。大成谷から高い嶺を三十里を越えていけば、東に火田民も稀な細石平田が開かれている。
 背負袋の中の麦粒と塩粒を噛む味をこの世の中で最もおいしい食物と見なす「山の人」に智異山の強敵は何なのかといえば、冬将軍の来襲だ。凍傷で腐り内出血した足が、あたかも薪のように火に熱せられた鋸で切られる。その薪は悲鳴を上げる木の切れ端だ。それは単に冬将軍の勝利の標示だった。冬が本格的に智異山に近づけば、骨の中に染み通る暴風が氷みたいに冷風を乗せて、当然討伐隊以上に「山の人」を強打する。全身はぶるぶる震え歯はなぜかがちがちぶつかる。幸いにも上の洞穴の固定アジトに体を休めるとしても、山小屋とか、岩の隙間に寄りかかるテントの幕間とか、呼吸するたびに息がぼおっと立ち上った。「山の人」たちは足を踏みならし、手先と足先にある程度血液の循環がよくなるように手を熱心にこすらねばならなかった。そうしてこそ、銃を撃つ指の凍傷を予防することが出来た。靴が雑巾になりすでに凍傷にかかってしまった足の指は自分の肉ではなかった。ハンセン病患者のそれのごとく解氷とともに治っていくのは明らかなことだ。
 冷気の雪夜に一緒に歌う低い「パルチザンの歌」は感動と現実感と未来に対する恍惚感を与えるが、その声は北東風に乗って銃傷を受けた智異山の獣の痛哭のように聞こえて来た。

 太白山脈に雪が降る/銃をつけよ 敵だ/吹雪は密林にうなり/胸の中に血沸く/高山を越えまた越え/雪に埋まり消えた道を/・・・・・・

 歌が終れば山中学習が時たまあった。河鍾其は政治担当の任務だった。
「人民大衆の力が歴史を動かし資本主義は自己矛盾と分裂で滅びる」とまったく同じアジプロを繰返した。李鉉相の訓示もあった。
「同志の一人ひとりが貴重な存在だ。戦いに勇敢であっても人民共和国のためには生命を惜しめ」
歴史は山でも流れ、野地でも川の水のごとく流れた。時代は英雄も作り出し反逆者も生きるものだ。政権の集団は法を作り法の前に万人が平等ではなかった。法は時々、金の侍女であった。黄金は時代を支配してゆく。逆賊謀議が成功すれば一躍大統領になり、その権力を守るため昨日の友が投獄される。北では南労党主朴憲永がアメリカのスパイという罪目で猛々しいシェパード犬に噛まれ、ついに銃殺されるかと思えば、血の粛清の果てに新しい王朝は鍵を握った。
歴史ははっきり言えば、川の水だ。四・一九もあった。五・一六も起こった。そして智異山を守り流れる南江、蟾津江など山河は元のままある。
「民族の分裂があるかぎり、私には祖国がない。ただ山河だけがあるのみだ」
このように文を書いて西大門でとらえられて来たピョンジュという作家に、彼は刑務所で会った。彼も一時は伽耶山地区で「山の人」として吸収され翌年に下山した者だった。
河老人は西大門刑務所から安東刑務所へ、清松監獄所を経て出所する前、光州刑務所で刑期を合計二〇年終り、つづけてソウルで放浪生活をしてやっと泰陵近辺で腰を落ち着けて生きる。
日雇いの工事現場で、または社会福祉団体の申請をし、そして小店を作る時まで独身で自分を頼りながら生きていく。
「今日の人間がやっている状態がどれほど堕落したか。自分さえよければ人はどうなろうと知らない世間だ」
 血のついた歴史の長い回廊を歩いてきた凄切さを反芻しながら独白する河鍾其老人は、邪魔者のような町はずれの都市人になっていた。「解放のどん栗」、彼は都市で多くの犯罪事件が洪水みたいに氾濫していることを目撃する。殺人、強盗、強姦、誘拐、いかさま、詐欺、都市の横丁はちんぴらの王国になった。婦女子の拉致人身売買まであれば、都市はただの犯罪の巣窟だ。警察は体制の擁護にばかり目を向け、民生治安には手をさし伸べない。
 飲食店なども旅館でも精神が腐り、騒ぐ若者が集まれば花札の仲間となって「コストプ」とかいう亡国遊びに熱中し、屋外の運動者には世界でも稀ななんとかいう奴の職業運動の競技団が生まれて、スリルに満ちた空声をあげ若者の心と魂を惑わしている。理髪所で知るようになった某中学校長の言葉はそれでも良心的な民族教育を心配する。
「学校予算というものは上部の指針に従い決定することになっています。運動場の予算は年八百ウォン程度策定されていても、本当に学生たちに必要な文学、科学、図書費は皆無のようなありさまだ。オリンピックゲームが民族を復興させてくれたというのか。わが国でも文学や科学者のノーベル賞一つぐらいは出なければならないのではないか」
「魚屋の恥さらしはイイダコがみんな言うそうだ。新聞で某学者が本を読まない国民は創造力がなくて文化国家ではないと言ったそうだ」
 河老人は理髪店の若者の声にも耳を傾ける。北にいる時、共産党員として自分は質素さと厳格さ、そして目的の確固たることを印象的に受け入れた彼だった。南側の単独政権の李承晩政権と後続政権の高位層の腐敗は平民たちの眉間をしかめさせたが、思いがけなく言葉が食い違えば北傀の称賛鼓舞と誤解され、反共法によって鉄杖で処せられることをよく知っていた。特に反米思想は共産主義と誤解された。
 河老人はどこでもいつでも他人が社会批評で騒ぎ回ってもにっこり笑ってばかりいる。沈黙は保安処分者の身にはまたとない保身の策になるのだ。
「最近は北側の奴たちも特別な運がないかと見える。党の高い地位にある人は米飯を腹いっぱい食べ、下層はとうもろこしでどうにか腹を満たすんだってば」
「名付け父か、父母か、首領の教示が即ち法だ。あらゆる人民の行動を束縛するから、どうして安心して生きられますか」
「南側では軍事ちんぴらが権力を握り自分の思いのままだ。北側ではあらゆる国家機関を労働党がつかんでいるし」
「南側も北側も銃を持った奴が君主さまと皇帝だ」

 ソウルまで必死の下山野道はとにかく成功した河鍾其だった。ソウルは限りない陰謀が隠れている大路の道がいっぱいある。しかし、その年の冬の鍾路で地下要員と接触してからすぐに逮捕される身の上になった。河鍾其を智異山で見たことがある自首した「山の人」ひとりが彼を発見したのだ。彼は逮捕される前の九月に李鉉相司令官の自殺の知らせを聞いた。新聞紙上で見てちょっとやそっとの落胆ではなかった。山が崩れる気分だ。
壊れる物が壊れ踏まれ、曲がるものはすべて曲がったような四分五裂した気持ちだった。世の中に撲殺してしまうものが再びあるならば、すっかり撲殺してしまった思いが革命的勇気と知恵の計画活動を一度にすりつぶしてしまった。重要なことは李鉉相司令官が智異山に健在というところにある。
「人間というものは美しい死を選ばねばならない」
李鉉相司令官の人生哲学がそのように河鍾其の霊魂の領域まで占めている。
ソウルの路上には正午の太陽が残暑となってあたかも「山の人」より無慈悲に射していた。戦争中、地方へ疎開していて戻って来た住民たちはどの人であれ、共産党の間違った赤い言動に汚染されることを心配し、都市の正体不明の人とは接触をはばかっていた時期だった。一九五三年休戦になった秋もそうだった。
河老人は初めの十年間の獄中暮らしで「大丈夫の男が意志を変えるのだから」と言って、あたかもキリスト教の信者が十字架を踏む苦しい心を責めるかのように、心の底で自己批判もした。監獄にいる間、彼は山で死んだ者たちにまたひとつの罪を犯す背信的な思いで憂鬱であった。
「夏には麻の着物を着て、冬には綿入れを着換えるように、智異山の高山地帯にも初夏ならば、野生の花の童子花が血のごとく真赤に咲いた」
粗末な甕の器のような河鍾其は全力で自分に言い聞かせる。
獄中の夜はゆっくり流れる。智異山の索漠がそこまで押し寄せて来たようだが、強い風の音は聞こえなかった。智異山の紅葉はむしろ非常に恐ろしい死の沈黙だ。夢の中では迫ってくる機銃の音にも、木の枝の間に時々聞こえて来る郭公の鳴き声があるだけだ。
夢うつつの境にも覚めている時みたいに耳に慣れて来る郭公の鳴き声はかすかになり、哀れな死神たちの乱舞のようにゆらゆらと揺り動かす。彼は急に起き上る。覚めてみれば牢獄の部屋だ。汚れて浅黒い囚衣をまとった罪人たちが世間を知らず寝入っている。彼は不意に悲しみのようなものが煙のごとく湧き上る。消灯した監房ですべてのものが急に死と連携しているように見えた。胸をぎゅっと締めつける悲しみがたまってくる。彼は声を出して泣いた。泣けば泣くほど悲しみは大きくなる。彼はついに荒々しく息づいた。
「太陽が西から上る野郎の世の中。広島みたいに今すぐ原子爆弾でもどんと破裂せよ」
 彼は息が詰まりそうになり、嘆息でそのように叫ぶ。神さまが聞いていようが看守が聞いていようが、二度大声で叫ぶ。そうしてこそ、ふさがれた息が堂々開かれ、すがすがしっくなるようだった。
 接触しようとした地下組織が当局の監視網に引っかかりとらえられた時のことだ。人が拘束され罪状を調べようと捜査官の拷問が続けられる間、肉体的精神的な衰えを招来する。そうした状況では誰もが肉体的な不利と精神的な混乱におかれ、屈服し服従するようになることは分かりきったことだ。しかし、彼は捜査官の前にぶるぶる震えることもなく堂々とふるまった。
「私は咸陽屏谷の出身のパルチザンだが、智異山の『山の人』としている間、咸陽地区に『補給闘争』に出たことが一度もありません。郡警が逮捕した他の『山の人』の調書に一度でも私の名があがったならば、私は私の罪を認めます。咸陽では河鍾其という名の三字は忘れられた名です」
 戦闘では分からないが、田舎の哀歓がこめられた自然部隊六七〇〇個もあるところに殺人放火のようなことが起こらなかった。懲役十五年の求刑に十年を宣言された。やっと服役して出た後に再び社会保護法が生まれ再収監された。合計二十年。
「私は宣言を受け『山の人』としての行為に対する勲章みたいに獄中生活をしたなあ」
 河老人は抵抗もない贖罪もない、のっぺりした感情を抱いていた。

 河老人は田舎道をバスで走ってくる間、昔の山へ野へ時間と空間を遡る。祖国の独立と民族のため革命という美とロマンに幻惑されてから若い一時を山で「山の人」として過ごし、それによって再び都市の監獄から別の郡市へ転々とした刑囚の途上で、人生をざらざらと消費したことをつくづくと考える。

 数十年が流れ去ったが、順福と訣別し彼女を日本軍の挺身隊に奪われ、無事に故郷の村に残せなかった後悔のために、入山した空しさだけが今でも胸の片端に残っている。次第に近く見える天王峰が流れ去った記憶を吐き出す。家族の受難、逼迫された人、貧乏に苦しんだ人、戦場へ追い立てられて行った若い群像だち、彼らすべての悲しみは他人の国、植民地として国を奪われた公平でない世の中のせいであったと骨身に痛いほど染みる。思想と理念というたぐいは犬の角や一部識者の風月みたいに役に立たない。外国野郎ならば、歯ぎしりするほど腹が立つ。この記憶は彼をいっそう確固不動のものとして山での闘争へと固めていった。
「ああ、山でまさに底をさまよい回った時はたまげた。討伐隊が智異山じゅうにいっぱい満ちていた。南から眺める月も北から見上げる月も明るくまったく同じだ」
 北へ残して来た二番目の女の子は息子と同様、三八度線の向こうに別れ、互いが離散して生死すら分からない。
「あれが立派に大きくなったら、たぶん三十歳を越えただろう」
 故郷に対する郷愁は戻れない順福と青春への郷愁が加わる。あきれ腹が立ち考えることさえなくしてしまう。しかし、彼女は故郷の中身のごとく柔らかい。彼女がしばしば鼻歌をよく歌っていた民謡が胸を切なくする。

 咸陽の山川の水車 水を抱きしめ回る/わが家の愛しい人は 私を抱きしめ回る/智異山の葡萄、猿梨の実ぶらぶら実ったよ/丹城野に綿花の房 にこにこできたよ/京湖江の金魚は ぽちゃぽちゃ肉がつき/智異山の紅葉は 色とりどり染まったよ/

 屏谷の野の後山の渓谷で香しい五月の野茨の花みたいに咲き出た彼女はそっと言った。
「五月に今愛したように十月にも私を愛するか?」
 その十月は行き違い、河鍾其に永久に来なかった。彼女は疑いに満ちた瞳をめぐらした。
「河さん、戦争はいつ終るの?」
 貧困とひどい生活の中でも美しくやり甲斐のある生を続けていこうという彼女の家だ。
「ああ、歴史はこのように虚無であり人生はこのように終ってこそ正しいのか」
 河老人は楽しまねばならない帰郷の道がむしろ厳しくうら悲しい。しかし、いざ故郷の地へ入り立つや、心が混乱ししきりに激しく揺れるのだ。
「私は死罪を得た大罪人だ。大馬鹿者だ」
 屏谷黄州洞村は野山に取り囲まれた野原の町はずれにある。さらに天王峰は遠いため高く手招きすれば答えるようなところだ。南の裾の法界寺の谷間にニガキ、トネリの古木が高くそびえて生えているところではなかったか。やせた丘が村の背後にあった。屏谷川を渡れば、日光に背筋を伸ばした山の尾根がなだらかに波立つのが見られる。山裾に点々とおかれた民家、その中のひとつがわれわれの家だったが・・・・・・時々、人が畑の間を通り過ぎる。一体生が何であり、国という存在は何か? 世の中はごみを作るところか? 彼は渡り鳥のようにぶらっと葦の村に帰って来た後、「ああ、そうだ。そうだった」とひとり自認する。しかし、死んだざまで生きていたくない。
 空中にいっぱい満ちている夏の日光はかすかな光を帯びた。光ははるか眼前に展開する天王山に強く打ち込まれた。この巨大な内陸を沈黙の世界へ導いている。日光は今までソウルで感じ見ることのできない神秘のベールに変えている。天気が蒸し暑い。
「私の脇をかすめて消えた順福は失ってしまった喜びだ」
 なじみのない感覚の一条の風が数多くの追憶の粒子を抱き天王峰から吹いて来る。野の端にながめられる村落は、灰色に暗くじめじめしている。心が暗いせいか。その目には野の風景は昔と違わず変わらない。六月の空は三十年前のその時のようにまばらな白い雲を天王峰の上に浮かべ、目が眩むほど深く見える。夜空の星の光さえ見ることの出来ないソウルの空とは違い、深さを知ることの出来ないほど穏やかに新鮮に晴れ渡っている。水が腐り、風が腐り、人間まで腐っていくソウルとはまるで別天地のようだ。河老人は地下鉄の混雑と町の都市人の忙しい日々でスモッグに遮られた空に、雲が浮んでいる意味を失っていることを痛感する。田舎の空には、雲が灰色にも白色にもそれが歩いていく豚の夢のように浮かんでいる。村の薄青い、そして淡い周りの山々はそれを囲っている自然堤防のように保護している。ふりそそぐ日光も清明すぎてあまりに青い。
「ああ、故郷だ」
 村の入口の前に着くや、老いた欅の木の切り株は古木らしく歳月の皺寄った筋肉がしわくちゃに刻まれていて、幼い頃に木に上って蝉をつかまえたことを思い出す。しかし、よく調べてみると過ぎた日にかすめた銃剣で傷跡だらけであり、木の皮によって昔話を刻みつけている。
 欅は枯れ、むやみに殺された真の暗黒の歴史をよく知っているという老いぼれた素振りで、ややかがめるように背と腰を曲げている。過ぎ去った歳月、刑務所から出て来て三十年間も、彼が故郷に足を踏めない理由を老木は語ってくれているようだった。
「ああ、いつか南と北が一つの血で平和に統一することを、太平聖代、その日が来れば同じ年の甥の河準奎は罪名が晴れて国と民族を愛する民族主義者として再評価が下されるだろう」
 河老人は人気のない村の狭い通り道から河準奎の生家であった愚洞五間の瓦屋の古家を訪ねて行く。門札は別の河氏の門中の家族の名に変わっている。応接間の棟はとられてなくなり、がらんとした庭を越えて母屋が昔の様子のままにあった。しんとして人気もなく、庭は雑草が少し生えており、応接間の棟の場所の一方に茨の木と桑の木が四、五本中背で植えられている。
「誰もいませんか?」
 農繁期だから人が家にいる訳がないようなので、河老人は河準奎が使っていた書斎の一部屋をガラス越しにしきりにのぞき込む。このくらいならば、農家は空き屋同然だ。石垣の道に沿い故郷を行けば、どれほども行かないうちに、柿の木が高く枝を刈り入れて赤くちびたブリキ屋根の家はそのままあった。見馴れた家だ。声もなく庭へ入り立つ河鍾其を見ながら、幼い頃にままごとの道具で遊んだ友の河千植夫婦が野菜を手入れしてしまい、仕事の手を休めている。昼間に現れたトッケビの化物でも見るように目をぱちぱちさせる。訪ねて来た客に河千植老人は中腰の姿勢の腰を伸ばす。
「千植ではないか」
「これはどなた、おお、鍾其ではないか」
 土間へどさどさ下りて来ながら、手探りし、わしずかみに手を取る。
「あんたはわしが死んだと思ったのか」
「知らせもなくどうしたことや」
 急に雰囲気が鎮まった。二人の老人は涙をためながら、日光がいっぱい満ちた板の間に坐る。河老人には心を開き付き合った千植だ。
「おばあさんも本当に久しぶりですね」
 おばあさんはびっくり仰天しそうな態度で体をのけぞらす。
「どうなすってた? どうなすってた?」
 河鍾其は久しぶりに本当の故郷の方言を聞く。幼い頃聞いた方言は即ち故郷だ。河千植老人は河準奎に従い徴用を避け智異山中の鶏冠山へ入っていった人だ。彼は河準奎の抗日部隊普光党の旧パルチザンの一人であった。そうして、李鉉相も解放前に智異山ですでに知っている間柄だ。足に銃創を受けてびっこを引いたおかげで、一九五〇年秋に村の青年と一緒の入山を断念した経歴をもっていた。河鍾其は瞬間、塞翁の馬の生きた実物と考える。
「やはり人間とは運命の子だ」
「お前、生きていたのか? 生きていたのか?」
 河千植老人は「歓喜」煙草を一本吸い噛みながら軽い咳をした。
「千植、村へどうしても来る面目がなかった。人が恥ずかしくて顔を上げて出れようか。大罪人だ。大罪人だよ」
 河鍾其はうなじを垂れながら馬鹿みたいにわんわん泣きはじめる。
「なんということをおっしゃるのか、泣くのをやめなされ」
 千植の妻は切ない気持ちで彼をかばってやる。
「これまでどこで生きていたの。こんなふうに知らせひとつなくて」
「えい、あんた、わしがどんな面目があって生きていると知らせを故郷に伝えられようか。郭公が鳴くたびに死にたかったよ。山で聞いた郭公の声に・・・・・・気苦労をとろかしていく。わしの耳にはいつも郭公が鳴いたのだよ。はあ、けど人の命はしぶといようだ」
「よく来たわい」
「わしが恥もなく故郷を失ってしまった失郷民になったつもりでこっそりと生きたなんて。こぼれた水さ。そうだとて、どうして宗家の河準奎の山のような恩を忘れようか。新版林巨正ではないか。彼は私が出て来た後、五四年七月ソウルで死刑に処せられたとだけ知るばかりだ。優れていて惜しい人材だった。あの人に比べてわしは世の中を空しく生きた。間違って生きて」
「そうや、河準奎が五三年一一月に大邱に潜入していたが、誰かの密告でつかまった。秘密の知らせが来て、彼の父の河宗沢さんは残った田舎の田畑と竹林をそっくりそのまますっかり売り、子供の命ひとつを生かそうと救命運動をしたのじゃなかったか。しかし使いで行った弟であったか、ついに当局にしっぽをつかまえられるはずみに機会を逃したから」
 河千植は耳打ちをする。
「大邱に身代わりの人質は出来なかったの」
「そうじゃろ。誰でも生かせばどうなるか。こらえねば。多分、その時が五四年一月のことやろ。死んだ日にその事件は新聞で大きく報道された」
「家には子供さんもいないの。息子たちは他郷へ出かけている様子なのか?」
「子供だなんて。子供がいないのがいい運勢というさ。昔話ひとつ子供にする気力もないわ」

     5

 坂道に一度転がりはじめた車輪は止まらないように、河鍾其は初めて積もり積もった思いをほぐす。二人の老人は世を語り明かす。
「望郷の思いは濃くなっていっく朝焼けのように胸をこがしながらどれほど待ったことか。聞いてくれよ。千植、今は老いて気力も衰え視力も弱いけれども、若い一時を人民と民族と独立という栄光のために智異山で、監獄で熱く愛で燃えていた。みんなが帰れない町角から私ひとり帰って来て、あの般若峰の落照に咲く朝焼けの花を見る気持ちだ。なにげなく咲く朝焼けみたいにわが民族的愛は重さも形もない色彩として残り、郭公の声の中にこの野の一角の丘のてっぺんの雑草を息づかせる草葉の葉緑素にでもなっていくのか。
 千種類を越える智異山の草木、いっそわしも死んで天王峰のあの松の木、あの樅の木、せめて大成谷に生きる名もない一本の木にでも、せめて萩の山のその青さにでも育っていく肥やしになったならば、・・・・・・幸いにも双磎寺の上方の佛日瀑布で小さな木に化身し、もの悲しい郭公の鳴き声に耳を傾けて、でなければカル岩の近くでもよい、いつかうっとりした天王峰の日の出を見ようと中山里渓谷へ登山する若人たちの道標になってやろうか。荒山で老古雲海のように浩然の気と愛と友情をはらんでいるところ、智異山には畏敬すべき人を引き寄せる鎖があったのや。
 山頂に血みたいに咲き出た細石平田の赤いクロフネツツジはしおれ、秋の智異山の彼我谷の紅葉にでも、枯葉となって風にもだえわしらの記憶がすべて消えてしまっても、智異山の華厳寺の土となり七仙渓谷のまるまるした岩山ドルメンにでも、百巫谷の烟霞仙境に隠れている香りにでも、あるいは山頂で胸いっぱいで眺めた蟾津江の清流の一筋にでもなって残っていたい。
 わしが生きてあの郭公の鳴き声が山じゅうに鳴きわたり満ち、みな帰っていくあの尾根の道にわしも力を合わせる日が来るか。そうした日、わしも智異山の峰の分水嶺、碧宵嶺の月の明るい夜空に星ひとつとなって浮かび、再び郭公の声を聞くようになるやろ。おかしいか、千植、わしは意気地のないつまらん男になったなあ」
「鍾其、あんたの気持ちは分かるとも。わしもかつて経験した『山の人』ではないか。おまえに比べれば天と地の差はあるけれど、鎖を断ち生きよ、鎖を! くよくよせずに」
「そうや、大勢を知っておる人ならばわしの意志を分るやろ」
 年を取れば夜はますます長い。二人の老人は夜を明かしながら、離れて生きた歳月を少しずつ話す。
「あんたが入山する頃、実は言葉ははきはきしていたけど、住民たちはまさかと思って信用しなかった」
「知っている。死人は死人ですから言葉を話せない。しかし、わしが経験した戦闘はすべて頭に染み込んで忘れることが出来ないが、その中でも五二年を越す大成谷の最後の大決戦だ。天地がすべて凍りついた智異山の徳坪峰、チョッテ峰が白く雪をかぶっていたな。あんたも知るように、智異山は十月であれば雪が降らない。並はずれて冷たかったその日、ひどく曇った天候に加えて雪が降ったり止んだりした。その年の十一月二八日であったやろ。数十回の智異山の戦闘のクライマックスとして長く長く忘れることはできんやろ。
 双方とも残るに足る、戦慄すべき戦史の記録やろ。慶南道党李英熙の残った部隊も追われて来て、わが南部軍はその時二〇〇名ほど集合していた。あんたも見て来たように、高山地帯は同じ植物が平和に群居していなかったか。しかし、パルチザンは群を作れば不利だと知っていたけど、そのようになった。食糧はなくなり、五日間食いはぐれた。久しい間、麦の薄い粥もなかった。大成谷の包囲網が絞られた時、ふりかえれば四方の稜線に雪が白く積もっていて雪風がたたきつけ、ぴゅうぴゅうと降りしきる雪が頬を打った。視野が木の間に霞んだり晴れたりした。どうあろうとも包囲された大成谷の一点のその地点をくぐり抜けてこそ、徳坪峰を越えてくねくねとつづく北方のピクム峰を出て「補給闘争」もすることができる地平であり、そのため「山の人」を助ける民衆部落は掃討された。チョッテ峰から北へ二里向こうに天王峰が見えるのや。それゆえにまた有利な隠れ場を新しく用意できたのや。死か生かの決断に前方の中央を突破せざるを得なかったし、その当時には「山の人」に勝算も希望もなかった。
 しかし、あの前の稜線の高地を奪還してこそわが部隊を通過させられると、作戦会議で李鉉相司令官は決断を下した。生命を賭けやっとのことで過ごした五日間やった。前方の稜線は切り立つような二百メートルほどの距離にみえたが、山谷すべてが白雪に変わっており、一歩間違えば足を踏みはずし断崖へ落ちるようになっていて「道をはずれれば大変だから手を使わねば」と隊員たちの考えもみな同じやった。だから、夜の奇襲攻撃はかえって兵力の損失が多くなるようやった。それでわしらは真昼に敵の意表を突くつもりで部隊が持っている白い布切れはすべて集めて、先発決死隊二十名に白服をぼろでまとい着せた。
 幸いにも雑木が隠蔽物になってくれた。十名は右側へ十名は左側へ分断攻撃させた。稜線には討伐隊が一小隊ずつ集まり火を起こし焚き火で寒さを防いでいた。匍匐隊がこっそりよじ登り、奇襲で機銃掃射と手榴弾の洗礼を一度に降り注いだ。その修羅場になった間をわしらは息せき切って這い上りながら、血路を開くのに成功したけれども・・・・・・。
 ああ、そうやったな、凍傷にかかりよたよた歩きながらすばやく動けない痩せた隊員たちと、特に南瓜の花同志の女性部隊は飢えた体に足を引きずり、部隊員たちはすでに稜線の上へ走っていくが、その同志たちを四方から挟撃してくるのでどうしたらよいか分からなかった。ああ、口にもできぬほど可哀相で見ていられなかった。南瓜の花同志の彼女たちはすべて手榴弾で自爆しその場に血の海を作っていた。こちらでボン! あちらでボン! 炸裂する爆発が山裾に響き渡り、木の枝はめちゃくちゃにつぶれた。
 わしはその時、稜線の山頂で同志たちが一名でももっと這い上ってくることを願う気持ちから、援護射撃を浴びせた。河さん、なんてこった、いきなり激しい吹雪がおこったから、血の臭いのする死体をあっという間に埋めてしまった。今あらゆる視野が嘘のように白色の雪原に変わるではないか。占領した稜線の両肩には目測で千百名ほどの討伐隊の死体がずらりと並んでいた。
 わしはその時、血路を開いた勝利感と安堵の息よりも、殺傷された若者がアメリカ軍ではない同じ民族であることに胸が痛かった。ああ、哀れな同胞たち。わしは率直に言って、敵愾心というものは微塵もなかったということが不思議であった。同じわが血族なのにと思い、涙がむやみにあふれた。敵という感情はなかった。民族という同質性の情は熱く大切なものではないか。自ら平和ならば、将来大きな力になるはずなのにと思った。民族の相争いで体験した山上の教訓であったと言うべきか」
「あんたが何を言うかすっかり承知だ。これ以上言わなくてもよい」
「いいや、誰にも言わないその現場の歴史を潔くあんたには聞いてほしかったのや。今まで世間が誰も知ることが出来ないことを。その瞬間にはわしが生きるために殺すことはしたが、死者はパルチザンであれ国軍であれ、ともかくそうしたことが問題でなく、智異山に参加した若い魂たちが可哀相やった。わしは散らばっている死体を見て、ぐっと悲しみを飲み込んだ。ああ、誰のための悲しみか、それはまざまざとわしの胸に息づいている」
 河鍾其は気が抜けたようにつぶやいた。
「鍾其よ、すべてが日本野郎でもない同胞ではないか」
「敵が引き下り後退した後のわしは山の背で、案の定誰が誰の仇か訝ってもみた」
「真昼の敵前逃亡作戦なので、大変やった。昔から戦場で互いに死ぬ者は死に、生きる者は生きる運命は神の意志や。智異山の闘争がついに苦痛と恥辱で終った場所に、今日のわしのようにあんたを見るさえ恥ずかしいことこの上ない」
 河鍾其は夢が幻想のすき間を通って現実へ歩き出すように言う。
「咸陽のモスクワと呼ばれたわしらの村も大いに変わったことはあんたも見て知っているやろ。咸陽の地でもひときわ入山者が多かったわが村の全ての災難こそ今さら話してどうなるものでもないが、びっくり仰天さ。家がなくなり空地だけが残った。踏みにじられた野の草や。肉身があるからと言って、みな人間か。人間の待遇を受けてこそ人間や」
 その年の秋、いたずら鴉同然の国軍の兵士が非常に暴れ回っていた。
「夫がいつ来て帰ったか」
「来て帰ったって?」
「夫のことを話さなければ、おまえの家に火を付けてしまうぞ。分っているから言え」
「火を付けるって? 夫が来ますか? 来ますか?」
 銃剣を持った人と若い女房の殺伐とした対話だった。
「けなげにもわしが死線を越したけれども、わが宗家の家がちりぢりばらばらになったのや。わが先祖を祭った祭閣を見るのが恥ずかしい」
「わが村で河準奎の死は、彼がたとえ南朝鮮韓国には反逆者であったとしても咸陽が生んだ風雲児であり、英雄一代、咸陽の地に解放と自由と独立の風を起こした。英雄はどのように死なねばならんかの心得を示したのやないか」
 二人は一晩を明かしながら、三十年漂った非常に長い忘れられない思いをほぐす。
「思い出して今更どうなることでもないが、わしの甥の喜宰はどこでどのようになったのや?」
「言うことは何もない。郭公、幼い郭公よ。こうしてわずかでもあんたに打ち明けたから、わしはもういつ死んでも思い残すこともないわ」
 河鍾其は感情の早瀬に溺れ落ちるように声を落とし、これ以上言葉を引き出すことは出来なかった。瞬間、河千植の顔に寂寥と苦悩がかすめる。根掘り葉掘り聞けなかった。
「一体わしがやって来たのは、明日豚の頭でもひとつ煮て部落共同慰霊祭を行ないたくてやって来たのやないか。これまで一文二文集めておいた金を持って来た。贖罪し謝罪する意味でどれほどもならない銭だけれども、独守空房の寡婦になったわが村のおばあさんたちの余生に使いたいというわけや」
 河鍾其はなんとかして眠ろうとしたが、夜明けまで眠ることは出来なかった。しばらく目を閉じた間、夜明けに夕立が降り注いだ様子だ。
「人間がある理念や何か思想で生きる存在でないのではないか」
 河千植は言う。
「こうして生きてみて、人間が作り出した制度から創造されるものもないわ」
 河鍾其の返答だった。
 枕元の蚊取り線香はみな灰になり、切れ切れで皿に落ちていた。ブリキの水受けから水が落ちる音さえ山で息を引き取った友たちの臨終の息づかいのように聞こえた。夜明けの雨が止んでからもどれほどにもならない様子だった。
 明るい朝の道には戦争を知らない子供たちの歌声が聞こえ、故郷は生きて呼吸していた。
「私の暮らした故郷は花咲く山里 桃の花 杏の花 小さいつつじ・・・・・・」
 その日の午後、頭髪がネギの根のように白く変わった数十名の白髪のおじいさんたちが集まって来た。雲峰の地引月からも休川からも、漆と木器とじゃが芋で有名な馬川郡からも来た。
「一体どうしたことか?」
「何だ?」
「生きていたのか」
「仇を見るように見ることもない」
 と言いながら合同祭祀の知らせを聞いて、晋州から到着した遺児たちもいた。合同慰霊祭が堂山木の下で、盛大に取り行われた。生きていく嘆きのあまり、かつて死別した夫の爪痕が喚声となって屏谷村にとどろきわたった。
「いつ帰ったの?」
「これまで元気だったんか?」
 と互いに挨拶もなくとっさに咽び泣いた。郭公の鳴き声がまた血を吐くように、屏谷の山野に「かっこう、かっこう」と言う。あの世へ流れ去った時間まで呼び寄せ揺れ続ける。
「あの声や、あの声、死んで行った魂がはっきりとあのように郭公となって生まれたのや」
 河鍾其の泣き出しそうな声に
「こいつめ、よい世の中が来いと鳴く郭公の声は生き残った人のためにあるのだよ」
 河千植は涙を流しながらさえぎる。
「少ししたら、本家の家の甥の河準奎の忌日に再びやって来ます。さようなら。兄嫁、弟の嫁、そして甥たち」
 河鍾其は白い頭を下げ、おばあさんに照れくさそうに別れの挨拶をする。
「わしが極刑を受けても言う言葉もないのや」
「後悔することは他にある。頭は言葉、名は天が下さったもの」
「山へ一緒に行ったのですか?」
「みな過ぎ去ったことを・・・・・・どんな必要がある」
「おじいさん、今は農民の間に空腹という声はないよ」
 めいめい一言ずつ言う。白髪まじりのおじいさん一人が河鍾其の手を握りしめて慰めるようにこっくりとうなずく。
「河某、河某」
 なぜか聞けば悲しくも美しい哀調を帯びたおばあさんの音声が、老いてしまった河鍾其の憂いをとかす。おばあさんは河鍾其が若かった時に見た覚えが少し残っていた。その中でも斜視のおばあさんは帰って来ない順福の友だった。
「誰の妻ですか?」
 河鍾其はまじまじと見つめるばかりであえて問うて見る必要さえなかった。一度に寡婦村になってしまった黄州洞の住民だからだ。その老女もはっきりと若い夫を智異山でなくしたからというわけだ。実はそのおばあさんはかつて夫を頼り結婚したせいで、従軍慰安婦を免れたという河千植の説明だ。おばあさんは昔、乙女の時を思い出すのかまるで順福になった様子の礼儀正しい手さばきで直会膳を整え、男を慰労してもなお残った母性愛を他の人にまで感じさせる。
「苦難の多い人生を死ぬことも出来ず泣かねばなりませんか。たとえ重罪人であっても生きようと絶えず頭に灼きついたものがあります。小店に坐っていても思い出し、立って考えても故郷は知らんふりもできず、このように訪ねて来ました」
 河鍾其は周りを見回しながらおどおどと言う。どこか屏谷の野の風の絶え間にぴゅっとポプラの葉が飛ばされたかと思うと、野のどこからか依然として夏の光をかき分けて郭公の鳴き声が心を苛立たせるように聞こえて来ていた。
「かっこう、かっこう」
 その声は誰か相変わらず血を吐き息を呑んだ嗚咽のように、河老人の耳に注ぐ。
「見なさい。鍾其よ、あんたはもう失郷民ではないよ。わしらの故郷はちゃんと屏谷ではないか。時々やって来いよ」
 河千植老人はバスに乗った河鍾其老人に手を振る。ぼんやり遠くなっていく智異山の天王峰をバスの中から眺める河老人の目には、今霧のような涙が浮かんで来た。束縛から解かれた自由な智異山は、青くまだ未来に対する魅惑を漂わせてくっきりと立っていた。
 彼はこらえてもこらえても訳もなく涙が溢れてくるのを覚えた。車窓の下にさわやかな風が吹いて来る。天王峰から吹いて来る風は若い頃もそうだったし、今日もそうであり、明日は明日で新しい風となって吹いて来るだろう。河老人の頭の中でも風が吹いていた。(完)





    柳基洙氏とその作品について
             間瀬 昇

 一九四二年四月から一九四五年三月まで、この小説の作者柳基洙氏と私は、日帝時代の京城医学専門学校で共に学んだ。そして一九四五年四月、彼は日本陸軍の軍医として、当時の満州国新京にあった陸軍軍医学校へ、私は海軍軍医として横浜市戸塚の海軍軍医学校へ別れて旅立った。
 四か月後、日本は敗れた。そして氏は、日本軍医から人民軍の、つづいて国軍の軍医として、私たちの想像の及ばない辛酸の日々を送った。私にも焼土での飢餓の日々はあったが、氏の嘗めた苦難に比すべきものはない。
 もともと医学を学びながら、氏も私も文芸への愛着を捨てきれなかった。やがて氏の韓国での文名がちらほら聞こえてきた。別れて四十五年後の同期会に、日本をはじめて訪れた氏と鹿児島県霧島温泉郷で逢うことができた。しっかりと手を握り合った。
 氏の場合、避けられずに従ったあの大戦と朝鮮戦争、その後に辿った数奇な運命が、心底からの分断克服、南北統一希求となってほとばしり、小説にその手段を求めることになった。己れが身をもって体験した辛酸から、イデオロギーの無力を繰り返し訴える。イデオロギーの強権が人民に加えられることによる数々の悲劇を、真底味わい尽くした氏の心情が、私にはよく理解できる。
 いま、南と北の截然とした政治の違いは、雪解けの日のなお遠いことを想像させるが、引き裂かれた親子や、夫婦や兄弟や、恋人たちの悲しみに訴えることで、氏は統一の日を待ち望む。魂迎え鳥ともされるかっこうを氏が繰り返し作品に描く思いを汲まなければならない。

 加藤氏が「郭公の故郷」を翻訳すると言われ、少々でもお役に立てれば、と監修させていただいた。
 四年前に「子ほととぎす」「すみれ」「かささぎ鳴く朝」「愛しい百日紅」「雲岩江日記」「思い出の帽児山」「智異山物語」と、高大中氏の訳による氏の七篇を監修させていただき、二冊の作品集として上梓したが、原文を読めない私には役不足の作業で、作者にも訳者にも礼を失した思いを抱いた。今回も加藤氏の依頼を受け、訳文の一部に少々の手を加えさせていただいたが、訳者の直訳をできるだけ尊重すべきだ、という考えに立った。多少円滑さを欠く部分もあるかと思うが、この作品にこめる訳者の熱意を汲んでいただきたいものと思う。





    訳者あとがき
             加藤建二

 本作品は柳基洙作「쑥국새의 고향」の全訳である。季刊『実践文学』(92年冬号・実践文学社)に掲載されたものをテキストにしたが、一部脱文があるため単行本の『北から来た雁』で補足した。
 作者柳基洙氏は一九二四年、全羅北道全州に出生し、ソウル大学校医科大学卒業、同大学院で博士学位取得、一九六八年に京郷新聞の新春文芸で「好老博士」が当選しデビューした。一九九〇年に「子ほととぎす」で第一回豊南文学賞大賞を受賞し現在、国際ペンクラブ韓国本部会員、統一志向文学会会長である。
 朝鮮戦争中、北と呼応し智異山で戦った南のパルチザンたちの実像は、これまで反共イデオロギーのためタブー視されてほとんど知られなかったが、一九八八年のオリンピックの年に李泰著「南部軍」(日本版平凡社刊)がトゥレ社から出版され、さらにこれが鄭智泳監督によって映画化されたりして、ようやく少しずつ明らかになってきた。小説「郭公の故郷」に登場する智異山のパルチザンの李鉉相、南道富(河順奎)、鄭順徳は実在の人物である。主人公のパルチザンの生き残りの河鍾其もまた、作者によれば実在の人物である。
 作者はなぜ「パルチザン文学」に関心をもつようになったか、次のように書いている。

 私は日帝末期の学徒兵として関東軍にいて、満州で一九四五年を迎えた。その時は日本軍軍医官であった。一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争が勃発するやソウルS病院に勤務しながら、六月二八日午前零時をクライマックスにして手術室で国軍の負傷兵の足を切断手術をするかと思えば、人民軍の負傷兵の足を切る、「左右の兵士」に一度にメスを当てた医師だった。病院にはその夜、遠く漢江の人道橋の爆発音が聞こえてきた。このような民族の悲劇を病院で体験した私はその当時、洛東江戦線へ動員され人民軍に従軍するような笑うことのできない運命であった。私の若い日の履歴は日本軍、人民軍、国軍の区別なく、すべて経験した数奇な道程といえる。混濁した歴史の中から這い出た歴史の証人として後世に記録に残したく、自叙伝的な長編小説「人間橋梁」を書くようになった。
 医師という仕事は赤十字精神と博愛主義であり、医師の目には人間の生命が見えるのみで、理念も思想も分らない。強いて明らかにすれば、私の無思想、自由主義が私の思想ということができる。したがって、現在の心情はやはり北韓や南韓同胞も、それこそ私はすべて平等に愛するのであり、同じ民族として人間愛を感じる。そうして、作家としてデビューした後、統一志向文学会を作り、文学評論家たちが言う「パルチザン文学作品」を中心にした分断克服文学、統一志向文学作品を多く発表した。私はこうした小説集にみな次のような序文を書いておいた。

  日帝時代から戦争の中で育った私が小説『人間橋梁』という戦争文学作品を書き、その一筋の文断克服文学に触手したのは、祖国の呪わしい絶望を倒すのに政治力のような具体的な力となって働こうとは勿論、期待しない。ただこの時代の作家のひとりとして私が出来ることがあれば、列強が強要したイデオロギーが突発的に設定した戦火地帯において人間の真実が何かを明らかにし、われわれの心奥に伝統的に敷かれた人間の純粋性を通して、わが民族の同質性と共同体を志向し確認していくことであろう。
  われわれが外勢に侵され、南北が極端に分離して行くその間隙を埋めていく作業が、人間橋梁的な崇高な愛と善良な生活ではないかということから微力を付け加えようというのだ。

 このような信念でパルチザン、「山の人」たちを小説のテーマにしてみると、かつてパルチザン、「山の人」の経験がある人を調べたり探したりし対話をするようになり、その人たちの生活を小説によって形象化するようになった。そうして、私の文学は真摯に実話を記録する姿勢を失わないで、これを今日一九九〇年代に入ってきてからは民族観、世界観、歴史観で再証明することを使命にした。
 私の小説の読者によっては、よくパルチザン、「山の人」を美化するという右翼意識からの批評も挙がった。また左翼心酔者たち? の視野には型にはまった反共的な小説という批判も受けたが、それはすべて作家のヒューマニズムを理解できない偏狭性から出てくるのだ。
 私の小説ではパルチザンと「山の人」たちを区分した。一九五〇年一〇月失地回復後、回文山には二万名ほど、智異山周辺には五万名ほどの「山の人」――山へ身を避けた人たち、生きるためにパルチザンに従いつづいた人たち――がいた。彼らは思想が何であり、理念が何かを知らない人たちであった。
 四十余年前、智異山一帯に自然部落だけで六千七百個が散在していた。私はパルチザン小説を通して左右の理念偏向の視角を矯正する主導的な立場でなく、私は小説の主人公の人間性を移り変わる歴史の道理に従った歴史観と人生観の変貌を表そうという立場にいる。今は勝者も敗者もなく、絶対真理も消えた世の中であるから、新しく価値観を創造しようという意志が広がっているのだ。
 序論があまりに長くなったが、私がパルチザン文学の意味を説明してみると、このようになる。今日のパルチザン文学は銃声が出てはならないし、そうして私の小説には銃声のかわりにパルチザンに変身しなければならなかった人間の意識の流れと苦悶が描写されている。      「李鉉相は自殺だった」

 主人公の河鍾其は、朝鮮戦争の時に智異山のパルチザンであったために逮捕された後、二十年の刑務所生活を送らねばならなかった。北で智異山の女将軍と称賛された女パルチザンの鄭順徳が「片足から膝がばっさり切られた歴史の犠牲者」と言われたように、彼もまた歴史の犠牲者であった。
 彼は刑務所を出て十年経つが、国土が分断されているため北の黄海道黄州に妻子がいても戻ることができないし、南の咸陽郡屏谷面黄州洞に自分の生まれ故郷があっても帰ることができない。なぜなら、彼は一九五〇年六月に故郷の六十名の青年たちをパルチザン闘争に誘って天王峰に入山し、その結果自分ひとりだけ生き残ったために、故郷の青年たちの遺族に顔を合わせることができないという罪責感があるからである。彼は死ぬことを余儀なくされた戦死者の魂の叫びを郭公の鳴き声に聞き取り、深く苦しむ。
 しかし、彼は六十歳になってある日突然に郭公の鳴き声に誘われるように、自分の贖罪のために故郷で青年たちの合同慰霊祭を催そうと、商売をして少しずつ貯えてきたわずかなお金をもって帰郷する。同じ民族でありながら互いに同胞を殺し合った戦争の悲惨な体験を、故郷の誰かにどうしても語らずには死ねなかったのである。
 解放後、河鍾其をパルチザン闘争へ激しく駆り立てたものは、一体何か。それは、甥の河順奎の「人民の搾取のない新しい国を立てねばなりません」という言葉に深く共鳴したばかりではない。日本に祖国を奪われた若者が、日帝の徴用を避けるために江原道の炭坑に隠れている間に、両親が配給された腐った豆粕を食べて死に、さらに愛する初恋の順福を挺身隊として奪われた晴らせない恨みがあったからだ。彼は今も行方不明となったままの若かった頃の順福を忘れることができない。
 彼はパルチザンであった青年からいつまでも抜け出せず、過去の重荷を負いながらソウルで孤独に失郷民のごとく暮らしてきた。しかし、時の流れも彼の心を深く抉った戦争の傷口をふさぐことはできなかった。それができるのは大都会のソウルではなく、まさしく天王峰の麓にある彼の生まれ故郷の屏谷村であった。小説の終りで、親しい友の河千植がソウルに戻る河鍾其に言う。

「見なさい。鍾其よ、あんたはもう失郷民ではないよ。わしらの故郷はちゃんと屏谷ではないか。時々やって来いよ」
 河千植老人はバスに乗った河鍾其老人に手を振る。ぼんやり遠くなっていく智異山の天王峰をバスの中から眺める河老人の目には、今霧のような涙が浮かんできた。束縛から解かれた自由な智異山は、青くまた未来に対する魅惑を漂わせてくっきりと立っていた。

 河鍾其は三十年ぶりに帰郷し、パルチザン闘争で戦死した青年の遺族と出会い、再び懐かしい故郷と結びついた時に、はじめて心の安息を見つけることができた。忌まわしい過去の桎梏からようやうく抜け出て、明日の未来へと希望を抱きはじめる。その希望とは、祖国朝鮮の統一であることは明らかだ。
 最後に、監修の労をとっていただいた間瀬昇氏に深く感謝します。




在日朝鮮人作家を読む会 200回の歩み
準備会(1977・12・15)参加者7名
第1回(1978・1・29)金史良作品集
報告者・磯貝治良 参加者12名(以下同順)
第2回(2・12)金史良「光の中に」「親方コブセ」
磯貝治良 藤森節子 9名
第3回( 3・19)許南麒『火縄銃のうた』    岩田光弘 14名
第4回(4・23)金達寿『玄海灘』       隅田善四郎 12名
第5回(6・4)呉林俊『絶えざる架橋』      余 語 潮 13名
第6回(7・2)呉林俊『絶えざる架橋』      余 語 潮 10名
第7回(8・27)金時鐘『さらされるものとさらすものと』 
安田寛子 11名
第8回(10・15)金泰生『骨片』         中山峯夫  8名
第9回(11・12)磯貝治良「境界からの光」  横田芙美子 12名
第10回(12・17)金石範『鴉の死』       竹内 新 12名 第11回(1979・1・21)高史明『生きることの意味』
      芝原由美子 12名
第12回(2・18)李恢成『またふたたびの道』   間瀬欣英 11名
第13回( 3・18)李恢成『砧をうつ女』     中山峯夫  9名
第14回(4・15)金時鐘『猪飼野詩集』     川崎恵子 6名
第15回(5・20)金泰生『私の日本地図』     安田寛子  9名
第16回(7・1)金達寿『落照』         小室リツ 11名
第17回(7・29)金鶴泳『鑿』         蔡 太 吉 11名
第18回(9・19)金石範『ことばの呪縛』     郭 星 求 10名
第19回(10・10)討論「なぜ在日朝鮮人文学を読むか」   20名
第20回(11・11)討論「在日朝鮮人文学を読むとはどういうことか」
20名
第21回(12・16)講演と討論「いま在日朝鮮人文学を」
話・金 石範 磯貝治良 13名
第22回(1980・1・20)金石範『往生異聞』   磯貝治良 19名
第23回( 2・17)金石範『驟雨』         鐘真 14名
第24回(3・20)金石範『万徳幽霊奇譚』     みたたみ 14名
第25回(4・20)金石範「糞と自由と」            8名
第26回(6・1)金石範『1945年 夏』      伊藤俊郎 7名
第27回(6・22)討論「金石範の文学について」 蔡 太 吉 10名
第28回(7・20)李恢成『われら青春の途上にて』五十樓達彦 14名
第29回( 8・24)李恢成「青丘の宿」     川崎恵子 13名
第30回( 9・21)李恢成「武装するわが子」  服部瑗子 11名
第31回(10・19)李恢成『沈黙する海・北であれ南であれわが祖国
Ⅰ』             磯貝治良 12名
第32回(11・24)李恢成『死者の遺したもの』  鐘真 13名
第33回(12・14)交流会「架橋をめざす集い」      18名
第34回(1981・1・11)李恢成『追放と自由』   余 語 潮 11名
第35回( 2・15)金時鐘『クレメンタインの歌』 羅 順子 14名
第36回( 3・15)李恢成『約束の土地』     戸谷龍夫  7名
第37回(4・19)李恢成『見果てぬ夢1・禁じられた土地』
磯貝治良  8名
第38回(5・10)李恢成『見果てぬ夢2・引き裂かれる日々』
劉 竜子 10名
第39回(6・14)李恢成『見果てぬ夢3・はらからの空』
北村和矢 11名
第40回(7・12)李恢成『見果てぬ夢4・七月のサーカス』
磯貝裳子 8名
第41回(8・ 9)李恢成『見果てぬ夢5・燕よなぜ来ない』
戸谷龍夫 12名
第42回(9・13)李恢成『見果てぬ夢6・魂が呼ぶ荒野』
蔡  孝 11名
第43回(10・4)『見果てぬ夢』の全体像    鐘真  12名
第44回(11・15)『徐兄弟獄中からの手紙』  伊藤俊郎  16名
第45回(12・13)金石範『祭司なき祭り』 浅野久仁子  13名
第46回(1982・1・10)梁石日『狂躁曲』   鼓けいこ 11名
第47回( 2・14)金石範『「在日」の思想』  劉 竜子  9名
第48回(3・14)渡辺吉鎔『朝鮮語のすすめ』  蔡  孝  8名
第49回( 4・25)高史明『夜がときの歩みを暗くするとき』
     鐘真  8名
第50回(5・9)徐兄弟の母呉己順さんの生涯『朝を見ることなく』
    本橋正男  9名
第51回( 6・20)金達寿『故国まで』     余 語 潮 13名
第52回( 7・20)成律子『異国への旅』     鐘真 7名
第53回( 8・15)成律子『白い花影』     鼓けいこ 11名
第54回(9・19)朴寿南『もう一つのヒロシマ』 吉野尚樹  8名
第55回(10・17)成允植『朝鮮人部落』    中山峯夫  6名
第56回(11・21)金賛汀『朝鮮人女工のうた』 伊藤啓子 7名
第57回(12・5 )「架橋」4号合評会     金 蓬洙 12名
第58回(1983・1・9)金蒼生『わたしの猪飼野』 鼓けいこ 11名
第59回( 2・ 6)金蒼生さんを囲んで          17名
第60回( 3・ 6)金石範『幽冥の肖像』    磯貝治良 8名
第61回(4・3)竹田青嗣『〈在日〉という根拠』 伊藤啓子 8名
第62回( 5・ 8)鄭貴文『故国祖国』     津田通夫 9名
第63回( 6・19)高史明『少年の闇』     安田寛子 7名
第64回( 7・10)李恢成『サハリンへの旅』   劉 竜子 10名
第65回( 8・ 7)金石範『火山島』Ⅰ     磯貝治良 9名
第66回( 9・11)金石範『火山島』Ⅱ     磯貝治良 6名
第67回(10・16)金石範『火山島』Ⅲ     磯貝治良 9名
第68回(11・13)金石範さんを囲む集い  話・金 石範 35名
第69回(12・18)84年にむけて望年会          11名
第70回(1984・1・22)李良枝『かずきめ』   蔡  孝 9名
第71回(1984・2・26)金時鐘『光州詩片』   鐘真 8名
第72回( 3・20)金鶴泳『郷愁は終り、そしてわれらは-』
                       中山峯夫 13名
第73回( 4・22)高史明『青春無明』     西尾 斉 11名
第74回(5・13)金賛汀『抵抗詩人・尹東柱の死』伊藤啓子 16名
第75回( 6・17)「架橋」5号批評会Part1  金 蓬洙 17名
第76回( 7・15)「架橋」5号批評会Part2  大野祐二 18名
第77回( 8・19)「架橋」5号批評会Part3  西尾 斉 12名
第78回( 9・16)飯尾憲士『隻眼の人』    松本昭子 11名
第79回(10・21)青丘文化ホール・猪飼野訪問
                     話・辛 基秀 15名
第80回(11・18)李正子歌集『鳳仙花のうた』
                話・李 正子 権 星子 19名
第81回(12・23)一年をふりかえり85年を望む会 劉 竜子 12名
第82回(1985・1・20)尹東柱『空と風と星と詩』磯貝治良 12名
第83回( 2・24)宗秋月『猪飼野・女・愛・うた』山中将幹 13名
第84回( 3・21)鄭清正『怨と恨と故国と』Ⅰ 磯貝治良 10名
第85回( 4・28)李良枝『刻』        伊藤啓子 11名
第86回( 5・19)金泰生『私の人間地図』   渡野玖美 14名
第87回( 6・30)成允植『オモニの壺』    川崎恵子 10名
第88回( 7・28)「架橋」6号批評会 Part1   鐘真 15名
第89回( 8・25)「架橋」6号批評会 Part2  山中将幹 13名
第90回(9・22)金纓『チマ・チョゴリの日本人』劉 竜子 11名
第91回(10・27)金泰生『旅人伝説』     磯貝治良  4名
第92回(11・24)李起昇『ゼロはん』     西尾 斉 12名
第93回(12・21)一年をふりかえり86年を望む会    13名
第94回(1986・1・19)高史明『悲の海へ』  田中康照 14名
第95回( 2・16)金容権・李宗良編『在日韓国朝鮮人』
                       原 科浩 10名
第96回( 3・16)飯尾憲士『開聞岳』     磯貝治良 7名
第97回( 4・20)元静美『ウリハッキョのつむじ風』
                       劉 竜子 6名
第98回( 5・18)金鶴泳『凍える口』     加藤建二 7名
第99回(7・6)在日朝鮮新人作品選『狂った友』  鐘真 7名
第100回( 8・10)100会記念 奈良を訪ねて      12名
第101回(9・21)金鶴泳『石の道』       鐘真 12名
第102回(11・ 3)宗秋月『猪飼野タリョン』
             話と詩朗読・宗秋月 磯貝治良 18名
第103回(11・30)「架橋」7号合評会     劉 竜子  6名
第104回(12・21)一年をふりかえり87年を望む会    10名
第105回(1987・1・25)金石範『金縛りの歳月』 金 有子 11名
第106回( 2・22)つかこうへい『広島に原爆を落とす日』
                       蔡  孝  5名
第107回( 3・29)つかこうへい『戦争で死ねなかったお父さんの
         ために』          磯貝治良  6名
第108回( 4・19)黄暎『客地』      山田 實 10名
第109回( 5・24)黄暎「韓氏年代記」    加藤建二 10名
第110回( 6・21)郭早苗『父・KOREA』   成 真澄 13名
第111回( 7・26)尹健次『異質との共存』  高見卓男 15名
第112回( 8・23)京都「パラムの会」と交流      18名
第113回( 9・23)元秀一『猪飼野物語』
               話・元 秀一 児玉信哉 25名
第114回(10・25)李興燮『アボジがこえた海』朴 裕子 12名
第115回(11・29)宗秋月『サランヘ』    李 誠姫 11名
第116回(12・ 6)読む会10周年記念「表現と交流のマダン」
                    ハンマダン他 約125名
第117回(1988・1・24)「架橋」8号合評会Part1 近藤義男 21名
第118回( 2・21)「架橋」8号合評会 Part2  檜垣 徹 21名
第119回( 3・21)朴重鎬「回帰」(『民涛』創刊号)
                       加藤建二 10名
第120回( 4・24)姜信子『ごく普通の在日韓国人』
                       金 成美 12名
第121回( 5・22)徐京植『長くきびしい道のり』加藤 誠 14名
第122回( 6・26)『民涛』2号新人短編小説特集 渡野玖美 13名
第123回( 7・24)金石範『鴉の死』      井上幸一 12名
第124回( 8・28)梁澄子・金栄『海を渡った朝鮮人海女』
                        劉 竜子 12名
第125回( 9・25)金蒼生「赤い実」(『民涛』3号) 児玉信哉 17名
第126回(10・30)第6回生野民族文化祭見物        6名
第127回(11・27)金香都子「猪飼野路地裏通りゃんせ」  
劉 竜子  9名
第128回(12・18)一年をふりかえり89年を望む会     9名
第129回(1989・1・29)『在日文芸 民涛』のつどい
                      話・李 恢成 50名
第130回( 2・26)磯貝治良「在日朝鮮人文学のアイデンティティ」
         (『民涛』5号)        蔡  孝 13名
第131回( 3・26)「架橋」9号合評会 Part1  高見卓男 12名
第132回( 4・23)「架橋」9号合評会 Part2  磯貝治良 10名
第133回( 5・28)『民涛』6号 小説特集    卞 元守  9名
第134回( 6・25)李良枝『由熙』       成 眞澄 12名
第135回( 7・16)梁石日『族譜の果て』    磯貝治良  9名
第136回( 8・20/21)長野県奈川村・歌と遊びのマダン   9名
第137回( 9・17)金学鉉『民族・生・文学』 話・金学鉉 16名
第138回(10・22)金靜美「東アジアにおける王政の廃絶について」
          (『民涛』)7号
磯貝治良「天皇制と文学」(『民涛』)7号
                        磯貝治良  9名
第139回(11・26)「韓国では〈在日文学〉をどう読んでいるか」
(『民涛』8号)       文 重烈  6名
第140回(12・17)一年をふりかえり90年を望む集い    13名
第141回(1990・1・21)渡野玖美『五里峠』   磯貝治良 15名

第142回(2・25)趙南斗「遠来の客」(『民涛』9号) 磯貝治良 8名
第143回( 3・18)「架橋」10号合評会Part1  成 眞澄 10名
第144回( 4・22)「架橋」10号合評会Part2  劉 竜子 11名
第145回( 5・13)宗秋月「華火」 金蒼生「三姉妹」 
          イ・カンオン「夜の方舟」  加藤建二  7名
第146回( 6・10)卞元守宅焼肉マダンに参加        7名
第147回( 7・20)梁石日『アジア的身体』    加藤 誠 8名
第148回( 8・19/20)長野県奈川村・歌と遊びのマダン   4名
第149回( 9・23)成美子『歌舞伎町ちんじゃら行進曲』 
卞 元守 11名
第150回(10・14)金石範『故国行』       聖哲  8名
第151回(11・25)趙南哲詩集『樹の部落』   文 重烈 10名
第152回(12・23)一年をふりかえり91年を望む会     12名
第153回(1991・1・13)つかこうへい『娘に語る祖国』
                        成 眞澄  9名
第154回( 2・17)尹健次『孤絶の歴史意識』  磯貝治良  7 名
第155回( 3・24)金重明『幻の大国手』    加藤建二  7名
第156回( 4・21)「架橋」11号合評会 Part 1  卞 元守 11名
第157回( 5・19)「架橋」11号合評会 Part 2  間瀬 昇 14名
第158回( 6・30)梁石日『夜の河を渡れ』    井上幸一 11名
第159回( 7・21)朴重鎬『澪木』        成 真澄  7名
第160回( 8・25)李正子歌集『ナグネタリョン』 劉 竜子 12名
第161回(10・13)皇甫任『十一月のほうせん花』 磯貝治良  6名
第162回(11・24)『柳基洙作品集』       加藤建二  7名
第163回(12・22)一年をふりかえり92年を望む集い    15名
第164回(1992・ 1・26)朴慶南「クミヨ!」 話・朴 慶南 13名
第165回(2・23)金石範『万徳幽霊奇譚』     井上幸一 9 名
第166回( 3・22)香山末子詩集『鶯の啼く地獄谷』 文 重烈 9名
第167回( 4・26)伊集院静『海峡』         聖哲 7名
第168回( 5・17)『架橋』12号合評会 Part 1   西尾 斉 10名
第169回( 6・14)『架橋』12号合評会 Part 2   間瀬 昇 10名
第170回( 7・12)梁石日『子宮の中の子守歌』  中山峯夫  7 名
第171回( 8・30)磯貝治良『戦後日本文学のなかの朝鮮韓国』
                         成 真澄  9 名
第172回(10・4)李恢成『流域へ』        間瀬 昇 10名
第173回(11・1)架橋を求めて――民族・文化・共生のマダン
               第一部 講演と話・金石範 磯貝治良
  第二部 マダン劇・マダンノリペ緑豆(ノクトゥ) 110名
第174回(11・29)尹健次『〈在日〉を生きるとは』 卞 元守 8 名
第175回(12・23)一年をふりかえり1993年を望むつどい   14名
第176回(1993・1・24)金在南『鳳仙花のうた』  磯貝治良 6 名
第177回( 2・28)マダンノリペ緑豆第2回公演を観る     80名
第178回( 3・21)宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』
西尾 斉  5 名
第179回( 4・18)庾妙達詩集『李朝白磁』     金 節子 10名
第180回( 5・16)李良枝『石の聲』        加藤建二 12名
第181回( 6・ 6)朴明子『わたしはいつもまわり道』成 真澄 12名
第182回(7・11)深沢夏衣『夜の子供』       成 真澄 16名
第183回( 8・29)柳美里『魚の祭』     ムン トンヂャ 17名
第184回( 9・26)金泰生『紅い花』        浅野文秀 15名
第185回(10・31)「架橋」13号合評会 Part1    趙 眞良 18名
第186回(11・21)「架橋」13号合評会 Part 2   藤本由紀子 15名
第187回(12・26)1年をふりかえり1994年を望む集い     18名                      
第188回(1994・1・23)鄭承博著作集『裸の捕虜』  加藤建二 11名
第189回( 2・20)金石範『転向と親日派』     卞 元守  7名
第190回( 3・20)李相琴『半分のふるさと』    文 真弓 15名
第191回( 4・17)黄民基『奴らが哭くまえに』   成 真澄 10名
第192回( 5・15)崔龍源詩集『鳥はうたった』   卞 元守  7名
第193回( 6・12)鷺沢萠『ケナリも花、サクラも花』浅野文秀 10名
第194回( 7・31)鄭承博著作集『ある日の海峡』  西尾 斉  5名
第195回( 8・28)李恢成『青丘の宿』       磯貝治良  8名
第196回( 9・25)「架橋」14号合評会 Part 1    趙 眞良 14名
第197回(10・16)磯貝治良『イルボネ チャンビョク』出版記念マダン
第一部 磯貝治良の話とフリートーク
第二部 ノリマダン「マダンノリペ緑豆」のマダン劇など  38名                      
第198回(11・17)「架橋」14号合評会 Part 2         10名
第199回(12・25)一年をふりかえり1995年を望むつどい    14名
第200回(1995・1・22)在日朝鮮人作家を読む会200回記念大討論
マダン「在日のいま、日本人のいま――
そしてわたしたちがめざすもの」    49名
第201回( 2・19)李恢成『百年の旅人たち』上巻   磯貝治良  5名
第202回( 3・19)李恢成『百年の旅人たち』下巻   磯貝治良 12名
第203回( 4・30)磯貝治良「テハギは旅人(ナグネ)のまま―」 文 真弓 10名
第204回( 5・28)梁石日『夜を賭けて』       西尾 斉 10名



    あとがき

▼『架橋』発行の母体である「在日朝鮮人作家を読む会」が発足以来十八年目にはいった。ことし一月には二〇〇回をむかえ、ささやかに記念の意味をこめて二十二日に名古屋市東区の社会文化会館で集いをもった。大討論マダン「〈在日〉のいま、日本人のいま――そしてわたしたちがめざすもの」と銘打って、五十人ほどが会した。身体表現とチャンゴの競演によるパフォーマンスと、朝鮮民話に材を取った紙芝居とを前後に据えて、〈在日〉七名がプレ発言をおこない、そのあと参加者による大討論(?)という趣向だった。
この集いについては少し詳しく『新日本文学』一九九五年六月号(〈在日〉文学特集号)に書いたが、さまざまな経験と想いをもち、活動をつづけている在日朝鮮韓国人と日本人が、お仕着せでない自分の言葉で語り合うことによって、これからの営みの第一歩になったのでは、と思っている。
「読む会二〇〇回によせて」の短文群は、有志が原稿をよせて当日に参加者に配った文集からの転載である。
会の発足以来、現在までの会録を載せたのも、二〇〇回が機になってのことである。記録としてであるが、なにかの参考にもなればいい。
▼大討論マダンの少しまえ、昨年十月十六日には会の主催で、磯貝の小説集『イルボネ チャンビョク』(風琳堂)の出版記念マダンを名古屋はたらく人の家で催した。参加者三十八名が〈在日〉と日本人それぞれ十九名ずつと、示し合わせたような数字が愉しかった。磯貝の楽屋裏ばなしに参加者のフリートーク、毎度おなじみマダンノリペ緑豆(ノクトゥ)の寸劇で時の経つのを忘れた。愛知県外の在住者にはほとんど案内を出さなかったけれど、静岡・清水市の庾妙達さん、石川県山代の渡野玖美さんなどが駆けつけてくれて、成允植さん、鄭閨熙さん、文京洙さんなど遠方の方からのメッセージと併せ、励まされた。
▼さて、一年ぶりの『架橋』であるが、今号は小説五本を中心に編むことができた。うち翻訳作品をのぞく四本とエッセイの朴燦鎬さんは馴染みの顔ぶれであるが、「郭公の故郷」の作者・柳基洙さんは韓国で統一派の文学者として創作活動をしているひとで、一連の作品が多くある。詳しくは監修者・間瀬昇さんと訳者加藤建二さんの文章にゆずるが、柳基洙さんは日帝時代ソウル(旧京城)の医学専門学校で間瀬さんと学友だったひと。その縁で今回、作品を載せることができた。ちなみに訳者の加藤さんは『架橋』に「雨森芳洲シリーズ」を書いている仲間。
 今号には権星子さん以来めずらしく短歌が載ったが、作者の吉岡卓さんは車椅子で旺盛に活動する二十歳代なかばの青年で、せんだっても韓国の青年キリスト者と交流するために渡韓、旧軍隊慰安婦のハルモニたちと会ってきた。その経験を短歌にしたのが掲載の十一首である。
▼最後に、恒例によって昨年十二月の「望年会」テキスト人気投票の結果を記す。
①磯貝治良『イルボネ チャンビョク』(風琳堂)②鷺沢萌『ケナリも花 サクラも花』(新潮社)蔡孝「ソウルまで」(『架橋14号』)③鄭承博『裸の捕虜』(新幹社)李相琴『半分のふるさと』(福音館書店)④金石範『転向と親日派』(岩波書店)黄民基『奴らが哭くまえに』(筑摩書房)崔龍源『鳥はうたった』(花神社)⑤李恢成『青丘の宿』(講談社文芸文庫)磯貝治良「道のむこう」文真弓「ふくろう」賈島憲治「雨森芳洲の運命」(以上『架橋』14号)
▼なお、『架橋』発行のための財政的方策を講じるうえで、仲間の中山峯夫さんの手をわずらわせていることを特記しておく。     (貝)


「架橋」14号

架 橋 14
              1994夏



目   次

○小  説 
道のむこう ………………………………………… 磯貝治良
ふくろう …………………………………………… 文 真弓
輝きの時 …………………………………………… 申 明均
雨森芳洲の運命 …………………………………… 賈島憲治
○紀行エッセイ 
ソウルまで-「在日」文学の故郷体験とともに …… 蔡  孝
そして『西便制』- 二十数年ぶりの韓国 ………… 朴 燦鎬
○あとがき
○会 録   磯貝治良小説集のこと





 道のむこう

磯(いそ) 貝(がい) 治(じ) 良(ろう)          

 黄色い菜の花が咲く畑地のあいだを一本の道がつづいている。その一本道を、声を上げながら走っている小さな姿は、私だ。馬車と牛車が擦れ違えるほどの白い道に、砂ぼこりは見えないが、妙にはっきりとしたゴムぞうりの感触が道の性質を伝えてくる。道のさきに踏切も鉄路も見えない。強い日射しを孕む、風とも陽炎ともつかない銀いろの微細な粒子が、雑草にそって帯状にはしっていて、鉄路がつづいていると分かる。
 踏切を渡ってすぐの道端あたり、白くひとがたに見える二つの点が、石地蔵とその脇に
腰をおろしたハラボヂ(祖父)であることは、その姿が視界にあざやかになるまえから分かっている。私が走っていたのは、そこにいつものようにハラボヂがいるからなのだ。ハラボヂと石地蔵のかたちがしだいにくっきりとしてくるにしたがって、白い道を走る私の小さな姿もかたちを鮮明にする。おかっぱの髪をふくらませ、ランドセルがわりに負うズック袋の背をまるくし、膝小僧をあらわにスカートをひるがえし、素足のまま履くゴムぞうりを跳ね上げて、私が走る。パヂチョゴリを着けたハラボヂのからだがずんずん近づいて大きくなり、走りながら上げつづける私の声は叫びのようになる。
 石地蔵の脇の石台に腰をおろしたハラボヂが、山羊のそれのように垂れた白鬚の顔をゆっくりと孫娘のほうに向ける。日がな、遠く鉄路の涯に注いでいた視線のままに私を見やる。ながいキセルを口に運ぶ。ハラボヂの悠揚迫らずといった様子が不安をつのらせ、私はいっそう叫び声に力をこめる。でも、何を叫んでいるのだろう。言葉が聞こえない。

 地下鉄を出て、法務局の建物までずっとつづく銀杏並木の道を歩きながら、ハラボヂのいる風景を思いだす。夢のなかでの情景みたいだけれど、夢ではない。朝方の、眠りから醒めて意識が現実に移行するはざまで見た、記憶のよみがえりなのだ。
 四十年あまりも遠い時間の記憶。漁港のある町の小学校へはいる頃から二年間ほど、私の日日を占領していたともいえる寸景だ。家をあけてどことも行方知れずになることの再三だったアボヂ(父)とも、実家に身をよせた母とも離れて、ハラボヂといっしょに暮したときのことだから、あの頃のことにまちがいはない。いま振り返って数えてみれば六・二五(ユギオ)(朝鮮戦争)にかさなる日日である。
 ハラボヂの家は、墓地の裏手にある雑木林の脇にポツンと立っていた。農家の納屋に毛がはえたほどの二軒並びの家の一軒から、ハラボヂは、ふとくて強靭な朝鮮竹の杖を手に出てくる。雑木林と墓地を抜け、菜種畑のあいだを白くつづく道をやってくる。コムシン(朝鮮の靴)の足を外向きにゆっくりとした足どりだ。ときどき、あっふん、と咳払い。咳払いのたびに背筋はいっそう骨格を立て、海辺からの風にきらめく陽光がパヂチョゴリの白さを際立たせる。空気の冷たい日であれば、チョゴリの上に着込むツルマギ(外着用の周衣)の裾に風が舞う。
 雑草にまぎれるほどの踏切まで来ると、石地蔵のところで立ち止まり、一瞬、あたりを睥睨するふうに顎の白鬚をしごき、そこがハラボヂのために設えられた床机ででもあるかのように地蔵脇の石台に腰をおろす。石地蔵にむかってインサ(挨拶)ひとつするでもない。そこが、まだ若かった頃の妻が半島のさきへ向かう下り機関車に轢かれた鉄路であることを、思い出せるのやらも覚束ない風情で、やおら四十センチもある煙管に火をつけて、くゆらしくゆらし、鉄路の涯に視線をやる。視線のさきには、陽炎の立つ鉄道がゆるやかに迂回しながらつづく。鉄路は程もなく、小さな森をいくつもかさねた丘の稜線にさえぎられて消えてしまうが、それはさらにいくつもの町を過ぎ、丘陵のあいだをぬい、海岸に沿ってつづき、半島の喉首まで達することを、ハラボヂは知っている。鉄路が行き着いた先には海が開けて、大きな湾は外海に通じている。荒立つ光の粒子のように波を折りかさねる海の向こう、水平線をずんずん突っ切っていけば、いつかハラボヂの生まれたくにへ辿り着けることも知っている。蝶さえ渡る海なのだ。
 ハラボヂの遠い視線は、日がな一日、石地蔵と並んで鉄路のむこうを望んでいる。そのことを知っている私は、漁港の見える教室で一日を過ごした日も、そこに用意された針の莚が嫌で、半鐘のある坂の空地で時間を盗んで帰って来る日も、白い道が見えると駆け出す。踏切のむこうに小さな白い姿が見えれば、もう声を上げていた。声は叫びとなって、眩ゆい空気にはじけた。ハラボヂが日がなそこにいるのは、鉄路の涯に気持を馳せるためなどとつゆ思わず、私を待っているのだと声をかぎりにしたはずなのに、何を叫んでいたのか、言葉は思い出せない。けさ、夢と現(うつつ)のはざまに甦った記憶からも、そこだけが欠落していた。けさだけのことではない。この風景には、いつだって言葉がない。
 ハラボヂのいる風景が、私にとって問責とも促しともつかない記憶としてはじめて甦ったのは、十数年を経た二十歳(はたち)のときだった。その年、私は母親の戸籍から除籍して、アボヂの籍である朝鮮籍を取得するために手続きをとった。当時、アボヂと二人で住んでいた、名古屋近郊の大きな製鉄会社がある市の役所でのこと。韓日条約が締結されて間もない頃だった。
 アボヂと二人きりで暮すようになったのは、私が中学を卒業した年。アボヂと母がながいあいだの内縁の関係を清算して完全に暮しを別にしてから数年後のその年、私は母の家を出たのだった。日本が盧溝橋事件を起こした年に玄海灘を渡ってきたアボヂには、すでにくにに残してきた妻がいて、私は「非嫡出子」になっていた。私が母の家を出た理由に、両親の離別が強く影響していたのか、アボヂといっしょに暮す決心をして朝鮮籍を取得するにいたる過程になにか民族に期する明確な心理の体験があったのか、どちらもいまの私に確信的なことは言えない。中学を卒業すると名古屋港に近い合板工場に就職し、ベニヤ板を加工する現場で働きながら夜間学校へ通った。夜間高校を卒業して、家から私鉄電車の駅で二つめの町にある朝鮮人組織の青年学校へ通いはじめたとき、国籍の変更を心に決めたのはたしかだけれど。
 母親の日本戸籍からの離脱とアボヂの朝鮮籍取得の手続きは、二十歳(はたち)の私をチック症にするほどうっとうしいものだった。役所の応対は、なぜ、いまさら朝鮮籍が欲しいのですか、日本国籍のほうが楽なのに。せめて韓国籍にしてはどうなの? と慇懃無礼でもあった。ハラボヂのいる風景が鮮明な記憶となって歳月の闇から甦ったのは、そんなときだった。あのときも、朝方の夢と現(うつつ)のはざまを意識がたゆたっているときだった。ハラボヂはすでにその数年まえ、祖国帰還事業がはじまって一か月ほどのちに亡くなっていた。知多半島の、漁港と石地蔵と鉄路がある町の、農家の納屋みたいな家で逝った。アボヂは親不孝をみずから呪って柩のまえで慟哭したが、そのときの私はハラボヂのいる風景を記憶の暗い底に沈めたままだった。
 国籍変更を決意したあのとき以来、ハラボヂのいる風景は、人生の節目ごとに私につきまとってきた。
 青年学校へ通ううちに朝鮮籍を取得した私は、ただちに朝鮮大学の教員養成コースへはいった。ウリハクキョ(民族学校)の初級教員になるためだった。でも、ついきのうまでイルボンサラム(日本人)をして育った私は、言葉の壁に頭をぶっつけ、民族的素養という異境の海に奔弄されて、青春の果実を手離してしまった。製鉄会社のある町へ帰り、働いていた縫製工場の日本人と結婚したのは、終りの見えない空虚な日日に倦(あ)んでいた頃、「北」への帰国事業も終息をむかえる時期だった。あのときも、日本人との結婚に迷い、ぬぐいがたい不安に身を置く私を、ハラボヂのいる風景はおそった。
 夫とのあいだに男の子が二人、産まれる。二人とも父親の戸籍にはいって日本国籍となり、家族のなかで私ひとりが朝鮮籍だ。この境遇は落ち着きを失わせるのに充分だった。配偶者が日本人なのだから帰化は容易にできるはず、と勧める知人も多く、夫も息子たちのためにと、それを強要したが、私の気持は頑なに拒む。三人目に女の子が生まれたとき、私は有無を言えない切迫感にせまられ、この子は朝鮮人として育てなければ、と心に決めた。暴力的に反対する夫とのあいだに夫婦の絆など微塵に吹きちぎられるほどの抗争がつづき、私は阿修羅になる。夫に偽装離婚を承諾させ、末娘を朝鮮籍にした。その後、私が夫と二人の息子から完全に離別するのに、二年とかからなかった。あの頃も、記憶の暗がりからハラボヂのいる風景がおとずれた。
 パチンコ店の景品交換所に坐りながら娘を育てる十年近くの日日は、むしろ平穏と呼びたいほどだった。娘をウリハクキョへ通わせるのに、躊躇しなかったと言えば少し違うけれど、迷いには不思議と暗鬱も陰湿もまつわらなかった。ハラボヂのいる風景を一度も呼びさますことなく過ごしていたのが、平穏な歳月のなによりの証拠。
 時の静謐を打ち破るように、ハラボヂの風景が甦ったのは、「指さきの反乱」が日本に住む同胞の感情をひとしなみ揺(ゆる)がした季節だった。私が住む町でも二十歳(はたち)をすぎたばかりの青年が指紋押捺を拒否し、外国人登録法違反で起訴されて、名古屋地方裁判所で公判がはじまっていた。在日韓国人の民族団体が、風にあおられるようにして、指紋の押捺を留保する運動をすすめ、一方の在日朝鮮人組織でも、具体的な拒否行動には踏みきらなかたものの、行政干渉やら声明やらの動きを示していた。裁判闘争にはいった青年をサポートして日本人の市民運動も元気に活動していた。
 そんな渦巻き状の流れのはじっこにいて、私は孤独をかこっていた。いくつもの渦のどこに身を投げ入れることもせず、意外に沈着に自分の意思のゆくえを測っていた。私が視線をこらすさきに見えていたのは、だれの干渉によるものでもなく指先一本の意思によって日本の法廷の被告席に坐っている青年の背中であり、六年後には同じその席に坐らされることになるかもしれない娘・千喜(チョニ)のチマチョゴリの姿だった。二重写しにかさねられたスクリーンのなかの二つの像が、すこしずつ鮮明にととのえられてくるのを辛棒づよく待つことができた。四十歳になっていた私は、いくらかはオモニの岩盤をそなえていたらしい。民族組織が仇花みたいに留保運動を終息させた直後、私はアボヂのいる風景に促されるようにして、市役所の窓口で指紋の押捺を拒否した。
 あれ以来、私は指紋の押捺を拒否しつづけ、外国人登録の五年ごとの切替も、娘が看護学校へはいるための手続きで登録済証明書が必要になるまで申請を拒否したりした。娘の千喜も、定住外国人の指紋登録制度が廃止される半年ほどまえに十六歳をむかえ、それを拒否している。
 私たち母娘の拒絶の意思のあれこれなど、あまりにささやかすぎて、法律や制度の番をするこの国の人びとにとって痛くも痒くもないだろう。それでも、ここ数年、同胞に押しつけられた待遇はいくらかずつは変った。旧植民地出身者の子孫には、韓国籍だけではなく朝鮮籍の者にも申請によって特例による一般永住資格が受けられることになり、さらに三年まえにはひとしなみ特別永住資格が付与された。特例による永住資格を申請しなかった者にも、あちらのほうから勝手に送られてきたものだ。
 ところが、私たち母娘にその一枚の紙きれさえ舞い込まなかった。あなたたちは依然、三年ごとに在留期間延長のための申請を義務づけられた特別在留資格ですと言う。理由は、私がかつて母親の戸籍にはいって日本国籍だったから。
 私がハラボヂのいる風景に促されて、特別永住資格の取得を名古屋法務局の入管に申請したのは二週間ほど前だった。

 並木の銀杏は黄いろい葉を茶がかった色に変色させて、五割がた散っている。足早に歩く私の目のまえを風に舞いながら散っているのもある。ロー・ヒールの底に踏みしだかれて、落葉の声が聞こえるみたい。
 木木の左手に法務局の白っぽい建物が見えて、私はハンドバッグにかさねて持った大ぶりの茶封筒をことさらに確かめる。中には一綴りの紙片がはいっている。除籍謄本。三十年まえ、朝鮮籍を取得するために母の戸籍から離脱したときの除籍簿の写しだ。二週間まえに永住資格の取得を申請したとき、入国管理局の主任審査官は難色を示しながら、一応、審査しますから、除籍手続きをした自治体から、謄本を取ってきてくださいと言った。
 法務局の玄関をはいるとき、念のために腕時計を確かめる。李ノ上美穂さんと約束した待ち合わせ時刻には、二十分も早い。
 私は、さまざまな膚(はだ)の色をした人びとがソファーに掛けたり窓際に佇(たたず)んだりしている控えロビーの一隅で、李ノ上さんを待つ。ながいΓ型の受付カウンターにも列ができている。六、七年まえにウリハクキョへ通う娘が祖国訪問するために再入国許可証を取りにきたとき、入管事務所は階上にあった。一階の広いフロアーに移ったのは、階上では手狭になったからだろう。
 約束の時間を五分ほど過ぎたとき、ふっと閃いた。李ノ上さんは階上のほうへ行ってるかもしれない。
 李ノ上さんと知り合ったのは、私が指紋押捺を拒否した頃、彼女が外国人登録の切替申請を拒否していると知った時からだから、もう十年近くの付き合いになる。
 李ノ上さんはもともと日本人の父母のあいだに生まれた日本籍のひと。戦後まもなく在日朝鮮人と結婚して、日本の戸籍を離脱した。いまは離婚しているが、結婚した当時も、サンフランシスコ講和条約以降も、夫の国の戸籍に入籍手続きをしたわけではない。厳密に言えば、無国籍者ということになる。外国人登録法は、無国籍もふくめて日本国籍以外のひとに適用されている。李ノ上さんはそれを拒絶しつづけている。
指紋の押捺を拒みつづけた私にとって、李ノ上さんはただひとり、相談しあったり励ましあったりしてきた、同志だ。その彼女が約束の時間を遅れて違(たが)えたことはいままで一度もない。むしろ、一時間ほども早く勘違いすることがざらにある。彼女は、それ以外には合法的に外国人登録を拒否する方法はないと、悩み、怒り、絶望したすえに、日本籍への帰化という理不尽を受け入れる決心をしたのだが、その申請のために行動を共にしようと家を訪ねてくれた十日まえも、私は約束の時間より三十分も早く帰宅したのに、彼女は玄関先で三十分も待っていた、という。
「おかげで、一首、歌ができたわ」
李ノ上さんは、けろりとした顔でそう言うと、いつも持参しているノートを開いて見せてくれた。私が李ノ上さんと知り合うきっかけは、新聞の歌壇欄に載った外登法の闇をうたう彼女の短歌だった。
李ノ上さんはやっぱり、いまは審査センターになっている階上の、薄暗い廊下にいた。
「チョンファさんは在日時間のひとじゃない、と思ってたのに」
李ノ上さんは言い、老(ふ)けを感じさせない、華奢で清楚な容姿いっぱいに抗議する。
「私は二十分も早く来てたわよ。間違えたのは、李ノ上さんじゃない」
私の言葉に驚いたふうに、李ノ上さんは腕時計を見る。
「じゃ、一時間以上も階下(した)で待ってたの」
 あっ、李ノ上さんはまた約束の時刻を一時間早く勘違いしている。私は笑いをこらえ、そのことを口にできない。李ノ上さんは階段を下りながら、「もっと早く階上(うえ)に来てくれればよかったのに」などと言った。
「杉本さん、おねがいします」
私は、「再入国許可申請」「在留期間延長申請」などと区分けされた受付カウンターの列には並ばず、無印の席に掛けている女性職員にいきなり頼んだ。女性職員の問いたげな表情に、「ムン・チョンファです。約束がしてあります」と応じる。
女性職員は、衝立やら事務机の上の書類の山やらで人の姿も隠れがちな事務室のほうへ消え、私と李ノ上さんが私語を交す間もなく、杉本をともなって戻ってきた。二週間まえに会ったとき、入管職員の感じじゃないな、と感じた杉本は、私の顔を見るなり、やぁ、文さん、久しぶり、と片手を上げそうな表情をする。四十歳をすこしまえくらいの、こちらに余計な感情をおこさせない容貌の男性だ。
「除籍謄本、持ってきました」
「あぁ、例の件」
杉本はそれだけ言うと、私が手渡した大封筒の中身も確かめず、すこし待つように言って事務所の奥へ去った。
「なんだか頼りのない国家公務員ね」
李ノ上さんが言うのに、「地方公務員とちがう? でもガチガチの役所人間よりましよね」と私は反撥するが、彼女の観察は当っている。最初、永住資格の申請に来たとき、応待した杉本は「主任に聞かなければ・・・・・・」の一点張りだった。朝鮮人の父親から生まれて、三十年もまえに朝鮮籍になってる私が、なぜ永住権を取れないの? きのう生まれた赤ちゃんだって永住資格あるんでしょ? そう言って食いさがるのにも、さぁ、法的地位のことはあなたがたのほうが詳しいですからね、などとお門違いの返答をした。
「お待たせ。いま主任が来ます」
杉本は五分とたたず手ぶらで戻ってきた。
「もともと日本人の私が、なぜ外国人登録なの」
杉本が戻ってくるなり、李ノ上さんが小柄な体をカウンターのむこうへ立てる勢いで訊ねる。
「もともと日本人なのに、外登法から解放されるためにはその日本へ帰化しなきゃならないなんて、どういうことなの」
鳩が豆鉄砲といった表情の杉本に、李ノ上さんは追い打ちをかける。容姿に似て声にもどこか少女の名残りがあるが、語調は一直線だ。
「サンフランシスコ条約以後、朝鮮の方方は正式に日本人ではなくなりました。外国籍の方の帰化は、最終的に法務大臣の裁量になっています。でも、あなたも文さんと同じように永住資格を申請されてはどうでしょう」
 杉本の見当違いな返答は、李ノ上さんをいっそう苛立たせる。
「資格なんて関係ないの。私がここで暮すのは当りまえのことなの。国がなんだかんだと出しゃばる幕はないの」
杉本は困惑し、気持をまるごと俯けるふうに黙りこむ。李ノ上さんも彼女の経緯を説明するのさえ億劫な様子だ。奇妙な沈黙だった。
沈黙に堪えられないらしく、杉本が口をひらく。
「帰化を申請されるのでしたら書類を揃えて、お国から戸籍謄本も取りよせて日本語に訳したうえで提出していただくことになります・・・・・・。とにかく主任に相談してください」  
またしてもピントのずれる杉本に李ノ上さんが言い返そうとしたとき、その主任審査官があらわれた。杉本が取り次いでから十分以上たっている。
私は主任審査官を一瞬、見間違え、驚いた。二週間まえに会ったときは胡麻塩のしらが頭のまま作業着みたいなジャンパーを着て「隣のおじさん」の雰囲気だったのに、きょうは髪を黒ぐろと染め、背広を三つ揃えに着ている。髭を剃りこんだばかりの顔にも、このまえ見たときより覇気がある。
「わたしが資料を拝見した範囲では、文さんの場合、特別永住の許可は下りるはずです」
主任審査官は、すでに紙質が黄ばんでしまった私の古い在留資料のファイルと、さきほど杉本に渡した除籍謄本とを交互に繰って眺めながら、言った。挨拶めいた言葉も省略していきなり話す口調は、気のせいか慇懃無礼だ。
主任審査官があらわれるのを待ちかねたふうに、杉本がすーっとその場を離れる。そのタイミングのよさに気をとられている私の横合から、李ノ上さんの声が飛んだ。
「許可って、許すということでしょ。永住を許すって、それ、どういうこと」
主任審査官は、一瞬、言葉をのんで李ノ上さんに険しい視線をそそぐ。それを意にも介せず、また李ノ上さんの声がカウンターのうえに跳(は)ねて、飛んだ。
「特別って、どういうこと? 特別に住むことを許すって、なんのことかわからないわね、全然」
「それは入管法に定められた在留資格でね、さきの法改正によって旧植民地出身者とその子孫のみなさんに適用されてます」
主任審査官はことさら声を低めて、紋切り型に答える。
「きょう、永住資格は出るんですね」
李ノ上さんに煽られて、私もせっかちに訊ねる。日頃おっとりしている李ノ上さんと対照的に思い込み過剰で直情径行の地(じ)が、変なぐあいに反転して出た。
「審査の結果は、あらためて通知します」
「いますぐじゃなきゃ駄目ですよ。除籍謄本とってくれば出すって約束だったじゃないですか」
 私は声をあらげる。
「約束はしてません。あなたの場合、特別永住の対象になるはずだ、と申し上げただけです」
 たしかに主任審査官の言う通りだった。
「じゃ、いつ出るの?」
「期限は約束できません。まだ、本省へ手続きもしていませんから」
「お役所仕事ね」
「いつもの手よ」
 私の言葉に李ノ上さんの声がかさなった。その声についで私の耳もとにあったかい息がかかり、冗談は顔だけのことにしてほしいわ、と李ノ上さんが囁いたのが聞こえたらしい。主任審査官は手にした在留資料のファイルと除籍謄本を音を立てて閉じると、カウンターから身を反らした。
その所作は、李ノ上さんの言葉に機嫌をそこねたせいばかりではなかった。気づいてみると、やりとりのあいだ私と李ノ上さんを遠巻きにするかたちにいろんな膚(はだ)のひとの囲みができて、それがじわりじわりと狭まっている。カウンターのむこうに脅威をあたえる類(たぐい)ではないとしても、主任審査官を不愉快にさせるには充分な迫力だ。
「アジュマ、ドウナサイマシタカ。日本ノ役人、アナタノコト、イジメマスカ」
不意に背にあてられる手の感触があって、独特の日本語がかかった。振り向くと、化粧気もなく無駄な肉もつかない、すこし少年っぽい娘の顔があった。真っ白い薄手のセーターにジーンズの上下を着た体は敏捷そうだ。韓国(ハングク)から来たアガッシ(娘さん)だ、留学生だろうか。
とっさにそう思った私が返事をするのも待たず、娘はカウンターのむこうへ声をかける。「ウリナラノオモニム(わたしたちの国のおかあさま)、イジメテ、ドウシマス」
「ウリナラ・アガッシ、コマウォヨ。コクチョンハヂマ・・・・・・」
私がたどたどしいウリマル(母国語)で、わたしたちのくにの娘さん、ありがとう、心配しないで、と応えて、つづく言葉を記憶のなかでまさぐっていると、突然、頭のうえを声が通りすぎる。
「レディヲ差別スルノ、イケマセン」
二メートルもあろうかとおもえる長身を派手な柄のブレザーにつつんだ、中年の白人男性だった。視線をかえした私の目のまえに、毛むくじゃらの大きな手がある。
間髪をいれず、李ノ上さんの向こう隣からも声がする。野球のグランドコートみたいなだぶだぶのジャンパーを着てカウンターに寄りかかっている青年が、イラン人であることは、その風貌から私にもわかる。
「にっぽんノクニ、ガイジンニヤサシクナイ・・・・・・」
イラン青年の言葉が終らないうちに、主任審査官は、
「あちらへ来てください」と言うなり、私たちを振り返りもしないでカウンター沿いにそれが跡切れる外れの奥へ消えた。
私と李ノ上さんは仕方なくひとの囲みを出た。
「あの白人さん、わたしたちのことレディって言ったわね」
「そうお?」
「間違いなく言ったわよ」
「わたし、そんなことよりウリナラのアガッシに感激した」
「それはそうね」
「本場のウリナラサラム(わたしたちの国のひと)は在日僑胞(チェイルキョッポ)を白い目で見るって聞くけど、あの娘(こ)はちがう。やっぱり、日本へ来ればわたしたちの苦労がわかるのよ」
 私と李ノ上さんはそんな会話を交しながら、カウンターの外側を迂回して事務所へはいっていった。
 主任審査官は、仮のそれみたいに衝立で仕切られた応接室の前で立って、私たちを待っていた。
 私と李ノ上さんが並んで、向かい合せてソファー椅子に掛けるなり、主任審査官は目つきを固くして強い語調で言う。
「入管事務所で騒ぎを起こすなんてこと、しないでくださいよ。せっかくの努力が水の泡になってしまう。わたしは、あなたに永住資格が下りるよう計らってるんだから」
「騒ぎだなんて」横合から李ノ上さんが返す、「コクサイレンタイが自然にめばえただけなのに」
主任審査官はそれを無視したがっている。
「国のルールってものがある。順序をふめば、時間が必要なのです」
「わたしたちがなぜ特別に許可されなくてはならないの。なんの時間が必要だって言うの。時間にせまられてるのは、わたしたちのほうじゃないの」私の言葉は切口上になる、「日本がハラボヂやアボヂのくにを侵略して植民地になんかしなければ、わたしはこんな国にいなかったわよ。頼まれたってだれがいてやるものですか」
「わたしだって無国籍なんてことにならなかったわ」
 いくらかほどけかかった主任審査官の表情が、横合からの李ノ上さんの言葉で不穏になった。
無国籍? 不審をあらわにする主任審査官に、私はたたみかける。
「五十年もたつというのに、ろくすっぽ補償もしないで、よくもまぁ、特別に許して住まわせてやるなんて言えますよ。謝罪といったって、乞食のおかゆじゃない。言(ゆ)うだけで中身はない。腹のなか空(から)っぽだってこと見えすいてるじゃないの。国のしてること、本末転倒よ」
「乞食って差別語じゃない?」
李ノ上さんが異議をはさむのに、私は応える。
「そんなことないわよ。立派な職業だもの」
私のねらいは成功したようだ。主任審査官は李ノ上さんに鉾先を向けるのを中断した。
私たちが応接室へ来てから主任審査官は、資料ファイルも除籍謄本も卓子のうえに置いたまま、あらためて開こうともしないことに私は気づく。私と李ノ上さんの気持は、卓子のうえにのしかからんばかりに迫っていくのに、三つ揃いにつつんだ彼の体は一歩退(ひ)く姿勢を堅固にしたまま崩さない。
 イルボネ チャンビョク・・・・・・主任審査官の態度にはかかわりなく唐突に、その言葉は浮かんだ。日本の壁、そう、日本の壁なのよ。
 どちらが先に浮かんだのか、目醒めのはざまに見る情景が、甦ってきた。道も、ひとがたも、風までも、白い風景。銀いろの微細な粒子を陽炎のようにたゆたわせる鉄路のむこうに、白いパヂチョゴリを着て長煙管を口に運ぶハラボヂの姿が、ゆるゆるとかたちをあざやかにしてくる。鉄路の涯に遠く視線をやるとハラボヂにむかって、くぐもっていた少女の声はいっきにはじけた。
 そうだったんだ。あのとき声をかぎりにして私が叫んでいたのは何だったのか、声のほうから近づいてくるようにしてそれがわかりかけたとき、短かい間の幻覚を破って、李ノ上さんの声がした。
「わたしの住むところが、わたしのくになのよ」
「国が決めることではないわ」
私の言葉は、李ノ上さんとの掛け合いみたいに、自然に口をついて出た。
「そうよ。国家なんてものができるまえから、ひとも、動物も、草花樹木も、暮してたんだから」
「とにかく」李ノ上さんの言葉を聞くなり主任審査官は、彼自身はそうと意識していないふうに、うんざりした表情を浮べた、「一か月後に経過を連絡しますから、きょうはひとまず引き取ってください」
主任審査官はそう言って、卓子のうえの資料ファイルと除籍謄本を手にする。
うんざりはこっちよ。私の気持は李ノ上さんにも通じたらしく、彼女が目顔で語りかける。それに応えて、
「あなたのことは?」
私が問いかけるのに、李ノ上さんは「止(よ)したわ」と言うなり、立ち上がった。
李ノ上さんは主任審査官とやりあっているうちに、帰化申請の手続きをする気をなくしたらしい。はげしい葛藤のすえに決断したふうでもないことは、さきに立って私を促す彼女の顔に、怒りの表情がそれほどでもないことからわかる。
応接室を出て待合ロビーを通り過ぎるとき、さきほど私たちのために抗議をしてくれたアガッシを探したが、彼女の姿だけでなく、長身の白人とイラン青年の姿もなかった。

法務局の建物を出て銀杏並木を歩きながら、そんなはずないのに二時間ほどのあいだに銀杏の木がすっかり葉を散らしてしまった気がする。
じっくり腰をすえて行くか。考えてみれば、三十年ごしのたたかいなんだから。
私自身と李ノ上さんの両方に語りかけるつもりで思う。思ったとたん、たたかいという言葉が浮かんだのに驚いた。でも、なにも驚くことはないと思いなおした瞬間、私はその言葉をハラボヂに言っているのかもしれない、と気づく。ハラボヂが石地蔵の脇の台石に腰を下ろして、長い煙管をくゆらしながれ遠く鉄路のむこうへやっていた視線を、ゆっくりとこちらに向ける。
「さすがの国家公務員も、おばさんパワーにはたじたじだったわよ」
「でも、ちょっと虚しいわね」
「それはそうね」
 李ノ上さんと私は、そんな会話を交しながら、地下鉄の駅にむけて並木道を歩いた。
 




 ふくろう

文(ムン) 真(ま) 弓(ゆみ)

 ふくろうは、昼間の間は眠っていた。
 岩船神社という名前の森に、ふくろうは棲んでいた。
 その森は、とてもちいさい森だった。そこで、いちばん高くて、いちばん太いくぬぎの木があって、その木の中間あたりよりすこし上に、ぽっかり口をあけた大きな「うろ」がある。ふくろうは、そのうろの中で、夜が来るのを眠って待っている。
 夜が来た。
 ふくろうは目をさまして、そうっと「うろ」から顔を出す。
「ほろっこ」
 と、鳴いて大きく羽を広げ、すこしも音をさせないで森の中を飛びまわり、小鳥を摑み、食べた。そのあと、ふくろうは、岩船神社のすぐ隣に建っている岩船団地のマンモス広場まで飛ぶ。
 自分がいつからこの岩船団地に毎日飛んでくるようになったのか、ふくろう自身にも思い出せない。ふくろうは毎晩、岩船団地の真ん中にある、このマンモス団地に着くとなんだかほっとする。もうずっと長いこと続けている習慣だからほっとするのか、それとも、ほっとしたいためにここへ来ているのか、そういうことは、ふくろうには、はっきりとわからない。
 ある夜、岩船団地の上空に、コウモリが群れなして大挙した。このコウモリの群れに誘われるように、獲物を追いかけてふくろうはただ一匹、いつのまにやら団地の上空へと飛んで来ていた。ほんとうは、それが、ふくろうには思い出せない、最初に岩船団地へやってきたきっかけだった。
 マンモス広場には、大きな桜の木が一本あった。
 四月。
 マンモス広場の桜は今年も満開である。
 びっしりと枝を覆う、うすもも色の花の塊が、団地の薄闇に浮き立つように白く輝いていた。その桜木の高さは団地の五階までもあり、春の夜の風が、満開の桜の枝をざわざわと揺するたびに、枝にとまっている一匹の小さなふくろうの影を、月明かりに浮かばせた。

「すいません」
 新聞の集金人が、団地の五階の鉄のドアをどんどんたたく音がした。空は明るい宵の口で、夕方の団地の喧噪に、神社の森を飛び出したふくろうが、桜の木の上からぼんやりと団地の様子を眺めているところだった。
「橋本さん――」
 どうやら留守のようだ。
 ふくろうは橋本という人を知っている。
 ある夜、桜の木の上に飛んできたふくろうが最初に見た男が橋本だった。その男は、すこしずんぐりとした身体つきをしていて、日曜日以外の日は、たいてい毎日、同じようなどぶねずみ色の背広を着ていた。
 橋本、と呼ばれたその男を、ふくろうは木の上からいつも眺めていた。
 いないですよ。
 ふくろうは新聞の集金人にそう教えてやった。

 今夜もまた、コウモリの群れが近づいてくる気配がする。わくわくして、そわそわして、これはほんとうにステキな気分だ。
 コウモリたちはくるくると飛んで来た。高く低くめちゃくちゃに飛んで来た。ふくろうは枝を摑んでいる足の指にぐっと力をこめた。
 ふくろうの背に、白い炎のようなものが一瞬、立った。ふわり、舞い下りて小さな胸に風を受ける。風を受けて背走したふくろうは、そのいぼいぼのびっしりとついた指で、一匹の目の見えないとりねずみを捕えていた。
 晩がきた。マンモス広場に外灯が灯る。団地の晩はにぎやかだ。
 遠くで鳴るタイヤの音がひんぱんになる。人間の声が、幾重にも重なって反響して聞こえる。エンジンの止まる音、茶わんの重なる音、ドアの閉まるドーンという音がして、キュッという水道の蛇口がしまる音がする。
 ふくろうは、桜の木の上で静かに目を閉じて、このささやかで雑とした音の波に意識を漂わせる。そして子供の泣き声におどろいて、おおきな黒い瞳をぎょろつかせたりしながら、夜だ夜だ、と活きづいていった。
 ふくろうはあの岩船神社の静けさを思い出していた。このふくろうは、岩船神社にたった一匹、さいごに残ったふくろうだった。
 それは底が無いほどに深い静寂だった。始まりも終りもない、自分自身の居場所すら摑めぬほど広々とした暗闇だった。
 団地にはたくさんの人が棲んでいる。
 ふくろうは思う。
 こんなところには、一匹のとんびも棲めないはずだ。
 巨大なコンクリートの建造物が積木のように並んでいた。砂の多い土に等間隔に植えられて、名前の札を首からさげた苗木たちは「生きもの」を育てることができるのか。
 しかし、ふくろうはそんな団地に毎晩、飛んで来る。
 何故?
 コウモリを追って?
 この春、植えられた、こどもの背丈ほどしかないくすのきがふくろうに尋ねた。

 橋本は、その晩も定刻に団地の部屋に戻って来た。
 彼は若くないが、そんなに年寄りでもない。つれあいらしき女はなくて、それでもきちんと片付いた「水色」の部屋で、静かに、周囲の人間たちに決して迷惑をかけることなくつつましく暮らしていた。
 堅そうな肉を、こんもりと豊かに丸い背中に着ていた。帰ってくるとまず、どぶねずみ色の背広を脱ぎ、白く短かい首に締めた赤いネクタイを、右手だけで器用に解いた。そしてテレビの電源を入れると、少し離れた場所からリモコンをつかって操作した。いつも決まって、かなりいいかげんで不味そうな食事をした。風呂の水を溜めて、ガス栓をひねって、テレビをつけっぱなして眠ってしまう。しかし風呂が沸く頃に、不思議にちゃんと起きてきて、毎日、洗濯機を定刻どおりに回した。
 水色の寝巻姿の橋本は、必ず足の指の間に小さなビンに入った水虫の薬を数滴タラし、その時にとても痛そうな顔をした。
 痛いか、橋本。
 ふくろうはつぶやいた。
 橋本は目を細め、しばらくのあいだ痛がっていた。

 団地には、ふくろうの好物のどぶねずみが豊富だ。どぶねずみは、団地の側溝を、毎晩、決まったコースで、だいたい決まった時刻に巡回した。待ち伏せをしていれば、確実に手に入れられる獲物だ。まるまる太った街のどぶねずみは魅力的だ。今夜もふくろうは、木の上で息を殺して、その丸い真っ黒い瞳で、側溝の四角い口を見つめている。
 どぶねずみは、ととと、という声をたててやってくる。かたかた、と歯の鳴るような音とともに現われる。濁った汚水を身体じゅうに染み込ませて、何匹かで連れ立って、すこしずつ前進をして、だんだん近づいてくる。
 さあ、来い。
 ふくろうは、際限無く猛りだす狂暴な自分にちょっととまどった。その時、とまどう弱気を吹き消すように、ふくろうのうしろから一陣の風が吹いてきて、小さなふくろうの全身の毛を逆立てた。
 捕まえた獲物は、ひどく小さかった。間近で見たその瞳は邪心なく澄んでいた。弱々しくおびえた団地のどぶねずみを一匹、ふくろうはそのくちばしで引き裂いた。

 団地の晩の喧噪は、気温が一度、また一度下がっていくにつれ、いつものようにしだいに鎮まっていった。
 団地じゅうの皿という皿は拭われて、茶だんすのなかにしまわれた。風呂のお湯は一斉におとされて浴槽は空っぽになった。そして女も男もおとなしく羽布団にその身を沈めた。
 目覚めているものは、側溝をひた走るどぶねずみと、コウモリの群れ、そしてたった一匹のふくろう、のはずだった。
 ところがその晩、橋本が、何時になっても羽布団に潜らなかった。テレビをつけっぱなして、ためいきを繰りかえしていた。
 そんな橋本を、ふくろうはじっと見つめていた。
 何時間がたっただろうか?
 橋本はテレビを切って、蛍光灯を消した。一瞬の暗闇が、目くらましのようにふくろうを襲った。橋本の姿が視えない。
 すこしたって、彼は、アルミサッシをゆっくりと開いて、ベランダへ出て来た。
 ふくろうは身構えた。
 橋本は置物のように動かないで長い間、ベランダの手すりにつかまるようにして立っていた。
 ふくろうの胸はトクントクン高鳴る。
 何があった、橋本。
 なにを見ている? いまオマエはなにを見ている。オマエにいまなにが視える? この暗闇に、人間のオマエになにが視える?
 橋本がいま、ベランダの手摺りを乗り越えて、こっちへ飛んで来るような気がした。
 はるか遠くで、一台の車が走り去る音が、長く長く続いた。
 橋本は部屋に戻った。
 そしてそれきりもうベランダには出てこないで、ふくろうが団地を一周してすぐ、朝が来た。

 桜の季節が去り、マンモス広場に若緑輝く五月がやってきた。夏の近付いた団地のたくさんの窓は、ぬくもった夜の闇を歓迎する子供たちの声がにぎやかしい。

 梅雨が来た。雨に洗われた木々の緑がほんとうに美しい。長雨に閉口したふくろうは、「うろ」を探してマンモス広場をあちらこちらして過ごした。

 八月。虫の声。エアコンの室外機が一斉にうなる音が、ふくろうの耳についてはなれない。団地の夏の夜はひときわ暑い。
 それは夏の終りの夜だった。

 橋本が、朝が来ても団地の部屋に帰って来なかった。翌日も、その翌日も、橋本の部屋の蛍光灯は灯らなかった。ふくろうは橋本の帰りを毎晩、待っていた。帰ってこない部屋の四角い暗い窓が、どこか恐ろしい所への入口のように視えた。
 何日かたった晩、彼の部屋のすべての窓には真っ黒の、大きなビニールが貼られていた。
 ふくろうは、彼がもうここにはいないのだということをなんとなく感じた。
 つきだした小さな胸がトクントクンと鳴っていつまでも止まない。
「ホロッコ」
 彼女は鳴いた。
 すぐ脇のアスファルトを急ブレーキで滑っていく車の音がして、とっさに彼女は、自分がいま立っているとまり木を、ぎゅっと摑んだ。
 朝が来るにはまだほど遠い東の空に、コウモリの群れが狂っている。暴風雨のあとのような、すこしの音も無い夜だった。





 輝きの時

      申(シン) 明(ミョン) 均(ギュン)  

「このごろ、息子が暴れやがってよォ」
 平田に向かって、職場の同僚の槇村が嘆いた。仕事の帰り、工場の近くの薄汚れたヤキトリ屋で一杯飲んでいた時のことである。
 高校生の長男が学校に行かなくなり、親に手向かうようになったという。
「口を聞かねーんだ。意見すりゃすぐに向かって来やがるし、もう手に負えないよ」
 平田にも高校生の息子がいたから、槇村の辛さは理解できた。が、返す言葉がない。
「この間なんか万引だよ。警察から電話があって」
 平田には慰めようがなかった。安っぽい同情をしたって気休めにしかならないだろう、黙って聞くしかない、と思った。
「あんな可愛いかった奴が・・・・・・お父さんからオヤジになって、このごろではテメー呼ばわりだよ。まるで敵(かたき)でも視るような目つきでよォ」
 槇村はだんだん涙声になり、
「息子を殺して自分も死のうかって思うときがあるよ」
 と、言ってから深い溜息を吐いた。平田は、その気持ちを嘘だとは思わない。けれど、そのセリフにはさほど驚きはしなかった。
 何日か前の夜、高校生の息子の母と名乗る夫人からの電話を、中学生の娘が受けた。息子はまだ戻らず、妻も出掛けていたので仕方なく平田が出た。婦人と話すのは初めてのことであった。受話器を取ると挨拶もなく、
「お宅さんはいいですねぇ。息子さんが素直な良い子で・・・・・・」
 と、婦人はいきなりそう言った。平田には何のことか分からない。「オレの息子が素直な良い子だって?」それは、もしかしたら、息子が友だちと何か事をしでかし、そのことを知らないでいる親への皮肉なのだろうか、とも考えた。「毛の生えかけた年ごろの野郎が、素直で良い子のはずないじゃないか」平田はそう思いながら、これから何を聞かされるのか、と構えた。
「私、こどもの事で、辛くて、ほんとにもう、どうしたらいいのか・・・・・・ともだちの平田くんはあんなに良い子なのに、私、息子と一緒に死にたい」
 平田の耳元に、婦人の泣き声が響く。
「奥さん、落ちついて下さい。奥さんの辛い気持ちはよく分かります。でも、みんな同じ思いですよ。私だって、息子を殺して自分も死のうと思うことがあるんです」
「エッ、ほんとですか?」
「えぇ、ほんとうです。何度も」
「何度も」
「えぇ」
「そうでしたか。今の子ってどうしてああなんですかねぇ・・・・・・夜分、突然で済みませんでした」
 それで電話は切れた。平田は婦人に嘘を言った。息子を殺そうなんて考えたことは今までいちどもなかった。帰った息子に、友人のお母さんから電話があったことを教えると、
「あいつのお父さんとお母さんは少しおかしいんだよ。ちょっとした事でギャーギャー言って。あいつは良い奴なのに、あれでは可哀相だよ」
 と、言った。
 平田の家でも、今まで親子の争いがぜんぜん無かった訳ではない。息子が高校生になり、やがて、やたらと鏡ばかり覗きこむようになった頃から様子が変わってきた。そのころの平田には、少しずつではあるが、息子が自分を避けているように感じられた。父親に相談してからでなければ決められないような事を、ひとりで勝手に決めてから母親に知らせているのを聞いて、ふと寂しい思いもしたが、「色気の付く頃だ、しかたがない」と諦めていた。けれど、だんだんと神経が研ぎ澄まされてきて振舞いがトゲトゲしくなり、寄って帰る平田を冷たい視線で眺めるようになった。まさに一触即発の毎日であった。
 そんなある日、息子の部屋のドアをノックした平田は、
「ノックの仕方が悪い。そんなに強く叩かなくてもいいじゃないか」
 涙を流しながら飛びかかってきた息子にあっけなく倒されてしまった。
「こいつ、親を何だと思ってやがるんだ」
 息子に摑みかかろうとしたとき、中学生の妹が、
「お父さん、私たちは家族だから、ね。家族なんだから」
 と泣きながら体にしがみついてきて、「そうだ、オレたちは家族なんだ」と、娘の言った「家族」という言葉に妙に納得して思い止まったのである。
 その夜、平田は息子から手紙をもらった。
「親という字は、木の上に立って見る、と書くのを知っているか。お父さんはこどもを信じて黙って見ててほしい」
 という抗議めいた文句が書いてあった。平田は「息子の言うとおりかも知れない」と思った。そうやってだんだんと大人になって行くのだろう。現在は親をうっとうしく感じているのかも知れない、と考え直すような気持ちになっていた。
 平田は、娘がとっさに叫んだ「家族なんだから」という言葉の意味を忘れていたように思った。そして「家族だから、ただ信じていればいいんだ」と反省したのだ。
 それにしても、婦人といい、この槇村といい、どうしてそんなに息子たちの人生に、自ら拘わろうとするのだろうか。親だからといって心配ばかりしていてもしようがないじゃないか。彼らには彼らの人生があるんだ。そっとしておけば、いつか自然に収まるところに収まるさ。罪を犯せば、それを償うのは彼らなんだ。いくら親だからといって代わってはやれないんだから、という思いが平田にはあった。
 平田は、『親切(しんせつ)』という字はオヤギリとも読むのを思い出した。動物の親が成長したこどもを巣から追い出すのは本能的な愛情であり、それが『親切』の本当の意味ではないかと考えたことがあった。「槇村、オレたちは、もうそろそろその事に気が付く齢なんだ」。しかし、槇村は弱り切っている。わずかの酒でやっと己を支えているのだ。今それを言う訳にはいかない。平田は、握ったコップ酒を軽く回しながら別のことを言った。
「むかしサ、まだ四つか五つぐらいの時だけど、オレ、恋をした事があるんだ」
 槇村は「いきなり何を言いだすんだ」というような顔をした。
「そのころはジャガイモみたいな頭でさ、ランニング姿で、いつもオヤジの自転車のハンドルにしがみついていたんだ」
 父の猛猛しい腕に囲まれ、もたれるとそこには父の厚い胸があり、振り仰ぐと父の顔はいつもまぶしく輝いていたことを、平田は四十歳を過ぎた今でも、忘れることはなかった。
「そうそう、ハンドル椅子を付けてだろ? オレもよくそうやってオヤジに乗せてもらったよ」
 槇村は笑って応えたつもりだろうけど、目は赤く潤んでいる。平田は、彼のそんな顔を見るのがつらかった。幼いころの想い出が、一時は、暗い思いで塞がっている胸の内を慰めはするだろう。けれど、そのことがかえって、後からよけいに彼自身を苦しめるかも知れない、と思ったのだ。が、平田はそんな思い出ばなしで彼を慰めるつもりはまったくなかった。
「橋のところで、向こうから自転車がきてオヤジは止まったんだ。相手の自転車にもオカッパ頭の女の子がハンドルにしがみついてたよ」
「それが恋の相手だっていうのか?」
 槇村には、いま自分が抱えている悩みとまるで掛け離れている平田の話がバカバカしく感じられたのだろう、酒をあおってからそう言った。平田は、そんな槇村の気持ちを察しはしたが、「まぁ待てよ」という心持ちでコップを空け、お代わりを頼んだ。
「オレはその女の子に一目惚れをしたんだ」
 親父はハンドルを握ったまま、相手の男と話をしている。手を伸ばせば届くような近くで、女の子がハンドルにしがみついてこちらを見ている。オレも女の子ばかり見ていた。まるでお見合いをしているみたいだったな、と平田は思っていた。
「恋をしたと言うとおかしいかも知れないけれど、心の中が、暖かい思いでどんどん脹らんでくるようだった」
 その時の平田の気持ちの中に、オカッパ頭の女の子を可愛いと思い、好きだという感情が沸いてきたのは事実だった。
「でもまだ四つか五つだろう? 恋なんておかしいよ」
 と言いながら槇村は、こぼれた酒で濡れているカウンターに指で丸を描きだした。それは、いらだっている時の彼の癖である。槇村は、平田の話が、悩みへの答えになっていない事に不満を感じ始めたようだ。槇村にしてみれば、むかしの恋物語なんて今のオレに何の関係があるというのだ。オレは今それどころじゃないんだ、という思いだったのだろう。
 平田は、槇村の指の動きをながめながら酒を飲み、それにはわざと構わぬ振りをして話を続けた。
「でもね、今考えるとサ、オレは、女の子に、父を自慢したいという誇らしい気持ちになっていたと思うんだ。そのころのオヤジはたくましくてサ、輝いていたからね」
 それは、年頃の青年男女が、恋人に、自分の家族を自慢して気を引くような幸福な感情に似ていたのかも知れない。平田は、たぶん、その時、そんな気分に酔うようにして女の子を見ていたのだろう。
「あぁそうか、それなら分かるよ」
 槇村の心の中にも、むかしを蘇えらせるような淡い想い出がまだ残っていたのだろう、平田の顔を見てそう言った。指の動きは止っていた。槇村はコップを空にした。息子の悩みは忘れよう。簡単に答が見つかる筈はないのだ。今夜は思い出ばなしをしながら酔っぱらってしまおう。槇村は、どうにもならない悩みを、うかつにも職場の同僚に打ち明けてしまった自分の軽率さに気付き、むかしの恋ものがたりを話している平田に「すまん」という気になっているらしい。いくらか気分もまぎれたのか、酒のお代わりをした。
 平田にも酒が心地よく回っていた。
「あの頃の親父は輝いていたなぁ。オレたちなんかとてもかなわないね」
 そんな思いが心に広がっていた。それは、今は亡きオヤジへの鎮魂歌であり、息子に残すたった一片の叙情詩である。そして、それはそのまま今夜の子守歌になり、やがては我が人生への葬送の辞になるのだ、という感傷となった。
「オレがその時のことを一目惚れと言い、恋したと言うのはね、大人になってからその人に逢ったんだ。あっ、オレが小さい時に好きになった人だって、すぐに分かったよ」
 それは、市で行われた催しに、村の青年団の代表として参加した時の事であった。高校を卒業して後のことだから、彼女とは十四、五年ぶりの再会になるのだけれど、彼女はもちろん何も知らない。
「でも、その時はぜんぜん心がときめかなかった。むかしはあんなに好きになったのに、どうして今は気持ちが動かされないのか自分でも分からなかった」
「あまり美人じゃなかったのか」
「いや、とても美しくてスラっとしてたよ。でも、小さいときのような熱い思いが少しも湧いてこないんだ」
「むかしの事だから、冷めてしまってたんだろ」
「そのときは、何も感じなかったのが自分でも不思議だった。今から考えるとね、その時オヤジはしぼんでしまっていたんだ。ぜんぜん輝いていない。オヤジって、いつかそうなるんだ」
「あっ、そういう事か。うーん」
 槇村は絶句し、カウンターのコップをにらんだまま身を固めてしまった。
「おまえ、息子の前でいま輝いているか。息子が誇れるオヤジだとう自信あるか」
「・・・・・・」
「これからは、息子を、おまえのオヤジさんだと思うんだよ。おまえだってさんざん親を困らせ、泣かせただろう。息子はオヤジの身代わりに生れて来たと思うんだ。一種の復讐だよ。だったら大事にしなくちゃならんだろう。いつかその気持ちが息子に伝わるよ。それしかないね」
 平田は、ほとんど会話のなかった晩年の父を偲びながら残りの酒をあおった。
「父はオレにどんな生き方を望んだのだろう」そんな思いが、飲む酒を苦く辛(から)いものにしていた。これが人生の味だという気がした。平田は、槇村の人生の味はどんなだろうか、とふと思った。復讐という苦い香りがするだろうか。けど、オレだって同じだよ。
 平田はもう一杯注文した。槇村のコップに注いでやり、残りを一気に飲んだ。
「おい、息子よ。オヤジなんて、黙って働いて、家族の幸せを祈ることぐらいしかできないんだ。そうやってしぼんで行くんだ。親父なんてそんなもんだよ。でも、まぁ許してくれよ」
 最後の酒は、息子を恋しくさせる味となって平田の心に染みた。





  磯貝治良小説集のこと

磯貝治良の小説集『イルボネ チャンビョク』が名古屋の風琳道から出た。
 ここ十年ほどのあいだに雑誌に発表されたもので、朝鮮韓国とのかかわりを主題にした作品のなかから中短篇六篇が収められている。「根の棺」(『新日本文学』)「スニの墓」(季刊『辺境』)以外の四篇は、いずれも『架橋』に発表されたもので、「梁(ヤン)のゆくえ」(『文学界』転載)「ソンヂャの選択」(旧題「聖子の場合」)「木槿(むくげ)」「イルボネ チャンビョク-日本の壁」である。
 ここ数年、〈在日〉社会も、われわれの日本とのかかわり方も、ずいぶん様相を変えているが、ここに収められたいずれの作品も、一九五〇年代末から現在にいたる時のながれをつらぬいて、主人公たちの鮮烈な生と日本人との関係が描かれている。
 日本文学のなかに朝鮮韓国が題材とされる小説は少なくないが、単発的なものではなく、このように一人の作家によって集中的に追求されている作品集は、めずらしい。ぜひ読んでほしい。     (K)





 ソウルまで
  ――「在日」文学の故郷体験とともに

      蔡(チェ) 孝(ヒョウ)

――胸が詰まって、息苦しくてならない。しかし私は膝をがくがくさせながら、登りつづけた。
 登りつめた。次の瞬間、私は声をふりしぼって叫んでいた。
「ボヨッタ! ボインダー(見えた! 見えるー)」
 朝日を受けてひろがった目の下の海の向こうにうすら青い山々が、しかも前後ろに折り重なって長々と横たわっている。(中略)朝鮮の地、その山々であった。(金達寿(キムダルス)『対馬まで』)

 夢がひとつが叶うたびに人生の何かが壊れてゆくという。だとすればひどく哀しいことだが、私の場合にも思いあたるふしがないではない。
 一九九四年三月、私は初めて韓国を訪れた。三泊四日の旅はまるで夢のような体験だった。
 そう長年の夢だった。劣等感を引きづりながら、それでも朝鮮人であることを意識の中心に据えて生きようとして以来、朝鮮の地をいつかは訪れてみたいと思うようになっていた。しかし在日二世の私にとって、それは淡い片想いの恋心のようなもので、「朝鮮籍」であることをのり越えて行きたいと思う夢を持ちえなかった。単に記号にすぎないという「朝鮮籍」にこだわっていたのだ。
 そんな私が日本人の友人たちも含めて、同胞とともに、「ノリパン(놀이판)」というサークルの中で、民族のものを学んだり触れ合っているなかで、韓国に残る伝統文化にひかれるものを感じた。仮面劇(タルチュム)巫堂(ムーダン)サルプリ(厄解きの舞)などの中に、苦痛を乗り越えて生きる、したたかな民衆の生命力を見、それに父や母たち一世の姿を重ね合わせるのだった。
 だが心が本当に韓国に向かうのは、韓国のグループ「サムルノリ」に出会い強烈な衝撃を受けてからだと思う。以来、農楽やチャンゴを友人たちと学ぶなかで、韓国を訪れようと心に決めたのだった。
 韓国の地を踏んだ今、私の内で何かが壊れたのだと思わずにはいられない。夢の実現と喪失、充足と虚脱が胸でこすれ合っている。ここでは、私がソウルへ足を置くまでの手続きに関わる葛藤を中心に日記風にまとめた。そして先人の故郷や生地への思い、訪問がどのようなものであったか、もう一度「在日」文学作品を引きながら向き合いたくなった。長い引用がいささか変則的であるが、私にとってそれらは決して無縁でも無意味でもないのだ。

――迎えが来たって、地獄なんか行くもんか。私はくにへ帰るんだ。くにへ帰るんだよ。たとえ死んだって、私は母さんや父さんと同じ土の中で、一緒に眠りたいんだよ。私はくにへ帰るんだ。日本なんかで死にたくないんだよ。(金泰生(キムテセン)『少年』)

――私は故郷を考えるとき、ひき裂かれ置き去りにしてきた自分の肉体の一部を想い描く。そして私の故郷はかつても今も、孤独であるに違いない、と思うのだ。私の故郷から始まったこの「日本地図」は、再び私が故郷に辿りつくことによって、はじめて完結するのかも知れない。(金泰生『私の日本地図』)

――私は父と母の墓所のありかを知りません。父は死ぬ間際までも、絶対に帰ってくるな、老いた者が先に死ぬのは世の常だ、日本で生きろと、ことあるごとに言ってきたものでした。恨み多い日本にひとり息子の安泰をあずけねばならなかった父の思いを思い出すたびに、私は身がよじれてくるのです。(金時鐘(キムシジョン)『クレメンタインの歌』)

 一九九二年十月×日
 民団から電話で国民登録が出来たとのこと、夕方、大曽根の事務所に取りに行った。応対してくれたのは若い女性職員、河(ハ)さんである。彼女は自分のことを、
「カワです」
などと自己紹介してくれる。
「ハさんですね」
「アラ、ウリマル出来る方でした?」
「いいえ、恥ずかしながら出来ません」
 まさかこういうところで河(ハ)が河(カワ)になるとは思わずうろたえてしまう。彼女も顔を赫らめている。だが説明は分かりやすかった。
「パスポートはまだ出ないんです。区役所へ行って外登の国籍欄を「朝鮮」から「韓国」に変えた上で、登録済証明書を持って来て下さい」
「蔡(チェ)さんはまだ戸籍がありませんので一回限りの臨時パスポートということになります」
 河さんの声は、あくまでやさしく、笑顔を絶やさない。なるほど自国民のパスポートを出すのに日本の役所の証明がいるというのだな。しかも戸籍も登録も解放前、後の差はあれ日本が作ったものじゃないか。朝鮮籍から韓国籍に変えるのですら何か割り切れぬ思いがつきまとっているのに、追い討ちをかけられているみたいだ。私はここ数年、登録の切替を拒否したままなのだ。
 私は団費二千円カケル十ヵ月を払い、河(ハ)さんにお礼を言って家路についた。

――美しい抑揚の波のうねる会話の切れ目のない流れがそのまま素晴らしい音楽となって聞こえてきたのだった。ソウルで聞かれる朝鮮語はこんなに美しいものか――(中略)思わぬ花が開き、においを放ち、そのおしゃべりの奏でる音楽に乗って、眼に見えぬ妖精が、電車いっぱいに踊っているようでさえあった。(中略)朝鮮の女学生だけであり、そして朝鮮語の会話だけで電車が埋められるのを見るのは彼にははじめてであった。瞬間何ものをも忘れてただよろこびで脹らむ思いでそのすばらしい唇を、光る歯を、かがやく瞳を見ていた。こんな充ち足りた心で、人の顔を、そして魔法のようなことばを送り出す唇を見たことがあるだろうか。ああ、おれはついにソウルへ来たんだと彼は思う。(中略)わが祖国の「首都」、ソウルにおれはようやく辿りついたんだと、彼は幸福感に充ちた深い息を吐きながら思った。(金石範(キムソクポム)『1945年夏』)

 一九九二年十月×日
 母の祭祀(チェサ)に福井へ帰る。早いものであれからもう四年、五周忌である。あの朝早く私が病院に着くのを待って、人工呼吸器ははずされ母の心臓は静かに停止したのだった。身を切るような寒さの霊安室の中で、私たち兄弟がだだっ子のように泣きじゃくる傍で医師や看護婦が深々と頭を下げて母を見送ってくれたのを鮮やかに思い出す。
 例によって夜中の宴会。
「ほんじゃ、おっ母(かあ)、皆んなで食べさせてもうらうさけの。おうい、子供らもこれを少しずつ飲みねの。これは福酒(ポクチュ)ていうんやげ」
 祭祀に使った酒を勧める明るい兄の声が座を和げる。姉たちの共和国訪問のみやげ話や従兄たちの消息を聞きながら話ははずんだ。
「ところで、あんただっちゃ韓国籍に変えたんが」
 と富山の姉が私に尋ねてきたので、そうだというと、
「何もこだわることなんてないが。生きたいように生きるが一番。あんただっちゃ、早よ、韓国へ行って来まっし。私だっちゃ当分、朝鮮籍のままでいるから」
 と石川の姉である。すると義姉が、
「ほやって、子供らは帰化してくれってうるさいやって」
「わしは帰化せんわい。ただお前(め)らが帰化したいってゆうても反対せんさけの。日本で生きて行かなあかんのやも。それぞれ色々あるわいや」
 と兄。それからどこの誰が帰化した。誰々が日本人と結婚しただの、あげくはタレントの誰々が朝鮮人だのと話はとどまるところを知らない。複雑な思いのまま私も話に加わっていた。

――「アイゴウッハルラ山だ!」突然、傍に坐っていた三十歳くらいの男が朝鮮語で叫びながら跳び上がっていた。「おういハルラ山が見えるぞ、ハルラ山だ!」
 見ると、はるか水平線上に黒い点のようなものがぽつんと浮かんでいた。そのとき、金泰造がきょとんとしている暇も与えず人々がいっせいに、ああ、ハルラ山だ! と叫んで総立ちになったのだった。まもなく船室の穴倉に残っていたものが甲板に出てきた。そして人々はまるで日の出を拝むようにはるか故郷の漢拏(ハルラ)山を望んだ。泣き出す人もいた。泰造は異様な雰囲気の中で瞬間、一人戸惑っていた。(金石範『1945年夏』)

――サオギ、サオギ・・・・・・私はほとんど無意識につぶやいていた。アイゴ、これは何と懐かしいことばだろう。(中略)サオギ、サオギ、サオギ、小川の流れがささやく。それは私の頭のなかで繰り返されている故郷の声なのを私は知っている。たしかに故郷の声だが、はるか故郷の山から届いてくるのだが、その声は私を呼んでいないのだ。サオギ、サオギ、おまえはもはや故郷とは関係がない。おまえは異郷に住む者、故郷はおまえのものでない。サオギ、サオギ・・・・・・私は体内を風が吹き抜けて行くような音を聞いていた。(金石範『驟雨』)
 サオギ=済州島の方言。済州島に原生するヨシノ桜のこと。(筆者註)

 一九九三年 六月×日
 六月になっても今年ははだ寒い日が続く。区役所から手紙が届いていた。あなたは何年何月から法を犯して登録切替をしていないから写真二枚持って直ちに、役所窓口に来られたし、の至極愛想のない内容である。磯貝さんの言葉が頭に甦る。
「そんなもん、ほかっときゃいいんだわ。あいつら今、外国人労働者の不法滞在(オーバーステイ)のことで手一杯で、そんなことに関っておれんのだわ。済証などの住民としてのサービスはせないかんことになってるだで、いいって」
 運転免許証の切替も近づいており、何とかせねばと思う。バカバカしいことだが私は今「朝鮮」と「韓国」の二重国籍なのだ。
 外国人労働者の問題にしても、今の彼らに私たちの過去を見、私たちの中に彼等の未来を見るのは私だけではないだろう。まったく「過ちは繰り返しません」といったのはどこの国の誰だ。いずれにせよ、国籍、戸籍、登録などというものは私の思いになじまない。

――離陸してしばらくすると、もう眼下に朝鮮の山々や集落が見えはじめた。「痩せたわが母なる大地・・・・・・」というある詩人のことばが思いうかび、胸がつまってきた。
   (略)
――「ああ、ソウルの鍾路――」と、まさに三十七年ぶりにそこへ足を踏み入れた私は思わず口にまで出してそうつぶやいたものだった。(金達寿『故国まで』)

――雲間に紺碧の海がひろがり、白く波の打寄せる海岸線が遠く見えかくれする。朝子ははやる思いを押さえようもなく、子供のように額を窓に押しあてた。(中略)機体はゆるやかに蛇行する漢江の流れを遙かに見下して、大きく旋回をはじめた。(中略)座席に身を沈め、息つめる朝子の胸に、何かしら込み上げてくるものがあった。二時間足らずの空の旅は、祖国がこんなにも近いという実感をともない、なぜか狐につままれた思いであった。(劉竜子(ユヨンジャ)「おとずれ」)

 一九九三年七月×日
 二、三日前、末の息子と南アルプスへ行ってきた。登山口にはハングルで書かれた登山の注意や届出をしなさいという内容の看板があり驚いた。最近日本の山には韓国人の登山者が多いと聞いていたが納得した。久し振りの登山で気分が良くなり、
「さあ今年の夏は皆でガンガン山へ登ろう」
 というと、一斉に子供たちの反発が来た。
「とっつぁん、夏休みソウルへ行こうというアレはどうなったの」
「私なんか、ソウルへ行くかも知れないって友だちにいっちゃったわよ」
「ま、アテにはしてないけど、アテにしてたがや」
「ソウル、ソウル」
「いつも口だけなんだから」
 まったく口だけの男だと思う。こだわっていると言えば恰好いいが、単に物ぐさで、優柔不断だけなのかも知れない。
――仮にも、七・四共同声明でお互い認め合った中じゃないか。あとは歴史的な問題ではなく個人の選択の問題だよ――
 先輩の言葉が、私の頭蓋に魅惑的に響く。しかし、この日本では「朝鮮籍」は「韓国籍」に比べ明らかに不都合が多い。

――人間は、自分の生涯のうちに何回か、忘れがたい光景に出会うことがある。
 私が、生まれ故郷の「真岡」、いまのホルムスクを船上から眺めたときは、おそらく私自身の人生におけるそういう稀有の体験にかぞえられてよい場面にちがいなかった。(中略)私は前方に点滅する明かりがしだいに大きくなってくるのを眺めていて、名状しがたい感動を味わった。それは眼が痛いような光景でもあった。私は跳ね上りたいような気持をおさえて、妻子を呼びに上甲板をおりていった。(李恢成(イフェソン)『サハリンへの旅』)

――峠の上から村を見下すなり/人間によくも これほど涙があるものだと思うほど/ハンカチを濡らしながら/ただ泣いた/悲しかったのか/悔しかったのか/なつかしかったのか/それは知らない/ただ 子供の頃に遊んだ川原を見ては泣き/周囲の山々を眺めては泣き/野良仕事の人たちを/見下ろしては泣きまくった(鄭承博(チョンスンパク)「ただ泣いた日」)

 一九九三年 九月×日
 息子が満十六歳になるのを機に、いったん登録切替をし、パスポートが出るように整理しようと決意する。何をするにもまず決意、決意で区役所の窓口へ息子と行った。応対はインギンにしてブレイである。定住外国人の指紋押捺は一切廃止されたが、家族登録の義務が生じていた。一瞬ためらったが、結局、署名のみの拒否に戦術ダウンしてしまった。理由書を書いて下さいというので、私はうろ覚えの知識を総動員して、登録そのものの歴史的不当性、指紋押捺の完全な廃止と、今まで取られた指紋の返却を求め、登録証の常時携帯義務に抗議する旨を書いて出した。背中に冷や汗が吹き出ているのがわかる。息子も自分の意志で署名を拒否した。
 職員は最後に、念を押すように、これは法律違反であることを告げ、違反者は切替期間が五年から二年になるという。えっ、である。私はあっけにとられて思わず職員の顔を見た。うかつにも初耳だった。私はとっさに覚悟の上ですというのが精一杯であった。
 家へ帰って登録証をよく見ると在留資格は、特別永住になっていた。以前は例の政令一二六号の何とかというやつだったあれだ。こっちが頼みもしないのにである。戦後処理の不当性がなしくずしに隠蔽されてゆく。
 以前、難民の問題で特例永住を認めるようになった頃、入管のエライさんに虫酸がはしるような猫なで声で、特例永住をお取りになりませんかと「勧誘」された事を思い出した。

――四十余年ぶりに故国へ行くこのすでに年老いた男は、いま少年のように軀を固くして坐っている。気持が重苦しく、静かに繰り返される自分の呼吸を意識すると胸がぐきりと落ち込むように疼いた。(中略)二時間後に、この四十年間断ち切られた祖国の地に私がいる。そんなバカな・・・・・・。ソウルへ迫る一分、一秒が四十年を凝縮した時間の動きであり、四十年をいま一挙に現在にドッキングしてしまおうとする過熱した瞬間、秒刻みに進む瞬間に私はいた。
 息詰まるような、軀を投げ出したいような、身を屈めて祈りたいような苦痛と喜悦の揉み合う時間が続いた。そしてついに時間がゼロに縮まりながら、KAL機はもう夜になっていたソウルの上空に達していた。(金石範『故国行』)

 一九九三年十一月×日
 ノリパンを終えて、皆と今池の六文銭で飲む。韓国へ語学を学びに行っていた金広美さんの帰国歓迎会も兼ねる。席上、来年三月に中学にはいる子供たちもいるので卒業、入学記念を兼ねて韓国へ「修学」旅行をしようとブチ上げる。稲垣さんの賛同を得てホッとする。
 もちろん子供達は大喜び。お年玉は使わず貯金しなさいといっておいた。

 一九九三年十二月×日
 熱田働く人の家でノリパンの忘年会合宿。韓国旅行へ向けて本格的に動こうということになった。チケットは稲垣さんが旅行社に見積を依頼することになった。いよいよパスポートを取らねばという思いと、役所-書類-煩雑-おっくうの図式が、解けない方程式のように酔った頭の中でぐるぐる回り出す。できれば皆で行きたいと思う。費用も今は円高でそう高くないはずだという。いくら安いとはいえ、我が家は五人である。結構大きい金がいるものだ。

――が、ほんとうに私が「朝鮮」と接点をもったのは、やはり、大学卒業と同時期に「韓国」に足を踏み入れたときであったような気がする。それは、私にとって、まさにコペルニクス的転回であった。文献や喫茶店での在日同胞論議、統一論議のなかの「朝鮮」が、明るい太陽、赤レンガの建物、南大門市場のざわめきという空間的ひろがりをもって目の前に展開した。(成美子(ソンミジャ)『同胞たちの風景』)

――だって、韓国に行くということ自体にだって、なんら特別の感慨はなかったし、実際に着いてみて、やっぱり私の心は動く様子を見せない。ハングルの表示と飛び交う韓国語がなければ、日本と変わらない。(中略)
 しかしこれはほんの始まりだ。これからが本番なのだ。(姜信子(きょうのぶこ)『私の越境レッスン』)

 一九九四年一月×日
 パスポート取得のため東区の韓国領事館へ行く。職員のそっけない態度と要領を得ない説明にもう二度と来るものかと思う。今年から民団を通さず、直接、領事館でパスポート取得できる、ごく当たり前のことになったというのに、この有り様はいったい何なのだといいたくなる。言葉の問題もあったかも知れないが、日本語を話せないわけではないはずだ。頭に来てそのまま帰ってしまった。
 夜、家族からさんざん攻撃される。
「何年もハングル勉強しているくせにまだしゃべれないの」
「春休み海外へ行くって友だちに言っちゃったし、ノリパンもどうするの」
「海外たってソウルだよ」
「それでいいのよ。飛行機に乗って日本以外の所にいけばいいの。だからパスポート、なんとかしてよ」
 親の心子知らずだ。あのな、と説教しかけてやめた。
 そういえばなぜソウルなのだろう。私の父はソウルへ行ったことがないと思う。叔父も義祖母もソウルへは行ったことがないはずだとなぜか確信に近いものを感じる。なのになぜソウルへ行こうとしているのだろう。
 アイデンティティの不安。通過儀礼。韓国の象徴としてのソウルと見せかけだけの関係を結びたがっているだけなのだと思う。とすると国籍まで変えた、今までのことは自己欺瞞そのものだ。この後ろめたい気持は国が統一されるまで続くのだろう。
 民団でパスポート取れるから心配するなと言うと、子供は早速、ソウルまであと何日、などとカウントダウンのカレンダーを作っている。

――“ウナス”“ソル”“コブクソン”売店で一箱ずつ買ってきた煙草に一本火をつけて喫ってみる。やはりさしたる昂揚も違和感もなく、私はただ口中に言いようのないえがらっぽさを感じているだけだ。
 空港を出、タクシーに乗り、その両側の窓から目に飛び込んで来た景色は全てウリナラのものだった。闇にとりまかれ始めた町並みであっても、私にとっては明らかに形と臭いのある微粒子の一陣が、活気づいて閃き去る。商店の看板に書かれたハングル。足早に歩いているウリナラサラム(同胞)たち。テムポの早い歌謡曲。埃だらけの市内バス。ホテルの前でタクシーを降りると私の顔に濡れ雑巾のような突風が打ちつけてきた。身体をそり返しながらウリナラの洗礼を受けたような気がして私は心地よく突風の中を歩いた。だが、ホテルの窓辺にじっと座っているとガラスを透かしたソウルの夜は何故か淋し気だ。李良枝(イヤンジ)(『ナビ・タリョン』)

 一九九四年 三月×日
 長男を連れて、大曽根の民団へパスポートを取りに行く。また河(ハ)女史である。
「入管へ行けばすぐ再入国許可はもらえます。××千円の印紙代が必要です。今回の旅行が万一キャンセルになってもこの臨時パスポートは六月×日まで有効です」
 相変らず彼女の説明はやさしく、解かりやすい。車にもどって、先ずパスポートをじっくり見た。家のフスマを背景にして撮り合った写真が、無理にスマしているようで、なぜかおかしい。
 すぐ入管へ行き、同じような書類を何枚も書いて再入国許可を取る。しかし私はこの国の永住権があるのに、何の再入国許可なのかと思う。

――私は一世達が渡ってきたという玄海灘を越え、対馬へと渡った。「韓国の見える国境の島」がキャッチフレーズのこの島には、「望郷の丘」と呼ばれる丘があり、韓国へ渡ることの出来ない在日朝鮮人が、そこで故郷をまぶたに浮かべてしのぶという話を聞いていたが、二世の私には、それほど込みあげてくるものはなかった。それよりこの島で出会った人たちの朝鮮に対する好意に驚きを覚えたのだった。(許南英(キョナンエイ)『族譜』)

 一九九四年三月×日
 父の祭祀で福井へ帰った折、急に昔の家のあったところへ行きたくなり、兄や姉と僕の家族が、散歩がてらに行くことになった。二十五年ぶり、父が今のところに家を建て引越して以来、同じ集落にあるのに、足を運んだことはない。小さな谷あいにあり、丘を一つ越えるのがおっくうだった。私は高校卒業するまで住んでいた。もう家はなくて更地になっている。湿気の多い狭い土地である。信じられないぐらい小さな土地。思わず、ここに家があり、ここに豚小屋があり、ここに井戸があり・・・・・・一人ごとをいいながら指をさす。ガスも水道も無かった。水を汲む井戸を二カ所掘り、湧き清水も石臼で受けて利用した。その石臼が水の枯れた山の斜面の下に半ば埋もれて残っている。父と母が日本へ来て初めて持った自分の家であった。人の良かった、となりのおじさんやおばさんも、もういない。
 私の故郷は生まれて十八年暮らしたここ以外にはありえない。子供たちは狭い、ただの草地を怪訝な顔で眺めるばかりであった。

――緑なす島影が見えてきました。/日本です。/(中略)/みな子よ、きっと祖国とは、おまえの美しさのことです。/ママの二心のないやさしさのことです。/パパがママを愛しく思う、その熱さの中に国はあるのです。(つかこうへい『娘に語る祖国』)

 一九九四年 三月二十七日
 今日は生涯忘れることのできない日である。
 昨夜、石川県の姉から激励の電話があった。
「私もいきたいんやぜえ」
 本心から語る姉の声に、私は言葉を失った。共和国に帰国した従兄たちの顔が浮かぶ。私は彼らを裏切ろうとしているのだ。私は見えない相手に向かって頭を下げたい気持だった。
 ほとんどパニック状態のなかで怒鳴り合いながら、バッグやリュックに荷物を詰め込んだ。朝早くタクシーに乗り出発したものの、こたつを消し忘れて、一度家に戻ったりで、空港に着くまでは家族同士、口もききたくない心境であった。皆と無事、顔を合わせた時、ようやくホッと気分が和いだ。
 金石範氏の風貌を少しおだやかにした感じの旅行会社の社長も来ている。手続きの何から何まで初めての私たちは、社長氏や稲垣さん頼みである。出国の手続きを済ませると、稲垣さんが、
「さあ、ここからは一応、日本ではないということだよ」
 とニコニコしながら言った。あまりピンと来ないのだが、そんなものだろう。
 飛行機に乗り、動き出すと初めて震えるような緊張が全身に走る。何か大声で叫びたい。おい、ソウルへ行くのか、本当にソウルへ行くのか? もう一人の自分の胸ぐらをつかんで問い質したい衝動にかられる。
「お父さん、飛行機、落ちたらどうしよう」
「一緒のお墓にはいれていいじゃないか」
 私の顔もひきつっていたかも知れない。
 機がいきなり加速して、身体がぐうっと持ち上げられたと思ったら、もう眼の下に木曽川が朝日にキラめきながら身をよじらせているのが見えた。日本の山は自然林が少ないが、空から見ると春まだ浅いのに、ずいぶん緑が濃く見える。山の上には雪が残り美しい。
 紺碧の海に航跡を白くひいた一隻の船が、豆つぶのように見える。父や母も消え入りそうな不安の海を越えて日本へ渡ったのだろう。
 やがて韓国の海岸線が見える。白い波打際がギザギザにそれでもほぼ真直ぐ南に伸びている。
 あっけない時間と、はてしなく長かった時間が、私の内でせめぎ合うように泡立っている。
 胸さわぎは私の視線を韓国の大地に釘付けするばかりだ。山なみ、入り組む谷、川の流れ、ダム、道路、集落。大地は褐色である。山や田や畑も緑濃い日本とは対照的だ。
 意外に、こみ上げてくるものはない。ただ私をここまで引張って来た朝鮮の大地を心に焼き付けたいと、それだけを思っていた。これからはじまるんだよ、そう言いたげな稲垣さんのやわらかい視線を感じたが、囲りの人の思いやりが胸にしみる。
 冬枯れの褐色の大地をたゆとう洛東江(ナクトンガン)を見下ろし、まだ雪のわずかに残る聞慶(ムンギョン)あたりの山々を越えると、機は徐々に高度を下げはじめた。高速道路を走る車も肉眼で見わけられるようになり、高層アパートの乱立を見ながら、明らかに首都圏の密集度が増すにつれ、機は高度を下げて行く。と、そのまま金浦空港の滑走路に滑り込んだ。私は醒めかけた夢を追うように、一斉にざわめきたつ中で目を閉じていた。何年か前、亡くなった母はどんな気持でここに降り立ったのだろうか。生前の母の貧しくたよりなげな姿が、不意にまぶたの裏に現われ、目頭を熱くするのだった。
 子供が私を促す。ソウル、ソウル・・・・・・。何か別の力が私の内に充ちてくるのを、飛び上がりたい衝動を殺しながら噛みしめていた。





 そして『西便制』
    ――二十数年ぶりの韓国

      朴(パク) 燦(チャン) 鎬(ホ)

 一九九二年十月三十一日、二十三年ぶりに金浦空港の土を踏んだ。六九年八月、韓青祖国訪問団の引率で訪韓して以来である。
 この訪韓は、シンナラレコード社の招請によるもの。シンナラは、同年二月に韓国で翻訳出版された拙著『韓国歌謡史 一八九五-一九四五』(玄岩社)をもとに、解放前の朝鮮SPレコード歌謡復刻CD全集を作製したレコード会社で、同社からCD全集発売と、同社直営レコード販売店の開店を記念して招かれた。
   出発を前に緊張の三十分
 名古屋空港に着いたのは、その日、午後零時半。五日後にソウルで合流することになっている妻の見送りを受け、出国手続きを終えて国際線ロビーで待機したが、搭乗三十分前、急に言い知れぬ緊張感にとらわれた。
 パスポート申請直後、総領事館に呼ばれたが、組織を離れて十年近く経っていたため、領事はいささか残念そうであった。世に言う〈一筆〉なるものも要求されなかった。十数年前、韓国で尾行されたことのあるJ先輩も、今はそんなことはないといっている。
 多分そうだろう。だが、妙に緊張する。韓青、韓民統時代のことが、走馬燈のように脳裡をよぎる。過去、俺は、自分の信念に従って行動してきた。本国の身内に迷惑をかけたこともあったが、その方向性に間違いはなかったと自負してもいる。よし、大丈夫だ。
 午後二時半。アシアナ機で出発の時には、平常心を取り戻していた。機内から見る下界は、すべてが目新しかった。
 木曽川だろうか、半逆光のフレアがかかった窓外の雲間から、太陽の光を受けて白く光る川が、大きく蛇行して見えてきた。やがて雲は、幾重にも重なって空を覆い、壮大な雲海をなした。
 三時十九分、東海(日本海)へ抜ける。高度一一八八七m、速度六七四km、外気温度マイナス50度C。氷山のような雲海の合間から、海が反射して見え隠れする。
 三時三十八分。韓国の海岸線が見えはじめ、漁船の影も見える。同四十四分、韓国の上空に入り、海とともに湖が視界に入る。
 三時四十七分、慶州の北方を飛ぶ。同五十六分、下を流れる川が陽光を浴びてキラキラ輝き、その川から反射した光が雲を照らして、えも言われぬ幽玄な雰囲気を醸し出す。
 四時三分、ソウル上空に入ったとのアナウンス。雲が厚くて下界は見えない。高度が下がりはじめる。同十二分、高速道路が見えてきた。同十三分、金浦空港着陸。
   税関で足止めされる
 入国手続ではトラブルもなかったが、税関で足止めされた。シンナラの社長に頼まれて携行した、カセットテープ約八十組が引っかかったのである。このテープは、大阪のワン・コリア・フェスティバルで売れ残ったもので、平壌で開かれた第一回汎民俗音楽際に出演した韓国の国楽人の演奏が入っている。
 係員に「これはソウルで作製され、販売されているものだ」と、いくら説明しても埒があかない。出迎えに来るはずの社長は、まだ来ていない。四寸兄(従兄)が出迎えに来ているが事情を話すわけにもいかず、会釈だけして、また係員と折衝する。
 四十分ほど遅れて社長が着き、そのカセットテープは自社で作製・販売しているもので、韓国側の演奏だけを収録したものだと強調した。結局、全曲通して聴き調べるということで、別室に待機させられた。その間、姑母(父の妹)も空港に来ており、私の前歴を知っているだけに、不安そうな面持で同行した。
 六時になって、やっと無事放免となった。社長はラッシュに巻き込まれて到着が遅れたとのこと。また、予定されていた開店記念は、工期の都合で下旬にズレ込み、CD発売記念は来年に先送りになりそうだという。ムー・・・・・・。
 姑母、従兄とともに、ソウル郊外・九里市の姑母宅へ向う。六〇年代にはなかった道が縦横に走り、車窓から見る漢江沿いの道は、まさに車の洪水だ。ちょうど退勤時のラッシュアワーとぶつかったため、ほとんど進まない。今更ながら〈今浦島〉を実感。
 車中、S新聞社販売副局長をしている従兄が、面白いことを言った。韓国には整理すべきものが三つある。それは土墓、礼式場、そして教会だというのである。
 人口が急増している韓国では、土饅頭式のお墓をこれ以上増やすべきではないというのは、よく言われている。その上、最近は豪華なものが多くて社会問題にもなっている。
 礼式場とは、結婚式場のこと。朴政権時代に結婚式が簡素化されたが、最近また派手になっているらしく、公共の会館を建てて質素にすべきだというもの。
 教会の多さは特筆に価する。二十数年前にも目立ったが、今回、行って見て、またびっくりした。夜になると十字架に赤いネオンが灯り、それが街中のあちこちに見られるから、一種異様な思いに襲われる。
 姑母一家は信仰の道に入っているので、従兄とほほえましい論争を展開していた。
   ソウルから一路、長水へ
 翌十一月一日五時四十分、姑母とともに、従弟がさし向けた〈ボランティアV6〉で全羅北道長水へ向う。オンドルの熱さが苦手なので、ほとんど眠っていない。
 韓国では、客には部屋の中でも一番暖かい部分に床をのべる。初めて訪韓した一九六五年一月、オンドル焚き口に近い〈一等地〉を与えられたが、汗がタラタラ流れて眠られず、何度も起き出しては、ソウルの夜空の素晴らしさを満喫したものだった。
 車は、一路、中部高速国道を突っ走り、大田から湖南高速国道に入った。七時五分に日が昇り、同三十五分、論山を過ぎたあたりで霧がかかった。八時頃にサービスエリアで休憩。全州インターチェンジで高速を下り、見物がてら全州市内を一巡した。紅葉する山道を、馬耳山などを見ながらひた走り、長水に着いたのは十時少し前。
 昼食後、伯父母、姑母とともに、父の墓所にお参りする(伯父は、弟の墓なので側で見ているだけ)。日本に墓を作るべきでない。故郷で眠らせてあげるべきだと主張しておきながら、二十二年目にして初めて訪れた不孝を、心から詫びた。
 午後四時頃、長水を出発して全州へ向う。車中から、劉竜子さんの店〈酒幕〉で磯貝氏に紹介された、全北大学の李漢昌氏に電話をしたが、群山に帰省中で、夕方には帰るとのことだった。
 全州では有名な全州ピビンバを食べたかったが、最近はコンナムルクッパの方が有名だと全州出身の運転手がいうので、三一館という専門店に入った。全州は水があまりよくなかったので、昔から豆もやしを栽培し、それが名産になったとのことだ。
 その夜は、全州市内孝子洞の親戚の家で一泊することになった。そこで李漢昌氏と連絡がとれ、近くの酒場で焼鳥を肴に杯を交わし、従弟を交えて談笑した。
   安東林氏らとの邂逅
 ソウルに戻ってからは、翻訳をしてくださった安東林氏とともに玄岩社を訪ね、またシンナラレコード社や、東京でインタビューしてくれた中央日報社会部を訪ねたりした。
 安氏は、東京は神田の生れ、チャキチャキの江戸っ子である。解放当時は朝鮮語を話せず、苦労したとのこと。その後、平壌に帰って金日成大学に学ぶが、材木商を営んでいた父親が、資本家だと糾弾されて非業の死を遂げたという。
 朝鮮戦争の時に越南。新聞社の文芸部に身を置きながら小説を書いていたが、五・一六クーデター後、小説の内容が北朝鮮のラジオで放送されたと当局に呼び出され、自分に何の関係があるんだと反発、腹が立って筆を折った。金洙暎、高銀らとも作家仲間で、文士たちの裏話など意外な話もうかがい、驚いた。安氏が推奨する作家は李清俊。残念ながら私は読んでいなかったが、人品ともにトップだと評価する。
 その後は高麗大学教授などを経て、現在は清州大学の英文学教授。毎週、KBSテレビでクラシック音楽の紹介番組を担当している。一九九〇年夏、拙著を日本書籍コーナーで見つけ、一気に翻訳したとのことだ。
 玄岩社では訴訟の話についていろいろ聞いた。韓国版が出版されてまもなく、某歌手の遺族から名誉毀損で告訴されたのである。有名作曲家の回顧録をもとに書いたのだが、資料は巻末に一括掲載したため、わからなかったらしい。翻訳に際しての、日本語と韓国語との微妙な表現の差異も作用したようだ。刑事訴訟では問題にもならないと門前払いになったが、民事が長引きそうだという。
   来てよかったが・・・・・・窮屈だった妻の初訪韓
 十一月五日、金浦空港へ。妻と私の同窓・C氏を迎えに出たのである。C氏に付き合えと誘われたので、妻には姑母と先に九里に行ってもらい、これも同窓のG氏の車でカルビを食べに行った。G氏のアパートで風呂をよばれたあと、九里に電話を入れたら、カンカンに怒っていた。
 妻にとって、この初の祖国訪問は、いろんな意味で印象深かったようだ。従兄弟たちは社会の中堅で活躍しており、日本で想像したより遙かにゆとりある生活をしていたし、親切だった。しかし、ハングルは読めるものの、挨拶程度のウリマルしかできないので、一人ぽつねんと過ごすことが多く、時折、厳しい視線を感じもしたようだ。
 焼肉店の開業準備をしている関係で、いろんな店に行きたがったが、親戚の家庭料理や接待ばかり。家で親戚が集まってチャンチ(宴会)をする時も、男女別々のテーブルで食べ物も多少ちがい、男たちに出されたカルビクイを食べられなくて、がっかりしていた。
 親戚の家に泊まると風呂になかなか入れない。バスルームがあるが、年ごろの娘がシャワーを浴びるぐらいで、普段はあまり入らない。だから、風呂に入りたいと言い出すのにも遠慮しいしいである。韓国は湿気が少ないが、習慣になっているから少々つらい。
 あれやこれやで、気を遣う煩しさがなく、自由に食事ができ、風呂に入れるホテルに泊りたいと言う。お説ごもっとも。しかし、今回だけは我慢してほしい。初めての親戚訪問だし、ただでさえ、一緒に墓参をしなかったうえ、私が長水で泊まらなかったということで不興を買っているのだから・・・・・・。
   大統領選に市民の関心も白熱
 十一月十九日、名古屋に戻った十日後に再度、訪韓した。シンナラ直営店の開店が、二十一日に決まったとの連絡があったからである。
 空港には姑従四寸兄(従兄)が出迎えに来てくれた。姑母の長男である。彼はこの春、会社で中央日報のインタビュー記事を見てびっくりしたという。部下たちが新聞を見ながら感心しているので、どれどれと覗き込んだら、なんと、私の写真と名前が載っているではないか。
「なに? 燦鎬じゃないか! 俺の弟だよ」
 ソウルは、白熱する大統領選挙の話題でもちきりだった。「誰がなっても同じだから、勉強をしっかりした人がやればいい。朴燦鍾はいろんな資格を持っているから、彼ならいいね」とは、あるタクシー運転手の弁。
 姑母の家でも御多分に漏れず、末の息子一家が来た時に侃々諤々、自分たちの意見を滔々とまくしたてていた。孫娘が〈現代〉に勤めているから、よけい賑やかだ。
「李鍾賛がよさそうだね」
「私も李鍾賛がいいと思うわ」
「ねえ、ウリ会長(鄭周永・現代会長)に入れてよ」
「あんな老人なんか駄目だよ。スキャンダルもあるし」
「金にものをいわせようとしている。彼に政治は出来ないよ」
「誤解よ。そう言い触らしている連中がいるだけよ」
「金泳三もいいんじゃないかな」
「民正党と手を握った点がちょっとね」
「それに、野党時代でも投獄されたことがないんだな」
「現実感覚が鋭いんだよ」
「やはり、金大中がやらなきゃ」
「金大中は闘士でしょ。政治家じゃないわ」
「政治家でないとは何事だ。お前に何がわかる。あの方はな・・・・・・」
 政治談議は尽きることなく、ますます盛り上がる。結局、姑母の「エエイ、シックロ、うるさい。自分がいいと思った人物に入れればいいんだ」という言葉で幕となった。彼らが誰に投票したかは知らないが、李鍾賛を支持した兄嫁は、かわいい娘の頼みを拒み切れず鄭周永に入れたと、後で聞いた。
   インタビュー記事で一悶着
 十一月二十一日朝、目が覚めて外を見ると、うっすらと雪化粧している。
 十二時頃、姑、従兄夫妻と江南区にあるシンナラ直営店の開店記念に行く。この辺りは狎鷗亭洞に近く、オレンジ族という、金持のドラ息子・娘たちが徘徊する問題の街だ。
 シンナラレコードの母体は新興宗教団体。京畿道利川の農園で集団生活をしており、無機農産物の全国直販で経済的基盤を築きあげて、レコード業界にも進出したのだという。
 開店記念レセプションで、スポーツS紙のインタビューを受ける。従兄が勤めるS紙系列のスポーツ紙だが、この新聞記事がちょっとした問題を惹き起こす。
 シンナラは直営店開店にあたって、歌謡復刻全集に携わった関係者には連絡しなかったようだ。それで安教授も怒っていたが、最も怒ったのが作曲家の黄文平氏。
 黄氏は作曲界の元老で、音楽著作権協会の会長などを歴任した人物。『青い丘』『花の中の花』『赤いマフラー』などで有名だ。日本では李成愛の『納沙布岬』で知られる。また、放送・公演倫理委員会の審議委員を長く勤め、大衆歌謡の審査に当たっている。
 シンナラは、氏に復刻全集の監修を依頼した。歌謡界の大御所という看板としての意味ばかりでなく、〈越北作家〉の作品を多数収録するについて、その立場での配慮を意識したとも思われる。
 黄氏は、私とシンナラ会長のカラー写真の載ったスポーツSを手に、激怒したという。そのためシンナラとの関係が悪化し、復刻全集発売記念パーティーは開けないまま今日にいたっている。私も、黄氏には一度も会えずじまいである。
   旧正月に父の墓前で報告
 一九九三年一月二十日、再び韓国に。焼肉店の計画が具体化してきたので、旧正月の挨拶を兼ねて父の墓前に報告するためである。
 翌二十一日午後二時三十五分、瑞草区の南部バスターミナルから直行バスに乗った。昨年の秋夕(旧盆)の時は、四時間もあれば着くところを渋滞で十二時間かかり、死ぬ思いだったと従兄弟から聞いていたが、今年は交通規制をするので、多少はスムーズに流れるだろうという。
 バスは暫く順調に走っていたが、一時間ぐらいして渋滞で止まってしまった。四時十四分、渋滞の高速道を避け、天安インターから一般道に下りて清州市内を抜ける。車内は暖房が入ってはいるが、かなり冷え込む。六時三十五分、大田インターで京釜高速国道に入り、七時四十四分に永同インターで高速を出る頃には、窓の水滴が凍りはじめた。八時三十分、茂朱を過ぎる頃には足がかじかむ。九時三十五分に終点の長水に着く。
 伯父宅を探して雪道をあちこち歩くが、どうしてもわからない。仕方なく警察署に行き事情を話したら、日本から来た奴が、何でこんな時間ここにいるのかと怪しまれた。伯父の家に電話して迎えに来てもらった。
 翌朝五時頃、伯母が起きて茶禮チェーサ(正月の祭祀)の準備にかかり、六時過ぎに伯父と三人でチェーサをする。今年はチョッカー(甥)がいてくれて嬉しいと喜ぶ。
 九時半頃テレビを見ていたら、「ヨンビョン歌謡舞台」という番組をやっていた。KBSテレビの人気番組「歌謡舞台」が、舞台を中国吉林省延辺に移して録画してきた旧正月特別番組だ。韓国の歌手と延辺の朝鮮族の歌手が交互に出演、韓国歌手のスレた唱法と、朝鮮族歌手の生真面目な唱法が対照的だ。
 朝鮮族と韓国との交流の現実を眼の当りにして、隔世の感を抱いた。特に、姨母(母親の姉妹)の消息をKBSに依頼して知り、感激の対面を果したという婦人が、「ソウルはわが故郷」と叫んだのが印象的だった。
 歌謡番組といえば、前年十一月二十三日、シンナラレコード直営店4階で、正月特別番組だという「歌謡百年史」の録画撮りをしたが、新聞のテレビ欄を見ても見当たらない。極度に緊張したわりにはウリマルがうまく話せたので、楽しみにしていたのだが・・・・・・。
 午後二時過ぎ、伯父と父の墓所に行く。雪をはらって果物と菓子を供え、酒をついで再拝し、報告した。アボジ、この五月から、アボジの工場を改造した店で、妻家の経験を生かして焼肉店を始めますので、どうか、天国からお見守りください。
 店名は〈長水苑〉。父の墓所の下方には川が流れていて、〈両水橋〉という橋が架かっている。長水からは、百濟の古都・扶餘を流れる白馬江を経て全羅北道と忠清南道との境をなし、黄海に注ぐ大河・錦江と、『春香傳』の舞台である南原を経て、全羅南道と慶尚南道との境をなして南流する蟾津江の、二つの川が発している。いわば、〈母なる二川〉の源流に位置しているわけだ。
 長水ではもう一泊し、ソウルに戻ってから従兄弟たちに感謝された。
   再び旧正月を韓国で
 一年後の今年二月九日、旧正月の前日にソウルへ発った。
 バスで市庁前まで行ったのはいいが、この辺りは二十五年前とちがって車中心となり、地上を横断することが出来ない。従兄の会社はつい目と鼻の先なのだが、ややこしい地下街に潜らねばならず、出口がわかりにくい。何度も迷って行ったり来たり、階段を上り降りしたが、荷物が重いので大変だ。ようやく探し当てたら、旧の大晦日で休みである。さいわい、用があって出社した社員が一人いたので連絡してもらい、自宅への道順を聞く。
 タクシーで指定された場所に着くが、電話しても従兄は留守で、姪のソウル弁がよく聞き取れない。夕方七時過ぎなのに底冷えがして、受話器を持つ手が凍えそうだ。従弟に連絡してもらい、やっと迎えに来てもらったが、このままでは凍死してしまうと、心底、そう思った。十時過ぎに帰ってきた従兄は「休日だと気づき守衛に言付けておいたんだが」と、事もなげにいう。
 長水の伯父が従弟の家に来ているという。老齢の伯母の脚の状態が悪く、チェーサの準備ができないので、今度からソウルの従兄の家ですることになったのだとか。
 翌十日九時過ぎ、伯父が従弟一家とともに来る。十時に茶禮チェーサをし、セーベ(歳拝=新年の挨拶)を受ける。目上の者が座る前で、目下の者がチョル(韓国式のお辞儀)をし、新年の言葉を受けて、お年玉をもらう。私もセーベチョルを受けさせられたが、慣れないのでくすぐったく、居心地が悪い。
 翌日、午後一時四十分、伯父とともにバスで長水に向うが、大雪が降ったあとなので去年以上に渋滞し、着いたのは夜十一時二十分。翌日午後、父と墓参に行く。私が先に立ってスコップで雪を掻き、伯父が後ろから箒でならしながら山道を進む。伯父は九十近い老齢だが、まだ矍鑠(かくしゃく)たるものだ。父には〈長水苑〉開店を報告し、加護を祈る。
 ソウルに戻ってから、店で使う糸唐辛子や、DOS-V型パソコンのハングル・ソフトウェア、映画『西便制』のビデオなどを買うつもりだったが、正月休みでどこも開いていない。糸唐辛子は、今春、姑母が名古屋に来る折に持ってきてもらうことになった。
 ハングル・ソフトは、『韓国歌謡史』の続篇を書くのに使うもの。安教授から、続篇をぜひ書くようにと勧められたからだが、本当は自信がない。韓国ではこんな金にならない仕事は誰もやらないと言われ、その気になったが、どうせなら韓日両国語で書きたい。手書きではとても追っつきそうもないから、どうしてもマシンの助けが要るのだ。
 安教授から、パソコンはアップル社のマッキントッシュがいいと薦められた。日本に戻って再検討することにする。
   (番外篇)『西便制』――パンソリへの郷愁
 『西便制』は、李清俊の同名の小説を林權澤が映画化したもので、空前の大ヒットを記録した。ソウルでは入手できなかったが、日本で知人に頼んでダビングテープをいただいた。内容は、師匠から破門されたパンソリの唱い手が、伝統芸能が廃れていく状況の中で旅回りをしながらパンソリの復興を夢見、〈恨〉を体得させるため、養女を盲目にしてまで修行させるが・・・・・・というもの。
 映画『西便制』の主演女優・呉貞孩は木浦出身の二十二歳。中高時代から各種パンソリ大会の学生の部で一、二位に入賞し、大学時代には南原のミス春香コンテストに出場、テレビ中継を見ていた映画監督・林權澤の目にとまった。『西便制』は93年度の映画賞を総なめにした。彼女は大鐘賞の新人賞や上海国際映画祭の主演女優賞を獲得、日本では今年一月二十四日号の『アエラ』の表紙を飾った。
 パンソリとは、謡曲や浄瑠璃、浪花節を合わせたような歌物語で、鼓手と呼ばれる伴奏者の合いの手でうたう。全羅道から生れた郷土芸能で、三つの流派があり、〈東便制〉は蟾津江の東方で発した重厚な唱法、〈西便制〉はその西方で発した繊細な唱法が特徴で、その中間の唱法として〈中高制〉があるという。
 全羅道にはユクチャ(六字)ベギという独特の民謡があり、パンソリと同じような発声でうたう。昔、流行歌をうたわせると全く調子っ外れの父が、民謡、特にユクチャベギになると別人のようにシャキッとうたいこなした。その頃は、朝鮮がいやでいやでたまらなかったのだが、今になって、あのとき習っていたらよかったと、つくづく思う。
 『西便制』のビデオテープを丈人(妻の父)に差し上げたら、小躍りして喜んだ。聞けば、この三月に光州に行った折、『西便制』を観に、二日続けてタクシーに乗って出掛けたとのこと。ビデオの音声が劇場より鮮明で、何よりも劇場映画になかった場面がかなり入っているのがいいという。
 丈人は木浦出身なので、西便制は子守歌みたいなものかもしれない。立て続けに三度見ていた。今も毎日繰り返し見ていて、テープが摩滅するのを心配しているとのこと。サウィ(女婿)として最高の親孝行になったようだが、家族たちはウンザリしている。





雨森芳洲の運命

賈島憲治(かとうけんじ)

      1
 享保十五年(一七三〇)四月十五日の昼下り、芳洲は裁判屋の庭から倭館の向こうに広がる青海原を眺めていた。海上を白い帆を掲げた和船が二艘ゆっくりと遠去かって行く。草梁倭館の港を出て、対馬の佐須奈へ向う大徳丸と順徳丸である。三日前に二艘の船頭が明日出発すると芳洲のところへ別れの挨拶に来たが、翌日は生憎風雨が強く船出が出来なかった。次ぎの日も猛烈な風が吹いたため、今日やっと出航した。芳洲はじっと船に目をやった。やがて二艘の船は東の小島に隠れて見えなくなった。一昨日も昨日も高波が強風に煽られて怒濤となり、倭館の石垣の下に造られた海岸沿いの散歩道の近くまで打ち上げていたが、今日は朝から空がすっかり晴れ上り、風は穏やかで大きな白い雲がいくつも浮かんでいる。芳洲はふと裁判屋の瓦の上を燕の群がぐるぐる飛び回っているのに気がついた。
 芳洲は今、一日も早く帰国したいという思いがした。釜山にある草梁倭館へ来てからすでに一年が経つ。しかし、事態は少しも進展していなかった。芳洲は対馬府中にやり残した仕事が脳裡から離れなかった。彼の建議によってようやく通詞養成所を御使者屋の次の間二間に六十商人の子供たちを集めて造ることができた。後四ケ月もすれば、享保十二年九月に入所した一期生三十人余りは丸三ヶ年朝鮮語を学習したことになる。その一期生の授業が果たして順調に進んでいるか、彼らは本当に朝鮮語の実力をつけることができたか、芳洲は甚だ気がかりであった。なかんずく心配したことは、詞師匠と務める仁位文吉が一期生の信頼を得て、精を入れて彼らを指導していてくれるかどうかということだった。仁位文吉が悪い仲間に誘われて、再び潜商に加担することはよもやあるまいとは信じたい。しかし、実際にはすでに一年間も会っていなければ、その間にどのように仁位文吉が心変りをしても不思議ではなかった。
 芳洲は裁判屋の内に入り、明るい日射しの入る十畳の居間の文机の前に坐った。文机の上には『全一道人』という題名の冊子があった。芳洲は昨年六月に、韓学生の学習の効果を上げるために『全一道人』という朝鮮語の教本を作り上げた。『全一道人』の内容は、明の汪延納が執筆した『勧懲故事』を素材にして、まず和文を作り、それに対応する朝鮮文を付けたものだ。芳洲がこの本を作ったのは、韓学生が初めに『全一道人』の仮名に書いてある文を熟読し暗唱してから、次に朝鮮語で書いた文を反復繰り返して読めば、本物の朝鮮語を修得できるようになるという意図からだ。
 芳洲は『全一道人』を脱稿した後、倭館へ裁判として赴任したついでに、玄訓導に朝鮮文はこれで正しいのかと和文と対照させながら、文章の添削をしてもらった。その時、玄訓導は『全一道人』を読みながら、「この本の登場人物の多くは忠孝の人ですから、この本を読む対馬の若者は日頃から親孝行の話を耳にたこができるほど聞かされていて、かえって反発して朝鮮語を学ぶ意欲をなくすのではありませんか」と言った。
「いや、それだけによけいにこうしたよい話を若い人に読ませたいのですよ。玄訓導、あなたみたいな人が対馬にいてくれたら、生きた手本としてこの本は必要ないのですがね」
「この私が生きた手本ですって。芳洲殿、そんな真面目な顔で冗談をおっしゃるなんて、随分と人が悪いですね」
 玄訓導は思わずおかしくてたまらぬかのようにぷっと噴き出した。
 玄訓導は名は徳潤、字は道以、号を錦谷と言った。年は芳洲よりも七歳若い五十五歳である。正徳元年(一七一一)の通信使の時、三十七歳の玄徳潤は従事官李邦彦の第三船倭学通事として来日し、芳洲と肝胆相照らす仲となった。その時、彼は体格は立派なのに童顔のため自分が年齢よりもずっと若く見られるのを嫌がり、口髭を生やしていたが、なかなか髭が思うようにきちんと揃わないのを気にして、しょっちゅう口髭を指先で撫で付けていた。今も彼は芳洲が十八年前に会った時のように 剽軽なところが残っていて、人懐こい目で笑いかけ、「大丈夫(ケンチャナヨ)」と言うのが口癖であった。芳洲は自分が暗い性格だと思っていたので、玄訓導の明朗な人柄に深く魅かれた。芳洲は玄訓導のような学問があり、勤勉実直な訳官が対馬にいてくれたらどんなにいいかといつも思うのだった。朝鮮では司訳院で漢学、清学、蒙学、倭学の訳官を正規の教育によって養成している。ところが、対馬では旧態依然の口真似で朝鮮語を覚えた通詞しかいなかった。まして、商売で金もうけのことだけ分れば通詞の仕事は事足りたので、朝鮮文字もきちんと書けなかった。だから、訳官はこうした通詞を欺したり、恐喝したり、嘲笑したりした。元来、商家の子息は金もうけの手段として朝鮮語を習おうとしたので、藩から通詞を命ぜられても金もうけが出来ないと分るや、さっさと通詞をやめていった。今より三十年前後から倭館がだんだんと衰微し、商売のため倭館へ渡る者も年年減少し、朝鮮語の稽古に精出す者は甚だ少なくなり、通詞は年寄り、あるいは死に、新しく通詞になれる者は今にも絶えそうな勢いであった。
 こうした様子を見て、芳洲はなんとかしなくてはならぬと思っていた。これではもし突然に朝鮮が通信使を日本に派遣してきても、間に合わないだろう。なぜなら、通詞を務めるほどに言葉もよく通じ、朝鮮の事情をわきまえ才覚もある者は、なかなか五年や十年で仕立てることはできないからである。だからこそ、藩自体が今から正式になんとしてもよい通詞を育成する機関をつくらねばならぬ。藩が言葉修行者を多く仰せつけられ、その内で通詞役を務められる者を選ぶより他はあるまい。通詞の地位は低いけれども、大切な役目だから目先の欲にとらわれない心掛けのしっかりした通詞を育てねばならぬ。それでなければ、将来日本と朝鮮との善隣友好の関係を維持していくこともあやうい。芳洲は朝鮮佐役を長年担当してきた経験からかねがねそう考えていた。それゆえ、芳洲は朝鮮佐役をやめてからも立派な通詞を育てるのに役立つように願い、一人で朝鮮語の学習書をこつこつ作ってきたのだ。けれども藩は通詞を藩の力によって養成していくには藩の財政的負担が大きいし、これまでどおり商人たちが倭館に入って来る朝鮮人と入り混じるうちに自然と朝鮮語を覚えるようになるなら、自分の商売のためにも結構だと言って芳洲の提案を一蹴してきた。
 玄訓導は『全一道人』の原稿を両手に持って大きな声で読み上げた。
「宗の時、褚太と言へる者は船使ふ人なりし。生まれつき凶悪にして不孝甚だしかりしに、ある日その母ふと深き水に落ち込みしに、傍なる人、その水に死するを見るに忍びず、あわて行き、救ひけるに、褚太ただ母を救わぬのみならず、かゑりて母を救ゐたる人を打擲せしに、諸人みな憎き奴なりと思ひし。ある日、舟を漕いで出でけるに、ある人ありて『船を付けよ』と呼ばわりけるを、褚太船賃取るを利益と思ひ、『左様すべし』と言ひて、乗せて川中に至りしに、その人たちまち言へるは、『おれは神なるぞ。汝、母に不孝なるにより天よりおれに仰せ付けられ、汝を打擲せよとの事じゃ』。褚太かへりて返答して言へるは『汝、はたして天神ならば、おれが船賃をくれてから行くべきぞ』と言へるに、言のすまぬ内に一声、雷して打ち殺され死しに、その神また見へざりけり。」
玄訓導は『全一道人』の原稿から目を離し、芳州をじっと見た。
「褚太のような男は、実際に対馬には多いのですか。雨森殿」
「天の神に対しても、おれに船賃を払って行けなんて言う輩は、船頭に限らず侍衆にも多いのです。それこそ、金さえ手に入るならば、女房子供のみならず自分の親まで売ってもかまわぬというのが御国の人情などと申したら、さぞかしあなたは驚かれるかもしれませんが、残念ながらそういうところが対馬人の気質にあります。だからこそ、せめて通詞だけでも心ばえのしっかりした人間になってもらいたいのです。『衣食足りて礼節を知る』という論語の言葉もあります。対馬島は田畑も少なく衣食が常に十分ないために、このようなさもしい気質になってしまったのでしょうかね」
「いや、朝鮮国でも衣食の足らぬのは同様です。先日も朝鮮人が倭館の荒物屋に盗みに入り、釜を持って石垣を降りるところで、わが国の役人に捕まりました。その者は朝廷の命令により直ちに処刑されましたが、まことにお恥ずかしいかぎりです」
「そうでしたね。たった釜一つ取っただけで命を落とすというのは、本当に気の毒なことです。やむにやまれず倭館に盗みに入ったのでしょうから、もう少し軽い刑というわけにはいかなかったのですか」
「なにぶん倭館へ盗みに入ったのがかえって罪を重くしたのではないでしょうか。朝廷は朝鮮人が盗人と見られるのを一番嫌がっていますから。実際にここ数年、天災が続き、米が不作のあまり百姓たちが飢えに苦しみ犯罪に走る場合が多いのです」
「その米のことですが、一体いつになったら朝廷から来年よりの公作米の売渡しの許諾がもらえるのですか」
「ああ、またその話ですか。私も本当に困っているのです。わが朝廷は今度は断じて公作米ではなく、木綿と切り換えたいと言ってきています」
「それでは弱ります。私が裁判として倭館へ派遣されてきたのは、公作米の契約を更新してもらうためですから。公作米年限の許諾が得られなくては、私は御国へ戻ることもかないません」
 芳洲は暗い顔つきで言った。
 朝鮮と対馬の間には、慶安四年(一六五一)に佐護式右衛門と服部伝右衛門が朝鮮と交渉して、公貿易によって輸入していた八升木長さ四十尺の木綿千百束が粗悪になってきたので、その一部を白米で受け取る「換米の制」が出来た。その交換率は木綿三百束を白米一万二千俵で受け取るものであった。その後、万治三年(一六六〇)、寺田市郎兵衛が裁判として渡り、洪知事、金同知と交渉し、更に木綿百束分を白米四千俵に替えることに成功した。こうして、対馬藩は都合四百束分の木綿の替りに毎年一万六千俵の白米を朝鮮から輸入できるようになったのである。木綿の替りに輸入するこの米を公作米と言った。この協定は五ヶ年の期限付であったので、五年ごとに裁判が倭館へ赴き期限延長の交渉に当らねばならなかった。この裁判に芳洲は任命されたのである。
「芳洲殿、心配なさらずとも、大丈夫。うまくいきますよ。来年までにはまだ時間はあります。私も精一杯努力しますから」
 玄訓導は『全一道人』の原稿を再び手に取り朗読しはじめた。

      2

 芳洲は昨年三月二十二日に万倍丸に乗り倭館へ到着するや、すぐに朝鮮側と公作米年限の交渉を開始した。しかし、交渉はたちまち行き詰まり、すでに一年経っても一向に埒が明かなかった。幸いにして昨年分の一万六千俵の白米は玄訓導の尽力のおかげで、すべて対馬に輸入できた。しかし、今年から五年分の契約が成立しないために、もう四月半ばになっても公作米は一粒たりとも倭館へ入らなかった。これは領議政が病気のため出仕なされず公作米の許諾が遅れているという噂もあったが、一方では裁判役の雨森東五郎が朝鮮人に一杯食わされたのだという批判が対馬府中で起こっていた。苦しい立場に追い込まれた芳洲は公作米のことが寝ても醒めても頭の片端から離れなかった。芳洲が前々から憂慮していたことが、ついに現実の難関となり、対馬藩の前途を頑強に遮っていた。
 ところが、家老たちはこうした切迫した事態に直面しても、事の重大さにまるで気が付いていなかった。たとえ朝鮮側が公作米をやめたいと言って来ても、それは毎度の口癖で、例の対馬の押しの強さがあれば、最後は自分たちが勝てると状況を甘く見ていた。なぜなら、これまで年限が満期となり、新しい交渉に際し、朝鮮側が最初は公作米を対馬に入れることは出来ないと回答しても、結局はやはりまた五年と年限を立て許可してきたからだ。
これは、実は朝鮮と対馬の中間にいて仲介する訳官が、対馬のため献身的に働いてくれたからこそ、別状なく昨年まで公作米が連続してきたのだ。けれども、そのことを対馬藩の家老たちはまったく分っておらず、朝鮮側が毎度公作米をやめたいというのは、朝鮮がただ大国ぶり勿体をつけたいための恩着せがましい演技にすぎないと高を括ってきた。もし訳官たちが対馬の意向を十分に汲み取り扱う気がなかったり、彼らの中に分別のない人がいたり、あるいは朝廷方の中にどこまでも公作米年限を取り止めると強硬に言い張る人が出てくれば、どうしても今度のような二進も三進もいかない膠着状態に陥ってしまうのであった。こうした最悪の局面に至ることを芳洲はどんなに恐れていただろう。
 芳洲は裁判として朝鮮へ渡る前から、朝鮮側が公作米を止め、その替りとなる千百束余りの八升木四十尺の木綿もないので、五弁木三十五尺の木綿ですましたく考えていることをあらかじめよく知っていた。なぜなら、対馬から送られる公貿易の内、銅、鑞、胡椒、丹木の類は朝鮮の経済に何の利益もなく、その価も私貿易の値段の十倍で、朝鮮の大きな損失であると朝鮮の書物にはっきりと書き記されてあるのを読んでいたからだ。元来、公貿易をやめたいところ、まして木綿を米に換えるのはいよいよもって面白くないと朝鮮が思うのは尤もだった。そして、事ここに至ってついに朝鮮側が公作米を是非ともやめたいと本気で言い出してきたのだ。
 この公作米の継続を朝鮮から打ち切られるのを本当に危ぶんでいたのは、ひとり芳洲だけではなかった。木門の大先輩の陶山庄右衛門も前々からこのことを深く心配していた。
 芳洲は倭館へ赴く直前に陶山の家へ挨拶に行った。陶山は郡奉行の時に猪狩りを成功させた後に側用人をしていたが、すぐに隠居し二十年あまり対馬の農業振興を図るため、多くの農書を書きつづけていた。七十四歳の今も陶山は病いにもかからず、朝鮮米をいっさい口にせず麦飯を食べていた。
 陶山は芳洲の不意の訪問をとても喜んだ。
「わしは対馬が一日も早く食糧の自給をせねばならぬと口が酸っぱくなるほど言い続けてきた。しかし、残念ながらそれをいまだ成し遂げることができぬ。そのために、今度あなたが御国のために裁判として海を渡られると聞き、まことに申し訳ないことと存ずる。当今の朝鮮は言わば危急存亡の時ともいうべきありさまにあるだけに、甚だ難しいお役を引き受けられたと深く御同情を申し上げる」
「陶山殿、それは一体どういうことですか」
 芳洲は思わず身を乗り出した。
「今の国王英祖は即位して現在五年目になるが、いまだ老論少論の権力闘争が続き、朝鮮を把握してはおらぬとわしは見る。芳洲殿、昨年三月に李麟佐が清州で乱を起こしたのは御存知じゃろ」
「なんでも李麟佐の乱軍は陣中に先に国王景宗の位牌を供え朝夕に哭し、その恨みを返すと誓っていたということです。李麟佐の政治的名分は英祖と老論が景宗を殺害したとして、その不忠を主張し、密豊君担を謀主にしていたと聞きました」
「景宗の在位中、景宗を擁護していた少論に対し、英宗の即位には老論が積極的に支援していたから、この乱は都に広がっていた少論の不平党人が英祖と老論を攻撃するために起こしたのじゃ。在位わずか四年にして三十七歳で景宗が崩御した後、異母弟の英祖が即位した時から景宗は毒殺されたという忌まわしい噂はずっとあったからな」
「しかし、乱は十日余りで鎮圧され、結局は大元帥を称した李麟佐は生け捕りになり都で殺されたのでしょう。その余党もすべて処刑されたのではないですか」
「はて、そうかな。なるほど宮中にも多数いた李麟佐の同調者は処刑されたが、これで一件落着した訳じゃない。この反乱は英祖の王位継承の是非に対する民心の一端が表われたのじゃ。武力で鎮圧しても民心を根絶やしにはできまい」
「だとすれば、この後も英祖の権力は確立できずに事件はまだ尾を引くと見るわけですね」
「さよう。問題は李麟佐の乱が同じ少論の李光佐政権の誕生を窺っておこり、少論政権によって少論の反乱を鎮圧せねばならなかったところにある。英祖は後ろ盾となってくれた老論の専制を押えなくては、少論に対する報復殺戮を防げないと判断し、国内の融和を図るため少論の領袖李光佐を配流先から呼び寄せて少論政権をつくった。しかし、これは失敗したのじゃ。おそらく李光佐政権はこの乱で大打撃を受けているだけに、反対派の老論の巻き返しを押え込むには、国内は勿論じゃが対外的にも日本に対してより強硬な態度を取ることは必至じゃろ。これはわしが朝鮮佐役であった経験から言うのじゃが、これまで国内が不安定な時は決まって朝鮮は対外的に強圧な政策を取ることが多い。今度もその恐れが十分にある」
「公作米年限の交渉もこれまでと違い順調にいかぬという訳ですか」
「おそらく交渉はすぐには妥結せまい。それにもう一つ気掛かりなことは朝鮮国の経済じゃ。これまで生糸は中国から朝鮮を経由し対馬の仲介貿易により日本へ輸入してきた。このおかげで、朝鮮も対馬も生糸の販売で莫大な利益を上げてきた。ところが、今は朝鮮から入る中国の生糸よりも中国から直接長崎へ入る生糸の量が年ごとに著しい勢いで増え続けている。それゆえ、生糸の代金の倭銀が朝鮮へ入らなくて朝鮮は甚だ景気が悪くなっている。朝鮮では倭館を通して入る東萊府の銀が他に比べ最も多く、朝鮮国内の流通の大部分が倭銀と言っても過言ではない。日本と中国が通商していなかった間は、日本に必要な中国商品はすべて東萊府によって倭館で販売していたから、朝鮮は都合が好かった。けれども、中国と日本の長崎を直接通商するようになってからは、倭銀の出来量が極めて少なくなり、今では朝鮮の銀が常に不足しているわけじゃ。おそらく日本に朝鮮米を輸出する余裕はないというのが実情ではないか」
「そう言えば、人参も中国商人が長崎へ来て売るようになり、藩は朝鮮人参の利益を独占できず、もう昔みたいに朝鮮人参で莫大な利益を得ることは難しいでしょうね」
「倭館が次第に寂しくなっていると聞くが、今後とも対馬も朝鮮も仲介貿易はますます衰退していくじゃろ。端的に申せば、朝鮮と対馬は一蓮托生にあるが、朝鮮に倭銀が前みたいにたくさん入らなくては、朝鮮は中国の商品を買うことが出来ぬから、この分では朝鮮の経済も相当な痛手を受けているはずじゃ。これまでの朝鮮は大国が小国を恤(あわ)れむという言葉のごとく、大国として小国の対馬を恤れむことが出来た。しかし、今の朝鮮は大国ではなくなっているから、対馬が公作米などいろいろ要求を出しても、もはやおいそれと受け入れないじゃろう。それだけに朝鮮に対馬の要求を認めてもらうのは並大抵ではない。交渉は長引くのは必定じゃから、どこまでも粘り腰で当られよ」
 陶山庄右衛門は嘆息をついた。
 陶山庄右衛門が懸念していたことはまさに適中した。なぜなら、芳洲は粘り強く待ちに待ちつづけねばならなかったからである。
 一体いつになったら朝鮮米が入るのかと藩から問い合せの手紙が何度も、倭館へ来た。先月初めの朝鮮佐役衆の味木金蔵、松本源左衛門、越常右衛門の三人連署による手紙にはこのように書かれていた。
「このままではお米が段々払底して来たので当五月中の御家中御扶持前はもつが、六月以後は見当もつかない。たとえ隣国からお米を買うことにしても、隣国の肥筑は大凶年であるから、長州あたりから買わねばなるまい。こんなことが隣国に知られては対州は笑い者になってしまう。勿論、『三年の蓄えのない国は国その国にあらず』と言うが、いわんや半年の備蓄のないこと、千万いかがわしいことでござるが、唯今はまずそのことはさしおかれ、とかく救念の御手段がなくてはかなわぬことです。御油断なき事とは存じますが、なにぶんにも周旋なられて三月中に相すみますようにお働き下さい。それでなくては笑止千万のことです」と。
 実際に半年の蓄えのない国、それが対馬藩の実体であり、率直に言って対馬藩は国であって国ではない。陶山庄右衛門が「対馬で朝鮮米を食べている者は、体は対馬にいながら朝鮮人と同じじゃ。米は朝鮮人参や木綿と違って毎日の生命の糧であるから、朝鮮米を食べていれば心身とも朝鮮人になってしまう」と警告していたが、われわれは陶山殿の言葉の深い意味を十分に考えることもしなかった。そもそも、米の穫れない対馬の中で、米を食べていること自体がおかしなことであったのに、のほほんと朝鮮米を食べてきたのだ。本当にもしもこのまま朝鮮米が入らなかったら、対馬藩はどうなるのだろうか。食糧不足ほど人心を不安に落とし込むものはない。今、民百姓は対馬の麦に芋、甘藷、蕪菁や大根、それに黒煮のひじきを混ぜて飢えをしのいでいる。それすらもがかなわぬことになったら、たちまち対馬全土に百姓一揆や打ち壊しがおこるのは間違いない。こうした最悪な事態を回避するために、対馬藩は長州から一万俵もの米の調達をするだけの財政的な貯えがはたしてあるのか。実はそれもないのではないかと芳洲は思うと、時々刻々と迫り来る対馬藩の破綻の予感に目がくらむような戦慄を覚えた。
 さらに、朝鮮佐役衆の手紙の文末に「わざわざ朝鮮巧者の貴殿を裁判に派遣したのに、十ヶ月以上も交渉が長びくのはいかなる訳か。佐治宇右衛門以来、裁判を派遣しているが、普通の人でも五ヶ月で妥結している」という文面を見た時に、芳洲は急に言い知れぬ怒りを感じ、思わず手紙を両手で握りしめた。
 芳洲はすぐに倭館に残されている裁判が記録した日記を裁判屋の書庫から取り出し調べた。裁判日記は倭館に裁判がいる間、毎日館の出来事を記載し、役目が終り本国へ帰還する時に日記の写しを一冊作り、一冊は倭館に保存し、もう一冊は対馬へ持ち帰る決まりになっていた。芳洲は新しい方から五冊の裁判日記を取り出し、裁判が公作米の交渉のためにいつ倭館に到着し、いつ朝鮮側と米の交渉に入り、いつ交渉が妥結したか、その期日を一々紙片に書き抜いた。

  宝永二年乙酉二月二十四日館着
 同三月十一日茶礼   佐治宇右衛門
  公作米の儀申し達する
 同十二月十五日
  当酉の年より丑の年まで五ヶ年入給済み来たる


  宝永七年庚寅四月九日館着
 同四月二十五日茶礼   加納幸之助
  公作米の儀申し達する
 同八月八日
  当寅の年より午の年まで五ヶ年入給済み来たる
 年限のことはいつもすぐには相済まず、多くは年を越し翌年の春に相済んだが、今回は一度の注進で早速妥結してよかったと鄭判事が述べたことが記録されている。


 正徳三年癸巳十一月十九日館着
 翌年甲午九月十八日茶礼   樋口久米右衛門

 公作米のことは時々訳官へ申し入れるが、急ぐことはないのでまず待たれるようにと申し延ばされたが、今はもう手本があってよい時節だからと韓僉知が言うので、手本のこと訓導に話され啓聞があったことが記録にある。

 翌年乙未正月二十三日
 当未の年より亥の年まで五ヶ年入給済み来たる。この間、裁判なし。


 享保九年甲辰十二月二十一日館着
 翌年乙巳正月十六日茶礼   松尾杢
  公作米の儀申し達する
 同五月二十八日
  当巳の年より酉の年まで五ヶ年入給済み来たる


 これまで鄭判事、韓僉知などが裁判に申したこと、ならびに玄訓導が前に私に年限相済むのは冬にもかかるだろうと申したことを考えてみると、早速相済まないのは朝鮮側の主旨があってのことと思われた。
 先の裁判松尾杢殿の時、五月二十八日に公作米の交渉が妥結し、「ただ今より各官へ通達していては、九月頃でなくては倭館へお米を入れることはできない」と訓導や別差が言うので、松尾杢殿が「その通りでは相済まないことだ」と厳しく催促したけれども、八月十七日初めて二百俵入り、同二十三日に五十俵入ったことが裁判記録に書かれていた。この勘定でいけば、朝鮮佐役衆の手紙にあるごとく御国に五月までのお米の備蓄しかないとすれば、今月中に年限がたとえ済んだとしても到底間に合わないことになる。裁判のことは、いつでも前年に早々倭館へ渡り交渉を始めるけれども、済み方は前年に済むことはただ今まで一度もなく、いずれにせよ翌年へと遅滞するのが普通であることが分った。
 実を言えば、前回の裁判については、鈴木政右衛門が裁判として倭館へ派遣されたが、鈴木が半年もしないうちに客死したのでやむなく松尾杢が後任となり赴任したのだ。任期二年の館守が在館中に死去することはこれまで時々はあった。しかし、館守より短い期間を滞在する裁判が倭館で頓死するのは異例であった。裁判も館守も老人であるため、女手のない倭館の生活に馴じめず、朝鮮との交渉による心労のために病気になることは実際に多かった。しかし、体の肥ったいつも冗談を言って人を笑わせる陽気な鈴木がまさか死ぬとは芳洲には信じられなかった。鈴木は公作米のことで寝食もできないほど苦しみ、とうとう病気になったに相違なかった。鈴木は病気になっても公作米の交渉が妥結しないうちは帰国は断じてできないと言い張り、死んだのだ。芳洲は渡韓すると決まるや、妻のしのから「鈴木政右衛門さまのようにならぬようにくれぐれもお体を大切にしてくだされ」と何度も繰返し言われた。芳洲は数年前から冬になると、神経痛が出て痛みが走り、眠れぬ夜もあった。朝鮮との公作米の交渉は随分と心労が多い割には、仕事は遅々として進まなかった。老人になれば年と共に気が長くなるはずと自分では思っていたが、芳洲は来る日も来る日もどうしようもなく焦立った。朝廷が速やかに対処しないのは、対馬が夷狄であるからで、朝鮮側の「夷狄を侍するの道」とはこういう扱い方を言うのかと芳洲は業を煮やした。時節はすでに春も過ぎ、夏になろうとしているのに、いつになったら公作米の交渉が妥結するのか明らかでなかった。普通なら二度で啓聞が済むのに、昨年四月より四度も啓聞しても、朝鮮側は一向に取り合わなかった。朝鮮側は公作米の件は去る享保十年に公作米の許諾をした時に、重ねては行わないと申し置いたので、今回は決して聴き入れられない、今後は公作米を止め、木綿を入給すると言い続けた。芳洲は昔のようなよい細木を入れると言うなら分るが、現在のような 粗劣な木綿をもって入れるつもりなどとあっては、それは大なる料簡違いと言うものである、数十年連続してきた公作米を今更止めようというのは、誠信の道において納得できぬから、重ねて公作米許諾の啓聞を朝廷へしてもらいたいと玄訓導及び韓別差を通して、再三再四東萊へ申し入れた。しかし、たとえ東萊が啓聞を約束してくれたとしても、本当に朝廷へ啓聞してくれたのかどうか、疑えばきりがなかった。
 芳洲が公作米の継続の交渉で最も困ったことは、対馬藩が米が不足して困窮していることを朝鮮に率直に申し出て、朝鮮側の援助を求めることが出来ないことであった。なぜなら、対馬藩にはこちらの弱みを見せたら、朝鮮側はかえって対馬藩の弱みに付け込み、いっそう自分たちを困惑させるにちがいないという思い込みがあったからだ。実際にこれまで朝鮮側は日本との間に面倒なもめごとが起きるたびに、なにかと言うと撤供撤市(供給をやめ貿易を廃止する)と言って、対馬を苦しめてきた。倭館に来ていた日本人と朝鮮女の交奸事件が起こった時に、双方の処罰の仕方のくい違いをめぐり、実際に公作米が停止したことも過去にはあった。こうした事態に至らぬためにも、対馬藩は朝鮮側にこちらが米の窮乏に陥っていることを悟られぬように米を催促する必要があった。朝鮮支配役の家老杉本采女の芳洲への手紙には、米の催促を慌しくしてはかえって向こうにこちらの苦しい胸の裡を気取られることになるので、勤めて慎重に対応せよ、藩の米倉が空っぽになろうとしていることは朝鮮側は言うに及ばず、館守、裁判、一代官以外に倭館にいる者たちにも決して一言も漏らしてはならぬと箝口令を求めていた。これは、現在、公作米の交渉が難航している最中だけに、対馬が米がなくて弱っているという噂が館内に広まっては、交渉はいよいよもって行き詰まるという理由からであった。
 二月二十九日付けの、平田隼人、杉村仲、大浦忠左衛門、杉村三郎佐衛門、古川図書、杉本采女の六人の家老連署による手紙には次のように記されていた。
「去年九月の手紙には貴殿が公作米の件早く済むように働いてほしいと玄訓導に言うと、玄訓導は公作米の取り決めの時節がたとえ十二月になっても来年の支障には決してなりませんと答えたので、それはなぜかと貴殿がその訳を尋ねたことが書かれていた。それによれば、各官から倭館へ回す米は正月に相談があり、二月に各官へそれぞれ割付けがある例になっていると筆談したとある。もしそれならば、今頃は公作米のことはすでに済んでいなくてはおかしい。国体を尊大にしたいために、各官への米の割付けの通達はすでにしておいて、表向きは年限の許諾がないのであろうか、それとも筆談の内容が偽りであったのか、はっきりしない。今度の訓導のこれまでのやり方を考えると、数年順調にすんできたことを異議に及ぶのは、諸事を難しくして自分の手柄を立てる様子に見え、外面では誠信をもって論弁の飾りとし、心では計略を専らにする者ではないかと思われる。申すまでもないが、随分油断なく話すように」と。
 またしても「油断をするな」という例の文句には、芳洲はほとほと辟易した。貴殿は朝鮮語を話せるだけにかえって訳官に欺されているのではないか。もっと訓導別差を叱責し、東萊にも言うべきことをしっかり言えという家老の口調は、こちらの実状をよく分っていないから、言える言葉であると芳洲は思った。
 このように、家老杉本采女が訓導別差を猜疑するのは、芳洲が昨年、対馬に送った朝鮮の木綿の品質がまったく改まっていなかったからである。昨年芳洲は次の内容の手紙を書いた。館守平田内膳殿が倭館へ渡海の節、木綿が粗悪になっていることを訓導へ伝えたので、朝廷もこれを知り東萊へ命令したためか、倭館に入った今年の木綿の内でよくない木綿を選り除け、十五束二十疋を受領したが、例年の木綿と比べて少し相改まっていると代官たちが言っている。はたして木綿は実際によくなっているか調べてもらいたいと。
 家老からの返事は、「十五束二十疋を勘定所で上中下の品に分け、去年に入来した木綿に引き合わせてみたが、今年の木綿も去年の物と同然で、そこもとより少し見直したとあったが替わってはいない。これでは明年よりよい木綿を入れると都から巡察使へ関文をもって指図があったはずなのに、約束と違っている。木綿がよくなったと言っているのは、明らかに館守及び代官の職務怠慢である。訓導訓別を呼んで責諭せよ」と厳しい口調で述べていた。さらに、手紙の文末に、勘定所吟味による昨年と今年の木綿の分の上中下の品の掛目、幅、尋の寸法をそれぞれ測定し比較した書き付け帳の写しが載せてあったが、それを見ると確かに今年の木綿は昨年と大差がなかった。
 そこで、芳洲はすぐに手紙を家老衆に書いた。
「先だって、例年よりは少し見直しましたと代官が申しましたのは、例年の木綿は人の着用になりがたいほどの木綿も多く混じっていたが、当年の分の木綿はこのようなことはなく、少し見直しているということです。全体をもって見た時は、いよいよこの通りかどうか、今一応御勘定所へ御吟味を申し付けてください。もし、今年よくなっていれば、それは訓導の働きのお蔭です。上中下を一疋ずつ引き分け比べては違いはなくとも、一束五十疋の内で昨年と今年の分を比べて下さい」
 すると、家老衆の手紙は次のように書いてきた。
「早速、勘定所へ申し渡し、去年の分一束と当年の一束を委細吟味させたところ、五十疋の内、去年の木綿は極粗の物が九疋、今年の木綿は四疋で、わずか四、五疋の違いで全体として同位に見える。その上、今年は別して極粗の品は選り除け、さし返しているので、今年より木綿の品がよくなった訳はまったく見えぬ。のみならず、木綿が次第に粗悪になっているので、元禄九年のややよき物を首とし、その次を副とし、またその次を末とし三段に分け、今年入館した木綿と比較してみると、今年のややよき物は元禄の副品にも及ばないし、今年の末品は元禄以前に絶えてなかった劣悪の木綿である。訓導はこれらの曲折を聞き知っていないはずがないのに、委細に巡察東萊に申し達せずあえて啓聞しなかったのは、訓導の不届き申すべきさまなし。いよいよ先立って申しおいたとおり訓導別差へ厳しく責諭されよ」
 芳洲はやむなく十月二十八日、館守屋へ玄訓導と韓別差を呼び寄せ、館守同席で今後必ず木品相改めるように責諭せねばならなかった。その後、玄訓導が「木綿が改まりませんので、そのことを東萊へ申し上げますと、下役の者たちがわれわれがみだりに日本のひいきをしていると申します」と気落ちしてつぶやくのを聞き、芳洲は本当に気の毒に思った。
 家老衆は「訓導に少しでも許しの言葉を聞かせれば、たちまち欺されることになるから油断するな」と再三手紙に書いて来た。芳洲は家老杉本采女殿の言うように、訓導別差が裁判の自分を欺しているとは少しも考えたことはなかった。なるほど訳官の中にはいろいろな者がいる。自分たちの先祖を壬辰倭乱の時に殺された恨みを今もなおもち、日本人を野蛮人として憎悪している者もいる。しかし、誠実に対応してくれる者もいる。家老衆は「これまで毎年、年額一万六千俵の米が完納できなかったのは朝鮮が凶年のためというもっともらしい理由はまっかな嘘であり、実は訓導別差が私欲でわざと米を対馬に渡さぬからだ」と言われた。しかし、芳洲は訳官を、とりわけ裁判の交渉相手である訓導別差を信頼せずにどうして本気で交渉できるのかと思うのだ。実際に玄訓導や韓別差の力があったからこそ、昨年も一昨年も約条どおり公作米は完済できたのである。もしも二人が朝廷と対馬藩の間で誠意を尽くして働いてくれなければ米も完済できなかったに違いない。今度も朝廷の許諾がまだないために、各官へ米の割り付けがあっても館内へ運び入れられぬのではないか。彼らは決して嘘を言うような人物ではない。誠実に対応してくれる彼らに対して、こちらの手の内をさぐられまいというような狡猾な手段で交渉は成立するはずがない。対馬が米が乏しくて難儀していることぐらい訳官たちは誰でも先刻承知である。それを困っていないふりをして真実を知られまいと虚勢を張っても何の役にも立たぬ。肝腎なことは、対馬は米が不足して困っている。だから米が欲しいと正直に言うことなのだ。その替りに朝鮮が欲しいものは喜んで提供すればいい。そうすれば、対馬はただ一方的に朝鮮に奴隷のごとく依存しきるということではない。乞食みたいに何でも受け取るだけの関係ではない。例えば、昨年十月に玄訓導が日本は田畑に水車を用いて百姓のためには有益だから是非とも朝鮮にも広めたいが、朝鮮の大工は水車のこしらえ方を知らないから、どうか水車のこしらえ方のうまい大工を一人朝鮮へ派遣して教えてほしいと言うので、芳洲は早速、対馬の大工を一人呼び寄せるように取り図った。また、先日も都表の歴々衆が椶梠苗二十本、五月二十本欲しいと言ってきた時は、これも快くすべて対馬から取り寄せるために家老宛に手紙を書いた。これまではどちらかと言えば、いつも対馬の殿様が朝鮮の鷹が欲しい、馬が欲しいとあれこれと物をねだった。芳洲は対馬藩に仕官してからはこうした姿勢は改めねばならないと殿様に何度も直言したので、少しずつ朝鮮に物をねだるという悪い習慣はなくなってきた。例えば、これは今はなくなったけれども、三十年前には対馬が大火事など被害に遭うと、救災と言って朝鮮から米を贈られることがあった。書簡の文面は朝鮮からの情けによったものだとあるが、実はこっちから朝鮮に米を贈ってほしいとわざわざ懇願して、そのとおりになったのである。その当時は、そうした憐憫を朝鮮に乞うような行為をまことに恥ずかしい極みだとすら思ってもいなかったのだ。芳洲は対馬が日本と朝鮮の対等の外交を仲介できる立場に引き上げるためには、対馬の乞食根性はなんとしても排さねばならないと常々思った。家老衆は初めから朝鮮国を猜疑の念で見つめ、訓導や別差を信用していなかった。だから、芳洲は家老より一方では御国に米がなくて切迫しているので悠長に交渉していては間に合わぬから急げと言われ、また一方では一図に慌しく交渉してはかえってこちらの窮状を悟られるから心を深くして交渉せよと言われ、芳洲は一体どういう態度を取ったらよいのか判断に苦しまざるを得なかった。あわてる乞食はもらいが少ないから、せめて恰好だけでもやせた腹に座布団をまいて太鼓腹の金持ちらしくせよというのであろうか。しかし、こうした時こそやはり玄訓導にどこまでも全幅の信頼を寄せるしか他に道はないと思うのだった。

      3

 昨年九月、芳洲は訓導別差の努力で公作米を前年も完済し、当年も来月一万俵入る予定であり、このまま行けば完済できそうなので、御褒美を是非とも出してもらいたいと朝鮮御支配の家老杉本采女に手紙を書いた。これには館守平田内膳も同意した。しかし、家老杉本采女の返答はすげないものであった。元来米の完済は訓導別差の職分であるから当然の仕事であり、今度新しく彼らに御褒美を与えれば、これが前例となり米の完済の時には毎度報償せねばならぬことになる。米の完済は藩が朝廷へ再三再四申し入れて求めているからであり、訓導別差の働きだけでは決してないというのであった。芳洲はこれでは家老杉本采女はこちらの事情をよく御存知ないと考え、再び手紙を出した。
 二、三十年間、御代官方の催促だけでなく、米の催促人を派遣しても毎度完済できない具合なのに、年内に皆済したのは玄徳潤訓導の時ぐらいです。この後も朝鮮側の米が遅滞するのは大きく変わらないでしょう。こうした中であるからこそ、勝ってよく職分を果し働いた訓導や別差に御褒美がなくてはかないません。そうすれば来年も精出して彼らは働いてくれると存じます。もしわが国のために精出している人を何も報償しないようでは今後進んで精出す人がいなくなるでしょうと。
 すると、しばらく経ってから家老杉本采女より返事が来た。かねてここもと訓導へは交替の際に木綿八束下さる旨議定されているので、当夏訓導へ御褒美のこと申し越されたから、すでに右八束の内三束を下された。そこで、今度は五束下されることとなった。別差へは銅二百斤を当夏の例に準じて下される。裁判、館守が述べられた趣は過分に聞こえ、よろしくない。右の御褒美は年内に米が皆済した時に与えるように命ずる。しかし、後々米が年内に完済しても今度の御褒美が常例にならぬという確認の上で、玄訓導には木綿五束、韓別差には銅二百斤をもって報償するように。
 芳洲はこれも承服できなかったので、再び返事をすぐに書いた。
 今度の御褒美については、訓別に御米入れ方の件にかかわらず、御用のこと色々念入りにしていることを藩主が奇特に思し召され下されたと私どもが申しますので、御心配はいりません。ついては訓導に木綿五束を下されるとございますが、出来れば時節がら御銀の方を喜びますので、木綿よりは御銀三貫目を下されたい。また別差に対して御褒美銅二百斤はあまりに少額ですので増やしていただきたい。玄訓導は九月に留任しましたが、別差の方は交替しましたので、古別差、新別差の両人とも御賞賜下さるようにお願いいたします。
 けれども、ついに芳洲の要望は認められなかった。昨年分の米が無事に完済した後、やっと今年二月十七日に館守宅で、館守平田内膳より玄訓導、古別差判事ならびに新別差朴正に、家老杉本の命令どおりの御褒美が手渡された。家老杉本采女殿は芳洲が倭館へ赴任する時、「朝鮮のことは勢い次第であり、勢いにより不可能に思われたことも可能になることもある。なにぶん対馬にいるわれわれ家老衆には、朝鮮の様子はとんと分らぬところがあるから、そちらの時勢によって速やかに対応せねばならぬのは当然のことだ。そちらの勢いによってはこちらに問い合せるに及ばず、館守と相談しそちらの料簡次第で変通してさしつかえない」と言われた。しかし、家老衆は倭館の現場の実情をよく分っていないのに、訓導や別差に対する御賞賜の案を具申しても、一旦金のことになると容易には認めず、こちらの意見をただ聞き置くだけなのだと芳洲には思われた。家老衆は対馬に一万六千俵の米を完済するために働く訓導別差が、朝鮮の者たちには日本を贔屓する輩としていかに冷たく見られているかまるで御存知ない。訳官の中には対馬のために少しも働かない方が朝鮮の利益になると考え、公作米をできる限り少なく、しかも遅くしか対馬に渡すまいと策を弄したり、対馬に送る米を減らし替りに水や砂をわざと入れたりすることがいいことだと考え違いをする者がいる。こうした中で、公作米を完済することが訓導や別差にとっていかに難儀なことか。お米に関係する諸々の役人の妨害や嫌がらせを取り除くために、訓導や別差が自分の給金を費やさねばならないかを藩の家老たちはちゃんと分っておられるのかと芳洲は思った。対馬藩から与えられた訓導の木綿六束や別差の銅二百斤という御褒美は、実際には彼らにとってこれまであれこれと使った金を計算すれば、まるで焼け石に水にすぎなかっただろう。それゆえ、玄訓導たちにしてみれば、こうしたわずかな御褒美が欲しくて対馬に米を完済することにあくせく骨を折ってきたのではないという口惜しい思いがしたに違いない。
 倭館で開市のあった日、玄訓導は木綿の質がよい、悪いということから内裨将と口論となり、「お前は倭奴から大金で飼われている犬ころだ」と言われたので、思わずかっと怒り内裨将を殴りつけた。そのため、玄訓導は陪通事を名代として杖罪十五を申し付けられたことがあった。温厚な玄訓導が年甲斐もなく諍いを起こし人を殴るなどというのは、芳洲はこれまで見たことがなかったので、大いに驚いた。特に訓導は朝鮮と日本の間に立ち、職務を真面目に遂行すればするほど、対馬藩の御褒美をもらっているからと、いつも朝鮮人に猜疑や嫉妬の目で見られ痛くもない腹をさぐられることが多い。それだけに玄訓導は心の奥底深く鬱屈した思いが溜りに溜り、とうとう内裨将の一言で怒りとなって爆発したに違いなかった。ある夜宵け、玄訓導がどうしたことか不意に裁判屋へ酒を持って訪ねて来たので、二人で酒を飲み交わしたことがある。珍しくすっかり酔っぱらった玄訓導は芳洲のすすめた盃をぐいと一気に飲み干すや、いきなり「名前は言えぬが、私の訓導の位を妬んで奪い取ろうとねらっている訳官がいて、こいつはなにかと因縁をつけて私の邪魔ばかりしてくるのです。雨森さん、もしあなたが裁判でなかったら、とっくの昔にそいつに訓導の位をくれてやりましたよ。なにが面白くて訓導の位にしがみついているものか」と言いながら、悔しそうに下唇を噛み涙をぽろぽろ流した。芳洲は唖然とした。
「いや、あなたが訓導でいてくれたからこそ、私もなんとか今日まで裁判の仕事を務めてこれたのです。あなたに訓導の職をやめられたら、私はどうしたらいいのですか。どうか、やめるなどとおっしゃらないで下さい」
 芳洲は子供のように嗚咽し手で顔を覆う玄訓導を見ているうちに、自分も思わず泣きたくなった。藩のお歴々は対馬にとって訓導や別差がいかに大切な人であるか、どうして理解できないか芳洲には合点がいかなかった。わずかな金を惜しみ、彼らの献身的な努力に精一杯報いずして、いかなる方策で藩の朝鮮に対する要求を達成できようか。彼らが日本のために年中苦労し精を入れてくれているのに、藩がそれを大して有難いとも思わず、さも当然至極のように思っているようでは、この先一体、誰が本気で日本のために身を粉にし働いてくれるだろうか。玄訓導がいつも赤貧洗うがごとき生活をしているのは、自分のためにお金を使っているからではない。すべて対馬のために止むを得ず身銭を切っているからではないか。家老衆はなにかと言うとお勝手向きが芳しくないと言っては金を出すのを渋るが、必要な金は思い切って使ってこそ金の働きをしたというものではないか。まして、日本と異なり朝鮮側の情報を収集するには大金がいる。朝廷の内部事情を正確に把握するため情報提供者を探すのは勿論だが、日本側の意向を政策に反映するように朝鮮の役人の工作も図らねばならぬ。歴々衆の側近く立ち回り、自然とその事の様子を見聞きしている礼曹、備辺司、承文院の書吏は国政には直接参与していなくても、こちらの味方につけてあれば先例を考えよと命令があった時には、彼らはすすんで日本側に都合のよい例をさし出す。けれども、そうでない時には、かえって日本側に不利な例を挙げて事の成功を妨げることがこれまで何度もあった。彼ら書吏を日本側の味方にし朝廷方の様子をこと細かく報告してもらうためには金がいるのだ。彼らの中には「この後も必ずよい情報を知らせるから銀一貫目を前借りしたい」と言う横着者もいる。しかし、こうした者でもいつかは役に立つこともあるので、無下に前借りを拒否することは出来ぬ。まして、現在の朝廷内部には老論少論の激しい権力闘争が続いており、いつ政権が老論から少論へ、少論から老論へ変わっても不思議ではない慌しい政局である。その上、政府首脳が年若くなり、これまでの旧規を知らずに一時の見識でとやかく意見を述べる場合が多いため、以前と違って外交方針が終始一貫せずに目まぐるしく変わるので、こちらが対応策を講じようとしても、「一寸先は闇」という言葉のようにまったく予想が立てにくい時勢なのだ。こうした情勢では、日本側の思うように事を成就しようと願えば、ますます多くの金が必要となる。それにもかかわらず、藩が金を出さずに、こちらの要求を相手に認めさせようなどとあまりに虫のよいことを望んでも到底出来るはずもない。
 これは通詞たちの待遇についても同様である。

      4

 昨年、芳洲は久しぶりに倭館へ来て通詞たちがいかにうす汚れた見窄らしい恰好をしているかを知り驚いた。自分の側でいつも伝語官として働く津和崎徳右衛門、荒川平八にしても、もう少しこざっぱりした服装はできぬかとさえ思った。あちこち酒の染みのついた綿服を平気で着ているのは、身の回りの世話をする女がいないために、身嗜みがだらしなくなっているのかと最初は考えたが、実際は違っていた。通詞たちは着物を新調する金がなかったのである。これまで倭館へ行けば、誰でも金もうけが出来ると信じられていたのに、今ではすっかり昔と様替りしていた。これほど倭館の暮らしが苦しくなっていようとは芳洲にはまったく意外であった。稽古通詞の仁位文吉が潜商に走ったのも分るように芳洲は思った。藩が通詞たちに惨めな生活をさせておいて罪を犯すなと言っても効果がないのは当然であった。芳洲は朝鮮佐役をやめていたため、朝鮮の実状にすっかり疎くなっていることを改めて痛感した。というのは、通詞たちにはこれまで黄連、小間物、並びに御免銀の倭館への持ち込みを許されていたので、これが彼らの大きな収入源であったのに、今はそれがまるで収入にならなくなっていたからだ。とりわけ草の根が健胃薬として尊重される黄連は稽古通詞には藩から許可されていたので、これを朝鮮商人に売って反物にふりかえると、黄連の価格が高い時には年に銀一貫目あまるはずであった。ところが、その黄連が今やまったく売れなくなってしまっていた。通詞たちを苦しめたのは、それだけではなかった。今年より御合力銀二十五匁のうち半分が米の支給になったために、米が倭館では安価に手に入るので、通詞が召し連れている者の月々の手当てにもさしつかえるありさまであった。これでは妻子の世話をすることもできないばかりか、まして衣服も相応の恰好が出来ずに朝鮮人に見くびられるようになるのは自然のなりゆきであった。通詞職では暮らしが成り立たないので、志ある者は通詞になろうとはせぬから、このままでは将来通詞職が断絶するのは必至であった。仁位文吉の潜商事件はすでに通詞たちの貧窮ぶりをはっきりと物語っていたのに、芳洲は迂闊にもそれに気づかなかった。あの時、自分は最も期待をかけていた仁位文吉に裏切られたという悔しさにばかりとらわれていたのだ。朝鮮へ行ったら男色騒動がおこらぬように短髪にし言葉稽古に熱心に励むようにと念入りに注意しておいたのに、まさか絶対に犯してはならぬ潜商を仁位文吉がするとはと激しい憎しみまで覚えた。潜商の媒人として貿易と縁の深い倭館の役人とともに通詞が最も禁を犯しやすい立場にあることは十分にわきまえていた。けれども、こともあろうのに信じて疑わなかった文吉が潜商の仲立ちを直接するとはいくら考えても腑に落ちなかった。文吉が十歳の時、通詞であった父の仁位善六が倭館で急死したため不憫に思い、それ以来母一人、子一人の文吉とわが子のように思い可愛がり目をかけてきた。そうして、彼を倭館への言葉稽古の留学にも推薦してやったのに、愚かにも自分は飼犬に手を噛まれたとしか芳洲には思えなかった。
 芳洲は若い時から倭館や江戸への出張が毎年のように続き、いつも家を空けていることが多く、幼い子供たちの面倒をすべて妻のしのに任せきりにしてきた。わが子と一緒に遊んでやる暇もなくわが子に馴つかれなかったことが芳洲をいつも寂しい思いにさせていた。芳洲がたまに半年ぶりに家へ帰れば無理やり子供たちを文机の前に座らせ中国語や朝鮮語を教え込もうとしては、泣き喚かれることが何度もあった。その度にわが子をなだめる余裕もなく嫌がるわが子を殴りつけ叱ったこともあった。息子たちは自分の顔を見ると恐れあわてて逃げ回った。それに比べて、文吉は芳洲の教えを喜んで受け入れた。文吉は父親の善六に小さい時から朝鮮語を教えてもらっていたから、よけいに上達が早かった。父の善六は朝鮮語を話すことは出来ても、朝鮮文字を知らなかったが、文吉はこれをすぐに覚えてしまった。芳洲は実際に文吉に朝鮮語の読み書きを教えてみて、朝鮮語を十二歳頃から学ばせ、さらに倭館へ渡らせ朝鮮言葉の稽古をさせるのがよいと確信した。自分が三十七歳で倭館において朝鮮言葉を稽古した時には、前の日に言葉を覚えても翌日にはもう忘れてしまうことが何度かあったが、文吉には決してそんなことがなかったからだ。このことがはっきりしたからこそ、芳洲は「韓学生員任用帳」にもこの考えを取り入れた。勿論、心がけのしっかりした通詞になるためには、ただ言葉上手だけでは駄目で、学問を身につけることが必要であった。芳洲は十四歳の文吉が稽古礼をもらい、倭館へ渡るにあたり、学問精進のため倭館内の東向寺の僧による『小学』『四書』『古文』『三体詩』などの漢籍の講読、そして朝鮮訳官たちの指導による『類合』『十八史略』『物名冊』『韓語撮要』『淑香伝』などの講義を受けるようにあらかじめ綿密に指示しておいた。しかし、結局は文吉は潜商の魔手に陥ってしまったのだ。
 潜商佐役松浦儀右衛門から聞かされた文吉の取り調べの結果は、文吉が訓導と別差の誘いに乗り、ひそかに京商を呼び倭館近くの民家で接触し、文吉が持ってきた銀で漢城から運んで来た五斤の人参を買ったというものであった。まさか十七歳の稽古通詞が大量の潜商人参を持っているとは誰も思いもしないだろうという企みであった。また、稽古通詞の身分上、文吉は言葉稽古の指導を受けた訓導や別差の誘惑を拒否できず、仕方なく潜商に加わったのであった。こうした藩の横目の調べに対して、東萊府は文吉の潜商の一件に訓導別差が加担していたというのはまったくの捏造であり、もし根も葉もない文吉の言い分のみを信用して取り上げ、この件を朝廷に啓聞せよというなら、今後稽古通詞の指導は申すに及ばず、倭館での仕事は一切協力することは出来ぬとまで言い切った。一方、文吉に銀を渡した倭館の役人たちも罪を受けるのを恐れて、文吉に銀を渡したことを誰ひとり認めなかった。おそらくあらかじめ潜商の罪が露見した場合には、決して自分たちの名前を明かさぬように約束が出来ていたのであろう。文吉は拷問にかけられても最後まで倭館の役人の名を上げなかった。文吉の罪が発覚した当初、雨森は潜商が御国の大患と口癖のごとく言っていても、秘蔵っ子の文吉が潜商をしているようでは、はたして一体何を教えているか知れたものではないと陰で言われた。かねてから芳洲の潜商を批判する言動に反感をもっていた藩の連中は、ここぞとばかり文吉を極刑にせよと言い出した。文吉は拝領奴に落とされるのは必至の勢いであった。しかし、芳洲は「若い文吉には将来があり、なかんずく朝鮮言葉の才は格別優秀であるから、今後必ず汚名を返上して藩のお役に立てるし、家には年老いた母親しか残っていないので親孝行をするためにも情状酌量して寛大な御処置をお願いしたい」と言ってこれには強く反対した。このため、文吉が潜商をしたのは実は芳洲の差し金であり、芳洲はおのれの罪を隠蔽するために文吉を弁護しているとまで悪い噂は広まった。結局、朝鮮佐役の松浦儀右衛門の強い取り成しによって、文吉は稽古通詞の地位剥奪という思いもかけない軽い処分によって許されることになった。けれども、この事件が原因で、近く実現の運びになっていた芳洲の懸案の通詞養成所の設置は当分の間延期されることになった。
 しばらく経ってから、芳洲は釈放された文吉をわが家に呼んだ。四年ぶりに会った文吉はどこかぶっきらぼうで、むっつりと不信に満ち、青白い顔に感受性の強そうな大きな目の若者になっていた。芳洲は文吉が潜商の罪を犯したことに対して、いっさい何も言わなかった。文吉も自らこの件について触れたくない素振りが見てとれた。芳洲が文吉を呼んだのは、二男の徳之允に朝鮮語を教えてもらうことを頼むためであった。この時、徳之允は松浦儀右衛門に子供がいなかったので、松浦家の養子となり松浦文平と改名していた。芳洲はこれまでわが子たちに外国語を学ばせようと何度も試みたが、とうとう中国語も朝鮮語も両方とも中途半端に終ってしまった。言葉の稽古は間を置かず毎日わずかでも定期的にやらねばすぐに退歩してしまうものだ。それを毎日やり遂げられなかったのは朝鮮佐役という仕事がら止むを得ないことではあったが、なんとかしてわが子顕之允、徳之允、俊之允の三人の中、せめて一人でいいから中国語も朝鮮語も堪能な人になってほしいという願望はいつも捨てることは出来なかった。幸いなことに徳之允は小さい頃から中国語が好きであった。徳之允が自分から芳洲の若い時と同じく、長崎へ中国語を学びに行きたいと言い、長崎の唐人屋敷へ留学した時はなんだか自分の跡継ぎがやっと誕生したように思えて嬉しくてたまらなかった。長崎から中国語を学び帰国した徳之允に今度は朝鮮語を学ばせたいと芳洲は思った。徳之允自身も朝鮮語をこの際しっかり学びたいと願ったので、文吉について学ぶことは異議はなかった。
 文吉は芳洲から「松浦文平に朝鮮語を教えてくれぬか」と言われて、一瞬半信半疑の驚いた顔つきで芳洲を見つめた。
「文吉、おまえが教えてくれれば安心じゃ。わしが教えてやると言っても、文平はわしではどうしても嫌がってな。実際にわしもわが子ほど教えにくいものはないのでな」
「それはまことですか。わたしのような者でも松浦文平殿の朝鮮語の師匠になってもかまいませぬか」
 文吉は芳洲からきつく叱られるとばかり思い、精いっぱい虚勢を張ってやって来たのに、芳洲の思いもかけぬ言葉に、やはり自分を持ち上げ救い守ってくれた人は芳洲だったと思うと、喜びのあまり頬に熱い涙を伝わらせた。
 文吉は芳洲の作った『交隣須知』の教材を使い、文平を教えた。文平の教え方は倭館で訳官から指導を受けていただけあって、実に適切であった。文吉は文平のために分るまで懇切丁寧に、何度も繰返し反覆練習を怠らなかった。芳洲は傍らで文平に対する文吉の熱心な指導を見ていて、これなら初等教育を目的とする通詞養成所の初代教師を務めることが出来ると思った。
 享保十二年、長い念願であった通詞養成所がやっと出来ると、芳洲は子供たち三十九人の教授として早速、文吉を詞師匠に任命するように藩に申し出た。しかし、通詞養成所の管轄である町奉行平田源五四郎は潜商を犯した前科のある仁位文吉を通詞養成所の詞師匠にするのは、子供たちに教育上悪い影響を与えると言って難色を示した。むしろ吉松宇源治が適当ではないかと平田源五四郎は芳洲に言った。しかし、芳洲はこれまでの文吉の朝鮮言葉の指導ぶりを見ているから、詞師匠は文吉が適任である。文吉は二度と潜商に関らぬと自分が保証すると言って、重ねて文吉を支持し押したので、文吉は詞師匠にようやく決定した。稽古通詞には、現在は倭館で芳洲の傍らで伝語官として働く津和崎徳右衛門が命ぜられた。
 文吉に朝鮮言葉の稽古をしてもらった文平は、松浦家の養子となり三年もしないうちに、養父松浦儀右衛門が突然に病死した。享保十二年九月一日、松浦は五十二歳であった。松浦は若い時から体が弱く病気がちであったが、松浦霞昭という文名の高いことは同門の紀州の人祗園南海と並び世間で双玉と称された。芳洲は松浦を失ってはじめて、彼と同じく他国者である自分が松浦がいてくれたからこそ今日まで対馬藩にいることが出来たのだとしみじみ身にしみて思った。松浦は自分が困惑している時はいつでも相談に乗ってくれたし、対馬藩では孤立していた自分を激励しどこまでも支持してくれた人であった。芳洲がとうとう藩の外交政策に反発して享保六年(一七二一)に朝鮮佐役の辞職願いを出した時に、「今一番朝鮮との関係が難しい時に、あなたに朝鮮佐役を辞められたら日本のみならず朝鮮にとって大きな損失です。どうか朝鮮との隣交を大切と考えているなら思いとどまってくれ」と言い、何度も自宅へ足を運び強く翻意を促した。しかし、ついに芳洲は松浦の慰留の言葉を受け入れず、いつも血色が大変悪い松浦を朝鮮佐役にしたまま自分ひとりだけ辞職したことに、正直言って内心では深い負い目を感じていた。だから、芳洲は松浦の死ぬ時に枕辺に坐り彼の死顔を一目見た瞬間、自分が彼と共に朝鮮佐役でありつづけたら、仕事に追いまくられることもなく、もしかしたら彼はまだ死ぬこともなかったかもしれぬ、ああ、自分が松浦儀右衛門の命を縮めたのだとほぞを噛み、おのれを激しく責めた。顎がこけ眼ばかりぎょろぎょろ光る松浦は、荒い息をつきながら口をもぐもぐ動かし芳洲に何か言おうとした。芳洲は何を言っているか分からなかった。しかし、芳洲はなぜかしら「朝鮮のことを頼む」と言ったようにも思えた。ついに事切れた瞬間、芳洲は松浦に対してすまなくて、人目をはばからず両手で顔を覆って号泣した。生前にわが子徳之允が松浦家の養子になっていたのがせめてもの供養であった。
 松浦文平は享保十三年十二月、松浦家の家督を継ぎ、今は芳洲とともに朝鮮言葉の稽古のために倭館へ来ていた。倭館へ来て一月ほど経った頃、松浦文平は裁判屋へ芳洲を尋ねて来た。
「玄訓導や韓別差にも朝鮮言葉を時々教えてもらいますが、文平殿は朝鮮語が達者ですね、一体どなたに習ったのですか。やはり父上の芳洲殿ですかとよく聞かれて困ります」
「何を困るのだ。はっきりと父親に教わるのが嫌で、仁位文吉という通詞から教わったと言えばいいではないか」
「はい。仁位文吉殿の名前を挙げると、訳官の中には彼の名前をよく知っている者がいます。また彼の父親の善六とも深い付き合いがあったという役人もいて、仁位文吉殿が潜商事件で逮捕されたのは、朝鮮側にも少なからず責任があり、文吉少年には本当に申し訳ないことをしたと陳謝するのです。彼が処罰されたと聞き心配していたが、今初めて通詞養成所の詞師匠をしていると知り安堵したと言って喜びました」
「そうか、文吉は朝鮮にいい友人がいたのだな。わしは文吉のような若者を倭館へ派遣するから潜商を犯すのだといろいろと批判を受けたが、文吉を倭館に留学させたのは決して間違いではなかった」
 芳洲は文平の顔を見てにこやかに笑った。
 芳洲はその晩、息子の松浦文平と酒を飲み料理を食べた。酒はあらかじめ芳洲が前日に倭館の酒屋で買い求めておいた。料理は文平が倭館で開かれた朝市で買って来た親鶏一匹をぶっ切りにし、大根、人参、豆腐、茸、昆布を一緒に煮込んだものであった。芳洲は酒の肴にする車海老を焼いた。これは文平が小さい時からの大好物であった。芳洲は親から見ればいつまでも子供のように見える文平が張り切って作ってくれたおいしい料理をつつきながら、倭館で親子一緒に酒を飲めるのがとても嬉しかった。
 夕食後、文平が宿舎へ帰って行ってからも、芳洲はいつまでも心が浮かれてなかなか寝つかれなかった。裁判屋の外へ出てみると、明るい月が静かな夏の海を皓皓と照らしていた。自分が仁位文吉を見捨てることなく、通詞を続けさせてきたのは文吉本人のみでなく、対馬藩のためにもやはりよかったのだ。これからは、仁位文吉のような若い通詞が通詞養成所を巣立ち、どんどん成長していくだろう。彼らの活躍する時代はすぐに来る。しかし、現状のままでは駄目だ。通詞たちの待遇を今よりもっとよくせねば優れた人材は集まるものではない。たとえいくら給金が安くても通詞になりたいという者がたくさんいたとしても、それらは何の御用にも立たないのは世間で安物買いの銭失いという言葉もあるとおりだ。その禄を薄くしその人を賤しくして、よい仕事をさせる道は堯舜三代の世にもないはずだ。芳洲は部屋に戻り、紙片で散らばった文机の側に行燈の灯を近づけ、通詞のための待遇改善を求める書簡を家老宛に書いた。
 倭館で働く通詞たちは困窮し、平生綿服を着し異国人の見掛けもよろしくないので、通詞の待遇にふさわしく毎月五十匁を支給し、倭館への出張に際しては仕出銀三百匁を支給してほしい。以前は黄連で相当な利益があったから、それで借銀し倭館への出張の支度も出来たが、今の朝鮮ではそれも出来ないうえ、倭館へ来てからも黄連、小間物、御免銀の品一品として用に立たないために、甚だ難儀しています。こうした通詞の経済的な苦しさでは、これまでのごとく潜商の過ちを犯す者などが続出しては御損失はいかばかりかその害悪はまことに少なからず極めてよろしくありません。まして、これでは言葉稽古も精を出してできるはずもありません。
 これに対して、五ヶ月以上も経てから十月五日付けの家老の手紙が倭館へ到着した。
 御存知のとおり、近年御勝手向きは甚だ差し支えられておりますので、これらの願いの筋は一切お取り上げ遊ばれずございます。さりながら、通詞の儀は両国間の重き御用を相伝える職分の者ですので、格別の御処置の筋をもって、別紙のように町奉行をもって申し渡します。
 一、大通詞は五人扶持から六人扶持へ、本通詞、稽古通詞は四人扶持から五人扶持とする。
 一、倭館在館中は、大通詞、本通詞、稽古通詞とも一律に客料二人扶持、合力銀四十三匁を毎月支給する。
 一、倭館への渡航支度のため、仕出合力銀二五十匁を支給する。
 一、小間物は三百匁許されていたが、今後百五十匁に減らす。
 一、米や黄連、黄連価の反物、同行人は以前のとおり。
 一、通詞在館について、大通詞、本通詞、稽古通詞、打込二人ずつ勤めること。勤務期間は今まで十六ヶ月から二年とし、毎年一人ずつ交代する。
 芳洲の合力銀毎月五十匁という案は四十三匁に減らされ、新規に設ける手当として仕出銀三百匁の案は五十匁減らして認められた。芳洲は藩が物入りを減らすことばかり考えていては、通詞がいざ御用という時に十分に働けないのではないかと危惧しないわけにはいかなかった。

      5

 芳洲が倭館へ赴任したのは、公作米の五年間の更新のみが目的ではなかった。倭館に足掛け三年留め置かれている破船使を早急に帰国させる目的もあった。この件は、朝鮮と対馬藩の双方の言い分がまったく食い違い膠着状態に陥っていた。
 さらにもう一つの目的は、六十四年前に実施されずに終っていた堂共送使を今度新しく朝鮮へ派遣するので、その許諾を求めるためであった。しかし、堂共送使の再興はまったく新しい課題と同然であったから、容易に埒が明きそうもないのは十分に予想が立った。他に、日本向けの木綿に青糸を織り込むこと、公作米を倭館に直送することなどの用件があった。
 芳洲は裁判を任命された当初から公作米だけでも大変なのに、一体何だってこんなに多くの課題を抱えた裁判に自分がならねばならぬのかと不満だった。七年前に二十三年間も務めた朝鮮佐役の御役御免の願いを再三申し立て、ようやく許された。その後、御用人を四年務めると、今度はまた倭館へ出かけねばならぬ。今度の裁判は朝鮮巧者の雨森東五郎殿しか果せないからなどと家老衆から言われても、朝鮮人より米取り裁判と言って嘲笑され、命を縮める裁判は誰もが敬遠する御役であった。家老衆は江戸へ参勤交代で行くことは勇んで出かけるが、釜山の草梁倭館へ行くことは誰も喜ばなかった。実際にこれまで一度も倭館へ行ったこともない者も家老職を務めている。芳洲は家老衆に事あるごとに倭館へ行って実際に倭館の様子を視察してもらいたいと進言しても、家老衆は何やかやと理由を述べて倭館を訪れなかった。家老衆が直接倭館に滞在すれば、朝鮮との交際がいかに大切かが分るのにと芳洲はいつも思った。
 裁判には、信使送迎裁判、訳官送迎裁判、公作米年限裁判、幹市裁判の四種があった。幹市裁判とは、輸入賜物の改品交渉や特別の交渉の事項に当るものだ。いずれも容易ならざる役目であった。
 元禄十六年(一七〇三)、芳洲が朝鮮語の稽古のために、近く倭館へ渡韓することになっていた年であった。事件は、山川作左衛門が訳官送迎裁判に任ぜられていた時に起こった。訳官韓同知と朴僉知の一行が乗った船が、新しく対馬藩主になった義方公を祝い、あわせて亡くなった天龍院公を弔うために、二月五日の朝、釜山を出帆した。途中、昼頃から風が次第に激しくなり、迎え役の裁判山川作左衛門の乗った船は止むなく佐須奈と鰐浦の中間にある大浦へと入った。ところが、訳官使船は対馬の北端にある鰐浦港を目前に六、七里のところで、強風と高波のために突然転覆し沈没した。対馬藩は全力で救助に取り組んだが、訳官たち朝鮮人百八人と日本人四人は行方不明のままであった。二月十六日、朝鮮ではこの遭難を知った人々が肉親の安否を知ろうと大挙して倭館へ押し寄せた。ついには、群衆が館内へ乱入し日本の役人を殴打する事件まで発生した。
 芳洲は朝鮮佐役であったので、急いで鰐浦へ船で行き朝鮮人の遺体捜索に当った。その結果、やっと遺体を十二体収容したので、芳洲は破損した死骸一つ一つを白い木綿の布団で丁寧に包み、棺に入れて朝鮮へ送った。しかし、訳官使船の遭難は対馬藩にとって抜きさしならない外交問題となってしまった。なぜなら、朝鮮はこの海難事故に対して、裁判の不注意が大惨事をもたらした最大の原因であるとして、裁判山川作左衛門の責任を追及し速やかに厳罰に処せよと対馬藩に抗議してきたからだ。倭館の内部からも連日、倭館へ遺族たちが押しかけては使者を悼み、地をたたき慟哭するので、とにかく裁判に対して罰を与えなくては朝鮮人の怒りは到底おさまりそうにないと知らせてきた。対馬でも裁判にはっきりと罰を命ぜられて当然であるという、朝鮮に気に入られようという意見が多く出た。その上、東萊府からはこのまま裁判の処分をしないならば最後の手段として幕府に訴え出るし、また開市を中止し米を一切送らないという制裁を科すと対馬へ言って来た。こうした朝鮮の強硬姿勢に対して、新しく藩主になったばかりの義方公はまったく途方に暮れてしまった。義方公は考えあぐね、ついに芳洲に「日朝関係が悪化することを避けたいのだが、いかがしたものであろうか。その方の意見を申せ」と尋ねられた。
 芳洲は答えた。
「海難事故に遭遇した場合、海上のことは風により潮により、父子の間でもわずか一尺ほどの間を隔てるだけで、互いに相助かること、助からないことがございます。まして、今回船に一緒に乗り組んでいた朝鮮人だけが死に、日本人だけが生き残ったという訳でもございません。悲しいことに朝鮮人と日本人の合わせて百十二人全員が溺死しました。これは運命としか言えません。韓同知たち訳官一行が破船殞命いたしましたことは、裁判一人の力でどうにか出来ることではございません。それをもし裁判を科に行わなければ、隣交断絶するとか、撤供撤市すると言って来ても、『春秋佐氏伝』の中に「むしろ国を以て倒るも従ふべからざるなり」という言葉がありますように、決して聞き入れられないことでございます」と。
 そこで、藩主義方公は芳洲の意見を採用し、倭館の館守嶋雄八左衛門にこの旨を訳官たちへ厳しく伝えるように命ぜられた。その後は朝鮮でも裁判山川作左衛門を罰せよという浮言も次第におさまってしまった。このように、朝鮮側が激高してくると、こちらはその勢いに恐れて萎縮し卑屈になるし、また朝鮮側が萎縮し卑屈な態度をとれば、こちらがその弱みに突け込み威丈高になってくるのは、人情の常なる悪い習慣である。けれども、朝鮮側がどうであれ、対馬藩はいつもすべて義をもって基準となる原則をきちんと順守し、むやみに慌てたり恐れ戦いたりしてはならぬと芳洲は深く肝に銘じた。
 昨年四月二十二日、芳洲が裁判として倭館の高台にある城のごとき館守屋に到着した時に、芳洲が館守平田内膳に着任の挨拶をし、書翰二箱と添状を渡し終るのを待ちかねたように、こせわしく芳洲に話しかけてきた侍がいた。芳洲と同じ年頃のやせた浅黒い白髪頭の男だ。目がどこか空ろで落ち着きがない。
「ああ、雨森殿、昨年裁判になられたとうかがって以来、今日の日を一日千秋の思いでお待ち申しておりましたぞ。本当によく来てくださった。申し遅れましたが、拙者は破船使の大浦甚兵衛でございます。どうか、雨森殿、あなたのお力で一日も早く対馬へ戻してくだされ。もう三年もここにおりますが、いまだ帰れませぬ。一年も前に孫の甚十郎が生れたという便りも来ていますのに、可愛い孫の顔を見ることもかないません。この手でわが孫の甚十郎を抱きしめたいのです。お頼みします。お頼みします。ああ、いつになったらここから脱け出れるのでしょうか。わしはもう対馬に戻れぬのでしょうか」
 大浦甚兵衛は話しているうちに、たちまち両目から涙を頬に流し芳洲の腕にすがりついた。芳洲は大浦甚兵衛のただならぬ挙措動作を見て、彼がどうやら精神的にすっかり弱っていることを知った。
「大丈夫、一日も早く帰れるように努めますから」
 芳洲は大浦の曲がった背中を抱きかかえ、なだめた。
 と、突然に大浦はそばに芳洲を迎えに来ていた韓別差を見つけると、彼を指さして叫んだ。
「こいつだ。この朝鮮野郎がつまらぬ文句をつけやがってこのわしをこの牢獄から出さないのじゃ。このわしが年寄りだと思ってなめやがって。いいか、おまえら死神にわしはまだ負けんぞ。この刀で朝鮮野郎を皆殺しにしてやる」
 大浦は顔を真赤にして体をぶるぶる震わせ、腰の刀に手をかけ怒りはじめた。韓別差はこれを見て、顔を蒼白にし芳洲に挨拶も出来ずにほうほうの体で退散した。
 芳洲はこうした大浦甚兵衛の正気とも思えない奇妙なふるまいを見て、まず最初に破船使の件を解決せねばならぬと決心した。芳洲は早速に玄徳潤訓導と久潤を叙す間もなく、交渉に入った。事の発端は、享保十一年二月に順天の漁師五人の船が嵐に遭い対馬に漂着したところから起こった。対馬藩は破船のため、大浦甚兵衛と藤政勝を破船使に命じ、漂民五人を朝鮮へ護送した。ところが、朝鮮側はこれが約条違反として久しく拒み接せず、「ただここに別使護送すること約定に違ふこと有り。令して勤めて館待を許すといへども、よって後例と為ることを容れず。さらに謬を承ることなかれ。務めて大信を存ぜよ」と破船使の返事に書いてきた。対馬藩はこの返書の「約条に違ふこと有り」という文句がある書簡を何事もなく受け取れないとして、破船使が書き改めを要求しそのままついに足掛け三年も倭館に逗留に及んでいるのであった。
 玄訓導は言った。
「わが朝廷の考えは、対馬藩の漂流使が倭館にいつまでもとどまりたいと意地を張りつづけるなら、それでもかまわないということなのです。彼らの滞在する間、今後とも食事の世話は見てあげます。けれども、幼児みたいに駄駄をこねて返書の改撰を求めるようなやり方は一向に通用しません。あなたたちがなさっていることがどんなに理不尽なことか自分で悟られるまで、それこそ百年でも倭館にいてくださってかまいませんよ。このままでは一体双方のどちらが先に音を上げるか根比べになります」
 玄訓導は対馬藩のいつもの倭館に座り込みの戦術が今更珍しいことでもなく、朝鮮にとって痛くも痒くもないと言ったようにまるで平気な顔つきであった。
「わが藩でも漂流使の一行が老人であり、倭館にいつまでも留まり為すすべもなく退屈していることはよく承知しています。一体どうしたら漂流使を正式に帰国させることが出来るのですか」
「それはこうした事態がおこらぬように約条が取り決めてあるではありませんか。約条を守らなかったのは貴藩ですから、それをはっきり認めねばなりません。破船と殞命とは二事だと言い張り、そちらの約条違反を認めないままでは、われわれは漂流使に対して正式に文書を手渡すように啓聞できません。漂流使も正式に文書がなくては本国に帰還できないために、いつまでも倭館に居座っているのでしょう。雨森殿、漂流使を本気で帰国させたいとお考えなら、本国にはっきりと朝鮮側の言い分を伝達し、藩の年寄衆に漂流使が約条違反をしたことを認めるように説得なさるべきです。それでなくては、『約条に違ふこと有り』という文句を訂正することはかないません」
 芳洲は「うん」とうなったきり空を見上げたまま言葉が出なかった。
 ここまで漂流使の扱いが双方でこじれにこじれてしまったのは、実は長い経緯があった。天和二年(一六八二)に朝鮮通信使が徳川綱吉の将軍襲位を祝賀するために江戸へ来た時に、朝鮮の船が対馬に漂流して来た場合は対馬から倭館へ渡航する使船に漂民を同乗させるように決まった。しかし、破船殞命した場合は対馬の使者を渡して送ると藩主が真文で命ぜられたところ、元禄十年(一六九七)秋山折右衛門が殞命役として派遣された際より食い違いが出た。対馬藩は約条どおりにしていると言い立てたが、朝鮮側は殞命使をさし向けて来たのは約条違反を犯していると反論した。これについて双方が話し合っても訳官たちは色々と言葉を並べて紛らかし、一向に解決しなかった。
 芳洲はこうした異常な事態を前々から訝っていた。もしかしたら、破船殞命には使者を差し渡すという真文を訳官たちが中間に留め置き、朝廷方へ提出しないままになっているのではないか。訳官たちは朝廷方から対馬に朝鮮の船が漂着した場合は、対馬の使船に漂民を同乗させるという兼帯にすむようにと命令を受けているため、対馬側との交渉に際し、朝廷方の御趣旨のとおりにすましましたと帰朝の時に申し上げたならば、自分の手柄にもなる。けれども、訳官たちが実際の交渉の結果は破船殞命は対馬から新しく使者がさし向けられることになりましたと申しては、前後のつじつまが合わないことになる。しかも、破船殞命は毎度いつもある事でもないから、もしもこれがあってもその時にはどのようにもなるだろうと訳官たちは考え、右の真文をそのまま自分たちの所にさし控え置くようなことがよもやないとは言えまいと推理した。
 享保三年(一七一八)、徳川吉宗公の将軍襲位を祝うために訪日した朝鮮通信使は、江戸表で対馬藩が漂流使を倭館へ派遣して来ることを問題にして取り上げた。
 正使洪致中は言った。
「対馬はわが国の漂民を九送使の使いに順付してくるようにとの天和の約束があるのに船が少し破損したくらいでなぜ新しく破船殞命と名目を立てて別使者を送って来るのですか」
「はい右破船殞命には使者をさし渡すべしとの約条がございますから、それに従っております」
 藩主宗義誠公はおどおどした小さな声で言った。
 すると、正使洪致中が「それならばその書き付けを見せてくだされ」と言ったので、義誠公の側に控えていた芳洲は、「本州に漂流すと言へども、破船殞命には別使を遣わし護送する事」という天和壬戌の約条書をさし出した。
 天和年に確かに訳官たちが朝鮮へ提出したものだから、右の書き付けは朝鮮にも当然あるはずなので、わざわざ正使洪致中がおっしゃったのは、さては天和壬戌の約条が訳官のところに留まり朝廷方へ提出されずにいたのかと、芳洲はその時ますます疑念を深めた。
 この疑問は最近になって芳洲が倭館へ来る前に、たまたま朝鮮の書物を見ていて、ついに解明できた。その本には「壬戌信使の時およそ漂船の馬島に泊する者は九送使の使いに順付してもって来るの事、更に約条を為す」と書いてあり、ここには破船殞命という言葉は全く書き載せてなかった。正使洪致中が天和壬戌の約条書の文言の確認を求めたのは、やはりそれだけの理由があったのだ。つまり、訳官たちが確かに天和の年に、右の真文を中間に留め置き、朝廷へさし出さなかったことがこれによって判明したのであった。
 あの時、芳洲は藩主になった間もない義誠公に替り、いぶかしげに首をひねり文書を見つめる正使洪致中に向って言った。
「破船と殞命は普通の漂民と違いまして、最初よりその約条を立てておきますのは、隣交を重いと存ずる次第からです。右の約条は天和二年に始まり、それから今の享保三年まで三十八年間に、対州へ漂着した者はおよそ四十余度、船楫を壊し又は衣食乏しくなった者がありますならば、船楫の修理を申し付け、衣服を与え毎度順付しましたことは、こちらの記録にもはっきりと書きつけてございます。その内、破船あるいは殞命で別使を派遣したことはわずか四度でございます。どういうお考えで船が少し損しましたら、破船と言い別使者をさし渡して来るとおっしゃるのですか」
「雨森殿、あなたは破船あるいは殞命で別使者を派遣したのは四度と言われた。その度にわが国はこれを約条違反だからと初めから使者の応接を断った。けれども、使者は繰返し倭館にそのまま長く留まり哀願するので、遠方の民を安んじるの道に従い、道理でもって使者を責めることが出来ないから止むなく接待を許してきたのだ」
 正使洪致中は芳洲に大きく目を見開きにらみつけた。結局、破船殞命の時は対馬藩が使使者を派遣することは認められた。しかし、破船殞命を一事とするか、それとも破船と殞命の二事とするかを明確にせずに、その後、正使洪致中たちは朝鮮へ帰国してしまった。ここに紛糾の種があった。
 芳洲は玄訓導に言った。
「通信使の皆さんが朝鮮へ戻られたゆえに、対州では正使洪致中公から朝廷へよろしく仰せ達せられ、事は円満に落着したと考えました。だから、この度も破船使をわざわざ派遣したのです。元来、破船殞命のことは対馬では破船と殞命の二事と考えています。ところが、朝鮮では一事と解釈しているところから食い違いが生じたのです。破船殞命を一事とするのは最初約条の本意ではなく、もしも最初から一事と心得ているならば、対馬藩も二事として対州から別使者を派遣いたすはずがありません。本来こっちからは誠信のために使者を派遣したところ、かえって貴国は約条に違いがあると異議を申し立てられ、他国の使者をいつまでも留めおかれますことは甚だ不当なことです。しかし、今後は破船殞命を相兼ねます時に使者をもって申し入れるようにしますので、間違うことは決してありません。今度の破船使にお渡しなさる返書には『約条に違ふことあり』という文句を削除なさり、別の書簡にその趣を詳しく認められ、まず使者は何事もなく帰国させてくだされば、誠信の間光り輝きます」
「雨森殿に誠信という言葉を使われますと、私も弱いのです」
「あなたが私財を擲って建てられた訓導役所を、その所在地の草梁の地の景勝にも目もくれずわざわざ誠信堂と名付けられたことはよく伺っています。誠信こそ、日朝両国の交際の架け橋です。ついては、もう一つ堂供送使のことをお願いします。堂供送使はすでに六十四年前に朝廷より許可を得て、木綿百束と決まり翌年訳官使金同知が渡航の時に、天龍院公の御前でこのことを申し上げたことです。堂供送使の派遣を毎年万松院送使と兼帯にして、実施することを許可されたい」
「これについては、その時の記録がございません。あなたは朝廷が認められたと言われますが、どういう理由でその時に早速実施されなかったのですか。このことを東萊がたずねられたらどう返答したらいいのですか」
「そのことは少々訳があり、当年までその裁定に及ばなかったと裁判が申したとおっしゃってください。このことに限らず、訳ありと申すことは世間にはいかほどもあるもので、その訳を申し述べられることもあり、申し述べられにくいこともあります。是非ともその訳をお聞きになられたいと東萊が達して仰せられるべきはずもない。このことは今度初めて申し入れることでもなく、また疑わしいことでもありません。都表にも東萊にもその記録があるはずです。ことに年月も知れていますので、思い出されるのに手間取ることはありません。もっとも訳官の中にも年寄りはしっかりとした人は覚えていることです。まして、貴国先王の御時節にお許しおかれ、こちらの都合で今まで延びていることですので、今さらまかりならずと仰せられるはずもないことですから、とかくは訓別より幾重にもその点をよろしく申し述べられますように頼みます」
「貴藩ではその時、堂供送使を派遣して朝鮮に貿易を請うべきだという意見もあり、また朝鮮の手数になるので貿易のことだけを請い求め、堂供送使を派遣するのは無用になられるがよろしいと申す意見も出て、ついに議論が一決せずにだんだん相延びたと聞いていますが、いかがですか」
「それも堂供送使が遅れた理由の内の一つですが、それだけではありません。昨年四月に徳川吉宗公が数十年の廃典を取り行なうため日光東照宮を参拝なさった。これにともない、去年から今年に至るまで国内大小の大名残らず御参詣の儀式がありました。それについては対馬藩主も当年は御拝謁なられます。朝家は言われました。神君徳川家康公が天下を治めるや天子の教えを遠くまで広め、その恩沢後世に及んだ。上は郷士より元々の民に至るまで太平無事の境に安住する訳は、すべて神君聖徳の恩沢であると。まして、対州は日本の西の端にあり、昔は大国が和を失えば小国は禍を受けました。今は使船が往来し戦乱の恐れはありません。対州の人たる者、神君家康公の恩徳を感じ、誠をもって神君の祭祀に心を尽さぬ訳にはまいりません。ここのところをよく落ち着け、東萊へも委細に申されますように願います」
「なるほど合点しました。豊臣秀吉による壬辰倭乱の後、徳川家康公のおかげで両国の間は今日まで平和な関係が続いています。今後も両国の善隣友好を発展させることが何よりも必要です。朝鮮は東に日本、西に中国と大国に挟まれています。それだけに両国とも仲良くしていかねば朝鮮国は成り立ちません。わが一族の川寧玄氏玄壽謙は、壬辰倭乱と丙子胡乱によって国を焼かれ民が殺されるのを見て、国の前途を憂い、何よりも平和が大切であると痛感しました。そこで彼はわが子龍、虎、武の三兄弟に命じました。わが一家虎系玄氏には倭学訳官となれ、龍系玄氏には漢学訳官となれと。そして武系玄氏には内政に必要な医科、律科算科で国のために働ける人物になれと。ですから、私も弟の徳淵も、私のせがれ泰翼も倭学訳官です。孫の商も大きくなったらきっと倭学訳官となって働いてくれるでしょう」
「玄訓導、私が息子の松浦文平に中国語や朝鮮語を学ばせたのは、あなたが言われるように隣国と親しく交隣し、二度と戦火を交えてはならぬと強く思ったからです」
「よろしい。東萊に相談し、破船使のこと、堂供送使のこと、公作米のこと、いずれも難題ばかりですが、朝廷に啓聞してもらえるように働いてみます」
 さっきまで険しい顔をしていた玄訓導はやっと笑みを浮かべた。芳洲はほっと安堵した。
 しかし、芳洲が一安心したのは大きな間違いであった。朝廷からの回答は芳洲も玄訓導もまるで予想もしないものであった。

      6

 六月九日朝廷は対馬判の要求をすべて拒否した。そうして、訓導及び別差は対馬の要求を一つ一つその道理を立て裁判に申し達すべきなのに、それもせず日本の事を取り持ち、要らざる取り次ぎをしたのは実に不届千万であるとして、両名に決棍を申し付けた。さらに東萊に対しても、たとえ訓導別差より申し出があっても、東萊はこれを厳しく抑えるべきなのにそうせず、安易に朝廷に啓聞に及んだことはこれまた実に不届き至極につき、突然に罷職を申し付けたのだ。あまりに厳しい朝廷の処分であった。芳洲は朝廷がこれによって対馬側を恐れさせ、自らの要求を撤回させるために威嚇したのであろうと察した。
 翌日、玄訓導と韓別差が決棍の処分を受けるため東萊へ行った間、替りに劉判事が仮訓導に、黄判事が仮別差に命ぜられた。
 芳洲は津和崎徳右衛門、荒川平八を呼び寄せ今度の処罰について聞いてみた。二人は訓導別差に比べて東萊がその罪が重いのは、元来東萊は老論方であり、少論の李光佐領議政とは不仲なので、とかく罪を得るだろうと日頃から憂いておられ退役の願いを何度も出されていたという噂もあったゆえ、もしかしたら李光佐領議政が東萊に辛く当ったのだろうと言った。とすれば、玄訓導も韓別差も老論と少論の権力闘争のとばっちりを食った訳であった。
玄訓導と韓別差が復職したのは、十六日後の六月十六日であった。戻って来た玄訓導は歩く時に左脚を引きずり、韓別差は右脚を引きずっていた。これは決棍の科による後遺症で完治するまでに三ヶ月かかったが、二人は決棍については一言も言わなかった。芳洲は彼らの復帰を喜び、久しぶりに彼らと一緒に夕料理を食べた。伝語官津和崎右衛門も相伴した。
新しい東萊が着任したが、先の東萊が罷職を命ぜられたように、自分も朝廷の叱責を受けるのを恐れて、対馬判の要求を再啓聞するのを嫌がった。しかし、玄訓導は頃合いを見て新しい東萊に言った。
「元来、漂流使のことは裁判の御用の筋ではなく館守承りの事です。殊にあなたが都表で漂流使のことは御前へも直接おっしゃられたことを訳官たちが申したのではないけれども、館内の人は自然と聞き伝わっていることです。それならば東萊の御役になられました上は、なんとしても御啓聞なくては慮外ながら御一分も相立たないように存じます。きっと近々館守か漂流使か、このことについて御対面を望まれるでしょうから、それならば早速御啓聞なさるが適当と存じます。また裁判の御用のことも、これまた指し許されずとばかりおっしゃるのみでは、裁判は帰国するすべもございません」
東萊はしばらく考えていたが、やがて「よかろう」と言った。
芳洲は玄訓導の、東萊と破船使が対面しなくては啓聞の路はないという言葉に従った。そこで芳洲は万松院使の茶礼の時、茶礼が終って引き続き破船使大浦甚兵衛を東萊大庁へ行かせることにした。芳洲が大浦甚兵衛に東萊と対面するように言うと、大浦甚兵衛は「はっははは、ああ、これでついに対馬に帰れる。故郷に帰れるぞ」と手を打ち大喜びしたかと、急に押し黙り考え込み「万一、破船使のわしをこの後もまだ帰国させぬと東萊の奴がほざくなら、その場で東萊を刺し殺して自分も死ぬ覚悟だ」と興奮し怒りはじめた。芳洲は付き添いの伝語官の津和崎徳右衛門、荒川平八の両名に「大浦殿がゆめゆめ東萊に無礼なふるまいに及ばぬようにくれぐれも心せよ。もしも、そんな失態を演じたなら、おまえたちの切腹だけでは事がおさまらなくなる」と厳しく言いつけた。八月二十九日東萊は破船使大浦が奇妙な言動をとることをすでに承知していたのか、大浦甚兵衛との対面を拒み、津和崎徳右衛門ひとりと会見した。津和崎は再啓聞を求める理由を細々と述べたので、東萊は「考えてみよう」と一言返答をした。その五日後に玄訓導は東萊が啓聞する決断をされたと報告してきた。玄訓導は「こうして、漂流使の啓聞があり、啓聞の路を開くことで、それから裁判御用の啓聞へと及ぶように念じます。大丈夫。うまく行きますよ」とにこやかに言った。
「あなたの殊の外の心遣いがあればこそ、東萊も漂流使の啓聞を決断されたのでしょう。本当に有難いことです」
 芳洲はお礼の言葉を言ってお辞儀をした。玄訓導が朝廷から日本の味方し、つまらぬ取次ぎをした不届き者と見なされ決棍に会ったにもかかわらず、それでも日本のために再啓聞が必要だと信じ努力してくれるのが本当に嬉しかった。もしかしたら今度もまた同じように啓聞したことで朝廷より罪を得ることになるかもしれないのに、それも恐れず日本のために東萊に対し積極的に啓聞を働きかけてくれたのは、なんという誠意ある人柄であろうかと芳洲は玄訓導をまぶしいものを見るように見つめた。
 しばらくして、芳洲は藩からの伝令だとして玄訓導を裁判屋に呼び寄せて言った。
「あなたたち訓導別差が決棍の科に会われたこと、対州で色々議論が出ていますが、頓と腑に落ちません。対州からの裁判をもって申し立てることを取り次いだとして東萊には罷職を申しつけられる道理は決してないはずです。ことに今度申し立てる御用いずれも先規あることで、ついにその時の当役人の罪に合わせることは終ぞ聞いたことはありません。いかなる人も他国の使者が申し達することを取り次いだと言って科に申し付けることは誠信の間よろしくないのみならず、断じてあってはならないことです。結局はこの裁判の私の申し達しがよくないためか、それでなければ私が油断したためか、この二つの他にないとして藩主はけしからぬこととお思いになられ、早々訓導別差をもって公作米、堂供送使の啓聞を催促し申し達するようにとのこと藩命で申し来たり、なんとも私にとって難儀この上ないことです」
 芳洲は包み隠すことなく困った胸の内を話した。玄訓導は決棍に合った背中がまだ時々痛むのか、背筋を伸ばすのがとても苦しそうに猫背に身をかがめたまま言った。
「以前から朝廷方が、快く思わないことを取り次いだとして科に逢うこともありましたが、それは事の品によってで、今度のように初めての啓聞に科を申しつけることはいまだないことで、我々にも意外なことと存じます。結局は朝廷方、年若くいらっしゃるから旧規を御存知ないためであろうか。それとも裁判がおっしゃる御用はまずまかりならぬことだと防塞すべきところなのに、そうせず裁判がおっしゃるとおりに私たちが委細啓聞いたしたのは、日本の事を取り持ったのかと疑われてこうなった訳であろうか。対州では山越の御事でございますので、御用のことを取り次いだとして科に逢うことはまさかあってはならないはずとお思いになるのはごもっとも至極のことです。先頃から段々おっしゃるにつき手本をも認めおき、今は朴正判事へも見せ相談いたし文字など吟味いたしますので、今日おっしゃった趣はまず東萊へ申し達し、その内には漂流使の回下も来ますので、都表の様子も見合わせ啓聞あるようにいたします」
芳洲は玄訓導の真摯な話しぶりに接しただけに、東萊や訓導別差の科は、もしや対馬藩の要求を斥けるために朝鮮が仕組んだ八百長ではないのかという疑惑が家老衆の中に起こっていると、家老杉本采女が手紙で伝えてきた時には、何とも言い様がない憤怒を覚えた。

      7

 東萊によって八月二十九日になされた破船使の再啓聞はいよいよ朝廷に達し、朝廷方の評判もよろしいと称美された。備辺使の書吏たちは今度こそ四、五日内には回下があるだろうと言った。ところが、重い役人衆へ啓聞のとおり破船使の返書を改撰してもよいと回下が回ったが、この件の担当の尹淳判書が突然に「これでは帝が御命令になるはずもない」と異議を唱えた。これによって流れはたちまち一変し、かえって訓導別差に対し拿問杖罪を命ずるべく回下が改まってしまった。都漢城にいた玄訓導の弟玄徳淵はこの知らせを聞くや、あまりの事態の急変ぶりにすっかり気が動転した。しかし、ここはなんとしても気を取り直ししっかりしなければ兄を救えないと言い聞かせ、玄徳淵は備辺司の書吏に「まずこの回下をしばらく控えておいて下さい。もしも啓聞のことがうまく運んだら、きっと賞給もありますから」と平身低頭して頼み込んだ。
 玄徳淵は直ちに洪判官と朴僉知とで善後策を協議した。洪判官は「今は私の実懇の趙文命判書に是非ともこちらの味方になってもらわねば、形勢は取り戻せない。私がこれからすぐに出かけて行って頼んでみる」と言って、趙判書の家へ行った。洪判官は趙判書にこれまでの経過を一部始終語り、「どうか、あなたさまから堂上の席で、まず訳官一人を呼んで事情を聞かれるのがよろしいと言っていただきたい」と懇願した。
 趙判書は洪判官の申し出に従い、堂上で訳官に諮問する提案をしたので、朝廷は訳官として朴僉知を堂上に呼び寄せた。朴僉知は破船使の取り扱いが紛糾した経緯を縷々説明してからあらかじめ三人で相談してあったように、「今度は返書の改撰がなくては済みません」と意見を陳述した。しかし、その場には担当者の尹判書が公用で二日路程の出張をしていて不在のため、尹判書が二、三日後に帰って来てから再度改めて決断するのがよいと決まった。この時、洪致中公が新しく領議政に就任し、九月一日に漢城内へ入るという知らせがあった。ついに九月十五日、洪致中領議政が城内に入ったので、玄徳淵は洪致中公に力添えをしてもらうために面会を求めた。洪致中公は快く玄判事を迎えてくれた。玄判事は兄の玄訓導の内証の手紙を懐中より取り出し、事の顚末を詳しく話した。玄判事は話しているうちに次第に興奮しはじめ、自分の顔面が紅潮してくるのを覚えた。洪致中公はじっと目をつむり黙って聞いていたが、やがて目を開けゆっくりとした口調で言った。「すでに洪判官からも破船使の処置については御依頼もございましたので、とくと合点しております。しかし、朝議不一、われわれ同役の内には改撰不同意の者もおります。この問題は容易に解決できない様子ですが、洪判官もあなたも始終殊の外に精を出し論じられますので、それならば御前へ申し上げ御意のままにいたしましょう」
 この結果、洪致中は事態の打開を図ろうと長官引見の場で英祖に説明した。
「今回の漂流使は、書契の中に『後例と為るなかれ』という文字があるからと申し立て、足掛け三年にわたり久しく滞在し必ず改撰することを懇願し、死ぬまで帰りません。誠信の間、これを一切峻拒すれば、漂流使の病気がただ憂慮されるのみならず、そもそもわが国が大国として隣国を哀れみ富裕たる証しも損なわれます。むしろ今は接待を許し、漂流使の生命を活かすのが御慈悲と存じます。東萊府使が再度啓聞しているごとく、特別に許してやってはいかがでしょうか」
 英祖ははっきりした声で言った。
「当初よりすでに約条があれば、これを守り強固なることは金石のごとくできる。最初より約条がなければ、さらに議定を為すこともできる。日本人が約条を違反したかどうかは論ぜずともよい。予の意見は許すと、許さずとは五十歩百歩で大差はないと思う。ついにもし約条に従い堅く執行すれば、誠信の道ではなくなる。日本人の願うところを許してやればよいと思うが、皆の者の考えはどうか」
 急にその場の長官たちがどよめいた。その中で、「許してやればよい」と言う声も上り、反対に「いや、それはまかりならぬ」と言う声も出て、なかなか意見が収拾できなかった。
 そこで、英祖は一座を見渡し言った。
「些少の是非は論ずるな。もし誠信をもってこれを接待しようとするならば、快く許してやれ」
 洪致中は大きくうなずいた。
「聖人の教えはかくのとおりです。皆の者の気持ちは矛盾を感じるものがいるかもしれないが、漂流使が死んだ後に同情してもはじまらぬ。漂流使の書契は特別に改撰し与えてはどうか」
「ではそうせよ」
 潤九月十五日、英祖のこの一言で、破船使の返書は改撰されることに決した。この朝議の模様は列席していた趙判書から洪判官へ逐一伝えられ、さらに洪判官から玄徳淵へ、そして兄の玄訓導へは漢城の飛脚でただちに知らされた。
 潤九月二十一日、玄訓導はこの伝令が入ると、すでに夜中であったが、即刻この知らせを通事に裁判屋へ持って行かせた。手紙には「破船使が帰国できることになり、両国の多幸測り知れません」と書かれていた。
 翌日、啓聞の文書の作成を手伝った朴正が裁判屋へ来て、芳洲に言った。
「今度のことは洪致中公が結構なる人なのでよかったですね」
 芳洲は言った。
「先年、通信使の時の訳もありますので、領議政は不同意の方であるに違いないと思っていましたが、そうではなかったのか」
「私が都表を出立する時までは領議政は城外におられたけれども、私がお暇乞いのために出向き右漂流使のことを申しますと、領議政は先年、信使にまかり渡った時に、破船殞命のこと短い手紙を遺しましたが、対馬藩が了解したとの返答がなく、そのことで逗留も出来ず、そのまま帰国してしまった。それゆえ、対馬藩が今度の使者をさし渡してくるはずだ。この件については、重ねて信使の時にきっと対馬に申し上げることも出来るから、特別今度のことは一旦は聞き入れてやっても、防塞することもなかろうと話されました。今度城内へ入られ、そのお考えで御前へ出て申し上げられたのでめでたく落着したのです」
 朴正は「よかった、よかった」と繰返し言って帰って行った。
 芳洲は朴正の言うように、領議政が更迭されずそのまま少論の李光佐公であったら、事はおそらく成功しなかっただろうと思った。英祖の信頼の厚い蕩平派の洪致中公が折よく領議政として城内へ入られたのはまことに天佑である。すべて備辺司で重い公事がある時は、このことは某が専主されるようにと分けられ、最初は尹判書が専主されて破船使の返翰の改撰はまかりならずとの回答に決定した。ところがちょうどその時、尹判書が二日路程の所へ御用につき出張され、その替わりに趙判書が専主されたことも幸運であった。また、朴僉知も朝廷へ呼ばれ詳しく事情を話したこと、なかんずく洪判官の働きは目覚ましいほどの回天の力であった。
 潤九月二十四日の朝に、待ちこがれていた破船使の返翰が東萊府に到着したと言って、夜に入り玄訓導が喜び勇んで持参して来た。それを開いて見ると、文句はいつもより言葉も少なく見えたが、「約束に違ふところ有り」の文句は全くなかった。しかし、常例と違い、「護還」という言葉も、首句にこれまで漂氏と使者が相添い送迎されたという意味の「遠辱皇使」という文句もなく、全体として粗造に見えた。しかし、ここでまたいつものように朝鮮に相改めるように求めてはさらに紛糾するのは分っているので、使者ならびに館守、そして裁判が叱責を被ってもよかろうと考え返書をそのまま受け取ることにした。これによって、礼単茶礼、上船宴が済み次第、破船使大浦甚兵衛は帰国できることになった。

      8

 それから二月経った。空はどす暗い雲に覆われ、冷たい霙が霏霏として降った。海は荒れ昼夜ひっきりなしに海鳴りが轟いた。何日も対馬から船は来なかったし、倭館からも船は出航できなかった。雪まじりの雨の降る二月六日に、芳洲の再三の催促により東萊府からやっと公作米、堂供送使の再啓聞がなされた。芳洲は毎日荒々しい冬の海をぼんやり眺めて過ごした。
 しかし、よい知らせはついに来なかった。今年一月十八日に芳洲に到着した都表からの関文は二事ともまかりならずというものであった。この三日前に玄訓導と朴別差が、津和崎徳右衛門と荒川平八の両人を坂ノ下へ呼び寄せた。
 玄訓導は二人の顔を見ると急に言い淀んだ。
「都表では公作米、堂供送使の二事とも内証はほぼ済んでいますから、そのように心得ておるようにと同役中より段々申して来ました。そこで、こちらでは堂供送使のことはとかく普通に済まずまず裁判が逗留なさることになるけれども、公作米のことは必定昨年の内に済むだろうと安心して、いい知らせを朝夕待っていました。ところが、さにあらず。今度備辺司からわれわれ宛に伝令が下りました。公作米のこと先立って年限相済んだ時、今度はまかりならぬことを申し達しておいたので、今更さし許すべきことはない。堂供送使のことも以前、木綿百束をさし許すべしと申した時、百束が些少という理由で取り合わなかったのを数十年を経て、今になって理由もなく言って来ることは承服できない。このことは訓導別差が厳しく責諭すべきなのに、かえって色々言葉を飾り申し登せたのは不届きの至りだというのです。なんとも気の毒なことです。元来、備辺司より我々へ伝令をもって申し聞かせられることはついぞ先規にない事なのに、ただ今裁判の御用を引き受けます尹参政と申す人は、以前東萊をも務め平生刻薄なる人ですから、右の議論を立てられ伝令をもって申し越された訳でございます。我々不孝にも右尹参政のこと、都表で洪判官などが日頃出入りしない人ですから、取りつけるべきすべもないことを申して来ました。このようなことを急に裁判がお聞きになられてはさぞかし驚かれ返答なさり難い訳もありましょう。その上、関文まだ下り申さないために裁判も少々お体が優れない御様子に見えます。私も都のあちこちに気を使い、気分が不快ですので、まずお二人をお呼びしました。裁判にこの趣を申し達してください」
 荒川平八は早速返答した。
「公作米が出来にくいならば、以前のように千百束あまりの木綿、皆々細木で相済まされるならば相済むことです。別に差し支えることではありません」
「そのように言われては相談というものではありません。備辺司の伝令の趣は厳しいものですが、他に内証を申しつかわす方もありますから、ゆるゆる計りましたら事は相ととのうでしょう。しかし、分站(公作米の分配)が延引に及ぶことは甚だ気の毒に存じます」
 玄訓導は実に申し訳ないような顔をした。朴別差は「われわれはやるべきことは精いっぱいやっていることは分ってほしいのです」と不満げに口をとがらせた。
 その後、芳洲は都表からの対馬藩の要求は認められぬという関文を正式に持って来た玄訓導と朴別差に言った。「堂供送使のことはすでに許諾あることですけれども、数十年その沙汰が止んでいることを今日取り行われることになりますのは最初同然で、万事最初にやらせることは容易になりがたいものです。それゆえ、このことは議論、または思慮の間もあるべきことと言いながら数十年連続してきたことですので、今では定例のようになっています。それを昔に復し木綿で相渡されることになれば、千百束あまりことごとく細木で請け取ることになりますから、このような木綿を今後入れますと言って、その品を見せられ対州へさし渡し昔の細木と相違ないかどうかを引き比べた上で、決められることです。もし、また細木は出来にくいならば、先年日本の元字銀をさし渡します時に貨幣の質が悪くなった分として二割七分を加えた例に準じ、木綿の数を相増されるべきです。このような議論など都表で済んだ上で、公作米は駄目だと申し下されたことですか」
「細木は現在決してまかりならざることです。都表でそのようなことは詳しく知られないからです」
「それならば、東萊は存じておられますか」
「その訳を知られないはずはございません。やっと前の回の年限が済んだことは右の尹参政が東萊を相勤められた時でしたので、その身が役目の時は朝廷へ申し上げすみ、当東萊が申し上げられることは不届きだとあり、考え直しを仰せつけられたことは分りませんと東萊もおっしゃいました」
「それゆえ、ひとえに尹参政の不了簡と聞こえますので、押し返し啓聞いたされるべきですからその旨を東萊へお話し下さい」
「おっしゃった趣は一つ一つ東萊へ申し達します。その身は考え直しを命ぜられましたので、急にはよくなるまいとは存じますが、随分と相談してみますので、そのように理解して下さい」
 玄訓導は立ち上り帰ろうとするので、芳洲は二人に夕料理を一緒に食べて行くようにと勧めた。しかし、二人は「まだ用事があるから」と言って伴に帰って行った。
 東萊はすぐに啓聞しなかった。それから一ヶ月が経った。
 二月二十二日、芳洲は東萊へ行っていた玄訓導が帰ったことを聞いたので、前日に人を遣わし、訓導別差の二人を裁判屋へ呼び寄せて東萊府での様子を聞いた。玄訓導は言った。
「この間から聞いています趣、一つ一つ東萊へ申し上げました。『堂供送使のことは懇ろに厳しくなられますことで、破船使の訳とは違います』とあなたが先日言われたことを話しますと、東萊も感心なさった。しかし、東萊は『堂供送使のことは私のような辺臣の了簡に及ばないことです。公作米年限のことは早く仰せつけられて当然だと先立って申し登せたところ、かえって右の首尾でございます。今度また都表へ申し登せる時は私はお叱りに会ってもすみますが、またまたあなたたち訳官が罪に逢いますことは笑止なことです』とおっしゃいました。そこで、私は東萊が内々にかねて『いずれにせよ、使者の裁判に逢わずしては、啓聞の道もあるはずもない』と申されていることを聞き及んでいましたので、「副特送使の宴席の時に裁判とお会いなられてはいかがでしょうか」と言いますと、『もっともなことだ』と東萊はおっしゃった。雨森殿、東萊に会見なさってはいかがですか」
「実は私もとにかく東萊に対面いたそうと思っていました。東萊もそのようにお考えならばなおもって結構なこと。とくと考えて、二、三日中に申し入れますので、そのように心得ていて下さい」
 芳洲は今は訓導別差に対してではなく、東萊とひざ詰め談判をしなければ、いつまで経っても啓聞の道は開けない、もはや一日も猶予できないことをひしひし痛感していた。芳洲が堂供送使のことは破船使とは訳が違うことだと言ったのは、一月に関文で都表から対馬の年限及び堂供送使の要求は拒絶されたうえに、裁判の言い分を用い、啓聞に及んだことは不届き至極であると東萊が考え直しを命ぜられた後に、玄訓導が「とにかく、堂供送使のことは今度は言わないと明言しなくては、公作米年限の啓聞はあるまい。東萊の御意見も同じです」と言ったからである。
 芳洲はその時、ただちに反駁した。
「都表の二事とも駄目だという評議はなんとも理解できません。年限のことは許されなくてはかなわないことなので許され、堂供送使のことは不同意ですから駄目だと申されればすむことです。それを二事とも駄目だと申されるならば、自然と使者の方より堂供送使のことは申してはいけないから、公作米のことは対州で切迫しているため年限の方だけ早くお済まし下されと言うように思われ計策と聞こえ、不誠信なやり方です。使者の身として君命を受けて来た用事の内、このことは言ってはいけないので、このことだけお済まし下さるようにというやり方は決して出来ません。対州へ道を通わせ対州の心を聞くように、あなたたちがなさるべきなのに、このような不誠信な心持ちのこと、対州へ申し越されることではありません。まして、対州より公作米のことだけ済ませ、堂供送使のことはそのままにして帰りなさいとの御指図は万々ないはずですので、堂供送使のことは言ってはならないということは決してあってはなりません。あなたたちが考えられるところも、また都の評議も、公作米のことすんだら、今度は堂供送使のことにつき破船使のように何度も逗留に及ぶだろうかと考えられるため、『堂供送使のことを言わない』という確かなる使者の一言を聞き届けたいのでしょうが、それはいらざる無益の気遣いです。堂供送使のことは対州より御無心をおっしゃることで、約条を争いました破船使とは訳が違います。もっとも、何度もよろしく申し入れお許しあるようにいたせと命令されたことですので、使者の身になり駄目とありましても一通りの口上でそのまま帰るべきさまもなく、一度も二度も申し入れはするでしょう。それでも、落着しないとなりました時は、その訳を聞き届けた上で帰るべきしかありません。なんの心配もない事ですので、都より年限は許されます、堂供送使のことは駄目ですとおっしゃることはあまりにもいい加減な仕方と申すものです。ただ今のなされ方はかえって何とやら巧妙ななされ方で、朝鮮の国体に取りましてもよろしくないことですので、この旨を東萊に申し上げて下さい」
 この芳洲の「破船使の訳とは違います」と言ったことを東萊は感心したのであった。
 芳洲は言った。
「堂供送使のことをまかりならぬと関文で言って来た朝鮮の主意は三ヶ条です。第一はその国の祭に他国の力を借りることはいかがわしい。第二に年久しいことを今なぜ申し出たのか、これまたいかがわしい。第三に殊に以前は百束を少ないと申し唾棄したことを、今さらまたまた百束を乞いますのかはいかがわしいということです。第一の点から申します。国の大事は祭と戒めとに在りと申しますけれども、その国に乏しい品は力を他国に借りますことは勿論のことですから、朝鮮第一の武器にされる弓は対州より渡す角でこしらえます。だから、我国に用いる品が他国と貿易し、その力を借り不足を補うことは恥ずべきことではありません。第二の点の年久しいことをなぜ今になって言い出すのかとのこと、これは去年より何度も言うとおり、この時節別して神君家康公の祭祀に念を入れられる機会がありましたからのことですので、なぜと言われましたらどのように答えられましょうか。第三の点について、先年、百束を少ないと申し唾棄したとのこと、いよいよそれならば、その時の裁判の不了簡です。今度の裁判は以前許された品をそのとおりにさし許し下さいと申しますのに、どんな罪があって拒まれるのですか」
 芳洲は諄々と悟すように説いた。朴別差は鼻白んだ調子で言った。
「朝鮮も以前の朝鮮ではございません。物力優れないために自然とこの評議に及んだと考えられます」
 続いて玄訓導が念を押した。
「結局、都表の様子が今度は厳しく聞こえますので、年限相済みましてまたまた堂供送使のことを申し立て、破船使のごとく逗留に及びましては、都のお叱り大抵ではあるまいとわれわれが第一に心元なく存じました。また東萊にもその恐れをお持ちですので、使者が堂供送使のことは言うまいとの決定の言葉を聞きたいとのことで、くどいようですがこのことは使者より言われない方がようございます」
「堂供送使についていよいよ都表から駄目だとまたまた言ってきたら、裁判がそれで帰り破船使のごとくにはなるまいと聞き届けようと東萊が思われたので、私と対面しようと言われたのでしょう。また、あなたたちも自分の将来のことを考えて東萊と逢っておくとよいと考えたのでしょう。いずれにしても堂供送使のことは一概に駄目だとは言い難いことですので、東萊に逢いましたら、公作米年限にも差し支えず、堂供送使のこともこれ切りで相やめないように申し入れるべきと考えますので、じっくりと考えて返事をしよう」
 芳洲はこう言いながらも、東萊に会った時には公作米年限と堂供送使の両方の啓聞をやはり求めねばならないと心で決めていた。
 五日後の二月二十七日、芳洲は訓導別差が訪れるといよいよ東萊と会見するのでそのことを申し上げるように、と言った。そうして、文机の上に年限のことを記した口上書一通、堂供送使のことを記した口上書一通を出して示した。
「東萊へ対面の節、東萊へ申し上げるべきと思いますこと、口上このとおりです。あなたたちがかねがね申し置かれます趣とは違っては、あなたたちの難儀になりますので、書き付けました。御覧になりお考えを話されたい」
 玄訓導は二通の書き付けを見て言った。
「今度御対面の節は公作米のことだけおっしゃって、堂供送使のことはまずおっしゃらない方がよろしいと存じます。是非とお思いになるならば、真文にお書きになられ我々にお渡しなられ、追って東萊へ見せるようになられるべきかと存じます」
「大庁で東萊へ申し入れることは表立ったことで、私の申し分は一々啓聞無くてはかなわないことです。あなたたちをもって申し入れることはたとえ真文に認めても内証の言い分になり、啓聞に及ばないはずのことですから無益なことです」
「それはごもっとも。しかしながら、堂供送使のことをおっしゃられましたら公作米の啓聞もなりがたいと言うことになります。とかくは今一度またまた御対面できるようにしますので、あなたから重ねて対面を請うことがありましょうから、そのように心得られおかれますようにと東萊へ御挨拶なられ、まず今度は公作米のことを早く済まされ、堂供送使のことはその時におっしゃられるようにされるがよろしいかと存じます」
「私が思うところも、今度年限ならびに堂供送使の二事ともに申し上げては、啓聞の差し支えがあるはずですので、きっと堂供送使のことはまず今度は控えますように言うのがよかろうと存じますが、念を入れてあなたたちの意見を承ってと考え、書き付けを見せました」
「雨森殿、堂供送使のことは率直に言って無理なように思いますよ」
 朴別差は事をも無げに言った。
「なるほど堂供送使のことは難しい事ではございますが、今度は都表の勢いが違いますので、なりがたいだろうとは思われません。私の知っているところ、都表の議論一決せず、一度お許しなられたことですから、今度許されて当然だと申す人もいる。又は数度懇望の上さし許されてよろしいと申す人もいる。またはお許しになられてはいけないと申す人もあるでしょう。その内で道理をもって見ますならば、今度のさし許しますことは至当と存じますので、何とぞ今一度精出し相働いてみられるべきです。そうすれば、誠信の道も立ちあなたたちの身分にもよろしいことです。どうでしょうか」
 芳洲の白い右眉が堂供送使のことがどうしても諦め切れないというようにぴくぴく動いた。
「道理を言ってもなるほどさし許されるべきことと存じます。その他、おっしゃるとおりです。だから最近までこのことはとかく相済むだろうと私が申しましたが、段々都表の様子を聞きますと一決いたさない勢いです」
 玄訓導は無念そうに答えた。芳洲は玄訓導が公作米年限も堂供送使も両方うまく行くように安心させておいて、年限のことを控えおきとどのつまりは年限のことだけに誘導する計策ではないかとかねがね注意して見ていたが、まるでそんな気配は見られなかった。特に玄訓導が「重ねて対面の時に堂供送使のことは申されるように」と言うので、芳洲は「是非今度申し出て、年限の啓聞を遅滞させる必要もないから考えてみます」と話した。

      9

 いよいよ三月十日に、芳洲は東萊と会談することになった。当日は朝早くから朴別差が用事のため入館したので、朝の料理を出した。その日、副特送使出宴席が倭館の西館で行われることになっており、東萊府から調べのため軍官と通事がやって来た。彼らには刻み煙草を与えるならわしとなっていたため、芳洲は二人に刻み煙草を渡した。
 芳洲は宴席がまだ終らないうちに、高さ六尺の石垣が廻らされている倭館の北の出入り口の宴席門のそばの松原まで出て、幕を張った。そこで袴羽織に身なりを改めた。役人たちを帰らせた後、芳洲は駕籠に乗り倭館の北側にある宴大庁へ行くために、朝鮮側の役人が厳重に見張る宴席門を潜った。供の者は若党八人で、長刀持ち、槍三本を対し、挾箱、合羽、籠、茶弁当を持った。芳洲は宴大庁の門の外で駕籠から下り、大庁の門を潜った。中央正面に宴大庁という額を付けた建物があり、その建物の縁先まで玄訓導が出迎えていた。すぐ後から東萊府使李匡世がにこやかに微笑しながら出て来た。青白い顔に髭を生やした男だ。芳洲は府使李匡世に続いて六段の石段を上り宴大庁に入った。通事が裁判の身分を証明するために所持する印の入った箱を藩士から受け取り、赤色の台の上に置いた。一方の赤色の台には東萊府使の印が入った箱がすでに置かれていた。芳洲と府使李匡世とが互いに左と右に立ち向かい、裁判の芳洲の脇には玄訓導が付き添い、東萊府使李匡世の脇には朴別差が付き添った。双方が会釈が終って半席に着いた。双方の供の者が宴大庁の建物の外庭で左右に分かれて整列し、階段の様子を立ったまま静かに眺めていた。
「今日は天気もよく初めてお目にかかれて嬉しく存じます」と東萊府使が別差をもって挨拶した。芳洲も「お会いできてまことに光栄です」と玄訓導を通して挨拶してから、言葉をつづけた。
「私が承ります役目の内、公作米ならび堂供送使の事を申し入れましたが、二事とも許さないと都表から申して参りましたことを訓導をもっておっしゃり、伺いました。公作米の年限のことは数十年来連続したことで、最初公作米になりました時、互いに約束を決めました訳もあり、殊に誠信の上からも他国人民の事をおぼしめすべきことと存じますので、よろしく御啓聞なられ、早速相済みますように頼みます。堂供送使のことは一旦お許しのことではございますが、年久しいことですので、今度は初めて取り行われますも同然で、万事初めて取り行われますことは容易ならざるはずの事と元より存じております。その上、これは対州より懇望いたします筋のことですので、許さないとあれば、使者の身になり達して申し入れることもできないので、おっしゃる趣を受け帰るより他はありません。ですから、年限米のことをよろしく御啓聞なられますように頼みます」
「先だって公作米年限、堂供送使のことをおっしゃられましたので、公作米のことは早く仰せつけられて当然と思います趣を委細啓聞に相認めました。堂供送使のことはどうかとは思いますけれども、都表了簡の次第のことでございますので、これまでは辺臣の身より是非を申し上げる訳ではありません。まず使者の言います趣を申し上げますと啓聞に相認め両度さし登せましたところ、思いがけなくもお叱りを被り右の首尾でございます。都表の存じ入りは公作米のことを許されましたならば、その後には堂供送使のことを仰せかけられるのであろうと思われるところから、公作米のこともまかりならずと申し来り、私どももお叱りに逢った訳です。それゆえ、御使者より堂供送使のことは今度はおっしゃらないという一言をいただかなくては、公作米の啓聞はできません。それを押して啓聞に及びます時は、またまたお叱りを被ることになります」
「そのことは先刻も申しましたとおり、堂供送使のことは格別のことですので、朝廷よりお成りならずとありましたことについて是非と言うべきさまもなく、できないという御返事を聞き帰りますより他はないことですのでご心配はいりません」
 芳洲はさらにつけ加えた。
「もっとも使者の一言を聞きたい、そうでなくては啓聞なりがたいとの訳を繰り返し申され往復に及びますが、そのことは先刻より数遍申し入れましたとおり、使者の身として主人よりこのように申し上げよと言い付けます用事の内を選り分け、このことは言ってはならないので、このことだけを済まして下さるようにと申す道理は決してないはずですから、できないことです」
 東萊はいかにも困ったような苦しい顔つきで芳洲を見つめていた。やがて覚悟したように言った。
「なるほど、使者の立場はよく承ったので、公作米年限の啓聞はいたそう」
 芳洲は言った。
「都表より公作米年限の回下が参りました上で、私が承りました他の用事のことにつき、重ねて御対面のことを申し入れることもありましょうから、あらかじめそのように御承知願います」
「分りました」
 東萊はうなずいて会談は終った。後は挨拶をし会釈は初めと同じであった。これらの会談の様子はすべて玄訓導が取り次ぎ、朴別差は東萊の脇に立ち、堀半右衛門と荒川平八が芳洲の両脇に立った。津和崎徳右衛門だけは玄訓導とともに東萊の側まで毎度出かけて行き東萊の返答を直に聞いた。この会談の後、芳洲は館守平田内膳に事の経過を具に報告した。
 芳洲はその晩、夜半過ぎまでかかって東萊と対面し、公作米年限の啓聞を求めた経緯を子細に家老杉本采女宛の手紙で書いた。
 手紙の末段はこうであった。
「年限のことが済んだ後、堂供送使のことを申し入れますが、啓聞しようとは万々東萊は申されまい。そこで、年限のことさえ済みましたら、前に申し上げましたとおり、こちらの勢いに応じ裁判は帰国いたしたく存じますので、御承知下さい。私の帰国のことは年限が済んだ後、そちらの勢いを子細申し越した上でこちらから指図するのでそのように心得よと前の返書にございました。しかし、往復の間には一月も二月もかかりますので、その間に朝鮮より帰国の催促を受けるようになってはいかがと存じます。私の帰国についてお聞き届け下さい」
 三月十日に芳洲は東萊と会見し、啓聞は二、三日後にはなされるはずであった。ところが、実際に公作米の啓聞が都へさし立てられたのは三月二十一日であった。それから、すでに四月十日も過ぎたのに、朝廷から何の音沙汰もなかった。
 月日が空しく経っていくだけであった。本当なら芳洲は毎日館内に起こった出来事を丹念に日記に書き残しておかねばならなかったのに、もう日記を書く気力もおこらなかった。何日も日記は白紙のままであった。さらによくないことには都から悪い知らせが入った。都にいる朴僉知や洪判官から玄訓導へ届いた手紙によれば、二年前に起きた李麟佐の乱の残党が国王英祖を呪詛する事件が発生したのである。これは宮中の役人の密告によって国王英祖の耳に入り、侍女たちを詮議したところ、その子細が発覚した。二年前に国王英祖の世子が薨御したのは実は毒殺されたのであり、国王英祖へも一度毒薬を用いたけれども、李麟佐の残党は失敗したとのこと。このため、国王英祖は身の危険を感じ、宮中を別の宮中へと遷御されたという。李麟佐の乱の時の逆賊の頭領たち鄭希亮、朴顕弼など七人の内、六人は一昨年の乱の後に処刑された。後の一人は乱の起こる前年まで二年間、吏曹参判であった少論の李真儒という人で、乱後、済州島へ配流になっていた。しかし、先頃都表へ召し捕られ厳しい拷問を受けているが、いまだ白状をしていないが今度の国王英祖呪詛の首謀者として紛れはないとのこと。驚いたことにこの李真儒は東萊の従叔父に当る人であるという。さらに享保の通信使の従事官として日本へ来た李明彦も逆賊として平安道の絶島へ配流されていたが、これも今度の騒動の一味と判明し、おそらく死刑に処せられるという。この騒動は三月頃から明らかになり、毎日五人から七人が処刑され、すでに数百人が殺されたとのことである。国王呪詛の方はたいがい平定したが、宦者よりまたまた残党を訴え出て、なおまた騒動は続き、杖罪死刑の人数は段々相増しているという。
 芳洲は朝鮮騒動の噂を玄訓導に聞かされ、思わず体がぶるっと一瞬震えるのを感じた。陶山庄右衛門殿が自分に話してくれたとおり、国王英祖はまだ朝鮮国の権力を把握してはいなかったのだ。国王呪詛は洪致中公を領議政にして蕩平派を登用することで、老論と少論の対立を和解させようと試みたが、これは失敗したのだ。
 芳洲は都表で老論と少論との権力闘争から国王英祖の御命まで毒殺する陰謀騒動が起こっていては、公作米年限の回下が遅れるのは当然だと思った。これでは、はたして一体いつになったら公作米年限の回下があるのか。今にも藩の米倉が空になろうとしているのに、このまま朝鮮米が入荷しなかったら、対馬の者たちはたちまち飢餓に陥ってしまう。一体どうしたらよいのか。芳洲はますます恐ろしい不安にかられた。もしまた今度も対馬藩の主張が通らないかもしれないと考えると、急に絶望感に襲われ眠れぬ夜が続いた。芳洲は今晩も不眠の夜が来るのかと思うと、一日中心が晴れず重苦しくてたまらなかった。冬の間、芳洲は凍えるような酷寒と持病の神経痛のために、全身がまるで針で突き刺されるように痛くてたまらず少しも熟睡できなかった。のみならず、歯痛にも苦しんだあげく歯を一本失った。さらに春先には夕飯に混じり入っていた小石を噛み、奥歯が一本欠けた。昼間は玄訓導や朴別差といろいろ仕事のことを話していて少しは気を紛らすこともできたが、彼らと話をしているうちにどうかすると急に激しい睡魔に襲われ、うとうと眠りこけたこともあった。しかし、我知らず居眠りしていても、頭のどこか一点に絶えず醒めたところがあり、一瞬も公作米のことが忘れられなかった。
 ひたすら年限の回下を待ち続ける昼間は途方もなく長い時間に感じられた。それ以上にもっと時の流れが淀み遅々として進まぬように感じさせたのは、底知れぬ深い沈黙と向き合う夜であった。芳洲は夜半に酒を飲んでも眠られず、裁判屋の外へ出てみた。高台にある館守屋、裁判屋の周囲にある代官屋も伝語官屋も鷹匠家も東向寺も、どこも明りは灯っていなかった。倭館じゅうが暗闇に沈みまるで死んだように眠りこけていた。「火の用心」という夜回りの声も聞こえなかった。ただ真黒な海の岸辺に打ち寄せる潮の音がざあっ、ざあっと繰返し寂しく聞こえてくるだけであった。芳洲は伝語官屋へ行き津和崎か、荒川を呼んで来て一緒に酒を飲もうかとちょっと思ったが、すでにぐっすりと眠っているはずの彼らを起こすのはなんだか気の毒に思ってすぐにやめた。その上、もし自分が夜眠れなくて困っていると話したら、彼らはきっと動揺するだろうと思ったからだ。彼らとはもう一年間も倭館で生活している。しかし、朝夕一緒に食事をしていても、彼らは裁判である自分に対して身分を弁え無駄口や冗談をいっさい言わなかった。二人とも互いに早く代官になりたがっていたから、芳洲から伝語官の働きぶりを悪く評価されるのを恐れていた。伝語官よりも代官の方が身分も高いし実入りもよかったので、彼らがそう願うのは無理もなかった。なるほど藩にとって御商売が大切なのは言うまでもない。けれども、両国の間に何か事が起こり館守や裁判から論談に及ぶ時か、あるいは通信使の接待という公事をお上が務めなさる時に、伝語官がしっかりしていなければ取り次ぎの良し悪しにより取り返しのつかぬ大変な事件が出来しないともかぎらない。そうしたことを防ぐために、芳洲は伝語官の役割が誠信御用の上から何よりも肝要であるため、有用な伝語官を代官に安直に昇進させる藩の方針を今後は取り止めてほしいと考えていた。
 空に出ている白い三日月を見上げ、芳洲は思わず背中に寒気をぶるぶるっと感じ大きなくしゃみを一つした。芳洲はなぜただ一人、こんな夜中に自分だけが眠らず、あれこれ屈託し苦しまなければならないのか、何のために自分が眠れないでいるのかどう考えても理解できなかった。これまで自分はいつもこんなふうに繰返し対馬藩大切と思えばこそ、果てしない心配事にくよくよ悩んできた。しかしながら、それは一体どんな意味があったのか。目はかすみ、黒かった髪も今ではすっかり薄汚れた白髪に変わり、顔面の黄ばんだ皮膚はかさかさに乾き、あちこちに黒い斑点が染み付き、顎のあたりは力なく垂るみ、背筋も曲り、倭館の坂道を上るのにどうかするとすぐに息切れさえする。いつか苦しみがなくなる時が必ず来ると信じ、今日までなんとか踏ん張り耐えてきた。しかし、今は自分にはついに死ぬ時まで安息も慰藉も金輪際ないのだと思うと、芳洲は突然に全身にどっしりとのしかかる徒労の重荷にこらえきれず押し潰されそうになって呻いた。芳洲は氷のごとき堅く冷たい寝床にひとり横たわった。すると、待ち構えていたかのように夜の沈黙が芳洲の耳元にひそひそ囁きはじめた。
 おまえの生涯は一体、何だったのか。近江出身のおまえがどうしてはるか朝鮮まで流れて来たのか。そうか、芳洲、可愛想に、おまえはここで死ぬ運命だったのだな。おまえは倭館に閉じ込められた捕虜だ。いくらでも朝鮮に縋り付き這い蹲り哀願するがいい。何度繰返し啓聞を請い求めても、朝鮮はてんで聞き入れるものか。誠信の交りだと。ふん、滑稽だな。おまえは『交隣提醒』に「互いに欺かず争はず真実をもって交り候を誠信とは申し候」とよくもそんな白々しいことを書いたな。おまえは何かと言うと「誠信」を口にする。しかし、おまえは「誠信」という言葉を本気で信じているのか。公作米年限の交渉を一年も続けてきて、朝鮮がいかに不誠実かはおまえ自身が誰よりも一番よく知っているはずではないか。芳洲、それでもなお「誠信」を念仏みたいに唱えるのか。破船使の返書の一件を見よ。あの破船使の大浦甚兵衛がついに狂ったのはなぜだと思うのか。足掛け三年も倭館に留めておいた朝鮮の不誠実な態度のせいではないか。朝鮮は最初から大浦甚兵衛が発狂するのを待ち望んでいた。そうして、大浦が発狂してはじめて朝鮮は破船使の返書の改撰を許諾したのだ。朝鮮は百年前の壬辰倭乱、丁酉倭乱の恨みを晴らすためえに、おまえたちにこうして復讐している訳だ。次はおまえの番だ。朝鮮はおまえを嬲り嘖み苛めて喜んでいるのだ。おまえも今に気が変になるぞ。大浦が初めは夜眠れなくなり、それから少しずつ狂いはじめたようにな。芳洲、おまえはやがては狂い死にする。そうして、果てはおまえの亡き骸は鈴木政右衛門と同じく古倭館の墓地に埋められるのだ。
 夜の沈黙は執拗に囁いた。
 芳洲は昨秋の彼岸の日に、草梁倭館に移転する前に豆毛浦にあった古倭館の墓地に詣でたことを思い浮かべた。その日、芳洲は墓地へ向かう途中に天高く南を指し鶴の群れが飛んで行くのを何度も見た。
 松林に囲まれた墓地はみな生きて対馬に帰れずあえなく最期を遂げた者たちの墓であった。丸い墓石や細長い御影の碑、そして多数の朽ちた木の墓標があった。土饅頭もいくつかあった。一切衆生悉有佛生と書いた塔婆もあった。墓地の中央には百年以上も経つと思われる銀杏の巨木が一本立っており、今は落葉して丸裸であった。銀杏の枯葉は海からの風に吹き寄せられ、墓の片端にいっぱい積もっていた。前回の公作米年限の交渉中に急死した鈴木政右衛門の墓は極立って大きな御影石で出来ていた。不思議なことに墓石は立てられて五年しかなっていないのに、すでに何十年も経っているかのように他の墓と同じくすっかり苔むして黒ずんでいた。墓の周りにたくさん咲いている彼岸花だけが、まるで埋葬された人間の死体から血を存分に吸い取ったかのように奇妙なほど真赤であった。
 芳洲は自分もまた死んであの墓地の穴底に埋められるのかと思うと、訳もなく怖気づき、誰かに救いを求め、突然に大声で喚きたい気がした。一瞬、ここで叫んだら本当に発狂しそうにも感じた。しかし、やっとのことでその衝動を押えた。そうして、芳洲は懐かしい顔を思い浮かべることで、自分の不安を宥め落ち着かせようとした。芳洲は七年前に江戸で死んだ友、新井白石の顔をじっと思い浮かべた。そして黒闇に向かって言った。
「新井殿、顧みて自分の生涯はどうだった」
 何も答えなかった。
「新井殿、どうか答えてくれ」
 芳洲はもう一度呼びかけた。
「あなたの生涯は幸福だったのか、答えてくれ」
 ようやくにして相手は言った。
 そうだな。まあ、幸福な人生と言えるかもしれぬ。君と知り合ったのは三十七歳の時だった。それゆえ、御存知ないだろうが、私は若い時から圭角があり、功名を求める心が人並み以上に強かったために、よく人と衝突したものだ。二度も浪人生活を送ったのは当然だったろう。浪人して隅田川の川縁に借家住まいで寺子屋を開いていた当時は、本当にその日暮らしで食べていくのもままならなかった。このまま家の近くの子供たちに手習いを教えて朽ち果てていくのかと思うと、なんだか自分が惨めで涙をこぼした夜もある。それでも内心ではいつか天下国家の大政の中枢に身をおく日が必ず自分には来ると信じて疑わなかったけれどもね。しかし、どんな後見人もひとりもいない自分にはそれは身の程も知らぬ不遜な夢にすぎぬと一笑に付されてもしかたがなかったのだ。さすがに堀田家を辞去した後の二回目の浪人の時は、わずかの財産もないうえに妻子もいたから、どんなに心細かったか言いようもない。雨森殿、あなたのように一度も浪人生活を送ったこともない人には恐らくこの不安はお分りになるまい。
「正直申して私は今まで対馬藩を何度もやめようと思ったかしれませんが、結局やめる勇気がありませんでした。新井殿は私と違い、孟子曰く『恒産なくして恒心あるは、ただ士のみ能くすと為す』とあるように、大志を果たすためには、浪人生活も潔く甘受なさったのでしょう」
 幸いにして、一介の浪人にすぎなかった私は木下順庵先生と出会えたのが開運の始まりであった。その二年後には、先生の推薦により甲府候綱豊公に出仕できることになったのだ。そうして、綱豊が将軍家宣公になられるや、私は五百石取りの幕臣ともなることができた。先生との出会いのきっかけが、私の書いた詩集『陶情集』が朝鮮通信使の人たちに高く評価されたからであり、これによって先生はこの私を認めてくださった訳だ。もし私が詩を書かなかったら、順庵先生とお会いする事もなかったかもしれぬ。ところで、あなたは今も詩を書いておられるのか。
「はい、相変らず下手な詩ですが、今も書いています。今はあなたのように私の詩を添削してくれる人もいませんので、はたしていい詩と言えるか分りませんがね。先日もわが身が老論であったために東萊へ謫居させられていた弘文館の修選の役を務めた人が、私の詩を是非見せてほしいと玄訓導を通して申し込んできました。しかし、私の詩文はどなたにも見せるほどの代物ではないと遠慮して断った。ところが、洪致中公が領議政となったためその人が今度罪を許されて都に戻ることになったので、餞別として詩が欲しいと再び言って来ました。その人は自分が都表へ戻ったら日本に是非役立つことも出来ようと言ってきましたので、詩文を書いて送ってやりました。今は玄訓導が壊れかけた訳官の役所を立派に修復したことを記念し、その役所が風光明媚な場所に建立されているにもかかわらず、その名を求めずわざわざ『誠信堂』と命名したことを祝い、『誠信堂記』という一文を今書いているところです。お恥ずかしいですが、初めの一節を詠んでみましょうか」
 そうか。『誠信堂記』をね。それはいい。是非とも聞かせてくれたまえ。
「それでは詠んでみる。草梁の廨あるや久し。歳ひさしく月深く風けずり雨蝕み、まさに傾圯の患い有らんとす。錦谷玄君任にのぞむの明年、乗間四顧し慨然として嘆ず。これなんぞもって国を揚げて輝き、官を尊んであおぎみるに足らんやと。すなはち貲をすて材をあつめ、工を督して修葺す。堂その高きを欲す、ただあるいは陋ならんことを恐るればなり。墻その堅きを欲す、あるいは壊れんことを恐るればなり。その他、庁房門廡よりもって廐庫の小に及ぶまで煥然として一新せざるはなし。ここにおいて人の過ぐる者、囅然として歓悦し相ともに告げて曰はく、かくの如くんばまさに称すべきなりと。既にして誠信をもって堂に名づく」
 うん、詩文を通して異国の人と友人になれるのは本当にすばらしいことだな。私の詩にしても朝鮮のみならず清国にまで知られているというが、おのれにとってこの上なく名誉なことと思っている。あなたはこの後も詩作をつづけてもらいたい。ところで、あなたとは互いにお役目柄、政治向きのことで意見の確執がしばしばあった。本当なら生前あなたの意見をもっと十分に聞きたいと思ったことも正直何度もあったのに、私は幕府の政治顧問のような立場上、どうしても素直に胸襟を開けなかったのが心残りであった。
「それは私も同じことです。あなたに自分の中の疑惑や恐怖を打ち明けることで、あなたからどんなに自分の考えや行動の正しさを認めてほしかったかしれなかった」
 あなたは私があなたを幕閣の儒者に推挙しなかったことを恨んでいるのか。
「いいえ、今ではそんなことを何とも思っていません。けれども、あの時、あなたが朝鮮の国書の将軍に対する宛名を『大君』から『日本国王』に書き替えを求めた国王号問題であなたの論敵となったために、あなたはこの私を嫌ったのだろうと心底思いました。実際その気になれば、私を推薦できたのではないですか」
 あなたは松岡儀右衛門殿とともに日本国王号問題で、私の意見に反対した。しかし、それで私があなたを幕府の儒者に採用しなかった訳では断じてない。なぜなら、改革を断行するに際し、土屋相模守や林大学頭たちに対抗するためには、あなたたち木門の人々の力が必要であったからだ。しかし、よく考えてみれば、もしあなたを対馬藩から引き抜いたら、対馬藩は一体どうなるか。対馬藩にとって大きな損失だ。順庵先生は朝鮮との関りの深い対馬藩の役割を重要に思われていたからこそ、あなたをわざわざ対馬藩の儒者に推薦された。それなのに、私が先生の意志に反して、あなたを対馬藩から引き抜いて幕府の儒者にするのは正しいと言えるか。勿論、あなたが対馬藩を出たがっていたことはよく承知していた。しかし、日本国のために考えた時に、あなたには対馬藩で働いてほしいと思った。先生がいつも対馬のことを日本の要地なり、その理由は昔より日本の地と言って来た小島一つを朝鮮へも清国へも取られては日本に疵がつくというものだ。だから、外国から手出しをさせぬように政治の心得があらねばならぬ。対馬は日本より殊の外に地が離れ外国へ甚だ近い。そのことを理解せねばならぬと常に言っておられたことをよもやお忘れではあるまい。また、対州の儒者であった小山朝三殿がいつも順庵先生に憤りながら言っていたではないか。「今、朝鮮の唐島というのは、昔の任那の地で我国の対州のものである。それなのに、いつの頃からか朝鮮に取られて、朝鮮にも我国にもそのことを知られなくなってしまったのは無念の至りだ」と。
「私は対馬に来てからすでに四十年近くなるが、今でも他国者として対馬人から憎しみを受けることが多く、いつも心を痛めてついぞ楽しい思いをしたことがない。そのためか、私の作る詩はどうしても悲憤慷慨する文句が多くなってしまう。私が来るまでは対馬は平穏であったのに、ことさらに新儀を立て波風を立てる者としてしばしば非難中傷を受けることが多かった。また、これまで仕えた殿様からも愛されることも少なかった。あなたが将軍家宣様のような名君にお仕えになったことが甚だ羨ましい」
 いや、将軍家宣様には私の不徳のために色々と御心配をおかけしたことがあった。朝鮮通信使が江戸へ来た時、将軍の返事の中に「其於感懌」という文句の懌の文字が朝鮮国王中宗の諱であるとしてこれが犯諱となるし、外面封式に踏印がないことが問題になった。そこで私は通信使が持参してきた朝鮮国書にも「光紹其図」と将軍家光公の諱の光の文字があると指摘し、外面封式も通例であるとし「懌」の文字も変更しなかった。私は紛糾した責任をとり辞職願いを提出した。けれども、将軍家宣様は「仏氏の説に一躰分身といふなるは、我と彼との事なり、彼誤ちあらむ、すなわちこれ、我誤ちなり、我また事を誤らむには、彼誤りともなりぬべし」とまでおっしゃって、私を慰留してくださったため、私は辞職をとりやめた。あの時私は家宣様のお言葉に感激し嬉し涙にむせび泣いた。士は己を知る者のために死すという言葉があるが、家宣様のためなら私は死んでも本望だと思ったほどだ。
「あの国諱論争は結局、両国が改めて書き直した国書を対馬で交換するという形で一件落着しました。しかし、あの朝鮮通信使の一行は都へ到着するや、そのまま拘束されたのです。三使は官職を奪われ門外追放となり、首訳は定配、堂上訳官は徒配、堂下訳官は決杖となりました。現在、倭館で訓導をしている玄徳潤殿はあの時、堂下訳官であったので決杖に処せられました。あの時のことを思い出し、今でも彼は学問も詩才もある新井白石公がどうしてあれほど人間味のない態度をとるのか、不思議でならなかったと言います」
 なるほど、玄徳潤殿がそう言われるのももっともである。自分としては将軍からの返書に朝鮮の国諱を犯したのは大きな失策であったから、率直に謝罪し、それを速やかに訂正すればよかったのだ。しかし、日本の体面を重んじるという大義名分のため、そして朝鮮政策の改変はすべて自分の発案であったから、口実を与えまいと焦るあまりに、かえって朝鮮国書の中の「光」の文字の犯諱を追及するという仕儀に至ってしまった。決して通信使一行五百人を日本側の人質にすることによって、朝鮮国書の改送を請うたのではない。ましてや、両国の間に敢えて紛争の種を蒔こうとしたのでは断じてない。けれども、結果的にはわが主君家宣様の将軍の襲位を祝い、両国の善隣友好を深めるためにはるばる海を渡って来られた通信使と鋭く確執し、果ては彼らが本国で咎に合われたのはすべてわたしの責任であった。
「あの時、国王粛宗宛への将軍家宣様からの返書を三使に渡す前に、返書の下書きをなぜ私にお見せくださらなかったのですか。そうすれば、国諱論争という大問題にまで事が発展せずにすんだのに」
 まったく言われるとおりだ。あなたに返書の下書きを見てもらって文字を吟味していれば、ああした間違いはおこらなかったにちがいない。すべて己の学を過信したために犯した誤謬だが、先にあなたと国王号問題で論争することがもしなかったら、朝鮮国への返書を作成するに当りあなたに蟠りもなく相談できたのに、それが出来なかったのがくれぐれも悔やまれてならぬ。雨森殿、私はできなかったが、あなたならば善隣友好を文字どおり行動で示すことができよう。日本人にもああした優れた日本人がいるのかと朝鮮人にも大いに示してほしい。
「われわれの仕事は、死んで百年も二百年もしてから後の人によって、正しく評価されると思うことによってしか安心立命できないものなのですか」
 私などは江戸城へ出任していた当時は、敵から多く恨みを買っていたため命を狙われていて、夜は危険のあまり外を一人で歩くことができなかった。また致仕してから私の執筆した著作にしてもほとんど黙殺されていただけに、自分の生きているうちはたとえ認められなくとも百年後、二百年後には必ず評価されると信じなくては、一日とても著作を続ける甲斐がなかった。あなたはたとえ対州で認められなくても、朝鮮にあなたの真価を正しく認めてくれる人が多くいるから大いに幸せなことではないか。
「いやいや、日本人からも朝鮮人からも雨森は心のねじけた奴だと見られているほどです。そればかりか、どういう訳か雨森は実は長崎の出島へ来た中国人と娼女との間に誕生した子供だなとさも誠しやかに悪口を言う訳官もいます。実際またそれを本当に信じ切っている朝鮮人もいるのにはまったく閉口します」
 あなたが中国人の忘れ形見ですと。あなたが長崎の唐人屋敷で中国語を学んでいた当時、芳洲が長崎の郭の遊女と遊んでいるという噂が江戸へも伝わって来たこともあった。だから、そんな噂も出てくるのだろう。まことに愉快な話ではないか。しかし、それも若い日の楽しい思い出ではないか。
「何を言われますか。私が中国人の忘れ形見なら、もっと中国語が巧くしゃべれますよ。それに、もっとよい詩文が書けると思いますがね」
 芳洲は白石に心おきなく語りつづけた。いつの間にか裁判屋のまわりは白々と世が明けていた。鴎のしきりに鳴く声が部屋の中まで聞こえてきた。

      10

 四月十六日、芳洲はもはや一日も猶予もならぬと考え早速、玄訓導と朴別差を呼んで言った。
「御買米年限のことにつき、東萊へ直談しましたが、すでに四十日になりました。いまだ都表よりの回下がないのか、何の知らせも聞いていません。年々、この時節には本年度分の米を対州へ渡されましたのに、本年は右年限のこと延引しますので、そのこともなく誠信の道においてこのようにあってはならないことです。今一度啓聞されたい。一日も早くすみますように啓聞がなくてはかないません。朝鮮国内の事ですので、一旦お上へ申し上げおかれたことを御返事が遅滞したといって重ねて催促同然に申し上げられますことは、東萊遠慮のお心もあるでしょう。しかし、これは他国の使者が催促しますにつき、その趣をもって申し上げられることですので、特別に東萊が遠慮なさることではないはずですから、いよいよまたまた啓聞あるように東萊へ申し達せられるべきです」
「芳洲殿、おっしゃることはよく分ります。東萊もあの後、もはや一日もなく関文が下るだろうと待っておられますが、段々延引しますので、どうしたことかと待ちかねておられます。東萊はあなたの申し出を聞かれても、すぐに啓聞しようとは申されまい。しかし、近々関文が下って来て、早速各官へ相触れ米が集まり来させる心得にもなることです。今日おっしゃったことを東萊にお話しして、東萊の返答を聞きまして重ねて御返事いたしましょう。先月東萊から啓聞をさし立てられました時、同じくさし登せました飛脚を都表にとめおきましたところ、再決断まであり、関文が下るばかりになりましたので、早々帰ってまず珍重なる様子を早く知らせようと、右の飛脚に朴僉知と洪判官より書状を添えさし下しました。十五日頃にはきっと関文が下って来るだろうと存じましたのに、段々延引しますので我々も殊の外待ちかねています。色々考えてみますが、どんな訳でこのように延引するのか分かりませんが、今度のことはかねて難しく申されました歴々衆も納得されたと朴僉知と洪判官より知らせが来ましたので、もしかして違却もあるのではないかという気遣いはまったくありません」
「そうですか。今度こそ間違いなく年限はうまく済むのですね。しかし、たとえ公作米年限が済んでも、米は速やかに倭館へ入って来ますか。前回の時は五月に年限が済み、厳しく米を催促してもようやく八月からかつがつ入ってくるようなありさまでした。あの時は未収の米の残りがあったので、年限相満ちました翌年二月の分站の時節を失いましても、引き残りの分を段々入れましたので米の断絶はありませんでした。しかし、本年は昨年皆済して残りはありません上に、年限延引し正二月の分站の時節を失っているので、まさか新米が出来るまでとは言わぬが、米は容易に入って来ないのではないかと前々から危惧しています」
「毎年巡察より正二月の間、分站のことを各官へ申し渡され、今年は何処からどのくらい釜山浦へ米を船に積み漕ぎ回りなさいと命令されます。ところが、年限が相満ちました翌年は、都からの指図がないので、正月二月が過ぎ各官で米を売り木綿を用意しますので、正月二月を過ぎてから急に米を船に積み漕ぎ回るようにと命ぜられては、用意しました木綿を売払い米に替えて釜山浦へ漕ぎ来るべしということになりますから、百姓には大変な難儀になります。その上、釜山浦の米の入れ方もやはり敢えて受け取らない様子です。こうしたことのないように、私は去年依頼、巡察へ行きなにとぞ来春になりましたら、分站のことを早く申し付けられるようにと頼みおきました。さらに二月巡察へ行きました時も、年限はまた相すみませんが、公作米の配分の時になりましたので、なにとぞ各官で米を用意しておくようにと申しつけてくださいと頼みました。三月末にも用事があり、またまた巡察へ行き、巡察が御買米のこと、私がかねがね巡察へ申し入れておいたとおり、四百束分は納り米で用意し引き分けおくようにと巡察から各官へ命ぜられた書き付けを見届けて来ました。ですから、都表から年限さえ相済みましたら、御米を入れることは特にさしつかえることはございません。年限の許し段々延引するので、倭館へ米の入れ方は常よりは少し遅くなるはずですが、今年も何とぞ皆済するようにと存じます」
「皆済は勿論のことです。入れ方少なく遅くあっては代官たちも難儀し、御国の思しめしもよろしくないので、随分働き年限済みましたら、甘同倉の米でも振り替えて入れて来るようにしなくてはならないから、そのように心得て下さい」
玄訓導は万端相整っているのでただ朝廷の許しさえあれば、公作米は無事に対馬に引き渡せるので安心してくださいと繰返し明言した。
それから、五日目のことであった。早朝、訓導玄僉知と別差朴正がにこやかな顔つきで裁判屋へ来た。ついに待ちに待った公作米年限の許諾が出たのであった。玄訓導は喜びにふるえながら言った。
「御買米のこと、当庚戌年(享保十五年)より甲寅年(享保十九年)まで五ヶ年を限り米をもって入れます。もっとも年限相済みましたら公木(木綿)で入給するべしとの趣き、昨日関文を持って来ましたとのことですゆえ、先規手形を認め渡されることですから、いよいよ先規のとおりにされるでしょう」
芳洲は労をねぎらってから言った。
「それでは、年限相済まないので控えておいた御用のことを申し上げるので、明後朝、来られるように」
「分りました」
芳洲は年限が済んだ今は、はっきりと言っておいた方が後々のためになると考えて言った。
「公作米のことを最初に決まった時、朝鮮のためにも便利なことですので、永い定めにしようと朝廷方より申し上げられたが、国王のお考えで年限に定められたこと、国家の長計をもって論じてみる時、もっともなことと思いました。こうした訳は対州もよく知っており、殊に数十年連続していますので、たとえ年限がありましても、この米のことは定まっていることと人々は相心得ておることです。この後、もし米は駄目であるとお考えになる時節がありましたら、昔のごとき細木を御用意なられあらかじめ対州にお知らせなられるべきです。それならば、対州でもそれぞれに心当てにいたします。年限の時節になり初めて出来ないとありましては、ひしと手をつき対州の下々ども難儀いたしますので、突然に何がおこるかと憂慮は少なくありません。私も老人、訓導も老人ですので、こうしたことは若い判事へは申し置かれたいことです」
「ごもっとも」
玄訓導はうなずいた。
年限が済んだことを祝い、芳洲、玄訓導、朴別差に伝語官三人を加えて朝食を取った。その際に吸物もお酒も出した。芳洲は改めて深々と頭を下げた。
「あなたたち二人のお陰で無事に公作米年限が済み、まことにかたじけなく存じます」
「私たちの力が及ばず、いろいろ御心配をおかけし今日まで遅れたことをお詫びします」玄訓導が大いに恐縮して言った。芳洲は徳利を取り玄訓導の盃に注いだ。
「今日はおめでたい日だ。さあ、みんなで乾盃しよう」
芳洲が盃を勧めたので、みんなはにこやかに笑いながら乾盃をした。
この後、芳洲は御買米年限が済んだことを早速届けるため自ら館守屋へ赴き館守平田内膳に伝えた。館守平田内膳は「それは本当に嬉しい知らせだ」と大喜びした。
「まことにおめでとうござす。正直申しますと、今年から公作米は一俵も倭館に入らないものと半分諦めていました。交渉は思いの外、長引きましたが、それでも朝鮮巧者の貴殿であればこそ首尾より年限が済んだのじゃ。他の者であれば、交渉は妥結しなかったじゃろう。これでお上にも面目が立ちます。貴殿も今晩からやっと枕を高くして眠られますな」  
芳洲は笑みを浮かべて言った。
「そこで、今晩はささやかではありますが、お祝いをいたしたく存じます。御足労ですが、裁判屋へどうかお越し下さい」
「ああ、喜んで参ります。久し振りに今晩はゆっくり飲みましょう」
その晩、芳洲は館守、一代官、御代官を裁判屋へ呼んで宴会を催した。精いっぱい御馳走もお酒もふるまい心ゆくまで飲み食いしたので、みな上機嫌であった。館守平田内膳が興に乗り、京都藩邸にいた若い時に島原の遊女から覚えた京の小唄を歌った。芳洲も宴大庁に来ていた草梁の妓生から教えてもらった慶尚道の民謡を朝鮮語で一曲披露した。みんなが大喜びし拍手喝采した。芳洲は酒がうまくて珍しく飲み過ぎ、疲れ切っていたのか酔っぱらい前後不覚になり、とうとうその場で眠り込んでしまった。
翌朝四月二十二日、両訳方から裁判屋へ御買米年限の手形を通事に持たせて来た。手形には次のように書かれていた。

一 庚戌年より甲寅年に至るまで五年に限り公作米買ふことを許しその後公木を以て入給すること
朝廷定奪し此れを以て施行すること
訓導 玄僉知印
庚戌四月 日
別差 朴 正印
雨森東五郎 尊公
芳洲はこの一枚の手形をもらうために、自分は一年余り日夜腐心し奔走し齷齪してきたのだが、今はこの手形があればこそ毎年一万六千俵の米が五年間間違いなく対馬に輸入できると思うと、手形がとても有難かった。芳洲は一代官高木弥二右衛門を呼び寄せ、「重々大切に保管しておくように」と言ってその手形を渡した。
四月二十三日の朝、一昨日に芳洲が控えておいた裁判の御用のことを話すので、是非来られたいと玄訓導と朴別差に申し渡していたとおり、二人が一緒に裁判屋を訪れた。芳洲は彼らに昨夜書き付けておいた紙切れを見せて言った。
「私の残っています裁判の仕事、すなわち木品、公作米、求請人参のこと、従来の弊端をすっかり取り除いたことを見届け、復命の助けとせよ。それでなければ帰国の日に必ず重い責めを受けよう、と対州より申して来ていますので、木綿、公作米、求請人参のこと、共にじっくりと相改まりますことを見届けなくては、私は帰国がかないません。なにとぞ相働き、一日も早く相済みますようにされるべきです。
 一、木品のこと、私が倭館へ渡りました初めより申し入れ、殊に去年十月二十八日館守同席で対州より申し来たった趣を委細書き付けをもって申し達しました。元禄酉子年に木綿の内よろしいと見える物を選び測定したところ、長さ日本尺十五尋半、重さ五百十匁程、幅日本尺一尺一寸とあり、昨年の木綿のよろしいと見える物を測定すると、長さ日本尺九寸八分とありました。このことは別紙に書き付けて見せましたので、よく覚えておられるはずです。倭館へ入れる木綿の幅、長さ、重さは前々のとおりに改まり、木綿の前後に青糸を織り込み、中間の姦巧なきようによろしく御啓聞になられたい。
一、御買米のことは各官より直ちに館内へ漕ぎ来るように啓聞を頼みます。その訳は御買米を釜山浦の倉庫に入れますと、米を減らしその替わりに水を和したり、もみ砂を混ぜるからです。
一、人参のことは薬用にもならない人参を渡されては誠信の道が立ちませんので、年中の人参を一度に箱に入れ封緘を確かにし、東萊へ送り宴享の時、代官中まかり出て封を開き請い取るようにいたされるべきです。
一、堂供送使のことは貴国先大王殿下の時に木綿百束さし許されましたことです。もし許しがないことになりましたら以前は許されましたけれども、この度はこのような訳で許されませんとの穏当なる御返答をくださるように啓聞のこと頼みます」
これを聞いていた玄訓導は苦しそうに眉をしかめた。
「何とぞ力をつくして相働いてみましょう。その内、堂供送使については是非許諾なられますようにとの事ではなく、ならぬ事ですならば、ならないの穏やかなる返答を仰せられるようにとのことでございますが、このことはただ今東萊への申し出されることではございません」
「木綿、公作米、求請人参の三条いよいよ相働き申されるべきです。その内、人参のことは判事中自身がなさることですので申すべきさまはないことですけれども、いよいよ戸曹の役人が私欲をもって悪人参を相渡し、判事中財産をつぶすことであるなら、日頃は上役の威を恐れ申し立てられなくても、この節、対州より仰せ越されましたことこそ幸いです。きびしく精出し相改まりますようにされなくてはかないません。あなたたちはこれより悪い事でも歴々の役人衆へ内証を申し入れることは事をまとめるために常々いたされることです。まして、このことは元来、訳の立たない事であり殊にあなたたちが難儀になることですから、内証よりもよろしく申し入れられるべきことですので、さよう相心得られたい。堂供送使の事はできないならできないとの理由をおっしゃれば、まかり帰り復命いたすことができますので、この点もしかとお分りになられるべきです」
 朴別差が不満気に口をとがらした。
「このお書き付けは定めし魂胆がうかがえます。貴国先大王殿下の時、さし許されましたと載せておられることです。たとえ先大王の時に許されました事でも、現在では許すことができないと申し出されるようなことはございます」
「そのこともじっくり考えをめぐらされましたら、いかようにもおっしゃれます。あなたたちが東萊へも申し入れ難いということはよく分ります。まして東萊から都へ啓聞されることは、あなたたちが東萊へ申しかねられるよりは猶々気の毒に思しめされるだろうこともよく分ります。しかし、使者としてまかり越しました者、その返事を承らずにまかり帰る道理はございませんので、右の通り申し入れます。まずは館外へ出てよく相談してみられるがよろしいでしょう」
 芳洲は「頼むよ」とばかりに朴別差の右股の上を二度軽くたたいたが、朴別差の渋面は変わらなかった。朴別差がなぜあのように言ったのか。堂供送使のことは先大王の時に許されたことは紛れもなく、今更許さないと申す言葉はないので、都表でこの事を担当する人の了簡には、訓導別差をはじめ東萊までも叱り付け、都の耳に入れず、このこと相止むようにしようとした。けれども対州の要求が相止まないので日本人に辛く当るすべもなく、ついに東萊を取り替え訓導別差までも科に申し付けた。こうした朝鮮古来からの手段を目の当りに見て、啓聞をしても堂供送使のことは成らないうえに、かえって自分たちがいかなる科に逢うだろうかとその点を恐れ、朴別差は東萊へ言い難いのであろうと芳洲は考えた。
 十日余り経った五月三日の朝である。芳洲は訓導別差が裁判屋へ立ち寄ったので言った。
「先日申し入れました趣、東萊へ申し達せられましたか」
「おっしゃった趣は一々東萊へ申し達しましたが、啓聞のことはいまだ決断がございません」
「啓聞に及ばなくては米、木綿、人参が改まるようにいかがなされますか」
「米は各官より運び来る時に、付けて来ます軍官たちが酒や肴の費に米を盗み取り、その代りにもみ砂を混ぜることと存じますので、厳しく杖罪を申し付けるべしと考えられます。木綿のことは八弁木四十尺に織り立て、両端に青糸を用いるように相触れます。人参のことはこれまた備辺司へ申し登られます」
「米の弊端はそれ一事だけではありません。その訳を訓導が存じられていて、右の通り申されましては不実なることです。もしも存じられないのでは大様なることと存じます。とかく、右三様のこと並びに堂供送使の穏やかな返事とともに、啓聞がなくてはなりません」
「私、今日は看品を仕舞いまして、晩方に東萊へ上り明日巡察方へ参ります。今日仰せられました趣、明日東萊へ委細申し達し啓聞いたすべしと申されましたならば、この上ないことです。そうでなければ、巡察方よりまかり帰りますまでお待ち下さい。その上でまたまたおっしゃることを承り、東萊へ申し達するようにしましょう」
 話が終ると、芳洲は同席していた堀半右衛門、荒川平八を含め、五人で朝の料理を食べた。
 会談の中で、芳洲がまったく意外に思ったことは「このたび木綿のことは八弁木四十尺に織り立て両端に青糸を用いますように相触れます」と玄訓導が色よい回答をしたことだ。去年十月、館守同席で玄訓導と朴別差に木綿のことで叱責に及んだ時には、芳洲が藩の勘定所にある元禄木綿を測定した書き付けを見せながら、「せめてこのとおりに木綿を改めなくてはかなわないので、この旨を各官へ触れられたい」と言っても、玄訓導が「このとおりにではとうてい触れがたい」と頑として首を縦に振らなかった。芳洲が「なぜ触れがたいのか、その訳を申されよ」と問い詰めると、玄訓導は渋々言った。
「木綿が昔と違い、段々悪くなり、ただ今の木綿は軍士の衣服にもなりがたいのです。そのため、先年釜山僉使が都を出立なさる時に、御前よりいよいよ昔のようによい木綿を請い取り軍士たちへ渡すようにと命令を受けました。釜山僉使は釜山へ入るとすぐにその趣をもって各官へ申し渡されました。ところが、各官守令の内から、昔から上納した木綿は五弁木と仰せつけられています。現在の木綿は五弁木よりはよろしくございますのに、かえって悪いと釜山僉使がおっしゃるのは御法に違っていますと申し出があったのです。そこで重ねて吟味したところ、いよいよ諸方の書物に上納する木綿は皆々五弁木と書き付けてあったので、釜山僉使の言い分は負けになり、その件はそれで終ってしまいました。このようなことがありましたので、私がこのとおりの木綿を決めて申すことはとても出来ないのです」
 ところが、今は昨年の言葉と違い、玄訓導は対州の要求どおりに木綿を八弁木四十尺に織り立て、両端に青糸を用いるように相触れると言うのである。
 玄訓導はばつが悪そうに言った。
「東萊もいかがやとお思いになるのですが、このように触れられてもよくない方にはなっても、よろしい方には各官よりいたすまいので、このように触れられてもよろしいとおっしゃいました」
 芳洲は玄訓導の言葉を聞き、木綿がよくなることは日本側だけでなく朝鮮側も喜ぶため肝入れ方が違ううえに、朝鮮の公儀のいろいろの書物に五弁木とあるのは、対州に入っている一書にもそのとおり書きつけてあるので、これは決して嘘ではないと感じた。それならば、現在各官より納める木綿がたとえ悪いと言っても五弁木よりもよく、多くは六弁余の木綿であるのは一体なぜだろうかと芳洲は思案した。元来、朝鮮の公儀が定めるのは「法を涼しきに作り、その弊なほ貪る」の道理で、将来を予測して五弁木と立てられたのだが、朝鮮の風習は下の者へは非法を申し掛けることはしばしばある。それゆえ、百姓が五弁木を納めると木綿が悪いといって打擲に及ぶので、やむを得ず木綿は定めよりもよくなる仕組みではないか。ちょうど収米の俵の内の減り分として余分に俵に詰める「込み米」をしなければ、役人が米を受け取らないのと同じやり方で。だから、公儀の書物には五弁木と書いてあるが、実際の木綿はそれよりもよいために、釜山僉使と各官との双方の論争になると、釜山僉使は負けになったのだろう。いくら木綿をこちらが改めようとしても倭館で請い取る木綿はすべて各官より納める木綿の内から入ってくるので、朝鮮の国中すべての木綿が改まらなくては倭館へ持って来る木綿も悪いはずだ。しかし、すべての木綿が改まるということはないし、これは日本向きといって特別に木綿を織り立てるように命令される勢いもないので、館内へ入って来る木綿だけがよくなる訳はない。それならば、こっちへ請い取る木綿は昔からの仕来たりがあり、以前と比べて現在のような悪い木綿はないのだからと、こっちからはいつも厳しく先規を申し立て悪い木綿は受け取らないようにすれば、自然と大分の内からよい木綿を持ってくるようになる。また、その影響で日本人が選んで残った木綿もよいものを館外で商人も訳官も請い取ることになるので、ともに内々喜ぶようになるに違いない。この点を代官方で木綿を請い取る時には十分に配慮しなければならない。今後は裁判でも代官方でも五弁木、または八弁木ということを巧者立てし、こっちからの言葉にしては必ず支障があるので深く考えねばならない。むしろ名目は五弁木となっても、一弁木となってもかまわない。こっちからの弁論ではいつでも古来から申して来たように、以前は羽二重の細木を渡されたが、それでは朝鮮にも迷惑なので、双方が相談で木綿千百余の内、四百束を米一万六千俵に替え、残る木綿は次木で請い取り、もしも米を止める時は昔の細木になるはずに約束を決めたことである。その次木というのは細木にさし次ぎの木綿のことなので、だんだん悪くなることは不誠信だと言い続けねばならない、と芳洲は思った。
 端午の節句が迫って来たので、五月三日には釜山僉使から芳洲宛に短簡と共に端午の音物が来た。さらに四日には訓導と別差から音物が来、つづいて五日には東萊府使より短簡と音物が届いた。音物を運んで来た軍官と通事には、芳洲は例のごとく刻み煙草を手渡しお礼を述べた。音物は端午の節句の他に、三月三日、中元(七月十五日)、重陽(九月九日)、歳暮などの年中行事の際には、必ずそれぞれからきちんと届けられた。芳洲はこれらの音物の明細を裁判日記に丹念に記載した。
 釜山よりの音物
 白米参斗 青魚伍冬音 活鶏二首 生魚七束 白紙二束 黄毛筆十柄 焼酒二瓶 計
 訓導よりの音物
 黄肉四斤 大口魚参尾 海帯五斤 活鶏三首 胡桃一袋 清酒一瓶 計
 別差よりの音物
黄肉四斤 大口魚参尾 海帯五斤 活鶏二首 胡桃一袋 清酒一瓶 計
東萊よりの音物
粘米二斗 真油五弁 清密参升 胡桃壱斗 紅蛤壱斗 乾雉二首 乾柿一貼 文魚二尾
大口魚十尾 広魚五尾 焼酒三饍
四人からの端午の音物は日記を見直してみると、これまでの仕来たり通り品種、数量とも昨年とほとんど同様であった。芳洲はこれらの音物をすぐに伝語官の三人にも分けてやった。
芳洲が何より喜んだのは、好きな酒を数日遠慮なく飲めることであった。その夜宵け、芳洲は裁判日記を書いた後、酒が飲みたくなり台所へ行った。飯炊きも小者も早くに寝てしまっていたので、ひとりで台所から清酒一瓶を持ち出して来た。「倭館へ行かれたら、お酒を飲み過ぎないでほどほどにしてくださいよ」と口うるさく言った妻のしのの顔がちらりと目に浮かんだが、芳洲は「酒を飲まずして生きている甲斐もないわ」と呟きながら手酌の盃を乾した。話す相手もなく酒をゆっくりと飲んでいると、芳洲はなぜか突然に江戸にいた若い時分のことを思い出した。木門の仲間たちと一緒に毎月一回、芳洲の寓居で『資治通鑑綱目』の輪読会をしたことがあった。会の後は、そのまま決まってみんなで金を出し合い酒盛りになった。あの頃は、夜が白みはじめるまで疲れも知らず学友と酒を飲み、詩や恋や政治のことを口から唾を飛ばしながら喧々囂々と論争したものであった。その席には新井白石の顔も松浦霞昭の顔も確かにあった。しかし、そうした親しい友人も今はすでにこの世になく、多くは故人となってしまったことに芳洲ははっと気が付き、あらためて自分一人が取り残されたかのような深い悲哀を覚えた。芳洲は悲しみを癒すためにまた酒を飲んだ。
五月六日の昼、芳洲は二日酔いで頭がどんよりと曇っているような憂鬱な気分ではあったが、朝鮮佐役衆の越常右衛門、松本源左衛門、味木金蔵の三人宛の書簡を綴ろうと筆を執った。
「私、相残ります御用の返事今一つ話し、よし悪しともに彼方の仕方を見届けましたら、早速帰国したく存じます。右年限のこと啓聞すべき旨、東萊へ申し上げました。その後、都表より年限の回下参りましたうえで、私が参った用事のことにつき、重ねて対面のことを申し入れることもありましょうから、かねてそのように思し召されるようにと私が申しますと、東萊は分りましたとおっしゃいました。これは公木、公作米、人参のことを訓導別差をもって申し達しても思い通りにならなかったならば、私は再び東萊に直談を申し入れたく存じますので、このように申し上げました。ところが、今度仰せ下されました御頭書の趣を拝見したところ、人参のことはなるまいと思われます。木綿に青糸を織り込むことはもし相改まるか、そうでなければ館守へ引き付けておかねばなりません。買米直送、堂供送使のことは成り難いことと思われます。しかし、申し捨てにならぬようにしますとだけ東萊がおっしゃるので、もしかしたら裁判のことを一日でも早く帰国するようにとお思いになる御心ではないかと疑いました。去年六月八日に公作米は本年よりまかりならぬので、以前のごとく木綿をもって入れると都表から申しまいりましたと訓導別差が来て言った時、私が返答したことは、私が承りました御用はいずれも繰返し啓聞がなくてはかないませんので、いよいよ啓聞のことを頼みます。その内、公作米直送のこと、木綿に青糸を織り込むことは、年限を許される以前のような細木をもって入れられる都表のお考えならば、ただ今申しても益もないことですから申しません。しかし、このことは東萊へ申し達せねばならないことですと申し置いたことがございました。先月二十一日、年限相済みましたとのことを訓導別差が来て私に言いました。そこで、私は翌々二十三日より訓導別差を呼び寄せ、右残っている御用のことを話し、ただ今最中、右の論談するところです。勿論、このことは成っても成らなくとも彼方の仕形を見届けるにさして暇取るようなこととは存じませんが、朝鮮のことですのでどれくらい遅滞するだろうかも計り知れません。
 万一、一日でも早く帰国するようにと東萊がお思いになりますのに、右論談に日を暮らし帰国が延引しましては殿様のお考えとも違います。その上、事がまとまらずにいる時、私に逗留を望む心があり、故なく遅延に及ぶかのように批判などありましては裁判の身分にとり難儀に存じます。殿様のお考えを承り、いよいよ一日も早く帰国するようにとお思いになられましたら、私は早速に封進宴、出宴席のことを申し掛け済まして帰国するようにいたします。このことは私より表立てましては申し上げにくいので、なにとぞ朝鮮佐役の皆様よりそっと御耳を添えられ委細御返事をおっしゃられましたならば参ります。申しかけておいた御用の残りが済みませんが、国から御急用のことがあり、お呼びなられるので私は帰りますと申し、よろしき弁を立てたならば言い捨てにはならない仕形もあるのではないかと存じます。とにかく殿様の思し召し次第にしますので、お考えのほどお聞きなられ急便にお知らせ下さい」
 はたして藩主義誠公が自分の帰国を認めてくださるかどうかおぼつかなかった。申し入れた御用の可否を最後まで見届けないうちに、帰国は許されぬかもしれなかった。しかし、今は繰返し執拗に堂供送使の事を朝鮮側に持ち出してみても、不可能なことは明白であった。それならば、自分の年限裁判の任務は終ったのであり、帰国すべきである。もはやいつまでも朝鮮にいるべき余裕はない。自分に残された暇はもうそんなに多くはない。この後、一体何年生きられるだろうか。今は対馬府中でよい通詞を養成するためにやらねばならぬことが自分を待っていると芳洲は思った。





会    録

第182回(1993・7・11)深沢夏衣『夜の子供』
                報告者・成 真澄      参加者16名
第183回( 8・29)柳美里『魚の祭』
                 報告者・ムン トンヂャ   参加者17名
第184回( 9・26)金泰生『紅い花』
                報告者・浅野文秀      参加者15名
第185回(10・31)『架橋』13号合評会 Part1
報告者・趙 眞良      参加者18名
第186回(11・21)『架橋』13号合評会 Part 2
                報告者・藤本由紀子     参加者15名
第187回(12・26)1年をふりかえり1994年を望む集い    参加者18名                      
第188回(1994・1・23)鄭承博『裸の捕虜』
                報告者・加藤建二      参加者11名
第189回( 2・20)金石範『転向と親日派』
                報告者・卞 元守      参加者10名
第190回( 3・20)李相琴『半分のふるさと』
                報告者・文 真弓      参加者15名
第191回( 4・17)黄民基『奴らが哭くまえに』
報告者・成 真澄      参加者10名
第192回( 5・15)崔龍源詩集『鳥はうたった』
                報告者・卞 元守      参加者 7名
第193回( 6・12)鷺沢萠『ケナリも花、サクラも花』
                報告者・浅野文秀      参加者10名




    あとがき

▼ちょうど一年ぶりに14号が出た。不定期刊が年刊になった恰好だが、年一回の発行というのはやはり、ちょっと心もとない。とはいえ、持続は力なりを旨として地道にやっていくしかない。
 今号には、〈在日〉三世の文真弓さんが初登場。子どもといっしょにチャンゴを習い、『季刊 青丘』94年春号の金鶴泳について書き、小説にもとりくんでいて、最近、乗っている若いオモニ。掲載の短編は初めて書いた作品とのこと。
 蔡孝さんの日記ふうエッセイは、四十数歳にして初めて訪ねた父母のくにへの想いを彼らしい感性で綴る紀行文のプロローグ。『架橋』の初期の頃、金石範についての文章など書いた、古い仲間のカムバックはうれしい。いっしょに活動しているマダン劇グループ・マダンノリペ緑豆(ノクトゥ)では小さな台本を手がけているが、そろそろ本格的な小説を期待する。
 朴燦鎬さんのも韓国訪問記。併せて一篇の趣向。
 申明均さんの短編は前号につづき、この作者らしいナイーブな作品で、かつて『季刊 民涛』89年秋号に発表した「金先生と呼ばれた男」の重さとは、また別の持ち味である。
 賈島憲治さんのものは雨森芳洲シリーズのPART5。
▼持続といえば、『架橋』の母体である在日朝鮮人作家を読む会が十七年目にはいっている。会録にあるように、ここ一年は読書会いがいの企画をもたなかったけど、一つのことだけ記しておく。韓国文学学校との交流である。
 韓文校はソウルにあって、初代校長が詩人の高銀(コウン)氏、現在は少壮の文芸評論家・任軒永(イムホニョン)氏が校長。その任氏はじめ文学学校生、チューターの一行、約三十名のツアーが、昨年(一九九三年)八月十二日、十三日に名古屋を訪れて、意見交換や飲食をまじえての交流をおこなった。また、この地方の朝鮮人強制連行・強制労働の跡や明治村を案内した。これは会の企画ではなかったが、仲間が中心的に迎えて、交流会そのものは不充分だったとはいえ、後日につながる機会になった。
▼①金泰生『紅い花』(埼玉文学学校出版部)②深沢夏衣『夜の子供』(講談社)③磯貝治良「羽山先生が笑う」(『架橋13号』)④李良枝『石の聲』(講談社)⑤共著『創始改名』(明石書店)である。     (貝)


「架橋」13号

架 橋 13
              1993 夏



目   次

○小  説 
サットンの誓い ……………………… 申 明均
羽山先生が笑う ……………………… 磯貝治良
○評論・エッセイ
民族主義と民主主義と ……………… 文 重烈
異境にしみた恨の歌声 ……………… 朴 燦鎬
随想2篇 ……………………………… 朴 明子
○あとがき
○会 録   長水苑のこと  なかまの仕事





 サットンの誓い

申(シン) 明(ミョン) 均(ギュン)

「サットンは学校でいじめられてないの?」
 と、お父さんがこどもに聞いた。なまえは聖(さとし)。大きくなったら人の役に立つようにと、お父さんが付けた名である。けれどみんなは「サットン」と呼ぶ。サットンは小学二年生だ。
「ううん、ぜんぜん。誰もいじめないよ」
 夜の食事のときで、テレビは、ある学校で起きたいじめのニュースを放送していた。お父さんは姉で四年生の真理子にも同じことを聞いたが、いじめはないという。
「ともだちをいじめてもいないね?」
「うん。・・・・・・ときどきけんかはするけど」
 と、サットンは笑いながら言った。
「いじめてはいけないけれど、いじめられる子でもだめなんだよ。そのためには、優しくて強い子にならないとね」
 と、お父さんが言う。サットンには、優しくて強い子の意味が少しむつかしい。だから、
「優しくて強い子って?」
 と聞いた。
「それはね、もし、いじめられてる子がいたら、かわいそうだな、と思うでしょう。だったらサットンはいじめないよね。それが優しいということだよ。そんな子がいたら、かばってあげられるような子にならなくちゃ。いじめっ子に、やめろ、と言って向かっていく勇気を持たなくちゃ。その勇気をいっぱい持つことが強いということだよ」
 サットンは、少しずつだけど、お父さんの言うことが分かるような気がしてきた。すると、一緒に聞いていた真理子が、
「じゃ、動物をいじめてもいけないんでしょう。今日ねぇ、サットンたちが犬をいじめてたんだよ」
 サットンやともだちが、学校の帰りに、公園にいた小犬に石を投げていじめていたことを話した。
「動物をいじめてもいけないよ。そんなことをするといつかバチが当るんだよ」
 お父さんが幼かったころのことを思い出して言うと、
「バチって?」
 とサットンが聞いた。それでお父さんは、遠いむかしの、まだ小学生だったころの出来事を話すことにした。

「お父さんがまだサットンぐらいの頃のことだけれど、村に明(あきら)くんという少年がいたんだ。・・・・・・」
 明は、四・五人の少年たちにまじって、空き地になっている草の生えた広場で遊んでいた。ジャガイモのような頭をした背の小さな小学三年生である。
 彼らは村の遊び仲間で、今日も学校から帰ると、いつものように広場に集まっていた。
 いちばん背の高い六年生の哲雄が大将である。太っていて、少し乱暴なところもあるけれど、哲雄がいれば、砂防ダムへ泳ぎにいっても、となりの村の少年たちから追われないですむ。川では、魚のいっぱいいる所を知っているし、野イチゴを見つけるのも早かったから、少年たちは、哲雄をとても頼りにしていたのだ。
 明は仲間ではいちばん小さかったけれど、いじめられるようなことはなかった。明はおとなしい少年だった。哲雄やほかの少年たちがふざけあっている間も、静かにそれをながめているのだ。
 今日もそうして広場に集まり、少年たちは騒いでいた。そこへ、いっぴきの小犬が、ノロノロとやってきた。少年たちは騒ぐのをやめて小犬を見ていた。哲雄が小犬をつかまえようとあわてて追いかけたけれど、逃げられてしまった。
 明は小石を拾い、逃げていく小犬に向かって投げた。すると、石は弧を描きながら、走っている小犬の背中にコトンと落ちたのだ。哲雄や少年たちは驚き、やがて、おかしくてたまらなくなり、草の上に倒れるように笑い転げた。
 いちばんびっくりしたのは明だった。でたらめに投げたのだ。それに、小犬は遠くにいたから当たるはずがない、と思っていた。
「おまえはすごいなぁ」
 と、哲雄がほめた。明は、照れくさかったけれど悪い気はしなかった。
 その日から、犬に石を投げる遊びが流行した。少年たちは犬が現れるのを待ち、通りかかる犬に向っていっせいに投げるのだ。やがて、犬が広場に現れなくなると、少年たちはポケットに石をいっぱい入れ、犬を探して村中を歩いた。
 そんなある日、いつものように集まり、これから犬を探しに行こうとしていたとき、いっぴきの犬が広場の前を通りかかった。少年たちは、あわててポケットに用意していた石を投げた。犬は驚いてひっくりかえり、地をはうようなかっこうで逃げだした。
 明はそのとき、まだポケットに石を用意してなかった。急いで辺りを探したけれど、広場にはもう小石はない。道路まで走り、ようやく石をつかんで立ち上ったその時、明は、顔が熱い炎で焼かれ、体がしびれていくのを感じた。
 明は、意識の薄れていくなかで、飛び散る血にまじって、バラ色に染まった小さな白い歯が空中に舞いあがり、やがてゆっくりと落ちて行くのをながめていた。

 明は、お父さんになった今でも、その時のことを思い出すたびに「犬をいじめたバチが当たったのだ」と思っていた。
 哲雄が犬に向って投げた石が顔に当り、ケガをしたむかしの出来事を、真理子とサットンに聞かせたのは、
「弱いものをいじめれば、いつかは自分も悲しい思いをする。バチが当るんだよ。君たちが嫌だなと思うことは相手にもつらいことだと知るために」
 と、教えるためだった。それは、
「他人をいじめてはいけないという気持ちを大切にすることが、自分の心の中の憎しみを消し、そして、それがそのまま優しい思いやりの気持ちをふくらませることになる」
 と、やがていつかは子供たちにも理解してほしいお父さんの願いであった。
「それで明くんはどうなったの?」
 と、サットンが聞いた。
「明くんの歯は折れてしまったんだ。犬をいじめたバチが当たったんだね、きっと」
 サットンにも、バチが当るというその意味がよく分った。やがてサットンは、お父さんに誓うように、大きな声で、
「ぼく、これからはぜったいにけんかもしないし、動物もいじめないよ。優しくて強い子になる」と言った。




 民族主義と民主主義と

文(ムン) 重(ヂュン) 烈(ニョル)          

  民族主義は民族を救えるか

 私たちがもの心ついた頃は、個人よりも国家、民族のことを優先させるのが正義であった。しかし、民族のことを思ってやったことがすべて正しかったかと言えば、必ずしもそうではなかったようである。間違ったリーダーに導かれ、反逆者の汚名をきせられた人も少なくない。
 ものの本によれば、民族主義とか国家主義などと訳されるナショナリズムの基盤は、エゴイズムに支えられているという。個人エゴの集合されたものが民族主義と言えそうである。“民族のため”といえば聞こえはいいが、現実には、一部支配層の権益に奉仕するだけで終わってしまうことが多い。
 若いころ、それほど神聖なものに思えた国というものが、一握りの連中にあやつられるからくり仕掛けにすぎないものと知った時、そして、新しい国造りに励んだあげく出来あがった国家が、前のものよりもっとお粗末な国であることに気がついた時、私たちは絶望的な挫折感におそわれたのである。民主意識を伴わない民族主義はいかにも空しい。
 辛口の皮肉屋・A・ビアスは「愛国者とは全体の利害よりも一部のそれのほうが大事であるように見える人。政治家にはころりとだまされ、征服者のお先棒をかつぐ人」と定義している。この悪魔的な逆説は私にとって衝撃的であった。民族のために頑張ってきたつもりの己れの心を覗かれたような気がしたからである。
 愛国者を自認する人々の中に、国のことよりも、一党一派の利益を優先させる人がなんと多かったことか。素朴な庶民の中にも、政治家にころりとだまされ、独裁者の片棒をかつがされた愛国者またなんと多かったことか。
 民族主義が民族を救ったことはある。しかし、外勢支配の時代よりも国民を苦しめ、より多くの同胞を犠牲にしたのもまた民族主義であった。

   ナショナリズムは両刃の剣

 ナショナリズムは、大国の横暴に対向する上では有効であったが、独立を勝ち取った後は自信過剰に陥って自惚れに転化する。驕りは必然的に他への蔑視をともなう。軽蔑されたほうから仕返しの悪意がとんでくる。意地のはり合いで、周辺諸国との間にいざこざが絶えない。
 熱狂的なナショナリズムは、他国の欠点は見逃さずに非難するが、自国の過ちには目をつぶる。そうすることが愛国的だと思いちがいをしている。このようなナショナリズムに支えられた国に限って、自国の独裁化を許してしまう場合が多い。ほとんどの後進国がそうであった。
 独立運動の英雄たちが独裁者に化けた時、大国に支配されていたときより一層苛酷な政治が行われた。そして、民主化のためにより多くの血を流さねばならなかった。私たちは狂信的な愛国者たちの野蛮性をいやというほど見せつけられたのである。
 人間は皆、できれば暴君になりたがる、と言った人がいたそうだが、そのことを裏づけるかのように、毒舌家・ビアスは「どの人間の心の中にも、虎と豚とロバとウグイスが住んでいる」と言った。人間生まれながらにして善人、悪人があるのではなく、すべての人は善人にも悪人にもなりうる、ということであろう。
 このような複眼的人間観は、善人、悪人を固定化することを戒め、いわゆる英雄とか正義の人であっても、権勢欲、金銭欲の亡者になりさがったり、または、思いのほか愚か者であることを私たちに教えてくれる。ナポレオンが自ら皇帝になった時、彼を称えて作った作品のタイトルを塗りつぶすときのベートーベンの怒りを忘れてはなるまい。
 旧ソ連邦崩壊後の東欧で、分離、独立運動が高まり、民族間の争いがここしばらくは続きそうだが、誤解と偏見を増幅させる民族主義、人権尊重の思想を欠いた民族主義は、人間の野蛮性と愚かさの残骸を残すだけで終るだろう。
「民族とは、自分らの先祖に対して抱く共通の誤解と隣人たちに対して抱く共通の嫌悪によって結びつけられた集団である」と言った人もいる。民族文化といえば聞こえはいいが、それがはなはだ非合理的なものだと言われるのはそのためであろう。
 この不合理な民族文化の中で培われるナショナリズムは、自民族を実態の数倍以上に大きく描き出し、己れの欠点を改めようとしない夜郎自大的な固定観念を作りあげる。これは、すべての民族に共通して現われる現象であるが、東アジアの三つの民族、韓国(朝鮮)中国、日本の間にもこのナショナリズムの病がはびこっていて簡単には直りそうにない。

   東アジアの無気味な雲行き

 最近、『瞭望』という中国誌が国際情勢を分析して「三つの発展と三つの増加」を説いているという。三つの増加とは、西側諸国の摩擦の増加、南北間の矛盾の増加、そして、衝突や戦争の増加をあげているらしい。先進資本主義国の間にも分解が始まっている今日、中国人のこのような見方は注目に値する。
中国誌が予想した“三つの増加”はいま、世界的に進行中であり、これからも暫くは続くであろうが、過激なナショナリズムの暴発から大きな戦争へと発展する可能性を決して過小評価してはなるまい。平和とは、戦争の合い間にある、だまし合いの時期だと皮肉った人もいる。
 民族主義は、民族の解放と独立を守る上では有効であったが、外へ向けて伸びようとすると侵略思想に早変りする。戦前のドイツや日本の侵略戦争は、ナショナリズムの暴走であった。民族主義、それは、あるときは正義の旗印であり、あるときは侵略と独裁の論理であり、またあるときは偏見と憎悪の思想である。
 韓・中国交回復、天皇の訪中などでいまは、東アジア三国は蜜月時代に入ったかに見える。しかし、火種が完全に消えたわけではない。逆風が吹き荒れたらたちまち炎があがる状況にある。例えば、一九九七年のホンコン返還を前後して米、英、中関係が悪化した場合、韓国と日本が米国側につくことは火を見るより明らかである。
 今後、衝突や戦争が増えることを予想した中国は、ホンコン返還時の最悪の事態をも念頭に入れて備えているように思えてならない。中国も米国、英国もいまさら戦争を起こすような馬鹿なことはしまいと思う人が多いだろうが「世の中の進歩とともに、愚かさもまた進歩する」と言った人もいる。
 つまり、世の中が進歩すればするほど愚かさもまた増える、ということか。確かに、賢い人たちの愚行は、世の進歩によって避けられることはなかった。物欲、権勢欲にかられて、よからぬことと知りながら敢えてやってしまうのが、いわゆる賢い人たちの愚行ではなかったか。
 核査察をめぐる米、韓、日と北朝鮮との関係、また、ホンコン返還と民主化をめぐる中国と米・英の関係が円満に解決されなければ、そして、南紗諸島の領有権をめぐる対立が緩やかに解決されなければ、東アジアが次の発火点になる可能性は大きいと言わねばなるまい。
 中国の古人の言葉に「善く敗るる者は滅びず」というのがある。敗れることで滅びるのではなく、よりよき生の道を切り開くことができるということ。即ち、“負けるが勝ち”という意味であろう。広く、奥の深い中国文化の伝統が活かされることを信じたい。
 また、アメリカに対して望みたいことは、独立初期の理念と研ぎ澄まされた倫理観をいま一度思い出してほしい。「われに自由を与えよ。さもなくば死を――」と叫んだパトリック・ヘンリーのことばを、今、私は言い直したい。死なず、殺さず、自由と平和を実現せよ、と。唯一の超大国になったアメリカはそれをなし得る力を持っている。若き日に反戦運動に立ち上ったクリントン大統領の良心と正義感に期待したい。

   価値基準が変る二十一世紀

 米国のクリントン新大統領は、選挙スローガンに「変化」を掲げて当選した。米国の経済立て直しも、国際間の摩擦も、従来の思考方式を変えなければ解決できない、と思ったのであろう。アメリカ国民はそれを支持し、世界的にも歓迎された。
 クリントン大統領が言った「変化」というものは、米国だけでなく、グローバルな視野での望ましい変化であってほしい。先進国、後進国を問わず、いま、地球的レベルで期待されている変化、それは、環境保護とともに人権擁護の思想が国境を越え、国家主権を越える問題として認識されてきたことである。つまり、国家主権による人権侵害が許されなくなったのである。
 元米大統領補佐官・ブレジンスキー氏は「二十一世紀には、主権国家だけに依存した国際システムとは違った、新しい国際協力の形態が支配的になる」と言った。フランクフルト平和研究所長が言っているように、人権擁護の目的で、国家主権の侵害を許す方向に動いているのである。カンボジア、ソマリア、旧ユーゴなどがいい例である。
 良心的で公平な国際機関が設けられ、人権侵害が明らかな国に対して勧告し、制裁し、場合によっては、武力干渉も許すようなルールを作る必要があるのではないか。そのような機関を公平に運営できるほどに人間が賢明になりうるかどうかが問われている。
 国連安保理常任理事国を中心とする関係諸国の間で、良心的で誠実な努力を積み重ねて共生への道を切り開くのに失敗した時には、中国の実力者・小平氏が予測したように、新たな冷戦が始まるにちがいない。
 多くの発展途上国でいま、権力による人権侵害がはびこっているが、それを外部から批判されると権力側は、内政不干渉の原則を盾に取って居直ってしまうのである。独立した国の主権が、必ずしも国民の幸せを保障してくれるものではない。世襲的に、又は、たらい回しに権力が受け継がれるアジア的独裁体制の下では、民衆が抵抗する手段はほとんどない。そんな地域の民衆は、外国の軍隊でも入ってきて独裁体制をつぶしてくれるよう秘かに願っているのである。

   庶民たちの「匹夫の勇」恐るべし

 いくら働いても苦しくなるばかりで訴えるところのない庶民たちが、秘かに外勢の侵入を祈っていたことの証になるような事例を朝鮮の歴史から引いてみよう。
 徹底した鎖国政策を行った大院君(テーウォングン)時代の話である。一八六八年の春、ユダヤ人・オペルトが英国商船を借りて、武装した百二十余人の乗組員とともに漢江(ハンガン)入口の永宗島(ヨンジョンド)に上陸した。閉ざされた朝鮮の門戸を開かせるためであった。
 その時、五百余の朝鮮守備兵と島の人たちがオペルト軍団の周囲に近寄ってきて、通訳を交えて会話をかわし、外国人がくれる酒を飲みながら、大院君とその側近たちの悪口を言い出した。大院君をより強く非難する人により多くの酒を与えると、皆が競って大院君への非難を強めたという。
 そして、朝鮮の官僚や兵士たちの中に、近い将来、外国の軍隊が入ってきて、自分たちを解放してくれることを信じていると言いながら、彼らが外国軍の侵入を待ち望んでいることの証になるような証文を一筆書いてくれるよう頼んだ人が多かったそうである。外国人が入ってきたとき、その証文を見せて保身用に使うつもりであったらしい。
 これは、大院君の父の墓から宝物を盗もうとしたオペルトの手記に書かれた話だから、額面どおり受け取るわけにはいかないだろうが、少なくともいかがわしい外国人の侵入に対して、朝鮮の人たちがほとんど抵抗を見せなかったこと。そして、いとも簡単に異人たちに迎合したことは事実のようである。
 この記録を読んだとき、私は屈辱感さえ覚えた。しかし、これを民族的恥じとして受け止めるのは、古いナショナリズムの名残りであろう。抑圧体制が確立され、抵抗の手段を失った庶民たちは日々の平穏無事が恨めしく、体制を揺がす混乱を望むのである。このような庶民感情は、反民族的というよりはむしろ自然発生的なものと言えよう。朝鮮王朝末期の庶民たちには、身を挺して守るべき国家などなかったのである。
 抑えつけられた民衆が非愛国的心情にかられるのは、なにも朝鮮に限ったことではない。太平洋戦争末期、日本の軍部が本土決戦を叫び、女、子供たちまで動員して竹槍の訓練を強制し、悲観的な言動に対しては「非国民」のレッテルがはられた時期、日本の民衆も同じような心情であったと思われる。
 日本が降服するちょうど一年前、一九四四年八月十四日の永井荷風の日記に「米軍よ、早く来たれ」と書かれてあるという。また、敗戦後の占領時代、日本が起こした侵略戦争の愚かさがあばかれ、戦後の政治も混乱をきわめているなか、占領軍司令官・マッカーサーの下に「日本をアメリカの植民地にして下さい」という日本人からの手紙がかなりあったと聞く。
 このような庶民感情は表面には現われにくいものであるが、人権が国家主権を越える問題になる二十一世紀には、もっと素直に表面化されるに違いない。
 しかし、利己的で愚かに見える庶民たちもある時、ひょっとしたきっかけで勇敢に立ちあがることがある。外人部隊の頭目・オペルトの前で媚を売っていたあの朝鮮の人たちが急に立ちあがり、乱闘がくり広げられ、撃ち合いが始まったという。“愚かな英雄たち”の誕生である。
 撃ち合いが始まるきっかけになったのは、オペルトの船員が、野原につながれた子牛を引っぱって行くのが見つかった時である。“牛泥棒!”の一声がひびきわたった時である。兵士たちは銃を撃ち、島民たちは石を投げて外人部隊を追っぱらったという。これが世にいう子牛(ソンアジ)戦争である。
 卑屈に見える庶民たち、支配者たちによって愚民化された国民大衆でも、絶対に許せない悪に対しては命がけの戦いを挑むのである。そしてまた庶民たちは、ことばが通じなくても、国境を越えてむつまじくつき合える寛容さも持ち合わせている。政治指導者たちが、民族の違いをいたずらに強調して利用することさえしなければ、民族意識はそれほど表面化しない、という研究者たちの証言もある。

   東アジアの壁が崩れる時

 東アジアの三国、中国、韓国、日本は同じ文化圏であり、宗教的対立もなく、思考方式もよく似ている。にもかかわらず、三国の間に何か事が起れば、ナショナリズムがぶつかり合ってぎくしゃくし、すべての責任は相手方にある、ということになってしまう。ナショナリズムの意地わる女神がヒステリーを起すのである。
 この三国は、現代化の過程がそれぞれ異っていて、近・現代史の認識に大きな隔たりがある。それに経済水準の違いと相俟って、民主主義に対する認識もそれぞれ特殊なものがある。中国は市場経済を進めているから、少しずつ自由化されるだろうが、社会主義的一党支配を維持しようとしているらしい。民主化の新しい実験として、中国の先行きは注目に値しよう。
 韓国の場合は、最近、民主化がかなり進んだとはいえ、分断状況の中で長年続いた軍事政権の後遺症もあって、やはり歪な民主制と言わねばなるまい。多数の政治犯が今も獄につながれている。韓国の民主主義は、イギリスの作家・ワイルドが言ったように「人民が人民のために、人民を棒でなぐる政治」といった状況であった。
 しかし韓国は、国民大衆自らの力で勝ち取った民主主義を実現しうる、希望の持てる国になった。「財産は残さず、名を残す」と言った金泳三大統領の初心が貫かれ、歴史に美しい名を残されることを祈りたい。
 日本はと言えば、敗戦によってもたらされた民主制は、アジアでは最も安定したものであったが、半世紀近く一党支配が続いたあげく、政界、官界、財界、暴力団がらみの不正腐敗がはびこって、民主制度は瀕死の状態に喘いでいる。ロサンゼルス・タイムズは「日本は制度上は民主主義でも、機能上は非民主主義である」と書いている。やはり、日本の民主主義も普遍性に欠けている、と言わねばなるまい。
 三国がそれぞれ特殊性を持つことが悪いというつもりはない。近隣の人たちを不安がらせたり、世界から非難されるような特殊性は改めるべきだ、と言いたいのである。東アジア三国の間の目に見えない壁を切り崩す上で日本が重要な鍵を握っているといえる。近・現代史の見直しと日本のすっきりした姿勢の転換が求められている。
 日本が国連平和維持活動に軍事的に加わることを批判する中で、シンガポール前首相リ・クワンユー氏は、何をするにしても行くところまで行き、ナンバーワンを目指すのが日本の性癖だと皮肉ったが、リ氏のいう“行きつくところ”とはどの地点だろうか。
 日本がアジアに向きをかえるのは、今までのような経済成長がほとんど期待できなくなった時期だろう。つまり、対米、対欧貿易収支がゼロサムに近づいた時、そして、いま猛烈に推し進めている東南アジアへの進出が行き詰った時、それに、中国、台湾と韓国が経済的に日本離れした時にはじめて、日本の近・現代史を見直す作業が国民的レベルで本格化するだろう。日本人に限らずすべての人間は、苦境に追いこまれてはじめて、己れの過ちに気がつくものらしい。
 経済的に日本ばなれするとは、交流をやめることではない。隣国関係がうまく行かないからといって引越すわけにはいかないのである。日本の特別な支援がなければ不況から立ち直れないようでは、韓国は日本と対等につき合うことはできないだろう。反日感情の吹き出すのと韓国の不況期が重なることが多いために、“日本へのねだり”とか“官製デモ”などと受け止める日本人は少なくない。
 一九六五年の韓日条約が結ばれてからの両国の関係は、決して対等なものではなかった。サラリーマンが急場しのぎのため金融屋の門を叩き、業者言いなりの条件で金を借りるといった情景を連想させるものがあった。困った時に金策に歩くのを非難するつもりはない。“苦しい時の神頼み”式に日本に頼りすぎた負の遺産が、膨大な対日赤字として残ったのである。そしてそのことが、日本の戦後処理をうやむやにしてきた一要因であったとも言えるのである。
 金泳三大統領は、国民に耐えることを説き、不況脱出のための自助努力を促している。国民の多くが外国商品、特に日本商品を手に入れたがる韓国病を退治しようとする大統領の心は、対日赤字を減らし、対日収支をゼロサムに近づけることによって、経済の建て直しと対等な隣国関係を目指したものと受け止めたい。
 二十一世紀の初めころに中国は、経済的に日本離れが可能になるかも知れない。しかし、資源にとぼしく、小さい市場の韓国が日本離れするには、涙ぐましい努力と忍耐が必要だろう。貧困に耐えるよりも、贅沢を抑えるのがもっと難しいといわれている。
(一九九三・四)






 異境にしみた恨(ハン)の歌声

朴(パク) 燦(チャン) 鎬(ホ)

   (一)
  富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町(ぽんとちょう)に降る雪も
  雪に変りはないじゃなし 溶けて流れりゃみな同じ

 一九六〇年代半ば、マヒナ・スターズと松尾和子がうたってはやった『お座敷小唄』。朝鮮の歌についての資料をいろいろと調べてきたが、まさか、こんな歌と出くわすことになろうとは夢にも思わなかった(勿論、日本の歌です。念のため)。
 一九八九年、厚生省はサハリンに旧日本兵遺骨収集団を派遣、朝日新聞の奈賀悟さんは取材記者として同行した。全日程を終えた夜、現地の人たちとお別れ会を持った。歌も出て宴もたけなわ、奈賀さんもしこたま酔いしれていた。と取材で知りあった朝鮮人二世の女性がうたいだした。“富士の高嶺に降る雪も/・・・・・・”。
 新聞社に戻った奈賀さんは、記事をまとめるに当り、その女性がうたった歌について触れ、思い入れをこめて書き上げた。何故、彼女がそんな歌をうたったのだろうか、という疑問を抱きながら。
 原稿を見たデスクは、即座にいったという。「この歌は六〇年代のものじゃないか」。日本と交流の途絶えていた当時のサハリンで、そんな歌を知っている筈はない、ということなのだ。奈賀さんは答えた。「でも、その女性は、本当にこの歌をうたったんです」
 結局、「この歌は日本で六〇年代に流行したものだが、なぜ彼女が知っていたのかは判らない」といった意味の註をつけることで日の目を見たという。
 奈賀さんは、昨年四月に転勤で名古屋に来た。そして札幌の友人・林炳澤氏の紹介で、私の『韓国歌謡史 一八九五-一九四五』の韓国語出版についてインタビューし、“ひと”欄に書いてくれた。以来一年間、東海地方での韓国人・朝鮮人を取り巻く状況を、精力的に取材して旋風を巻き起し、今年四月、また風のごとく津に転任していった。この話は、その直前に〈旅人宿「酒幕(ジュマ)」〉で話してくれたものだ。どうしても、あの時の疑問が気になって仕方がないといいながら。
 私は、不確かではあるが、自分の知る限りのことを話して奈賀さんの疑問に答えた。
 実は、この『お座敷小唄』には元歌がある。大学時代に出入りしたことのあるクラブのコンパで耳にしたのだが、題名は、確か『廓小唄』とかいったような気がする。出だしは“歌はさのさか都々逸か/歌の文句じゃないけれど/夜毎々々の仇まくら/・・・・・・”というもので、“富士の高嶺に降る雪も/・・・・・・”は二番以降の歌詞だった。その他の歌詞は覚えていないが、かなり長い歌で、『お座敷小唄』とは若干違う部分もある。
 その『お座敷小唄』が、大学卒業前後に大流行したのでびっくりした。元歌はスローテンポの、それこそ廓に売られた女郎の怨み節といったものだったが、マヒナは当時流行のドドンパ調で、軽快にうたって人気を得た。
 マヒナが採譜したのもそうであろうが、この歌は花街を中心に長くうたい継がれてきたようだ。おそらくサハリンの朝鮮人二世も、幼い頃、自分を可愛がってくれた女性がうたうのを聞いて覚えたのであろう。あるいはその女性は、強制連行されてきた朝鮮人従軍慰安婦だったのかも知れない。
 彼女らは、どのような思いでこの歌を口ずさんでいたのだろうか。
 私のこのような説明に、奈賀さんは、宿年の疑問がやっと解けたといって頷いた。

   (二)

  コスモス ピヨナルチェ メジュン イニョンド/コスモス シドゥルニ クマニドゥラ/・・・・・・

 一九三九年に発売されヒットした『コスモス嘆息』である。私が朝鮮の歌謡史に興味を抱き、資料を集め始めた頃に入手した『韓国レコード歌謡史』に収録されていて、印象深かった歌の一つである。後に、歌謡史をまとめるため『東亜日報』のマイクロフィルムを閲覧して、発売年代を確認できた。
 この『コスモス嘆息』に、個人的な思い出が格別あるというのではないが、思わぬところで出くわして、今も記憶に残っている。
 『歌謡史』を上梓する少し前のことだったと思う。ある市民団体が発行している小冊子に目を通していたら、中国東北地方(延辺)に行って朝鮮族と交流したという日本人の一文があった。そして交流の最後は、酒席での交歓ということになった。その時、朝鮮族の女性が“コスモス・・・・・・”の歌を、とても懐かしげにうたっていたのだという。
その日本人は、韓国の歌をかなり知っているようだが、この歌は初めて聴く歌で、非常に印象的だったようだ。そして韓国に行った折、この歌について何人かに訊ねてみたが、誰も知らなかったとか。
 もし私が、朝鮮の女性から直接その話を聞いていたなら、すぐに答えられたのに。そしてまた、筆者がもし私だったら、その歌詞を書きとめようと、宴席で酔っ払いながらも、必死にペンを走らせていただろうに。そんな思いが脳裡をかすめた。
 『コスモス嘆息』は、当然、拙著でも取りあげている。一九三九年十二月、朴響林のオーケーレコード移籍第一作として発売されたもので、拙著では一番だけを次のように記載した。

  コスモス咲いた時 結んだ初恋
  コスモスしぼめば それきりね
  所詮あの誓いは 言葉だけなのか
  たわいなくしがみつく 漢江鉄橋
              (朴南浦改詞)

 文字通り“たわいない”内容だった。しかし私は、このたわいなさは“改詞”にあるのではないかと思っていた。韓国の歌、特に解放前の歌で改詞されたものは、作者が“越・拉北”人物であることを示す。この歌の作者(作詞・趙鳴岩、作曲・金海松)の場合も然り。地名や山河名は韓国内のものに移しかえられ、歌詞の内容も変わってくる。また作曲者名は本人の義兄・李鳳龍(『木浦の涙』の歌手・李蘭影の兄)名に変えられた。
 私が前述の小冊子を読んで、是非“原詞”を入手したいという衝動にかられたのは、いうまでもない。結局それは、出版前には実現しなかったが。
 一九八七年秋に拙著は出版された。その直後、マニア対象といえる(日本の)ナツメロ関係の月刊誌を手にした。そして私の目は、S氏の文章を前に釘付になった。あの『木浦の涙』の歌詞カードが、そのまま挿絵に使われていたのだった。
S氏は、拙著の出版直後、拙著を絶賛する内容の手紙を送ってきたと、名古屋在住の作曲家・音楽評論家である森一也氏から伝え聞いていた人物である。森氏には、出版前から本の内容などについてお知らせしてあったので、S氏にも多少お話されていたらしい。S氏の文章の末尾には、近々私の『韓国歌謡史』が出版されると聞き期待している旨、追記してあった。
早速S氏に連絡を取り、お宅を訪問した。聞けばS氏は、若い頃から映画や音楽に興味を持っていたそうで、大正・昭和芸能史の生字引のような人だった。一九三七年頃、京城放送局からの全国中継ラジオ放送で高福壽、李蘭影、江南香の『新アリラン』を耳にして魅入られ、それ以来、朝鮮のSPレコードを集め出したのだという。
レコード目録を見せてもらい、現物を手にとって、内心深い溜息をついた。まさに“垂涎もの”ばかりだった。私の入手したSPレコードとダブっているのは、ほんの数曲しかない。しかしその時、『コスモス嘆息』は見当らなかった。
その後、数度S氏宅を訪れ、当時の新譜案内に目を通したり、氏のお気に入りのレコードを聴かせてもらった。そういった資料の中に、件の『コスモス嘆息』の詞が印刷されていたが、歌詞を一目見て、なるほどと合点がいった。

  코스모스 피어날제  コスモス咲く時
맺은 인연도     結んだ縁(えにし)
코스모스 시들으니  コスモスしぼめば
그만이드라      それきりね
国境없는 사랑이란  国境なき愛なんて
말뿐이러냐      口だけか
웃으며 헤어지든   笑って別れた
豆満江다리      豆満江橋(タリ)

海蘭江에 비가 올제  海蘭江に雨降る時
多情튼 님도     やさしの君も
海蘭江에 눈이오니  海蘭江に雪降れば
그만이드라      それきりね
변함없는 마음이란  変りなき心なんて
말뿐이러냐      口だけか
눈물로 손을잡든   涙で手を取った
龍井푸렛홈      龍井プラットホーム

豆満江을 건너올제  豆満江を越え来る時
울든 사람도     泣いた人も
豆満江을 건너가니  豆満江を越え行けば
그만이드라      それきりね
눈물없는 청춘이란  涙なき青春なんて
말뿐이러냐      口だけか
한없이 흐득이든   とめどなく咽んだ
羅津行列車      羅津行列車

 この歌は日帝時代、いま朝鮮族が住んでいるその地・間島を舞台にした歌だったのだ。歌のスケールがにわかに大きく感じられ、ロマンの香りさえ漂う。同時に、朝鮮近現代史のはざまにあって、北寒の異境に移り住んでいかざるを得なかった民族の悲哀を、そこはかとなく感じもする。
 貧しくも楽しかった朝鮮での青春時代、辛かった間島での他郷ぐらし、そして・・・・・・。その女性は、辛酸をなめつづけた半生を、走馬燈のように脳裡に蘇らせながらうたい、心で泣いていたのかも知れない。

〈付記〉
『コスモス嘆息』は、昨年二月に発売された韓国版に原詞のまま収録した。また、同年秋に発売されたSP盤復刻CD全集にも、『晋州라千里길』などとともに収録されている。





 長水苑のこと

 五月二十五日の夕昏れ、名古屋市南区の市総合体育館(レインボーホール)東方の環状線一帯に、朝鮮楽器のあざやかな音色が響き渡った。オープンをひかえた焼肉店「長水苑」での告祠(コサ)とノリ(演戯)だ。演じたのはマダンノリペ緑豆(ノクトウ)とノリパンの有志七人。四物(サムル)の演奏と歌声が、折から祝宴に駆けつけた招待客を魅了した。
 オープン後の「長水苑」は絶好調。告祠の霊験あらたかかどうかは別として、とびきりウマいプルゴギ(焼肉)にパプ(めし)類、各種の酒。それに加えて、店の女主人の陽気さと男主人のボーヨーとした雰囲気が、絶妙のコンビを組んで、ゆったりとして明るい店内にピッタリだ。客が来ないはずがない。
 なにより嬉しいのは、車椅子用のスロープ、トイレがあること。
 じつはこの「長水苑」の男主人つまりオーナーが「読む会」のメンバーの朴燦鎬さん、元気印の女主人がその夫人・徐広子さんである。
●長水苑の電話番号は052-612-3531





 随想2篇

      朴(パク) 明(ミョン) 子(ヂャ)

   ホームレス二題

 街のなかとはいえ、マンションの14階から見る景色はなかなかのものである。窓の下に堀川が流れているが、この辺りは貯木場になっていて大きな木材が曳航される風景が毎朝見られる。
 その川の端のちょっとした空間に、ホームレスが住み着いて居るのを夫が見つけてもう一年以上になる。住むところがあるからホームレスとは言わないかな、いや、あんな場所が家と言えるわけがないかられっきとしたホームレスだ。
 川に面しているところから風や雨が吹き込むだろうに、布団が敷いてあるのが分かる。電気がないから暖をとるのはどうしているのか気になるが使い捨てカイロがあるかな。夜は本も読まずに電池の入ったラジオでも聞くのだろう。風呂はその辺の銭湯に行くか、たまにサウナでも行けば良いとして、洗濯はどうするのか心配していたら夫がコインランドリーがあると言う。それに、どういう訳か夫は「あいつ川にウンチしてやがる」時などを見てしまうらしいから、とりあえず日常生活に関しての疑問は解決した。
 けれど私は一番重要なことを考えていなかった。彼の仕事である。漠然と日雇いか屑拾いのような事をしているのだろうと思っていただけである。しかしどうして食い扶持を稼いでいるのか知る由もない。夫の観察によると、道の端に止めてある自転車が、彼の物だという。そうか自転車を持っているのか、大したもんじゃないか。いつぞや道路から彼のねぐらに下りていく橋のたもとに、はりの出ている針金が張られたことがある。公の仕業か近所の人間の仕業かは分からない。けれどそれはすぐに、出入り易いように針金が押し広げられてあった。結構あの橋のたもとの住人は度胸があるのだ。

 苦手なスイミングスクールが終って帰るのは夜九時頃になる。地下鉄の出口を出るといつも見かける酔っぱらいのおじさんがいた。かみさんと折り合いが悪くて早く家に帰る気がしないのかなといった印象だった。しかしあんまりいつもだし、たまに遅い時間でも見かけるのでホームレスだと思った。
 冬になると地下鉄の構内に座るようになった。眼鏡をかけて新聞を読んでいる姿は、やはり家に帰りにくい事情があるお父さんのように見えた。地下鉄の構内は時間が来れば追い出されるはずだ。紙袋一つ抱えて何処にねぐらを決めるのか気になっていたが、そのおとっつあんの姿が大分前から見えないのだ。気候が暖かくなると必ず地下鉄の出口のビルに現れていたのに、今年は居ないのだ。居所を他に変えたのだろうか、それともひょっとして冬の間に・・・・・・いやいやそんな悪い想像はするまい。どうせなら、離れていた家族のもとへ帰ったと考える事にしよう。

 そう遠くもない昔、日本にいる朝鮮人はこんなおとっつあんたちと変わらない暮らしをしていた。だからといってなにかできる訳ではないのに、やはりそんな連想をもさせる彼らの姿から視線をそらすことができない。

   聞かれなかった言葉

 ゆきちゃんは、すぐに分かった。改札口で身を乗り出して列車の窓を見ている。列車の中から手を振った。赤いジャケットを着ていくと言ってあったので、ゆきちゃんも私を見つけて、手を振った。
 三十余年振りの再会である。ホームに降り立ち、抱き合わんばかりに手を握り合いながら、
「変わってないね」
 と、そんなはずがないのに同じせりふを言い合う。
「来る途中の臥龍桜、まだ全然咲いてなかったわ。名古屋はもう散っているのに」
「今年は特に遅いんだよ、あと一週間位だね」
 息子さんの運転する車に乗ってそんな会話をしているうちに家に到着する。棟続きに焼肉やの結構大きな構えの店があった。すぐ側の飛騨川のゆったりした流れの向こうになだらかな山が続き、そのふもとに低い屋根の家々がある。絵本の様な景色に見とれていた私がようやく部屋に入ってお茶を飲むと、ゆきちゃんは「Aさんどうしてる? Bさんと会ったことある?」
 と、昔の人達の消息をたたみかけるようにして聞いてくる。

 三十数年前、合掌造りで有名な岐阜県の白川村で、電源開発が東洋一のロックフィルダムと銘打った御母衣ダム建設工事が始まった。ダム工事に伴って、厚生省直轄の厚生会が建てた電源開発御母衣厚生会病院という長い名前の病院に私達は勤めていたのである。大阪に居た私がそんなところで働く事になったのは、全く偶然のことだった。姉夫婦がいたその地に、たまたま母と訪れて暫く逗留していたが、ある時姉が病院で人を募集しているという話を聞いてきた。大阪で嫌々働いていた私は心が動いて決めてしまった。その時、姉の知り合いで同胞のゆきちゃんと一緒だったのだ。
 医師やナース、薬剤師など技術者は厚生会から派遣されてきたが、厨房、運転手など、いわば単純作業に従事する人は「現場雇い」と言われ地元の人で賄われていた。病院の職員は全員寮生活とされ、姉の家もゆきちゃんの家もバスで十五分程の所だったが布団を運んだ。「現場雇い」は寝具を自分たちで準備しなければならなかった。
 病院には同胞がもう一人いた。私と同じ歳のすみちゃんである。彼女も地元の人だった。姉が彼女たちをゆきちゃん、すみちゃんと呼ぶので私もそう呼んだ。ゆきちゃんは私より四つ上だが、それだけの理由ではなく良く働く人だった。彼女の部署をめぐって看護婦たちと事務所で争ったのを私は知らなかったが、その結果受付に座り、私は看護助手になった。ゆきちゃんとは部屋がずっと同じだったが何かと面倒みの良い人だった。少し遅れて入ったちょっと太めのすみちゃんは厨房の仕事をしていたので、そう親しい間柄にならなかった。
 私は素朴な人柄の彼女たちに親しみを感じていたが、心の何処かで意味のない優越感を抱いているところがあった。しかしそれは朝鮮人同胞の絆の強さに勝る程ではなかった。にもかかわらず朝鮮の「ち」も話題にした覚えがない。三人とも民族意識が希薄だったのだ。私は本籍を偽って履歴書に書いていた。おそらく二人も「朝鮮」とは書かなかったはずだ。それぞれ生きるための知恵が身に付いていたのだろうが、そんなことも話し合ったことが無かった。
 寮に入ってまもなく、雪の季節になり正月が来た。人手が足りないと言われて、私は大阪に返れなかった。私はこの時以来、今日まで、実家で正月を迎えることが殆どなくなった。
 工事が最盛期を迎えると、けが人が増え病院は忙しくなった。時間外に重症が運ばれてくれば、当直の者だけでなく、事務や他の科の職員も一緒に手伝った。冬期は積雪が多く、工事は縮小されて地下工事が主になるので出稼ぎの人は故郷へ帰っていき、病院の中もひっそりしてくる。良くしたもので、それに合わせるように、ナースたちの中では適当に辞める人が出て来るのだった。少し稼げばそう長い間いるところでは無いに違いない。
 仕事が終ったあとの生活はそれなりに楽しかった。一階の診療室の上に寮があり二、三人ずつ入っていた。今ではとても考えられないことだが、女も男もそれぞれの部屋の戸に鍵が付いてなかった。みんな白衣を脱ぐやいなや寝巻きに着替えて、よその部屋に遊びにいったり、娯楽室でお喋りをする。掘炬燵のある娯楽室には、NHKしか写らないテレビがあり、音楽や野球を楽しんだ。レコードを聞いた。本も読んだ。専門的な知識も含めて沢山の事を吸収した。いま思えば私は小憎らしい子だったはずなのに、一番年少だったからだろう、みんなが可愛がってくれた。
 私はインテリたちに囲まれている環境が気に入って、四年近くもダムの街に居ついてしまった。四年の歳月はダムを殆ど完成させていたが、残工事があるため、病院は規模を縮小して診察を続けていた。ゆきちゃんや親しい人はもう辞めていた。私は焦り始めた。(こんな山ん中にいつまでも居たら、文明に取り残される・・・・・・)そして看護婦学校に行こうと考え、大阪に戻ることにしたのである。ひょんな事から、子供のころ考えたこともないナースという仕事に従事することになったが、尊い仕事だった。(朝鮮人は女工以外なれないと思っていたが、ひょっとして試験が受けられるかもしれない)私は一縷の望みが持てるようになっていた。二十歳の秋の事である。
 こうして私はナースの道を歩きはじめた。大分遅めの結婚をするまで白衣の天使の生活が続いた。

 ゆきちゃんの消息は途切れ途切れに知っていた。何年か前、私の新聞の投稿を見つけて連絡をくれたのがきっかけでF市にいるのを知り、古い街並みも見たいしそのうち訪ねたいと思っていた。
 ようやく実現した三十数年振りの再会・・・・・・。ゆきちゃんは私が思っていたように温かく迎えてくれた。情が厚くて明るい働き者の昔と同じゆきちゃんだった。
「いつも二人一緒だったね」
 とゆきちゃんは言った。それはそうだったけれど、私は他に尊敬する人や好きな人が何人も居て、その人達の印象が強かったから、私は曖昧に頷いた。傲慢にも私は、彼女とは同胞という安心感で行動を共にしていたのだと考えていたのだ。
「あんたが、初めて亡くなった人の世話をしたとき、私に一緒におってって頼んだのに、私は忙しいから駄目や言うたんや。あの時の事、時々思いだしとるんやよ、おってやったら良かったってー」
 私の覚えていない事を申し訳無さそうに言っている。良心が少し痛んだ。
 一年に一度、祭りの時だけ何千人の観光客で賑わう町F市。その夜、ご主人と三人で祭りを楽しんだ。ゆきちゃんは、祭り見物なんてまともにしたことがないと言いながら、ご主人に寄り添って歩いている。無骨そうに見えたご主人は、アルコールが入ると饒舌になってきた。
 夜が更けて帰ってきてから、ゆきちゃんと枕を並べて、あの人この人と忘れかけていた人の名をお互いの記憶を手繰り寄せ合い、夜の更けるまで話した。
「事務所の人は私らが国が違うちゅこと、知っとったんやに。役場に問い合せたんやわ」とゆきちゃんは言った。
「看護婦さん達も私たちが朝鮮人だってこと知ってたわよ。私達のこと話題にしているの聞いちゃったもん」
「意地悪な人、居たね、Tさん。皮肉ばっかり言って、私らを馬鹿にしとったんだわ。Sさんはそんなことなかったね。ええ人やったから。みんなと違うって知っても差別なんかせんかったと思うよ。そう思わん?」
「そうねえ」
「院長さんたちも知っとったに。辞める時に奥さんが何か困った事があったら何時でも相談に来なさいて言うて下さったよ。私はようしてもろたわ。ほんまにみんなに会いたいわ。あんたはいいね。いろんな人と会っててー。私もその内、時間が出来たらあっちこっちへ会いに行こうと思っとるんや」
 私が何人かの人と会ったり文通しているのを知って、羨ましげに言う。
「そう、院長も奥さんもいい良い人だけど、ちょっと人を見下してる感じがして、私はあんまり好きではなかったな。私は歳が下だったし何にも知らなくてみんなにいろんな事教えてもらったから印象に残っているけど、他の人から見れば、私なんかそれほど重要人物では無かったんだから、こっちが思っているほどみんなは私らに会いたいと思って無いんじゃないかな」
「そやね、それにやっぱり、みんなと違うからね」
 ゆきちゃんの口からは、「朝鮮」或いは「韓国」という言葉が一度も聞かれなかった。ご主人は二世に近い一世ということが風貌からしても察せられたが、二人は周囲に朝鮮人が全くと言っていいほど居ない環境に埋没して生きてきたのだろう。祭り見物に出掛けたときに町で行き合う人と交わす挨拶の中にも、そんな姿勢が見て取れた。ご主人はそれでも、私が少し朝鮮語で話すと流暢な朝鮮語が返ってきたがー。
 三十年余の間、ゆきちゃんは焼肉やをして五人の子供を育て大学と短大に行かせた。それが何より自慢だった。焼肉やを営もうと、言葉に訛りがあろうと、祭りが町を上げての行事の地で、町内の長には一升瓶を下げて挨拶に行き、日本人と違う暮らしなど何一つしなかったのだ。
 稀有な体験をした二人だったから、長い歳月にも風化せずに共通の思いを抱いてはいた。しかしゆきちゃんは、暮らしにせき立てられて在日朝鮮人である現実を、心の隅においやってしまっていたのだろう。わたしの口からついつい「朝鮮」という言葉が飛び出すので、ゆきちゃんは戸惑っているようだ。
 口には出さなかったが、お互いに何かちょっと噛み合わないなと感じたまま二日が過ぎた。
 もう一日泊まっていけばいいのに、と名残惜しげに言うゆきちゃんに、
「来たときうるさく吠えてた犬が、私の顔を見て尾っぽを振ってる。忘れられない内に又来るわ」
 そう言ってのどかなF市の風景に別れをつげた。





  なかまの仕事

 ここ一年余のあいだは会のメンバーによる著書出版が活発だった。
●朴燦鎬さんの『韓国歌謡史 一八九五~一九四五』の韓国語版が玄岩社(ヒョンアムサ)から出版され、それをもとに、SP盤復刻CD全集「歌で聴く韓国歌謡史」も出た。
●磯貝治良は『戦後日本文学のなかの朝鮮韓国』(大和書房)を上梓。作家八〇名ほど、作品一二〇篇ほどを論究、紹介している。その続篇「現代日本文学のなかの朝鮮韓国」を目下、季刊『青丘』に連載中。
●加藤建二さんは韓国の詩人・梁性佑の抒情詩集『おまえの空の道』の翻訳を自家出版。
●朴明子さんは新聞などに投稿した文章を中心に随筆集『わたしはいつもまわり道』(風媒社)を出版した。
 いずれもそこそこ好評なので、関心のある方、ぜひ読んでみて下さい。
●蔡孝さん、成真澄さんはマダンノリペ緑豆(ノクトウ)やノリパン、韓国から四物ノリ・チンスェを呼んでのワークキャンプなどの活動で舞い上がっている。





 羽山先生が笑う

      磯(いそ) 貝(がい) 治(じ) 良(ろう)

 銀白の色彩をはげしく燦めかせて、光が杖鼓(チャンゴ)の中からほどばしり出る。光りのかたまりは杖鼓の響きに打たれて、たちまちはじけ、風に吹かれてマダン(広場)を渡っていく。杖鼓だけではない。鼓(プク)の中から、小鉦(ケンガリ)の中から、大鉦(チン)の中から、ほとばしり出て、たたかい、溶け合い、結び、解かれる響きとともに、マダンをはしる。
 ケンガリは雷、チャンゴは雨、プクは雲、チンは風。しかし灼けつく真夏の陽差しのもとで、響きは、まるで光だ、風だ。
 鼓、小鉦、杖鼓、大鉦、それぞれの楽器を奏する安錫泰(アンソクテ)、姜光秀(カングアンス)、李栄子(イーヨンヂャ)、韓成徳(ハンソンドク)の四軀が光を裂き、風を切って、白く舞う。飛び散る汗も、光の粒子に似て、舞う。
 四人の演者をつつむ人びとの踊りの輪は、幾重にも層をかさねて、広いマダンにひろがった。
 最初、アヂュモニ(おばさん)やアヂョッシ(おじさん)たち、韓国から働きに来ているアガッシ(むすめさん)たちの踊りに、フィリピン、タイ、バングラデシュ、ブラジルなどさまざまな国の娘たち、青年たちは溶けこめずにいた。しかし、間伸びした時間は、じつは昂揚を準備する束の間にすぎないかった。踊りの輪にはしる娘たち、青年たちの先頭に、野性の小動物をおもわせるマリアの姿があった。日本人の女たち男たちが、一拍置いて、彼女・彼らのあとにつづいた。
 四物(サムル)ノリの奏戯が、静と動、陰と陽の調和から解き放たれ、激越に天と地を駆け抜けたとき、マリアたちの姿は故郷の海に舞う鳥たちのように踊り、娘たちのチマ・チョゴリは、故郷の島に舞う蝶(ナビ)のように翻った。
 肩踊り、南国ふう、ディスコふう、音頭ふう、さまざまに乱舞する女たち、男たちの群れは、光のなかに溶け合い、風のなかにまぎれ、一瞬、人型(ひとがた)も分かたぬ夢幻の情景をおもわせた。

 ここまで書いて、私のペンは便箋のうえで止まってしまった。
 旧楢(なら)島航空機朝鮮人強制連行犠牲者鎮魂碑の除幕式を終えて、すでに一か月余を経ている。羽山先生は傷害致死容疑で起訴され、第一回公判もせまっている。私にとっては、鎮魂碑除幕式の様子を手紙にしたためて、名古屋拘置所にいる羽山先生に送るのが、差し迫っての役目なのに、果たさずにいた。
 きょう、ようやくペンを取った。第一部の除幕式式次第と告祠(コサ)の様子は、事務的な報告で足りるので面倒はなかった。第二部のマダンノリの模様を書く段になり、とたんに難渋し、ペンが滑った。とくにクライマックスがいけない。無名とはいえ小説書きのはしくれ、格調高く、描写ふうに行こう、と気張って、ペンが滑った。もちろん、格調高く描写ふうに、の思いは、やまっけのせいばかりではない。当日、その場に加われなかった羽山先生の無念を慰めるため、感動の場面を再現し、臨場感のままに伝えたい――そんなけなげな気持に促されてもいた。いよいよ始まる裁判に臨んで、鎮魂碑除幕式の成功と、その場に現出した感動は、羽山先生の気持を奮(ふる)い立たせるにちがいないのだ。
 私は、梃子でも動きそうにないペンの先を、うらめしく眺めた。窮余の一策、一行、行をあけて便箋に書く。

  ともかく、私の拙い筆では、あの日、あの時の、脳天から足のさきまで撃ち抜かれるような感動の場面を再現することはできません。いや、たとえノーベル賞作家の筆をわずらわしたとしても、不可能でしょう。それほどまでにすばらしい除幕式でした。あなたが望んでやまなかった、アジアの連帯が、絵のように実現したのです。
羽山英雄様、勇躍して、法廷に臨まれるよう、祈っております。

 私は、どぶ川沿いのアパートから歩いて十分ほどの距離にある国鉄駅(私はJRという呼称を使わないことにしている)まで足をはこび、早々に羽山先生宛の手紙を投函した。一万圓札三〇枚ほどの分厚い封筒がポストの底に落ちる瞬間の、小さな固形物が容器に具合よく納まるふうな音を心地よく聞いて、音といっしょに胸のつかえが消えた。一か月余のあいだ私を圧迫していた肩の荷が下りたのだ。
 ところが数日後、どこをどう迷ったか、肩の荷が舞いもどってきた。72円の切手を貼ったのに、それでも料金不足というのか。付箋はついていない。開封してみると、私が苦心の筆痕もありありの便箋一枚目に、ピラピラの紙切れが一枚、貼ってある。
 宛て名の者は現在未決拘留中の身柄故に交信は不可
 名古屋拘置所長 ㊞
 吹けば飛ぶような紙切れ一枚にむかって、私は生き来(こ)しかた五十四年の全存在を賭ける按配で腹立った。役人の理屈など、どうでもいい。羽山先生への想いをこめた、便箋延べ七枚の苦心作。闇に葬られてたまるものか。悔しさは、自分でもよく解からぬ意地に増幅してきた。
 しかし、やんぬるかな、法律とか制度とかにはからきし疎(うと)い私には、気持ばかりはやって、なんの展望もひらけてこない。思案のすえ、吉本土建の吉本社長に電話する。据えかねる腹のうちを、蛇の匍匐みたいに披瀝する私に、吉本社長の返事は木で鼻をくくったよう。
「桐山事務局長、チャンソリ(愚痴)は屁のつっかえにもならんぞ。そんなこと、浅戸さんに頼んだらええ。接見のときに伝えられるはずだ」
 吉本社長は、無能な事務局長には呆れる、といった口調をかくしもせず、弁護士の名前を出した。
 ところで、吉本社長が言う事務局長は、朝鮮人半田空襲犠牲者鎮魂祭実行委員会事務局長でもなく、旧楢(なら)島航空機朝鮮人犠牲者鎮魂碑建立委員会事務局長でもない。羽山先生が起訴されるや急遽、結成された羽山先生の裁判を支援する会、その事務局長である。十六歳のとき傷害事件を起して家庭裁判所送りになったのを皮切りに、青春の入口頃、処分保留や簡易罰金刑の事件を二度ほどかすったとはいえ、本格的な裁判を経験したこともなく、知識もなく、これから勉強しようという意欲もない私が、またも事務局長を任ぜられたのには、なんの根拠もなく、単に前(まえ)二度のならわしを安直に引き継いだだけのこと。支援する会会長は、羽山先生後援会副会長の行きがかり上、木下栄子女史。ササニチローの三人組――垂れ眉毛男、マルクス鬚、野球帽が、市民運動グループやキリスト教関係者など会員を募る“オルグ”を担当している。公判関係のことは、言うまでもなく、五名からなる弁護団まかせ。
 その弁護団・主任弁護人である浅戸正嘉に、私は電話した。
「桐山さん、大丈夫、大丈夫。被告人との公判打ち合せがあるから、その折、読んでもらうわ。うまくいったら、情状の書類証拠で活かせるかも」
 法曹関係者のあいだでも“スタンドプレーの浅戸さん”と呼ばれ、ハッタリと格調高い弁護ぶりが人口に膾炙(かいしゃ)している浅戸は、私の依頼にも外連がない。
 彼に手紙を託すとき、私は、七枚目の便箋の余白を利用して付け足した。

 〈追伸〉安本支配人、吉本社長、木下女史、ソンドギ青年による四物ノリは、じつにすばらしいものでした。殊に、退院して間もないというのに、みずから演者の一人を買って出た安本支配人の奮戦ぶりは、涙ぐましく、かつ感動を誘うものでした。
羽山先生、あなたの悲願が四物ノリのすばらしさに乗りうつり、そのすばらしさが参席者すべての胸を熱くしたのです。あなたの崇高な事業をコケにしようとした黒野忠義やラマーン一味、花木らこそ、裁かれてしかるべきです。

〈追記〉の最後のくだりを記す私の胸算用に、浅戸弁護士の「情状の書類証拠に活かせるかも」の一言が絡んでいたのは確かで、その幼稚な打算にためらいを覚えたが、このさい、それもみずから許すことにした。


 一〇月にはいって秋晴れの日がつづいていたのに、その日は、明け方から雨だった。前夜、第一回公判に臨んで羽山事務所でもたれた弁護団との打ち合せを終え、外に出たときは、夜空に星がまたたいていたのに。
 浅戸弁護士が、私の手紙を読んだ折の羽山英雄の反応を伝えてくれたのは、その打ち合せ会議の席でだった。感慨ひとしお、といった風情で長い手紙に目をとおしていた羽山先生は、読み終えると開口一番、言ったそうだ。
 桐山二郎も、所詮、三流の小説書きだのぉ。この手紙には、リアルテーちゅうもんが感じられん。
 会議の席上、事務局長の立場にありながら私が一言も発言しなかったのは、羽山先生の言葉に打ちひしがれていたせいもある。
 雨のなか、タクシーをとばして裁判所に駆けつけたとき、しかし、私の気分はパッと晴れた。法廷に通じるレンガ造りの階段前には、ながく路上にのびて、ひとの列ができている。最初、新幹線騒音公害訴訟か、90億ドル湾岸支出差し止め訴訟か、なにか運動団体による別の公判の傍聴人か、と勘違いしたほどだ。列の先頭あたりに木下女史、吉本社長の姿を認め、安本支配人がハンドマイクを手に宝クジ売場の交通整理みたいなことをしているのを見て、腑に落ちた。
 腑に落ちないのは、列の後尾で何事か一悶着している光景だ。サングラスをはめて顔半分かくれるほど白マスクをしたり、野球帽を目深(まぶか)にかぶった十数人の男女を、ソンドギ青年とササニチローの三人組らが声高に説得している。遅ればせながら事務局長の立場に目覚めた私は、ほどなく事態を理解した。招かれざる「党派のみなさん」が押し掛け支援に来て、ソンドギ青年らがお断りしているのだ。
「ほぉ、桐山さん」
 私の顔を見るなり、垂れ眉毛男が口癖の間投詞を付けて、呼んだ。
 私は、厳重に防備された「党派のみなさん」の顔を順ぐりに眺め、少し勿体をつけて言った。
「事務局長の桐山です。羽山先生の意向でもあり、支援する会の方針でもありまして・・・・・・。悪しからず」
 さらにそれらしきことを言わなくては、と焦ったが、頃合もよく傍聴整理券が配られはじめ、傍聴人の列が動きだした。
 名古屋地方裁判所一号法廷、報道関係者の席も、82個の傍聴席も、立錐の余地なく埋まった。黒野忠義の関係者は、はたして何人ほどいるのか。初老の地元秘書の顔には気づいたが、家族をふくめて心当たりの顔は他に見つからない。大半が、羽山先生の裁判を支援する会のメンバー。それでも入廷できないひとが何人も雨の路上に取り残された。“立ち見”でいいから入廷できるよう、弁護団を通じて裁判所に申し入れたが、不首尾に終った。やむなく、公判の途中で一部の傍聴者が入れ替ることに落ち着いた。
 午前一〇時二四分、傍聴席からむかって右手に五人の弁護団、左手に二人の検事、それに書記官、速記官などが所定の位置に鎮座して、咳(しわぶき)ひとつなく静まりかえった法廷に、一陣の風が吹き込んで、羽山先生の巨軀が登場した。看守なのか、廷吏なのか、その方面にい疎(うと)い私には見分けはつかないが、制服の男ふたり、従えて。羽山先生の両手は手縄で結(ゆわ)えられ腰縄も結ばれてはいるが、二人の男の背丈は羽山先生の両脇で貧相このうえなく見えて、どう贔屓目にみても付き従う風情。太刀持ちと露拂いをともなう横綱の土俵入り、といったところか。
 羽山先生は、手縄を解かれて傍聴席に向きなおると、右手をかかげ、鷹(おう)揚に二、三度頷(うなず)いてみせた。
「ふむ、なかなか様になっとる。リーには、法廷は舞台かもしれん」
 傍聴席の最前列、私の右隣りの席で、吉本社長が感心したふうに言う。
「これだけ観客がいれば、満足でしょう」
 そう応じた私は、びっくりして左隣りの席を振り返った。
「よッ、羽山センセ!」
 本日(ほんじつ)はいちだんと化粧も京劇ふうに、はでやかな衣装の木下女史が、甲高い声を上げたのだ。
 傍聴席の緊張が他愛もなく崩れ、それでも遠慮がちな笑いの、間に間に拍手がおこった。
 壁際で三々五々、立哨していた法廷警備員が飛んできて何やら注意したが、木下女史は歯牙にもかけなかった。
 一〇時三一分、老若二人の陪席判事とともに、黒い法衣の裁判長が登場。禿げ上がった前頭部が妙に脂光りする五十歳がらみの裁判長が、一段高い席に着席すると、弁護人、検察官、書記、速記官、廷吏がサッと立ち上がり、甲高い声が法廷にひびく。
「起立ッ」
 私は反射的に立ち上がりかけて、その動作は中腰の状態で停止する。両隣りの吉本社長、木下女史、安本支配人、誰も椅子席にどっかと腰を据えたままだ。宙吊りの姿勢のまま振り向けば、起立している者、それを拒否している者、半々くらいか。前者はキリスト教関係者や普通の市民と呼ばれるひとたち、後者はササニチローはじめ何かの運動グループに属しているひとたち。とっさにそんな色分けを察知した私は、さて、事務局長としてはいずれを選択すべきか、迷ったすえ、拒否派にまわることにする。
「全員、起立してください」
 裁判官席の右裾下、奥まった位置からふたたび声がする。最前の号令口調ほどではないが、命令にはちがいない。
「起立とは何ごとか、無礼な!」
 突然、声を発したのは、吉本社長。
「われわれは主権者だ。なんで裁判長に起立せなあかんねん」
 背後から大阪弁訛りの声が上がる。ふむ、なかなか賢(さか)しらな手合いがいる。
「わたしに起立していただくわけではない。厳粛な法廷の権威と慣例にしたがって・・・・・・」
 裁判長が言いかけたとき、傍聴席から応じる。
「法廷の権威は、立派な裁判をすることでしょ。慣例なんて、ナーンセンス」
 若い女性の声だ。ふむ、筋が通っている。
 裁判長はといえば、禿げ上がった前頭部をいよいよ脂光りさせ、噛みつぶした苦虫の吐き捨て場に窮した表情で傍聴席を睨みつけている。起立シテクダサイの声は繰り返されるが、立ち上がるものはなく、逆に着席する者が目立つ。かくなるうえは、私も事務局長として極めつけの一言を、と頭をめぐらすが、全然、思い浮かばない。
 両隣りの陪席裁判官に何ごとか耳打ちしていた裁判長が、きびしい口調で弁護団に命じる。
「弁護人、責任をもって傍聴人を説得してください。この状態では公判を開くわけにはいきませんよ」
 そう告げるなり、裁判官たちは立ち上がって、さっさと楽屋(とは言わないだろうけれど)へ退ってしまった。
「波瀾ぶくみの幕明けですなぁ」
「桐山さん、法廷なんてものはマダンだよ、マダン。マダン劇のマダンだよ」
 私と吉本社長がそんな会話を交しているところへ、主任弁護人の浅戸が緊張した面持でやって来た。法曹界ではスタンド・プレーで名を馳せる彼にも、事は意外な成り行きらしい。
「どうしましょう? このままでは公判お流れですよ。それに本件の弁護活動では、情状酌量の判断を引き出すのが争点ですからね、裁判官の心証を害するのは致命傷です」
 傍聴席を仕切る木柵から身を乗り出すようにして、浅戸が言う。
「起立は駄目ですよ。われわれの主体を侵害しようとする司法権力は・・・・・・」
 いつの間に来たのか、横合いからソンドギ青年がオホーツクの氷みたいな口調で食ってかかる。何かを主張するときの習性で、彼の表情はすでに涙ぐむ感じになっている。
 ササニチローの三人組までが加わって、しばし鳩首階段の趣きになった。浅戸弁護士とソンドギ青年、三人組らとの言い分は平行線のまま、どこまでつづく泥濘(ぬかるみ)ぞ、とおもわれたとき、吉本社長が知恵を出した。
 起立を拒否したい傍聴者は、いったん法廷から廊下へ出る。そのあいだに浅戸弁護人が裁判長に開廷するよう申し入れる。裁判官が入廷し、起立! が済んだところで、拒否派は速やかに傍聴席へはいる。
 ソンドギ青年らがしぶしぶながら納得した吉本社長の提案を、私は事務局長として傍聴者一同に告げた。しどろもどろながら私の言葉は傍聴人に伝わって、裁判官の退廷から三十五分後には首尾よく開廷となった。
 開廷が大幅に遅れて時間が足りなくなったせいでもあるまいが、被告人確認、検察官の公訴事実にたいする被告人認否、検察側の冒頭陳述・証拠調べとつづく第一回公判は、意外に簡潔にすすんだ。
 いくらか紛糾の様相を呈したのは、冒頭の被告人確認のとき。裁判長が「被告人の姓名は羽山秀雄ですね」とただすと、羽山先生はすかさず「リー・スウン」と切り返した。李秀雄というのは日本籍を取得する以前の姓名であって「戸籍上の正式な氏名は羽山英雄ですね」と、裁判長が念を押す。羽山先生、それには取り合わず、「国籍は日本籍となっているが、わしは生粋のチョソンサラム、朝鮮人だ」と主張。「日本国籍なら、被告人は日本人ですよ」と、裁判長が応酬。「国籍などというものは、きみィ(羽山先生が裁判長にむかって、きみィ、と呼びかけたとき、私は耳の錯覚か、と疑った)いくらでも着たり脱いだりできるもんだよ。しかし、だ。わしの五体を流れる民族ちゅうもんは、着換えることはできん」
 裁判長の顔にはありありと不快の表情が浮かぶが、実質審理にはいるまえから面倒な事態はごめん、と判断してか、それ以上の反論は避けて、事なきを得た。
 検察側の冒頭陳述は十五分ほどで終ったが、そのときも羽山先生はいきなり被告人席を立って、二人の検事を指さすなり、言った。
「きみらの陳述は、指先で埃でもふきとるように事件の表層をなぞったにすぎん。なぜ、わしが黒野忠義に鉄拳を見舞ったか、その真実を述べておらん。三〇点!」
「被告人は、みだりに発言してはいけない」
 裁判長の注意には一瞥(べつ)もくれず、羽山先生は検察官を睨みすえる。


 羽山英雄の傷害致死事件第二回公判が開かれたのは、第一回公判から約一か月後、晩秋の風がひとしお身にしみる頃。数日まえに投票がおこなわれた衆議院選挙では、黒野忠義の息子・義一郎が、父親の弔い合戦を声高に訴えてトップ当選した。
 第二回公判にも、第一回ほどではないが傍聴席を満たすに充分な人びとが詰めかけた。前回の轍を踏まないために、傍聴者は、起立! の号令をやりすごしてから入廷したので、私が席について法廷の成り行きに神経を集中したとき、すでに弁護人の冒頭陳述が始まっていた。
 起立! の号令をやりすごしてから入廷するという戦術には、私としてひっかかりがなくはない。浅戸弁護士によると、第一回公判後の接見の折、羽山先生は、断乎、法廷内で起立を拒否すべきなのに、号令のあとでゾロゾロと入廷するなど姑息すぎる。ヒヨリミシュギシャのすることだ、となじったそうだ。桐山事務局長によく伝えておけ、ということだったが、浅戸弁護士の意見では、起立を拒否してあれだけ騒いだのに、裁判長が退廷命令を発しなかったのは、もっけの幸い。今度、同じ事態になれば、退廷命令、間違いない。監置処分さえありうる――という。
 今回の戦術は、事務局長権限によって私が最終決断した。私は、生粋の日和見主義者なのだ。漁師の子孫である私には、日和を見る習性が身に染みついているらしい。
 浅戸弁護士の陳述は、裁判官席にむかってというより、傍聴席を強く意識したぐあいに、滔々とつづく。ラマーン一味によるフィリピン女性虐待がいかに非人道的であったか、花木組によるマリアら拉致行為がいかに羽山英雄の正義心を傷つけたか、ラマーン一味と花木組のうえに王権的(と、浅戸弁護士は表現した)に君臨する黒野忠義宅を訪ねたとき、善処をもとめる羽山英雄の気持はいかに切実であったか――浅戸弁護人が、まるで小説のストーリィでも読み上げるふうに陳述するあいだ、検事は一度ならず、異議をはさむ。ラマーン一味の売春防止法・労働基準法など違反容疑および花木組の監禁・暴行傷害容疑事件は「現在、別件として審理がすすめられており、本件には係わりなし」
 羽山先生は被告人席に腰を据えたまま、予想に反して、検事を一喝することもない。肩幅広く頑健な後姿が、私の目には心なしか淋しげに見える。宿願であった黒野派との一戦に不戦敗を喫して、さすがの羽山先生も落胆、消しがたいか。
 浅戸弁護人の陳述は、羽山先生の行為にまったく故意はなく、精神的正当防衛行為に当たると主張し、情状を求めて、終えた。
 浅戸弁護人の冒頭陳述についで、弁護団の紅一点、南村美明弁護士が被告人尋問に立つ。みなみむら・みあき、三十七歳。大学では法学部ではなく文学部を専攻し、卒論は「古代人の自然観と、象形文字の成立に関する一考察」。卒業後、教員への道を嫌ってフツーのOLを五年。大手商社のエリート社員と結婚してフツーの主婦となるが、夫が三年目の浮気。躊躇することなく離婚。慰謝料と娘ひとりの養育費をせしめて自立。暗闇のなかに未来の光をまさぐること数年。一念発起して猛勉強のすえ、見事、司法試験に合格。異才である。時として自意識過剰の性格がツッパリ性ヒステリー症をきたすきらいはあるが、その弁護活動はみずみずしい。

 南村弁護人「羽山さん、(と、被告人を「さん」付けで呼ぶのが、彼女の習い)、あなたが黒野邸を訪ねたときのこと、聞かせてね」
 羽山先生、不機嫌そうに、かつ尊大に頷く。
 南村弁護人「一人で行きましたか」
 羽山先生「姜光秀(カングアンス)君と李栄子(イヨンヂャ)女史が一緒」
 南村弁護人「吉本土建の吉本光秀社長と、羽山英雄後援会の木下栄子副会長ですね。三人で黒野忠義さんを説得するのが、ヨリ効果的と考えたからですか」
 羽山先生「わし一人で自信は充分にあったが、あの二人、勝手について来よった」
南村弁護人(次なる訊問への目算がはずれてか、一瞬、言葉に詰まるが、気をとりなおして)「その、自信というのは、花木組に監禁されていたマリアさんたちを解放させるよう、黒野さんにはからってもらう自信ですね」
羽山先生「そのとおり」
南村弁護人「なぜ、花木組に直接、行くのではなく、黒野さんの所へ頼みに行ったのですか」
羽山先生(何を判りきったことを聞くか、といった表情で)「花木をあやつったのは、黒野。黒野の腹ひとつにかかっとる。(南村弁護人が訊問をつづけようとするのを制して)質問の表現は正確を期してほしい。わしは黒野の所へ頼みに行ったのではない。邪念を払うよう、糾(ただ)しに行ったのだよ」
南村弁護人(きりりと端正な容貌が、不快感を押し殺して、一瞬、ゆがむ)「質問を変えます。さきほどの相弁護人の陳述にもあったように、羽山さんはマリアさんたちの境遇にスゴーく同情していたようですが、その訳(わけ)、教えてください」
羽山先生「言わずもがなのこと。한(ハン) 팔자(パルチャ)だよ、한 팔자。わしらとマリアたちの運命は、同じ運命、一つの運命。土地をうばわれ、めしをうばわれ、くにをうばわれて、他郷に暮さなければならなかった우리(ウリ) 아버님(アボンニム)、우리(ウリ) 어머님(オモンニム)。その末裔としていまなお仇の地に暮す우리(ウリ) 팔자(パルチャ)。わしらの運命とマリアたちの運命は・・・・・・」
南村弁護人「ちょっと待って。わたし、韓国語、全然、駄目です。日本語で話してください」
羽山先生「アイゴー、どうしようもないチョッパリ娘だ。ウェノムの産業戦士どもに海をうばわれ、森をうばわれ、めしをうばわれて、若い娘の身空で異郷の地で働くマリアたちの境遇は、五十年まえ、六十年まえの、わしらの先祖と同じだ、と言(ゆ)うとるのだ。つまるところ、わしら自身の境遇と同じ。一つ팔자(パルチャ)のあの娘(こ)たちを、わしらが救わずして誰が救うか。そう言うとるんだよ」
南村弁護人(すっかり紅潮した顔に、抑えがたいものを懸命に抑制している内心の様(さま)が読みとれる)「質問を変えます。羽山さん、あなたが手を振り上げるまえ、黒野さんは何か言われましたか」
羽山先生「何か? 言われましたか? わしは、黒野忠義のあの一言を、一生、忘れん。奪えるものはうばいつくし、くにに住めなくした挙げ句のはてには、強制連行、死ぬほど働かせておいて、奴(やつ)はぬけぬけと・・・・・・」
南村弁護人「はい、ぬけぬけと・・・・・・」
羽山先生「朝鮮人は本来、この国には住めない人間だ、と抜かしおった」
羽山先生はそう証言するなり、まるで裁判長を黒野忠義に擬するかのように睨みすえた。
羽山先生と南村弁護士のやりとりを聞くうち、私はハラハラしていた。彼は、弁護人が味方かどうかさえ理解していないのではないか。そう思う一方で、安心もする。羽山先生、意気消沈の印象を撤回する気になったからだ。その気持は、検察側の反対訊問の際、いっそう強まった。

検察官「只今、弁護人の訊問にたいして被告人は、被害者・黒野忠義宅を訪ねた目的は、フィリピン女性ら四名の釈放を説得するためと答えたが、ほかにも理由があったのではないですか」
羽山先生(木で鼻を括ったように)「ほかにも理由? 何のことか」
検察官「たとえば、私怨」
羽山先生「シ・エーン? アラン・ラッドの映画のことか」
検察官「被告人は、さきに投票がおこなわれた総選挙に出馬を予定していましたね」
羽山先生「まことに無念だ」
検察官「被告人はかねがね、被害者・黒野忠義を政敵と見なしていたと聞きますが、そうですか」
羽山先生「黒野忠義を政界から追放するのが、わしの悲願だった」
検察官「なぜ、それほどまでに被害者を憎んだのですか」
 羽山先生「憎んだ? そうかもしれん。しかし、それは後(のち)の話。わしは赤絨毯をこの足で踏んづけたかっただけだ。黒野忠義はただ目の上の瘤(たんこぶ)」
 検察官「目の上の瘤は、なんとしても排除しなければならないと・・・・・・」
 浅戸弁護人が異議を申し立てる。
 羽山先生(検事を睨みつけて)「ははん、読めた。きみはわしに鎌をかけようとしとる。このリー・スウンを見くびったな。シ・エ・ンがアラン・ラッドの映画なんかであるもんか。とぼけてやれば、一字無識(イルチャムヂク)の朝鮮人となめおって。この自分のおふくろと牛の見分けもつかぬウェノムめ」
検事、羽山先生の言葉がうまく飲み込めないらしく、目を白黒させている。羽山先生、突如、パンソリふうにつづける。
「わしの怨は私怨ではないぞ。連綿と流れる漢江(ハンガン)の流れのごとき、重畳と立ち昇る金剛山(クムガンサン)の雷雲のごとき、우리(ウリ) 민족(ミンヂョク)の恨(ハン)であーるーぞー」
 検事、度肝を抜かれて、「被告人、日本語で・・・・・・」と呟き、裁判長を振り返る。
 裁判長(困惑の表情で)「検察官は、予断にもとずくことなく、事実のみ訊問してください」
 検察官「被告人とフィリピン女性マリアの関係について訊問します」
 羽山先生「わしとマリアとは、한(ハン) 팔자(パルチャ)」
 検察官「被告人は、マリアらが不法滞在者であることを知っていましたか。不法な就労を・・・・・・」
 羽山先生「奪われたものを取りもどしに海を渡って来た者に、不法滞在も、不法就労もあるものか」
 検察官「被告人は、マリアらが日本国の法を犯していることを知っていたのですね」
 羽山先生「マリアを犯していたのは、ラマーンの客だ。客のなかには南警察署のおまわりもいる」
 羽山先生は、不意に弁護団席を振り向き、命じる、
「マリアを証人として呼びなさい」
 五人の弁護人、虚をつかれて無言。
 検事が間隙をぬって訊ねる。
「被告人とマリアとのあいだにプライベートな関係は存在しなかったのですか」
 南村弁護人と浅戸弁護人が、同時に異議の声を上げるが、羽山先生は、意に介することもなく、即座に答える。
「わしは、マリアを愛しておる」
 弁護側、検察側、ともに声なく、傍聴席はいっそう息をのむ気配で静まりかえった。
 数秒後、裁判長が威儀を正して、検事を促す。
 「時間もありませんから、検察官は事実のみ簡潔に訊問するように」
 検察官「被告人の効き腕は、どちらですか」
 羽山先生「・・・・・・?」
 検察官「右効きですか、左効きですか」
 羽山先生「わしは左効きだが、どうした」
 検察官「被害者・黒野忠義を殴打したのは、左手ですか、右手ですか」
 羽山先生「咄嗟(とっさ)のことゆえ、定かには憶えておらん」
 検察官「当時、現場に同席していた被害者の秘書は、左手であった、と検察官の調べに答えているが、間違いないですね」
 羽山先生「咄嗟のとき、効き腕が動くのは自然の成り行きというものだ」
 検察官「被害者・黒野忠義は七十八歳の老齢。被告人は五十六歳、一メートル九〇センチ、九〇キロの巨漢。効き腕で殴打すれば生命にかかわるとの判断はなかったのですか」
 羽山先生「黒野忠義の最後の一言を聞いたとき、우리(ウリ) 민족(ミンヂョク)の血が火となって、わしの脳天から吹いた。それ以上でも、以下でも、ない」
 検察官「被害者は、三日間、意識不明の状態で死亡したのですが、その間、死ぬのではないか、と危惧の念はいだきませんでしたか」
 羽山先生「人間の命は掛け替えのないもの。まことに気の毒なことをした。しかし、だ! 黒野忠義の死は、自業自得かもしれん。우리(ウリ) 동보(トンボ) 몇(ミョッ) 십만의(シムマネ) 생명을(センミョンウル) 죽익고(チュギゴ)・・・・・・」
 羽山先生が朝鮮語で語りはじめたときだった。検事が突然、色をなして叫んだ。
「朝鮮語はやめろ。ここは日本国だ、日本語で話しなさい」
 検事の表情は一変し、憎悪の影さえ浮かぶ。
 羽山先生が証言台を離れ、その巨軀を検事のほうへ踏みだした。浅戸弁護人が羽山先生めがけてとんでいくのとほとんど同時に、傍聴席から声が飛んだ。
「通訳をつけろ」
 声の主が韓成徳(ハンソンドク)青年であることを、私は振りむかずとも察した。ソンドギ青年に同調する声が二、三あがる。
「裁判長、本法廷に韓国語の通訳を付けるよう、求めます」
 浅戸弁護士が、仁王立ちする羽山先生の分厚い胸にすがりつく恰好で、蒼ざめた顔だけ裁判長のほうに向け、叫んだ。
「本日は閉廷とします」
 裁判長が宣言するなり立ち上がるのに、浅戸弁護士は首だけよじった窮屈な姿勢のまま、「次回公判は?」と問う。
「準備手続きの折に決めます」
 ひとこと残し、黒い法衣三人、早々に消える。騒然とする廷内で、私には裁判長の声がかろうじて聞きとれた。


 羽山英雄の傷害致死事件に係る公判は、その後、検察側、弁護側、各一名ずつの証人訊問がおこなわれ、一九九二年三月に結審、四月に判決という運びになったが、結局、朝鮮語の通訳はつかなかった。裁判所が頑迷に難色を示しつづけたのは事実であるが、決定的な理由は羽山先生自身の意向にあった。
 通訳がつくとなれば、羽山先生の発言、意地でも徹頭徹尾、朝鮮語でつらぬかなくてはならない。しかし、いかんせん羽山先生は、日本で生まれ、小学校・中学校・高校(中退)にいたるまで日本の学校に通い、以来、日本人の顔をして生きてきたひとである。朝鮮語は家族や親戚との交わりのなかで身につけたものであるが、アボヂ(父)が旧楢島航空機地下工場建設現場でB29の爆撃に遭って亡くなったのは日本敗戦の年七月、彼、十歳の時。頼みの綱のハルモニ(祖母)、オモニ(母)、チャグナボヂ(叔父)らは一九六〇年、彼、二十五歳のときに祖国帰還船で朝鮮民主主義人民共和国へ帰った。以来、三十余年、孤立無援のタヒャンサリ(他郷暮し)である。羽山先生自身が、思いの丈をウリ・マル(母語)で語りきれるか覚束ない。「情(なさけ)ないのぉ」羽山先生は、いつになくしおらしい口吻で呟いたそうだ。浅戸弁護士が伝えた、その一言で、通訳問題は不問に付すことが決まった。
 第三回公判に召喚された検察側証人は、公判のたび傍聴席にその姿を見かける、黒野忠義の地元秘書。事件現場に居合せた初老の秘書は、検察官による起訴状そのままの訊問に対し、ハイ、ハイ、ソウデス、ハイ、ソウデスを繰り返すのみで、二代目・黒野義一郎の代になって秘書の椅子を外され、故代議士への忠誠心も冷(さ)めたか、証言に身がはいらぬ。弁護側の反対訊問の際など、「黒野代議士が羽山さんにむかって、あなたがたは本来、日本には住めないひとです、と言ったとき、あなたは驚きませんでしたか」と問われ、「正直、先生また失言した、と思いました」と、本音をポロリこぼす。
 検察側証人に反して、やたら元気潑剌だったのが、第四回公判、弁護側証人の木下栄子女史。
 じつは、証人選びの段階でひと悶着あった。事件当時、現場に居合せた二人、吉本社長か木下女史のいずれかを証人として起用することに異存はない。しかし、二人に一人ということになれば、当然、深慮遠謀、知恵者の吉本社長を立てるのが妥当な線。それが羽山先生の裁判を支援する会、弁護団の一致した意見だった。吉本社長も了解。ところが強硬に反対し、私が出る! と断乎、言い張ったのが、当の木下女史本人。羽山先生後援会副会長の立場をコケにする気か、とビヤ樽型の巨体を身ぶるいさせて、後に退かない。一同、頭をかかえて立ち往生のすえ、吉本社長が代案を提案。木下女史を先発させ、リリーフ証人として、あらためて吉本社長を申請するということで、落着した。
 証人台に立った木下女史は、いでたちからして大向こうをうならせるに充分だった。花飾りのように陽気な髪型、化粧は京劇女優のメイキャップさながら、法廷の床を掃く真紅のドレスは夜会服の趣き、廷内に一足はやい五月の風をはこんで、夜遊会か、仮想大会かと見まがうばかり。宣誓文を読み上げる声は、玉を転がすに似て、歌曲(カグック)調。
 証人訊問にはいるや、いよいよ本領発揮。弁護人が一を問えば、一〇答える。それはひとまず、よし、としよう。弁護人の先廻りをして喋りまくり、事件とはまるで関わりなきチャンソリ(愚痴)クンソリ(ほら話)を丁丁するにおよんで、裁判長、再三再四「証人は聞かれたことだけに答えるように」と注意するが、蛙の顔に小便(ションベン)、馬の耳に念仏、木下女史の目に他人。彼女は、自分のほかは鼠一匹、存在しない世界をつくる名人なのだ。彼女自身が花にもなり、蝶にもなり、雲にもなり、鳥にもなり、権威ぶって陰気な厚い壁に包囲された法廷をも易易(やすやす)と野原に変えて、飛びまわる。
 黒い野に咲く 仇(あだ)花を
 山のごとき羽(はね)もって ひと撃ち
 暗雲たちまち 吹き散れば
 八道(パルド)の空(ハヌル) 晴れわたるー
 巫堂(ムダン)(シャーマン)ふうに謎めいた一句を法廷いっぱい響かせて、木下女史の不思議な証言は終った。憑きものが落ちたように、彼女の顔は晴れ晴れとして、至極、満悦であった。
 満悦どころでないのは、弁護団。浅戸弁護人によれば、羽山先生は、木下女史の証言、絶品だった、とほめたたえたそうだが、ひきつづき証人申請した吉本社長は却下されてしまった。そればかりでなく、すでに申請済みでおおいに脈があると思われていた作家・金万徳氏についても、裁判所は却下してきた。在日朝鮮人作家を代表する金万徳氏には、植民地支配にはじまって戦後から現代にいたる日本国家の歴史を完膚なきまでに告発してもらうはずだったので、たいへんな痛手だ。
 裁判長はどうやら、証人・木下女史に度肝を抜かれ、恐れをなし、うんざりし、修復しがたいほどに心証を害したらしい。
 というわけで、証人調べ、証拠調べの道は、一切、閉ざされたまま、結審となったわけだ。
 検察側の求刑は、懲役六年の実刑。これに対し、弁護側は、最終弁論で再度、情状酌量を主張。情状の主張については、羽山先生自身は不満で、裁判のあいだ終始、弁護人に抗議してきたそうだが、弁護団も最後は尻(けつ)をまくるかたちで羽山先生の意向を無視した。
 検察側求刑の懲役六年は、裁判所としてもよしとしないだろう――というのが弁護団の読みでもあったが、羽山先生と木下女史をのぞけば、誰もが暗澹たる予感につつまれて、判決の日を待った。すでに二十数年を経たとはいえ、羽山先生には前科があり、今回の公判は終始、裁判官の心証を害するに充分だった。
 一九九二年四月一九日、奇しくも羽山先生の誕生の日、名古屋地方裁判所の判決が言い渡された。
 懲役三年。累犯デアルコトヲ考慮シテモ、情状ノ余地ハ残サレテオリ、未決拘留日数二一〇日ハ量刑ニ算入サレル。裁判ニカカル費用ハ被告人ノ負担トスル
 判決後の報告集会の席、浅戸弁護人は、同種事例としては軽い刑であり、情状を求める弁護方針が功を奏した、と自画自賛した。韓成徳青年、ササニチロー三人組をはじめ、控訴を主張する意見が弁護団の評価をしのぐ勢いであったが、数日後、控訴せず、の方針が決まった。羽山先生の意向であった。
 被害者・黒野忠義の側も、二代目義一郎氏がすでに国政の場で活躍しており、係争を長びかせるのは賢明でないと判断したか、遺族の意を汲んで検察側は控訴せず。第一審で羽山先生の刑は確定した。


 私がはじめて岐阜刑務所へ面会に行ったのは、羽山先生が収監されて二週間ほどのち、五月の風が快い日だった。
 面会人控室で待つあいだ、私の気分は平静ではなかった。向かい合せのベンチに、嫌味なく上品に化粧をほどこして白髪も見事な初老の婦人と、町役場の下積み職員がぴったりの役どころといった男性がいて、場所柄にふさわしく寡黙なのに、私と隣り合せた若い男は、パンチパーマにサングラス、白地の三ツ揃いを気障に着こなして、ひと目で極道の若い者(もん)。組長だか兄貴分だかの差し入れに来たのだろうが、ひっきりなしに部屋のなかをうろちょろし、口笛を吹き、指を鳴らす。はちきれそうな大きな紙袋を携行していて、意味もなくその中をガサゴソのぞく。
 私の苛立ちがつのるのは、そのせいばかりではない。なにしろ、受刑者と面会するのは初体験。まだ二週間とはいえ、務所暮しで殺気立っているにちがいない羽山先生と顔合せて、どんな態度をとればいいか。ヨッ、羽山先生、と掛け声をかけて手を振るわけにもいかないだろう。テレビ・ドラマ調に、二人をへだてる金網かなにかにすがって、ヨヨと泣き崩れるなんて論外。まぁ、出たとこ勝負いがい、手はないとして、面会のあいだ何を喋れば様(さま)になるか。羽山先生、なぜ控訴しなかったのです、裁判もこれからが見物(みもの)と期待してたのに。一番、気にかかっていることといえばそのことだが、そんなこと訪ねたとたんに、桐山事務局長、おまえ傍聴席で眠っとったのか、と一喝されるのが落ちだろう。結審の日、羽山先生が滔々と弁じた陳述のなかに、その理由は明らかなのだ。
 検察側論告求刑にたいする弁護人の最終弁論が終るやいなや、羽山先生は満を持していたかのようにすっくと立ち上がる。
 裁判長、わしにも一言・・・・・・
 重々しく切り出すなり、しばし瞑目。やおら語りだす。
 ひとの命は、人類の歴史より重い! とは、かの有名な哲学者マクドナルドの言葉だ。(マクドナルドという哲学者の名前ははじめて聞くが、私の耳にはたしかにそう聞こえた)わしはさらに付言して、こう言いたい。木木のいのち、花花のいのち、虫虫のいのち、魚魚のいのち、水水のいのち、土土のいのち、生きとせ生きるものすべての生命は、価値、空より高く、いわんや人間の生命をや、と。
(羽山先生、裁判官席から弁護人席へ、さらに検察官席からふたたび裁判長へと視線をめぐらす)
 空よりも価値高く、海よりも意義深い、わが父たち、わが母たちの命をうばいつづけたのは、どこの誰か? うむ、あまつさえ、わが息子たち、わが娘たちの命をうばいつづけているのは、どこの誰か?
 裁判長、いまから七年まえ、いささか古い話だが、わしはある少年のことを話したい。この地で生まれ、この地で育ち、日本の高校へ通っていた少年の死について、だ。彼は、日本人の友とともに日本人として生きるべきか、父母の意をついで朝鮮人として生きるべきか、悩みに悩んでいた。あまりにも無垢な青春の苦悶。耐えに耐えたすえ、少年は首を括って死んだ。その日は、彼の十六歳の誕生日、すなわち生まれて初めて指紋をとられる日だった。それだけではない。ある警察の偉方(えらがた)が、日本の法律を守れないなら、とっととくにへ帰れ、と説教たれて騒ぎになった次の日のことだ。自殺の現場には、外国人登録証と夏目漱石の「こころ」が残されていた。
 あの少年を死に追いやったのは、裁判長、どこの誰かね。わしは断乎、宣言する。少年の命をうばった輩(やから)に報復する権利が、わしらにはある! と。裁判長、そうは思わんかね。
(羽山先生、返事やいかにと待つがごとく、胸のうちで自問自答するがごとく、裁判長を見据える)
 黒野忠義は、あの一言をもって、わしの心を殺した。同情を買うつもりなど毛頭ないが、わしに殺意はなかった。殺意はなかったとしても、あの男がわしの手にかかって命絶えたのは、天の配剤というべきだ。裁判長、再度、宣言する。わしらには、우리(ウリ) 할아버지(ハラボヂ)、우리(ウリ) 할머니(ハルモニ)、우리(ウリ) 아버지(アボヂ)、우리(ウリ) 어머니(オモニ)の命うばったウェノムどもに報復する権利がある。
 しかし、だ。かけがえのない命、うばわれたからといって奪いかえすというのでは、こりゃ、理に合わん。わしがこの手で黒野忠義を死にいたらしめた事実、これは拭うことはできない。いかに黒野の命運がわしの手にかからずとも風前の灯であったとしても・・・・・・よって、わしはいかなる裁きをも甘んじて受ける覚悟だ。
 裁判長、羽山英雄の・・・・・・ふむ、リー・スウンの、この胸のうち、分かるか!

「なんじゃい、おんどりゃ、おれにイチャモンつけとるんか」
 鼓膜をつんざくばかりの声が、いきなり耳に飛び込んで、私は我にかえった。パンチパーマに墨眉毛の顔が、にゅーと目のまえに突き出した。
 どうやら私は、公判の記憶を回想しているうち夢うつつの気分になり、それとは気づかずに若い衆(しゅ)の顔をしげしげ眺めていたらしい。そのうえ、羽山先生の気魄が乗りうつったのか、法廷での彼の叱声を寝言みたいに口走ってしまったようだ。パンチパーマの顔――こわもてをはって凄んでみたものの腰くだけて半製品といった案配の顔を、鼻先に見て、はじめて私は事の経過に気づいた。
 いや、どうも、どうも。イチャモンなんて、つけるもなにも、見たこともありませんで。つい、よそごとに夢中になって、失礼、失礼。私は、相手の口臭がまともに鼻孔をおそってくるのを避けて身を退きながら、しどろもどろ弁解する。それがどうもいけないらしい。パンチパーマは墨眉毛をピクピクつりあげ、笠にかかって迫ってくる。私の体はベンチの端からずり落ちそうになり、やむなく立ち上がるが、相手はなおも執拗だ。
 壁ぎわに直立不動の姿勢を余儀なくされた私は、情なくも、心中、南無阿弥陀仏を唱える心境で斜向かいのベンチを見やるが、町役場の下積み職員ふう男性は、顔面蒼白とはいえ成りゆきやいかにと好奇の目も露骨にこちらを見ている。白髪の見事な老婦人はといえば、心そこにはあらずといった表情で床に視線を落としたまま、物想いに沈んで私ら二人のもめごとなど無視。
 不意に、生(なま)あたたかい感触が、両頬をべとりとつつむ。パンチパーマの両手が私の顔を挟み打ちにして、後頭部が壁に当たらんばかりに突き上げる。三十六計逃ぐるに如かず・・・・・・
「おんどりゃ、わしを花木の若い者(もん)と知ってイチャモンつけるんかい」
 私がパンチパーマの両手を振りほどいて、一歩、身をひるがえすのと、彼が叫ぶのとは、符節を合わせるように同時だった。
 花木の若い者(もん)? 私の顔面を掠めたその一言をスェーバックでかわした、次の瞬間、私の右拳(こぶし)に痛みをともなわぬ抜けるような感覚が閃いて、パンチパーマの体が床に崩れ落ちた。膝を折るふうに縦に崩れ落ちて、ゆっくりと仰向けに伸び、ワン、ツー、スリー・・・・・・私の頭のなかで秒を刻む時計が、きっかり一〇(テン)カウントを数えたとき、パンチパーマは目に生気をよみがえらせて機械仕掛けの動作で身を起した。
 騒ぎに気づいて、席を外していた刑務所職員が控室へ駆け込んで来る。そのとき、パンチパーマは夢から覚めたふうにキョロキョロと室内を見まわしており、私はといえば、みずからのうちに秘められた才質らしきものを、三十数年ぶりに思いがけず発見して、桃源の境をたゆたう気分だった。
 五十歳をすぎて、私の脚は撓(しな)やかさのシの字もうしない、棒っ杭同然。いや、五十歳どころか、三十歳をすぎた頃から、脚萎(な)えの徴候は歴然だった。日夜の酒三昧。かてて加えて、売れない作家とはいえ、小説書きのはしくれ、机のまえに坐して時を過ごすなりわい。
 売れないから書けない、書けないから坐して徒らに時間ばかりをやりすごす。売れない・書けない・やりすごすの三段論法の結果、脚は萎える。かつてリング上を羚羊のごとく自在に疾駆したフットワークは、昔日の夢。
 しからば、パンチは? 健在だった。適格な距離。正確な角度・絶妙のタイミング、三拍子揃って、ナックル・パートが相手の急所をとらえれば、確実に一〇秒間、敵は倒れる。三十数年、ペンとウィスキー・グラスより重い物を持つことのなかった私の右拳が、見事、それを証明した。サウスポー・スタイルの私にとって、フック気味に放す右のカウンター・パンチは、必殺とまではいかないが、しばしば相手をリングに這わせたものだ。五十四歳にして、その日が蘇ったのだ。私がしばし陶酔の境をさまよったとして、咎(とが)となろうか。
 この一件によって、パンチパーマともども面会許可を取消されたことに、私は心底、不満である。駆けつけた刑務所職員が「受刑囚の妻(おっかあ)と愛人(イヤージン)が鉢合せして武闘になったことはあるがのん、男同士の痴話喧嘩は珍しいわなも」と呆れたとしても。
 そもそも、パンチパーマと私が鉢合せする事態を招いたこと自体、当局に非がある。つまり、羽山先生と花木を同一の刑務所に収監するといった措置こそ、責められるべきなのだ。
 そんな事情を知らぬ羽山先生から、事務局長・桐山二郎殿宛て、叱責の手紙が届いたのは、数日後である。

 前略
 五月は一番明るい季節だというのに、わしの心は曇っておる。務所暮しのせい? たわけたことを。天涯孤独、とうに肝をくくっておるわしに、別荘も娑婆もあるもんか。
 心、晴れやらぬ原因は、桐山君、きみにある。木下女史、吉本社長、安本支配人、わが同胞たちは、すでに一度ならず面会に訪れ、わしを慰め、励まし、誠意のほどを示しておる。しかるに君は手紙一本よこさん。桐山二郎よ、おまえもか。所詮、薄情な日本(イルボン)野郎であったか。
 相変らず売れもせん小説とやらにうつつを抜かし、あまつさえ酒三昧。わしの存在など、どこの空の知らぬ半兵衛と、忘れてしまったとでもいうのか。
 鶴首して、待つ。
 桐山二郎事務局長殿

 単刀直入、まことに簡にして潔な文面であった。いかにも羽山先生らしい。読み終って思わず苦笑したが、いや、待てよ。歯に衣着せぬ叱責調はまさに羽山先生の独壇場だが、どこか湿っぽい、うらみがましい。
 薄情なイルボン野郎? その一行がどうにも気にかかる。気にかかりだすと、天涯孤独だの、肝をくくるだのの文言も、感傷めく。豪気のうらに弱気がちらつく。ましてや、慰められたり、励まされたりを求めるひとではない。さしもの羽山先生も・・・・・・
 急かされる思いで、私は便箋にむかった。

 五月(さつき)晴れの空の下、知多の海にはさわやかな風が吹く今日この頃ですが、あなた様にはお元気にお過ごしのことと存じます。小生も恙(つつが)なく暮しておりますゆえ、他事ながらご安心ください。(ふむ、獄中にいるひとにこのような挨拶はどんなものかな。それになんとも陳腐このうえない。そう思ったとたん、私の気持のままにペンはにっちもさっちも動かなくなる。しばし思案のすえ、エエイ、ままよ)
 お手紙拝見いたしました。不義理の段、弁解の余地なく、ご立腹はもっともでございます。じつは、小生、目下、鋭意、創作のほうに精励中でありまして。けっして酒三昧などの叱責はご無用に、念のため。と申しますのは、この間(かん)の裁判におけるあなた様の活躍と勇姿、なかんずく司法権力の権化ともいうべき裁判長を向こうに廻しての弁舌のあざやかさには心底、感動し、なんとしてもあの場面を小説に再現し、衆目のために伝えたいとの願望やみがたく、日夜、原稿用紙と首っぴきという次第であります。(私の指先でペンはよろめき、筆跡は乱れ、ふたたび動かなくなる。腐っても鯛、これがモノ書きの手紙なのだろうか。清冽なる抒情とまでは望むべくもないとして、あまりに稚拙。味も粋もない。思案のすえ、本屋へ走って誰か有名作家の書簡集でも拝借を、との邪念が浮かぶが、それだけは思いとどまり、ふたたび、エエイ、ままよ)
 まことに穴があったら入りたい心境ですが、意のあるところをお汲みいただき、いましばらくの猶予をいただきたく存じます。執筆の寸暇をぬって手紙差し上げるよう務めますゆえ、何卒、寛容のほどを。
 あなた様も、くれぐれもご自愛なされ、またそちらの様子などお伝えいただければ幸甚に存じます。                                草々
 羽山英雄殿

 こんな場合は、長居は無用。私は早々にしっぽを巻いて、手紙を投函した。
 面会禁止のいきさつについて一部始終を説明し、釈明したいとの気持はなくはなかった。いや、沸沸とたぎる欲求として、あった。一件さえ伝われば、羽山先生は、薄情な日本野郎の一句を撤回してくれるかもしれない。しかし、花木が岐阜刑務所に収監されていると知ったなら、何が起こるか。面会禁止の一件を羽山先生に伝えるわけにはいかない。
 それにしても、私はなぜこのように羽山先生に弱いのだろう。直接対面の場においては言わずもがな、手紙を書いてさえ心身ともに萎縮してしまう。アメリカの大統領に睨まれた日本の総理大臣の比でさえない。
 そんな自分への嫌悪がめそめそと尾をひき、ようやく消え去ったころ、羽山先生が第二便が届いた。

 前略
 手紙は届いた。しかし、肝心要(かなめ)のものが届かぬ。宅急便? あほ抜かせ。(羽山先生は便箋にむかって文字をつらねるということが苦手らしい。私と仮想の対面をしながら手紙を書いているようだ)顔だよ、顔。桐山君、きみの顔が届かぬ。そのきみの、でれーとした顔を見せなくて、どうする。わしと面会すれば、きみの顔もいますこし引き締まるだろうに。顔が締まれば、小説も締まる。弁解たらたらの手紙をいくら書いたとて、屁のつっかいにもならん。小説は顔で書くものだよ、顔で。その真実が解らぬうちは、桐山君、きみは所詮、三文文士の仲間入りもかなわず、命運尽きる。
 古今東西の格言にもあるではないか。顔を洗って出なおせ! と。
 遙かなる鉄窓の内より、鶴首して待つ。
 桐山二郎事務局長殿

 羽山先生はいったい全体、何が言いたいのだろうか。羽山英雄を支援する会の事務局長として、私に指示すべきことでもあるのか。それならそれで、率直に手紙にしたためればよい。私の顔はたしかに人一倍ふとい眉毛が垂れ、脂肪のたまった目尻の瞼が垂れ、顎は垂れ――つまり、でれーとしている。だからといって、努力しだいでどうなるというものでもない容貌と、小説の巧拙を因果づけて云々することもなかろうに。
 手紙の検閲を惧れて、直接、伝えたいということか。どう思案しても、そのような○秘ごとは思いあたらない。獄中生活の孤独と寂寥感に耐えかねて、というのは、羽山先生にかぎって、いっそう、突飛な想像。小説書き桐山二郎の行く末を案じて、ということは、さらに、ありえない。
 あれこれ思いめぐらすうち、私が到達した結論は、下手(へた)な考え、休むに似たり。ともかく、私には面会がかなわぬという冷厳な事実を、羽山先生に伝えるほかない。
 一か月余まえの、面会者控室におけるパンチパーマとの一件を書く。簡潔に、具体的になりすぎないように、ぼかし絵ふうの筆致で。かといって、抽象的にすぎても羽山先生の疑心を招く。余儀なく、右カウンター・パンチの一瞬にまでペンをすすめたのは、そのためだ。結審の日の羽山先生大演説の場面を恍惚と回想していたくだりには、特別、気を入れた。そして、なによりも弁解たらたらの轍を踏まないためにドキュメンタル・タッチに徹し、・・・・・・というわけで、小生、面会のかなわぬ身なのであります。と早早に結んだ。
 パンチパーマの若者が花木組の若い衆(しゅ)であることは、勿論、伏せておいた。
 手紙を投函したあと、私は戦戦兢兢として羽山先生の返事を待った。私の手紙を不服として、さらに詳細な説明を求めてきたら、どうしよう。口が裂けてもパンチパーマと花木組の関係を隠しとおす自信は、私にない。うっとおしい梅雨の季節を、私は悶悶として過ごした。
 ところが、露が明け、酷暑の夏が過ぎても、羽山先生からの便りはない。いつしか羽山先生の手紙に合せて進行していた私の小説も、遅遅としてはかどらない。痺(しびれ)を切らした私は、羽山先生の様子を探る気分で、木下女史、吉本社長、安本支配人の顔を覗いて廻る。ところが、彼女・彼らは一様に、羽山先生の話題には口が重く、気のせいか、私に冷淡でさえある。薄情な日本野郎・・・・・・僻目と知りつつ、私は重い荷物を背負ってアパートへ帰るほかない、そんな日日がつづいた。
 羽山先生からの手紙が、不意打ちに届いたのは、秋風が身に染みる時季になってからだった。

 前略
 鉄窓から望む娑婆の空は、透き通るように青く、憂いを帯びている。運動のたびに目を楽しませてくれた金華山の紅葉もすっかり終りを告げ、監房のどこからともなく聞こえてきた蟋蟀の鳴き声も絶えて久しい。壁の中には、そこはかとない季節の哀愁が漂ってさえいる。
 だが、わしの心は最高に愉快なり
 韓成徳(ハンソンドギ)君は、じつに愉快な男だ。彼が突然、面会に来たのは、三週間ほど前だろうか。わしの顔を見るなり、羽山先生、お別れの挨拶に来ました、と言うではないか。すでに口もとは皺皺、目は赤味を帯びておる。何んのことか? 日本国に抗議して焼身自殺を企てようとでもいうのか。はたまた、こいつまでが何か仕出かして、わしの二の舞、あすにも豚箱へはいるとでもいうのか。実際、わしはソンドギの泣き面を見るうち、それ以外に思い浮かばなかった。
 ところが、朝鮮語を勉強するために、家族三人で、韓国へ行く、あさって発(た)ちます、と言うではないか。ソウルへ行って、妻の朴明姫(パンミョンヒ)は延世大の語学堂に通う、ソンドギは食堂か工場で働き、ミンシュウのなかにはいってウリマルとくにの心を学びたい・・・・・・そう語るうち、彼の顔はクシャクシャ、目からは涙がとめどなくポロポロ、ボロボロ。
 ソンドギのオモニいわく、アイゴ、この子はわしのお腹(なか)のなかで涙の川を渡ってきたよー。彼の泣き癖は先刻、承知のわしだが、言ってやったよ。ソンドガー、なぜ泣くか、前途洋洋、素晴らしい人生設計ではないか。すると、やつはこう言いよった。はい、嬉し涙です。
 わしは愉快でたまらず、下獄して初めて腹の底から笑ったよ。なに、ソンドギの返事が可笑しいって? そうではない、やつの心意気と実行力さ。わしの目に狂いはなかった。ハン・ソンドギ、やつは日本野郎の抑圧に負けない男だ。民族のこころを失わない男だ。わが在日同胞、新しい世代の道しるべとなって、ふたたび、かならずやこの地へもどって来る。あぁ、わしもあと三〇歳、若かったら!
 感慨に耽るうち、ふと、わしの胸に不安がよぎった。ソンドギよ、明姫さんが語学堂に通う、きみは働きながらミンシュウと共に学ぶ、まことに結構だ。ところで、息子のマンセ君は満三歳だ、誰が彼の世話をするのかね。
 すると、彼は鳩が豆鉄砲の顔でわしを見たよ。そして曰(いわ)く、あッ、そこまで考えませんでした。なんとかなるでしょ。マンセがウリマル覚えるためにも、ぼくらが四六時中、面倒見ないほうがトクサクです。
 わしは、思わず唸った。無茶だ。わしがひとのこと言えた義理ではないが、無茶だ。
 だが、待てよ。見るまえに跳べ。ふーむ、なるほど。彼はやっぱり、わが同胞なり
 わしが手紙をしたためておる今頃も、彼ら三人はソウルの空の下、元気に学び、働き、暮しておるだろう。わしの心は愉快なり
 それにしても残念なのは、韓成徳君の壮行の会に参席できなかったことだ。さぞかし、盛大に執り行なってくれたことだろう。
 桐山二郎事務局長殿

 羽山先生からの手紙を読み終えて、私は、この四か月余り、面会禁止の件でさらなる追及を恐れて悶悶の日を過ごしたのは、何だったのだろう、と思う。強烈な肩すかしでも喰らったように、一件には片言半句、触れられていないではないか。だが考えてみれば、一事にくよくよとこだわらない、あるいは掌を返す、というのは羽山先生、生来の癖ではないか。羽山英雄の自伝執筆の約束もそうだった。朝鮮人半田空襲犠牲者鎮魂碑の建立準備の場合もそうだった。羽山先生の叱責に怯え、みずからの無能を恨み、意を決して弁解のために事務所を訪ねれば、ものの見事にはぐらかされる、そんな経験は再三あった。
 それで今回も拍子抜け? 飛んでも八分(はっぷん)、歩いて一時間だ。手紙を読みはじめるなり、闇夜に後ろから後頭部をしたたかにどやされた心境。韓成徳君が韓国へ、だって? 壮行会だって? 寝耳に水。ソンドギ君とは、たびたびとはいかないまでも、羽山先生下獄以来、支援する会事務局で数度、顔を合わせているのに、彼は噯(おくび)にも出さなかった。
 私は早速、安本支配人に電話を入れた。
「ソンドギ君が韓国へ行ったそうで」
「うん、行った。彼は、韓国へ行く、とは言わず、帰る、と言ってたがな」
「それで、壮行会は? なぜ声をかけてくれなかったの」
「壮行会? そんなもん知らん。そういえば、吉本社長の肝入りで計画したらしいが、ソンドギ本人が断った。やつはとびきりのインテリだからな、わしらを古いパターンの在日同胞だと思っとる。知的教養のかけらもない、金の亡者とでも思っとる。ひょっとしたら、極道の親戚くらいに考えとるのかもしれん。まぁ、とにかく、わしらのことは敬して避ける、という態度だな」
「じゃあ、なんで面会にまで行って羽山先生には別れの挨拶をしたの」
「なぬ、初耳だ」
「羽山先生、いたく感激しとった、手紙で」
「そうか、羽山先生が感激したか。結構、結構」
 電話を切って、肩の荷がいくぶん下りた。
 念のために吉本社長にも電話する。彼は安本支配人のように余計なことは言わなかったが、壮行会の件はほぼ符節が合っている。壮行会は行われなかったのだ。しかも、韓成徳君自身の意向で。なによりも私が除け者にされていたわけではない事実が判明して、ホッとする。本人の意向とあれば、羽山先生に申し開きも立つ。あわや、またも羽山先生にたいし内緒事を抱え込むところだった。
 私は勇躍、便箋にむかう。韓成徳君本人が壮行会を辞退した件(くだり)は、安本支配人からの伝聞ではなく私自身が直接聞き、説得したが叶わなかった、という筆致(タッチ)で書く。彼の訪韓についても先刻承知していたごとく、におわせる。我ながら巧く書けた。
 余勢を駆って、私は仮出獄の件についても書く。浅戸正嘉弁護士ら弁護団は、岐阜刑務所長に対して羽山先生仮出獄のための働きかけを話し合っている。未(いま)だそのための申請をするか否かを検討中の段階らしいが、私のペンは調子に乗って、仮出獄申請の準備をすすめている、といった具合に滑る。
 何事につけ早飲み込みを特技とする羽山先生のこと、明日(あす)にも出獄、と勘違いしたらどうしよう。手紙を投函する段になって、そんな心配が私の脳裡を一瞬、掠めたが、エエイ、ままよ。

 羽山先生から私宛て四通目の手紙が届いたのは、師走にはいって縄のれんで飲む熱燗の味がひときわ胃に染みわたる頃だった。

 前略
 獄窓の寒さは、なるほど聞きしに勝るものだ。朝、晩は、とくに堪(こた)える。伊吹颪が、胃の腑の中にまで吹き込んでくるようだ。この季節、使役の時間が待ち遠しい。印刷工場で折りの仕事をしているが、労働はまことに尊い。
 話は変わるが、わしは怒っておる。何を?
 言わずと知れたこと。韓成徳(ハンソンドギ)君壮行会の件じゃよ。本人の意向で、取り止めた? なにを薄情なことを言うとるか。本人がどうであれ、手足を抑えつけ、首に縄を掛けてでも引っ張ってきて開催するのが、友情というものではないか。
 否、友情の問題ではない。今回のソンドギ青年の行動は、民族的事件ではないか。わが在日同胞がいかに未来を展望して生きるか、その命運がかかっとる。彼のために盛大な壮行会を催すことは、日暮れ、腹減り生きてきたわしらが精神(チョンシン)入れ変える絶好の機会ではないか。ソンドギ青年の行動を思うにつけ、わしは慙愧の念に耐えん。あぁ、わしの過去は何であったのか。五十七年の歳月は、何であったか!
 わしは怒っておる。そのふたつ。先般の手紙によれば、この羽山英雄のために仮出獄の準備をしているだって。要らぬお世話だ。そのような謀い事は、早早に取り下げて貰いたい。わしはいま、出獄するわけにはいかんのだ。
 わしは怒っておる。そのみっつ。刑務所というところは、聞きしに勝る魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界じゃよ。何がって? 差別という魑(ち)が、偏見という魅(み)が、跋扈しておる。偉方のなかに。看守のなかに。そればかりではない、わが収監者のなかにさえ跋扈しておる。これを退治せずして、どの面(つら)下げて、朝鮮人でござい、と胸を張れるものか。わしは、スゴスゴと尻っぽを巻いて出獄するわけにはいかん。
 ところで、わしの体重は近頃めきめきと増えておる。下獄するとき九〇キロだったのに、八カ月を経た今日この頃、八キロも太った。断酒、禁煙、運動不足の三拍子がたたっているらしい。
 桐山二郎事務局長殿

 手紙を読み終えて、私は、背筋をうすら寒いものが走るような、不吉な予感を覚えた。
 壮行会の件でのお叱りは、当方の当てが見事に外れたとはいえ、まぁ、よしとしよう。いささか誇張のきらいなしとは言えないが、羽山先生の言分には一理ある。叩頭して叱責をやりすごそう。
 問題は後段の件(くだり)である。差別の魑(ち)とは、何だろう、偏見の魅(み)とは何だろう。何が刑務所内を跋扈しているというのか。
 民族差別の類を羽山先生が見聞したらしいことは察せられる。が、具体的な事例は記されていない。そこがいっそう薄気味わるい。仮出獄の話にはおおいに歓心を示すと思いきや、それをも拒否する羽山先生の決意とは何だろう。何を退治するというのか。
 思いめぐらすほどに不吉な予感はつのって、私は吉本社長らと浅戸弁護士に手紙を見せる。鳩首凝議(ぎょうぎ)。羽山先生の真意のほどは誰にも明確にしえなかったものの、彼が何かを仕出かすにちがいないという不安の一点で、皆の気持は一致する。羽山先生自身の意思と反するのもやむえず、浅戸弁護士が早急に岐阜刑務所長宛て仮出獄の申請手続きをすることになった。吉本社長らも、面会の折に様子を探り、計画を思いとどまるよう、ほのめかす。
 私はといえば、年が明けて正月早早、暗に一同の意を体した内容を手紙にしたため、羽山先生宛に送った。
 きびしかった冬の寒気が緩み、爽やかな風とともに桜の花が咲いて、散り、五月晴れの日を楽しむ暇(いとま)もなく、梅雨の時季がやって来た。それなのにどうしたというのだろう。羽山先生からの音信は、杳として途絶えている。
 浅戸弁護士や吉本社長らの情報によれば、羽山先生が刑務所で何事かを起こした気配はない。だからといって、不吉の予感は私から去らない。時として、生(なま)なましい幻想の場面となって、脳裏に到来するほどだ。居ても立ってもいられなくなって、私は羽山先生への面会申し込みを決意する。パンチパーマとの一件以来、一年以上が経っている。もしかして、岐阜刑務所の私にたいする面会禁止処分は解かれているかもしれない。羽山先生も言ったではないか、見るまえに跳べ。
 さて、面会はいつにしよう。暦をめくる気分も逸(はや)る、ある日、羽山先生から七か月ぶりの手紙が届いた。

 前略
 梅雨の季節は、壁の中の暮らしも尚更に滅入る。わしの人生は、一体、何だったのだろうと、反省しきりな今日この頃だ。
 青二才の頃よりいっぱしのやくざ者を気取って、日本野郎どもを従えることこそ朝鮮人の心意気、と思いなしたのが、そもそもボタンの掛け違いだった。弱冠三十二歳にして新興暴力団の組長を殺(あや)め、無事、お勤めを済ませて出所するなり、徒手空拳、羽山一家を興し、命を的(まと)に、飛ぶ鳥落とすいきおいで勢力を伸ばしていったのも、日本野郎どもの頭上に君臨するためであった。縦横無尽、ありとあらゆるあくどい手、使いまくり、財を成していったのも、欲のためにあらず。金こそ力なり、日本野郎に目にモノ見せるには金に勝るものなし、と信じていたからだ。
 方針転換、政治への道こそわが命、と天啓を受けたのは、男の厄、四十二歳の春だった。当時、金できんたま摑んでわしの後ろ盾にしていた黒野忠義にゴリ押し、強引に帰化を実現させたのも、国政へ打って出るため。政治権力を手中にすることこそ、日本野郎を平伏させる道、朝鮮人の誉れ、と信じたからだ。
 あぁ、なんと愚かな! 羽山英雄は頭のてっぺんから足の爪先まで過誤の地獄に陥っていたのだ。桐山事務局長よ、リー・スウンは在日五十八年にしていまこそ、朝鮮民族の誇り、生きる道に開眼したと知れ。
 諸君は、わしの行状を疑心暗鬼し、浅戸弁護士を唆(そそのか)して、ここの所長に仮出獄の工作をしているそうではないか。面会の折、木下女史が洗いざらい話していったよ。木下女史は実にいい女だ。
 お節介は無用。わしは易易とここから出るわけにはいかん。所長と一戦まじえねばならない。
 なぜか?
 所長、曰(いわ)く。朝鮮人受刑者の存在は所内の秩序維持にとって頭痛の種である。外国人受刑者のみ別個に収容する施設を設置すべきだ。
 七月一日現在、体重一一一キロに達する。
 桐山二郎事務局長殿

 私は、羽山先生から久々に届いた手紙をポケットに、吉本土建へ駆けつける。折よく事務所にいた吉本社長は、手紙を一読するなり、
「ふーむ、羽山先生、開眼、というわけか」
 と、まんざらでもなさそうに表情を崩す。
 なにを悠長な。私は気分を損ね、短兵急に善後策を問う。
「一日も早くリーを出獄させるほかに手はない」
 吉本社長の返事は明解だ。
 早速、浅戸法律事務所へ電話を入れる。女性事務員が出て、「先生は来週の月曜日まで東京へ出張です」
 弁護士仲間と一緒に済州島へでもゴルフツアーか、などと腹立ちまぎれの邪推をするが、それは口にせず、連絡あり次第、羽山英雄仮出獄の件で桐山から至急の電話あったこと伝えてください、と丁重に頼む。
 事務所に残って吉本社長としばし対策を相談。
「岐阜刑務所へ、はやりのデモでも駆けようか」と私。
「何をたわけたことを。市民運動とやらにかぶれたか。餅は、餅や。弁護士に任せておけ。きみの役どころは、手紙。しかり文の力でリーの心を引き止めること。売れないとはいえ、モノ書きのはしくれではないか」
 吉本社長に一蹴されて、早早に事務所を辞す。
 まことに、吉本社長の言う通り。今回の羽山先生の手紙で、彼のターゲットが岐阜刑務所長であることは、はっきりした。手紙の末尾にぶっきらぼうに記された所長発言が、何時(いつ)、何処(どこ)で行なわれたものか、羽山先生自身が耳にしたものか、あるいは何かの文書で目にしたものか、はたまた伝聞なのか、一人よがりの妄念なのか――不明な点は多多あるが、いずれにしろ、羽山先生が、所長と一戦まじえようと虎視眈眈であることは、まちがいない。羽山先生、早まってはならない、平静であれ。手紙で訴えることこそ、私の役どころにちがいない。
 手紙の内容をあれこれ思案するうち、私は思い立って羽山商会に寄る。羽山先生を支援する会事務局長の手当は、毎月末に受け取ることになっているのだが、一週間以上過ぎたのにそのままになっている。事務局等としての任務をほとんど果たしていない私。手当を渡すとき、安本支配人が必らず付け加える皮肉が煙たくて二の足を踏んでいたのだが、とうとうふところが底をついた。今晩飲む酒代も覚束ない。
 幸運にも、安本支配人はパチンコ富士へ出張っていて、不在。金庫番の金山嬢から手当を受け取ると、退散する。
 おれは、何をさしおいてもアパートへ帰り、羽山先生へ手紙を書くべきだが・・・・・・内心の声に責められつつも、私はポロシャツの胸ポケットでホカホカ呼吸する封筒の中身に誘惑され、灯(ひ)を入れたばかりの赤提灯にはいる。
 私にとって、金を持つこと、即ち罪、かもしれない。小心者ほど、酒がはいれば気が大きくなる。飲むほどに酔うほどに、この世は薔薇色。最初の店か二軒目あたりで連れ立った見知らぬ男と、何軒目かの韓国ふう居酒屋で別かれ、タクシーを求めて深夜の街路を彷徨っていたあたりまでは、映画のカット・バックのように記憶の断片が明滅する。
 車を降りた記憶も、玄関をはいった記憶もない。それなのに、いきなり私は、ソファーに掛けている。安アパートの部屋ではない。卓子といい、ソファーといい、壁の掛軸といい、豪華な応接間。
 ばかたれ! わしらをガス室にでも入れようと言うのか。
 突然、部屋が崩れ落ちんばかりの大音声が耳をつんざいた。驚天して振り向けば、巨大な男がソファのどまんなか、数人分を占領して構えている。怒鳴られた相手は、白面、大学の新進教授といった風貌だが、細身の体を立派な飾りのついた制服につつんでいる。大男の暗暗とした影が、制服の男を鷲摑みするように覆う。
 一メートル九〇センチ、一一一キロ、この巨体で殴打したなら、制服の男はひとたまりなく息絶える。私は、不意に思い浮かんだ数字に虚を衝かれ、大男と制服のあいだに割ってはいろうと焦るが、泥酔の底の意思のように体は動かない。
 所長、もう一度、訊ねる。わしらを特別の施設に収容するとは、どういうことか。その施設にガス室を設けるのか。
 きみは誇大妄想にかかっている。わたしは、きみたちをほかの収監者から守るために、言っている。日本国の刑務所が秩序正しく運営されるためには、きみたちを属する国の刑務所へ移送するか、それが不可能なら独立の施設を設置するのが次善の策である。
 突如、巨大な鳥が羽撃くように大男の体が躍って、卓子の上に屹立した。
 羽山先生! 早まるな。私は必死に叫ぶが、声にならない。彼を制止しようと渾身の力でもがく。だが、私の手足は金縛りのままだ。
 制服の体がソファーから撥ね飛ばされ、背後の壁に激しくぶつかってもんどり打つ。
 夢のなかで、酔いが急激に醒めていく。

 便箋にむかう宿酔の頭は、昨晩の金縛りさながらにっちもさっちも動かない。夢とも、泥酔の極の幻想ともつかない出来事に急かされて、一刻も早く手紙を書き、投函しようと焦るのだが、ペンの先さえ、すすむどころか、ヨロヨロと後退りする。止むを得ない。意を尽した手紙は後日を期することにして、切羽詰った思いだけを走り書きする。
 前段に、刑務所長の発言が何時(いつ)、何処(どこ)でなされたものなのか具体的に知らせて欲しい旨を記し、つづけた。

 というわけで、所長発言の具体的な情報が入手できれば、われわれ支援する会としても事実を確認し、弁護士会の協力なども得て、所長および法務当局に厳重抗議、発言の撤回と謝罪を申し入れる方針です。否、単に申し入れるのみでなく、必ずや謝罪させます。
 羽山先生、問題はあなた個人の問題ではなく、社会問題です。したがって、くれぐれも深慮に努め、短兵急な行動はなさらぬよう。短期は損気、ペンは剣よりも強し、と言います。あくまでも非暴力で。そうです、あくまでも言論の力で、ペンの力で、われわれの正義を訴えましょう。
 尚、この訴えは、事務局長・桐山個人のものではなく、吉本社長、木下女史、安本支配人をはじめ、あなたを崇敬する一同皆の衷心からの進言であります。ソウルの空の下、韓成徳君も同じ気持でありましょう。
 羽山英雄殿

 羽山先生からの手紙は、思ったより早く、そろそろ九月の声を聞こうという残暑の頃に届いた。前回の手紙から一月(ひとつき)半、これまでの例からして間遠いとはいえないのに、文中、手紙が遅れたのは・・・・・・云云と、羽山先生らしくもなく弁解しているのが、私には意外に思える。

 前略
 酷暑のつづく獄窓より、桐山事務局長に苦言を呈する。
 君の手紙は何故、毎度、羽山英雄殿で終わるのか。誠に心外である。きみが手紙を読んでいるのか、わしは疑う。李秀雄(リースウン)は、齢(よわい)五十八歳にして見事開眼した、と伝えたではないか。今後、羽山英雄殿は無用に願いたい。
 尚、付足すれば、わが朝鮮民族(チョソンミンジョク)は、殿の呼称は用いない。貴下、あるいは선생님(ソンセンニム)で願いたい。
 苦言、其の二。
 桐山事務局長、手紙から推察するに、君は所長発言の真偽のほどを疑っているようだが、これまた誠に心外である。何時(いつ)、何処(どこ)で、とは何ごとか。事実を確認して・・・・・・云云とは何ごとか。この李秀雄を信頼できぬとでも言わんばかりではないか。
 よろしい。不本意ながら種を明かそう。
 わしが労役に出ておる印刷場に、ステファニー・レガードという碧い眼の神父がおった。この神父、イタリア人だが、すでに在日二〇年、日本語は多少の訛りを大目にみればペラペラだ。仔細は解からぬが、この神父、数え切れぬほど外国人登録法に違反して、とうとう裁判にかけられ、四万円の罰金刑を言い渡されたらしい。ところが、罰金は払わぬ。罰金の分、刑務所へ入れてくれ、と意地はった。差し押える物件も見当たらず、裁判所はやむなく収監手続きをした。念願叶って、一日二千円、四万円だから二〇日間の労役刑に服した。そこで、わしと出会ったというわけだ。
 この神父が外登法を破りつづける理由は、在日朝鮮人とレンタイするためだ、と言う。実に変な外人だ。わしが朝鮮人(チョソンサラム)と知るや、幸せの絶頂といった上機嫌の態で、友人(チング)になりましょう! わしも、変な外人、おおいに気に入り、ステさん、ステさんと呼ぶ間柄になった。
所長発言について教えてくれたのが、このステさんというわけだ。ステさんには    
        (この部分、検閲による抹消)という長たらしい名前の支援団体がバックにおって、そこからの情報とのこと。間違いはない。わしはステさんを友人として信頼しておる。
 わしはステさんと二人、断固、所長に抗議行動を決行するつもりだった。だが、残念、無念、ステさんは二〇日間の労役を終えて出所してしまった。
 やむなし、わしは孤立無援、単身で所長に謝罪を求める決心を固めた。手紙が遅れたのは、謝罪要求文の執筆に専念していて、そちらまで手が廻らなかったからだ。赦せ。
 桐山事務局長、わしは怒り心頭に発しておる。すでに三通も謝罪要求文を提出しているのに、梨の礫。所長はわしに会おうともしない。
 最後の手段に踏みきる段階に来たようだ。
 現在、体重一二〇キロなり
 桐山二郎事務局長殿

 最後の手段に訴える? 羽山先生が、最後の手段と言えば・・・・・・
 手紙を読み終えた私の背筋を寒気がはしる。夢の中とも、泥酔の底でともなく見た、禍(まが)禍しい幻想が、現実の場面のように甦る。
 さすが自他ともにゆるす無能事務局長とはいえ、拱手傍観を決めこむわけにはいかない。浅戸正嘉、南村美明両弁護士、吉本社長、木下女史、安本支配人そしてササニチロー三人組に急遽、連絡を取り、作戦会議を開く。私の切迫する気持が伝わったか、即日、全員が羽山事務所に顔を揃えた。
 席上、浅戸、南村弁護士は口を揃えて、刑務所長とはすでに何度も会って仮出獄の要請を行なっていることを強調、「明(あ)かない埒(らち)をこじ開けるには、みなさんのバック・アップが必要です」と言う。
 鳩首相談の結果、その方面では経験ゆたかな三人組の意見を容れて、署名活動を展開することを決め、後日、弁護士二名と事務局長・私が、署名名簿に要請文を付して、直接、所長に申し入れる。
 ただちに署名用紙が印刷され、羽山先生を支援する会が中心になって、集名活動にはいる。弁護士は弁護士で、ステファニー・レガード神父とその支援グループにあたって、所長発言の真相を調べる。
 一方、私は羽山先生に宛て、説得の手紙を書きつづける。

 残暑の中にも秋の気配が感じられる今日この頃、先生にはいかがお過ごしでしょうか。囚われの身となって早や一年五カ月、心労のほど同情の念に堪えず、只只、御健勝を祈るばかりであります。
 さて、私・桐山二郎、先生の真情察するにつけ、日毎、かのインド解放の父、マハトマ・ガンジーの姿を想い起こすのであります。大英帝国による植民地統治下の若き日、イギリスの大学を卒えて弁護士になったエリート、ガンジーは南アフリカで開業しました。当時、南アにはアジア人種法が布かれ、彼はその第一号として指紋を登録した。しかし、ガンジーはこれを潔しとせず、人種差別の象徴ともいうべき身分証を燃やして祖国の解放、人間の自由を宣言しました。以来、ガンジーは、他を傷つけず、みずからも殺(あや)めず、非暴力抵抗の生涯をつらぬきました。
 また、黒人解放運動の指導者として凶弾に倒れたマーチン・ルーサー・キング牧師もまた、非暴力抵抗の生涯をつらぬいて黒人の自由と解放への礎をきずきました。
 そして、いま一人、あなたの民族の偉大なる先達、韓萬海先生の生涯を想い起こすのであります。韓萬海先生は終生、長詩「ニムの沈黙」や言論をもって外敵に抗し、民族の独立を訴えつづけたのであります。
 先生、数多、燦めく星のごとく人類史を刻んできた非暴力抵抗の先達と共に、あなたが在ることを信じて疑いません。
 ペンは剣よりも強し、言論は暴力に勝る。
 どうか、この真理を銘記されて行動されんことを心底より願います。
 李秀雄선생님

 我ながら、空疎な手紙だ、と思う。なによりも、信じてもいない非暴力を聖人ぶって説いているのが、落ち着かない。だが、いまの私に、羽山先生を説得する手段は他にない。
 一か月ほどのあいだに同趣旨の手紙を三通書き、投函した。が、羽山先生からの返事は来ない。羽山先生が「最後の手段」に踏み切ったとの情報も、まだはいらない。
 羽山先生の仮出獄を求める署名は、一か月余のあいだに千名を超えた。この種の「政治的な活動」は初体験という吉本社長、木下女史、安本支配人も、今回ばかりは奮闘した。
 署名の蒐集と踵を接して、岐阜刑務所長発言の真相も明らかになった。浅戸弁護士が、教会を離れて寄せ場で日雇い労働をしながら宣教活動をしているステファニー・レガード神父に会い、情報の出所が外国人登録法拒否93共同行動という市民団体であることを知る。灯台、下暗し。同団体は十年近く前、いまはソウルにいる韓成徳青年が指紋押捺を拒否して起訴されたとき、その裁判を支援する目的で結成されたとのこと。活発な活動をつづけていたが、ここ数年、鳴かず飛ばずの状態で、せいぜい情報の収集程度の活動に甘んじているらしい。
 浅戸弁護士が同団体から入手した文書コピーによれば、所長発言が載ったのは「矯正施設の適正なる運用に関する提言」。法務大臣が全国の刑務所長から提言を募ってまとめた内部秘文書。刑務所長名になっているが、執筆は課長クラスの職員らしい。
 ともあれ、浅戸弁護士が極秘文書コピーにもとずいて所長への謝罪要求文を書き、千名を超える仮出獄要請署名とともに携えて岐阜刑務所を訪れる機は、熟した。

 淡灰色の塀に囲われた建物は、冬の弱弱しい日射しなどまるで受けつけず、暗鬱な表情で私たち三人を迎えた。市街地を離れて殺伐とした風景を吹きわたる木枯らしは、人びとがいとなむ日常の気配を臭いたりとも塀のなかにまぎれこませまいと、神経を棘立たせて建物を包囲していた。
 浅戸正嘉、南村美明両弁護士に従って私が通された部屋は、所長室ではなく、それと隣合わせた会議室。長机をつなげて設けられた矩形の席には、二十人ほどの人間が掛けられる。当方はたったの三名、刑務所側から大挙、押し掛けてくるのだろうか。一瞬ひるんだが、制服・制帽の男によって私たちが指示されたのは、衝立で隔てられた応接セットのほう。そこは小さな卓子をはさんで二人掛けソファが二脚だけ。つまり四人しか掛けられない。所長をふくめた四人が呉越同舟よろしく肩寄せ合うのだろうか。そんな私の思案を見透かしたふうに、制服・制帽の男が折畳み椅子を二脚、運んでくる。浅戸・南村弁護士が一方のソファに並んで掛け、私は壁に背を接する位置に置かれた折畳み椅子に掛ける。
 待つこと十分余、約束の時刻に寸分たがわず現れた二人連れの若いほうの男を一瞥して、私は吃驚仰天した。この男とは最近、会ったばかりだ!
 私を不意打ちに仰天させた男が南村弁護士に向い合せてソファに掛ける。随行してきた五十歳がらみの背広の男がそれに隣り合せて掛け、バインダーに綴じられた書類を膝に置いて早くも何かをメモする構え。二人の到着を待つあいだ立哨の姿勢で立ちつくしていた制服・制帽は、体が衝立のむこうにはみだす恰好で折畳み椅子に掛ける。
 たがいに名乗り合うこともなく、用件は事前に書面で伝えてあるからなのか挨拶もそこそこに、浅戸弁護士が革カバンから極秘文書コピーと謝罪要請文、それに一五一九名の署名綴りを取り出す。受け取る飾り付き制服の男を私はしげしげと眺める。
 全国指名手配ふうにいえば、年齢三十歳から三十五歳位。身長一メートル七〇センチ前後で痩せ型。色白で眼鏡を使用。一見、大学教授をおもわせる思索型風貌のインテリタイプ。
 その男が表情を動かすことなく、内部秘文書「矯正施設の適正なる運用に関する提言」コピーにチラリと視線をやり、分厚い署名用紙の綴じ込みを弄ぶふうにめくり、やおら謝罪要請文を読みはじめようとした刹那、私はすべてを理解した。
 あの夢の中とも泥酔の底ともつかない不思議な時空からふたたび私の前に現われた男は、B4一枚の紙にワープロ打ちした謝罪要請文を充分に時間をかけて読み終える。
 一見、大学教授ふう男は、顔を上げると二人の弁護士を交互に見やるが、口を開く様子はない。お先にどうぞ、というふうではない。白面に冷やかさを漂わせて、無関心ともみえる。
「そのコピーの文書に記憶がありますね」
 浅戸弁護士が業を煮して「矯正施設の適正なる運用に関する提言」のコピーを指す。
 一見、大学教授ふう男、無言。
「提言の日付は一九九三年三月一日となってるわ。一年と経っていないのに東京大学法学部出身の所長が忘れるはずないでしょ」
 名古屋大学文学部出身の南村弁護士が、意図不明の仕方で追及する。
 一見、大学教授ふう男は、虚を衝かれたようだ。
「謝罪要請の意味が、わたくしにはよく解りません。一体、誰に、何を謝罪すればよいのですか」
 大学教授ふう男は、言葉を発するまえに唇を実に見事なほど微妙に震わせたが、それにつづく口調に淀みはない。
「提言コピーに朱で罫線を引いてある部分を注目して下さい」浅戸弁護士が慇懃に言う、「外国人受刑者の存在は強制施設内の秩序を維持するに当たって由々しき問題となっている。当該受刑者を隔離して収容する施設の設置が急務と考えられる――と、所長は提言しておられるが、これは明らかに人権にかかわる問題ではないですか」
「ここに言う外国人受刑者は朝鮮人受刑者を指しているのよね。民族差別をしてるのよ」南村弁護士が追い打ちをかける、「所長は朝鮮人すべてに謝罪すべきね」
 大学教授ふう男は、飾り付き制服に包まれた一メートル七〇センチ前後・痩せ型の体を反らせ、これまで無視しつづけていた私に視線を投げる。微妙な唇振動とともに訊ねる。
「そちら、韓国の方(かた)?」
「桐山さんは日本人よ」
 私が応じるまえに、南村弁護士が答えた。
「日本人のあなたがたが、なぜ朝鮮人への謝罪を私に求めるのでしょう。良識の範囲をこえていますね」
 大学教授ふう男は、はじめて表情を動かし、不快な感情を白面に浮かべたが、一瞬ののちにはそれを消し去った。
「所長、この問題は日本人の問題ですよ」
 私が口を挟もうとするまえに、またも今度は浅戸弁護士に先を越された。浅戸弁護士の口吻に作意めいた響きが感じられ、鼻についたが、気の効いたセリフではある。私が応じたとして、はたしてこのように簡明な表現を口にしえたかどうか。
 大学教授ふう男が浅戸弁護士の言葉を解しかねて黙しているのに、横合いから割ってはいった南村弁護士が声のトーンを高める。
「所長さんね、あたしたちは代理人なのよ。現在収監中の羽山英雄からあなたに対し、再三、謝罪の要請文が出されているでしょ。それなのに、あなた、彼と会おうともしないそうじゃありませんか」
 大学教授ふう男の反応は、唇の振動も短かく、早い。
「南村先生、お言葉ですが、何か勘違いなさっていますね。羽山英雄から謝罪要請なんてものは出ていません」
 振り返った大学教授ふう男に隣り合せた随行の男が膝の上の書類から視線を上げ、大きく頷く。南村弁護士が声を飲み、その呼吸はリレー・ゲームみたいに浅戸弁護士を経て私の胸にも伝わってきた。
 気まずい沈黙をぬって、私は大学教授ふう男の表情を読もうとする。白面の表情は言うにおよばず、その裏側に隠された動揺の影すらも感じられない。この男の言に嘘はないのでは・・・・・・ふと、不吉な気分が掠める。まさか、羽山先生に足をすくわれたなんて、そんなはずはない。東京大学法学部出身、三十歳から三十五歳位にして刑務所長、二、三年後は本省へ戻り、トントン拍子に階段を駆け登って、やがては事務次官クラスからあわよくば国会議員へ、そんな男のこと、見かけによらずしたたか者かもしれない。
「所長さん、真実を言ってね。さもないと大変なことになるわ。あなたの職責に汚点がつくだけではすまないわ。進退問題にまで発展するかもよ」
 内心、埒もない自問自答に陥る私は、南村弁護士の声で我にかえった。端正な顔立ちにどこか少女っぽささえ漂う南村弁護士が、謝罪要請文の一個所を指さして大学教授ふう男に突きつけている。
 私の位置からその部分を読みとることはできないが、羽山先生が手紙で伝えてきた言動に触れ、暗に「最後の手段」をほのめかした個所にちがいない。要請文はそこで、貴刑務所の秩序と平穏を維持するためにも所長の謝罪が急務である――と強調している。
 大学教授ふう男は、先刻一読済みと言わぬばかりに要請文には目もくれず、表情を微動だに動かさない。自信に満ち満ちている。私ははっきりと気づいた。口を開く直前に見せる唇のピクピク症状は、けっして怯えのせいでも、緊張のせいでもなかった。単なる癖にすぎない。全国指名手配ふうに言えば、言葉を発するまえに口唇を微妙に震わす習癖がある、という一項目を追加しなければならない。
 所長の唇が小刻みに震えだす。しだいに波動を激しくし、これまでになく長い前触れののちに言葉は吐かれた。耳にした瞬間、私の胸の内で感情の蝶番(ちょうつがい)が音を立てて外れる。
「日本国の刑務所が秩序正しく運営されるためには、外国人受刑者を属する国へ強制送還し、その国の刑務所へ収監するか、それが不可能なら日本人受刑者とは別個の施設を設置するのが望ましい。南村、浅戸両先生、これは国家百年の大計であり、わたくしの信念です」
 重重しい声は、あの夢の中とも泥酔の底とも知れない不思議な時空からせり上がり、耳を打ってくる。私の体は折畳み椅子から浮き上がる。巨人の影が羽搏く鳥の翼みたいな力で私の体を包み込む。
 おぉー、ううぅー、ぐぁぐぁぐぁ、うおぉー
 叫ぶ。椅子を蹴散らす。ソファに飛び乗る。飾り付き制服の男めがけ躍りかかろうとする私を、まるで巨大な壁に四肢ごとぶち当たる瞬間の緊張がおそう。
「暴力は駄目よ! 冷静にしなさい」
 浅戸弁護士と制服・制帽の男に両脇を抑え込まれ、私は南村弁護士の異様に甲高い声を聞く。
 年が明けるなり、私は物怪(もののけ)にでも取り憑かれたように動き廻りはじめた。不思議な力が湧いてきたと言えば誇張になるが、どこからともなく迫ってきて私を衝(つ)き動かすものがいる。
 三日にあげず、羽山先生宛て、手紙を送り、まかり間違っても「最後の手段」に訴えることなどないよう説得、あるいは哀訴する。刑務所長宛て、自筆の要求書および嘆願書を送りつづけ、羽山先生を支援する会事務局長の名において謝罪および仮出獄の早期実現を求める。
 残余の時間を利用して、吉本社長、木下女史、安本支配人、朴龍寿老と相談をかさね、再三、会議を開く。面会作戦も活発にするよう、木下女史に依頼。ササニチロー三人組、キリスト教関係者、市民運動団体など駆けめぐって協力を得、三月一日には岐阜刑務所に近い公園で大集会を開き、刑務所までデモ行進をおこなって要求書および嘆願書を所長に手渡すことを決める。さらに吉本社長の発案により新聞社・テレビ放送局をめぐり、「矯正施設の適正なる運用に関する提言」をめぐって記者会見を行うことを約束した。
 東奔西走のあいだも私と酒の縁はけっして切れなかったこと、言うまでもない。適度の心身的疲労と、それを上回る充足感のなかで飲む酒は、ひたすらに美味い。したがって宿酔もなく、健康的このうえもない。
 名古屋地方裁判所司法記者クラブで記者会見が行われ、その記事と模様が新聞夕刊の社会面トップ記事および夕方のテレビニュースで報道された日、「提言」の内容紹介とともに大きく扱われた外国人差別・人権問題が先行き広げるにちがいない波紋に気をよくして、私はアパートの六畳間でウィスキー・ボトル片手に一人、祝杯を上げていた。
 旧式ダイヤル電話が鳴ったのは、テレビ画面からニュース番組が消えて間もなく。
「もしもし、桐山さん?」
「はいはい、桐山」
「わたし弁護士の南村」
「あぁ、名古屋大学文学部出身の南村先生」
「あなたたち、どういうつもりなの」
 アルコール症候群が快よく脳髄をめぐりはじめた私に、南村弁護士の質問がのみこめない。
「新聞もテレビも見たわ。あんなことして、わたしたちの顔に泥を塗る気なの」
「化粧をしてるひとの顔に泥の上塗りなんてしませんよ」
「あと一歩なのよ。所長の気持は動いているわ。もう一押しすれば、謝罪も仮出獄も実現するところまで来てたのよ。こんなことして、わたしたちの努力も水の泡・・・・・・刺激的すぎるわ」
「あの所長、刺激には強そうだけど」
「このまえはあんな失態しでかして、反省してないの。刑務所にデモする話も聞いてるわ。無茶よ。お願い、わたしたちに任せなさい」
「集会・結社・表現の、自・由・・・・・・」
「宣言するわ、絶交よ」
「はい、絶交で」
 南村弁護士が電話を切るのと、私が受話器を置くのとは、同時だった。

 去年の暮れ近く、浅戸、南村弁護士に従って岐阜刑務所を訪ね、直接、所長に要請した一件が不調に終ったのは、私の行動にも原因がある。しかし、私の行動がなかったとして、所長が即座に謝罪と仮出獄を受け容れたか、はなはだ疑わしい。
 あの場は結局、所長が確答を避け、再度、両弁護士とのみ話し合うことを約束し、弁護士二人は羽山先生との面会に赴いたのに、私はまたもそれを禁じられて一人トボトボと名古屋に戻った。その後、私は浅戸、南村いずれの弁護士とも会うことをせず、電話一本掛けてもいない。
 ここ一か月余、私の胸には拳の大きさほどもある気持のしこりがひっかかっていることはたしかだ。羽山先生は私への手紙のなかで再三再四、所長宛てに謝罪要求書を提出しているが返事はおろか会おうともしない、と憤懣をぶつけてきている。それなのに所長は、羽山英雄から要求書など出されていない、と顔色ひとつ変えなかった。おとぼけとも思えないと感じた私の直感は、甘かったのだろうか。私の直感がもし的を射ていたなら、要求書は所長の手に渡るまえに闇に葬り去られていることになる。それとも、羽山先生が・・・・・・いやいや、羽山先生が何かの思惑あって私を担いでいるなど、考えるだに薄気味わるい。手紙とはいえ、迫真の演技ということになる。あの羽山先生がなにゆえそのように姑息な、卑屈な、不純な・・・・・・考えるまい、考えるまい。
 千々に乱れるとまではいかなくとも、糸玉のこんがらがったくらいには厄介なこの難問を解くに、早道はある。浅戸、南村弁護士は、所長との会見のあと羽山先生に面会したのだから、その折、真偽を確かめたにちがいない。両弁護士もまた、所長発言には私に劣らず驚いていた。南村弁護士からの電話の様子では、両弁護士は一か月余まえの決裂以降も所長と折衝している。とすれば、羽山先生、所長双方の肚のうちを公正な距離で推し測ることが可能であり、判断できるはず。
 難問解明の第一の手続きは両弁護士の判断をあおぐこと。それなのになぜ、会いもせず電話も掛けず、痩せ我慢をはりつづけているのか。答えは単純だ。私は、あのとき私の右腕を抑えつけた浅戸弁護士と、暴力は駄目よ! と叱りとばした南村弁護士を、ともに怨んでいる。地位もなく、金もなく、権力もなく、立て板に水の弁舌もなく、身に寸鉄もなく、かろうじて身に乗りうつった羽山先生の巨大な翼に促されて向こうみずにも揮いおこした蛮勇を、哀れなほどにもあっけなく挫くとは、なにごとか。弁護士二人もまた、私にとっては刑務所長と同じ穴の狢(むじな)。したがって、私の怨みは、私怨ではない。
 この一か月余、弁護士を恃(たの)みとせず、無能事務局長の汚名を返上して、物怪に憑かれたごとく私を奮闘させたものは、怨にちがいない。

 しかし、やんぬるかな、怨は所詮、情念に偏して持続の志とは無縁な通過儀礼にすぎなかったようだ。日を経るにつれて感情の昂ぶりは萎(しぼ)み、私の四肢は活動力をうしない、頭脳もまた曖昧模糊症の兆候をみせはじめる。畢竟、無能事務局長の旧態に逆もどり。
 追い打ちをかけるように私の情熱を萎(な)えさせたのは、「提言」をめぐるマスコミ報道のその後だ。その方面にまったく疎いとはいえ、私は甘かった。テレビはともかく、新聞さえも流しっ放しの一発記事で、あとはウーともスーとも音沙汰なし。事の重大さからして日本じゅうが動転するかと思いきや、意外や意外、世論の反響も音なしの構え。唯一の反応はといえば、羽山先生を支援する会宛てに届いたハガキと封書各一通。ハガキのほうは、憲法擁護・天皇制護持・護国連盟という署名いがい発信人不明の金釘文字。封書の手紙のほうは、三十一歳 会社員 竹宮登と名乗る男性で、若いに似合わず流麗な毛筆書き。いずれ劣らず熱烈に「提言」支持を表明している。噫々!
 私は、南村美明弁護士の「絶交」をなぜ易易と受け容れてしまったのだろう。頼みの綱を失って、悔んでも余りある。しかし、後悔に後先(あとさき)なし。事ここに至っては、マスコミだの、世論だのを幻想して犯したみずからの愚を自嘲するのみだ。そんなことより根ぶかく私を意気消沈させている原因が、他にある。
 あれほど熱心に手紙を書きつづけたのに、羽山先生からは二か月ほども梨のつぶて。漆黒の闇の中でにっちもさっちもならず時の歩みに取り残されていく不安が、私をおそう。どんなに悪態をつかれてもいい、皮肉でもいい、恫喝でさえかまわない、羽山先生からの一通の手紙が私を救う。謝罪と仮出獄の要請に対する刑務所長の反応も、まるでないが、そちらは勝手にしろ、だ。羽山先生、羽山先生・・・・・・私は年甲斐もなく、恋い慕う少年になっている。
 恋慕に身を焦がす少年は、夜になるとたちまち四十歳ほども時間を早送りしてオジサンの顔になり、酒を飲む。老人性シミ・ソバカスの前触れらしき膚を憂愁と不安の影でいっそう濃くして、酒を飲む。飲むほどに、六畳一間の孤独が幽暗な帳(とばり)を下ろし、私をつつむ。そこはかとなく快いほどのそれが包みこんでいるのが、私の体なのか、気分なのかは知れない。ともかく、花のあいだを渡る蝶の舞いに似て、そこはかとない。私は風のてのひらに乗っている。
 突如、呼吸が裂けて、私は風のてのひらから落ちる。ほろ酔いの孤独がもんどり打って、自嘲に変る。湯呑み茶碗の酒を一〇回ほど胃の腑に注ぎ込んだ頃合だ。気息が荒ぶってくるのを、模糊とした酔いの膜をへだてて感じている私。すでに馴んだ経験を振り返っている気分だ。
 ふたたび突如、意識は裂けて、感じている自分が消える。矢でも鉄砲でも持って来い。振り返るべき経験など失せて、私はおどろおどろとした未知の時空へはいっていく。夜とも昼とも知れず、暗黒とも薄明とも知れず、時(じ)も空(くう)もさだかならない世界へ。
 矢でも鉄砲でも持って来い。あれッ、南村弁護士? 消える。あれッ、吉本社長? 消える。あれッ、木下女史? 消える。あれッ、安本支配人? 消える。ずんずん突き進んでいく感じ。あれッ、浅戸弁護士? 消える。あれッ、韓成徳? 消える。あれッ、朴龍寿老? 消える。ずんずん突き進んでいく感じ。あれッ、塀? 消える。あれッ、鉄格子? 消える。あれッ、制服・制帽の男? 消える。あれッ、鉄の扉? 消える。あれッ、あれッ? 矢でも鉄砲でも持って来い。ずんずん突き進んでいく感じ。あれッ、あれッ? 消えるな! こいつだ、こいつをやっつけろ。叫んでいるのは誰? 身体が浮き上がる感じ。巨大な鳥の翼に包まれる感じ。飛んだ。飛んで体当りした感じ。ぶすぶすぶすぶすすすす。音の感じ。両手に握りしめたものが何かを真っぷたつに断ち割った感じ。あれッ、顔が真っぷたつに割れている。割れて裂けた首がそのままの状態で飾り付き制服のうえに乗っている、感じ・・・・・・

 小心者めが、柄にもなく男気(ぎ)を出しおって。刑務所長を殺(や)って、挙句の果てに自分の命も滅すとは、馬鹿者(もん)め。
 割れ鐘のような羽山先生の声を耳もとに聞いて、私は目を覚ました。凄まじい悪寒に堪えかねてふたたび宿酔の底に沈もうとした刹那、跳ね起きる。あたりを見廻す。アパートの六畳一間。無事だ。私をつつむ小さな宇宙は昨日(きのう)のまま。
 ひと息ふかく、溜息をつく。ぶるぶるッと悪寒が背筋をはしる。泥酔のままに、寒々とした部屋で蒲団も被らず畳のうえに転っていた。酔い醒めのうつつのうちに、風邪でもひいたか。ふたたび激しい悪寒が全身をつらぬいて、宿酔気分は雲散霧消する。立てつづけに襲ってくる悪寒に、その原因が風邪などという生(なま)やさしいものではないことに気づく。
 またしても、私は夢の中とも泥酔の底とも知れない不思議な時空をさまよい、突っ走った。孤立無援、私は何を仕出かそうとしたのだろう。真っぷたつに割れたまま飾り付き制服のうえに乗っている首。一見、大学教授ふうの男の顔がそれにかさなる。以前、夢の中とも泥酔の底とも知れない不思議な時空で見た男は、岐阜刑務所を訪ねてみれば、生身の所長とそっくり、瓜ふたつだった。不吉な予感とともに私はそのことを思い出す。
 今度もまた、夢の中とも泥酔の底とも知れない不思議な時空で私の体を鷲摑みにして闇雲な行動へと促したのは、巨大な鳥の翼だ。岐阜刑務所を訪ねた折、所長をめがけて、言葉にならない叫びとともに私を衝き動かしたのも、そいつの影だった。私に取り憑く巨大な翼の影・・・・・・
 不意に恐怖が私を襲う。居ても立ってもいられずに、アパートの部屋を飛び出した。
 冷静になって、自分がこれから羽山事務所を訪ねようとしているのだ、と気づいたのは、拾ったタクシーが走り出して間もなくだった。吉本社長や木下女史に集まってもらい、知恵を借りなくてはならない。いまは何よりも結果が肝腎。さもないと、私は、孤独、焦燥、浅知恵のままに、羽山先生よりさきに「最後の手段」で身を滅ぼすにちがいない。
 羽山事務所のドアを開けて、一歩はいったとたん、声を上げそうになった。驚きのあまり意識できなかっただけで、実際に声を上げていたかも知れない。
 吉本社長、木下女史、安本支配人が顔を揃えている。応接ソファに掛けた彼ら・彼女らの様子を酒の肴に愉しむふうに、朴龍寿老までが羽山先生の椅子にどっかと掛けている。目のまえの豪華なテーブルには不相応このうえなく、濁酒(タクペギ)のはいった一升壜と茶碗が乗っている。朴老人の背で、額縁のなかの羽山先生が破顔大笑している。
「よォ、桐山事務局長。ちょうどエエとこに来た」
 私の顔を見るなり、安本支配人が軽い調子で声を掛ける。
「話が決ったら連絡しようと思ってたの」
 相変らず厚化粧だが、木下女史の声はいつになく柔かい。
「三月一日の大集会は四月十九日に延期する。デモは取り止め」
 吉本社長までが淡々たる風情で外連ない。
 デモは取り止め? 集会は延期?
 なんのことか訳が分からず、私は三人の顔を鳩が豆鉄砲の態で眺めるばかり。
「桐山君、祝杯だ。まぁ、一杯やりなさい」
 朴老人が一升壜を右手に茶碗を左手にかかげて促すが、勿論、私は受ける気になどなれない。
 あんたら、事務局長のおれを差し置いて、この大事なときに・・・・・・
 事の次第が分からないままに怒りが込み上げてきて、口を切ろうとしたとき、吉本社長が大きな手の仕種で私を抑える。
「李(リー)の仮出獄が決った。四月十九日だ」
「昨日の夕方、浅戸弁護士から連絡がはいったの」
 吉本社長の言葉を次いで、木下女史。
「四月十九日の集会は、羽山先生歓迎集会、ということになる」
 安本支配人の一言で、三人は頷き交す。
「桐山君、さぁ、祝杯だ」
 朴老人がふたたび促すが、私は立ちつくしたままだ。歓喜雀躍、飛び上がりたい気分と不可解な感情が複雑にからまり合う。
 今度も、おれは蚊帳の外か。
 ふと、そんな思いが掠める。

 一九九四年四月十九日、その日はまるで誂えたように晴れ渡った。春たけなわの陽光は、あくまでも穏やかに燦燦と山並みに降りそそぎ、風また、あくまでも爽やかに光の粒子につつまれて野良を渡る。市街地を外れた一帯は空気までがときめき、暗鬱な建物を囲繞する淡灰色のコンクリート塀さえ陽炎のなかにたゆたっている。
「絶好の歓迎日和だ」
 正門から少し離れた路上に車を止めて羽山先生を待つあいだ、安本支配人が満足げに声を上げる。鬱屈していた気分が、ようやく晴れようとしているのを、私は身内に感じる。
 羽山事務所で不意打ちみたいに先生の出所を知らされたときから、この二か月近く、今度も、おれは蚊帳の外か、という気持は去らなかった。片意地はって、浅戸、南村両弁護士を拒んでいたため情報から隔てられたのは自業自得。とはいえ、偶々、羽山事務所を訪ねた私に告げるとは、水臭い。何をさしおいても真っ先に事務局長の私に連絡するのが、本筋ではないか。
 後始末のほうはといえば、すべて私まかせ。私は大急ぎで、羽山先生仮出獄決定・集会変更・デモ中止を、協力要請している関係団体に連絡し、あらためて歓迎集会の案内状を作製、郵送した。
 集会の会場も、飯盛山の山裾にある旧楢島航空機朝鮮人強制連行犠牲者鎮魂碑を望む、雁宿公園に変更した。四年まえ、朝鮮人半田空襲犠牲者鎮魂祭が催され、農楽사물놀이(サムルノリ)(四物ノリ)でチン(大鉦)を演奏した羽山先生が思わず慟哭した場所だ。
爾後の時間は、集会プログラムの内容を実現するための準備に追われた。ことのほか難行したのは、마당놀이패(マダンノリペ) 녹두(ノクトウ)(緑豆)への出演依頼。これは、韓国の伝統仮面劇を現代ふうにアレンジした演劇に民族楽器の演奏をジョイントして演じる民衆演劇集団で、三年ほどまえ名古屋で旗上げして以来、みるみる評判を上げ、いまでは引っ張り凧。四月十九日も静岡県の清水市で公演があるのを、そちらは午後七時からなので、午後一時からの歓迎会にもぜひ、と強硬談判。ただでさえ全身のエネルギーを爆発させる公演なのに、そんな強行日程は考えるだに無茶苦茶、と固辞するのを、日参につぐ日参。ようやくの事、四物(サムル)ノリの公演だけ、という約束で公演に漕ぎつけた。
それやこれやの苦労を思い出しながら、羽山先生の登場を待つ黒塗り3ナンバー外車のむこう、正門の方向に視線を注ぐ私の体から、不思議にも「蚊帳の外」の鬱憤が解かれていくのを感じる。
「あれ? どこかで見た顔。昔のなんとかいう角力取りかな」
 私は、岐阜刑務所の門から現われた肥大漢を見て、独り言(ご)ちる。巨怪に肥満した男は、そのうえ上背が雲つくばかり。一体どこで誂えたものかと詮索したくなるほどの大きな紺地背広にズボン。白のワイシャツにノー・ネクタイ。手ぶらなので、いっそう身軽な風態だ。
「松登、三根山・・・・・・」
 私がそれらしき昔日の力士の名前を反芻していると、助手席の木下女史が振り返りざま一喝。
「阿呆か! 羽山先生を見忘れるとは」
「呆れた事務局長もいたもんだ」
 安本支配人が言うなり、突然、吉本社長が呵々大笑する。私を笑ったのではなく、羽山先生の変貌ぶりがよほど可笑しいらしい。
 私たち四人は車から飛び出し、羽山先生のほうへ歩く。午前十時、予定きっかりの出所だ。
 羽山先生は、はちきれんばかりに贅肉がついて、彫り深く精悍な面影など跡形もなく消え失せた顔に、笑いだけは不敵なそれを浮かべ、私たちを迎えた。一人一人と握手。木下女史、吉本社長、安本支配人、私の順に差し出される右手を握ったとき、私は奇妙な気分におそわれる。顔にも増して、なんという白さ。なんという柔らかさ。私は思わず知らず、握力を控えたほどだ。下獄のときは黒黒としていた頭髪の、七・三に分けたその分け際に、白いものが、まぎれこんでいる。
「みんな、ご苦労」
 羽山先生がその一言を口にしたきり、早々に私たちは二台の車に分乗する。木下女史と私が羽山先生と同乗した。
 四月のめくるめく光のなかを、車は風を切って走る。巨大漢の羽山先生とビヤー樽型体軀の木下女史を後部座席に乗せて、さしもの巨大な図体の3ナンバーも後部車輪を沈ませる。フロント部分をもたげる姿勢で快適に走る。
 車が走り出して何分も経たずに私は気づく。羽山先生と木下女史は、まるで何年ぶりかに再会した恋人同士の雰囲気なのだ。会話は無邪気に弾んでいる。突然もどってきた、青春のはなやぎさえ、私の背に伝ってくる。
 名岐バイパスを突っ走る車が庄内川を渡って助手席でなかばまどろむ気分で聞いている私を、羽山先生の言葉がしたたかに打った。
「ヨンヂャよ、わしは塀のなかで心に決めた。羽山商会もパチンコ富士も、全部、ソクテに譲る。それで、わしは目一杯、羽を伸ばして、ウリ同胞の若い連中のために役立つことをしたい。そう、在日同胞(トンボ)の拠点になるものを作る」
「ふーむ・・・・・・」木下女史は両性具有ふうな驚きの声を上げるが、たちまち羽山先生に同調する、「チョッター。羽山先生のためなら、わたしも双肌ぬいじゃう。ホテル金剛山六階建て全館、進呈するわ」
 木下女史ならずとも、私も、ふーむ・・・・・・と唸ってしまう。
 獄中からの手紙に、開眼、とあった。開眼のすえに行きついた決心が、商会も、半田市内で第一規模のパチンコ店も安本支配人に譲る、という。そして、羽山先生自身は在日新世代のために役立つ拠点を作る、という。一体、何を始めようというのか。
 木下女史は、以心伝心、いとも簡単に同調したが、私は、ふーむ、と唸ったきり、驚きから解かれない。おかげでまどろみ気分は吹き飛んだ。
「さすが、わがイー・ヨンヂャ。解かりが早い。持つべきものはチング(友)なり」
 羽山先生は上機嫌だ。
「持つべきものは、チングなり」
 木下女史も、最前、上げた驚きの声はどこへやら、娘気分で和している。
 好機(チャンス)は、今だ。不意の衝動が私を我に返らせる。
 四か月まえ、浅戸、南村弁護士に従って岐阜刑務所長と会見して以来、私のなかで居座っている疑惑の瘤(しこり)を除くには、羽山先生が上機嫌な今こそ、好機だ。
「羽山先生、あんた、ほんとに刑務所長に謝罪要求書を出したんですか?」
 振り向きざま、訊ねる。持って廻った訊ね方こそ賢明、と思いつつ、私の口から飛び出した言葉の単刀直入さに、私自身、驚く。
 なんのことか? 一瞬、羽山先生の顔を怪訝な影が掠める。
 羽山先生の贅肉たっぷりな頬肉がゆっくりと緩み、上瞼と下瞼の肉に挟撃されてみみずほどにも細い目が、いたずらっぽい表情を見せたのは、数十秒後。みるみる膨張してドッチボールみたいにふくらんだ顔が相好と崩したとみるや、突然、羽山先生は呵呵大笑する。
「わっはっはっは・・・・・・愉快、愉快」
 笑い声は車内に炸裂する。あっけにとられる私。
 羽山先生の言葉は、哄笑の底から陽気に跳(は)ね昇ってくる。
「作戦、うまうまと図に当たったリィ。桐山事務局長よ、謝罪? なんのことか。要求書? なんのことか。わしは、そんなもの所長に出してはおらん。一行たりと書いてもおらん」
「あの手紙は・・・・・・最後の手段に・・・・・・」
「作戦だよ、作戦。あれで君らはすっかり慌てて、必死で仮出獄の嘆願やった。おかげで、わしは異例の仮釈放。愉快、愉快・・・・・・作戦、見事に的中したリィ」
「うまうま見事に、はめられたリィ」
 私は自暴自棄(やけ)のやんぱちで唱和した。
 車は羽山先生と木下女史の哄笑を乗せ、名古屋市街を抜け、知多半島へ。

 幽(かす)かなチャンダン(拍手)の鳴動を遠く耳にしてさえ四肢の筋肉がほころび躍り出したくなる音。その響きは、羽山先生、木下女史、私を乗せた車が雁宿公園をかなり隔てた七本木池に差しかかる頃から聞こえてきた。午後の日差しを反射して、一面、蝶の舞いのようにきらきらと燦めかす水面を渡って、聞えてくる。
「ううーむ、この音だよ、この音。ウリ民族の心を招くのは、この音だよ。わしの体をプリしてくれるのは、この音だよ。身も、心も、解(と)いてくれるのは、この音だよ。ううーむ、ウリ朝鮮(チョソン)の音だ」
 羽山先生は、感に堪えたふうに何度も呟いている。助手席から先生の表情をうかがうことはできないが、私には手に取るように判る。羽山先生は座席に深く巨軀を沈めて、瞑目しているにちがいない。
「ううーむ、ウリ同胞(トンボ)がわしを呼んでおる。羽山英雄ではない、リー・スウンを呼んでおる」
 羽山先生の感慨がつづくうち、車は雁宿公園に着く。
 農楽の響きは、碧空をついてひときわ高まった。公園の中央にしつらえられて溢れんばかりの光を浴びるマダンを多勢の見物が取り囲んでいる。マダンでは、マダン・ノリペ・ノクトウの演者たちが白衣をひるがえして演戯の最中。
 杖鼓(チャンゴ)の中からほとばしり出て、光のなかに弾ける響き。雷(いかずち)のごとく激烈に風を切る小鉦(ケンガリ)の冴えた響き。空を走る雲に似て無垢な鼓(プク)の響き。荘重にあたりを払う大鉦(チン)の野趣ゆたかな響き。響きとたたかい、響きと相和し、マダンせましと跳(は)ね踊る白衣、、白衣。白く光を裂き、白く風を切る。天下大将軍、地下女将軍。農者、天下の本。はためく幟、舞う白衣。
 公園の入口で羽山先生を迎えた吉本社長、安本支配人らのなかに朴龍寿老の顔が見える。
 右手に一升壜、左手に湯呑み茶碗をさげた朴老人は、覚束ない足どりで羽山先生に近づくと、象皮肌の顔に深く刻まれた皺をいっそう深くし、酒焼けの満面に喜びを浮かべる。
「アイグー、この悪運ばかり強い奴め。わしの目が黒いうちに生きて会えるとは!」
 すでにほろ酔い上機嫌の朴老人が、湯呑み茶碗になみなみと注いだ濁酒(タクペギ)を羽山先生に差し出す。
 羽山先生、右手に持った茶碗の底にそっと左手指を添え、受けると、いっきに飲みほした。
「さぁ、時間も過ぎていますから、早速、挨拶を」と、私が促す。
「その前に、鎮魂碑を見るのが先だ」
「鎮魂碑は、あれです。あとでゆっくり」
 羽山先生がおもむろに視線をめぐらすさき、飯盛山の山裾に、旧楢島航空機朝鮮人強制連行犠牲者鎮魂碑の文字はもちろん読めないが、碑は望める。私は引きつけられるように羽山先生の顔を見つめる。一秒、二秒、三秒・・・・・・意外だった。
 羽山先生は一分近くも遠く鎮魂碑を眺めていたが、表情を動かすことなく視線をもどすと、マダンのほうへ歩き出す。吉本社長、木下女史はじめ私たちがそれに従ううち、農楽は終った。深い静寂が光と風につつまれる。
 静寂は、地鳴りのようなどよめきに破れた。羽山先生が、マダンの中央に設けられた壇上に登った時だ。マダンを幾重にも取り巻く人びとのあいだを、どよめきは渦巻状に往きつ戻りつ、消える気配もない。・・・・・・そう、羽山先生のあまりに変貌した風姿への驚きのどよめきだった。
 壇上に仁王立ちの羽山先生が、四囲を睥睨しつつ右手を掲げて人びとに応えたとき、どよめきはようやく止む。そして、拍手。
「諸君、リー・スウンは、生まれ変って、帰って来た」
 拍手の音を突き破って発せられた声は、地軸をも揺るがさんばかりの大音声だった。羽山先生が壇上に登る際、マイクを渡そうとして拒まれた私は、瞬時、身を縮める。
「還甲(ファンガプ)(還暦)をむかえた今日この日、わしは生まれ変ったのだ。生まれ変ったわしには、雄大なる夢がある。三千里(サムチョルリ)わが祖国のごとき宏遠にして美しい夢がある。諸君、これからわしは、その夢の構想を諸君に語る」
 そうか、羽山先生は数えで還暦だったのか。不明を恥じる私の心中など、どこ吹く風。羽山先生の大音声はつづく。
「さぁ、矢でも鉄砲でも持って来い」
 おやッ、どこかで聞いたような、夢の中とも泥酔の底ともつかぬ不思議な時空で聞くような・・・・・・
「わしの体は青年のように張り切っておる。わしの心は少年のように躍っておる。齢(よわい)六十にして生まれ変るとは、奇跡ではないか。まことに愉快ではないか」
 羽山先生が仁王立ちの巨体を揺するたびに、彼の口からマグマのように噴出する大音声が風を巻き、光を吹き散らす。背後の山並みをおおう樹々さえ波立つかと見えた。


 最後に後日譚の一つを記す。
 羽山先生が出所時の体重は一五六キロであった。それが出所後、日を経るにつれて肉眼でさえ捉えられるほどの速さで減量していき、初夏の頃には一メートル九〇センチ、九〇キロの旧に復した。顔、肌の色も褐色に輝き、彫り深く精悍な面貌も復活した。そのうえ、出所時、目についた白髪さえもが消えたのだ。
 不思議を感じたのは、私ひとりではなかったはずだ。





会    録

第165回(1992・2・23)金石範『万徳幽霊奇譚』
                報告者・井上幸一      参加者 9 名
第166回( 3・22)香山末子詩集『鶯の啼く地獄谷』
                 報告者・文 重烈      参加者 9名
第167回( 4・26)伊集院静『海峡』
                報告者・ 聖哲      参加者 7名
第168回( 5・17)『架橋』12号合評会 PART 1
報告者・西尾 斉      参加者10名
第169回( 6・14)『架橋』12号合評会 PART 2
                報告者・間瀬 昇      参加者10名
第170回( 7・12)梁石日『子宮の中の子守唄』
                報告者・中山峯夫      参加者 7 名
第171回( 8・30)磯貝治良『戦後日本文学のなかの朝鮮韓国』
                報告者・成 真澄      参加者 9 名
第172回(10・4)李恢成『流域へ』
                報告者・間瀬 昇      参加者11名
第173回(11・1)『架橋を求めて――民族・文化・共生のマダン』
          講演・金石範 話・磯貝治良
      マダン劇上演・マダンノリペ緑豆     参加者110名
第174回(11・29)尹健次『「在日」を生きるとは』
報告者・卞 元守      参加者 8 名
第175回(12・23)1年をふりかえり1993年を望むつどい
                              参加者14名
第176回(1993・1・24)金在南『鳳仙花のうた』
                報告者・磯貝治良      参加者 6 名
第177回( 2・28)マダンノリペ緑豆第2回公演を観る     参加者80名
第178回( 3・21)宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』
報告者・西尾 斉      参加者 5 名
第179回( 4・18)庾妙達詩集『李朝白磁』
                報告者・金 節子      参加者10名
第180回( 5・16)李良枝『石の聲』
                報告者・加藤建二      参加者12名
第181回( 6・ 6)朴明子『わたしはいつもまわり道』
                報告者・成 真澄      参加者12名



    あとがき

▼ここ数年、『架橋』は三月一日を発行日付として年刊を維持してきたが、13号はそれにおくれること数か月、体型もいささか細身だが、お届けする。掌編小説の申明均さんとエッセイの朴明子さんは初登場。詩でおなじみの文重烈さんは骨太な評論。朴燦鎬さんのエッセイはライフワークから生まれた“こぼれ話”。磯貝治良の小説は「羽山先生シリーズ」第四弾。どうぞ、ご一読を。
▼例によって、前号以降の身辺あれこれを記す。
 まずはなんといっても「在日朝鮮人作家を読む会」が15周年をむかえたこと。昨年(一九九二年)十一月一日には記念の集いを愛知県勤労会館で開いた。題して「架橋を求めて――民族・文化・共生のマダン」。『鴉の死』『火山島』などで知られ、会にとっても掛け替えのない存在である作家・金石範さんの講演、磯貝の話に、マダンノリペ緑豆(ノクトウ)によるマダン劇「トッケビと両班(ヤンバン)」の演戯が花を添えた。
 この日、一一〇名の参加者に配った「15年のあゆみ」(蔡孝さんの作製)によると、ことし六月六日現在で、例会の読書会に講演会、イベントなどをふくめて会は一八一回を数え、読んだテキストが一四二冊、会の名簿に載っているメンバー一四四名(延べ参加者数は二、四二〇名)にのぼる。
 なお、15周年記念のマダンで語られた、金石範さんの「親日派」に関する講演は、中山峯夫さんがテープから稿を起こし、ワープロ打ちした冊子にまとめられている。
▼15周年マダンで上演した、마당 놀이패 녹두(マダンノリペ緑豆(ノクトウ))は、在日朝鮮韓国人を中心に日本人も参加して共同ですすめている演戯グループで、「読む会」からも数名が参加。昨年三月一日と今年二月二十八日には自主公演を行ない、再々乞われて“出前公演”もしている。
▼最後に昨年十二月の「望年会」で行われた、恒例のテキスト人気投票(一九九二年)の結果を。①李恢成『流域へ』磯貝治良『戦後日本文学のなかの朝鮮韓国』(同票)②尹健次『「在日」を生きるとは』③金石範『万徳幽霊奇譚』。次いで香山末子詩集『鶯の啼く地獄谷』梁石日『子宮の中の子守唄』など。     (貝)


「架橋」22号

架 橋 22
                 2002 夏



目   次

○ 小  説 
シジフォスの夢 …………………… 磯貝治良
白い花 ……………………………… 劉 竜子 
道の下で …………………………… 宋 基淑(加藤建二 訳)
○ エッセイ 
宋建鎬先生を悼む ………………… 朴 燦鎬
○ 紀行ルポ 
三千里鐵道の旅 …………………… 磯貝治良
○ コラム「戦争したい法制」三法案
○ 会 録
○ あとがき






 シジフォスの夢

磯(いそ) 貝(がい) 治(じ) 良(ろう)

     Ⅰ

大学のキャンパスというにはあまりに狭隘な土地に一本の櫟(いちい)の木が空を突き抜くように立っていて、異質な感じをあたえる。三方を二階建て校舎とプレハブ造りの部室(クラブハウス)に囲まれたそこは、広めの中庭というにも質素すぎて、芝地はなく赫土を剥き出した空間にすぎない。本校が東海道線の地方都市・豊橋にあって、旧陸軍の広大な連隊跡地を占めているのに比べ、名古屋とその周辺の学生たちが二年生までの一般教養課程を過ごすここは、都会の一隅にある“仮の宿”といった趣。全校学生の屋外集会でも開かれれば、キャンパスは立錐の余地なく埋まってしまう。
〈愛智大学名古屋校舎〉と粗末な門標のある校門をはいって右手すぐのところに、櫟の木は鋭い先端の葉を枝に張ってすっくと立っている。その木の下で、きょうもアコーデオンを鳴らす学生を囲んで男女数人が歌っている。コーラスの練習というのではなく政治サークルか何かの仲間が示威のつもりで、ロシア民謡とか、インターナショナルとか歌っているらしい。
 午後一時限目のフランス語授業を受けるため校舎へ向かって歩きながら、馬瀬(ませ)一郎は歌声に嫌悪感を覚えなくなっている自分に気づく。入学当初は、どうにも馴染めなくて反撥を覚えたものだ。厳密には、歌声にではなく、取り澄ました表情で口を揃えて歌っている学生たちの雰囲気が気に入らなかった。けものの学校で高校生活を送ってきた彼には、コーラス学生たちの気障っぽい雰囲気が唾でもひっかけてやりたいほどだった。一か月ほど経ったいま、その気持ちが消えているのは、彼が大学生らしい気分を味わいはじめているということか。
 櫟の木とは反対の西側に建つA校舎に沿ってキャンパスを抜けると、学生課などのある事務棟脇にB校舎があって、フランス語の教室はその一階にある。馬瀬一郎がバンカラ下駄の音を立てて、そこの廊下をはいったときだった。数人の学生が屯している教室を横目に行き過ぎようとすると、中の一人が目敏く飛び出してきて、彼を呼びとめた。
 不意のことで一郎が怪訝に思っているうちにも、教室の学生たちがぞろぞろと廊下へ出てきて、ちょっと顔を貸せという意味のことを言う。五、六人のどれも幾分、崩れた雰囲気を醸しだしていて、学生服の着こなしからして空手部か応援団員といった感じ。
 言われるままに大講義室のある二階へ通じる階段を従(つ)いていく。学生たちは踊り場で一郎を取り囲んだ。スポーツ刈りの短髪学生を代表格に、面面が口をとがらせる。上級生にたいする彼の態度が生意気だということらしい。一郎自身それと意識してはいなかったけれど、校内で擦れ違ったり、教室で屯している彼らを眺めるときの視線が、どこか眼(がん)を切るふうらしい。かつてけものをやっていたころの習性がいまだに残っているのだろう。
「あんたらの目の錯覚だろ」
 一郎がそう応えると、斜め右手から腕が伸び、彼の学生服の胸ぐらあたりを掴んだ。それを払おうとするより早く、伸びた腕は引っ込む。スポーツ刈りが諫(いさ)めたのだ。
 一郎はそれきり口をきかないことにした。チンピラ学生ふうの上級生に囲まれて、怯える気持ちはほとんどなかった。こんど手を出してきたら刃向かっていこう、と腹のうちで構えていた。口を閉ざしたのは、この場を早く切り上げたかったからだ。授業に遅刻したくない。諦めていた大学へせっかくはいったのだから、高校時代の延長みたいな間抜けはしたくない。
 さらにつづいた上級生たちの説教とも脅迫ともつかない攻勢は、五、六分で終止符を打った。一郎が俯向きかげんに黙りつづけているのを反省の態度と受けとって、満足したらしい。
「先輩は立てなくてはいかん」
 一郎はその言葉を背に階段を降りた。大学というところにも結構、幼稚な連中がいるもんだ、そう思うと苦笑が浮んだ。彼は廊下を急いだ。
 教室にはいって席をとると間を置かず、フランス語の教授があらわれた。
「馬瀬君、大丈夫だったかやー」
 席を隣り合せた芝山富吉が、一郎の耳もとに口をよせて囁く。愛知県と長野県との県境にある山間の高校を卒業して名古屋に出てきた芝山は、浅黒く朴訥な風貌に不安げな表情を浮べている。一郎が好ましからぬ風体の上級生たちに「連行」される場面を、通りがかりに廊下で目撃したらしい。
 一郎は、全然、大丈夫、といったふうに目顔で応えて、フランス語の教科書を開く。
 一郎が選択必修の第二外国語にフランス語を選んだのは、フランス現代文学(なかでもアルベール・カミュ、ジャン・ポール・サルトル、アンドレ・マルローといった実存主義のそれ)に魅かれはじめているからである。高校を卒業する頃、中学時代に国語を教えられた九米仙七と会って、大学に進んだら文学をしたいと言うと、フランス実存主義を勉強 するよう勧められたのがきっかけだった。高校時代に世話を受けた教師や父の方針と、文学部を希望する彼とのあいだにすったもんだがあって、結局、父たちの要望を受け入れ、法経学部経済学科に入学したのだったが、文学をしたい欲求はいよいよ募っている。いまは翻訳によってカミュの『シジフォスの神話』『異邦人』、サルトルの『実存主義とは何か』『水いらず』『嘔吐』、マルローの『王道』『侮蔑の時代』などを読みはじめた段階にすぎないけれど、いずれは原語に挑戦したい。おのれの才能もわきまえない、雲を掴むような夢であると自覚しながら、それでもフランス語を選択するのに躊躇はなかった。
 入学して一か月余を経て得た三人の友人が唯一、フランス語の教室の級友であるのも、一郎の意思を示している。芝山富吉のほかに岐阜の高校を卒業した大林美身と名古屋の「駅裏」生まれの喜多弘次。大林は小学校の頃から謡曲を習っているという、一郎からみれば「変なやつ」。喜多は中学を卒業すると郵便局に勤めて配達の仕事をしながら夜間高校に通い、大学も二部(夜間部)へ入学したのだが、二年目に一部へ編入してきた。したがって年齢は一郎より年上なうえ、労働体験の雰囲気を身につけていて、マルクス経済学の学習会である「経済学研究会(経研)」の教養部におけるキャップをしている。
 フランス語の授業が終って一郎が彼ら三人と教室を出たときだった。見憶えのある顔が待ち受けていたように廊下に立っていて、一郎に笑いかけた。高校時代一年先輩で、図体はやたらでかいのに兎のように小心な性格で「東方のイチロー」の尻にくっついて歩いていたこともある新川だ。彼が愛智大学へ進むと俄然、変貌して、空手部を創設して主将になり、応援団でも幅をきかせているという噂を、一郎は耳にしたことがある。
「イチローさん、さっきはうちの部員が失礼をしたそうで。あんたのこと、みんな知れせんもんで・・・・・・。堪えてやってください」
 新川は薄く笑いかけながらそう言うと、軽く頭を下げた。一郎は故意に視線を外して、取り合わない態度を示す。
 新川がさらに空手部だか応援団だかへ勧誘したい意味の言葉をついだとき、一郎は素っ気なく応じた。
「おれは、東方のイチローとは違う」
 そう言うなり一郎は踵(きびす)を返し、廊下の一隅で心配げにこちらを見ている友人三人の方へ早足に向かった。

「経研の件、決めてくれたかね」
 校門から電車通りへ向かう商店街で音楽喫茶エーデルワイスにはいって、しばらく雑談を交わすうち、喜多弘次が馬瀬一郎に声を掛けた。
 一郎は何のためらいもなくOKの返事をする。迷ったのは数日間だった。文学方面の本を集中的に読みたい、小説も書きたい、そう思うと経済学研究会にはいってマル経の学習についていけるか不安はある。それでも自分なりにめざしたい文学にとって、下部構造の勉強は無駄にはなるまい、重荷になったら辞めればいい、と腹を決めたのだ。一郎には行き当たりばったりに決断するところがある。
 喜多が一郎の返事に満足して、勢いよく空(から)のコーヒーカップを啜ると、彼と隣合せた大林美身が遅れをとるまいというふうに口を開く。
「ぼくのほうはどうなの?」
 大林からは謡曲クラブに誘われている。能狂言や謡(うたい)とマルクス経済学とではあまりにも径庭はなはだしい。それに能や謡曲を見聞したことはないけれど、想像しただけでも肌に合いそうにない。
「金がないよ」
 一郎がそれを口実に断ると、大林は即座に、
「月謝は要らない。クラブの先輩の大前田さんの父上が先生だから」
 と答える。小学校五年生相手に家庭教師のアルバイトが決まったばかりなのでそれも口実にするが、大林は稽古は週一回一時間ほどだから負担にはならない、と後にひかない。大林の粘着質で世俗に長(た)けた生活人の雰囲気が、一郎には苦手だ。
 結局、経済学研究会と謡曲クラブの両方に顔を出すことに決めた。せっかく大学にはいったのだから、未知の経験を積むのも悪くはない、そう考えることにする。
 一郎は大学の講義には欠かさず出席することに決めた。授業と、週一回の経研の学習と謡曲クラブの稽古、週二日夕方からの家庭教師のアルバイト、それ以外の時間を文学の勉強に当てるという、几帳面な日日が始まった。高校生の頃の彼には想像さえできなかったことだ。

 家庭教師の口を一郎に紹介したのは、高校時代の教師CC(チェーチェー)こと岩井厳雄で、私立小学校に通う五年生男子の生徒は彼の甥に当る。小学校五年生とはいえ、エリート養成まがいの教育をする私立校の授業レベルは高く、英語と数学などは中学一年生並みの内容。義務教育の時代をほとんど素通りしてきて基礎学力の覚束ない一郎には荷の重い役割だったけれど、家からは金銭一切を出させず奨学金とアルバイトの収入で四年間を凌ごうと決心した彼に、背に腹はかえられない。月三千円の月謝のために冷汗覚悟で引き受けたのだった。
 小学五年生あつし君は、CCの戦死した兄の息子で、未亡人である母親・絹よさんと共に暮らしている。大学から徒歩で十分ほどのその家は、大蔵省関係の宿泊施設であって、祖母、祖父のほか仲居さんがいる。CCの実家なのだ。「大和荘」と標札のある料亭ふうの家へ週二回、通いはじめて間もなく、一郎はあつし君の身の上を知った。
 あつし君の母親・絹よさんは、中学を卒業すると淡路島から名古屋へ出てカフェで働いていた。その折、彼女の美貌に魅せられた祖母(CCの母)が養女にした。そして長男(CCの兄)が出征するとき婚姻させた。長男は出征したまま帰らず、絹よさんは未亡人となった。戦後、彼女は上場企業O鉄工の後継者Kと恋愛し、Kには妻があるまま絹よさんはあつし君を生んだ。あつし君は非嫡出子ではあるが、戸籍上の長女である絹よさんの子として「大和荘」の跡目ということであるらしい。
 あつし君には利発で早熟なところがある。一郎の基礎学力が粗末なのをいちはやく見透かしたらしく、小学生とも思えぬ質問や話題を矢継ぎ早に繰り出す。案の定、一郎は、英語の基礎構文や一次方程式の説明さえあやふやで確信なく(英語など大学の授業でするクローニンのリーダーのほうが余程、組みしやすい)、冷汗をかかされる破目になったのだが、あつし君には大人相手にタジタジとさせることを皮肉っぽく楽しんでいる気配がある。それでもあつし君が教科書を使う勉強より世態の話題を好むらしいのをいいことに、一郎は太宰治の心中事件や「レ・ミゼラブル」のストーリィ、中日ドラゴンズ杉下投手の魔球フォークボールの投法解説などで煙に巻いて二時間のノルマを凌いだりする。
 週二回の正規の勉強のほか日曜日などにあつし君を連れて東山動物園とか植物園へスケッチに訪れることもある。息子の孤独を慰めてほしい、という母・絹よさんの依頼である。
 そんな日、一郎は友人の夫馬敬成を誘うことにしている。高校時代、文芸部で一緒だった夫馬は母と二人、親戚の二階一間に間借り暮しをしていて、交通局の食堂で賄い婦をしている母親の脛を齧りながら、中途半端な文学修業をしている。就職する気もなく、戦死した父親の遺族年金を食っているのだ。彼は一郎の誘いを断ることもなく、油絵の用具一式を携えてやってくる。
 一郎はあつし君のスケッチブックを適当に覗いて時間をつぶし、頃合いを見計らって動物園の近くにある食堂で食事をする。金は一郎が出す。とはいっても絹よさんから託された金だ。一郎は三人の食事をカレーライスかラーメンで済まそうとする。絹よさんから預かった金が幾らかは浮いて、二、三回分の彼の食事代に回せるからだ。しかし、あつし君は一郎の姑息な目論見を見透かすふうにカツ丼とか天麩羅丼を註文し、売店でキャンデーや菓子の類を買わせる。
 あつし君の母親・絹よさんは月謝のほかに折折、革靴やセーターをプレゼントしてくれて、一郎を喜ばせた。一郎には家庭教師のアルバイトよりも肉体労働のそれのほうが性に合っていたし、生い育った漁港の町の実家とは随分かけはなれた「大和荘」のプチ・ブルジョアふう家風にも窮屈を感じて、日ごとに馴染めない気分を覚えていたけれど、絹よさんの心使いにはひかれていた。
 夏休みにはいって「大和荘」の熱海への家族旅行があり、一郎をそれに誘ってくれたのも絹よさんである。一郎が、友人を誘いたい、と絹よさんに頼んだのは、家族旅行といった雰囲気に違和感を覚えて、夫馬敬成をひっぱりこめば孤立感をいくらか解消できるともくろんでのことだ。絹よさんは一郎の頼みを快く聞き入れた。
 名古屋から熱海までの車中、CCの甥にあたる博心さん、その妹の千代乃さん、一郎、夫馬の四人が四つの座席に同席したのだが、人生観まがいを語り合ううち博心さんと夫馬は議論を始めた。日本大学に在学中の博心さんは派手柄のアロハシャツを着て、挙措に洒落者の雰囲気がある。大学を中退して喫茶店だかを始めたい望みがあって両親と対立している。二人の議論が感情的な様相を呈したのは、たがいの自説を固守しようとしてよりも、夫馬が博心さんの気障っぽい人柄に厭悪を感じ、博心さんがいちはやくそれを察知したからにちがいない。
 一郎は時に言葉を挟む程度で、二人の議論を面白がったが、博心さんにたいする夫馬の違和感は、一郎の感情でもあった。千代乃さんは兄たちの議論を嫌い、気持ちをまぎらすため一郎に何かと話しかける。一郎は擽ったい気分で彼女との会話を愉しんだ。
 博心さんと夫馬の角逐は熱海の旅館(「大和荘」と同系列の官関係の宿泊施設)に着いてからも解けず、燠火が爆けるように数回、火花を散らしたすえ、二日目の朝からは互いに口さえきかなかった。
「馬瀬、あの家族はプチブルだぞ。博心とかいうあいつ、鼻持ちならん」
 熱海旅行から帰って数日後、顔を合わせるなり夫馬は一郎に吐き捨てた。
「それはその通りさ」一郎は素っ気なく返した、「だからどうだって言うんだ? 僻んだって仕方ない」
「あんな連中と付き合ってたら、堕落する」
 夫馬は嫌悪感をあらわに言った。
 それから三か月ほど経って、一郎はあつし君の家庭教師を辞めることにした。夫馬の言葉が身にこたえたのではない。たまたま家庭教師の話がもう一つ転がり込んで、掛け持ちは無理。どちらか選ぶなら、新しい口のほうが精神的負担が軽く、気にも入ったからにすぎない。
 新しい家庭教師の相手は、あつし君と同じ小学校五年生の参平君。風貌、体型ともに福福とした肥満児で、なにからなにまであつし君とは対照的に純朴な少年。大学から徒歩で十五分ほどの市電通りに面した酒店の息子だ。酒店の店さきでは客に立ち飲みもさせていて、参平君を拡大コピーしたような母親が店を切り盛りしている。母親も虚飾のない人だ。父親のほうは、町の発明家みたいな暮しをしてきたが、いまは絵馬師になりたくて修業のために神社の一室に寄宿していると聞く。
 一郎が家庭教師を辞する旨、告げたとき、絹よさんは強く引き止めた。友人の芝山富吉を後釜に紹介することで、絹よさんは納得した。
 最後の授業の日、勉強を終えて食事を済ませたとき、あつし君と一緒に泊まってほしいと一郎に頼んだのは、絹よさんだった。
 勉強部屋でトランプ・ゲームなど楽しんで十時頃、六畳の和室にはいると、あつし君を真ん中に川の字に蒲団が敷かれていた。あれこれ一郎に話しかけていたあつし君がいつの間にか寝息を立てはじめ、一郎もうとうとしはじめたとき、障子の開閉する幽かな音がして、あつし君のそれを隔てた蒲団にはいる絹よさんの気配があった。一郎の眠気は吹き飛び、目が冴えてしまった。
 絹よさんは眠っていないのか、寝息もきこえず時時、蒲団のなかで体を動かす気配だけがする。闇のなかで絹よさんの幽かな動きに気をとられているうち、一郎は気持ちが昂ぶって寝れない。絹よさんはおれを待っているのだろうか、と意識し、あわててその思いを掻き消す。意識しては掻き消す。それを繰り返すうち堪えきれなくなって、厠へ立つ。股間が勃起しすぎていて小便がうまく出ない。部屋の障子をそっと開け閉めして、蒲団にもどる。蒲団にもどるまえ、闇のなかに絹よさんの気配を探ったけれど、そちらへ忍びよる勇気はなかった。
 股間をまさぐる柔らかい手指の感触を夢の中でのように感じたのは、明け方に近かったろうか。とても寝られるとも思えなかったのに、いつか眠っていた。眠りのなかで唇に触れる濡れた膚の甘い匂いを嗅いだ。
 目を醒ましたとき、部屋のなかに薄明かりが差していて、絹よさんの蒲団に人のふくらみはなかった。

 謡曲クラブの稽古は週に一回、大学から程遠からぬ白山町の大前田さん宅へ通う。大前田征の父親が金春流の先生なのだ。鼓(つつみ)方はその夫人(大前田さんの母)が努める。メンバーは六人だが、四年生の大前田征以外は全員一年生。つまり大前田さんがオルグして出来立てのクラブである。それでも馬瀬一郎と芝山富吉を除けば、高校時代に謡(うたい)を齧っているらしい。一郎と芝山を誘い込んだ大林美身などは、なかなかの域のようだ。
 初心者の一郎と芝山は『羽衣』から稽古を始め、節回しの記号を大体マスターしたところで、世阿弥作の直面物(ひためんもの)『蘆刈』の「笠の段」を習いはじめる。経験者である大林、鶴田、浜中は『田村』の稽古に励んでいる。恒例の名古屋学生能は熱田神宮能楽殿で催される。来年の一月十五日の舞台では大前田征が坂上田村麻呂の縁起である修羅物の能を演じることになっているので、それの地(じ)謡(うたい)をつとめるためだ。
 一郎は、学生能の舞台では芝山と二人、「笠の段」を謡うよう、大前田先生から言い渡されている。それだけではない。「笠の段」の稽古をつづけるかたわら、間もなく『田村』の稽古にも合流して発表の日にはそちらの地謡にも芝山ともども加わるよう言われている。なんとも荷が重い。それでも辞退する気にならなかったのは、たかが学生の分際の発表会、大恥かいてもともと、あとは野となれ山となれ、と腹を括ったからである。さいわい酒店やすだ屋の息子・参平君の家庭教師は、「大和荘」のあつし君のそれに比して格段に気楽な雰囲気であり、さきの経験でこつを心得たこともあって神経を使うこともない。謡曲の稽古に打ち込む環境はあった。
「せっかく学生能に参加するのだから、謡曲クラブにも顧問が必要だなぁ」
 その顧問には誰を頼めばいいだろうかと大前田征が言い出した。一郎たち初心者の謡も少しは態をなしてきたころだ。
 愛智大学に能狂言に関心を持つ教員がいるだろうか。戦前、中国大陸に創建された東亜同文書院の系列を継いで、「自由と進取」の気性を学風とする大学なのだ。一郎が入学する数年前、情報収集のため学内に潜入していた警察官が学生たちによって監禁される事件が起ったり学生運動が活発であり、それにたいして寛大な、社会科学系の左翼的教員が主流。日本浪漫派の流れを汲んだり日本的伝統を重んじたりの教員はいそうにない。国文系の教員のなかに謡曲クラブの顧問を引き受けてくれそうな人がいるかもしれないが、メンバー六人のなかに文学部の者はいない。
「馬瀬君、ベルモントさんに頼んだらどうだろう」
 話柄が手づまりの状態になったとき、不意に大林が言った。打診というより催促する口調。
「そうだー、ベルモントさんなら馬瀬君の頼みをきいてくれるよ」
 芝山が大林の提案に応じる。
 一郎は虚を衝かれた。そして内心、はじらいを覚えた。
「ベルモントさん」とは、一郎たちが第二外国語として授業を受けているフランス語の助教授で美波志ベルモントのことである。三十歳代後半、やけに野太い声が特徴の「ベルモントさん」は、概して学生たちと息の通い合う型(タイプ)の教員だが、自分への態度に特別なものがある、と一郎は感じている。それは授業中の挙措に感じられたが、フランス語の前期末テストの際に決定的になった。監督の「ベルモントさん」が、答案用紙と首っぴきの学生たちの間を二度、三度と往き来するのに不思議はない。ただ、その都度、「ベルモントさん」は、一郎の机にひろげられた答案用紙の誤りの部分を万年筆のキャップでコツコツと打ち、訂正するよう合図をして通り過ぎたのだ。大林たちがその一齣を知っているとは思えないが、一郎は妙に羞恥を覚えた。
「ベルモントさん」が一郎に目をかけてくれるのには理由がある。「ベルモントさん」には、異端の泥棒詩人ジャン・ジュネを論じた『アクロバットの支点』と題する著書がある。それを読んだ一郎が長文の感想文を「ベルモントさん」に書いたのがきっかけだ。そのとき「ベルモントさん」は「きみの批評はよろしくない」と一言のもとに切り捨てたけれど、その後、研究室を訪ねてはサルトルやカミュ、フランツ・カフカなどについて半可通の文学論を語る一郎にたいして「ベルモントさん」は寛容だ。
 結局、一郎は「ベルモント」さんに顧問を頼む件を断りきれなかった。「ベルモントさん」は謡曲クラブ顧問の依頼に何と応えるだろうか。辛らつな批判が返ってくるのではないだろうか。そう考えると一郎の気分は重い。
 翌日、「ベルモントさん」の研究室へは一郎のほか大前田さんと大林が同行した。
 案の定だった。
「馬瀬君はなぜ能に興味をもつのかね。きみの文学がめざしている現代の問題と、それはどのように関係するのかね」
「ベルモントさん」は、野太い声で訊ね返した。色艶のよい楕円の顔に笑いが浮んでいる。一郎はそこに皮肉を読みとった。
 一郎は言葉に詰まった。返す言葉が見つからなかったからなのだが、予測が見事に的中して驚いてもいた。
「現代をとらえるためには伝統を否定的媒介にしなければなりません」
 一郎は苦しまぎれに、棒読みの口調で言った。
「きみたちの発表会を楽しみにしているよ」
 そう言って、「ベルモント」さんは謡曲クラブの顧問を承諾した。
 三人が鄭重に礼をして研究室を辞したあと、一郎の気持ちは釈然としなかった。学生能発表会の日まで謡曲クラブをつづけられるだろうか。最近、謡曲(その稽古)と経済学研究会(その学習)とのあいだの異質感をはっきりと感じはじめている。

「それは馬瀬君、絶対的窮乏論によって理論的に解決する問題ですよ」
 水口健二が、一郎の発言に応えて即座に言った。
 テキストの読解が済んでいつもどうり討論にうつり、終りぎわに一郎が発言したときだ。資本主義から社会主義への移行を歴史の「法則」とか「必然」によって説明する意見には、いつも胸につかえるものがあって、ようやくきょう、それを口にした。「下部構造」と呼ばれる経済のしくみの変革は、プロレタリアートの主体的力量によって左右されるのではないか、人間の主体こそが社会主義革命を方向づけるのではないか・・・・・・。一郎は自分の発言が文学的にとられるのでは、と惧れながら思いきって言ったのだ。
 経済学研究会が使っている教室には、どこか隔離された雰囲気がある。部室を持たないので、昼間の授業が終了したあとB校舎の一室を使っている。二部の授業は行われているのだが、それはA校舎に集中していて、B校舎に学生の人影はなく閑散として廊下の明かりもほとんど消されている。
 その教室で一郎が経研の仲間とともに最初に読んだのが、レオンチェフ「資本主義とは何か」。いわば経研の入門書だった。そのあとマルクスの「賃金・価格・利潤」「賃労働と資本」を読み、いまはエンゲルスの「資本主義綱要」がテキストだ。
 初めの頃はテキストに登場する言葉の概念一つ一つが未知のもので、読んでも読んでも内容はチンプンカンプンでしかなかった。テキストの文脈を「働かざるもの食うべからず」「能力に応じて働き、必要に応じて得る」といった俗語に変換して理解したつもりになろうとしたほどだ。その“社会主義的俗語”でさえ、彼が中学生の頃、当時、仕事もせずヒロポン中毒に罹っていた長兄が自己韜晦じみて部屋の壁に貼紙していたなかの言葉にすぎない。
 それでも漁港の町で八人きょうだいの一人として貧しく育った生い立ちが幸いして、資本主義の現実にたいする未分明なりの違和感はあり、社会主義への憧憬はあった。そんな程度の関心だったから、文学の領域でも社会主義リアリズムとかマルクス主義芸術論とかには馴染めず、カミュ・サルトル論争では、カミュの立場に親和を覚えている。
 一郎は経済学研究会の学習に参加してほぼ八か月、ようやく資本主義とは何か、その輪郭をつかめるようになり、資本主義へのアンチテーゼとして社会主義理論の概要を漠然とながら理解しようとしている。それで学習会でテキストとして読むのとは別に、自発的にマルクス『共産党宣言』、レーニン『何をなすべきか』をほとんど理解できないままに読んだりしている。理解できてもできなくても、いずれ『経哲手稿』や『資本論』『反デューリング論』なども読まなくてはと思い、古本屋でそれらを購(もと)めるために金をためているのだ。
 そんな一郎に何かと教唆してくれるのが、キャップの水口健二。水口は三年生だから、教養課程の名古屋校舎ではなく専門課程の豊橋本校に通っているのだが、学習会のたび名古屋校舎の経研に顔を出す。四年前、メーデー事件、吹田事件などの「騒擾事件」と踵を接して名古屋で大須事件が起ったとき、彼は高校三年生で高校生Sと呼ばれる細胞に属していた。そして大須球場で開かれた集会に参加し、デモ行進にうつった直後、ポリス・ボックスへ火炎壜を投げ、検挙された。未成年者ということで起訴猶予になったが退学処分となり、大検に合格して一年遅れで愛智大学に入学した。
 水口健二の経歴を知ったとき、一郎はある種の感銘を受けた。大須事件にはささやかな因縁があったからだ。それの起ったとき一郎は中学三年生の一学期だったのだが、授業の時間を潰して事件のことを熱っぽく話したのは国語教師の九米仙七だった。「九米はん」は、事件の際、集会に参加していた朝鮮人高校生が警官隊の発砲によって殺害されたことを教室の皆に伝えた。殺害された高校生は一郎たちの中学校の卒業生であり、一郎の小学校時代の友だち申萬浩の兄だった。
 一郎が水口に一種畏敬の気持ちをいだいたのはそんないきさつがあってのことだが、それだけではない。水口はすでにマルクス主義関係の文献を豊富に読み込んでいるらしい。『資本論』全巻を読了しているばかりか、第何章の何節にはこれこれの文言があると暗唱(そらん)じたりする。誰それの発言や疑問には即座に、それについてはどこそこでレーニンがこう書いていると引用する。
 一年生メンバーまでが水口の影響を受けて、やたら「レーニンは、・・・・・・と言っている」とやったりする。何かといえば一知半解のまま、「絶対的窮乏論」とか「アジア的生産様式」とか「物神崇拝」とかの言葉を口にする。それは経研のなかでは一種の流行(はやり)言葉の様相を呈している。学習会が始められた当初、「マルクス・レーニン主義」のマルクス・レーニンを同一人物のフルネームと勘違いして、仲間の失笑を買った芝山富吉でさえ、近頃ではそれらの言葉を合言葉みたいに流暢に口にする。
 馬瀬君、きみの考え方は唯物弁証法を否定するものだよ。プチブル観念主義であって科学的ではない・・・・・・。誰かがそんな批判を口にするのでは、と一郎は予想したのだが、皆、黙っていて、喜多弘次の言葉が意表を衝いた。
「馬瀬君の考えは、ヘーゲル的だな」
 一郎は高校三年生のとき岩波文庫の『哲学入門』を呼んでいたが、友人の夫馬敬成に「ヘーゲルを読んだ」とひけらかすために読んだにすぎず、まるで記憶に残っていない(理解できなかった)ので、喜多にそう言われても馬の耳に念仏、反論ができなかった。
「次回には絶対的窮乏論についてもう一度学習しましょう」
 口を噤んだままの一郎に助け舟を出したのは、水口だった。
 時刻はすでに九時に近い。学習会は三時間を十分にこえている。A校舎では二部の授業が終わる頃だ。
 経済学研究会のそんな雰囲気と大前田宅で行われる謡曲の稽古風景とはあまりにかけはなれている。稽古のあいだ鼓方をつとめる大前田夫人は五人の学生をまえに妙にはなやいで和服姿もなまめかしい。声を作り科(しな)を装って、練習生に触れる所作が必要以上に過剰ともおもえる。「大前田夫人は若い男性に目がない」というのが、大林美身の評だ。大林はさらにつづけて、「馬瀬君、気をつけたほうがいいよ。夫人はきみを狙っとるらしい」と忠告する。もっとも彼は、一郎だけにではなく鶴田と中浜にも同じことを言ったとのこと。同級生ながら法学科の二人とは稽古で顔を合わせる以外、交渉はほとんどなかったけれど、彼らが憤慨して大林の言葉を伝えるのを聞いて、大林自身が大前田夫人から狙われたがっているらしい、と一郎は勘繰る。
 夫人とは対照的に、夫の大前田先生は終始、仏頂面をしている。稽古の途中、何度も駄目を出すのだが、それは練習生の未熟さのせいばかりともおもえない。時にヒステリックな様相さえ呈することがあるからだ。大前田先生の不機嫌は、夫人の態度と何か関わるのでは、と一郎が勘繰るほどだ。大前田先生の生業が何なのか、一郎にはよくわからない。建設ブローカーだ、と大林は言う。そういえば大前田先生はニッカボッカーがよく似合いそうな、いかつい体格をしており、浅黒く日焼けした容貌もその体型に適合している。
 経済学研究会の学習と謡曲クラブの稽古との関係を「理論的に解明」することは、一郎に出来ない。前日、三時間以上も学習してまだ『資本論綱要』のなかの一節が頭のなかに残っている状態のまま、翌日の謡(うたい)の稽古では、坂上田村麻呂が観音の助けを借りて「東夷」を平定したという故事に清水寺の縁起をかさねて脚色した能の物語を謡っている。その落差は滑稽。一郎に生理的違和感を覚えさえ、思考の分裂を招きかねなかった。
 一郎は心理的危機感を解消するため、残余の時間はひたすら小説や文学書を読むことに没頭する。家ではフランス語の復習以外はそれに費やしたし、授業と授業(たとえば一限と三限)のあいだに講義の間があけば、空(あ)いている教室を探しては、そこでカミュの『異邦人』サルトルの『嘔吐』カフカの『審判』ドストエフスキーの『悪霊』などに読み耽る。広い階段教室の最後列隅っこの席に掛けて一人、本を読んでいる彼の姿は、木木の枯れ枝に一羽だけ止った鳥のように孤独だ。そんな姿が学友の目にとまることを一郎は恥じた。
 一郎は高校生の頃から孤独な読書の折折、感想を書いていて、そのノートは五冊目になっている。その行為もまた孤独の影をまとっていて、彼には他人の目を憚ることのように思えた。

(ノート「檻と草原」より)
『転落』は、『異邦人』『ペスト』をついでカミュの不条理文学を小説化したものであるが、驚いたことに『シジフォスの神話』以来、長い歳月にわたる人間的・社会的変遷が作家の上に襲いかかったにも拘わらず、カミュの思想の根源は逸脱していない。このことは一貫性として賞讃すべきことなのか、停滞として非難されるものなのか。
 ともかく、カミュが思想の枠組みを変形させることなく不条理論を発展させつつそのイデーを、独得の南国的詩情にデコレートさせながら文学作品としたのは素晴らしいことだ。
 『転落』のモティーフは不条理を意識する瞬間であり、それ以前と以後である。
 ジャン=バティスト・クラマンスにとって不条理の感情は突発的にやってきた。しかも彼の心的状態が甚だ芳しい時に起ったのである。その瞬間から、クラマンスは「不条理の人」としての自己を自覚する。そしてその瞬間からクラマンスの(自己の)行為についての解釈は逆転される。その瞬間以前にはヒューマニズムとして映った行為と情景が、エゴイズムとして自覚されるようになる。
 即ち、用心深く、偽善という装飾によって隠匿されていた人間性が、「不条理の人」として自覚された瞬間、無慙にも裸にされ、以後、彼をおそうのは自己の「内部」と「外部」に対する「罪の意識」である。但し、不条理の感情の発生、「不条理の人」としての自覚、「罪の意識」の、心理的順序を完全に規定することは不可能だろう。
 いずれにしても、その瞬間以後、クラマンスには烈しい虚無の日々が訪れ、無意味という言葉が必要となる。「無意味」は際限なく無を分泌し、彼の存在を無に近づける。
「不条理の人」は「罪の意識」によって責められ、あるいは鍛錬され、「不条理の人」として完璧な存在となり、同時に無へと近づく。『転落』における絶望的な暗さは、そのパラドクスに因るのであって、人生の否定ではない。むしろ反抗でさえある。
 自殺の拒否! 自殺は自他を、救わない、懲らしめない、是正しない。せいぜい他人の退屈を楽しみに換え、世間話に花を添えるのみだ。
 それにしても、カミュは相変わらず肉欲と愛の戯れがお好きだ。性愛は行きずりの遊戯であって、人生にとって絶対的なものではない。尤もカミュにとって絶対的なものなどない。唯すべてが無=意味の生を生きるために必要とされるにすぎない。
 生きる、という事実のみが光り輝いている。
 カミュにおける神の観念――ドストエフスキーは、人間は裁かれる立場にあるものだ、と言ったけれど、カミュは、人間は常に裁かれる立場を回避しなければいけない、と言う。カミュはもう一言付け加えるべきだ、人間は自らをのみ裁く立場にあるべきだ、と。勿論、そう付け加えたからといって、彼が「神」の観念を否定するのではない。
 カミュはドストエフスキーが『悪霊』でたたかったように『ペスト』のなかでたたかうが、彼の「神」は肉体のなかにあって、ロゴスによっては是認されることのない罪――性欲、暴力、殺人を是認する。
 カミュの場合、罪の意識が己を救うというパラドックスが成立する。
 カミュが私に悟らせるのは、死=無に限りなく近づく生=存在という、生きることだ。
一九五六年九月二十八日

『嘔吐』を、今日、ようやく読み了えた。サルトルは何時も難解だ。
〈私は存在したくないと考えるから、私は存在する〉
〈私の裡にあって、依然、現実感を持っているもの、それは、存在することを意識する存在である〉
〈意識は、絶対に自己を見失うことがない。それは自己を見失う意識であろうとする意識であるから。・・・・・・意識の意識がある〉
 以上のような、アントワンヌ・ロカンタンの内白は、私には詭弁じみて聞える。私がまだ『存在と無』を充分に読んでいないせいかもしれない。しかし、サルトルの小説の強烈な個性と独特の肉体的な粘っこさは魅力的であり、私の索めるものだ。サルトルの哲学と身体性がこの日記風の物語手法を創造的にしている。
 梶井基次郎の『檸檬』を読んだときと極似の衝撃を『嘔吐』から受けたのは、不思議だ。
 主人公アントワンヌ・ロカンタンには壊れ物に触れるような脆さを覚える。不条理の意識の、自己存在に対する不安と畏怖が、私を緊張させるからだ。ロカンタンにおいては、一塊の石ころが人間の意識に亀裂を走らせるような感受性を日常的現実にする。不条理の開示が日常化するのだ。人生には意味はない、自分に存在する理由はない、自己存在そのものが余計である――そうした不条理の意識が、石ころを拾い上げた瞬間、嘔気となってロカンタンを襲う。悲劇が始まるのは、その瞬間だ。
 意味のない人生のなかで生きている、余計の自己存在を存在している、そうした自己を発見しながら、しかし現存在は否定できない。此の驚くべき不条理が、人間を日常的に極限状態に追い詰め、実存の根源的な問いを迫る。
 サルトルはそのような嘔吐の意味を文学作品によって提出したのに違いない。不条理としての存在の苦悩! 凄烈な文学的テーマだ。
『嘔吐』の結論はこういうことになるだろう――ロカンタンの索めた、偉大な苦悩は、存在が苦しみは在るということを知らせるだけであって、その苦しみは存在の中にはなく、人間の背後にあって永遠に姿を現わさない、という点にある。
 意味があるのは、その苦しみであって、存在そのものには何の意味もなく、苦しみとの相対関係にあって余計なものである。此処に於いて、人間存在に対するサルトルの不条理の意識は恒久のものとなる。カミュの『異邦人』に於けるムルソーの思想と、『嘔吐』に於けるロカンタンの思想とは、類似の相に於いて出発する。それは『ペスト』によって、或いは『自由への道』によって、それぞれに如何に発展させられるか。その二大作を読むのが当面の楽しみだ。
 私は、私が在ることを意識する。
 実存とは、そうした素朴なものかもしれない。
一九五六年十月十五日

 『審判』のヨーゼフ・Kに降りかかった無実の訴訟も、『変身』のザムザを襲った冷酷な変容も、共にメカニックな不条理への不安の意識だ。カミュの反抗が人間そのものを主体とする不条理性へのそれとするなら、カフカの抵抗は不条理のメカニズムに対するそれと言える。しかし、ヨーゼフ・Kの抵抗はあまりに絶望的であり、精神的自殺の相を呈する。
「まるで犬だ」この最後の叫びによってさえ救われることがない。その時、石切台の上のヨーゼフ・Kは既に死を受け容れていた。カミュに於いては『ペスト』の医師であれ『異邦人』のムルソーであれ『神話』のシジフォスであれ、不条理への反抗に生きた。反抗の文学に執って死の容認(精神的自殺)は、嫌わしい結末であるかも知れない。
『審判』によって、人間存在の極限状況は提供された。其処には既に不条理な世界への告発があり、反抗がある。ヨーゼフ・Kは弁護士を斥け、神に反逆する。それは彼が自己自身であろうとする偉大な努力である。しかし、彼が貧乏画家の弁舌に乗り、女の救いを求めるとき、ヨーゼフ・Kの不安も存在も明確さを失う。カフカが文学のアンガージュマンを放棄するのと同義である。
 アルベール・カミュが次の如く指摘するのは、将にそのことではないか。
〈『審判』一切を提供しながら、何ものをも確立しないのが、この作品の運命であり、そしておそらくは偉大さである〉
〈創造が成すべきことは、遁辞を拒むことだ。
 処が、カフカが全宇宙に対して提供する烈しい訴訟の果てに、わたしは、この遁辞を見出すのである〉
 カフカは『変身』に於いて人間を喪失する。『審判』に於いて起訴され、裁かれる。『城』に於いて「測量師は必要でなかった」とき拒絶され、疎外され、罰せられる。
 それらは不条理に於いて既に与えられたメカニズムであり、先天的、宿命的でさえあって、帰結は常に敗北なのだ。敗北だけがパラドクシカルに救いなのであって、問題なのは敗北のために如何に闘うかである。カフカも亦、「シジフォスの神話」であり、神話=物語が既に外部の不条理を告発している、主人公の敗北と引換に。
 カフカにとって「自由」は一個の「絶望」であった。カミュとサルトルに於いてそれが「選択」の苦悩であるのに似ている。
一九五六年十一月十四日

『カラマーゾフの兄弟』を十三日間で読み終えた。恐るべき小説だ。『悪霊』も凄かったが、その比ではない。さすが疲れた。
〈私は、偉大なる人間の苦悩と悲惨の前に跪く〉
 ドストエフスキーのその言葉は私の胸に響く。ヒューマニズムではない、感傷やモラリズムではない。人間の愛苦に直面した魂の声が深く胸奥に響いてくる。
〈聖性とは、苦痛を役立たせることである。
 それは、悪魔に神であることを強制することだ。
 それは、悪の感謝を獲ち得ることだ〉(ジャン・ジュネ『泥棒日記』)
〈異教徒の徳は輝かしい罪悪である〉(キェルケゴ-ル『死に至る病』)
〈自由とは、苦痛である〉(アルベール・カミュ『シジフォスの神話』)
 それらの言葉をドストエフスキーの告白は想い起こさせる。人間の深淵に直面したものが負う、悲哀とも憤怒ともつかぬ魂の声において、それらは類似である。
 ドストエフスキーは次のようにも言う、〈彼らは、自分の本質を充分に究めようとして、かえって極度な孤独に陥っている〉
 苦悩、罪悪、孤独、自由という苦痛。それらは将に文学のテーマー、人生の主題に他ならない。
 それなのに私にいま在るのは、仮構された苦悩と自由の苦悩、虚構の孤独と罪の観念。此の虚構の一切が真理に変わるのは、それら苦悩、自由の苦痛、孤独、罪の観念とシジフォス的に闘う時であり、その闘いこそが唯一の救いと知る時であろう。
一九五六年十二月十六日

 馬瀬一郎が一時、教会へ通ったのは、高校三年生の今頃の時季であった。深い動機があってのことではない。けもの集団を率いて暴力三昧に明け暮れていた過去と完全に訣別すること、そして欧米文学を読み始めていて「神」の問題を理解しなくてはと思っていたこと――そんなとき友人の夫馬敬成に勧められたのだった。
 プロテスタント教会の気風には馴染めず、礼拝には数回行ったきり頓挫したのだったが、最近、彼がそのことを思い出すのは、ドストエフスキーやカミュを耽読しているからに違いない。しかし、それだけではないことに彼は気づいている。
 教会へ行くのは最後にしようと決心して礼拝に臨んだ日、彼は牧師の説教がつづいている途中、突然、挙手をして質問した。教会で経験した違和感について述べ、日曜日も働かなくてはならないため礼拝に来られない友人のことを訴え、現実社会の変革にキリスト教が寄与しうるかを質したのだ。性急な発言に四囲から冷たい視線が突き刺さってくるのを、一郎は感じた。
 礼拝が終わっての帰り、バス停にむかう彼の背に声をかける人がいた。磨かれた石像のように額が美しく、容貌全体が透き通るような印象を与える女性だった。彼女はそのことだけを言うために後を追いかけてきたというふうに、「私も、あなたの発言に同感だわ」と告げた。そのあと短い言葉を交わし合ったきり、バス停で二人は別れた。名前を先に名乗ったのは彼女のほうだ。
 あのとき一度、会ったきりの神坂ねんこのことを一郎は高校を卒業するまで忘れられずにいた。彼女の像が彼のなかで薄らぎはじめたのは、大学にはいって未知の日日に気をうばわれるようになってからだ。ところが、明日がクリスマスイブという日、一郎は思いがけず彼女と再会したのだった。
 謡曲クラブのキャップの大前田が稽古のあとで皆の前に学生能発表会のチケットの束を示したのは、四日前のこと。チケットがなかなか捌けないので各大学の部員が分担して売ることになったと言う。どんな方法で売り捌くか相談するうち、二人一組のコンビを組んでキャッチ商法の要領で学内で売ろうと決まり、学生だけではほとんど売れないだろうから百貨店なども訊ね、店員をターゲットにしようということになった。学生主催のダンスパーティを開くときパーティ券を捌く、あの手法の模倣である。それで一郎は芝山富吉と組み、M百貨店を訊ねたのだった。
 神坂ねんこが洋傘ケースのむこう側で驚きの表情をみせたのと、一郎が彼女に気づいて、あッと声を上げたのとは同時だった。それでも神坂ねんこは瞬時に、透明な印象の容貌から色彩がひくように驚きの表情を納め、懐かしげな笑みを浮かべた。
 一郎は挨拶の言葉が見つからず、いきなり学生能のことを説明し、チケットを示した。
「そうなの、大学へ進んだの?」
 神坂ねんこは一郎をまっすぐ見ながら、なぜか視線を曇らせて言い、チケットには碌すっぽ目もやらず付け加えた、
「いいわ。友だちを誘うから二枚下さい」
 チケットを渡すと会話の接ぎ穂を失って、一郎は、ありがとう、と言ったきり踵を返してしまった。去りぎわに神坂ねんこが、クスッと笑ったのが何の意味か、彼には判断できなかった。一郎の不器用な態度を笑ったのか、それとも一年前に教会で牧師に噛みついた高校生がいま謡曲などしているのが可笑しかったのか。
 そんなことよりも一郎には、彼女と別れて何か忘れ物でもしてきた気持ちが切実だった。次の布石を打っておくべきだった、と思う。いや、これでいいんだ、彼女が発表会に来たときに会える・・・・・・。そう自分に言い聞かせる端から、神坂ねんこの言った友だちが恋人だったらどうしよう、などと一人相撲の憶測をして、そんな自分を内心軽蔑した。

 学生能の発表会は終った。芝山富吉と連吟で謡った、十分ほどの『蘆刈』「笠の段」は無難に済んだが、大前田征が舞った『田村』の地謡では、謡っている一時間ほどは足の痺れを意識しなかったのに、謡い終えて立ち上がろうとした瞬間、一郎は見事にひっくりかえった。一郎だけではなかった。六人のうち四人までが退場するとき転んで、客席にどッと笑い声が上がった。
 神坂ねんこは発表の日、姿を見せなかった。ところが、偶然はふたたび必然のように訪れた。
 学生能発表会のあと、一郎は謡曲クラブをきっぱりと退(ひ)いた。経済学研究会の学習には参加しており、家庭教師のアルバイトもつづけているが、時間的余裕ができた。大学へはいって以来、疎遠になっていた高校時代の友人・夫馬敬成との交友が復活した。一郎は文学の友人に飢(かつ)えていた。いつか同人雑誌を発行したいと思っている彼にとって、夫馬は得がたい存在である。
 一郎は夫馬と二人、栄の丸善で本を覗いたあと、夕暮れの通りに屋台の提灯が並ぶ広小路を名古屋駅前まで歩き、大手新聞社の中部本社があるビルの一階で画具の店にはいった。明日、島崎藤村の記念館がある馬篭へ行くことになっていて、スケッチの道具を買うためだ。「不条理の文学」に熱中している一郎に藤村への関心はないが(夫馬は相変わらず自然主義文学を愛好している)、馬篭行きは初めてなので付き合うことにした。
 画具店を出てビルの玄関へ向かおうとしたとき、何か視覚の端に閃くものがあって一郎は振り返った。ネッカチーフなどを売るショーウィンドの傍に二人連れの女性がいて、立ち止まった一郎に気づいたのは神坂ねんこ。
 一郎が彼女のほうへ歩くのと、神坂ねんこが彼のほうへ近づいてきたのと、ほぼ同時だった。
「この前はごめんなさい。祝日の休暇はどうしても取れなくて」
 神坂ねんこが、詫びる機会を待っていたふうに言う。
「チケット返品してくれてもいいよ」
 一郎は言って、すぐ後悔した。神坂ねんこは可笑しそうに小さな笑みを浮かべた。その顔に化粧気のないのが、彼女の職場柄、意外だった。
「琥珀でお茶でも飲まない?」
 コーヒーを飲みながら、学生能の発表会のとき謡い終って退場しようと立ち上がった瞬間、足がしびれてひっくりかえった話をして、彼女が笑うのを見たい、そう思う。
 神坂ねんこは連れの女性を振り返り、今度の機会に、と断った。彼女は踵を返して去ったが、今度の機会に、という一言は一郎の耳に新鮮だった。
 翌日、日帰りの馬篭行きを「信州の旅」に変更しようと言いだしたのは、一郎だった。去年の三月、いまと同じ季節、高校卒業の記念に淡路島と京都を巡る一人旅をして以来、旅の気分を味わっていない。こんども一人旅をしたいのだが、いきなりそれを切り出すわけにいかず、夫馬が難色を示せば物怪(もっけ)の幸い。ところが夫馬はあっさりと同意した。信州の旅なら島崎藤村ゆかりの小諸や千曲川を訪ねられるからにちがいない。
 二人は深夜の名古屋駅から中央線鈍行列車に乗った。
 一郎は旅のあいだ車中や宿で折折の感想をノートに綴った。

夜行列車にて
 疲労と不眠のなかで始まった旅でさえも、いつの日にかそれが蘇る思い出になることを思えば、不快を覚えない。喧騒と間抜けと不作法に充たされた夜行列車の一夜さえ、思い出の種子であることを知っている。

                               夜明けのイメージ
夜の明け染める頃、白っぽい翳らいのなか列車は走る。
 山陵と山陵の狭間(はざあい)、谷間の底に、文明から見棄てられ、あるいはそれを拒絶して息づいている村々。点在する家々の明かり、静まり帰るたたずまい、その風景が醸し出す無関心。
 夜明けの村が醸し出す美しさは、論理ではなく情緒だった。それで二人は「朝とその美」について語り合った。「朝には邂逅があり、夕には別離がある」などとぼくが言う。その陳腐なアフォリズムさえ滑稽ではなかった。

                                  老尼と従者
 善光寺で奇妙な儀式を目撃した。
 二人の尼僧を従えた老尼が、朝の参道を勤行のために本山へ登って行く。従者の一人が赤い傘を老尼の頭上に差しかけ、いと厳かに静々と。
 参道の両側には多くの善男善女が跪き、瞑目する。男たち数人が参道の者に跪拝するよう促す。従者の尼僧二人はあたりをキョロキョロ眺め、きらびやかな僧衣の老尼は、拝跪する信徒たちの頭に手を触れては通り過ぎる。このうえなく事務的な仕種で。
 お道化た若者たちがその奇妙な儀式を笑いながら老尼の前に跪く。老尼は変わりない所作で若者たちの頭上に手を添える、このうえなく厳かに、事務的に。
 この儀式の性格の途轍もないアナクロニズムに、ぼくと友人は当惑する。なぜか滑稽と裏切りをぼくは感じる。

                                 ぼくも藤村的?
 ぼくの嫌いな藤村の、看板絵もどき一色に塗りつぶされた悲劇的な城下町。
 なのにぼくも友人同様、小諸城址の落ち着きと、小雨の煙る千曲の谿流に心魅かれるのを、如何ともできない。
 所詮、ぼくも藤村的なのか?

                                ドイツ人の別荘
 すっかり落葉した木々の間を真っ直ぐ続いていく赫土道。
 軽井沢で前時代的な電車を降りたぼくらは、題名のない歌をハミングしながら、時に口笛を吹き、ほかに人影のない竝木道を歩く。外人別荘地帯を通り過ぎる時、ぼくらはその殆どがドイツ人の標札であることを知る。門扉に掲げられた番号もドイツ語。
「シュバイツアー」
「否、シュバイツェル」
 友の発音をぼくが正す。

                                  旅について
 人と喧騒の諏訪湖畔。縄文の神々が渡った湖面に神秘なく、凡庸。昨夜の宿で飲み過ごした宿酔が、まだ尾を引いている。
 八ケ岳、アルプス、富士を霧ヶ峰高原から望んで、気持かなり慰められる。
 旅――それは人生への、怠惰な、変哲のない、しかし決定的な意志であり、刻印である。

 信州の旅からもどって日を経ずに一郎がM百貨店を訪ねたのは、一週間まえの夕方、偶然に出会った神坂ねんこがもらした言葉を彼のほうから実現しようと思い立ったからだ。今度の機会に・・・・・・。彼はあのとき彼女の言葉に新鮮な感情を覚えたけれど、態のいい逃げ口上かもしれないと疑っていた。それならそれで構わないと自分に言い聞かせ、三度目の偶然に賭けるつもりでいた。ところが旅から帰って、こちらから神坂ねんこに会いに行こうと思い立ったとき、それが不意の衝動ではないことに彼は気づいた。小諸の町で木(こ)芥(け)子(し)を買ったときすでに彼女への土産にする心づもりだったのだから。
「ふーん、島崎藤村、好きなの」
 一郎が信州を旅したことを言って木芥子のはいった木箱を渡すと、神坂ねんこはちょっとためらったけれど、ありがとうと言って受け取り、そう言った。彼女の口吻が一郎には微妙な侮辱をふくんでいるふうに聞えた。
 いや、違うよ。旅のあいだ、おれはマルローの『人間の条件』を読んでいたんだ・・・・・・。
「藤村なら、『破戒』を読んだことがある」
 神坂ねんこはちょっと無機質な口調で言いつぐ。
『破戒』ならおれも読んだ、と言おうとして、一郎はやはり『人間の条件』にこだわる。それなのにうまく言葉にならないのは、神坂ねんこがアンドレ・マルローを知ってるだろうか、いや知っているとして、気障にとられないだろうか、そんなためらいがあったからだ。
「ごめんなさい。客でもない人と立ち話してると、同僚がうるさいのよ」
 不意打ちみたいに神坂ねんこが、一郎の胸を一突きした。
 一郎はまたも、彼女が厄介払いしたがっていると勘繰って腹を立て、背を向けて商品ケースの傍を離れた。二、三歩来たところで不意に踵を返し、ふたたび神坂ねんこのほうへもどると、一郎は彼女を誘った。退社時に合わせて時間を決め、M百貨店と道路を隔てて隣り合う丸善の二階書籍売場で待っている、と告げた。神坂ねんこの返事は曖昧だったが、断ったとも受け取れなかった。ただ、これまで会うたび彼女の透明な印象の顔を輝かせた笑みが、きょう一度もみられなかったのが一郎の気にかかった。
 一郎が強引に告げた場所に時刻を違わず神坂ねんこが現れたのは、彼になかば意外だった。それでも彼はそのことを確信していたように考えることにした。
 夕暮れどきの風が少し冷たい街路を、二人は広小路通りから名古屋駅前まで歩き、喫茶店にはいることにした。途中、神坂ねんこは口数少なく、小柄というのではないが華奢な体付きに似合わず足早に歩いた。一郎は、彼女が異性と散歩することに慣れていないせいにちがいないと思うことにした。
 喫茶「琥珀」で一郎はコーヒーを、神坂ねんこはレモンティを飲み、会話も途切れがちに十五分ほど過ぎたとき、彼女は彼のコーヒーカップが空(あ)くのを待っていたかのように帰ると言い、琥珀ビルの前で別れた。
 翌日の金曜日を間に置いて、一郎がたてつづけに三日間、神坂ねんこの職場を訪ねたのは、彼自身にも馴染まないほどの情感に衝き動かされてのことだった。訪ねるたび一郎は彼女を誘い、最初のときと同じ場所で約束の時刻に待ち、昏れなずむ街路を二十分ほど歩いて、駅前の琥珀でお茶を喫む。二人の会っている時間が徐徐に長くなったのは、散歩の道道、交わす言葉が次第に増え、歩調がゆったりとし、コーヒーとレモンティを飲みながらの会話にも気持ちが通いはじめたからだった。
 そうして一郎は、彼女について少しずつ知るようになった。神坂ねんこの家は、名古屋から西北へ私鉄電車で十分ほどの町(そこはすでに市内ではなく郡部なのだが)にあって、高校は名古屋の西部にあるそれへ、一級河川庄内川に架かる橋を渡って自転車で通ったという。彼女の通った高校が一郎の卒業したけものの学校とは対極の名古屋でも有数な進学校であることを知って、彼が驚いたふりをすると、
「馬瀬さん、東方高校なの。あの学校の生徒には近づくな、というのが、わたしの学校の校是だったわ」
 神坂ねんこはそう言って、「校是」という言葉におどけて笑った。
 一郎も図に乗って、漁港の町の彼の家のこと、高校時代は「トーホーのイチロー」などと呼ばれ、傷害事件で家庭裁判所送りになったことなど、話したりした。
 それなのに肝腎な大学の話はしなかった。彼女が時に口にする言葉の端端から、神坂ねんこがその話題を好まないと気づいたからだ。三か月ほどまえ学生能発表会のチケットを売り捌いていて偶然、M百貨店で一年振りの再会をしたとき、彼女は「そう、大学に進んだの」と呟いて表情を曇らせたのだったが、それ以来、一郎の頭の片隅にその表情が謎のようにひっかかっていた。謎が解けたのは、彼女が大学進学を断念したときの口惜しさを語ったからだ。
 二人が出会うきっかけとなった教会へ彼女が通ったのも、進学を断念せざるを得なかった(その理由について神坂ねんこは語らず、一郎も問い質さないことにした)心の動揺を慰めるためだったという。当時、動揺のまっただなかだったということらしいが、あれは一郎が高校三年生の三学期なのだから、神坂ねんこは同学年ということになる。
「最初に会ったとき、確かおれより年上のように言ったはずだよ」
 一郎が真面目な口調で言うのに、
「そんなこと言った? もし言ったのならわたしの天邪鬼が騙したんだ」
 神坂ねんこは事もなげに返し、表情を淡い色彩で染めた。
 一郎が神坂ねんこを馬篭行きに誘ったのは一種、自然のなりゆきだった。四月にはいって二年生前期の授業が始まる直前の金曜日、二人は朝早くの名古屋発中央線の列車に乗って中津川まで行き、そこから緩い傾斜の山道を休み休み歩いて二時間ほどをかけ馬篭へ行った。夢が実現して、一郎は得意の絶頂だった。
 神坂ねんこと初めての接吻を交わしたのは、馬篭の宿(しゅく)を散策したあとさらに傾斜の道を登り、妻篭の宿の入口あたり、人けの途絶えた山涯の際でだった。四囲に展けた山嶺を眺めるうち、一郎が感情に促されるまま誘い、二人は唇を合わせた。何かの果物に似た彼女の口臭が生(なま)めいて一郎の欲情を刺激した。彼は舌さきで彼女の唇をひらこうとする。神坂ねんこは少し息を弾ませたが、最後まで歯を噛み合わせたままだった。

     Ⅱ

「愛智大学名古屋校舎」の標板がある校門をはいって、右手に櫟の木が一本、先端の鋭い葉を繁らせて毅然と孤独に立っているのを眺め、狭いキャンパスを抜けると、事務棟の玄関はある。
 あれ、何かあったのか・・・・・・。
 掲示板の前に学生たちの集(たか)っているのが馬瀬一郎の目にはいった。休講とか教務連絡といったなじみの場面にしては人集りが普通ではない。合格発表の掲示を見るのにも似て、学生たちの様子がどこか昂(たかぶ)っている。
 掲示板にはB紙をつなぎ合わせた貼紙に三十名ほどの姓名が墨書されており、その頭書きによって新学年特待生の発表であることが知れた。
「馬瀬君、凄いんやね。特待に選ばれとる」
 横合いから声が飛ぶ。フランス語の授業と経済学研究会でいっしょの芝山富吉が浅黒い童顔に笑いを浮かべている。芝山が声をかけなければ、一郎は貼紙の名前も確かめずに掲示板の前を離れるところだった。
 経済学科二年生の欄に馬瀬一郎の名前が確かにあった。瞬間、頭の中が少しぼーッとした。錯覚ではない。
 入学試験では特待生枠を受けて不合格だった。以来、一郎は特待生へのこだわりを捨てていた。確かに一年生前後期の成績簿はほとんどの科目が「優」ではあった。だからといって特待生をめざして勉強したつもりなどなく、大学のレベルがよほど低いのだろう、と思っていた。
 もしかするとベルモントさんのお陰かもしれない・・・・・・。ふとそんな疑いが一郎に起った。フランス語の美波志ベルモントが一郎に示す好意からして、彼が教授会(特待生選考委員会)で強力に推したということは、充分に考えられる。
 一郎は名古屋駅に近い家で母子二人の間借り暮しをしている夫馬敬成の部屋に泊まることが多くなっていたが、四日ぶりに漁港の町へ帰った。家へ着くなり、特待生に選ばれたことを報告すると、父は喜んだ。父の半端ではない喜びぶりをみて、特待生選抜のいきさつへの疑いは吹き飛んだ。
 大学入学以来、一郎は奨学金とアルバイトの収入で学費などを賄い、家からの経済的援助は一切、受けていない。だから、父の喜びが金銭的理由でないことは確か。高等小学校を卒業後、家業の職人仕事を継いだ父は、五十二歳になる今日まで間に外国航路の貨物船乗組員、山林伐採人夫、繊維ブローカーなどの職も転転としながら八人の子どもを育てた。小学校の頃、「勉強の出来る子」として町の語り草になるほどだった父には、「上の学校」へ行けなかったことが余程、口惜しかったらしく、子どもには教育を受けさせたいと口癖にしてきた。長女は高等女学校を出たけれど、長男、次男はいずれもぐれて高校途中で退学した。三男・一郎の大学進学によってようやく希望は叶ったのだった。そこへ飛び込んだ、特待生選抜の報だった。
 一郎はといえば、経済的理由によって率直に喜んだ。授業料免除は、奨学金の月額二千円がまるまる浮くことを意味する。これまで散発的に手に入れていた「世界文学全集」(河出書房刊)の購入にはずみがついて、全巻揃える目途がついた。窮屈にしていた小使いにもいくらか余裕がうまれた。
 一郎が夫馬敬成と連れ立ってストリップ劇場をしばしば訪ねることになったのも、いわば特待生の余禄ということになる。
 開慶座は名古屋駅前のビル街を少しはずれた商店通りにある。もともとは芝居小屋だったので、舞台、花道、二階桟敷が残っていて、せり上がりもある。フィナーレにはそこからトリをつとめるダンサーが登場する。
 一郎と夫馬は、時間を持て余す日など朝十時の開演から二階桟敷に入りびたる。時時はダンサーの拙い踊りを眺め、素人っぽい芸人の幕間ショーを見るが、畳に寝そべってうたた寝をしながら夕方を待つ。腹拵えは出入りの都度、下足番のおにいさんに挨拶して、商店通りの駄菓子屋でパンと牛乳を買ってくる。
 夕刻、客席と舞台の様相は一変する。一階座席ばかりでなく二階桟敷までが客で一杯になり、一郎たちはたたみに寝そべるどころか、男たちが発散する熱気の渦にのみこまれる。登場する踊り子の肉体も芸も輝き、ミュージックボックスの演奏者たちが華やぎと哀愁を醸し出す。幕間のコミックショーや紙切りの演技では、年季のはいった芸人たちが客席を堪能させる。
 クライマックスは、トリの踊り子がせり上がりから登場し、舞台でひとしきり演じながら身に着けたものを一枚一枚脱いでからだ。舞台の端で、花道の所所で、彼女が膝を開いて股間のものを誇示するたび、客席はその一点をめざして見事に統制された人の波をつくる。彼女の一挙手一投足が波のうねりを招き、干かせる。その情景は二階桟敷から眺める一郎に、異様とも感動ともつかぬ情感をもたらした。
 ショーが干けると一郎は、踊り子の肉体と芸にか、あるいは観客の興奮にか、いや、そのいずれにも昂揚して体じゅうの血を火照らせて、劇場を出るのだった。
 開慶座では夫馬敬成が一緒ということもあって、一郎の欲情は中途半端にしか解放されなかったけれど、中央劇場では奔出した。広小路通りの途中、堀川運河に架かる納屋橋の袂にあるそこへは、一郎は一人で行くことにしていた。もとは映画館である中央劇場は、開慶座とは対照的に場内は健康的なつくりで人の波も起らず、上品なストリップ劇場だ。それでも一郎は見知らぬ男たちのなかで一人、舞台のダンサーの裸身に見入っているうち、抑えがたい欲情を覚えて席を立ち、便所へはいった。ズボンのファスナーを外すなり、彼の意思とかかわりなく精液は奔出した。欲情は外部の何かによって抑制されない場合、さらのままに醸成されるのだろうか。孤独と性欲のあいだには、何か暗暗とした生理のかかわりがあるのかもしれない。
 一郎が未世出のストリッパーと言われるジプシー・ローズの舞台を観たのも、中央劇場だった。彼女の引退興行と銘うたれたその日、ジプシー・ローズの肉体にはすでに脂肪がつき、踊りにも生彩が失われていた。一郎はその舞台を見るうち、自身の孤独と彼女のそれとを奇妙に混淆した。
 踊り子たちの裸身に孤独な欲情を奔出させるのは、神坂ねんこへの情欲の代替行為なのかもしれない・・・・・・。時に一郎はそんな想念にとらえられて陰気な気分になった。
 神坂ねんことは、一週間と間隔を置かず頻繁に会っている。平素は彼女の退勤時間に合わせてM百貨店に隣合わせた丸善で待ち合わせ、名古屋駅前まで広小路通りを歩いて喫茶・琥珀でお茶を飲むか、時には毎日ビルの地下にある大衆バー・オリオンでビールを飲んでダべるのだが、彼女の職場が定休日には日帰りの遠出を愉しんだりもする。知多半島を海岸沿いにバスで巡ったり、渥美半島の尖端・伊良湖畔を訪ねた。一郎は海を好んだが、神坂ねんこは緑を好んだ。それで木曽川畔に遊んだり、瀬戸の緑地公園や海上(かいしょ)の森を散策した。恵那へ行ったときは山麓を巡るうち方向を見失い、トンネル工事の作業員に叱られた。二人は発破作業の現場にまぎれこんでいたのだ。
 いまでは会うたび二人は、接吻を交わすのが習いになっている。神坂ねんこが舌をからますことを覚えたのはいつ頃からだろうか。いまでは熱っぽい所作さえ示すようになっている。
 ところが、一郎に体を任すことを彼女は拒んだ。知多半島の尖端・師崎の人気(ひとけ)ない海辺の岩陰で抱擁し合ったときも、伊良湖の恋路ケ浜で肩を寄せ合って沖合にひろがる紺青の水平線を眺めていたときも、一郎は激情に駆られて彼女の下衣に手を忍ばせたのだったが、神坂ねんこは彼の侵入を撥ね返した。木曽川畔の繁茂する雑木林や海上(かいしょ)の森で二人きりになって、鳥たちの囀りを聞くうち一郎が欲情を抑えがたくなったときも、神坂ねんこは毅然とさえおもえる邪険さで彼を拒絶した。
 デイトのたび使う金は神坂ねんこがいさぎよく払って、一郎に「貢ぐ」という言葉を想い起こさせるほどだったのだから、彼女が彼に献身しているのは確信できた。それだけにいっそう、彼女の拒絶は一郎に不可解だった。
 神坂ねんこの拒絶に遭うたび、一郎は鬱積する気持ちをノートに記した。「檻と草原」につぐ六冊目のノートは、現在の彼の文学的関心を反映して、「不条理と実存」と名づけられている。

 Nよ、君は余りに強すぎる女(ひと)だ。
 逢うたび、君はその事実をぼくに再認識させる。その認識はぼくにとって苦痛だ。
 君の華奢な肉体の何処に、あの烈しい焔は隠されているのか。ぼくは気力なく、虚弱な、空虚(うつろ)すぎる人間だから、君の強さに従いて行けない。だから、君の肉体を求める時に遭遇する、あの拒絶は、何か非人間的な酷薄をぼくに感じさせるのだ。

 いま、ぼくの、愛に関する感情は、実に複雑だ。繊細なほどだ。否、虚弱と言うべきかも知れない。
 注意深く、慎重に、常に神経を研ぎすましていないと、ぼくの愛は忽ち、他の忌むべき感情に変ってしまう。愛は虚となって、欲望だけがぼくの感情の底に残るのだ。
 ぼくの愛の対象が、いま肉の存在のみであるなら、ぼくは、欲情より以外のもの、即ちより高貴なもの、より優雅なもの、より知的なものを、愛に感じることは出来ない。或る女(ひと)を愛するとしたら、そこには精神的なもの、無垢なものが(必ずしも美的である必要はない)、発見されなくてはならないのに。
 しかし多くの場合、ぼくは愛の感情に精神の純粋を見出すことが出来ない。或る女をこよなく愛したいと思うのに、彼女の内面を侮り、愛の欲求は枯渇を潤す精液の甘美のみを味わおうとする。
 それでもぼくは、愛したい。欲情によって変型された愛ではなく、認識によってさえ充たされる真実の愛によって。
 其処でぼくは、或る造作を自分及び相手に施す。
 即ち、恋愛という営みからはそもそも永久に見出されないであろう無垢と崇高の像を、自己の空想世界で形成するのだ。即ち、男と女の関係に架空の純粋と優美を創造するのだ。存在しもしない純粋と優美を虚構的に想像することによって、恋愛という像を飾ってやるのだ。
 そのような、虚構的に創造された愛による他に、ぼくは愛する術を失っている。残されたカードは他にはない。だから、このような奇妙な仕方の愛であっても、ぼくは充分に満足なのだ。方法はどのようであれ、愛という感情を持ち得る能力が付与されていると信じられることは、ぼくにとって至上の歓びなのだ。ぼくは、手放しで喜悦に入る。
 しかし、このような愛の、なんと脆弱なことか。虚構の愛の仕種など、現実の仕種――たとえば彼女の何気ない言葉、表情、身振り、媚態、性の仕種によって、雑作なく破砕されてしまう。嘔吐のように消え失せてしまう。
 後に残るのは欲望の残骸。
 ただただ虚構な、虚無のそのまた虚無が、呪われた屍(しかばね)のように残るだけだ。
 そう、それは実にロマンティックな愛の骸(むくろ)だ。

 ぼくらのものである日日。ぼくはNのために何かをしたいと言い、最後に忘れず、Nを好きだと付け加える。Nは、あなたはわたしのことを好きと言いすぎると抗議し、最後に必ず、息がつまる、と言う。それでも、夜と語らいと微笑と善意とは、二人のものだ。
 ぼくはNを愛したのか? ぼくらにはそれはどうでもいいことのようにおもえる。巨大な無関心という他人の渦のなかで、ぼくらは出会い、触れ合い、犠牲を交し、たがいを愛したと信じる。ぼくらにはそれだけで充分なはずだ。    (ノート「不条理と実存」)

 一郎は神坂ねんこへの情念を宙づりにされたまま、抗しがたい誘惑に溺れる気分のなかにあった。
 経済学研究会の学習のため読まなくてはならないテキストも通り一遍に目を通してやりすごすので、他のメンバーとの知識の遅れはますます水をあけられる。大学の授業には、神坂ねんこの職場が定休日に日帰りの遠出をする以外は、欠かさず出席してはいる。一般教養過程の必要単位は一年生で三分の二ほど取得して進級に心配はない。だが、せっかく選抜された特待生を次年度も維持できるか不安があった。
 一郎が以前から念願していた同人雑誌の発行をいよいよ決心したのは、そんな宙吊り状態から出口を見出したいという衝迫があってのことかもしれない。
 大衆バー・オリオンのカウンターで二人が肩を並べた日、一郎が構想中の雑誌について語っていたときだった。
「一泊旅行しない?」
 神坂ねんこが唐突に言った。バイオレット・フィーズのグラスを弄りながら呟いたのだが、一郎には激しい言葉に聞えた。
 神坂ねんこと一郎が諏訪湖を訪ねたのは、四日後の金曜日。午後三時頃、そこに着いて、縄文の神々が渡ったという広い湖面を望み、湖畔を歩いた。一時間ほどして冷雨が降り出したので、旅館へ急いだ。
 質素な中庭の見える和室で座卓を挟んで語り合ううち、冷雨はいつの間にか霙まじりになっている。
「雪の季節にはまだ遠いのにね」
 窓の外の風景を眺めながら、神坂ねんこが言って、一郎を真似てタバコを吸う。それはあとにも先にも初めてのことであり、咳きこんで顔を顰めたりしたけれど、一郎には彼女の仕種がくずれた女を演技しているようで好もしかった。
 入浴と食事をすませて、一郎が逸る感情を抑えぐずぐずしているうち、さきに寝衣に着替えたのは彼女だった。蒲団にはいるなり、一郎は彼女の体を抱いた。口づけを何度も交わすあいだ、神坂ねんこは一郎の体を抱きしめ、身を捩らせた。
 一郎の下衣を彼女が脱がせた。一郎が彼女の下腹部へ手を伸ばすよりさき、彼女は自分の下衣を取った。一郎が彼女のなかにはいって射精するのに三分とかからず、そのあいだ神坂ねんこは眼と唇をきつく閉じたまま下腹部を動かすことも知らなかった。抱擁しあって何度も唇を交わしたときの激情が嘘のように。
 曖昧な眠りから醒めたとき、まだ深夜だった。神坂ねんこは彼の腕に身をあずけて、小さい寝息をたてている。一郎はそっと彼女の体から腕を外し、寝具から出て素裸かのまま座卓の前に座った。そこに開いたノートにペンをはしらせた。
 
 諏訪。忘れることのできない至福の土地だ。ねんこはいま少女のような寝顔でスヤスヤ眠っている。
 幸福とは、こういうことか。人間は結ばれて、幸わせなんだ。幸福などというニヤけた言葉、俺は好かないけれど、今は別だ。
 空は輝くために。星は光るために。風は歌うために。雪は白さのために。そして君はぼくと結び合うために。似合いなんて、もともとはない。愛し合って、似合いなんだ。それは見事な創造行為。三十年、五十年それは朽ちることがなく、ぼくらは皺だらけの似合いを続けるだろう。
 ねんこ、愛とはそういう単調なものに違いない。だけど、何んという鮮烈な単純だろう!

 そこまで書いたとき、一郎は突然、ペンをノートの上に投げ出した。背後にねんこの眼醒めた気配を感じたからだ。
 ねんこは蒲団の上に上半身を起こしている。少し寝惚け顔のまま微笑んだ。その表情に誘惑されるように、一郎は彼女の体に彼の身を投げた。唇を交わすのももどかしく一郎は彼女のなかにはいった。ねんこは驚いたふうに彼を見つめたが、最初の行為のときとはちがって、眼を見開いたまま一郎の動作に合わせ、ぎこちなく下半身を動かした。溜息に似た幽かな声が唇から洩れる。彼女のものが彼のものを包むように濡らすのを感じたとき、一郎は胯間に鮮やかな解放感を覚え、まるでノートに文章の続きを記すように、愛よ、永遠よ、と心のうちに呟いて彼女のなかに精液を放った。

 一郎に、ある「事件」が起きたのは、神坂ねんこと初めて体を交わして十日と経たずだった。他人には「事件」と呼ぶには当たらないことであったとしても、彼には切実な事件と感じられた。
「事件」は、ヴィクトル・E・フランクルの『夜と霧』を読んだことに因(よ)る。みずからも悲惨を体験したユダヤ人心理哲学者が、ナチス・ヒトラーのアウシュビッツ強制収容所におけるユダヤ人ホロコースト(大量虐殺)を記録した、その一冊が、一郎を衝撃した。ガス室への通路いがいの明日(あす)を奪われた人びとの極限の生と死――その生生しい物語の証言と、著者による鋭利な人間観察、そして巻末に載せられた数数の写真が一郎に呼び覚ましたものは、人間という存在についての深甚な畏敬と恐怖という驚くべきアンビバレンツだった。彼はドストエフスキーの『死の家の記録』とはまた別の感動に心を戦かせて、その一冊を読んだ。書物によって初めて与えられた、魂を揺すられるのに似た経験かもしれない。
『夜と霧』を読んだあと、一郎のうちに何かが崩れていく感覚をもたらした。経済学研究会で仲間たちと交わす議論など、ひどく教条的で、人間という存在からは遊離した、空疎な概念の遊戯にすぎない、と思えた。いや、経済学の論議だけではない。彼がこれまで文学作品によって理解しえたと信じていた、不条理とか実存とか、孤独、反抗といった人間存在をめぐる認識が、まるで観念的虚妄ではないか、と疑われたのだった。カフカなどを引き合いにして友人・不馬敬成の浪漫的教養主義を批判してきたのが、子どもじみた衒学趣味とさえ思える。カフカを読みはじめた頃、一郎がその名前を口にすると、夫馬は「カステラみたいな名だ」と茶化したのだったが、あのときの彼の口吻が妙に気にかかる。
 一郎は衝撃をうまく整理できないまま、『夜と霧』のなかのフランクルの思索の断片をノートに書き散らした。

〈異常な状況に於いては、異常な反応が、将に、正常な行動であるのだ〉
〈苦悩する者、病む者、死につつある者、死者――これら総ては、数週の収容所生活の後には、当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことは不可能になる〉
〈此の無感動こそ、当時、囚人の心を包む最も必要な装甲であった〉
〈一体、此の身体は、私の身体だろうか、もう既に、屍体ではなかろうか。
一体、自分は何なのか? 人間の肉でしかない群衆、掘立小屋に押し込まれた群衆、毎日、その一定のパーセントが死んで腐って行く群衆、その一小部分なのだ〉
〈自分の生命を維持する為の、排他的な関心に役立たないものを徹底的に無価値なものとした〉
〈恐ろしい周囲の世界から、精神の自由と、内的な豊かさへ逃れることに於いてのみ、繊細な性質の人間が、しばしば頑丈な身体の人よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである〉
〈愛は、結局、人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものである〉
〈愛は、一人の人間の身体的存在とはどんなに関係薄く、愛する人間の精神的存在とどんなに深く関係していることであろうか〉
〈強制収容所に於ける人間が、群衆の中に消えようとすることは、自分を救おうとする試みでもある〉
〈苦難と死は、人間の実存を始めて一つの全体にするのである〉
〈自然主義的な人生観や世界観が、種々の多様な規定性や条件の産物に他ならないと、我々に信じさせようとすることは、果たして真実なのだろうか〉
〈人間は身体的性質、性格学的素質及びその社会的状況の偶然な結果に他ならないのだろうか〉
〈人が、感情の鈍磨を克服し、刺激性を抑圧し得ること、また精神的自由、即ち環境への自我の自由な態度は、この一見、絶対的な強制状態の下に於いても、外的にも、内的にも、存し続けたのである〉
〈まず最初に、精神的人間的に崩壊して行った人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまう。また、内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが、崩壊してしまう(此処に言う、内面的な拠り所とは、心に未来の何か、目的を持つということである)〉
〈強制収容所に於ける囚人の存在は、期限なき仮の状態である〉
〈強制収容所に於ける、内的な生活理想は、人間的に崩壊してしまった人間にとっては、過去への回顧的な存在様式になるのである〉         (ノート「不条理と実存」)

 一郎はフランクルの言葉の処処に、以前に読んだドストエフスキー『死の家の記録』から記憶にとどめている言葉の断片――「人間は、総てに慣れ得るものだ」「私は、私の苦悩にふさわしくなるということだけを恐れた」といったフレーズを挿入して書き写したのだったが、書きすすめるうち衝撃の核心がもっと別のところにあると気づいた。
 衝撃の核心は、人間の身体にたいする畏怖だった。強制収容所で亡びゆく肉体に対する内的、精神的な自由の優位を説くフランクルの体験的思考に魅かれたのは確かだったが、その内的、精神的自由への意思が一郎に呼び覚ましたのは、より直截に、身体への畏怖であった。
 ガス室で焼き殺される人間の肉の臭い、その肉体の脂肪を材料に製造する石鹸、人間の皮膚を剥がして作製された電気スタンドの笠、毛髪で編んだ壁飾り――それら人間の「残虐な叡智」がもたらす、肉体への恐怖。その恐怖が一郎のなかで女性への怖れを目醒めさせたのだった。侵されてはならない聖なるものであるはずの肉体。その肉体に触れることへの禁忌の感覚は、生ぬるい血のはいった壺に素手を突っ込むような、手ざわりと臭いの感触として、一郎をおそった。
 生生しい感触が神坂ねんこという一人の女性の肉体にむすびついて、確固とした畏れの感情に変わるのに、彼の内面で何の媒介物も必要としなかった。全裸のまま死の部屋へと追い立てられる女たちの肉体に、神坂ねんこの白い裸身を想像するのに、心理的な操作の余地さえなかった。
 聖なる身体への生生しいほどの畏怖――自分のなかに呼び覚まされた、その感情が癒される時まで、ねんこは抱けない・・・・・・。哀しいような、憤りにも似た気持ちで一郎はそう思った。

     Ⅲ

「小説界」
 軍艦が言う。
「寓話」
 三郎さが言う。
「浪漫」
 夫馬敬成が言う。
「海」
 氷やのKちゃんが言う。
「実存文学」
 馬瀬一郎が言う。
「棄権」
 最期に任天堂が言う。
 その瞬間、一郎の家の二階に集まった六人の若者は、いっせいに嘆息をもらした。
 同人雑誌を発行するために数回、会合をかさねて、同人の顔触れが固まり、発行所を一郎の家に置いて編集も彼が担当することになった。結社としての旗幟はとりたてて鮮明にせず、各人がそれぞれの個性を発揮して精一杯の作品を載せようと意思一致した。いくらか議論はあったけれど、そこまではトントン拍子に話がまとまった。ところが、肝心の誌名を決める段になって脱線した。前回の話し合いでまとまらず、きょうまた各自の推奨する誌名を挙げることにしたのに、これが前回、各自が提案したものの鸚鵡返しで各人各様になってしまった。
「これじゃ、埒が明かんなぁ」
 しばしの沈黙のあとで、三郎さこと伊東三郎(一郎の次兄の同級生で名古屋大学教育学部四年生)が、得意の臭いのないおならを音高くひりながら言った。
「ご破算にして、あたらしい誌名を考えよう」
 そう言ったのは、綽名が頭の格好に由来する軍艦こと馬瀬広之助だ。軍艦は広島の大学を卒業して漁港の町へ帰ったばかりの、同人のなかでは最年長。
 軍艦の意見に誰も賛否を表明しないまま、
「追(つい)舟(しゅう)」
 と、氷やのKちゃんこと馬瀬圭吾が言って、即座に、薬局の息子である任天堂こと古見皓也と夫馬敬成(いずれも一郎の高校同級生)が、それに賛同した。この場の雰囲気にうんざりして、早く決着をつけたいのらしい。
「上品なエロティシズムがあって、いいじゃないの」
「うん、平凡なようでいて含蓄がある。誌名として他にはなさそうなのがいい」
 三郎さと軍艦が口を揃えて賛成する。
「夜の太鼓」
 一郎は咄嗟に口にした。「実存文学」に固執していて他の誌名など考えていなかったのだが、「追舟」に対抗上、急きょ思いついたのだ。
 馬瀬のやつ、また我(が)を出して・・・・・・。夫馬敬成と古見が顔を顰める。年長の三人は格別、意に介してないふう。場所の雰囲気は圧倒的に「追舟」優勢だが、一応裁決しようということになる。
 案の定、一対五で「夜の太鼓」の惨敗だった。
 一郎は主宰者の立場を自負していたので、自分の提案が孤立させられたことに面白くなかった。借りは作品で返そう・・・・・・。彼はそう腹に決めた。
 同人雑誌創刊の計画が具体化すると、一郎は早速、創作にとりかかっていた。ここ二年ほどのあいだ、「瓢箪」「如来菩薩」「芥川治」「星男」「破綻」「怯懦者」「壁の中」「殺人」などと題して中短編の習作を試みていた。いつか雑誌を出す日のためにと書いていたのだが、それらはすべて没にすることにした。芥川龍之介や太宰治のはしかから癒えない模倣が目に余って、現在の文学的関心とはかけはなれすぎているからだ。「壁の中」や「殺人」といった習作は、サルトルの「壁」、カミュの「異邦人」に影響されて書いたものだが、これも模倣の域を出ない。
 そうしてあらたに書きはじめた小説「甲蟲と奇妙な女」の構想について、一郎はノートに次のように記している。

 主人公の“奇妙な女”は四十四歳、独身の中学教師。彼女は女学生の頃、一度だけ男の肉体を知っている。その時の体験が今、彼女の肉体に激しく蘇る。
 或る憂鬱な雨の日、彼女は庭さきに面した縁の下の踏み石に牛乳壜を見付ける。壜の中には誰が入れたのか雌雄二匹の甲蟲が入っている。二匹の昆虫が交わす性戯が、彼女を激しく嫉妬させる。
 主人公は冷酷な悪戯を思い付く。雌の甲蟲を別の牛乳壜に移し、雌雄を引き離して二匹が互いを求めて身悶える姿を楽しもうと企てる。 
 彼女は毎日、壜から逃れようとしてシジフォスの徒労を繰り返す雌の苦闘を眺めては冷酷なサディズムにひたる。
 遠い昔に男から捨てられ、教師生活に倦んで教え子に愛着を抱けず、生のすべてに何の意味も感じられず、依怙地に虚無の日々を送っている彼女。甲蟲への卑しい戯れが一時、彼女に生の感情を幻想させる。
 軈て、二匹の甲蟲は死ぬ。不条理の意識は甲蟲の死後にやって来る。彼女は甲蟲への悪戯のなかで時に自分の醜さに苦しむが、甲蟲が死んで以前の退屈な日々にもどった時、彼女は苦悩から解放されたことに虚しさを覚える。
 不条理の意識と性的感情――それは主人公の難問であり、現代の難問である。
(ノート「不条理と実存」)

 一郎は、「甲蟲と奇妙な女」を書きすすめながら、この小説にオリジナリティがあるか、とそれだけを自問していた。そして作品の最後に、主人公が教え子の少年を誘惑する場面を据えた。庭さきの縁の下に甲蟲の入った牛乳壜を置いたのがその少年にちがいないと妄想して、彼を犯そうとするのだ。

〈作品の最後の場面〉
 わたしは狂おしく彼の童貞に自分の肉体を挑ませた。彼の虚弱な肉体はわたしの狂気じみた欲情に抱かれて健気に耐えていた。
「頑張って、もっと頑張って」
 わたしの声に、彼は忍び泣きを押し殺しながら身を揺すった。
 冷酷な不条理の中で、わたしは、これでいいのだ、と思った。
 私たちの畸形のいとなみは成就されなかった。彼はまだ男性の肉体を整えていなかった。二個の肉体は狂おしい徒労の末、空しく離れた。
 わたしは歪んだ気持を微笑にし、彼は泣きじゃくった。
 雨の降らぬ間に、彼は帰って行った。
 明日、どうするかは考えていない。

『追舟』創刊号の原稿が揃ったのは、十一月にはいってからだった。ただし、軍艦だけは小説が書けず、急きょ評論に変更したらしいが、それも間に合わなくて創刊号をリタイアーした。代りに、原稿集めの段階で同人になった国本尺六が短編を寄せた。国本は漁港の町の青年でもなく、誰かの知人というのでもない。『追舟』創刊の噂を風の便りに知って舞い込んできた。工業高校定時制に通う三年生。容貌も体型も達磨大師のミニチュアといったふうだが、現在働いている鋳物工場を辞めて東京へ行き、演劇の道(役者か台本作家)へすすむ日を夢見ている。
 創刊号に集まった小説五篇、シナリオ一篇――
 三郎さは伊東三郎の本名で、時代もの仕立てに人間の自己同一性の不安を描いた「新三と喜之助」。三郎さは石川淳に傾倒していて、戯作調を擬ったつもりらしい。国本尺六は秋村進のペンネームで、天上を舞台のディスカッション小説「人の作者」。夫馬敬成は猪部淳二のペンネームで、吉行淳之介の「娼婦の部屋」ばりに青春のメランコリーを描いた掌編「瑞夢」。“水無月来りなば日もすがら/我は愛する者と共に、芳しき乾草に坐らばや”(ロバート・ブリッヂェス、佐藤春夫訳詩)といった詩片を作中に引用している。氷やのKちゃんは火野葦平に擬したペンネーム・火野公平で、漁港の町を舞台に少年たちの幼い性と悪意を描いた「小さな加害者」。シナリオ一篇は任天堂の「縮図」。中小都市を舞台に、自衛隊基地にからむ町の人びとの悲喜劇を書いている。任天堂は無口な偏屈者で、高校時代は国木田独歩とか田山花袋とかを読み漁っていた。それが最近、シナリオ作家になろうと野望を抱いているようだ。三年前、警察予備隊から生まれ変ったばかりの自衛隊を題材に取り上げたのも、時宜性(タイムリー)をねらってのことかもしれない。任天堂の日頃の言動から推して、一九五七年現在の日本の政治状況について深い関心があるともおもえない。
 一郎自身の作品「甲蟲と奇妙な女」は四百字詰原稿用紙九十二枚に達した。創刊号では最長の作物であり、出来栄えも一等のものと自負して、あられもなく自己陶酔に耽った。
 作品が揃うと、一郎は早早と割付をして(三郎さの「新三と喜之助」を巻頭に、「甲蟲と奇妙な女」を掉尾に置いた)、風呂敷包みにした原稿を抱え、自宅から歩いて五分ほどの犬塚謄写堂へ急いだ。

 ぼくたちは巧妙な作品を選ぼうとはせず、誠実な苦心作を選びます。ぼくたちは完成作を選ぶよりも、粗々しくともエネルギッシュな失敗作を選びます。尊いのは作品の生命力であって容貌ではなく、新しい時代の同人誌は、技巧ではなく主題を要求しています。
 ぼくら現代文学の主題とは何か? それは時代の不条理と対決して、文学という寓意と仮構をもって現実の中から「人間の回復」を創造することである。
 二〇歳を出たか出ないかの若僧があばら屋に集まって、そんな大それた夢を見ながら、稚拙ながら現代文学のマンネリズムを打破したいと鼻息を荒くしているのです。そうです、見果てぬ夢を追いもとめて。
(『追舟』創刊号編集後記)

 タイプ謄写版B5判八十六頁の『追舟』創刊号百冊が、藍色の題字とモノクロ男女裸身像を装幀に配してインクの匂いも鮮やかに届いたのは、年の暮れも迫った十二月二十八日の夕方だった。
 犬塚謄写堂は、一郎の家から坂道を漁港のほうへくだって途中にあった。平屋建て住居の一角に機械を置いて、夫婦二人の印刷屋。印刷職人から独立して間もなく、文芸雑誌の注文をこなしたのは初めてとあってか、犬塚謄写堂主人はインクの匂いがする雑誌を自転車の荷台に積んで届けたとき、満面に笑いを浮かべていた。
 一郎はその夜、雑誌の山を枕もとに積んで眠った。二十歳(はたち)の記念に・・・・・・。そう心に呟いて。
 年があらたまって開かれた同人合評会。「甲蟲と奇妙な女」は作者が才気にばかり走っている、と散散の酷評だった。生煮えの実存主義観念も痛烈に批判された。この連中には現代文学の課題が理解されていない・・・・・・。一郎はそう思うことにして、散散の酷評を無視した。
 彼は早早に二号に載せるための小説に取りかかった。それは創刊号合評会で批判の標的になった観念の遊戯への傾斜をいっそう強くするもので、文体も装飾的だった。「繋がれた足」と題されたその作品の創作メモは、次のように記されている。

 若いヒロポン中毒の主人公は、群衆の無関心の中で、その無視という蔑視に耐えられない。他人を傷つけることによって彼は群衆の関心を自分にひきつけようとする。彼と群衆とは無関心の壁に隔てられながらも、目に見えない鎖によって互いに足首を繋がれていると男は妄想する。彼は、群衆の誰かを殺さねばならない、そうして無視という侮蔑に復讐しなければ、孤独を逃れ、抽象された「ヒトのムレ」に入ることができない、と信じ込む。
 ヒロポン患者は、赤い屋根の精神病院へ送られる。
 其処では、患者たちは人間的な絆を奪われている。欠片となった存在の孤独があるのみだ。
 主人公は、次第に人間ではあり得なくなる自分を見出していく。彼が、赤い屋根の病院の白い壁の室で見る夢は、石塊(くれ)に変容した自分の姿なのだ。彼は夢という思索のなかで、人間が人間以外の物体(もの)になり得ることを発見する。その時、彼の中で何かが啓示され、群衆への殺意は消える。孤独の恐怖さえ癒される。
 退院の日、彼を載せた赤い車は、白い街へ、群衆の中へ入って行く。無関心の視線、黄色っぽい群衆の波、埃を巻き上げる町の空洞。
 突然、主人公の内に蘇る殺意。目に見えない鎖の妄想が甦る。
 虚妄か、さもなくば消滅! 
 男が叫んで、救いを求めたとき、彼を乗せた赤い車は方向転換してふたたび赤い屋根の病院へ向かう。                     (ノート「不条理と実存」)

「繋がれた足」を書きすすめながら、創作はしばしば中断した。気負い立ってはいても、つきまとう不安を拭いきれない。同人たちの批判を無視して突き進むには彼自身の小説観を明確にしておく必要があったのだ。なにより自分自身を納得させるために。
 一郎が小説を書きすすめる作業を中断するたび、貪るようにドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』サルトル『自由への道』カミュ『ペスト』アンドレ・マルロー『侮蔑の時代』と読破したのは、そうした彼なりに切羽詰まった必要に迫られてのことだった。そして思いつくのにまかせて、小説論まがいの断片をノートに記した。
「不条理と実存」と題したノートはまだ数頁を残していたが、それを空白にしたまま彼は新しいノートを下ろした。気分をあらためるためだ。高校二年の終り頃に書き始めて七冊目にあたるそのノートには、「現実と虚構」と標題を付した。

 ぼくはつくりごとしか書かない。現実をどんなに精巧に生き写したとして、それが小説である限り、現実そのものではない。精密さに於いて現実そのものを超えることは出来ない。小説にはフィクションというもう一つの現実があって、時にフィクションは現実そのものより遥かに衝撃的である筈だ。

 小説は仮構であって何ら差し支えない。
 事実に忠実であろうとすれば、小説は扁平な、表層のものになってしまう。ぼくらの周囲は余りに真実が掩い隠され矮小化されている。ぼくらの体験も、知性も、殆ど、新しいものを生み出さない。昨日の出来事、今日の思考の繰り返しだ。『ペスト』のなかでタルーが言うように、「そうです。・・・・・・ペストの正体はしょっちゅう繰り返すということなんです」。
 ぼくらは仮構から出発して、軈ては、かつて一度も発見されなかったような、人間の奥部の尤も致命的なものに達しなればならない。日本の私小説がそれを成し得ていないのは、実生活をその型に似せてしか小説の世界に写し出していないからだ(私小説作家の中には、実生活の場で文学を模倣しようとする、滑稽な人さえいる)。私小説作家の実生活は、社会的なものから隔離された古臭い思考と行動によってまかなわれているので、畢竟、その小説は、私生活観想的な、創造性に欠けたものになってしまう。
 太宰治の才能が、文学と実生活の世界を模倣し合おうなどという滑稽な劇を演じなかったなら、人間を極限の状況に於いて設定し得ただろう。
 最近読んだ島木健作の『癩』についても、仮構が人間の深部に至る力を信じていたなら、感傷や希望などによって救われることなく、怖るべき文学に達しただろう。
 極端に言えば、ぼくらはもっと嘘を吐(つ)いて、体験を超越しなければならない。それが人間の致命的な深所へ至る方途なのだから。

 シジフォスはすべてを理解していた。
 両肩に喰い込む石の重みが、決して解放されない苦痛であることを。そして、それにも拘わらず、その重みを愛していることを。果敢に耐えつづけることを。
 医師リューはすべてを理解している。人間はペストから決して救われないだろうということを。そして、それにも拘わらず、救いのないことがペストと闘う理由に他ならないということを。

 このように提出された状況(シチュアシオン)をぼくらは生きている。既に骰(さい)は投げられている。
 提出された状況から、ぼくらは鵜の目、鷹の目で、可能性を見出さなければならない。状況との容赦ない対決に於いて、ぼくらの新しい条件を見出さなくてはならない。そうした困難な発見は、文学の想像力と創造力の問題だ。
 そのためにぼくらに与えられた悪徳の手段は、嘘である。嘘の代償として真実が得られるだろう。

 小説家は先ず、言葉を愛する。彼が言葉を信じるからだ。
 しかし次の段階で、小説家はimage(イマージュ)を愛する。それは彼がimageを信じるようになると、最早、言葉を殺したいと感じるからだ。小説家のimagination(イマジナシオン)の内部に、或る像が宿ると、彼が持ち合わせる種々の現実の言葉は失速しはじめ、imaginationの外部で像が小説化される時、個々の言葉は死ぬ。
 その時、言葉は、imageの胎に包まれて唯の姓名の形骸にすぎなくなる。現実が虚構というもう一つの現実に変容する瞬間だ。

 小説という現実コミットメントの形式(スタイル)について考えているのに、何故、一見それとは関係なさそうな、人間に関する思惟の断片が思い浮かぶのだろう?
〈人間は観念ですよ。しかも全(まる)でちっぽけな観念です。人間が愛というものに背を向けた瞬間からは〉(アルベール・カミュ『ペスト』)
 ぼくはその言葉を強引に読み変えている。
「小説は虚構ですよ。しかも不思議な力を備えた虚構です。小説が現実に立ち向かおうと決心した瞬間からは」
〈虚無は、絶対よりも更に達し難い〉(同『結婚』)
 ぼくはその言葉さえ更に次のように読み変えるだろう。
「虚構は現実よりも更に達し難い」
〈不条理な経験のなかにあって、私に与えられた最初の唯一の明証は、反抗である〉(同『反抗的人間』)
 そうなのだ。不条理という現実の経験のなかにあって、私たちに与えられた最初の唯一の明証が反抗であるなら、その反抗は何によって成されるべきか。たぶん、現実の不条理を超える、小説という虚構の真実によっての筈だ。現実と対峙し得れば、小説はすでに反抗であるに違いない。
〈人間は、現状を拒否しうる唯一の被造物である〉(同前)
 人間に紛れない事実は、唯一、想像力を所有するという事実であり、それによって、直面した危機から何かを回復しうるという事実なのだ。

 作家は、衝動(モチーフ)によって書くか、観念(イデー)によって書くか。
 衝動によって書かれた時、作家はそれについて評論を書く必要を感じる。たぶん、文学的感動を外的imageとして描いたにすぎないから。
 他方、観念によって書かれた時、作家はそれについて論じる必要を感じない。既に内面に於いて文学的感動のimageをideaに昇華させて描いているか、或いはその逆の過程(プロセス)が経られているのだから。
 アルベール・カミュの場合、〈生への絶望なしに、生への愛はない〉(『裏と表』)の像的観想は、〈希望がないということは、絶望ということではない。それは、より多く意識的に人生を見つめるということだ〉(『シジフォスの神話』)の行為的観念へと発展する。また別の流れについて言えば、『異邦人』に於ける死刑囚のimageが『ペスト』や『反抗的人間』に於ける反抗のideaへと発展するのも、同類のプロセスである。
 このように一人の作家に於いても、像(イメージ)から思想(イデー)への深化は証明される。
 ジャン・ポール・サルトルに於いて同様のことは言える。『嘔吐』(『想像力の問題』)から『自由への道』(『存在と無』)への展開(プロセス)は、像的観念(イマジネーション)から行為的思惟(アンガージュマン)への前進を証明する。
 フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーに於いて、その過程は思想世界と物語世界のいっそう顕著な発展関係として証明される。ペトラシェフスキー事件に遭遇して、『死の家の記録』を人間観察として体験録風に書いたドストエフスキーは、『虐げられた人びと』の人道主義的メロドラマから出発しながらも、『地下生活者の手記』を転機に『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』へと、その思想世界と物語世界を一作ごとに深め、広げる。
 ドストエフスキーに於いて、思想世界の深まりと広がりが、物語=小説世界の深まりと広がりに緊密な関係を有している事実は、ぼくらに絶対的な確信を与える。つまり、思想世界の文学的表現は虚構的営為によって可能なのだという仮説さえ示しているのだ。否、思想とは、文学に於いては、フィクショナルなものに他ならない、という予感さえぼくらに与える。

 ぼくが小説を書くのは、文学に憑かれたからでも、或る種の覚悟によってでもない。ぼくに小説を書かせる重荷に似たもの――ぼくはそれを逆説的に、強制された権利と呼ぼう。権利がぼくを蝕む。
 実存の問いを、ぼくは実感moodとして描くのではなく、ideaの相に於いて形象しなくてはならない。サルトルをさえ批難するとしたら、それは次のような事情に因(よ)ってだ。
〈俺は、ここで何をしているのだろう〉(「分別ざかり」上)
 このサルトルの問いはmoodである。それは「俺は何者だろう」と問うのと同断である。
 実存的問いは次のように問われなくてはならない。
 俺は一体、何で在り得るのだろう?
 その問いを解き明かすには、俺は一体、何を成すべきだろう?

 文学の中の思想だって?
 思想のために文学を犠牲(いけにえ)にすべきではない――それが仮に定説であったとしても、ぼくは敢えて、思想のために文学を奉仕させよう。
 小説を読む時、ぼくはその中の思想を読み解こうとしている。読む時と同じように、ぼくは思想を索めて小説を書こうと決めている。そのために文学的効果が損なわれたとの批判を浴びようと、敢えて文学的未完を選ぼう。思想の名に値するものを持てないなら、小説など書かないがマシなのだ。花田精輝を真似て言おう、文学だって? そんなものは弟子たちに任せておこう、さもなくば犬に呉れてやるがいい、と。
 ぼくはまるで楽天的にそう言うことが出来る。何故なら、思想は既に虚構である、という仮説を確信しはじめているからだ。
 思想は現実の生き写しではなく、或る仮構の手続きによって、まったく新たに形づくられたものなのだ。出来上がった思想は、既にフィクションである。
 現実に対峙してそれに打ち勝つために営まれる思想の営為は、既に虚構であり、虚構そのものの闘いのなかで生き延びる他なく、そればかりか、虚構そのものとして深化し、達成される。
 ぼくが楽天的なのは、そのような文学=虚構と思想=虚構との蜜月関係を信じ始めているからである。

 fictionの世界をぼくは愛している。
 俺はフィクションだ!
 ぼくがそう叫ぶ時、同人たちは一様に眉を顰めるだろう。ぼくは一人芝居を演じなくてはならないだろう。
 確かに、フィクションのためのフィクションは無意味(ナンセンス)に違いない。フィクションは必然に因って要請されてこそ用いられる方法(メソッド)だ。自然主義リアリズムによっては追究し得ない、人間状況の難問に立ち向かってこそ、フィクションは、日常より更に真なりと言い得る。

 文学は決してモラルという定型を要請しない。その逆にまた、モラルは文学を生まない。
 文学が要請し、またそれが生まれるのは、不定型の探検である。その探検の最たるものが、多かれ少なかれ無秩序を運命づけられた〈虚構〉という人間の営為なのだ。

 虚無への世代的な郷愁のなかにあって、現代文学の前提である不条理からの「人間の回復」を試みるのは、易しいことではない。
 そういう困難に直面して、取り得る文学的方法の最善のものが、思想=虚構という行為(プロセス)を経て試みられる、創造的方法に違いない。          (ノート「現実と虚構」)

 文学とは一体何だろう・・・・・・?
 一郎は、大学の授業も神坂ねんこへの想いも捩じ伏せて、そのことばかりを考えつづけ、ノートを埋めた。憑かれたようにそんな作業をつづけるうち、掌のなかに確かな感触に似たものが訪れた。現実とみえて現実ではないもの――小説が孕む〈虚構〉という、得(え)も言えないものの不思議に魅入られていくにつれ、一郎は体の内側から何かが解(ほど)けてくるのを感じる。
 この感じは何だろう・・・・・・。
 数か月前、フランクルの『夜と霧』に遭遇して、そこに記録されたナチス強制収容所の現実から受けた、圧倒的な衝撃。動物のように屠(ほふ)られる人間の死がもたらした、肉体への畏怖。その衝撃と畏怖が一郎を呪縛していたのだったが、小説と現実とは異質のものと気づきはじめたときから、そして虚構の真実が現実ごとを超えるかもしれないと予感しはじめたときから、彼は呪縛から解かれるのを感じはじめた。
 いや、そうではないのかもしれない。生生しい現実と肉体への、あの怖れから逃れるために、彼は作為的に〈虚構〉へのめりこんだのかもしれない。ノートに書きつけられた、強引な虚構論は、彼なりの焦りの発現にすぎなかったのかもしれない。
 一郎にとっていま、その因果の関係は問題ではない。神坂ねんこの肉体にまでおよんでいた、女性の身体への禁忌の感情が、幽かな気配ながら氷解しているらしい事実だけで、彼には充分だった。
 そんな彼を、ある肉体の蘇生にかかわる言葉が励ましたのは、一見脈絡を欠くようにみえても、肉体への怖れから癒される前兆があったからなのかもしれない。
〈拷問にかけられた肉体は要素となって自然に還り、其処から生命が甦るだろう。殺人自体も完成しない〉(アルベール・カミュ『反抗的人間』)
 ナチスの強制収容所で全裸のままガス室へ追い立てられる白い裸身――あの女たちへの慰藉と再生の物語が、その言葉によって語られ始めるように、一郎には思えたのだ。啓示にも似たその直感は、神坂ねんこの肉体にたいする禁忌の感情をも、彼のうちから解いていくようにみえた。彼女の肉体への禁忌の感情が、ガス室へ送られる女たちの白い裸身への怖れによってもたらされたように、その逆の巡りを辿って。
 一郎にはいま、女たちへの蘇生の祈りが、神坂ねんこの肉体への怖れを癒してくれる、と感じられるのだ。
 神坂ねんことの逢引は、「夜と霧事件」(一郎は内部に起った経験をそう呼ぶ)に遭遇して以来、間遠になっている。あれからの数か月、抱擁も交わしていない。不自然な時間が経過しているのは否めない。
「繋がれた足」は四百字詰原稿用紙八十六枚になって、締切りぎりぎりに書き上がった。
『追舟』二号が刊行されたのは一九五八年四月四日。「繋がれた足」のほかには伊東三郎の小説「二人三脚」、秋村進の詩「幸福な子供」、古見皓也の戯曲「蝿の群」の三篇が掲載されたのみで、七十八頁の誌面となった。
 一郎は編集後記に次のように付記した。

 創刊号に「端夢」を発表した夫馬敬成君が退会した。「書けなくなったから・・・・・・」という彼の後姿を惜しむと共に、ぼくは言い知れぬ憎悪を感じる。彼は少なくとも彼自身の使命を回避した。悲しいことだが、君の健康を祈る。      (『追舟』二号編集後記)

 夫馬敬成が『追舟』同人を辞したのは、「書けなくなったから・・・・・・」との理由もさることながら、一郎への不信も影を落していた。一郎が創刊号に乗せた小説の、雌雄の甲蟲の設定は、いつか夫馬が語った油虫のエピソードにヒントを得ていた。一郎は夫馬の不快感に気づいていない。

 一郎が神坂ねんこと体を交わしたのは、インクの匂いが鼻を衝く『追舟』二号を手にして、何か月ぶりかに会った日だった。
 金曜日の午後、二人は市電に乗って築港まで行き、名古屋港を望みながら埠頭を歩いた。埠頭を過ぎてさらに防潮堤を南へ向かい、時時、波止めに腰を下ろして、港に出入りする貨物船を眺める。呼び交わす警笛の音が、人の呼び合う挨拶のようにも聞える。埠頭に碇泊する船の姿が、四月の陽光に映えて輪郭をぼかしている。それだけのことが一郎の気分を、世俗から少し外れたような、特異な心境にさせる。
 二人が防潮堤をさらに行くと、遠く対岸のコンビナート群を霞ませて伊勢湾の全貌がひらける。急に風でも出てきたふうに沖合の海面が銀白の粒子を燦めかせ波立つのを眺めたとき、一郎はあたりに魚を釣る人の姿さえないことに気づく。
 防潮堤に腰を下ろして肩を並べた、その同じ姿勢のまま、一郎が「繋がれた足」八十六枚を読み終えたとき、沖合の波涛は茜(あかね)色に染まっていた。対岸の風景は、逆光のなかで夕暮れの気配に沈んでいる。
 一郎が感想を訊ねると、神坂ねんこは戸惑いもみせず、
「難解ね」
 と応えた。
「そうなんだ。おれの小説は仲間から南海ホークスと呼ばれるんだ」
 一郎がそう言って笑うと、プロ野球には関心のない彼女は一瞬、怪訝な表情を浮べ、それでも彼に合わせて笑った。
 神坂ねんこが、唐突に着ているものを脱ぎ、一郎の前に白い裸身をさらしたのは、夕闇がまだ昏れなずんで幽かな薄白色をとどめているときだった。思いがけなく大胆な彼女の振る舞いに、一郎はたじろいだ。まるで一郎のなかで起った出来事をすべて知っていて、肉体への怖れの残り火を吹き消そうとするかのような行為――彼には神坂ねんこの振る舞いがそのように思えた。
 一郎はセーターとズボンを脱ぐと、それを防潮堤の上に敷き、横たわるよう彼女を促した。
 薄闇に横たわる彼女の白い裸身は、一瞬、一郎の意思を竦ませた。それでも彼は、白い裸身に自分の体を重ねることができた。
 おれはこうして、ねんこの力で癒される・・・・・・。

     Ⅳ

 草原を風が渡って行く――
 広いキャンパスのあちらこちらに草むらが叢生していて、四月の風がゆるやかに吹きぬける。その風景は、たしかに風の渡る草原の印象をあたえる。中央のグラウンドを抜けて遠く東の外れ、厩舎に近い草叢で馬術部の馬が二頭、のんびりと草を食(は)んでいる姿が、いっそうその印象を補強する。
 ゆったりとした風は、事務棟に近い「自由の鐘」のほうから、雑草まじりの広いグラウンドをわたって、教室が並ぶカマボコ型建物の方向へ、つまり南西から北東へと吹いて、もとは兵営であった教室棟の二階屋根を越え、行方知れずになる。キャンパス全体にたゆたっている、微細な花粉に似た銀いろは、風の色のようでもあり、陽(ひ)の燦めきのようでもあり、混然としてよくわからない。
 たしかなのは、風と光に混じって幽かに漂っている微妙な匂い。懐かしさの匂いだ。遠い海辺から運ばれてくる潮の香りとは、どこか違う。キャンパスの南側には田畑がひろがっていて、そこから流れてくるうち微妙に変質した下肥(しもごえ)の匂いだ。風が時に駆けるように吹く日もあって、そんなときは充分になまの匂いを運んでくる。
 そんな風と陽光と匂いのなかキャンパスを突っ切るようにして、馬瀬一郎は学生集会の開かれる大教室へ向かう。大教室は西側の正門をはいって、カマボコ型建物とは反対の方向、キャンパス南寄りの事務棟に接してある。昼休みのこの時間、いつもなら草むらに座り込んでダベリあったり、キャッチボールを愉しんだり、所在なげにブラブラしている学生の姿が目につくのに、妙に閑散としているのは集会に参加する学生が結構いるからなのだろう。
 愛智大学豊橋本校――教養課程を終えてここに通うことになった最初の日、一郎は一種、牧歌的な開放感を覚えた。眩しく朴直な感銘にさえ似ていた。
 キャンパスに降りそそぐ陽差しのせいばかりではなかった。二年生まで通った分校は名古屋市の中心からそれほど外れていない住宅地の一角に四囲を木の塀に囲まれて狭い空間を閉ざされ、学生たちの様子もどこか息が詰ったふうにみえた。
 豊橋本校は、十数年まえまでは帝国陸軍の地方連隊のあった跡地で、いまもその残影が端端に残っている。兵営をそのまま利用した木造校舎は陰気なたたずまいであるが、それさえも広広として粗野なキャンパス全体と奇妙に調和して、一郎の気分を眩しく解き放ったのだった。風の渡る草っ原などという叙景的形容は、彼の心境を反映した稚気にすぎないとしても、偽りのない印象でもあった。
 大学の正門すぐ目の前には、駅舎も改札口もなく廃れかかったホームだけがあって、一時間に一本ほど一両車輛の古風な電車が止る。豊橋駅を始発にして渥美半島を斜に横断している、単線のA電鉄だ。交通費を節約してスクールバスを利用する一郎は、まだ数回それに乗ったきりだけど、地方都市郊外に広がる田舎っぽい風景のなかを時速三十キロほどで走る単線一両電車の存在もまた、一郎の牧歌的な解放感を擽った。
 そんな新天地めく豊橋本校へ移って、もうひとつ一郎に眩しく感じられたのが、学生自治会が呼びかける政治集会だった。キャンパスに立看板の類などなく自治会室の窓にやたら檄文が貼られているにすぎないけれど、名古屋校舎ではそれさえも目にとまらなかった。
 大教室は学生たちで溢れていた。二百名ほどの椅子はすっかり埋まって、ドアをはいった後方や窓際、壁際にも多くの学生が立っている。一郎は学生たちのあいだを横ざまに抜けて、窓際近くに場所を占めた。
 集会は始まったばかりのようだ。警職法粉砕 全学集会――そう横書きに墨書されたB紙が黒板に貼られて、講壇に立った自治会役員が集会の意義を演説している。教室に熱気が溢れているというのではないのに、一見、陸上部員みたいに短髪、骨太、浅黒い風貌の学生は、ポロシャツのなかの分厚そうな胸を張り、日焼けした腕をしきりに突き上げては語調を高ぶらせる。学生運動のリーダーにはちょっと適わしくない外貌の男だな・・・・・・。一郎は勝手な感想を抱き、下手に演技っぽい所作にも馴染めないものを感じるが、その場の雰囲気に新鮮な気分を覚えた。こうして学生集会が開かれ、学生たちが大教室を埋めるというのは、さすが・・・・・・なのだ。
 愛智大学豊橋本校で「警察官スパイ事件」が起きてから、まだ六年と経っていないはずだ。一人の警察官が学内の政治動向を情報蒐集するために学生に化けて潜入していたのが、発覚した。学生たちはその警察官を自治会室に軟禁し、追及した――という事件だ。学生たちの追及を受けて警察官は、学内潜入の目的が在籍する朝鮮人学生の動きを探るためだったと告白したらしい。
 事件の際、大学教員たちは全面的に学生の側に組して支持したという。戦前、中国大陸にあった東亜同文書院の教員たちが多く勤めるこの大学には、進取の気風が漂っていて、マルキスト、リベラリストと呼ばれる教授たちが少なくない。帝国陸軍の跡地に創建されたキャンパスの一角にいちはやく「自由の鐘」(それは広い敷地の片隅にあって、目立たない質素な代物ではあったが)が設置された事実も、大学の性格を物語っている。
「警職法」に反対する声が他校に先駆けて挙がったのも「警察官スパイ事件」の記憶が生生しいのと併せて、そんな大学の気風に因(よ)るところが大きいのだろう。一郎は幾分、心地よさをともなってそんなふうに思う。
 講壇に立つ学生が代っている。最前の演説型とは対照的だ。痩せてもいなくて大柄ではあるが、妙に生っ白い顔にそれ自体が内気そうな型の眼鏡を掛けて、「警職法」について解説している。ときどきレジメらしき便箋に視線を落とし、講義か学習会でレポートでもする調子だ。「警職法」の危険性を声高に糾弾するふうではなく、法案の中身を逐一、分析して参加者たちを納得させようとする手法だ。二十分ほどで話を終えるまで、訥訥としたその調子は変らなかった。一郎にはそれが半ば物足りなく、半ば安心でもあった。
 三人目の学生が講壇に立ったとき、シュプレヒコールでも叫んで気勢を上げるのかと思ったが予想はあっさりと外れて、司会は次回の全学集会の日程を伝え、閉会を告げた。それで一郎が別段、落胆することはなかった。初めて参加した学生集会を彼は彼なりに新鮮な気持で味わったのだ。
 誰かが背後から一郎の肩を叩いた。集会の余韻にひたるでもなくゾロゾロと二階の大教室から階段を下りる学生たちに混じって、カマボコ型建物へ向かおうとしたときだった。これから担当教授のゼミナールがある。
「馬瀬君、来てたのか」
 肩を叩かれて振り向いた一郎に、喜多弘次が眼鏡の奥の眼で笑って言う。
 二人は肩を並べ、急ぐでもなくグラウンドの真ん中を抜けてゼミの教室へ向かう。
「全学集会の感想は、どう?」
 喜多が訊ねる。中学を卒業して夜間高校に通いながら郵便局に勤め、郵便配達をしながら労働組合運動だけでなく日本共産党の周辺で政治活動にも接触してきたらしい喜多の口吻には、その方面ではまっさらの一郎をためす気配がある。
「学生の関心があれほど高いのが、意外だった。一種、新鮮でもあったよ。名古屋校舎の頃は、学内の政治集会なんて、想像してなかったから」
 幾分は喜多の思惑に応えるふうに、一郎は言う。
「それにしても、白柳(しろやぎ)君の報告は迫力なかった。もう少しアジプロ入れなきゃ学生たちは燃えないよ」
 喜多は不満を表して、「警職法」法案の内容を講義ふうに解説していた学生が、民青同盟員で自治会委員の白柳であると教えてくれる。最初に盛んにアジっていた体育会系タイプは? と一郎が訊ねると、あれが自治会委員長の志賀だと教えて、あの男は自己顕示欲のかたまりで政治的には何の理論武装もしていない人物だ、と補足説明までした。民青同盟員の白柳の訥訥とした外貌と、政治的には無理論の志賀の派手っぽさ。一郎は理由も無く、二人の対象がミスマッチな関係に思えたが、案外そういうものかもしれないと思いなおす。
「学生のなかには名古屋校舎から来た新三年生が多いから、まず警職法の中身を理解させるために、あんなふうに解説したんじゃないの? 政治闘争の始めはまず課題の認識が基本かもしれないな」
 一郎が白柳の無骨さに感じた安心をそんなふうに表現すると、喜多は言下に言い放った。
「いや、あれは白柳の性格でね、ねちっこいんだよ。それに彼は学者志望でね」
 一郎は虚を衝かれて喜多の横顔を窺う。喜多の風貌もなかなか学者タイプではないか・・・・・・。一郎は内心、そう皮肉ってみる。
 喜多の横顔を眺めたその視線をずっと先のほうへやると、馬術部の馬が草叢で、体にまといつく虫でも払っているのか尾を振り立てながら草を食(は)んでいる。一頭だ。もう一頭は厩舎にいるのか、部員が遠乗りに行っているのか。
 埒もなくそんなことに気が逸(そ)れかかって、一郎は不意に奇異なことに気づいた。学生集会には日頃『資本論』第何章何節によればとか、レーニンの『何をなすべきか』によればといった冠頭句を口癖にしている『資本論』ゼミの仲間が、喜多弘次のほかには誰も参加していなかったようなのだ。

馬瀬一郎が本山二三麿教授の『資本論』ゼミナールを選んだのは、さほど積極的な理由はなかった。どちらかといえば消去法に因(よ)る。数学がからきし駄目な彼には近経(近代経済学。ゼミ仲間はそれをブル経と呼ぶ)を専攻する意思など、端(はな)からなかった。事実、やたら数式を応用してケインズ理論を説明する「経済原論」Ⅰなど、学会でも評価が高いと噂される気鋭の教授の講義なのにさっぱりついていけず唯一、赤座蒲団を貰ってしまったほどだ。それで、名古屋校舎時代に顔を出していた経研(経済学研究会)のメンバーに誘われるまま『資本論』ゼミにはいった。
「理論経済」Ⅰの最初の授業の日――本山二三麿教授を初めて見て、一郎は意外な感じを受けた。名前に「麿」などとあるので公卿ふうな人品だろう、と勝手に想像していたのだ。唐草模様の色褪せた風呂敷包みを小腋にして大教室に現われた本山教授は、四十歳代の半ばのはずなのに、うんと老(ふ)けて見えた。色浅黒く土の匂いのする風貌といい、小柄ながら厳(いか)つい体格といい、講壇に立つより野良で働いているのが適しい印象だ。実際、一郎は漁港の町でよく見かけるおじさんの誰彼を彷彿したのだ。ある日、街角で出会ったとして、マルクス経済学の気鋭の学者をそこに見出すのは、至難だろう。
 本山教授は講義を始めるなり武骨な印象を一変させ、その毒舌の奔放さによって一郎の度肝を抜いた。マルクス理論によって資本主義経済を縦横無尽に分析する弁舌の折折に、彼は天皇その人を「天ちゃん」と呼んで天皇制を諷刺し、同僚のブルジョア経済学者の誰それを名指しで揶揄し、返す舌鋒をもってマル経の権威(たとえば宇野弘蔵など)をも批判する。毒舌の間間に囃子詞めいて、これは「ぺけッ」あれも「ぺけッ」と悪態を頻発するのだ。そんな講義に教室を埋めた学生たちは、どッと沸くのだ。「理論経済」Ⅰの履修生が多いのは、本山教授が試験では失格点を付けない、つまり「ぺけッ」にしないという評判にも起因する。
「それは、きみィ、○○と××との弁証法によってアウフヘーベンされるんだ」
『資本論』のゼミ学生のあいだでは、そんな口吻が流行になっている。本山教授の口真似をして、仲間同士でやり合うのだ。名古屋校舎での経研の学習会にチューター役を買っていた上級生・水口健二の口癖が、それに由来したものと一郎が気づいたのだったが、いまやその口吻は下級生をも侵蝕している。もっとも名古屋校舎経研の出身者で堂堂とそれが出来るのは喜多弘次であって、山波雄太郎と一郎の場合、まだぎこちなく様(さま)になっていない。いちはやく「天ちゃん」とか「ぺけッ」とかの本山教授口真似をマスターしている喜多を、一郎と山波は半ば羨望の、半ば軽蔑の、複雑な心境で見ている。
 名古屋校舎経済学研究会のメンバー七人のうち、専門課程にすすんで『資本論』ゼミにはいったのは喜多、山波、一郎の三名。他の四名は就職時の利と不利を計ってのことだろう、銀行論とか経営学とかのゼミナールを選んだ。山波雄太郎が『資本論』ゼミを選んだのは、一郎には意外だった。
 山波は、中学生のころ肺結核を患って胸郭手術を受け、休学したため一郎より二歳年長の同級生。色白の長身痩躯が幾分、右肩下がりなのは、肋骨を何本か切除したせいだ。彼が職人である父親の職業を口にしたがらないほどに気位が高いのは、性格に因るものなのか、同級生のなかで二歳年長なのを過剰に意識してのことか、一郎は計りかねる。ともかく上昇志向型(タイプ)の山波は、一郎が失敗した特待生入学の試験に合格して教養課程においても抜群の成績を維持したことに自負心を抱いており、クラシック音楽や西洋名画の鑑賞を趣味にしている。『資本論』ゼミでは異質の存在なのだ。別の意味で異質な一郎にたいして安心感を抱いているらしく、彼がいつか不用意に口にしたことがある。
「四年生になったら、ゼミを替わろうと思っている。ぼくは社会主義を信奉しているわけではないから。それに、本山ゼミでは優秀賞を狙えないし・・・・・・」
 山波の言葉を聞いて、一郎は特に驚きはしなかった。正直な男だな、と思ったにすぎない。優秀賞というのは、卒業のとき各ゼミナールから指導教授によって一名ずつ選ばれて表彰される制度だ。本山ゼミではそれを狙えないというのは、丹波作治の存在を意識しての言(げん)だろう、と一郎は即座に納得した。
 本山教授の指導によって『資本論』を逐一、解読していくゼミの授業は、一郎にとって難解このうえない。大学にはいって、デカルト『方法序説』、キエルケゴール『不安の概念』、シェストフ『悲劇の哲学』、ヤスパース『現代の精神的状況』といった書物を文庫本で闇雲に読んできて、自己流の生半可な理解で一人、納得したつもりになっているのと訳が違う。本山教授は「経済理論」Ⅰの授業の時とは打って変わって、ゼミでは温和な態度で指導するのだが、その解読は事前に読んで大体の見当をつけていた一郎の解釈を、ことごとくひっくりかえす。ありていにいって、一郎が興味をそそられたのは、『資本論』のなかでマルクスが付す感情的でさえある長大な「註」の文章のほうだった。したがって彼が提出するレポートなどピント外れの論述だったにちがいないが、本山教授は落第点をつけることがなかった。
 そんな一郎に、同じ三年生でも一年生から豊橋本校に通ったゼミ生の存在は眩しい。教養課程の頃から『資本論』を聴講している彼らは、本山教授の口吻を自家薬籠中のものにしているばかりでなく、解読のツボを心得ているのだ。沖縄出身の具志堅政信など、地域の政治活動に没頭していてゼミへ顔をみせるのは稀なのに、出席の都度、活発に発言する。一郎には驚異なのだ。
 そんな本校入学者のなかでも特に筋金のはいっているのが丹波作治である。丹波も山波雄太郎と同様、特待生入学試験をパスした学生で、喜多弘次とは格別ウマが合うようだ。喜多と丹波は共にマルキスト志望なのだ。
 丹波作治がマルクス経済学者をめざしていて、本山教授がすでにその将来の軌道を約束している、と一郎に教えてくれたのは喜多弘次。同様のことは山波雄太郎にも伝わっているにちがいない。
『資本論』のみでなくマルクスやエンゲルスの著書を読み込み、一郎には眩しくさえある革命理論を口にするゼミ生たちが、喜多を除いて誰一人、学生集会に参加していなかったことは、やはり奇異というほかなかった。
 口舌の徒――そんな言葉を一郎は呟く。ゼミ生たちの理論偏重=実践軽視の性向は、本山教授のあまりにストイックなアカデミズムに影響されているのかもしれない、と彼は思う。
 ある日の授業中、ゼミの雰囲気に反乱を試みたのは、花咲幸男だった。花咲は自他ともに認める熱心な共産党Sの活動家。その彼が突如、ゼミ生たちに食いついたのは、講義が少し脱線して、本山教授が「警職法」に反対する自治会(民主青年同盟が執行部を牛耳っている)の闘争方針を揶揄して、「左翼小児病」と呼んだときだ。ゼミ生たちは教授の言葉に同調して、笑った。
 その直後、花咲は立ち上がるなり顔を真っ赤にして叫んだ、「きみたちは卑怯だ。口先ばかりで反動勢力とたたかえるのか。観客席に座って批判ばかりするのは卑怯だ」。彼は感情の蝶番(ちょうつがい)でも外れかかったふうに肩をふるわせた。
 花咲は、本山教授の言葉とゼミ生たちの笑いが共産党Sの活動家である自分を揶揄した、と受け取ったのかもしれない。戦後間もない一時期、徳田球一の秘書をしていたという本山教授が日本共産党と袂を分かってから熱烈な対立者に廻っていることをも根に持っているのかもしれない。たとえ動機は個人的なものであったとして、花咲の批判は的を外れていない、と一郎は思う。それでもこの場で発言して彼を擁護する勇気は、一郎になかった。鼻先に向けられるゼミ生たちの蔑むような視線に圧迫されたからだったが、それ以上に一郎には用語の弁をふるう自信がなかった。彼自身、何ほどの実践もしていない、傍観者にすぎない。
 花咲は、俯き加減に沈黙している本山教授を睨みすえるようにして、教室を出ていった。一郎は、おれもゼミ生の皆と同じ結託者なのだ、と自嘲的に思い、花咲の後姿を見送るしかなかった。
 一郎に不思議だったのは、彼が「口舌の徒」と密かにレッテルを貼っているゼミの仲間たちが、経営学ゼミや近経ゼミの学生たちに対すると俄かに猛烈な敵愾心を燃やすことだった。前期の試験が終って夏休暇にはいるまえ、ゼミ対抗のソフトボール大会が開かれて、一郎はそのことを痛感した。
『資本論』ゼミが初戦で対戦したのが、最近、学生たちに持てはやされて花形の経営学ゼミ。指導教授の大岩が経済界に顔効きなので、就職には最も有利と評判のゼミだ。「物神崇拝主義者どもには敗けるな」というのが、試合前に『資本論』ゼミ・チームのメンバーが互いに飛ばし合った檄。
 両チームともに中学、高校時代に野球部の経験者はいない。攻撃も守備も皆、へっぴり腰で様(さま)になっていないこと甚だしい。一人、一郎は軟式野球部とはいえ野球で名高い東方高校で一年半、エースピッチャーを勤めクリーンアップを打った。彼にはゼミ仲間たちが露わにする相手チームへの対抗心に同調するつもりはなかったけれど、それでも力を抜いたりはせず、格段の活躍をみせて、『資本論』ゼミ・チームが乱戦を制して経済学ゼミ・チームを破った。
 一郎は株を上げ、仲間たちの握手攻めにあったりしたが、『資本論』の勉強では落ちこぼれの彼として、なんとも面映いかぎりだった。
 具志堅政信の「パスポート拒否事件」が起きたのは、ソフトボール大会の一か月ほどのちだった。
 夏の休暇を利用して沖縄へ帰省していた具志堅政信は、本土へ戻る飛行機の機中でパスポートを破り棄てたのだ。パスポート不所持の廉によって、羽田空港の税関で足止めを食った彼は、われわれウチナンチューに、なぜ本土往来のためパスポートが必要なのか、と日本政府に抗議した。「入国」を拒まれた三日間、彼は米軍による沖縄占領がいかに理不尽な政策であるかを質(ただ)し、アメリカ占領軍と日本政府を糾弾した。一郎が初めて「琉球処分」という言葉を知ったのは、具志堅政信の抗議を報じる新聞記事によってであった。
 具志堅政信が羽田空港の税関を出たのは、水口と喜多が現地へ到着した日。具志堅は警察へ移送され、取調べを受けていた。

 具志堅政信は結局、処分保留のまま仲間たちのもとに帰ってきた。九月にはいってすぐのことだった。
 一郎は、後期にはいっても「警職法」の学生集会には必ず参加することに決めている。具志堅政信の羽田空港での果敢な行動が、一郎に心情的な影響をあたえ、一種の共感をもたらしたのは確かだ。具志堅の行動は直接「警職法」にかかわるというよりも、二年後に改訂が迫っている日米安全保障条約に深く結びつくと思えたけれど、いずれにしても問題は三竦(すくみ)に絡んでいるのだという程度の認識は一郎にもあった。
 豊橋本校での新年度が始まって十日目頃、新規特待生の発表があって、一郎は選抜から外れた。一年限りの儚い夢だった。新規特待生の成績対象となる二年生の一年間、一郎は神坂ねんことの濃厚な交際に明け暮れて、授業に打ち込むどころではなかったのだ。同人誌『追舟』の発行に現(うつつ)を抜かしてもいた。経済的打撃は否めないけれど、奨学金で凌げなくはない。

『追舟』三号は、七月中旬に出ていた。季刊の計画はなんとかクリアしたものの、頁数は創刊号より半減して四十六頁の薄いものになった。
 誌面には新登場、日比裕の小説「三人卍」、軍艦こと馬瀬広之助の評論「空白の子」、秋村進(本名・国本尺六)の戯曲「スフィンクス」が載って、一郎はアルベール・カミュの『結婚』の文体と、最近登場した大江健三郎の『死者の奢り』の状況設定(シチュエーション)を模したような短編小説「埋没」を発表した。
 そして編集後記を次のように記した。

「新しい文学の可能性」という課題が提起されて以来、既に数ケ月、ぼくらも微力ながらそのことを追求してきました。
 且つて近代日本文学の正統であった自然主義リアリズム――私小説の潮流を、ムナクソワルイ亡霊として駆逐し、思想と構造を文学の正統とすべく「観念的な、余りに観念的な」文学の創造を、敢えて決行することをぼくら心に決めたのです。
 寓意(アレゴリー)と仮構(フィクション)によってぼくらのイデーを表現するために、ぼくらは近代日本文学の手法を否定するという暴挙を、選んだのです。ぼくらの選択が正しいか否か、それは当面、ぼくらの関心ではない。ようするに、試みが問題なのだ。
 ぼくらは、試みに賭ける。                (『追舟』三号編集後記)

 一郎が主張する文学観は必ずしも同人たちの共通認識とはなっていない。一郎の一人よがりの感を否めない。それは同人雑誌を発行しようと集まった計画の段階ですでに露呈していた。誌名を決める際の亀裂が、雑誌の発行をかさねるにつれて深くなった。創刊に加わった同人のほとんどが三号に作品を掲載しなかったのは、その結果なのだ。
 仲間のあいだに漂う停滞感には感情的なそれも忍び込んでいる。退会者は夫馬敬成ひとりだが、一郎が二号の編集後記に書いた文章は、同人みなに例外なく不快感をもたらした。氷やのKちゃん、三郎さ、軍艦といった年長の同人も面と向かって口にすることはなかったけれど、一郎の雑誌運営には専横を嗅ぎとって、眉を顰(ひそ)めている。同人の離散はそれほど遠くない・・・・・・。一郎は『追舟』四号の準備にとりかかった。

 友二君じゃないか・・・・・・。
 読み耽っていたエルミーロフの『ドストエフスキー論』から目を上げて、何げなく通路の前方、彼の位置とは反対側の座席に視線をやったとき、一郎はそう思った。斜交いに後姿しか見えないけれど、異常に白い項あたりに窺える容貌の感じといい、歪つに傾いだ右半身の特徴といい、不自由な右手でしきりに何かをメモしている後姿といい、中学の頃、一年間だけクラスが同じになった友二君に違いない。それにしても、友二君がなぜ、この列車に乗っているのだろう・・・・・・。
 後期の授業が始まって一か月ほど経った大学からの帰途、豊橋から名古屋方面へ向かう東海道線の車中のことだ。
 石山友二は一郎より何歳か上のはず。両親が開拓民として旧満州(中国東北地方)へ渡っていたのでそこで生まれ、戦後、日本へ引き揚げてきた。中学時代の石山は長期欠席することが多く、一郎と同じクラスになった二年生の時も学校を休むことが多く、たしか四年間通って中学を卒業したはずだ。その以前、小学校編入時も同年齢の者より遅れ、それで一郎より何歳か年上になる。
 一郎は石山友二とは特に親しかったというのではないが、彼が体に障害を負ったのは引き揚げの途中、失踪する日本軍の自動車に轢かれたからだ、と石山自身の口から聞いたことがある。
 中学を卒業して数年後、石山友二が自宅で採れた野菜を乳母車に積んで漁港の町を売って歩いているという話を、一郎は母から聞いた。母は、「家(うち)に寄ってくれるときは、きっと買うようにしとる」と付け加えた。
「友二君じゃないか」
 石山友二に間違いなかった。何か印刷物の裏に短歌らしきものをメモしていた石山友二はゆっくりとした動作で顔を上げ、怪訝な表情をみせた。
「中学で一緒だった一郎、馬瀬だよ」
 一郎がそういうのとほとんど同時に、
「あー、いーくん」
 友二君は言うなり表情を緩めた。
 友二君と向かい合わせに掛けていた主婦らしき人が、どうぞ、と目顔で言って席を替ってくれたので、一郎は礼を言って旧友の前に掛けた。
「短歌を作るのに凝(こ)っていて」
 一郎がメモ用紙に視線をやったのに気づいて、友二君は悪びれるふうもなく言い、下敷き代りにしていた大学ノートにメモの紙を挟んだ。
 友二君がなぜこの列車に乗っているのだろうという一郎の疑問はすぐに解けた。一年ほど前から障害者専門の職業訓練所に通っているという。その施設は豊橋から飯田線に乗り換えて三十分ほどの町にある。
「いーくんは」
 友二君が訊ね返す。一郎は数秒、躊躇し、
「豊橋の大学へ通っている」
 と答える。友二君の顔が影の掠めるように曇った。
 友二君は自分をさらすふうに、久しぶりに会った一郎に語った。
 中学を卒業して、乳母車に積んだ野菜を行商みたいに売り歩いていたときは、自分が惨めで辛かった。町では野菜など自宅で栽培している家が多い。漁師の家でさえ貰い物で済ませている。売れるはずもないのだ。ただ、家人から余計者と思われたくないばかりにそれをしているだけ。そう思うと、自己嫌悪がつのり、不自由な恰好で乳母車を押している姿を他人が笑っているように妄想してしまう。半日ほど町を廻れば、体も疲れ切る。
 夕暮れどきなど、家の向かいにある寺の木木が暗く影におおわれて風に鳴るのを眺めて、あぁ、死にたい、と無性に思うことがあった。事実、衝動的にカミソリで手首を切って死のうとし、果たせなかったこともある。短歌を詠みはじめたのは、そんな時。日日をやりすごすつなぎの慰めにはなった。二時間近くもかけて職業訓練施設に通う気になったのも、短歌のお陰で少しは生きようという気持ちが沸いてきたからかもしれない――
 友二君はときどき笑いに紛らせながら淡淡と語るのだが、一郎はなぜか感謝したい気持ちを覚えた。自分を忌憚なく語る――そういうことは(あるいはそういう人生を持っているということは)、自分には一度もない経験なのだ。
 家(うち)の畑でも家族で食べきれないほどの野菜を作っているのに、友二君が乳母車を押して廻って来れば、母は几帳面に買うことにしていた、そんな事情もあって友二君は仕舞っておきたい胸の内まで語ってくれたのかもしれない。一郎はそう思う。
 大府駅で武豊線のディーゼル車に乗り換えてから、一郎は同人雑誌『追舟』のことを話した。
「すでに三号まで発行していて、十一月には四号を出すことになっている。友二君、ぜひ短歌を寄せてくれよ」
 一郎の誘いに、友二君は幾分はにかむふうだったが、目を輝かせた。
 夕陽の燦めきがホームを染めるなか、友二君は短歌を『追舟』に寄せることを約して、漁港の町とは一つ手前の東浦駅で降りた。駅舎から消えるとき、右肩がひどく下がって左右に揺れる友二君の後姿が、心躍らせているように一郎に感じられた。
 三日後、石山友二から郵便が届いた。封筒を開けると、四首の短歌と詩篇一篇がはいっている。約束の物、早速送ります――と一行だけの手紙が添えられている。
 短歌は、無為の日日、ノイローゼに怯えながら父親や兄との不和を詠んだ歌が二首。月二千円の給料で病院の受付係をする不具の身を嘆いた歌壱首(三日前の車中では病院に勤めた話は出なかったけど、野菜の行商をする前か後かにそんなこともあったんだ、と一郎は知る)。あと一首は自殺未遂の歌だった。友二君の話では手首を切ったということだったが、短歌では農薬を服んで――となっている。そうか・・・・・・。友二君は少なくとも二度、自死を企てたんだ、と一郎は推察する。
 四首の短歌はいずれも暗い色調に彩られ、総じて詠嘆にながれる傾向のものだった。短歌の技法について疎(うと)い一郎だが、そういう傾向には違和感があった。しかし、同封されていた詩篇に彼は魅かれた。詩に題は付されていない。

 月をみなさい。
 月には顔がない。
 だから 月は笑っています。
 人をみなさい。
 人間には顔がある。
 だから 人は笑えません。
 人間に顔がある限り 人間は笑えません。
 月に顔がない限り 月は笑っています。

 空がとても青くて 家々の屋根がまぶしそうです。
「可哀想だな」そう思いながら見ている男。
 どうしてあなたは そんなふうに自分を眺めるのですか。
 空を眺めるのがまぶしい男。
「可哀想だな」そう思いながら 男が考える死。
 どうしてあなたは そんなふうに自分を眺めるのですか。
 あなたがそんなふうに自分を眺めるので あなたは死です。

「人とは何ですか」
「それは、おかしい、です」
「おかしいって、何ですか」
「無意味です」
「無意味って、何ですか」
「それは、人間です」
 空があまりに青いので、
 家々の屋根はまぶしそうです。
「可哀想に・・・・・・」と男は思います。

 一郎はその詩を『追舟』四号に載せたいと思う。短歌四首のほうには躊躇(ためら)いがある。
 ともかく一郎は、『追舟』バックナンバー三冊を石山友二に送った。
 四号の締め切りが迫っているのに、掲載する作品を同人たちが準備している様子はみられない。顔を合わせるたび催促するのだが、反応は一郎の意気込みを削ぐものだった。一郎の文学論あるいは雑誌運営にはっきりと異を唱える者さえいて、同人たちの離散は避けられない段階に来ているようだ。原稿が集まらなければ、友二君の短歌を載せるのもやむをえないだろう・・・・・・。一郎は手前勝手にそんなふうに思う。
 一郎自身は、他に作品が集まらない場合をすでに想定して、これまでになく長い小説を書きすすめていた。「いたずら」と題されたそれの創作メモは、次のように簡単で漠然としたものだ。

 主人公「ぼく」は山陰地方の砂丘(作中では勿論、そこは地名もなく抽象化された場所でなくてはならない)を旅したとき、少年たちのいたずらを見る。
 十数人の少年たちが、一人の気弱そうな、貧相な少年を罵りながら、砂丘の頂きへ引きずり上げて行く。捕虜の少年の体は縄で縛られ、何人かの少年がそれを引く。頂きに仁王立ちした体格のよい少年が、繋がれた少年を足蹴にし、足蹴にされた少年の体はまっさかさまに砂丘を転げ落ちる。砂にまみれて転落する少年の悲鳴は聞えない。そのいたずら(懲罰)は何度も繰り返される