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2007-01

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2007年1月(第338回)例会の御案内

 2007年1月(第338回)例会は下記のとおりです。

 日時 1月28日(日)午後1時30分~5時
 会場 名古屋YWCA(電052-961-7707 地下鉄「栄」下 
    車5番出口より錦通りを東へ約150メートル)

 テーマ①「日本の戦後文学における〈在日〉の意義―李恢成を中心に」
      報告・梁明心(神戸大学博士課程院生)
   
    ②「金鶴泳の死について」
      報告・李漢昌(韓国全北大学校教授)

 1月例会は2本立てになりそうです。ただし、李漢昌氏は会に合わせて来名できれば報告したい、との申し出なので予定です。
 例会のあとで新年会らしきこともします。皆さん、こぞってお出でを。新年の福をたくさんお受けください。 
                          磯貝治良
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「架橋」21 水について

水について

磯(いそ) 貝(がい) 治(じ) 良(ろう)

 それは音だった。なにかの感触だけが耳もとに囁く気配だったが、音にはちがいなかった。闇のなかに無音のまま忍び入ってくる音。
 何だろう? 蛇でも玄関から這い入(い)ってきたのだろうか。玄関の扉は閉まっているはずだ。枕もとのカセットラジオは沈黙している。深夜ニュースで、豪雨と日和(ひより)川の水位の情報を聞いていたはずなのに、うたた寝のままスイッチを切ったのだろうか・・・・・・。
 夢とも現ともつかずそんなことを考えながら、目覚めきらないまま起き上がって、玄関さきの部屋に明かりをつけた。背中にかすかな痛みを感じるのは、床板の間に敷きものもせず寝ていたからだ。柱の時計は四時を数分まわっている。夜は明けていない。
 無音の囁きが聞こえたはずの玄関を調べる。隙などない扉から一匹のふとい蛇が這い入って、三和土(たたき)に身をくねらせている。肌にうろこもない、透明な蛇だ。またあらわれたか。私は声に出して、そいつに言う。神話であれ説話であれ民間信仰であれ、フォークロアの世界で蛇はしばしば水の神だが、こいつはどうみても爬虫類を擬態している。
水の蛇が最初にあらわれたのは八時間ほどまえ、昨夕八時頃だった。気づいたときには、玄関の三和土に深さ十数センチの水がたまっていた。三日まえから間歇的ながら凄まじい雨が降りつづいて、排水溝の機能が一時的に麻痺したのだろう、と高をくくって様子をながめた。雨はほとんどやんでいた。その後、雨音は間遠くなり、二階部屋の寝床にはいって眠りに落ち、しばらくしてだった。階下の電話が鳴った。零時、町役場からだった。「自主的なものですが、避難勧告が出ました。町内のみなさんに連絡してください」町内会の世話人である私は、電話を使ったり直接訪ねたりして、月当番にその旨を告げた。二時間近くを要して連絡をすませ、玄関さきの間にラジオを置いて横になったのだった。ニュースは日和川の水位が警戒水位をこえたことを告げていたが、寝入ってしまったらしい。いや、堤防のもっとも低い個所では、水位は溢水まで三十センチに迫っているとの情報も聞いたはずだ。

閉ざされて隙もないはずの玄関扉から這い入って水を擬態する蛇は、身をくねらせながら三和土の四囲にそって這っていたが、行き場を失ったふうに体をふくらませはじめた。おもむろにはじまった変態は、突如、蛇の姿体をうしない、正体をあらわした。みるみる三和土を満たし、水の層を分厚くしてくる。下駄箱の足が水中に立ち、壁の水位が一センチずつ高くなっていく。その速度は肉眼でわかる。傘立てがゆっくりと倒れた。八時間まえの浸水とはちがう! 私のなかば覚めきらずにいた意識は、完璧にふきとんだ。
家の者を起さなくては・・・・・・。玄関さきを離れるより早く、息子と妻が二階から下りてきた。異変に気づいている顔だ。不思議なものでも眺めるように、三人で玄関の水を見た。水のほうも息を殺して無音のままふえつづけ、上がり框に近く迫っている。まるで水位の上昇に魅入られたようにそれを眺めていた三人が、同時に玄関さきを離れた。
三人が三様、いくつかある部屋に走りこんだ。何をどうという目算もなく当てずっぽうに持てるものを二階へ運び上げる。階下に下りたときには足もとを水がひたしている。それから一、二分後、玄関のほうでドンという音がして、家の中は真っ暗の闇になった。漏電ブレイカーが落ちたのだ。床にちかい壁のコンセントは水没している。息子が台所のガスの元栓を切っている。一個しかない懐中電灯は妻が使い、私と息子は闇の中で動きまわる。眼でさぐり、手でさぐり、足でさぐり、勘にたよるほかないとはいえ、四十年間住んだ家は意外なほど身体感覚になじんでいる。体を家具や柱にぶつけることはない。それでも特に意味はないまま、三人は自身を励ますふうに声を挙げて、たがいの所在をたしかめあう。
洋服箪笥から礼服と三着ほどしかないスーツを運ぶときには、部屋の水位が膝をこえている。「冷蔵庫が倒れた」妻の声が聞こえ、わたしの近くで書架の小さいのが倒れた。音はしないが、闇の中の気配でわかる。不意に足もとが揺らいだ。畳が持ち上がったのだ。浮きあがった畳は片方を水面に突きだして斜(はす)になる。六段組み書架にぎっしり並ぶ蔵書は、いま運べば上二段ほど助かるかもしれない。そう思ったとき、柱の軋むような音がする。箪笥が鳴いているのだ。股間のものが水没し、水は臍の下あたりまできている。「おーい、二階へ避難するぞ」返事はない。私は斜めに傾(かし)いだ畳を足裏で探り探りして、その部屋をのがれ、床板の間を抜けて階段を上がった。十三段ある階段はすでに三段が水の下だ。妻はすでに二階に避難していて、ありあわせの衣類に着替え、濡れたパジャマが水を絞って柱にハンガー掛けしてある。私も着換えていると、どこにいたのか息子が下半身の衣服をずぶ濡れにして二階へ上がってきた。
蛇を擬態した水が玄関にあらわれてから十五分と経っていない。

私と妻ねんこは、間仕切の障子をはずすと十二畳の広い間になる北側の部屋で過ごすことにした。三十七歳独身の息子一郎は南側の自分の部屋にはいってしまった。
九月の闇の息苦しさを払おうと、北側の窓を開け放つ。外界はまだ闇のなかにあってしんと静まり返っているが、家の内よりは幾分、白みがかった闇だ。雨は降っていない。懐中電灯をかざして窓の下の道路を照らしてみる。車輛一台が通れるほどの幅で東西に通じる道路が、流れない川になっている。向かい合わせの家を電灯の光でさぐる。玄関の扉が三分の一ほど水没し、ガレージの車はナンバープレートが隠れている。その隣家のブロック塀も子どもの背丈ほどまで水に没している。確かめるべきは確かめた。そんな気分に納得し、私はとりあえず横になる。ねんこは二階に避難するや、時を待つというふうに横になり、寝入っているとはおもえないが時時、寝息に似た音をもらしている。

ヘリコプターの激しい響きを耳にして私は起き上がった。眠ってはいなかった。プロペラ音はしばらくまえから遠く聞こえていた。重く垂れこめた曇天だが、夜は明けている。ヘリコプターの機体にテレビ局のマークが見える。低空を何度も旋回して、それは視界から消えた。
道路の水位は増えつづけていて、向かいの家の玄関ドアが半分近い高さまで水に没している。ガレージの乗用車はボンネットが完全に隠れ、水はフロントガラスを這いのぼりつつある。部屋の中をあらためて眺める。浸水のあと十分ほどのあいだに運び上げた机の抽出しや衣服やカセットラジオや何かの箱やが、まるで野放図に散乱している。それでも壁ぎわに場所をとってあるのが、それなりに整頓の意図を示している。
まったく虚をつかれたなぁ。手を拱いて水の意思にすべてをゆだねるほかないと観念したとき、階下で水のさかんにながれる音が聞こえる。階段を数段下りて耳を立て、トイレの水洗タンクであることに気づいた。私はジャージーを脱ぎすて、パンツもとって素裸になる。階段の水は五段目まで達している。それを数えるようにして階下に降り、プカプカ浮いているソファ椅子や卓子をかきわけて、水量を調節する円球タッパーが浮いてしまっている。水道管につながる元栓を締めると、流水は止まった。臍の上まである水を平泳ぎの要領でかきわけて二階へもどろうとしたとき、とっさに閃く。バケツが要る。風呂場まで行こうとして居間に一歩踏み入れた瞬間、右足がズブッと床を抜いて体が傾ぎ、胸のあたりまで沈んだ。体を立てなおしてはみたけれど、片側をそりくりあげて半分浮かぶ畳や横転した茶箪笥が邪魔して、居間を抜けるのはどうにも危なっかしい。無理かな。諦めかけたとき、茶箪笥の脇に青いポリバケツが漂っているのに気づいた。ありがたい、これがあればなんとか用便は足せる。二階へもどると、衣類のなかからTシャツを拾い上げ、体を拭いてパンツとジャージーを着ける。
部屋の片隅に置いたポリバケツが頼もしい。

ヘリコプターの轟音が頭上まじかといった喧しさでひびく。窓からは雨雲の消えない空に一機の姿しか見えないが、三機ほどが低空を旋回しているのだろう。エンジン音が入り乱れ、ぶつかりあって渦を巻いている。
道路は水嵩を増して、ゆっくりと流れる水が汚泥の色にそまりはじめている。向かいの玄関が表札の近くまで水に没している。ガレージの乗用車はあたままで水をかむり、天井がかすかに水中に映っている。私の家の車庫は、二階の真下にあって息子の車は見えないが、同じ状態になっているだろう。斜向かいの家のブロック塀は大人の背丈ほどある高さだが、あと数センチで水に没しようとしている。部屋の置時計は七時五十分ほどを差している。
妻のねんこは、一度ポリバケツで小用をすませ、窓の外を眺めたきり、目を閉じて寝そべっている。ときどき薄目をあけてわたしの様子をうかがう。その都度、彼女に声をかけようとして、私はためらう。「じたばたしても、何もできないでしょ。水は気がすんだらもどっていくわよ」そんな言葉が返ってくるにちがいない。こんな事態に本心で平静を保っているのか疑わしいが、私より肚が座っているのは確かだ.息子はときどき窓の外を眺めにきて、道路の水を偵察するが、ほとんど自分の部屋にいる。本でも読んでいるのだろう。
水のやつ、どこまで増えつづけるつもりか? 情報をつかまなくては・・・・・・。
さいわいカセットラジオは助かっている。玄関さきの間で深夜、日和川の警戒情報や海をわたって電波にのってくる韓国語放送を聞いたまま私が忘れてしまっていたのを、息子か妻が機転よく二階へ運び上げたのだろう。いつもはコンセントを使ってNHKのハングルニュースやラジオ講座を聞くそれには乾電池はセットしていない。衣類をひっかきまわしたり抽出や箱の類をのけたりして「がらくた」の山を探すが、肝心の電池はどこにもない。階下でマルチボードの抽出にはいったまま水に沈んでいるのだろう。電気が来なくては、ラジオは聞けない。ちぐはぐなのだ、この家は。
電話が鳴った。四時間まえ水が床上をひたしはじめたとき、妻が階段脇の架台にあった電話機を持って長いコードをひきずり、二階の入口まで運び上げていたのを思い出した。四十年前、この家に住むと同時に敷いたダイヤル式黒烏色のそれがさかんに鳴っている。そうだ、電話を友人にでもかけて情報を確かめればよかったのだ。
階段の水は中段あたりまでのぼってきている。それを眺めながら受話器を取った。
「はい、水口」
「あぁ、わしだ。大丈夫か」
名古屋市内に住む兄の声だ。
「全然、大丈夫じゃない。いま階段の中ごろまで水がきている。そいつを見ながら話している」
「テレビがひっきりなしに町の風景を写しとる。まるで海みたいだ。M鉄道の駅舎が半分ほど水に隠れて写った。おまえの家あたりも画面の下のほうに何回も写った。見えただろう」
「見えるわけないよ、停電してるんだから。それにテレビは一階で水の底」
「そうだったな」
兄はちょっと口調を変えて、状況を伝える。
「自衛隊が決潰した堤防に土嚢を積んどる。川の水は減ってきているようだが、あれじゃ何ともたるい感じだな」
「この辺では、水はまだ増えつづけているよ」
「百メートルも破堤したというからな」
「そうか、日和川の堤防が切れたのか。深夜のニュースでは氾濫まであと三十センチというのは聞いたけど」
「新川?」
私の家から直線で一キロほど西北を流れる、県の管轄する人工の一級河川で、東南を流れる建設省一級河川・日和川と新川に挟まれた旧水田地帯の住宅地に、私の家は位置する。
「おッ。また、おまえの家のあたりが写っとる」
「道理でヘリコプターの音がうるさくて電話の声が聞きとりにくいはずだ。あいつが撮ってるんだ」
「避難所へ行かなくて大丈夫か。平屋の家は水没しそうに見えるぞ」
「まさか二階までは来ないだろう。それに泥水の中を泳ぐ趣味はないよ」
「さっきボートが写っていた。避難所へ人を運んでいるらしい」
「避難所も水につかって、似たりよったりだろう」
「道路の車がみんな画面から消えた。水の底だ」
「・・・・・・」
「ねんこさんと一郎君はどうしてる?」
「大丈夫。二人ともおれより肚が座っているよ」
「よし。様子をみて陣中見舞いに行く」
兄は気合を入れるように言って、電話を切った。
あくせくしても始まらない。私も妻に倣って畳の上に体を横たえた。昨夜から碌に眠っていないのに、眠気は来ない。それと意識はしないが気持ちが苛だっているのだろう、疲労感がはっきりしない。空腹感もない。それでもポリバケツにしゃがむと大便は出た。バケツの縁に尻が安定せず中腰の構えになるので、無様な恰好だ。毎朝の便量の半分ほどしか出ない。訳もなく妻の視線を気にしながらティッシュを使う。息子は一度、小便に来たが、大便のほうは我慢しているようだ。
横にはなったものの、うまく気持ちが座らない。ときどき窓の外を眺める。曇天がうすれて淡い陽が差しはじめている。向かいの乗用車は完全に水に没して影も形もみえない。玄関の表札も隠れている。斜向かいの家のブロック塀も姿を消している。眼の下の「川」は幾分、様子が変わっている。一時間ほど前まで東の方向と西の方向から流れてきて、家のまんまえあたりで淵をなしてかすかな渦をつくっていたのが、流れは停滞し、渦も消えている。水位は目測で二メートルくらいか。
水位はそれからも微妙に上がりつづけたが、正午頃になって止まった。
「おーい、おーい」
遠くで人を呼ぶ声がして、私は目をひらいた。水位の上昇がとまって気持が落ち着いたのか、うたたねをしていたらしい。声はくりかえされている。懐かしさの感情がすーと胸にはいってくる。浸水以来、向かいの家の家人が窓から外を眺めることがあって人の顔は見ていたが、人の声は家の者と兄の電話以外に聞いていない。それとは異質の懐かしい、人間の声だ。そうだ、水に閉ざされた町におれと同じ境遇の人間たちがいるのだ。ちょっと大袈裟だけど、そんな懐かしさだ。
私が起き上がるのと同時に、ねんこも同様の感情にさそわれたのか、すばやく身を起して窓のほうへ走った。
私とねんこは示し合わせたふうに首を窓からつきだした。西の方向、三十メートルほどさきの四つ辻あたりからボートが二艘、こちらにむかってくる、二艘とも消防団の服を着た男性がオールを漕いでいる。自衛隊のボートではないらしい。前をすすんでいるボートには赤ん坊を抱いた女性が一人乗っている。家々の窓にむかって大声で呼んでいるのは、後続のボートでオールを操っている男だ。どの家も森閑として窓からのぞく顔はない。
二艘のボートはみるみる近づき、若夫婦と赤ん坊を乗せたそれは、私とねんこが見下ろす窓の下を速度もゆるめず通過した。避難所へ急ぐのだろう。後続のボートがオールを休めて西隣の家のまえで止まった。消防団員が声をかけながらスチール製の梯子を二階の窓に渡す。すこし手こずっていたが、うまく掛かったようだ。隣家の老人が息子に体をささえられながら梯子に足を掛け、これ以上は不可能とおもえるほどの緩慢な動作でボートに降りた。体を縮めて正座した老人は、不安そうに窓のほうを振り返る。避難用具でふくらんだバッグが窓から投げ落とされた。
ボートがふたたび窓の下一メートル数十センチの水面をすすみはじめる。消防団員が、二階から首を出している私たちに気づいて声をかけた。
「もう一人乗れますよ」
ねんこが目顔で、行かない、と私に告げる。
私がその旨を伝えると、消防団員は「避難所に行けば間もなく食糧がとどくはずですよ」と念を押したが、返事を待たずにボートを出発させた。
「おなか、すいたわね」
遠去かったボートが広い通りを左へ曲がって消えるのを見送りながら、ねんこが言う。
時計を見る。午後二時を過ぎている。きのう夕食を摂ってから二十時間近くが経っている。
「我慢しよう。死ぬようなことはない」
冗談半分に私は応える。ときどき自分の部屋から顔を出す息子も、空腹のことは何も言わない。
「腹に入れてうんちしたくなるのも嫌だからな」
部屋の隅に置いたポリバケツの中身が側に近づくと悪臭を放ちはじめている。暗くなったら窓から捨てよう。そう思いながら畳の上に横たわる。ねんこはすでに横になっている。増水が止まって、いっそう肚が座ったのだろう。ボートから呼ぶ声が聞こえるまで時時、大胆に鼾をかいていた彼女は、いまもかすかな寝息をもらしはじめている。
私は階下の様子をたしかめにいきたい誘惑を覚えるが、無理だろう。階段の水位から察して、床上でも水は首の近くまであるにちがいない。
気を紛らすために、息子の部屋と隣合せの自室にはいり、きのう届いたばかりの雑誌『日本新文学』をひらく。集中力は平時の五〇パーセントくらいに減退していて、文章の意味がうまく吸収できない。それでも時を稼ぐつもりで読みつづけていると、電話が鳴った。
「もし、もし、水口さん? チェヒョンです」
「あぁ、チェ君」
在日文学を研究する会の仲間で年下の友人チェヒョンからだ。
「昼前から電話してたんですけどつながらなくて」
チェヒョンは、ようやく声が聞けて安堵するふうに言う。兄から電話がはいって以降、とだえていた。正午をはさんで数時間、リーンと鳴ったきりウンともスウとも言わず切れたことが数度あったが、そうか、回線がおかしくなっていたのだ。
「朝は通じてたんだけど。うちの電話は超古典的なダイヤル式だから停電には強いんだよ。電気を使う新式のは全滅だろうね」
チェヒョンは、なるほどという言葉をくりかえしてから訊ねた。
「水の具合はどうですか。減りはじめていますか」
「いや、全然。二時間ほどまえに増水は止まったけどね」
「おかしいな。自衛隊と行政が二十台のポンプ車を出して吸水作業をしているというニュースがながれたのは、だいぶ前ですよ」
「汲み上げた水はどうしてるの?」
「新川へ入れてます」
「新川? 新川が決潰したんだろ。そんなことをして大丈夫かね」
「新川の破堤個所は応急の修築がすんで、水位もさがっているようです。大丈夫でしょう」
私とチェヒョンは、まるで被災住民と災害対策本部の担当者のような会話をした。
「ゴムボート調達しましょうか」
「さっき消防団のボートを断ったところだから」
「とにかく水が干いたら応援に駆けつけます。台車はありますか」
チェヒョンが言う。台車? 私は一瞬、その意味を解しかねたが、片付け作業には台車が必要なのに気づいた。赤帽の宅配会社を自営しているチェヒョンは、さすが先の読み方がちがう。
「台車は、不燃物のゴミ出しの日に使っているのが一台ある」
「もう一台持っていきましょう」
片付け作業か。階下の千冊をこえる蔵書や資料類は全滅だろうな・・・・・・。脳裏をその情景が掠める。
チェヒョンとの電話が切れると、それを待っていたようにまた電話が鳴った。
「もし、もし、体、大丈夫?」
女性の声が急(せ)きこむように、いきなり安否を訊ねる。
「ええ、人間は大丈夫。命の不安はまったくありません。静かな水が来てるだけですから」
「テレビ見て、びっくりしちゃった。水没している町の地名が、水口さん家(ち)とまるごと一緒やないの」
聞き覚えのある声だが誰だろう?
「声を聞いて安心したわ。でも、いつもの元気ないやんか」
「こんなとき元気なのがいたら、顔を見たいよ」
相手の調子にのって軽口をたたいたとき、やっと誰かがわかって、名前が口をついて出た。
「そうよ、京都のスニやんか」
キムスニは二十年来の知人だ。ながくつづけていた米屋と薬局の店をたたんで、夫婦で韓国へ語学留学していて、何年か会っていない。
「日本に帰ってるの? ムンテギさんも帰ってるの?」
私のほうが懐かしくて訊ねかえす。
「そんなことどうでもええやんか。何もでけへんのが辛いけど、とにかく無事でよかったわ」
「ぼく自身だって二階に閉じ込められて何もできない。電話してくれただけで、励まされるよ。ほんと、ありがとう」
「長ばなしは迷惑だろうから、電話切るね。またおいしい酒を飲むの楽しみにしてるわ」
キムスニからの電話が呼び水になったかのように、それからわずかな間合いをおいて黒烏色のダイヤル式は鳴りつづけた。姉や妹たち、在日文学研究会や日本新文学会の仲間たち、市民運動グループの友人や私の著書を出している小さな出版社の社主などからの電話だ。思いがけない旧知の声の訪問もあって、北海道や沖縄からもとどいた。テレビニュースの画面で水に沈む町の光景が全国にながれているのを実感する。

夕暮れまえになって、気のせいだろうかと思えるほどの兆候ながら、水が干きはじめた。向かいの家の玄関ドアやブロック塀の水位が微妙に下がっている。
ときどき弱い雨を降らせていた雲が薄れてきた。西の空に夕陽の淡い光がもれている。「川」の水は落日のにじむ空の色に似ているが、それを映しているのではない。汚泥の色だ。
「おーい、おーい」と呼ぶ人の声がして、東側の広い通りをボートがつづけざまによぎる。避難所へ向かうのだろう。どのボートにも人が詰まっている。三十分ほどまえヘリコプターが、避難所には食糧が用意されている旨を告げて旋回していた。広い通りをボートが通りすぎるたび小波がよせてきて、窓の下の「川」を西へながれていく。
ボートと水とさざなみ。私はふっと脈絡もなく思い出す。中野重治の『むらぎも』の変哲も無い場面だ。文学と政治運動のはざまで青春の憂鬱をかこっている主人公が、ボートに乗っている。静かな水面のオールのさきにとろりと巻く輪、しだいに小さくなっていくその列、水というよりは液体という感じの水――そんな描写があって、都会の喧騒になじめぬ田舎出の主人公も水の上では心安らぐのだ。もう何十年も前に呼んだ小説のそんな一場面が、なぜ唐突に記憶からよみがえるのか。いま美しくはない水に包囲されて、まるで『アルトナの幽閉者』みたいに二階の部屋に閉じ込められているのとは雲泥の状態なのに。
そういえば、サルトルのあの作品をよんだのも四十年は前だろう。文学に取り憑かれはじめた学生時代にJ・P・サルトルを遮二無二に読んだのだったが、『存在と無』など哲学書をふくめて全冊揃っている人文書院版も、いま階下で水の底に沈んでいる。
 窓の外を眺めて埒もないことをめぐらしているうち、淡い夕陽は落ちていた。向かい家の玄関ドアの上方に水面から五センチほど変色している部分が見てとれる。それだけ水位は下がっているのだ。

 家は二日目の闇に閉ざされた。
 水位が下がりはじめたのを確認できて、かえって憂鬱が体を領してきた。意識はしないまま虚の状態にあった精神が、息をふきかえしてきたのかもしれない。二十四時間以上、何も口にしていない、一滴の水分も摂っていない。アイマイモコとしていた空腹感は、ひどくまっとうなものになって神経をおそいはじめている。碌に睡眠をとっていないのに、眠りはいっこうに訪れてこない。
 かといって「アルトナの幽閉者」に何を為す術もない。畳の部屋に横たわったまま、私はいつのまにか闇の中で水と対話している。
 早朝、蛇を擬態した水が玄関からはいってきて二階に閉じ込められて以来、不思議なことに、階下で水に沈んでいるもののことを忘れかけていた。それがふかふかと水に浮かぶように脳裏にめぐってきた。
 箪笥、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、テレビ、テーブル、ソファ、椅子、衣服類――家具家財はたぶん全滅だろう。努力すれば、それは諦めることが出来る。通帳の類は二階に仕舞ってあって、階下にあった現金もねんこがいちはやく身につけた。家具家財や衣服は買い直しが効くし、手を施せば使えるものもあるだろう。破損した壁や畳も修繕、買い換えが効く。取り返しがつかないのは・・・・・・。そう思い至って、私は息をのんだ。
 私が住んでいるのは、途中、多少の手が加えられているとはいえ築五十五年の木造家屋だ。二階に負担がかかるのを避けて、蔵書の七割が一階六畳の間を書庫のようにして置いてある。読み終えた本は、古書店を営む友人にせっせと進呈することにしているので、「書庫」にあるのは、必要なもの、愛着のあるもの、絶版になって久しく入手困難なものばかりだ。古書店を漁っても探し出すのは至難とおもえるものも少なくない。
 野間宏の全集から『青年の環』『生々死々』にいたる全著作、埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』『闇の中の黒い馬』『虚空』『死霊』全巻、ドストエフスキー論、政治論、映画論などに併せて未来社刊のタイトルを『○○と△△』と二字熟語でそろえたエッセイ集全冊などの全著作(それらのなかには扉に短い言葉を添えたサイン入りで著者から贈られたものも何冊かある)、長谷川四郎の晶文社刊全集に『ボートの三人』『山猫通信』、ブレヒトやロルカの訳詩集などを併せた全著作、井上光晴は『地の群れ』を読んで以来、さかのぼって『書かれざる一章』『ガダルカナル戦詩集』『死者の時』から『心優しき叛逆者』『明日』にいたるまでの小説に詩集を併せて七、八十冊はあろうか(この作家からも贈呈されたサイン入り本が数冊ある)。大西巨人は『神聖喜劇』全冊をはじめ比較的あたらしいものを含め十冊余、いいだももの『斥候よ夜はなお長きや』『アメリカの英雄』もある。『ベトナムから遠く離れて』など小田実の小説や評論集も何冊かある。江夏美好の『下々の女』や『阿古女のうた』は若い頃、彼女が主宰する同人雑誌に加わっていて贈られたものだ。「昭和文学」というシリーズは全巻ではないが、二十冊ほど揃っている。それに吉本隆明、鮎川信夫、長谷川龍生、大岡信らの現代詩シリーズ、その他諸諸の書物が階下にある。外国文学の翻訳本もある。『魯迅選集』、カフカの折折に読んだ単行本に加えて全集、サン・テグジュペリの主要な小説と日記、アンドレ・マルローの主だった小説、ベルトルト・ブレヒトの戯曲や詩などだ。その他諸諸の翻訳本が階下にある。
 死児の歳でも数えるように次次と名前と題名(タイトル)が出てくる。気持は目をふさいでいるのに、ずらり並ぶ背表紙が意思を主張しているように浮んでくる。おまえはまだ半分しか目をひらいて見ていない、肝心なものを見ずに逃げようとしている・・・・・・。書架に並ぶものだけではなく、納まりきらずに床のあちらこちらに積みっ放しになっている本たち――千冊をこえる書物と資料たちが、群れをなしてそう言いつのってくる。
 そうだ、肝心な蔵書がまだ階下にはある。在日朝鮮文学を主とした在日関係の書籍だ。三十年来、在日文学を読み学び論じて著書も著し、その間二十三年にわたってささやかながら在日朝鮮人文学を研究する会をつづけてきた。そうして溜まった文学作品や文学以外の在日関係の書籍に、さまざまかかわった社会運動の資料などふくめれば、五百冊は下らないはずだ。個人が所有する在日朝鮮人文学の蔵書として、ちょっと自負に値するかもしれない。これまで思いもつかなかった、そんな考えが、いまは高慢にも掠める。金史良、張赫宙、尹東柱、金達寿、李殷直、張斗植、姜舜、金石範、金時鐘、金泰生、呉林俊、金鶴泳、李恢成、高史明、宗秋月、姜魏堂、梁石日、飯尾憲士、宮本徳蔵、麗羅、成律子、成允植、金蒼生、鄭貴文、李良枝、李正子、鄭承博、徐勝、李起昇、立原正秋、つかこうへい、元秀一、朴重鎬、徐京植、金在南、金学鉉ん、竹田青嗣、成美子、趙南哲、金重明、尹健次、香山末子、伊集院静、鷺沢萠、廋妙達、鄭閏熙、深沢夏衣、柳美里、崔龍源、李龍海、金真須美、北影一、申有人、姜東、金蓮花、金満里、金賛汀、朴慶植、姜在彦、鄭清正、李淳馹、朴一、河信基、玄月、金城一紀――闇の中に横たわって瞼を閉じていると、まるでキィをたたくようにとめどもなく名前が飛び出してくる。名前とつらなって背表紙の書名がするすると出てくる。ときに装幀までがあざやかに浮かぶ。その一冊を読んだときの、喜怒と哀楽の気分の襞や、作中の小さなエピソードが、記憶によみがえって、胸を掠める。その一冊を書評し、論じ、著したときの苦闘や興奮や著者からの手紙のある一言やが、脈絡もなく、苦渋や懐かしさをともなって、私の人生の一場面のように回想されてくる。作家や題名ばかりではない。いまは廃刊になっている雑誌の『民主朝鮮』『まだん』『三千里』『民涛』『ちゃんそり』『青丘』といった誌名までが次次と思い出される。
 これは一体、何だろう? 私は書物についてもっと冷淡だったはずだ。本が読み終えられて書棚に並ぶなり床に積まれるなりすれば、それはもはや各各の厚味をもつ四角形の軟らかい物体にすぎないとみなしていたはずだ。
 ところがいま、書物は私の人生の一側面であるかのように蘇ってくる。水が書物の性質を変えたというのだろうか。水の底に沈み滅びることによって、なにやら物体以外のものに姿を変えたというのだろうか。
 滅ぶ? 階下にある千冊余の本が滅ぶ? たしかに、それらは完璧に水の底に沈み、全滅の状態にちがいない。しかし、私には見えない。水の底でどんな姿をしているのか、どんな表情をして書棚に並んでいるのか、諦めきって静かな表情の顔をしているのか、あるいは崩れ落ち重なって苦悶の表情を浮かべているのか、じっと沈黙しているのか、何かを叫んでいるのか。それら情景の一切が、いま私には想像できない。
 もしかして・・・・・・。闇の中で私は思う。生きのびている本があるかもしれない。書棚の最上段あたりのそれが。曳かれ者の小唄みたいに、そう思う。そのそばから、否・・・・・・と思う。全滅したとして、それが何だろう。私はすでに無所有の人になろうと決心したのではなかったのか。負け惜しみとわかっていて、そう思う。
 三年前、世間で言う還暦をむかえた私は、以後の人生の指針に、あることを決めた。行き当たりばったり出たとこ勝負を人生の手法としてきた私には、柄にもないことではあるが。
 これまでの人生は、世間並みと言えないけれど、「溜まる」人生だった。物質的にだけではなく、がらくたものとはいえ精神的なもの・知識とよばれるもの・規範らしきものも溜まってきた。言ってみれば、蓄積の人生だった。これからはそいつを逆転させよう。物質であれ、非物質であれ、蓄積したものを一つひとつ捨てて「失う」人生をめざしてみよう。「過剰」から「欠如」への折り返しターンというわけだ。そして死の時は、まったき無所有の人となって消えていきたい。
 無所有の人――それがどういう存在であるのか、はっきりとは想像できないままに、そんな決意めいた夢を考えたのだった。その「夢」が突如、水の畏怖すべき力によってかなえられたというわけだ。
 闇につつまれた部屋で、妻のねんこは軽い寝息を立てている。間に間におとずれる自分の鼾に驚いて鼻を鳴らしたりする。ねんこは結構すっきりとした気持で眠っているのではないだろうか。八つ当たりと承知のうえで、そんな邪推が私に浮かぶ。
 「これ、なんとかならないのかしら」六畳の間を占領して立て付けの悪い障子の元凶にもなっている蔵書を眺めては、うらめしげに愚痴るのが、もう随分と以前からの彼女の口癖になっていた。そう言ったあとで、誰かに上げてしまうなり、古本屋に売り払うなり、廃品回収に出すなり、方法はどんなであれ処分できないものだろうか、と迫るのだ。築五十五年の木造家屋にとって蔵書はあまりにも傲慢な重圧であるのはたしかだ。だからといって、この水難を千載一遇の好機と喜ぶことはないだろう。私は彼女がひそかにほくそ笑んでいるように錯覚する。
 すると、どういう訳だろう? さきほど階下で水没している本のあれこれが思い出されたのと同じように、こんどは二階の三畳ほどの板の間にあって助かっている蔵書のあれこれが、これもキィを叩くように次から次へと脳裏にあらわれてきた。ドストエフスキー、カミュ、サルトル、トルストイ、ゴーリキー、ゴーゴリ、ガルシン、バルザック、ジイド、フローベール、ボーヴォワール、ヴェイユ、スタンタール、ゲーテ、バイロン、ハイネ、グラス、シャミッソー、スタインベック、モーパッサン、フォークナー、モリエール、ゾラ、マルクス、レーニン、シェイクスピア、ポー、ボッカチョ、毛沢東、キムヂハ、モーム、メルヴィル、ゲバラ、ソルジェニツイン、パステルナーク、花田清輝、マルケス、ムニャチコ、メイラー、ヘッセ、大江健三郎、C・ウィルソン、ピカート、小林勝、安部公房、クレジオ、ヴァイス、サド、秋元松代、アラゴン、島尾敏雄、ランボー、シリトー、丸山静、バルビス、中野重治、リルケ、高橋和己、ドス・パソス、坂口安吾、石川淳、ワイルド、杉浦明平、ニーチェ、小林多喜二、コロレンコ、ヒューズ、ボールドウィン、ライト、ユーレデール・・・・・・
 まるで脈絡もなく、際限もなく、呪文のように、人の名が記憶のむこうから飛び出してくる。私は息苦しくなり、それをまぎらすために、意趣返しのように呪文を妻のねんこに向ける。
 ねんこは日頃から、著書が売れなくて出版社に迷惑をかけるしか能のない私を、世間態がわるい、と忌み嫌っている。しかし、その著書八冊と、小説や評論やその他諸諸の自作品が載っている雑誌二百冊ほどは、二階三畳板間で無事だ。ザマーミロ・・・・・・。私は、闇の中で舌を出す。

 水への怒りや憎悪を全然、覚えないのが不思議である。
 眠れないまま横になっていて、畳が水気をふくんだように妙に湿っぽく感じられはじめたのは、いつ頃からだろうか。水面は階下の天井から一メートルは下にあって、二階の畳とのあいだにはそれ以上の空間があるはずなのに、水分が蒸気のように吹き上がってきて家そのものを侵しはじめているのだ。
 そもそも水とは何だろう?
 私は辞典で確かめてみようとおもいついて、起き上がった。枕もとの懐中電灯を手に自室へはいる。時計は十時四十数分を差している。まず窓を開け放って、股間のものを取り出す。スチール製の手すりに片手を置いて上半身を支え、一物を思いきり突きだして小便をする。闇の水面ではじける音は、まるで耳もとのそれのように聞こえる。
 それから机の前に座って、懐中電灯の光が目の前に当たるようにセットすると、一九九一年一月一五日第一刷発行の『広辞苑』第四版を開く。〔水〕は二四四九頁にあった。

〔水〕①酸素と水素との化合物。分子式H2O 純粋のものは無色・無味・無臭で、常温では液状をなす。一気圧では、セ氏九九・九七四度で沸騰、セ氏四度で最大の密度となり、セ氏零度で氷結。動植物体の七〇~九〇㌫を占め、生存上欠くことができない。全地表面積の約七二㌫を覆う。万一七「片貝の川の瀬清く行く-の」②(湯に対して)冷水。「-で冷やす」③液状のもの。「腫物の-を取る」④洪水。「-が出る」⑤池・湖・川・遣水(やりみず)など。紫式部日記「例の絶えせぬ-のおとなひ」。「-に落ちる」⑥相撲で、力水(ちからみず)のこと。「-をつける」→水入り2。⑦〔建〕水平のこと。あるいは水平を表す線。

以上の説明につづいて、用例が二十二種類挙げられている。「-が合わない」「-が入(はい)る」「-涸(か)る」「-清ければ魚(うお)棲(す)まず」「-心あれば魚心あり」「-澄む」「-と油」「-にする」「-に流す」「-になる」「-温(ぬる)む」「-のしたたるような」「-の流れと人のゆくえ」「-の低きに就くが如し」「-は方円の器に随う」「-も漏らさぬ」「-をあける」「-を打ったよう」「-を得た魚(うお)のよう」「-をさす」「-を向ける」「-を割る」
  読み終えて、私ははなはだ不満だ。いま私が対話している水の容貌、性格と随分かけはなれている。
「無色・無味・無臭」というが、「純粋のもの」はたしかにそうであるとして、いま私が対話している水は、汚泥の色をして、得体の知れない異臭をただよわせ、飲めば無味どころではない。「生存上欠くことができない」はずのものが、私の生存とまではいわないが神経の末端くらいはおびやかしている。「全地表面積の約七二㌫を覆う」それが時に気紛れをおこすのも仕方ないとして、なぜよりによって私の家に侵入してくるのか。「④洪水」まさにそうだ。しかし、なんて木で鼻を括ったような記述だろう。いま私が経験している身体的・心理的シチュエーションからはあまりにかけはなれて遠い二文字熟語ではないか。この記述からは、洪水と、窓の手すりを掴んで上半身を支え股間のものを水面のほうへ差し出している人間の姿との因果関係をとらえることは至難ではないだろうか。
 「⑤池・湖・川・遣水(やりみず)など」もあまりに静的な記述にすぎて、時に荒ぶり、暴力的なエネルギーを揮い、叛乱の自由を所有する、水の本質に目をつぶっているのではないか。万一七「片貝の川の瀬清く行く-の」にいたっては、言語道断なほど抒情と叙景にすぎるのではないか。〔水〕の説明に、侵犯、叛乱、無秩序のイメージが忌避されるのは、それが日本的抒情・叙景を冒すからなのか。そういえば日本文学の伝統では、水は抒情・叙景の対象であって、優しさ・偉大さ・美しさ・清冽・慰撫として描かれることは枚挙に暇がないほどだが、牛や馬や大木が濁流とともに轟轟と流されていくイメージは描かれてこなかったのではないだろうか。(私はやたら当り散らしたい気分になっているようだ)。
 「用例」を見てみよう。一見、さきの「説明」と五十歩百歩のようでもあるが、穿(うが)ってみれば現在の私の心境になかなか示唆に富むそれがなくはない。
 「-が入(はい)る」とは相撲用語だが、現在の私は責め手を失って、にっちもさっちも動きがとれず、文字通り「水入り」の状態だ。
「-清ければ魚(うお)棲(す)まず」あまりに清廉すぎると、かえって人に親しまれないのはたしかにそのとおりで、私などには心強い喩だが、いま私の家に居すわっている水はあまりに濁りすぎている。清濁合せのむ、というのが通俗的ながら頃合だろう。
「-にする」堕胎するの喩とは初めて知ったが、空しくする、とはまさに階下の諸諸が遭遇している運命だろう。私もまた、心を空しくしてこの受難に当たるしかない。「-に流す」もまた、過去に未練するなかれ、心機を一転しろ、との託宣だろうか。
「-になる」無駄になる、ふいになる、とは只今の状況に露骨、直截すぎて、脱帽するほかない。
「-の流れと人のゆくえ」前途の知れにくいのは人生の一般だが、まさに現在の私の境遇はそれの好個の例ではないだろうか。
「-の低きに就くが如し」物事の自然ななりゆきというのは忌忌しいが、そのなりゆきの止めにくいこととは、現在の私の境遇を言い得て妙だろう。
「-を打ったよう」全六千四百戸の町は、無音の闇につつまれて静まり返っている。
「-をさす」ちょうど一年前、身すぎ世すぎの仕事一切から解放されて、慎ましやかながらほどほどにうまくいっていた私の暮らしに、突然、邪魔がはいって不調になった。その無念は、辞書の「用例」などにかかわりなく水の襲来をうけて私がまっさきに覚えた感情だった。
懐中電灯の光は小さい文字を読みすすめるのに不適なのか、私の眼はチカチカと痛みはじめた。音を立てて『広辞苑』を閉じ、懐中電灯を消す。しばらく瞼を閉じていると、不意に「用例」にはなかった言葉が浮んだ。
「寝耳に水」なるほど見事に譬えたものだ。いやいや、喩えなどではない。まさかの闖入者のことなど夢にも考えず眠りに沈んでいて、なにやら耳の中に液体のしのびこんでくる冷たさに気づき驚いて飛び起きた人もいたにちがいない。

私は自室――七五センチ+一二〇センチ四方の座卓、蛍光スタンド、筆記具、大小二対のアイヌ夫婦の木彫り人形と済州島の火山石で作ったトルハルマン・トルハルバンの置物、韓国の仮面劇の仮面、亡くなった父母が茶を飲みながら談笑する写真、時計、カレンダーなどのほかには書籍や資料類が乱雑に積み上げられているだけの四畳半の部屋。本を読んだり原稿を書いたり調べものをしたりするので、「書斎」と呼ぶのも可能だが、その言い方を私は好まない――を出ると、北側の部屋にもどって横になり、闇の中でふたたび水と対話する。
水にたいする故(ゆえ)知れない畏怖を知ったのは、いつ頃からだったろうか。まだ十歳になるかならないかの少年の頃。それは荒ぶり叛乱する水ではなく、静かに深い色をたたえたそれであった。
漁港の町は、ゆるやかな傾斜をなして低い丘のかたちをしていた。小学校は、対岸がうっすらとかすむ海と馬蹄形の浦とを眺めて、丘の上にあった。小学校の背後、北側には共同墓地と避病院があり、疎林のなかの野道を下っていくと、鬱蒼と木木のひしめく広い谷がある。昼間でも陽の差さない谷に、沼のようなかなり大きい溜池があった。学校帰りに、家とは反対方向のそこ一の谷へはじめて行ったのが、小学生の三、四年生の時だった。友だち数人とする道草の、初めての探検といえるものだったろう。
木木にかこまれた池は、どんよりと暗緑の水を浮かべ、得体も知れないほどに底深く見える。暗暗とした木木の影がいっそう得体の知れなさを煽るかのようだ。池の底には巨大な魚の姿をした怪異な生きものが棲んでいるようにおもえる。鯰の化けものが棲んでいて、人の屍体も沈んでいるかもしれない。少年は訳もわからず不安になる。水の底には、いつも見馴れている風景とはまったく別の、なにやら想像もつかない、薄気味わるい世界がある。恐ろしい魔界みたいな光景がある。
あのときの不思議な恐怖は、何だったのだろう。私ひとりのものだったのだろうか。一の谷から帰る道道、「池の底には何が棲んどるのかなん」「おときさが一の谷で神かくしに遭ったのは、水にさらわれたのかなん」などと言い合ったのは、少年たちみなの経験だったのかもしれない。いつもぞろりとした紅い長襦袢だけの恰好で町を徘徊していた狂女おときさが突然、すがたを消して、神隠しに遭ったといううわさが子どものあいだにもひろがって間もない頃だった。
何の恐れも覚えず遊んでいた海の水が怖くなったのも、ちょうどその頃だった。石垣でかこわれた小さな湾が少年少女たちの水遊びの場だったが、そこには幅十メートルほどの水口があって、潮の干満に合せ背丈の立たない海になったり、飛びはぜ跳ねる泥の瀬になったりする。満潮時に幅十メートルをこちらからあちらへ、あちらからこちらへと、くりかえし泳ぎ渡るのが、少年少女が泳ぎを覚えたことの証明だった。ところが、石垣の上にしゃがみこんで赤児の泣くような海鳥の啼き声を真似ているおときさの姿を見かけなくなってしばらくのあいだ、私は水口を泳ぎ渡ろうとして溺れる夢を何度も見たのだった。
水にたいする得体の知れない畏怖は、長じるにつれても引きずっていた。一の谷からさらに北へ行くと、周囲〇・七キロほどの上(かみ)池と一・三キロほどの七本木(ひちほんぎ)池があった。その向こうに灌木の疎らな山地があって、崖から目の細かい砂が採れた。中学から高校生の頃にかけて、自転車の荷台に大きな木箱を積み、それを採りに行くのが私の仕事だった。父は、酒樽の菰かぶりのしるし描(か)き職人だった。商標の絵文字を刷り込むためには、そのまえに菰の面を水に溶かした砂で菰擦りして均(なら)さなくてはならない。目の細かい砂はそのために必要だった。
上池と七本木池のあいだを三メートル幅ほどの地道がはしっていた。砂山へ行くために数百メートルのその道を自転車で走る。風の強い日には池の水は波立つが、風のない日の水面は森(しん)と静まりかえって、気味悪く底深さをたたえている。私は自転車を走らせながら決まって、水の深い底には何が棲んでいるのだろう、とおもう。化け物みたいな魚や人の屍体が沈んでいるのではないか。巨大な蛇が棲んでいるのではないだろうか? そんな妄想に取り憑かれるのだった。
妄想は大人になって一人旅をよくするようになってからも、去らなかった。青春の時期、山陰の宍道湖、近江の琵琶湖、東北の十和田湖、北海道の阿寒湖などを旅したものだが、水底の異形への恐れはついてまわった。水底の巨大な蛇への妄想には理由があった。

そろそろ日付の変る時刻だろうか。夜につつまれて、家の内も戸外も静まりかえっている。水の面は私の背中の下、十数メートルのところにあって、闇の底でコトリとも物音を立てない。この静けさは、水が運んできたものだろうか、そういえば、水底の異形への私の畏怖は、いつも静かで底深げな池や湖の水面によってもたらされたような気がする。荒ぶる水は水そのものの相貌が恐怖を呼ぶ・・・・・・。そんなことを考えていて、町の静けさは、いつもなら深夜も聞こえつづけるバイパス22号線のトラックの音が完全に絶えているせいだ、と私は気づく。
しばらくのあいだだったが、家の井戸に大きな蛇が棲みついたのは、いつ頃だったろうか。あれも一の谷の溜池で水底の異形を妄想したのと同じ頃、十歳そこそこの夏だったと記憶する。
井戸の水が変だ、なまぐさい味がする。最初にそう言いだしたのは、長姉だった。それから妹たちが騒ぎだし、母も首を傾げた。父と二人の兄と私の、男たちは気にしなかった。家じゅう騒ぎだしたのは二、三日してからだったろうか。
蛇だ。井戸の底をたしかめた父が叫んだ。長兄と次兄が代る代る井戸を覗きこむ。でっけーのがおるぞ。兄たちは怯えているのか感動しているのか判別のつかない声を挙げる。私も井戸の上縁に両手をささえ、へっぴり腰に覗く。暗い底に透明な水が幽かに光っていて、青っぽく長い影が映っている。それはすーっと水の底に沈んだかとおもうと、ゆるゆる身をくねらせながら水面へ浮き上がってくる。青大将かなん。
女たちは怯えて井戸を覗こうとしなかった。百姓の娘で育ったのに異常なほど蛇嫌いだった母は、顔色を失っていたにちがいない。
どのようにして蛇を井戸から出すか。それが男たちの思案だった。釣瓶で掬い上げるには、相手が大きすぎる。海でわたり蟹を獲るとき仕掛ける囮を使うか。銛鉤を使うか。縄梯子を吊るして誰かが下りていくのなら、いっそのこと手掴みに捕えてしまおうか。それなら中学生の次兄のお手のものだ。
そんな相談をめぐらしているときだった。何を罰(ばち)当たりを言っとるのかなん、蛇は水の神さんだで、滅相なことをしたらいかん。ああして家(いえ)守りをしてくれとるだがなん。気丈な祖母がそういって、家の者を叱ったのだった。
それで蛇は井戸の底に棲みつづけたのだが、いつどんな経緯でいなくなったのか、私には思い出せない。いや、知らされなかったのだろう。そもそも蛇があのときどうして井戸にはいったのか、地上から壁づたいに下りたのか、地底から水底へあらわれたのか、それさえ家の者にわからなかった。蛇はどこへ消えたのだろう? 行方について家人は何も口にしなかった。それを問うことがなにかしら禁忌でさえあるようだった。私は、不思議さは不思議さとして、子どもなりに納得してきたようにおもう。いまにして考えれば、父が祖母に知られない仕方で、たとえば深夜に銛鉤か囮か手捕(づか)まえか何らかの方法で捕まえて、神明さんの森へでも捨てた、たぶんそんなことだったろう。
水底には蛇が棲む、と空想癖がついたのは、井戸と蛇の一件のせいだったという確信はない。蛇、殊に白蛇が、しばしば水の神であると知ったのは、随分のち神話や説話や民間伝承に接するようになってからだ。

妻のねんこの鼾が止まっている。寝息も聞こえない。浸水から二十時間は経っている。その間、彼女は偶に窓から「川」の水位を眺めたり旅の本をめくったり青色ポリバケツで用便を足したり友人から見舞の電話に出たりするほかは、私と言葉を交わすこともほとんどなく、横になったままだ。さすがに眠気は遠のいているのだろう。口にはしないが空腹を相当に覚えているにちがいない。私はといえば、四十三歳頃に掛かった十二指潰瘍の症状を軽微ながらひきずっていて、さきほどまで空腹時の痛みが鳩尾(みずおち)の下あたりにあったが、空腹と痛覚がひびきあう境域を過ぎたのか、いまはすっきりと落ち着いている。心なしか眠気が後頭部あたりに忍びよっているようだ。
それにしても、ねんこの肚の座りようは一つの発見だった・・・・・・。闇の中にもっこりと人がたをつくっている彼女の寝姿を脳裏に浮かべながら、私はおもう。日頃から、よく言えば鷹揚、悪く言えば無頓着、そんな性格であるのは知っていた。風姿とは真反対のそんな性格も、生活をともにして四十年間、これといった災厄や苦難に出合うことなく暮してきたからこそだろう、とおもっていた。ひとたび日常が崩れるような大事に遭遇したなら化けの皮は簡単に剥がれるだろう、そう思っていたのが逆に、水の来襲をうけていっそう遺憾なくそれは発揮されたのだ。
本来なら関係は反対でなくてはならない。私のほうがあたふた気に病むのは、辻褄が合わない。日ごろの言動からして、泰然自若でなくてはならないのは私のはずだ。
エラい人になるために、世間的地位を得るために、カネに執着するために、きらびやかな家庭を確立するために、書かれたものが売れて「作家」になるために、がんばろう! 私には人生の途上においてそういう情熱が湧きあがったためしが一度もない。自意識は並以上にある。他人の成功を全然妬まないではない。それでいて、上昇への情熱というものがまるで湧かない。ガンバルとか、根気とか、探求とか、そういうのがなにかにつけても苦手だった。困難は敬して遠去ける。要するに怠惰と猶予(モラトリアム)への逃亡が身上の性格なのだろう。それで小学生の頃から「小さなニヒリスト」を自分のなかに意識していたというわけである。
しかし、怠惰と逃亡癖の根拠には、ある信条があったのは確かな気がする。世の中にはいろいろさまざまな生き方がある。上昇のために何かを我慢してガンバルよりも、好きな道を行かなきゃ損だ。そういう損得づくが、「小さなニヒリスト」が長じての人生のポリシィらしきものに変じたのだろう。
六十三歳になる現在、それでどういうことになっているのか。結局、現代らしさの規制から逃れたがっている自分がいる。否、それから見放されたがっている自分を発見するのだ。体制や制度と呼ばれるもの一切から逃散したがっている自分、コンピュータや情報を嫌悪してワープロさえ使えない自分、ファッションやグルメを軽蔑して最小限の衣食に甘んじたがっている自分、マンションではなく築五十五年の木造古家に固執している自分、貧しい収入を誇りたがっている自分、生活の便利よりも質素に憧れている自分、利害の人間関係よりも無益の友情を尊重している自分、健康至上の風潮から逃れたがっている自分、名詞の肩書を厭悪している自分、無所有の幻想に憑依したがっている自分、存在の痕跡をすべて消して果てる死を求めている自分、そういう人生の一切をこよなく愛したがっている自分――
つまりは私の人生は、現代という価値からまぬがれること、見放されることを空想してきたのであり、いまやいよいよ確信をもってそんな人生を希求しているはずなのだ。それは、リアリストである妻ねんこの人生信条とは対立するものであり、事実、物質生活の安定に執着する彼女とは生活実践上の論争がたえなかった。ところが、どうしたことだろう? 物質生活の大半が水の底で消え去ろうとしているいま、彼女は肚を据え、私はあたふた気に病んでいる。化けの皮が剥がれたのは、私のほうと言うべきか。
どちらにしても・・・・・・と私は思う。水は凄い。私のような無所有を夢みて実際にも質素このうえない暮し向きの人間にも、測り知れない財産を所有して豪邸住まいの人間にも、等なみに酷薄なのが、水の凄さだ。
そんな埒もない思いが脈絡もなく脳裏をめぐってくる。まるで眠気を邪魔しにくるようだ。すぐそこまで眠気はきているのだ。頭の芯のあたりが、ふわーッと溶けていくような感じが行きつ戻りつしている。頭蓋のうちの肉が実際にとろけだすような感じで、意識が見え隠れに遊んでいる。
私はいま、向こう側へ渡ろうとしているのだ。家へ帰ろうとしているのか、誰かを訪ねようとしているのか、よくわからない。向こう側が何もない。それでも、なにがなんでも行かなくてはならない。野道のようなところを行くのだが、気がつくと目のまえに水が溢れて道を塞いでいる。たいした水嵩ではない.膝あたりまで水につけてじゃぶじゃぶと行けばよいのに、なぜだか渡れない。仕方なく回り道をしようと、引き返して歩きだす。それでも行くべきところへ行き着けない。歩いても歩いても、気がつくと大きな池のまわりをめぐっていて、抜けられないのだ。
あれは何だったのだろう。現(うつつ)のなかで夢を真似て見ていたような、夢のなかで現実ごとと知りつつ見ていたような、不思議な体験だった。とにかく見るたび、すでにくりかえし経験したことのように感じるのだった。終いには決まって困り果てたすえに目を覚ますのだが、困り果てるのが目的のような、不安の感情を風景にあらわしたような、そんな夢うつつだった。
そろそろあれがあらわれるのかもしれない。夢ともうつつともつかない意識の襞に、そんな思いが掠める。その直後なのか、時を経てからなのか、予感をはぐらかされるように、奇妙な音が耳をうつ。砂の上を何かがズルズル、ズルズルと移動するような音だ。何ものかが這うような、引き擦り上げられるような、執拗な音。
そうだ、おれはさっき友人のKと玄関さきで分かれたばかりだった。随分酔っていたから帰るさきを見失って戻ってきたのかもしれない。私の体が起き上がっていた。階段の上まできて、あッと声を呑む。奇妙な音の正体が知れた。でっかいのや子どもみたいなのや、二階への階段をうずめてひしめいている。蛇たちにちがいないが、一匹一匹を見ると人の顔みたいに滑稽な表情をしている。なんだ、みな笑ってやがる。私は階段の上から眺めて、そう呟く。だが、蛇たちを見ているのは私ではなさそうだ。死んだ母のようでもあるが、誰ともよくわからない顔だ。首だけのそれものっぺらぼうに笑っている。
早くKを助けなくては・・・・・・。友人が衣服を土まみれにして玄関で倒れているのが見える。私は見知らない首をひっこぬいて、提灯みたいにかかげる。蛇たちを踏んづけて、じゃぶじゃぶと水音を立てながら階段を下りる。踏んづけているのは足ではなく意識みたいなものらしい。首だけになった私は玄関の部屋を抜け、ドアを開ける。闇の中に視線を凝らして探す。玄関前の幾分、傾斜になったコンクリート地のうえに、泥まみれの長いものが落ちている。少し屈折しているが、伸ばせば一メートル七〇センチほどはあろうか。首のない、布の紐だ。
いつのまにどんなふうに、私は泥水に汚れた紐になっていたのか。夢うつつのなかで私は不思議におもう。

現(うつつ)と夢が混濁している状態のままうっすらと眠りから覚めて、鳴っているのが電話と気づいた。闇に馴れた眼をこらすと、置き時計の針は四時を少し過ぎている。蛇を擬態した水が玄関をはいってきたのと同じ時刻だ。二十四時間が経ったことになる。
それにしても随分と早い電話だな・・・・・・。そんなことを思いながら、受話器を取る。
「ヨボセヨ(もしもし)、ミヂュグチソンセンニム テギヂョ(水口先生のお宅ですか)」
「ネー クロッスムニダ(はい、そうです)」
「チョー キムヒョスニムニダ(わたし、キムヒョスンです)」
「ヒョスン氏。オレガンマニエヨ(久しぶりです)」
韓国の金孝順だ。六、七年前、日本語を学ぶために日本へ来て三年ほど名古屋に住んだ。在日の友人の紹介で知り合って、日本語学校に通うかたわらアルバイトをしたいという彼女のために日本人の友人が経営するホテルの厨房の仕事を紹介したり、在留資格の問題で入国管理事務所に同行したりした。彼女が帰って間もない頃、韓国を訪ねる機会のあった私は、両親と同居する光州(クァンヂュ)の家で二晩泊めてもらい、一九八〇年五月の光州事態の跡や犠牲者が眠る望月洞共同墓地を案内されたり、同じ全羅道の南原(ナムウォン)(李朝時代の有名な小説『春香伝』の舞台となった土地)にまで同行してもらったりした。手紙のやりとりもあったが、ここ二年ほどはとだえていた。
「ヒョスン氏 チグム イルボネワイッソ?(いま日本に来てるの?)」
「アニエヨ(いいえ)、いま釜山(プサン)に住んでいるのです。半年前から日本語学校の先生の職が見つかって」
金孝順は日本語でつづける。電話でも手紙でも、彼女が日本語を使い、私が韓国語を使うという逆転現象がならわしになっている。もちろん私のそれは日本語直訳式の変な韓国語だ。
「きのう、NIB国際放送のテレビニュースを見て驚いたのです。水害地の風景に水口さんの家たずねたとき記憶にあるRマンションやS駅が写っているじゃないですか。その近くをゴムボートが往来しているじゃないですか。とても怖くて、何度もあの風景が頭に浮んで、充分に眠れなくて、それでこんな早くに電話したのです」
金孝順は達者な日本語で一気に喋った。彼女は「おっかなびっくり」という日本語を解するほどの腕前だ。
「コマッスムニダ。テダニキポヨ(ありがとう。とても嬉しいよ)」
「いますぐ日本へ飛んで生きたいです。いいえ、行かなくてはならないでしょ?」
海を渡ってくる声は真実味をおびている。
「アンデアンデ。コクチョンハヂマセヨ。ナン ムサイニッカ(駄目、駄目。心配しないで。私は無事だから)」
私は力を込めて断る。孝順さんの気持ち、とてもありがたいよ、などと応えたら、彼女は大急ぎ航空券を手に入れ、ほんとうに名古屋空港めざして飛行機に飛び乗るかもしれない。彼女は典型的な韓国人なのだ。
金孝順は何度も同じことをくりかえし、ほんとうに大丈夫か、と念を押し、水が去ったら必ず電話をくれるよう言って、切った。

一時間ほどして部屋の中が明るくなった。窓を開け放つ。「川」の水が最高時にくらべると五分の二ほどに減っている。向かいの家の玄関やブロック塀にくっきりと残る変色の跡でそれがわかる。車庫の乗用車も上半身を水面にあらわしている。
水はいっそう黄濁して汚れきっているくせに、朝の光を浴びてそれなりに輝いている。五日ぶりの晴天だ。
私は階下への階段を降りてみる。階段の中頃まであった水は二段目ほどまでに減っている。その位置から身を乗りだして部屋のほうをのぞくと、反り返って斜めに立った畳や転倒した家具その他諸諸が、まるで家を取り壊した跡の残骸のように折り重なっている。水位はまだ膝の上あたりまではありそうで、部屋の中へじゃぶじゃぶとはいっていく気にはなれない。
「水がだいぶん減っている」
私が声をかけると、ねんこは、そうみたいね、と応えて億劫そうに身を起す。私がうつらうつらしているあいだに、彼女は水の様子を確かめていたらしい。
彼女が階段のほうに消えたとおもうと、ピチャピチャと水を跳ねる音が聞こえる。階下へ下りたのだろうか。階段の下をのぞくと、何のつもりだろうか、彼女は階下の水をまるで渚で水遊びでもするように素足で弾いている。それでもさすがに部屋にはいる気にはなれなかったようで、階段をひきかえしてきた。
息子が北側の部屋に顔を出した。寝不足なのか、眠りすぎたのか、空(うつ)けた表情をしている。憔悴の色が隠せないのは、空腹のせいもあるのにちがいない。
彼が碌すっぽ言葉を交わさないまま自室にもどって間もなく、ヘリコプターが飛んできた。今朝もヘリコプターは夜の白みはじめるのを待ちかまえていたようにあらわれて、轟音を撒き散らし、屋根をぶちぬくように耳朶を打ちつづけた。盛んなときなどは三機ものそれが、競い合うように頭上で旋回し、家の中でさえ言葉を交わすのに難儀をするほどだった。いま飛んできたのはテレビ局のそれではない。町の知らせを伝えるヘリコプターだ。応急の護岸作業が完了してふたたび決潰の危険はなくなったことに併せて、町から救援の食糧を支給するので避難所まで取りに来るようアナウンスしている。
息子が、旅行用の大きなリュックを背負い、短パンの裾をたくしあげるほどの水の中を五百メートル先の避難所へ向かった。大きめのバッグを選んだのは、隣り近所数軒の救援食もいっしょに受け取ってくるためだ。
二時間近くも経って、息子はまだ太ももまである水の中を帰ってきた。救援食が届くのを避難所で待っていたのだ。背負ったリュックが全然、ふくらんでいない。救援食の支給は一戸当たり小さな餡パン二個ずつだという。息子は七戸分のそれを一軒一軒回って配った。
そういうあいだも私はしょうことなく水の干き具合を眺めたり、電話の応対に出たりして、時を過ごす。電話は昨日のそれにも増して鳴った。ひっきりなしといった気味合いに鳴りつづけて(妻へのそれも少なくない)、無為をかこつ気分ではない。あらたに安否と気使ってくれる肉親友人知人に混じって、昨日につづけて続編の声をよせてくれる人もいる。
そのなかに妻への電話がかかる。気がつくと、ねんこの姿が二階に見えない。階段の上から大声で呼ぶと返事か帰ってきた。一階の床上の水は踝を隠す程度に減っている。階下で何をしていたのか、ねんこは濡れた叩(はた)きを手にしたまま現れて、階段を上がってくる。私から電話器を受け取ると、水が干いたから、これから片付けよ、などと明るい声で高校同級生の相手に伝えている。

床上の浸水が干いたのは午後三時前だった。床下の水は残っており、道路の水深は四十センチほどはあるだろう。
私はようやく階下へ降りてみる気になった。泥水に汚れて板壁も床もぬるぬると変色し、土壁の表面は水に浸った高さまでが剥がれ落ちている。畳が斜めに立ち上がって、転倒した箪笥やソファと三すくみに折り重なり、その隙間から床下の水が見える。台所では冷蔵庫や食卓、椅子、炊飯器が取っ組み合いの恰好に散乱していた。どれもこれも泥にまみれて本来の姿を失っている。
本たちはどうしてるだろう? 裸足がぬるぬると滑りそうなのをおっかなびっくりに、書庫代わりの六畳間までたどりつく。部屋を覗いて、私は愕然とするより呆れた。想像したとうりだ。部屋の壁ぎわ三方に置かれた書架の、そのまま立っているのは大きいのが一台きり。二つの書架はひっくりかえって書籍のほとんどが放り出されている。もともと書棚にはいりきらなくて床に積み上げてあったのは、書架の下敷きになってひしめき、悲鳴を上げている。
そうだ。本来、頁がめくられて読まれるはずの本たちは、いま泥水まみれの軟らかい瓦のようになって、悲鳴をあげている。
私はすこし非情な気持ちで本たちに背を向け、部屋を離れた。足の踏み場も無いそこには、はいるわけにもいかないが、入口あたりの一冊を手にとってみる気も起こらなかった。
浸水以来、最初の訪問者があらわれたのは、そんな折だった。
水のなかを人の歩く音が近づいてきて、玄関に、こんにちは、と呼ぶ声がした。妻のねんこが居間や台所で倒れた小物を立てたり移動させたり、甲斐甲斐しく動きまわっているのを眺めては、タフな人だなぁ、と感心しながら、私が玄関さきの間でうろうろしているときだった。
「どうぞ。鍵はあいてますよ」
扉が開いて顔をのぞかせたのは、知人のOだ。Oは民衆派の税理士などと呼ばれている人物だが、碌碌、税金を納めるほどの収入はない私とは、むろん仕事上の付き合いはない。俗にいう市民運動の仲間であって、昵懇というほどではない。
玄関さきに立ったOは体の前と後に大きな梱包した荷物を括りつけて、不思議な恰好をしている。葬式のお悔やみみたいによく聞き取れない言葉をふたこと三こと口にすると、Oは体の荷物を外して上がり端に置き、梱包を解きはじめる。ビニール袋にはいった下着類とサンダル、便箋・封筒・ハガキ・切手・筆記具など郵便用品の収められたプラスチックケース(透明なそれを透かして「お見舞い」と書かれた熨斗づつみも見える)、七十センチ角ほどに丹念に折り畳まれているが、広げれば相当に大きなものであろう新品の青いビニールシート――梱包を解くとそういう品物が次次とあらわれた。
「これは、これは・・・・・・」
私は感嘆の声を上げたきり、あとは言葉にならない。水害見舞いとして、なんと見事な想像力だろう。あらわれた品品は、ほとんど表現された思想の域に達しているではないか。
Oは、何かお手伝いでもあれば、といった表情を浮べて、私の顔を見返した。
「何しろ、こんな状態でして。まだ手の付けようがありません」
私は感謝の気持ちを込めて頭を下げる。
「そうですね。じゃあ、失礼しましょう。くれぐれも無理はなさらないで」
Oはそう言うと踵を返し、来たときと同じように長靴が立てる水音とともに玄関から去った。妻を呼ぶ暇もなかった。私は柄にもなく込み上げてくるものを覚え、水音が消えるまで立ちつくしていた。
六十歳になったとき決心したように、空想ではなく、死ぬ時は無所有の人となって死んでいかなくてはならない・・・・・・。私は、何の脈絡もなしに、それが人生への感謝であるかのように、自分に呟いた。水は恰好の災厄だったと考えたとして、曳かれ者の小唄などではない。 

道路の水が完全に干いたのは、午後四時二十五分。蛇を擬態した水の訪問から三十六時間後だった。

「架橋」21 一葉のハガキ

   一葉のハガキ
 二月のおわりの寒い日、電器アンカの温みに、やはり暖房がなくてはぐっすり眠れない歳になってしまったなぁー
 夜があけて足に異常を感じ、見たら甲の外がわに小判大の低音ヤケド。三月二九日、満開のモクレンをみながら街に出て、友人の店にちょっと寄ってみようと自転車のハンドルをまわしかけた瞬間、通りすぎたクルマと接触、派手に転んでしまった。たいしたケガもなく不覚を恥じただけでしたが、夜、眼がやたらに痒く、朝には両瞼が腫れ、眼球が爛れて結膜炎をおこし、四月一日は事故の打ち身で動けず、“百万人のための身世打鈴”にも出掛けられず、終日、わが身の身世打鈴をつづっていました。
 きょう四月四日、眼科医に診てもらい、家に戻るのがうっとうしくて天満公園で満開の桜を見ながら駅弁を食べました。近くの芝生では稚な子たちの晴朗な声が舞いたち、桜の下のユキヤナギの植えこみが、雪よりもまぶしくまっ白に映えていました。
 安価な弁当がおもいがけなくおいしくて、赤い両眼からとめどなく涙がこぼれるし、激しいクシャミの連発で鼻水がタラタラ。足のヤケドは小判大から大判大に。粘膜がジクジクとジャンボLサイズの絆創膏を染み出て、履き物をぬらしています。小さい子がよちよちやってきて、絆創膏のうえにとまった花びらを拾ってくれました。
                                   卞 元 守

「架橋」21 わたしの中のわたしたち

   わたしの中のわたしたち

                 北原(きたはら) 幸(さち)子(こ)

――脳腫瘍で早逝した友を悼んで――

障害児と呼ばれし子らをいつくしみて君が夏のきらめき短し

損われし手と言葉もて障害児(こ)らと在りし君が背中に夕陽やさしき

あざけりの棘(とげ)青白く光る日は何にあくがれて生き耐えしか君

父として夫(つま)として生き耐えしか寝たきりと聞きし君が三年

凍風(いてかぜ)にあらがいて白銀を飛ぶごとく君が描きしいのちのシュプール

「架橋」21 わが若き日の”武勇伝”

   わが若き日の“武勇伝”

                         朴(パク) 燦(チャン) 鎬(ホ)


   (一)
 昨年七月二日、「三(サム)千(チョン)里(リ)鐵(チョル)道(ト)」を構想中だった都(ト)相(サン)太(テ)氏が、のちにその事務局長となる韓(ハン)基(キ)徳(ドク)氏や新聞記者、家族らを伴って筆者の店で食事をした。「三千里鐵道」とは、南北首脳会談で合意を見た京(キョン)義(ウィ)線(ソン)、京(キョン)元(ウォン)線(ソン)など四鉄道の再連結区間のうち、非武装地帯内の建設資金を海外で募金しようというものである。
 その折、韓氏が記者に「凄い武勇伝の持主だ」と、筆者を紹介するのに驚いた。〈はて、何のことだろうか〉と思っていたら、「韓青時代にKCIAを向こうに回し、大立ち回りをしたと聞いている」というのである。
 ありゃ、そんな風に伝わっているのかと思いながら、その顚末をざっと説明した。
 それは、一九六八年の韓青祖国訪問団での出来事だが、一昨年の『架橋19号』に寄せた拙稿『すべての河は海に流れる』を参照すれば、一連の流れが把握し易いと思う。

   (二)
一九六五年六月の韓日条約締結後、韓青中央は幅広い盟員を集めて運動を拡大するため、様々な活動を展開した。
 当時、法的地位要求貫徹運動を展開していた韓青は、この運動をアカ呼ばわりする民団と対立していた。特に東京では韓青支部がなく、多くの民団支部で青年会・青少年会が組織されていたため、韓青東京本部を結成できなかった。韓青中央は、これら青年組織の韓青支部への移行を目指して「都内青年懇談会」(都青懇)を発足させ、学習と討論を重ねた。同時に、渋谷、豊島、北など未組織地区に、中央直轄支部を結成していった。三十回近くに及ぶ都青懇での論議は、一九六八年九月の「都内韓青支部移行準備委員会」発足へと結実した。各青年組織は、入管法反対闘争を前後して相次いで韓青支部に移行し、一九七〇年三月末、韓青東京特別本部が結成されるに至った。
 一方、一九六五年に行われた各種行事が、翌一九六六年になって恒例化する。スキー講習会が全国冬期講習回に発展し、全国の盟員を集めて新潟県や長野県で行われたのをはじめ、全国夏期講習会は地方別開催となり、各地の海辺や高原で行われた。全国蹴球大会は、第一回の明和高校運動場に続いて、同じく名古屋の鶴舞グラウンドで開催された。この大会を機に、対外試合の場がなかった東京韓国学校サッカー部を招き、感謝された。
 そしてまた、「成人祝賀会」を全国に拡大させた。当時、同胞青年は役所から成人式に招かれず、大半の青年が鬱屈した思いを抱いていた。それならば、韓国にはない習慣だが、韓青が祝ってあげようと始めたのである。
 東京での最初の祝賀会では、成人者は洋装かチマ・チョゴリ姿だったが、一九六七年には晴れ着姿の女の子が現れた。彼女は、会場を埋めるチマ・チョゴリ姿を一目見るなり、泣きながら会場を飛び出して行った。ところが、翌一九六八年になると晴れ着姿も数人に増え、しかも堂々と着席したので、かえって我々が驚いた。韓青東京本部のなかった当時、中央本部が日常の学習活動やサークル活動も担当していた。すでに一九六五年五月から、韓国料理研究家・趙(チョ)重(ジュン)玉(オク)女史を講師に迎えて「料理学校」が、韓国語教育に情熱を傾けていた張(チャン)暁(ヒョ)氏を講師に迎えて「国語学校」が、それぞれ開講されていた。
 一九六六年に入って、三月に「鳳(ポン)仙(ソン)花(ファ)合唱団」が発足し、指揮及びピアノ伴奏を留学生の文(ムン)初(チョ)子(ジャ)さんが担当して、韓国YMCA会館で練習した(のちに、テノールの呉(オ)京(ギョン)世(セ)氏を指揮者として迎える)。さらに同年五月から、極真空手の創始者・崔(チェ)永(ヨン)宜(ウィ)(大山倍達)氏に依頼して「空手教室」を開始した。師範代として、のちに極真会館ニューヨーク支部長となる(チョ)一(イル)三(サム)(大山茂)氏が派遣され、指導に当った。その他、OBを中心に「高麗蹴球団」も組織された。

   (三)
 祖国訪問団は、こうした活動の一環として一九六六年から行われ、正式名称は「光復節慶祝在日韓国青年同盟使節団」という。韓国に行ったことのない青年を対象とし、慶(キョン)州(ジュ)などの史跡や工場・施設などの見学をした後、八・一五解放記念式典に参加した。
 第一回祖国訪問団は、金(キム)恩(ウン)澤(テク)総務部長が引率し、金(キム)宰(ジェ)淑(スク)委員長がソウルで合流した。
 金恩澤氏はソウルでの自由時間に、母国訪問中の徐(ソ)永(ヨン)煥(ファン)(本名徐(ソ)勝(スン))氏と会っている。その時、徐氏は同時に何人かと約束をしていたらしく、こっちのテーブルに来ては別のテーブルに行き、戻って来てはまた他のテーブルに行きと、行きつ戻りつを繰り返すので、唖然としたという(なお、徐氏はこの頃、同じく母国訪問中の女子大生と東亜日報のインタビューを受け、八月十五日付同紙に「生動する顔たち――在日僑胞の解放年生れっ子が見た母国」として掲載された)。
 また、早くから韓国教会に通っていた金氏は、母国語の会話にかなりの自信を持っていたが、「ある所で『江(カン)原(ウォン)道(ド)の人か?』と言われ、がっくりきた」とこぼしていた。
 第二回は一九六七年、金(キム)君(グン)夫(ブ)組織部長が引率した。金氏は如才のない人で、袖の下を要求される時など、普通は手土産として多少金目の物を渡すものらしいが、彼は「どうも、どうも、ご苦労様」とか言いながら、タバコを一箱ずつ手渡して煙に巻いたとか。
 また、韓国の大学生と話していて「ザ・タイガーズを知っていますか?」と訊かれ、面食らったという(勿論、知る由もなかった!)。

   (四)
 さて、一九六八年の第三回が、筆者の引率した問題の訪問団である。
 この年、大使館から韓青に「幹部訓練を受けるように」との申し入れがあった。“幹部訓練”とは、次代の民団指導者を育成するため、一か月間、ソウルで韓国問題についての基礎知識を習得させようというもので、従来は民団関係者を対象としていた。
 それまでの訓練生は、平気で朝帰りするなど、いろいろ問題が多かったらしく、一九六六年になって韓青に要請がきた。韓青では全国から幹部を募り、朴(パク)宇(ウ)陽(ヤン)体育部長を団長に二十七名を送り込んだ。当時、宣伝次長として常勤になりたての筆者も参加した。
 韓青訓練生への評価は、従来に比べると格段に高かった。だが、もともと韓青の運動路線を目の敵にしていた大使館は、翌一九六七年、再び民団を通して募集するとともに、韓青盟員を個別に勧誘させて実施した。その結果は、やはり芳しくなかったらしい。
 それで大使館は、一九六八年、再度韓青に要請してきたのだが、韓青は、前年の経緯もあるので断った。すると今度は、計画推進中の祖国訪問団に受訓させるよう強要してきた。
 祖国訪問団は一週間の予定である。しかも自費参加で、社会人が多い。一か月間拘束することなど、出来る相談ではない。韓青は当然拒否したが、大使館は引かなかった。
 そうこうするうちに、出発予定日が迫ってきた。土壇場で中止するわけにもいかず、訪問団は大きな不安を抱えたまま出発した。

   (五)
 第三回訪問団は、五十二名という大所帯だった。そのため二つのグループに分け、別々に出発した。第一陣の引率者は総務部長の筆者で、福岡から韓(ハン)水(ス)丸(ファン)で釜(プ)山(サン)に向かった。
 一夜を船中で過ごした第一陣は、翌朝、釜山港で下船して出迎えのバスに乗りこんだ。ところが、バスは釜山の外れあたりで停車し、案内員が情報部員と入れ替った。我々は重苦しい雰囲気の中で、一路慶州へと向った。
 慶州見学を終えたその夜、筆者は情報部員から、訓練を受けることになっていると告げられた。またその日、安(アン)炳(ビョン)鎬(ホ)組織次長、高(コ)昌(チャン)樹(ス)文宣次長が引率し、羽田空港からソウル入りした第二陣も、すでに訓練団宿舎のホテルに着いていると聞いた。筆者は全員を集めて事情を説明し、話し合ったが、韓国内に入った以上、成り行きを見守るしかなかった。
 翌日、ソウルに到着した第一陣は、そのまま件(くだん)の宿舎に連れられ、第二陣メンバーたちの不安そうな目に迎えられた。
 その夜、韓国中央情報部(KCIA)の担当課長から呼び出しを受けた。ひとたび睨まれれば、閣僚や国会議員でさえも震えあがるという情報部である。筆者は万一のことを考えて、大阪の朴(パク)才(チェ)俊(ジュン)氏ら四人の地方本部副委員長を伴い、宿舎の地下室に向った。
 果して課長は、「一か月間の訓練を受けよ」と威圧的に迫ってきた。筆者は胸の高鳴りを抑えながら、「それは出来ない。我々は一週間の予定で来ているし、大半が仕事を持った社会人だ。在日同胞の状況はご存知かと思うが、親の勧めで渋々と参加した青年もいる。彼等に、祖国に対する悪い印象を与えたくない」と正面切って対峙した。
 五十一人のためなら、自分一人が殴られてもいいと、心底腹を括っていた。横にいた旅行社の高氏は、後日、「課長は怒りで顔がひきつっていた」と語ったが、そんなことに気を回す余裕もなかった。
 二時間以上、押し問答を繰り返したと思う。結局、訪問団の公式日程である一週間だけ訓練を受ける、ということで双方が妥協した。相手は、〈どうせこっちのもの、ずるずると引き延ばすだけだ〉と思っていたかもしれない。だが、同席した情報部の現場係員は、ホッと安堵の表情を見せたという。

   (六)
 宿舎には、何故か、韓学同と韓青山口本部から参加したメンバーが大勢いた。翌日からは、彼等と行動を共にすることになる。
 幾つか講習を受けたうちで、「在日僑胞は日本に同化していくだろう」と言い放つ講師がいた。筆者が「日本から来ている我々に、何故そのようなことを言うのか。棄民思想ではないか」と詰問すると、「自分は日本語が下手なので、意が十分に伝わらず、誤解を与えたようだ」と弁明した。だが、彼の日本語は、並の在日一世よりも正確で流暢だった。
 ある夜、訪問団員のうち、筆者と地方本部副委員長クラスの幹部数人が料亭に招かれ、妓(キー)生(セン)を侍らせての豪勢な接待を受けた。しばらくしてほろ酔い気分になった筆者は、妓生の膝を枕にゴロリと横になった。後聞によれば、これを見た情報部員たちは、にんまりとほくそ笑んだという。
 やがて約束の期日を迎えた。情報部は我々を、すんなりと解放しはしないだろう。筆者はその日の朝食後、全員を屋上に集めて解散を宣言し、それぞれの目的地へ向わせた。
 筆者ら何人かは、ある団員の叔父が経営するホテルが南(ナム)山(サン)にあるから行こうという話に乗り、そこで数日間泊った。ところが、その叔父とやらが治安局員だった。ある日、治安局から車が差し向けられて、朴才俊氏ら数人と風呂屋に連れて行かれ、沐浴した。
 数日後、ソウルの親戚を訪問して東京に戻った筆者は、上司にねぎらいの言葉をかけられた。だが、その後が地獄だった。「解散するまでは、実によくやった。しかし、その後がいけない。初めて行って右も左も判らない上、言葉も話せないのに、ほっとき放しにされたと、苦情がいっぱい来ている。何故、連絡場所を決めて帰るまでの面倒を見なかったのか」と、大目玉を食らった。
 そして「南山が情報部の本拠地だということぐらい判っているだろう。のんびり風呂に入っている間に、ポケットに金(キム)日(イル)成(ソン)の写真なんかを入れられたら、どうするんだ」と、こってり油を絞られたのである。

   (七)
 以上が“武勇伝”の顚末である。
 聞くところでは、訪問団の解散後、残った韓学同や韓青山口のメンバーたちは、「なんで、あいつらだけ先に帰るんだ」と怒り出し、大変な騒ぎだったらしい。韓学同のメンバーには、のちに韓青三重本部委員長になる孫(ソン)浜(ビン)煥(ファン)氏もいて、後日、さんざんイヤミを言われた。
 ともあれ、この事態は、当局には大きな教訓となったようだ。翌一九六九年、金宰淑委員長とともに、再び筆者が引率した第四回訪問団では、日程に講習も組み込まれてはいたが、下にも置かぬ扱いを受けた。
 一九六九年十二月、韓青中央は金宰淑執行部から金恩澤執行部に移った。この頃、民団に対する本国政府の介入が強化され、韓青をめぐる状況も緊迫度を深める。
 一九七〇年にも祖国訪問団は計画されたが、同盟内には不安感が漂い、引率団長もなかなか決まらなかったようだ(筆者は同年六月、父親の他界により名古屋に戻り、家業を継いでいた)。
 結局は、名古屋の筆者に再びお鉢が回ってきたが、再入国の手続等、すべての準備を終えた直後に中止が決定された。かくして韓青祖国訪問団は、四回をもって終了した。
 今は昔、若き日の鮮烈な思い出の一齣である。

「架橋」21 三千里鉄道って何?

   三千里鐡道って何?
 「あとがき」と朴燦鎬氏のエッセイ冒頭でもちょっと登場しているが、三千里鐡道って何? 鉄道会社の名前ではありません。愛知発で〈在日〉が中心になって立ち上げた、草の根の市民運動の名称です。五十年余にわたる朝鮮半島の分断(日帝時代をふくめれば九十年余)に終止符を打ち、民族の和解と統一を実現させようという運動です。
 昨年九月三十日に発足し、今年三月一日より募金活動を始めています。京(キョン)義(ウィ)線(ソン)をはじめ分断されている南北の鉄道を再開通させるためにレールを送るなど、具体的な目的をもった募金と活動です。六月十七日には名古屋市公会堂で、南北共同宣言一周年を記念する画期的な祝祭集会も開かれました。
 朝鮮半島の分断には日本の歴史もふかくかかわっているので、この活動には日本人も多く参加しています。在日朝鮮人作家を読む会の有志もかかわっています。
 URL:http//www.sanzenri.gr.jp

「架橋」21 趙泰一の詩を読む

自由精神で露となって研がれた刃の輝きの言葉――趙泰一の詩を読む

            廉(ヨム) 武(ム) 雄(ウン)(加藤建二訳)

 この文章を書くために趙泰一の詩集を取り出し順番に読んで行く間、彼の親しみ深い顔ときれいな声がしばしば前をふさぎ活字がそのまま目に入って来なかった。生前の彼との付き合いが依然として続いているようで、彼がこの世にいないことがかえって夢の中のことのように非現実的に感じられた。文壇の友達みんなが同じだろうが、あの元気な男趙泰一がこんなにあわててこの世を去るとはとても想像できなかった。大ぶりな図体にふさわしく万事にゆったりしている性分の彼がどうして自分の最後に行く道ばかりをこのように急いだのか?
 故人に対しては美談を語ることがわれわれの長い慣習だが、そうした慣習を去って考えてみても、趙泰一は真面目な人だった。彼と私は同じ年同じ新聞の新春文芸に当選者という因縁で結ばれていて、したがって私は還暦に満たない彼の長くない生涯のほとんど三分の二を彼と同行したわけだ。その間私が彼に見たものは彼の頑固というほどの終始一貫した姿勢であり、堂々としたというべき言行一致の態度であった。彼はこざかしい策とか小細工みたいなものを知らなかったのみならず、そうしたことを真先に嫌った。彼がいつもいぶかしく思い理解しがたかったことは人間の表裏不同性だった。そうした点で彼の人となりは桐裡山の泰安寺で、その垢のつかない自然の中で、あらゆる山に住む獣たちと交わり過ごした幼年の体験の中から決定的に造られたのかもしれない。ある詩集の後記で彼は「短い幼年生活に人生のほとんどすべての体験をみんなしてしまった」ようだとまで告白しているが、(『山の中から花の中から』)彼の文学はそうした幼年の、童心のユートピアの言語的な再構成を成就するため重ねられた試みと見える。
 趙泰一の生と文学についてのこうした理解方式は彼に関するこれまでの一般的な評価といくらか反するものだ。なぜなら、よく彼はとても男性的で勇ましい口調を自由にこなす抵抗的な詩人として知られてきたからだ。勿論、彼が「抵抗詩人」でないことはない。特に詩集『国土』(一九七五)は三選改憲と維新宣布で続けられたその時代の政治的暗黒に対して誰よりも鮮明で断乎たる批判の声を発することによって、青年詩人趙泰一の高らかな気概を見せてくれたのである。自然観照的で童心回帰的な詩風が全面化した九〇年代においても、政治現実に対する彼の批判的意識はまったく消えない。そうした点で趙泰一は自己否定を通じて断層的に変化し発展する詩人ではなく、外的関心と内的観照が持続的に共存する中、後者が前者を圧倒してもっと根本的な衝動によって表面化する詩人だ。

 趙泰一が詩人としてはじめて文壇にお目見えしたのは、一九六四年の京都新聞新春文芸に「朝の船泊」が当選したことによってだ。この当選作を表題にして三十余篇の詩を編んだ最初の詩集が六五年六月に刊行されたので、彼はとても早い年齢(二四歳)で自分の著書をもつようになった訳だ。しかし、詩集『朝の船泊』を読んでみると、後日の趙泰一の文学の種子と感じられる要素が散在しているにもかかわらず、まだ習作を抜け出ないような生硬な表現と生煮えな観念が霧のごとく覆っていることを認めることができる。例えば、「朝の船泊」の初めの部分を吟味してみよう。

 朝の海は英知にきらめく目を開け 
 根気の彼方を駆けながら

 時代にへたばらず、凄まじかった同伴の時に、
 倒れた時間をひとつずつ叩き起こし、
 あの、あふれる地平の日差しを見ると
 清明な日に目覚める出港。

 顔を早くも洗い終えた女たちは
 誕生を繰り返した長い陣痛に
 汗ばんだ下着を脱ぎ海に投げ捨て、
 パイプに男子たちは、置いて来た年代を熱心に吸いくわえる。

 あるみずみずしくて力強い雰囲気が造形されていることを容易に認めることができる。英知にきらめく朝の海と日差しがまぶしい港のイメージが一人の詩人の出航をさわやかに予言しているようだ。しかし、それと同時にそうした詩的活力の具体的な根拠がとても不透明という事実もまた否認できない。「倒れた時間をひとつずつ覚まし起こして」とか「誕生を繰り返した長い陣痛」のような句節が論理的な鮮明性を欠いているという点を指摘するのではないのは勿論だ。私の考えではそうした句節よりも(それで読者たちが理解しにくいのではなく)むしろ若い日の趙泰一さえも六〇年代の「難解詩」の常套例と言えるだろう。詩人自身も自分の詩について「私が行かねばならない道を発見できず、ただ人々が一度手に染めてみた無意味な世界でむなしく必死になったのではないかという」不満を感じると「後記」で告白している。
 しかし、前に言及したように『朝の船泊』は全般的に観念の常套性と肉体の迷妄にとらわれ習作の水準を飛び越えられない中でも、そうした全般的な流れに埋没されないりりしい気迫をも含んでいる。「朝の船泊」自体の中にもそうした生気がうねっていると指摘したが、たとえば

 四月は若さの中で目覚めた。
 去っていた時間はふと彼らに指揮棒を渡した。
 路地で縮めていた自由、
 最も静かなところで彼らは今日をつかまえた。
                ――「四月のメモ」全文

 ああ、私の小さな一握りの自由よ、民主よ。
 私の傷ついた処女膜の近くにざわめく
 疲れた叫び声を、追われていた声を聞いているか。
                ――「私の処女膜」部分

のような詩ではっきりと一定した政治的状況とのつながりが比喩的にまたは直接的にあらわれている。この「私の処女膜」は第二詩集「包丁論」(一九七〇)で「私の処女膜Ⅰ」として再収録される。そして今連作詩「私の処女膜」と「包丁論」が進行しながら彼の批判的政治意識は少しずつ強化されて詩的呼吸はさらに急迫して荒くなる。

 血が付いた血が付いた処女膜をひらめかせ
 痛みと血生臭いにおいを漂わせて
 光化門の四辻の真ん中に
 おれが立った、おれが立った

 三千万個の双眼をきらめかし
 三千万個の双耳をそばだたせ
 三千万個の胸をこすって火花が散る
 花火が散る単一化した叫びをあげて
 おれが立った おれが立った
                ――「私の処女膜3」部分

 たぶんこのように強烈ではばかりのない野性の声を六〇年代のわれわれの詩壇で探すことは難しいだろう。この連作で処女膜の破裂は四・一九(一九六〇年学生の義挙が頂点に達した日を記念する四月革命)的純潔性の毀損を意味する比喩にしているが、作者はここに萎縮するどころか逆に咆哮するように自己を主張し、旗のように自分を四辻の真ん中に立てる。この無双の力で高揚した自我意識は一体どこから発現したのか? 「包丁論3」の全文を読んでみよう。

 わが胸底の覚めた目のそのするどい刃の輝きは
 素直な血で刃を研いで磨いていたが
 ついにわが胸の肉を貫いて出ては
 韓半島のわが地をあまねく飛んでは
 竹槍の前に先立たれた父の墓の輝きともまみえ
 班長宅のすぐ隣家にひとり居ます南道の母の輝きにもまみえ
 散っていった途方もない輝きともまみえてはべり
 はなはだしくはわが男根の中の未知の子供たちの輝きとも会って
 さらにはっきりした無敵の輝きなのに、知恵の輝きなのに
 目がくらみ、動物園の酔っぱらいの豚は目がくらみ
 凶悪にも尻に角の生えた雄牛は目がくらみ
 動物園の獣はみな目がくらみこの刃の輝きが見えないのか。

 思いのままなら盲の腐った胸をえぐり捨てるのに
 たちどころにわが国の国語大辞典の中の「改憲」という
 文字までもえぐり捨てるのに

 目が覚め胸が開くように
 盲の腐った胸たちの前で
 きらめきとしておるぞ! その静けさとしておるぞ!
 この刃の輝きはもとより聡明だから、寛容だから。

 一九六九年の同人誌『新春詩』に発表したこの作品の副題は「改憲のために」だ。すなわち朴正熙によって強行された三選改憲をこのように強力に糾弾した文書を探すことは容易ではないだろう。しかし、それにもかかわらず、この作品で政治的発現のみを読むならば、それはこの作品の意味を縮小するもので、したがって歪曲するものだ。この詩の抒情的主人公は「刃の輝き」だ。それは刃であり同時に輝きだ。すなわち、それは無敵の力とひらめきとして表象されもするが、同時に知恵と静けさと寛容を属性としてもつ。ところで、その刃の輝きが元来あったところは「わが胸底の酔っぱらいの豚」「尻に角の生えた雄牛」、すなわち否定的な現実権力に立ち向かう対抗的な主体が単独的な自我の決然たる意志ならば、同じ年に同じ誌面に発表した趙泰一のまた違った傑作「真桑瓜」は群衆の抵抗の連想を力強いながらも陽気な音調にのせて表現する。

 黄色い拳たちが泣く
 ぐっと握りぐっと握り愛をぐっと握りしめ
 或るものたちは野原に一人きり一人きりで残り
 或るものたちは青果物市場の莚の上で
 燃える肌色燃える悲しい心根をこすり
 黄色く白々と泣く

 黄色くぎらぎら照りつける日差しを
 がりがりがりがり三・四調、四・四調の調べで
 こらえて噛み砕き噛み砕き
 ひっくり返って臍で白々と抵抗する、
 
 あれは神だ。顔のきれいな悪魔だ。
 垢にまみれた麻織りのチマの前で毛の前で
 汗ばむ胸の前でコンクリートの前で
 あれらは神だ。顔のきれいな悪魔だ。

 自由があるのか、息を殺して目で聞くと
 民主主義はあるのか、息を殺して骨で聞くと、
 ない、なってない、とはっきりと答えて
 前にのめり後へ倒れ背中で臍ではっきりと抵抗し
 黄色く白々と泣く

 飢えた牙の中で
 唾もその言葉をちょっと聞いてみようと
 ぐっと握りぐっと握り、拳をぐっと握りしめて
 左右の耳をそばだて噴き上がる。

朴正熙ファッショ体制のひどい弾圧を経験していた人々にこの詩は今読んでも時差を一気に飛び越える現在的な感動に迫る。趙泰一は一九七八年に自身の文学を語るある講演で「政治的、権力的集団が民衆を抑圧する社会では(・・・・・・)民衆は真実と生命を擁護し守るため、その生命を捧げ抵抗する。即ち個人意識は共同意識を形成し巨大な民衆意識を生みます」と喝破した後に、この詩を朗読し「真桑瓜を民衆の姿として書いた詩」という註釈をさらに付け加えている(趙泰一文学選『恋歌』一九八五・四一四ページ)。詩人自ら自分の時代の現実と自身の文学的目標について明確な認識に到達していることを知ることができるが、ここでわれわれが見過ごしてはいけないことは彼が語る「巨大な民衆意識」が「朝の船泊」の時のような抽象的な観念や生煮えな主張としてではなく、生き生きしている美的な形象として提示されているという事実だ。さらに言えば、この詩で真桑瓜は「民衆」を示すための単純なアレゴリー(比喩)にすぎないのではない。それは野原でまた市場の莚の上で白々と黄色く腹をあらわし転がる真桑瓜たちの具体的な姿を浮かぶようにしながら、それと合わせて朝鮮の農民の強健なイメージを重ねて提示する。いずれにせよ、ここに至りついに趙泰一は「参与詩」「民衆詩」という名称で広く呼ばれるわれわれの詩の一つの流れに真正な内容を付与し趙泰一の名前で刻印されたひとつの独自な典型を創造する。
 「真桑瓜」のような独特な型を獲得した趙泰一の民衆詩は、一九七一年から七五年まで発表された『国土』四八篇でぱあっと花を咲かせた。朴政権の維新宣布と緊急措置、これに立ち向かった民主回復運動と文人たちの自由実践運動が民主対反民主の戦線を成し対峙した暗澹たる時代において、趙泰一の「国土」は民衆的な大儀と自由の精神を力強く宣布した作品として不滅の歴史的な意義をもつ。今、一、二篇読んでみることにしよう。

 妻とのすべての接線も断ってしまい
 言葉を覚える子供たちとの対話も断ってしまい
 おれを教えたすべての本からも
 中古になったあどけない玩具からも
 間の抜けた家具からも離れてしまおう。
 
 おお 怖い
 おお 怖い

 物影をひっそりとひっそりと照らしてくれる
 月の光や星の光からも
 数知れず足を運んだ
 光化門やら鍾路やら太平路からも
 自由だ平等だ人権だ民主だ義務だ国民だ
 なんだかんだと言う韓国的な標準語からも離れてしまう。

 おお 怖い
 おお 怖い

 亡憂里の近く青空の下の草の葉たちは
 そのように青いだけで
 青空の下の黄土は
 そのように赤いだけで
 青空の下の墓たちは
 そのように静かに横たわっているだけか

 おお 怖い
 おお 怖い

 風は眠り声は途切れ静かであっても
 果てしない青空はあんなにも重苦しいのだ。
 青い草たちはそよぐけど
 空の下に敷かれた黄土はあんなにも重苦しいのだ。
「青空と赤い黄土」(国土34)全文

 この詩には二つの声が存在する。舞台の上で客席(読者)に向かって独白する声がひとつであり、舞台の後方の観客が見えない所で悲鳴をあげるようにリフレーンのごとく繰り返される声がもうひとつだ。言わばこの詩で読者は小規模な一人芝居的状況が展開されるのを見るが、劇の主導的な雰囲気は言うまでもなく恐怖だ。なぜそのように恐いのか。舞台の上の主人公即ち作者の独白を通じてわれわれは恐怖感の実体を想像せざるをえない。一言でそれは日常的な生さえ統制される、山川草木さえしおれるような極度の抑圧的な現実である。背景になっている青空、あの悠々蒼天こそ地上の桎梏をこの上なくはっきりと浮き出させる。

 夢と現実はいつも近くにある。
 手の甲になければ手の平にある。
 だから手の甲になかったら手の甲を裏返せよ 
 だから手の平になかったら手の平を裏返せよ

 稲妻は夢の中だけで光るものではない、
 雷は夢の中だけで鳴るものではない、
 霹靂は夢の中だけで光るものではない、
 雹は夢の中だけで吹りしきるものではない。

 稲妻が光る、妻よもっと近寄りなさい
 曇った眼であってもにらみつけてみよう
 雷が鳴る、妻よもっと近寄りなさい
 しわがれた声であっても力を合わせて叫びをあげてみよう。
 霹靂が鳴る、妻よもっと近寄りなさい
 四本の足を動員して地べたでも打とう。
 雹が吹りしきる、妻よもっと近寄りなさい
 かれた涙でも正直に落としてみよう

 妻よ曇った日は悲しい肌でも
 濡れるほどこすり
 電流がすばやく流れる避雷針を
 ロバの耳のように頭の上に立て
 むつまじい操り人形のように踊ろう
 高い所でなければ野原でもよい。
 避雷針を立てて踊ろうよ。
         ――「曇った日は」(国土20)全文

 この作品で詩人が最終的に言おうとする伝言は沈黙と順応主義の拒否であると見える。しかし、その結果に至る過程がそれほど鮮明なものではない。まず第一連は「夢」と「現実」の近接性または置換可能性を言うのか。よく現実が非現実的に感じられる時、夢の中のようだというが、作者はどうしてここでそうした悪夢的な現実の転換を宣言的に迫っているのか分からない。第二、三連で「稲妻」や「雷」が政治現実に対する比喩的表現であることは容易に理解できる。ところが、この詩の作者は恐怖にふるえ縮めるのではなく、むしろ反逆を準備する。そうして最後の連でわれわれは「解放の踊り」の幻覚を経験できる。
 一九七七年、趙泰一は久しい親友の朴ソンムを伴い、三〇年ぶりに故郷を訪れる。桐裡山の泰安寺の坊さんであった彼の父親は麗順反乱事件(一九四八年一〇月一九日に麗水と順天で起きた事件)の時、家族を連れて光州へ出て、六・二五(朝鮮戦争)が終った直後「故郷を去ってから三〇年になったら故郷を踏め」という遺言を残して世を去っていたのだ。平素行動がおっとりしてのろかった趙泰一が今は廃墟と化した泰安寺の前庭に着くや、「神がかりになった人のように、魂を失った人のごとく、こっちへぱっとあっちへぱっと走りながら」正気でなかったと朴ソンムは証言している(『自由化シンドローム』跋文)。多くの人たちが指摘するようにこの三十年ぶりの故郷行を契機に趙泰一の詩世界には漸進的な変化がおこる。詩人自身が「私の詩は幼年時代の故郷から出発し全国土の事物たちと付き合ってから、ついに故郷へ帰って来ようという信念から書かれた詩だ」(『山の中から花の中から』後記)とまで記している。
 しかし、詩的変化は極めて緩やかに進行する。詩集『可居島』(一九八三)を取り出してみれば、「元達里の父」「友達」など幼年時代をたどる二、三篇の作品が目につくのみで、新しい世界があらわれない。いずれにせよ、この詩集は『国土』の爆発的な力と大胆な想像力に比べる時、どこか無気力でしまりがないような感じを隠すことが出来ない。『自由化シンドローム』(一九八七)『山の中から花の中から』(一九九一)『草花は折れない』(一九九五)そして『一人で燃え上がっていたね』(一九九九)――このように四年ごとに一巻ずつ新しい詩集が出版され趙泰一の詩は芸術的に少しずつ円熟し老成しながら、それと合わせて直接的な政治批判ないいし現実参与的な傾向が減少するかわりに思索と観照の時間が増える。七〇年代の彼の詩で天気や自然風景がよく政治的な比喩であったとすれば、今はそれはむしろ政治を含んだ人間の世相全体を入れて懐に抱くもっと根本的な存在として表れる。そうして個人の自我意識のようなものは大自然の巨大な摂理の中に抱きこまなければならない、取るに足りなくてへりくだった小品に変貌するのだ。

 おれはいつでもひざまづき
 受けたぞ両手で
 南道平野を。

 忘れることが出来ようか 
 弘陵でも、
 吉吟洞でも、弘恩洞でも
 安養でも、新吉洞でも
 いつでもひざまづき
 受けたぞ
 今朝もそのように受けたぞ

 習慣のごとくひざまづいて受けたぞ
 わき上がる太陽を受けたぞ
 中天に昇った太陽を受けたぞ
 燃え上がる夕焼けを受けたぞ
                 「食膳の前で」全文

 以前の荒く野性的な口調を記憶する読者にこの詩の「受けたぞ」のような擬古典的な話法は、聞くにしのびないとさえ思うだろう。似たモチーフを扱った「ぎらぎら照りつける夏の日差しに向かう食膳の前で」と比較してみると、二作品がおのおの収録された『包丁論』と『自由化シンドローム』の間に隔世の差があることを悟らせる。

 暴雨も遠く去ってしまい
 湿気まで死んで干上った夏の近く
 食事のたびに裸となって夫婦は向き合って座る。

 ひざまづき裸となって座る食膳の上
 過ぎた数年飢えた南道平野
 食器は熱くあふれ出て。
        ――「ぎらぎら照りつける夏の日差しに向かう食膳の前で」部分

 ひざまづき謹厳に食膳を受ける詩の話し手は多分同一人であろう。食膳で南道平野を連想する方式も似ている。しかし前の作品では南道平野が「わき上る太陽」「燃え上がる夕焼け」と同じくほとんど宗教的な絶対性をもつのに比べ、後の作品ではそれは暴雨と飢餓に媒介されることによって社会化する。したがって後の作品では農民的な生活現実が核心的な問題として浮ぶのに比べ、前の作品では大自然と食物について話し手の倫理的な態度が重要になる。
 しかし、八〇年代の後半より趙泰一の詩は社会的な次元との連結が緩む代りに、ある根源的な存在感覚と言うべき深奥な精神性を獲得しはじめる。今、彼は無理やり去った故郷の山川を内面の中に再構成しながら、幼年時代の原初的な体験が提供した自然との合一を詩の中にゆっくりと復元する。

 それぞれの道
 秋にはそれぞれに帰らせよ
 美しく染まった紅葉の葉の間へ
 秋風に吹かれ過ぎ行くように
 地上のすべてを帰らせよ

 過ぎた夏にはひときわ悲しかった
 暴雨と台風がわれわれに試練を負わせても
 あの高く青い空を仰ぎ見よ
 誰があのようにきらきら輝いている玉をばらまいたのか
 誰が心を全部注いで広げたのか

 秋には別れないで抱擁せよ
 果実が落葉が木の枝を離れることは
 別れでなくて台地との出会いであれ。
 冬との出会いであれ。
 春をはぐくむための出会いであれ。
               ――「秋には」部分

 趙泰一のものと信じられないほど美しい詩だ。しかし、また見ると夏の日の暴雨と台風を経て澄んだ秋空があらわれるように、若い日の試練を真正直に耐えた詩人のみが書くことが出来る美しくて知恵がある詩だ。勿論、われわれはこの作品からある種類の教訓を読むこともできる。しかし、型にはまった教訓詩ではない。見極めるとわれわれは森羅万象から教訓を得ることができる。また喜びを得るし悲しみを感じることもできる。しかし、人間の悲しみや喜びとは関わりなく「美しく染まった紅葉の間に/秋風に吹かれ過ぎて行くように」地上のすべてのものはただ自分の道を行くのみだ。ちょうど、

 おべっかをくすぐったがる日光は
 誰のものでもないように
 われわれが戯れることもまた
 誰のためでもない。
         ――「寧日のみ兎の尻尾から」部分

 こうした句節が語ってくれるように世の中のすべての事物は一切の人間的な意味の関連から脱け出る時、自分の真の姿をあらわるのかもしれない。八〇年代後半から十年の間の詩で趙泰一はすなわち純粋な目で、疑いと欲望を脱ぎ捨てた純情な心で見て、感じ、記録する。私の考えでは詩集『草花は折れない』はわが国の抒情詩の歴史でも最も優れた絶唱の集まりだ。

 多くの人たちが指摘するように趙泰一の文学の根は幼年時代に経た故郷体験だ。故郷から追い出されるように去り他郷で学校に通い社会生活をする間に、その原形は毀損されて汚染されたと詩人には思われる。長い彷徨の果てについに彼は故郷的な世界へ帰還するのに成功する。しかし、それは最後の詩集『一人で燃え上がっていたね』に載せた「消滅」「秋の前で」のような作品が見せてくれるように、巨大な自然の影の中で抒情的な主体自身が消え忘れられることを意味する。

 今はそれだけ蒼くあらねばいけない。
 今はそれだけ立っていなければいけない。
 枯れ草がおのおのの色で
 横たわり消える瞬間だから
 
 私は倒れ方を忘れてしまった。
 私は消え方を忘れてしまった。

 高くて青い空の中へ吸われて行く鳥
 水辺にちらつく夢

 私はすべてを忘れてしまった。
              ――「秋の前で」全文

 これは即ち解脱の境地ではないか。あらゆる辛酸を点綴した自分の人生全体をふと「高くて青い空の中へ吸われて行く鳥」を見るように眺めて、「枯れ草がおのおのの色で横たわり消える」終末の時間がついに自分に迫って来たことを悟りながら仙境にある美しい草花が乱舞していた夏の日の繁茂を単に「水辺にちらつく夢」のごとく思うことができるとすれば、はっきりとこの詩は差し迫った臨終の予感の中で書かれたのだろう。「声もなく/喊声で/わき出た/花たち(・・・・・・)今は/清らかな/沈黙で/癒える」と散っていく花を歌って詩人はその後に「母の/臨終のごとく」(「花たちが癒える」)と付け加えている。しかし、今私はここに「そして詩人の臨終のごとく」とまた付け加えざるをえなくなった。おまえとのこの世の因縁がこのようにはかなく終わるとは全く分からなかった。清く美しい趙泰一の霊魂よ、どうか往生極楽せよ。南無阿弥陀仏!

 訳者解説 本文は『創作と批評』一九九九年冬号の「趙泰一追慕特集」として廉武雄氏(文芸評論家・嶺南大独文科教授)が執筆したものである。
 詩人趙泰一は一九九九年九月七日、五八歳で亡くなった。彼は一九四一年全羅南道谷城で出生し、光州中・光州高・慶熙大を卒業した。彼は一九六四年京郷新聞「新春文芸」で詩「朝の船泊」が当選し作品活動をはじめた。最初の詩集『朝の船泊』(一九六五年)、『包丁論』(一九七〇年)、『可居島』(一九八三年)、『自由化シンドローム』(一九八七年)、『山の中から花の中から』(一九九一年)、『草花は折れない』(一九九五年)などを刊行し、逝去する前に『一人燃えていたね』(一九九九年)を最後の詩集として発行した。特に『国土』(一九七五年)は七、八〇年代の韓国の詩文学の絶唱として記念碑的な詩集である。彼は一時、月刊詩専門誌『詩人』を主宰し、ここから金芝河氏、梁性佑氏などの著名な詩人を輩出した。薄氷を踏む時代の真ん中で彼の詩論集『美しくある詩と感動する詩』(一九八一年)は詩人たちの重要な詩作活動の源になった。

「架橋」21 会録

会    録

第266回(2000・6・25)金石範『海の底から 地の底から』
             報告者・加藤建二      参加者 8名
第267回( 7・23)金嬉老『われ生きたり』
              報告者・卞元守       参加者 7名
第268回( 8・27)徐京植対話集『新しい普遍性へ』
             報告者・成康秀       参加者 6名
第269回( 9・24)河信基『代議士の自決』
             報告者・加藤建二      参加者 8名
第270回(10・22)『架橋』20号合評会 PART 1
             報告者・卞元守       参加者 6名
第271回(11・26)『架橋』20号合評会 PART 2
             報告者・劉竜子       参加者 6名
第272回(12・24)一年をふりかえり2001年を望む望年会
                           参加者 10名
第273回(2001・1・28)金城一紀『GO』
             報告者・加藤建二      参加者 9名
第274回( 2・25)金重明『皐の民』
             報告者・磯貝治良      参加者 6名
第275回( 3・25)柳美里『命』
             報告者・卞元守       参加者 6名
第276回( 4・22)玄月『悪い噂』
             報告者・加藤強       参加者 7名
第277回( 5・20)尹健次『「在日」を考える』
             報告者・加藤建二      参加者 5名




「架橋」21 あとがき

    あ と が き

▼あの日から一年が経った。二〇〇〇年六月十三日、ピョンヤン空港でのキムテヂュン大統領とキムヂョンイル総書記の抱擁シーンは、得も言われぬ感動をよんだ。「共同宣言」もまた、和解と統一へのプロセスにはいったことを実感させた。私の周辺でも、〈在日〉の友人は言うに及ばず、日本人も熱く燃えた。行動も起きている。分断された非武装地帯の鉄路を再開させるための「三千里鐡道」の運動もその一つである。
 あれから一年、国際的・政治的・経済的さまざまに困難な状況があって統一へのプロセスに停滞感なきにしもあらずだが、熱を冷ますわけにはいかない。東アジアの平和は言うまでもなく、朝鮮半島の分断には日本(人)が歴史的にふかくかかわっているのだから、統一問題はすぐれて私たちの戦後責任の課題なのだ。
▼今号は、同一のものでながくつづけていた表紙のイラストを変えて、装いを少し新たにした。分量も六〇頁たらずと、いつもの号の半分になっているが、これは雑誌の方針とは関係なく、原稿がそれだけしか集まらなかっただけのこと。ごちそうの日もあれば、質素な食事を愉しむ日もある、ということだろう。
▼昨年十二月の望年会でおこなった、恒例の「読む会」テキスト人気投票の二〇〇〇年版結果を記す。①磯貝治良「すゑの話」(『架橋』20号)②金石範『海の底から 地の底から』(講談社)③徐京植『新しい普遍性へ』(影書房)④金嬉老『われ生きたり』(新潮社)劉竜子「一〇セント」(『架橋』20号)⑤尹健次『日本国民論』(筑摩書房)河信基『代議士の自決』(三一書房)⑥金蓮花『舞姫打鈴』(集英社)朴一『〈在日〉という生き方』(講談社)賈島憲治「雨森芳洲の悲しみ」(『架橋』20号)
                       (磯貝)

「架橋」20 目次

架 橋 20
                 2000 夏



目   次

○ 20-1(小  説) 一〇セント ………………………………… 劉 竜 子
○ 20-2(小  説) すゑの話 …………………………………… 磯貝治良
○ 20-3(エッセイ) 「読む会」という機会 …………………… 李 潤 一
○ 20-4(短  歌) わたしの中のわたしたち ………………… 北原幸子
○ 20-5(エッセイ) “韓国演歌”などと言わないでくれ …… 朴 燦 鎬
○ 20-6(小  説) 雨森芳洲の悲しみ ………………………… 賈島憲治
○ 20-7(エッセイ) 『架橋』20号まで――あとがきを借りて … 磯貝治良
○ 20-8 会録

「架橋」20 一〇セント

     一〇セント

          劉(ユ) 竜(ヨン) 子(ヂャ)


 土曜日の授業の終業の鐘が鳴ると、取り澄ました佐藤悦子の起立の声で、一斉に机とイスの軋みあう音が教室をみたした。帰り支度をいそぐ生徒をまえに、これ見よがしに宿題を課せる担任の橋本の言葉にうんざりしながら、竜(ヨン)基(ギ)はくたびれたズックのカバンを背負うように肩から斜めにかけて教室をとびだした。
「おい、竜基待たんかい」
 安本秀雄が、履きつぶした運動靴のかかとに指を突っ込み、クツがボロボロや、ひとつ買うてもらんならん、とブツブツひとりごちて、むりやり汚れた素足をすべらせた。首にかけたカバンに腕をくぐらせ、よしとばかりにシャドウ・ボクシングを真似て、竜基の胸倉めがけて拳を突きあげてきた。竜基はおっと唇を尖らせ上体を敏捷にかわし、負けずに拳をにぎりしめて、いつでもかかってこいと身構えた。秀雄の当たりそこねたジャブを上手くかわしながら校庭を走りぬけ、高台にある小学校の校舎の門からつづく坂道をいっきに駆けおりた。
 用水路に架かる木橋をわたると、悦子と級長の長谷川幸男が連れだって歩いていた。追いぬきざまに、幸男が怯むように立ち止まり俯きかげんに顔をそむけた。幸男と竜基の気まずさを察してか、悦子がなにかもの言いたげな顔をして、さようならと小さく会釈をした。
 チェッと秀雄が舌を鳴らし、
「あいつら、なんぼの者(も)んじゃ」
「止めときや」
「そやかて、あいつら、いつかておれらを無視しおる」
「放っとけや」
 駅前の商店街に向かうなだらかな登り道を、ノートを見せ合い、ゆっくりと歩調を合わせて歩いてゆく悦子と幸男の背に、秀雄が尻を向けてなにやらおどけて悪態をついた。
「いくぞ」
 英雄の背中に声をかけて、竜基は夏草の生い茂る土手道を息をきらせて走りぬけた。
 旧暦の盆「秋夕」を明日に、昨日までの残暑がうそのよう。いつの間にか秋の気配がただよい草叢をわたる風が、汗ばんだ肌にここちよい。夏のなごりの草いきれのする土手道を大声で喚きながらあとを追う英雄と、板葺きの棟割長屋の集落をめざしていっきに駆けおりた。英雄が息を弾ませて、あとで飛行場へゆこうと追い越しざまに手をふり、庇が重なりあう、棟割長屋の狭い路地に消えた。
 竜基は閂をはずした板戸をあけて、キムチの饐えた匂いと薪を焚く煤けた匂いのする薄暗がりの土間に入った。オモニが竈に火をくべて大鍋に湯を沸かしている。
「帰ったんか」
 竜基は、あぁと小さく頷いて、ズックのカバンを肩からもぎ取るようにして、オンドルパンにつづく板の間に抛りなげた。
「竜(ヨン)秀(ス)兄ちゃんから貰ったカバンを、そんなんしたらあかんやろ」
 オモニは苦笑しながら竜基の額をちょっと小突いて窘めた。どんぶり飯にキムチとナムルを添えて竜基に手わたすと、
「竜秀兄ちゃんも、遅(おそ)ても晩には帰って来よるしな、あとで鶏つぶすし、それ食べたら小屋から出して来いや」
 竜基は、どんぶり飯を頬張りながら、あぁと生半可な返事をして箸をおいた。東京の大学から久しぶりに戻って来る竜秀兄ちゃんを思うと、竜基は久しぶりに逢う嬉しさに胸が高鳴った。
 兄ちゃんは、俺と違うてむちゃ頭いいしな。
 けれども、鶏小屋の世話をまかされ、雛が孵るのを夜ごと見守ってきた竜基にしてみれば、世話をしてきた鶏がつぶされるのはちょっぴり気の滅入ることだった。
 路地をぬけて井戸端へでると、アジュモニたちが家々ごとに先祖の祭壇に供える魚や野菜を持ちより、忙しなく手を動かしている。威勢のいい掛け声とともに、土方仕事を終えた竜基のアボジがオモニをしたがえて、湯のたぎる大鍋をかかえ井戸端に姿をみせた。手を動かしながら笑いころげて痴話ばなしに興じていたアジュモニたちが、一瞬顔を見合わせて口を押えてお喋りを止めた。そそくさと洗いおえた野菜の水きり用のザルやパガチをよけ、湯を張る金盥を竜基のアボジの前に差し出した。
 アボジは大鍋の湯を勢いよく金盥にそそぎ、作業服の袖をたくしあげた。筋肉の盛りあがる日焼けした二の腕を差しだして、オモニの汲み上げるポンプの水を両の手のひらにたっぷりと受けとめて、気持ちよさそうに飛沫をとばして擦りあげるように顔を洗った。オモニがわたす手拭いを受け取り、アボジは滴る水をも拭わず辺りを威圧するように見廻した。
「早う出してこんかい」
 まだらに伸びた無精髭の顎をしゃくり、側に立つ竜基を睨みつけた。一瞬たじろいだ竜基は、ウムと頷いて鶏小屋へ駆けだした。小屋の柵をはずし、逃げまどう鶏を声を張りあげて井戸端へ追いたてた。相撲の四股を踏むように深く腰を下して身構えるアボジの大捕物を、遠巻きに見守る子供たちが喚声をあげて囃したてた。
「アイグッ、あのへっぴり腰はなんやの」
 星山のアジュモニが、娘の愛子が魚の鱗を捌くのを横目で見ながら言う。
「あれじゃ、姉さんも身が持たへんで」
 新井の若いアジュモニが、よちよち歩きの正男の鼻水を前掛けの端っこで拭いながら、笑いころげて言った。容赦のないアジュモニたちの卑猥な掛声に竜基のオモニもつられて失笑し、興に乗って派手におどけるアボジに手をたたいて声援を送る。
 鶏冠を逆立てて逃げまどう雄鶏を追いながら、孵ったばかりの雛を縦列に従えて雌鳥が右往左往。アボジのがっしりと逞しい体が、ところ狭しと地を這うように右に左に不様に揺れた。アボジの節くれた大きな両の手が伸びて、雄鶏の首根っこを鷲づかみに捕らえた。時の声もむなしく喉をひき攣らせて目蓋をしばたく雄鶏の喉もとに、砥ぎすまされた出刃包丁の刃が容赦もなくいっきに真横に筋をひいた。
 囃したてていた子供たちのなかから、あぁぁっと息を呑むような悲痛な喚声がわいた。竜基もおもわず顔をしかめて眼をつむった。オモニが手ぎわよく締めたばかりの鶏を血抜きして、たっぷりの湯をくぐらせて羽をむしりはじめた。
 大捕物の余興がおわると、英雄が背後から肩を突つき、いくぞと竜基に顎をしゃくった。安本のアジュモニが、昼寝から醒めてむずかる英子を宥めながら、息子の英雄に夕方までに帰るように、なぜか怒ったように言った。
「アジメ、何んや言うてたんや」
「かまへん、妹の英子を連れて行け言うたんや。しょうもない、早よういの」
 井戸端をあとに棟割長屋の迷路のような路地をぬけると、共同便所の糞尿の臭気が鼻をついた。便所から出てきた愛子が、お腹を押さえ、青白い顔をそむけて足早に行き過ぎていった。
「どっか具合悪いんやろか」
「心配せんかてええのんや、あれは女の病気やて」
 英雄が大人びた訳知り顔で言った。いつだったか、竜基が便所にとびこむと、便槽のなかの汚物が夥しい血の色で染まっていた。誰か知らないが重い病気で腹を壊しているのかと、竜基は人しれず気に病んでいた。足早に井戸端へ戻ってゆく愛子のうしろ姿を眼で追いながら、愛子の姉の春子のことが頭をよぎった。
 星山のアジメは、女の子をつづけて五人産んだ。故郷では男の血筋を重んじる慣習から、女腹は離縁をされても仕方のないことと言われつづけていた。そのせいかどうか、夫婦喧嘩が絶えなかった。酒が入ると別人のように人格が変わる星山のアジェが、家中をひっくり返してみさかいもなく暴力を振るった。無残な青あざで顔を腫らした愛子が、嗚咽しながら裸足で竜基の家に助けを求めてきた。
 早うアボジを止めて、オモニが殺される!
 愛子を家のなかへ入れて匿い、アボジとオモニが飛びだすと、竜基もあとを追って走りだした。星山の家の中は膳がひっくり返され、一升壜が何本もころがり、割れた茶碗や皿が散乱し足の踏み場もない。土間の竈のまえで、恐怖に泣き叫ぶ末娘を庇うように抱いてうずくまるアジメに、星山のアジェが酔って定まらぬ足を踏ん張って、阿修羅の形相で包丁を突きつけていた。何度も繰り返される惨劇に放心状態の春子が、怯えて縋りつく二人の妹を両腕に抱きかかえて、感情を押し殺したつめたい憎悪の眼で星山のアジェを睨みつけていた。
「こんな腐った朝鮮人の家は、もうたくさんや」
 吐き捨てるように言った春子が、しばらくすると家を出ていった。
 竜基は、春子が家を出ていった原因は、他にあるような気がした。

 ある日、担任の橋本が社会科の授業の途中で、いきなり「山本」と名指して竜基を立たせた。
「おまえんとこの国で戦争しておろうが、どうなっとるんか知っとるんか。うん? 山本」
「何のことか、よく分りません」
「おまえなぁ、自分んとこの朝鮮のことも知らんのかぁ」
「・・・・・・知らんもんは、知らんです」
「ほうかぁ、おまえんとこの部落で誰か知っとろうが、よう聞いとけや」
 質問と関連のない社会科の授業で、いきなり立たされて答えようもなく、ひそひそ話と、級友の冷やかな視線を浴びて、橋本の横柄な態度と屈辱感に体が硬直した竜基は、椅子に座るのが躊躇われた。橋本が黒板に向う隙をみて、英雄が座れと目配せをした。座りざまに悦子の物憂げな視線とぶつかって、竜基はあわてて眼を逸らせた。
 終業の鐘が鳴り、校門の坂道をなぜか憂鬱な気分でおりてゆくと、英雄がすっと側に寄ってきた。
「橋本のやつ、何んしてあんなこと聞いたんやろな」
「よう知らん。けど、故郷でえらいこっちゃ言うて、アボジがオモニと話しおうとった」
「飛行場いくな言うのんと、関係あるんかいな」
「分からへん」
 竜基は、こんなときに竜秀兄ちゃんが居てくれたら、分からんこと何でも聞けたのに、いつだって頼りにしているんやと、心のなかで思った。
 坂道をくだり木橋をわたると、幸男の三人組とかちあった。同じ駅前の商店街の息子たちで、いつも三人は登下校を共にして一緒だった。追い越して通りぬけようとすると、
「チョウセンジンは野蛮やて」
 誰かが声色を変えてわざと聞こえるように言った。
「何んやて、もういっぺん言うてみい」
 ひと廻り体のでかい英雄が喧嘩ごしに身構えて言った。小賢しそうな武志と登が、幸男を楯にさっと後ろへあとじさった。
「誰が言いくさったねん、まえへ出や」
 英雄の剣幕に恐れをなしてか、武志と登が肩で小突きあいながら喚くように言った。
「さっきな、幸男がそう言うた」
「何んや幸男、おまえが言うたんか」
 言うが早いか、英雄の拳が幸男を殴りかけた一瞬、竜基が前に出て英雄の拳を止めた。幸男はふてくされて身じろぎもせずに立っていた。
「何んでや幸男、俺らおまえらに何んかしたんか。何んもしとらんやろ」
 幸男は顔色も変えずに睨みつけるように竜基を見返した。いまにも取っ組みあいの喧嘩がはじまりそうな険悪なその場に、悦子と級友の女子たちが校門の坂道を駆けおりてきた。
「あんたら何しよんねん」
 悦子たちが遠巻きに叫んで声をかけてきた。険悪なその場の空気が乱れてゆるむと、幸男が加勢をえたとばかりに、口元にせせら笑いをうかべて、
「まわりの者んみんなそない言うとる。悦子かてそない言うとるで」
 幸男の言葉が終らぬうちに、竜基の拳が幸男の顎を捕らえて殴りつけていた。不意をくらった幸男は痛そうに顎を押さえて、どっと崩おれて不様に尻もちをついた。立ち向かう気力をなくした幸男を見下ろして、仁王立ちの竜基は、怒りに弾む息をこらえ、鈍い痛みにしびれる拳に片方の手をそっとあてがった。遠巻きに見守る悦子の悲しげな眼がなぜか眩しく、竜基はいたたまれずに足元に投げ出したカバンをひったくると、待てと言う英雄を残してその場を駆け出していた。訳もなく悔し涙があふれ走りながら拳で眼を拭った。
 棟割長屋の迷路をぬけて、どこをどう走ったのか気がつくと、竜基は集落のはずれの物置小屋のまえに立っていた。物置小屋は風雨に晒されて赤錆びの浮いたトタン板を継ぎはいで囲ってあった。竜基は扉に掛けてある錆びついた閂錠を力任せに引っ張ってみた。何年もぶら下がったままの赤錆びの塊のような閂錠は、ぽろぽろと錆びが剥がれて原型をくずしても錠の役目をきっちりとはたしている。竜基はあきらめて物置小屋の裏へ廻った。朽ちて剥がれかけているトタン板を見つけて、無理やりこじ開け小屋の中へ潜りこんだ。木の腐った匂いと湿った埃とカビ臭さが鼻をついた。小屋の中は真っ暗で手探りで足を踏み出すと、いきなり黒い塊が脛に当った。肝を潰した竜基の眼が暗闇に慣れて見ると、野ねずみが光の射すトタン板の隙間から逃げていった。竜基はほっと胸を撫でおろし、小屋の中をおそるおそる見まわした。埃に埋もれた壊れた農機具やがらくたが山積みに押し込まれていた。竜基は隙間を探して膝を抱えて座りこんだ。そのままじっと身じろぎもせずにたかぶる気持ちを押さえた。涙が乾くと、なぜか竜基は悦子のことが気になった。
 幸男のやつ、悦子も俺のこと野蛮やと言うたと言いくさったけど、そんなんどうでもかまへん。けどなんでや・・・・・・。
 竜基の心のもやもやはいっこうに晴れなかった。竜基自身が悦子への思慕と悟るにはまだ幼すぎた。

 悦子は駅前の商店街のなかでもひときわ門構えの目立つ大店の質屋の娘だった。いつだったか竜基は、ひと抱えもある大きな風呂敷包みを持たされて、嫌々オモニのあとを追って、悦子の家の質屋へ従いて行ったことがあった。
 あの日、学校から帰ると、いつも土間の炊事場で手を動かしながら迎えてくれるオモニの姿がなかった。オンマと声を出して部屋を覗くと、オモニは暗い部屋のなかで柳行李をまえに深い溜息を漏らしていた。
 あの夜、星山のアジュモニがいまにも泣き出しそうな困惑顔で、オモニに縋るように何かを頼みこんでいた。
「姉さん、大変や、故郷で戦争がはじまった言うて、弟がピョンジ(手紙)をよこしよった。どないしたらええねん。プモニム(父母)がペルゲンイン(共匪)に連れ去られた言うて。そやからどないしてもまとまったお金がいるし、姉さん頼むし何とかしてや」
 アボジが何人かの人夫をかかえて土方仕事を請け負っていたが、竜基の家もけして裕福ではなかった。オモニの財布の中身もときどき底をついていた。
「そない言うてもな、無いもんは無いんや」
「姉さん、そない言わんと頼むし助けてや、こないなこと誰にも言われへん、姉さんしかおらへんのや」
「そやけどな、どうしようもならへんわ」
「姉さん、うちな、飲んだくれの亭主もって、ぎょうさん子供かかえて貧乏しっぱなしやった。けんどいっぺんかて貧乏いやや思うたことない。だけど今度こそはお金が無いっちゅうことが、辛抱たまらんいうことやて、よう分かったわ。姉さん頼むし何とかしてや」
 星山のアジュモニが、窮状を吐露してむなしく帰って行った。
 星山のアジュモニを無下に帰してしまったオモニは、額に皺をよせてどっと疲れた様子で、板の間に腰をおろした。苦悩の色をみせて深い溜息をつき、立膝を抱えてうずくまった。しばらくするとつと立ちあがり、押し入れをあけて柳行李を取り出した。柳行李の蓋をあけてそっと取り出した色彩艶やかな絹のチマ・チョゴリをいとおしむようにオモニは胸にあてがった。
「このチマ・チョゴリはな、むかし竜基のハルモニが、オンマがアボジと一緒になるときに縫ってくれたんや。ほんまにパヌルヂルドチョッコ(針仕事も良い)オンマの宝や」
 チマ・チョゴリを眼の高さに持ってしばらく慈しんだあと、意を決したように風呂敷を床に拡げた。
「竜基すまんな、これ持ってオンマに従いて来てや」
 厳しい門構えの「質屋」の看板を見上げてしばし躊躇うふうなオモニが、つかつかと門を入って格子戸を開けた。子供の背丈ほどの勘定台が客との境界線を敷くように土間を仕切り、質入れの品物を受渡しする長方形の口を開けて、天井まで木の柵が囲ってあった。額が薄く丸眼鏡を掛けた男が、オモニと竜基を無言で一瞥し、風呂敷包みを紐解いて品定めをした。男が抑揚のない低い声で幾ら入用なのかと、オモニに問うてきた。奥の机で算盤をはじいていた白い割ぽう着姿の婦人が、
「朝鮮服なんか、なんぼにもならへんで」
 冷やかな声で、聞こえよがしに言った。奥の住まいにつづく暖簾をくぐって、お母さんと呼びながら、悦子が算盤をはじく婦人の側へ寄った。オモニの背中に身を隠そうとした竜基と悦子の眼が合った。品定めを済ませた悦子の父親が、金庫から札を出して数え、オモニの伝えた金額を黙って渡してくれた。

 物置小屋の外でささやくような人声がして、竜基ははっと我にかえった。男と女が物置小屋の中を窺うようにして、トタン板の隙間から縺れるようにして中へ入ってきた。竜基は身を硬くして膝を抱えなおした。敗れたトタン板の隙間から差し込む朧げな日差しをかざして、春子と幸男の兄の年男と知れた。春子と年男がもどかしく抱き合い、息遣いも荒く重なり合うように倒れた。若い肉体が求め合い貪り合う激しい息づかいと歓喜のうめき声に、竜基は逃げることもならず、握りしめた手のひらにじっとりと汗をかき、生唾を飲み込むのを堪えた。若い情熱のおもむくままに肉体の歓喜を分かち合い果てたあと、たゆたう疲労感とまどろみのなかで、春子がささやいた。
「うちな・・・・・・、お腹のなかに赤ちゃんがいてんねん。そやから早よう、こんなとこから出て行きたいんや。年男とやったら、きっとうまくやってゆける思うわ」
「そんな、急に言われたかて、どうもならん」
「なんでや、年男言うたやん、いっしょに暮らそうて。そやからうち、年男とこうなったんや」
「そんな暮らそうなんてできるかいな。お腹の子やて誰の子や分からんし」
「なんでそんなこと言うんや、うちがそんな女や思うてんの」
 春子の声がきっとうわずった。
「そうや、朝鮮の女は信用ならへん」
 年男がふてくされて、突き放すように言うと、取りすがる春子を振り切って、物置小屋を出て行った。

 棟割長屋の集落を出ると、畦道の先の小高い丘の上に、飛行場の鉄条網のフェンスが、たわわに身をつけた稲穂と、いわし雲の浮く青い空を隔てるようにさえぎっていた。秋風がさざ波のように稲穂をゆらして吹き抜けてゆく。
 英雄がちょっと待てと言って、半ズボンのベルトをはずし、尻を丸出しにして稲穂に向けて小便を放った。竜基も連れ小便と、英雄に倣って尻を出して放尿した。英雄がくるっと向きを変え、おまえも生えてきたんかと、にやりと笑って竜基の一物を覗きこんできた。竜基はまだやと言って英雄を置き去りにして走り出した。
 鉄条網のフェンスの丘をよじ登り、竜基と英雄がフェンスの網に指を掛けて蝙蝠のように張りついた。フェンスの向こうに演習場が広がり、兵舎の屋根がまるで地平線の彼方にあるように見えた。軍用ヘリコプターが兵舎の屋根をかすめて飛来した。演習場の上空をゆっくりと旋回して着地点を定めて、静止したかのようにヘリコプターが高度を下げてきた。プロペラの回転する音とエンジン音が耳をつんざき、煙幕を張ったように砂埃を巻き上げて着地した。兵舎の向こうからジープが砂煙を巻き上げて、猛スピードで走ってきてヘリコプターに横付けた。
 竜基と英雄は、本物の軍用ヘリコプターとジープに眼を見張り思わず歓声をあげた。
 兵舎の前で、戦闘服を着て銃を背負った兵士たちが、隊列を作って演習をはじめた。小さく見えた兵士たちの隊列が、フェンスに向けて近づいてきた。行進する兵士たちの軍靴の音が近づくにつれ、竜基と英雄は訳も分からず恐怖心に襲われた。フェンスに張りついたまま、どうちらからともなく恐怖の声をあげはじめた。いつの間にか兵士たちの隊列が一列になりフェンスの廻りを歩きはじめた。白人兵、黒人兵が入り乱れて兵士たちの顔が疲弊しきっていた。恐怖の叫び声がいつしかジュウエン、ジュウエンと連呼していた。竜基は蝙蝠のように張りついていたフェンスの金網から手を出して、狂ったように振り回していた。眼もうつろに疲れきった兵士たちが黙々と行き過ぎていく。
 ひとりの黒人兵が立ち止まり、
「イノム、ヂャシッ、テボネマッ(この馬鹿たれ小僧)」
 朝鮮語で怒鳴って、戦闘服のポケットから硬貨を出し、竜基の手のひらに握らせた。フェンスの金網から手を抜いて開いて見ると、煤けて汚れた一〇セント硬貨だった。
 西の空を夕焼けが赤く染めて、演習場の向こうの兵舎の屋根を影絵のように写し出していた。竜基は一〇セント硬貨を握りしめて、黒人兵を探した。

「架橋」20 すゑの話

すゑの話

  磯(いそ) 貝(がい) 治(じ) 良(ろう)

薄い磨硝子を透かしたような視界に、うすぼんやりといくつかの形が見える。球形のそれが人の顔であると、すゑにはわかる。病室のベッドにいてそれを見ていることも、彼女にはわかる。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・・・・。人の形を数えることもできる。次男の悟、三男の次郎、その妻のねんこ、三女の香梅・・・・・・。四つの顔が誰であるかも、すゑにはわかる。いや、すこしあやふやな気もするが、そうにちがいないと自分に言い聞かせる。あいまいな視覚ではあっても、息子や娘を誰それと見分けられるのが、彼女にはこちらの世界にいることの確証なのだ。
 誰かが話しかけている。けれど、声は耳のなかを掠めるばかりでことばが聞きとれない。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・・・・。すゑはうつろな視線をただよわせ、もういちど数えなおす。まちがいなく四人。とすると、夫と五人の息子娘たちはまだ病室へ呼ばれていないにちがいない。まだ時間は余されているのだ。ぼんやりとかすみがかった意識の、そこだけが妙に明るい一点で、すゑはそう思う。
 安心するふうに目を閉じたときだった。胃のうしろ背腹部に激痛がはしった。痛みはうねりのようにおそいつづけ、すゑは声も上げられず、顔ばかりを歪めて、恐怖に耐える。死が目のまえに迫っているとは信じられないのに、恐怖が体をつらぬく。
 苦痛がやわらぎ、恐怖が去ったのは、やはりあの情景が幻想のように視界に蘇ったときだった。山あいから村へとぬける田の道を、白装束に手甲脚絆、菅笠に金剛杖の遍路の一行が鈴を鳴らし一列に行く。明るい陽差しにきらめいて、風の匂いまでが感じられるようにその情景が視界に蘇ると、苦痛と恐怖が判で捺したように去っていく。いつごろからそうなったろうか。
 遍路の姿に憧れたのは七十年も昔、すゑが嫁入りするまえ十六歳か十七歳の頃、野良仕事をしていて田のむこうはるかにそれを見惚(と)れて以来のことだった。病室のベッドに臥せて蘇る情景は、現実の回想だったが、彼女にはいま幻想のようにも感じられる。
 先生、もういいです。
 すゑは、いつ、その言葉を樅(もみ)山医師にきりだそうかと思いあぐねながら、あの情景が蘇って苦痛と恐怖が消えるたび、一日のばしにしているのだった。

 花村すゑは一九〇八年(明治四一)、阿久比(あぐい)板山の農家の末娘(上は兄ばかり三人)として生まれた。
 板山村は愛知県知多半島の根っこ寄り、衣浦湾と伊勢湾をむすんで東西に横断する山あいの幾分、衣浦湾に近い位置にあった。灌木のまばらな低い山稜に囲まれるようにして、村の面積の大半を水田と畑地が占め、神社が一社、寺が二寺、米穀屋と雑貨店が各一軒ずつあった。村の地道に沿って幅二メートルほどの川が流れ、北の水田のひろがりをそれがへだてて南に民家がまばらに並ぶ。すゑが生まれた頃は百戸に満たなかったろう。そのうちの一戸として、彼女の家は柿や枇杷、栗の木のある丘地のふもとにあった。母屋、新屋、納屋、厩舎と並ぶ棟の裏手は丈の高い竹藪になって傾斜地をなしていた。
 坂山村では犬を飼うことが許されず、野良犬さえいない里であった。三昧に土葬される死者の墓を犬たちがあばくのを防ぐためだった。すゑは十九歳で衣浦湾の漁港の町に嫁いで、はじめて犬を見た。警察官の姿を見たのも、嫁いでからだった。
 坂山村の土葬の風習は、一九六〇年代の初めまでつづいた。
 父・萬蔵が死んだのは、すゑが学齢に達した年だった。さらに三年後、母つるが死んだ。当時、癌という病名は村びとのあいだに使われていなかったけれど、父母とも悪性腫瘍に因(よ)った。両親が癌で逝った事実は、半世紀を経てすゑの心にうっとうしい影を投げることになる。
 小学校へ通った記憶が、すゑにはほとんどない。父母を亡くしたため、というのではなかった。父母の死後、長兄・徳蔵と次兄・徳次が所帯をもってそれぞれ母屋(おんや)と新屋(しんや)に住み、三兄・徳三郎は厩舎の一角を四畳半一間に仕切って、寝起きしていた。すゑは母屋に住んで、二十歳近く年齢のちがう長兄・徳蔵が親代わりだった。長兄の子の守りを言いつけられることはあったとして、彼女が小学校へ通えないわけでもなかった。兄たち三人でする半自作半小作の家の事情に、彼女の労力が必要とされるというわけでもなかった。すゑに限らず村の女子たちのほとんどが、三キロほど離れた阿久比本(もと)村の小学校へ通うことはなかったのだ。
 すゑは学校へ通わないことを悲しいとは、一度も思わなかった。教室で先生の顔を見て体を固くし、文字を覚えたり数字を並べたり、頭を使うことを想像するだけで、得体の知れない怖れが胸を刺した。それより田の草取りを手伝ったり、終日、烏追いの番をしてガラガラを鳴らしていたほうが、どれほど愉しかったか。雀や烏の来ない時は、泥鰌(どじょう)や田螺(たにし)を捕るのに熱中できた。牛蛙の卵を見つけたときなど、掌につつんでヒヤリとした感触を楽しんだ。
 少女の頃だけではない。月のものが訪れて、いっぱし百姓のむすめになってからも、すゑは野良仕事を辛いと感じたことはない。一生、百姓の女で人生を終っても構わない、そんな気持ちだった。それを求めてというわけではないけれど、村と野良仕事と土からの収穫と、それに空と風と草花や木木があればその限られた世界に満足できる。だから、文字など必要ないと思っていたのだった。
 ただ一度、外の世界を夢想したことがあるとすれば、白い装束に身を固めキラキラときらめく風のなか田の道を通りすぎていった、あの遍路たちの列に加わりたいという憧れだった。
 すゑの世界が壊れたのは、世間ひととうりの恰好だった。彼女が十九歳になると間なしに、縁談が持ちこまれたのだ。
 ある日、母屋の客間の障子に習字の紙が数枚、貼られた。長兄が寺の庵主さんに書いてもらったもので、「日の丸」「富士山」「豊作」などと書かれていた。その部屋に通された客二人――身丈に合わず幾分だぶついた背広を着た小柄な青年と、紋付羽織に袴の初老の男は、二十分ほどして帰った。縁談相手の青年と仲介人だった。
 客が帰ると、長兄の徳蔵と次兄の徳次は満足顔に語り合った。縁談相手の青年は、すゑのことは何も聞かず、障子に貼られた墨文字にばかり目を走らせていた。その様子はいかにも感心したふうであった。これだけの書を嗜(たしな)む百姓のむすめがいようとは!すっかり魂消たふうだった。あとは吉日を待つばかり・・・・・・。
 すゑは客のいるあいだ納戸の部屋に閉じこもっていて、顔を合わせることもなかったが、兄たちの会話を聞いて暗い気持ちになった。兄たちが庵主さんの書いた習字紙を障子に貼るとき、その目的がすゑにはわからなかった。客を迎えるための装いとばかり思っていた。そうではなかったと知って、文字を知らない身を痛切に感じた。一字無識の身が災厄を招くのではないだろうか、と不安を覚えた。
 一か月後、すゑは相手の顔を見ないまま婚礼の日をむかえた。
 すゑが嫁いだのは、板山村から五キロほどへだった衣浦湾に面する町・神崎(かみさき)だった。たった五キロほどとはいえ、板山と神崎は没交渉の地であり、人の生活、習俗、地理など、似たところはなかった。
 神崎には三社と北浦、小さいながら二つの湾があり、漁港と魚市場があった。馬蹄形にめぐる海辺からゆるやかな傾斜をなして家並みをのぼり、墓地と小学校のある丘陵地を背にいただいているのが、神崎の地形だ。周囲四キロほどの町だが、隣町との境を国鉄武豊線が通って駅舎があり、病院二つ、寺院四寺、神社二社がある。役場と駐在所、消防分所もあった。新装開店したばかりの四階建て百貨店もあった。
 だからといって、一九二〇年代後半(昭和初頭)、神崎がモダーンな土地柄だったというわけではない。どこかくすんだたたずまいに、漁師町に特有の野卑と陽気さをちりばめた町だった。江戸時代からの造り酒屋が三軒、大きな蔵と屋敷を構え、町を支配していた。なかでも敷島酒造会社は町の土地を二分の一近くも所有する素封家(そほうか)だった。
 すゑの夫となった火田英宗は、敷島酒造専属のしるしかき職人(酒樽の菰かぶりの菰に銘柄文字や絵柄を描く職人)だった。同じしるしかき職人であった英宗の父が三年前、泥酔して死んだので、二十三歳の彼が火田の当主であった。博宗、宗三郎、宗四郎と弟三人がいた。住居は敷島酒造の借地にあり、母とく(すゑの姑)が、同じ地主の田畑を借りて野良仕事をしていた。
 すゑは姑と義弟三人のいる借地の家へ嫁いだのだったが、そこには三か月と住まずに隣村の平地(ひらち)へ家を借りて移った。祭礼の日には馬駆けがある神社に近い、牛飼いの家に隣合わせた平屋だった。その家から夫・英宗は酒造もとの仕事場へ通い、すゑは姑とくの野良仕事を手伝うことが多かった。
 夫婦が平地へ移り住んだのは、夫と姑の仲が険難だったからである。それは死んだ舅と姑との不仲をひきつぐかたちでつづいた角逐だった。夫の父・宗太郎は職人仕事は定評があったのに、酒に溺れる日日が多く、それも母とくの気丈と強欲が原因だった。夫は亡父に同情的だったので、舅の死後、確執は姑とすゑの夫にひきつがれたのだ。
 夫と姑が不仲なまま野良に出ることは、すゑにとって心重く、事実、体のこなしひとつにも、姑から下婢まがいの扱いを受けた。それでも彼女は、婚家へ来てなお土を相手に暮らせることを感謝した。
 すゑが最初の子を生んだのは、結婚一年後。女児だったが、赤子の左足には指が四本しかなくて、生後わずか五日で、蝋燭の火が消えるように事切れて死んだ。
 すゑはその後、実質上の長姉・和代、長男・宗徳、次男・悟を、平地の家で生んだ。子どもはみな、元気に育った。
 すゑ一家が別の借家を借りて、ふたたび神崎へもどったのは、一九三七年(昭和十二)「盧
溝橋事件」が起こって、日本が中国への侵略戦争に突入する直前。その年の九月、三男・次郎は生まれた。
 新しい借家は、海辺の三社湾から駅舎へ通じてのぼっている、夏も冬も白っぽい坂道の半ばほどにあって、二階家の門さきに一本の枇杷の木が立っていた。駅舎から海辺の製油工場や造り酒屋へ荷を運ぶ牛車や馬車が行き来して、家の前にはいつも埃虫が舞っていた。その坂道を百メートルも下がると、姑たちの家があった。
 すゑ一家が、最初に嫁いだその家へもどったのは一九四一年(昭和十六)、太平洋戦争が勃発して数か月後だった。すゑは枇杷の家で三男のあと次女・美那子を生み、子どもは五人になっていた。
 夫と姑の不仲が解消したわけではない。姑の家から息子三人(夫の弟たち)が去った。次男・博宗と三男・宗三郎が兵役にとられ、四男・宗四郎はすゑたちが平地の家に暮らしているころ病死していた。姑とくは、新家を立てて三男・宗三郎の妻ぬいとその子(とくの孫)を連れて移り、本家(ほんや)を明け渡したのだった。夫を火田の長男の位置に復帰させたのだ。その決断には鬱積する思いがあったらしく、姑は家を明け渡すとき鍋釜ひとつ残さなかった。
 本家には、風通しよく埃にまみれやすい田舎ふうながら二階建てのかなり大きな住居のほか、しるしかきの道具が揃う仕事部屋、菰かぶりの材料を納める倉庫「こも部屋」が棟つづきにあった。炊事場の土間に釣瓶井戸があり、便所は農具置き場をかねた小屋作りで野外にあった。植木や菜園で雑然とした庭もある。
 夫は舅を継いで独立のしるしかきとなった。ところが、そのときすでに本業は地を払い、夫は山林の伐採人夫の仕事に出ていた。戦時の物資統制のために酒類の流通は底をつき、菰かぶりの習俗など世相から消えつつあった。生活の不安と貧窮がせまるなかで、すゑは三女・香梅、四男・冬樹、四女・るりを生んだ。
 すゑはほぼ二十年の間に九人の子ども(長女は生後五日で死亡)を出産したことになる。すべての子を産婆の手を借りて自家で生んだ。夫と交わるたび彼女なりに肉体のうちふるえるのを覚えたけれど、性のよろこびを完うしえたかどうかは覚束ない。そのことに思いをいたすこともなかった。子どもを生み、育てること――決意めいたものではなく淡い感情ではあったが、それが自分にとって人生のつとめだと、すゑは思っていた。火田の家に自分の位置が保たれ、子ども八人が無事息災に育つなら、それが彼女にとって至福の人生だった。
 早死した最初の子に左足指四本しかなくて彼女を怯えさせたが、その後、生まれた八人には体の不足はなかった。二番目の出産後、まだ産褥にある彼女にむかって夫は、指が一本足りない、と悪質な冗談を言って悲しませた。それでも彼女は、子どもを産むたび自信を高めた。
 姑と別居して本家(ほんや)に一家が住んだのは、すゑにとって安楽とはいえないまでも幾分の幸運だった。田仕事どきには姑を手伝ったけれど、すゑは自身の畑地を別個に持つこともできた。子を多く産み、大きな家族をなしたことが、姑から独立するのに力となったにちがいない。
 すゑに辛気の種といえば、義弟(夫の三弟)の妻ぬいが姑と同居していることだった。姑がぬいを虐待する様子は、目にあまるものだったからだ。
 姑が、三男・宗三郎が応召すると同時に新家を建て妻ぬいと二歳の男子・宗太郎を引きとって一緒に暮らしたのは、宗太郎を後継にする思惑あってのことらしい。三男・宗三郎が中国大陸で戦死すると、姑とくの嫁ぬいにたいする虐待はいっそう度外れな様相を呈した。姑が嫁の髪をわしずかみにして引きずろうとし、ぬいのほうは全身を硬ばらせて蹲り、声も上げられず耐えている――すゑはそんな情景を目にすることがあり、そのたび彼女は恐怖に蒼褪め、烈しい罪障感に胸ひしがれた。
 ぬいさが、わしの身代わりになっている・・・・・・。
 嫁ぬいにたいする姑の虐待を目にした日、すゑはきまってその情景を夢に見た。現実とまるで違(たが)わない夢だったが、姑に髪を掴まれ、蹲っているのは、すゑ自身だった。夢のなかでは声も上げられず怯えているのに、すゑは悲鳴とも譫(うわ)言ともつかない異様な声を上げた。夫に揺り起こされ、たしなめられて、すゑははじめてそれに気づいた。
 夫が一度、姑の挙動をたしなめたことはあったが、嫁ぬいが哀訴したものと邪推した姑がいっそう虐待に拍車をかけたので、夫はそれ以上、介入することができなかった。日本の敗戦前、ぬいが四歳の息子を残し追われるように実家へ帰されたときも、夫もすゑも手を拱いて見送るほかなかった。
 ぬいさの不幸は、歳月を経てすゑの心に傷を刻みつづけた。
 日本が戦争に負けたとき(一九四五年八月十五日)、すゑは第八子(四男)を身ごもっていて六か月だった。
 長い戦争が終ったという気持は、すゑになかった。義弟の一人が戦死し、一人が兵役についていたとはいえ、彼女の身辺に戦争のにおいは濃厚でなかったからだ。知多半島の小さな漁港の町に暮らして、戦争はどこか遠い出来事に似ていたし、生活の貧しさが戦争のせいとも感じられなかった。敗戦の年にはいって、アメリカの飛行機が遠く伊勢湾方向の闇空を淡い赤黄色の星のように飛んで行き、ときに役場の半鐘が鳴ることはあっても、すゑの住む町が戦争に巻き込まれるなど想像つかなかった。やがて名古屋や岡崎に爆弾が投下され、涯(はて)のような北東の夜空が仄あかく染まるのを見てさえ、それは彼女にとって見知らぬ土地の噂を聞くのに似た域を出なかった。すゑはひたすらお腹(なか)の子を無事出産することだけを願った。
 戦争は七月二十四日、突如、漁港の町へやってきた。
 中島飛行機半田工場は、神崎から西へ三キロほどの海辺にあった。飛行場のある乙川(おつかわ)は、武豊線の鉄道で一つ駅のへだたり。米軍機B29が姿を見せたのは午後三時頃、知多半島の先端・師崎方面から北上してきて半田上空を通過し、遠ざかった。すゑが昼間に米軍機を目撃したのは、初めてのことだった。
 「名古屋がまた狙われとるのかなん」
 「一機だけというのが変だ」
 「偵察かもしれん」
 すゑと夫と長男(名古屋の工業学校へ通っている)が、よそごとのように話しているうち、ふたたび爆音が聞こえ、それはさきほどとは逆に北から来て南の海上へ去った。一機ではなく二機になっている。数分もすると、二機はまた海の方向から現われ、北へ去った。飛来しては飛び去る――数回、それがくりかえされた。役場の半鐘は鳴らなかった。
 すゑは不吉な予感を覚え、夫や長男にそれを口にしたが、米軍機はそれきり姿をみせず、彼女の胸騒ぎも消えた。
 突然、乙川の方向でサイレンが鳴り、役場の半鐘がけたたましく打ちならされたのは、家族が夕食をすませてしばらくのち、九時過ぎだった。家族がみな庭の防空壕にはいった。夫が警防団に呼び出されていったのは、それから間もなく。夫がいなくなってあとを追うように、爆撃機の音が聞こえ、鉄路のむこうで闇空を裂くように音がはじけ、地響きが防空壕まで伝わった。それは三秒と間を置かずたてつづけに襲い、通り過ぎた。すゑは幼い次女と三女を掻き抱いたまま、防空壕の奥で恐怖にふるえていた。天の神さま、地の神さま、子どもたちをお救いください。お腹(なか)の命をお守りください・・・・・・。
 すゑは心に祈りながら、長男と次男が壕を出ていくのも止められず、体を固くしていた。
 「線路のむこうがやられとる」
 「平地(ひらち)の住宅が燃えとるんな」
 「一トン爆弾だなん」
 壕にもどった長男と次男が口口に報告するのを、すゑは上(うわ)の空で聞いた。
 爆撃は数分の出来事だった。
 米軍の空爆が飛行機工場と、輸送路である鉄道と、中島飛行場の社宅、労働者たちの飯場(そこで朝鮮半島から連行されてきた千人余の人びとのうち四十八名が死んだ)を狙ったものであることを、すゑは一夜明けて家に戻った夫から知らされた。空爆はそれ一度きりで絶え、すゑは子どもたちの無事を、天の神、地の神に祈ったおかげと信じた。
 三週間後、日本は戦争に負けた。灼けつく炎天のその日、すゑは野良に出ていたのだが、隣家のラジオで天皇の放送を聞いた夫にそれを教えられた。彼女にとって、戦争は一夜の悪夢で過ぎたのだ。

 これが子どもの生みおさめだなん。あとは恙(つつが)なく育てるのが、わしの役目・・・・・・。
 敗戦の二年半後、一九四八年にはいったばかりの冬、すゑは九人目の子(実質上の四女)を生んだ。四十歳だった。それで人生の役割の半分ははたしたとみずから納得し、気持は後半生にむけられた。決意めいたものではないけれど、淡い願望のようなものだった。願望に彼女自身の欲望は介在することなく、それはもっぱら八人の娘息子の行く末にかかわった。
 戦前・戦中と戦後のあいだに時間の切れ目もあいまいなまま、すゑの朴訥とした暮らしはつづく。彼女にアメリカとの戦争があったと意識されたのは、進駐軍のアメリカ兵が一人、道にでも迷ったふうに、半島の小さな漁港の町にあらわれたときだった。隣町・乙川との境をはしる鉄路の踏切をこえてアメリカ兵がやってきた、と中学生の次男が注進にきたのは、夕暮れまえの西の空が橙色に染まっている時。興奮気味の次男はすゑの制止をきかず三男を従えて、また家を飛びだしていった。間もなく、家の前の坂道に人の群れつどう気配があったが、すゑは怯えて納戸の部屋から出なかった。
 二、三十分もして、次男と三男はズボンのポケットをチョコレートだのキャンデーだのでふくらませて帰ってきた。アメリカ兵は旧中島飛行機に視察にきた進駐軍の一人で、まだ少年の面影を残す兵士だった。アメリカ兵は鉄路の踏切から田のなかの道を来て、すゑの家の前の坂道を漁港のほうへ下り、海を見て乙川の方向へ帰ったという。次男たちはそのうしろをぞろぞろと従いていき、施しにあずかったらしい。
 「毎日、チョコレートを配りにきてくれたら、ええなん」
 「あしたはガムもくれるかなん」
 口口にはしゃぐ次男と三男を、すゑは珍しく叱った。目にしたことのない碧眼、紅毛の大男にたいする怯えが、気持をあらぶらせた。
 それから二日間、同じような時刻にアメリカ兵は漁港の町にあらわれ、子どもたちを喜ばせて去ったが、すゑは家の窓からその姿を盗み見る勇気もなかった。
 すゑが、蛇の話をきくときのようにアメリカ人を恐れたのに、理屈はなかった。すゑにとって世の中でもっとも怖いものは蛇と警察であったが、理由などなく唯唯、彼女は怯えた。
 板山村で育った少女の頃、すゑは家の納屋や道端で始終、見かける鼠の死骸はおろか生きたそれをも手づかみにして平気だった。野良に出ていて、畝(うね)の表面をもこもこと波打たせて土中を走る鼬(いたち)を追っかけ、それを捕まえたことさえあった。ところが、蛇だけはひたすら恐れた。田の水を泳ぐ蛇を見ては一目散に家へ逃げ帰り、数日は田仕事を手伝うことができなかった。
 屋敷蛇と呼ばれる青大将が母屋に出没することがよくあった。土間をゆっくり横切って縁の下へ消えることもあれば、天井裏を這ってズズー、ズズーと砂を噛むような音を立てることもあった。その音を耳にし、うっかりと屋敷蛇の姿を眼にしてしまったとき、すゑは体じゅうの血の気がひくのを覚え、食事も喉を通らなかった。
 そんな夜はきまって、蛇に触(さわ)っている夢を見た。触った手が蛇のざらつく肌から離れず、全身が凍りつくような感覚のなかで、うなされた。
 長じて娘になっても、症状は昂じるばかりだった。
 すゑが嫁いだ神崎の家には、納戸の奥に小さな神棚が設けられていた。神棚におぼくさん(炊いたばかりの供え飯)を供えるのが、嫁の役目だった。嫁いで間もない日、すゑがおぼくさんを手に納戸の襖を開けると、積まれた布団の上に大きな青大将がふとぶとととぐろを巻いて眠っていた。すゑは腰が抜けたようになり、一日寝込んだ。
 「屋敷蛇は家の守り神様だがなん。家に来てくれれば上縁起なのに、家(うち)の嫁は不信人者(もん)だわ」
 姑はあけすけにすゑを非難したけれど、彼女には体の反応はどうすることもできないのだった。
 すゑが警察を恐れるのには、もともと確たる理由があったわけではない。神崎へ嫁ぐまで巡査の姿も見たことのなかった彼女には、警察が怖いという観念は、村の風とも噂ともつかぬものによってもたらされ体に染みついた、母斑にすぎなかった。恐怖の観念に実態がともなったのは、家の身過ぎ世過ぎにかかわってのことだった。
 夫の英宗は、酒類統制のためにしるしかき職人の仕事をうばわれ、戦中・戦後の時期を山林伐採人(山師)の仕事で凌いでいたが、戦争が終って四、五年後から繊維のブローカー(闇屋)に転身した。二十歳(はたち)を過ぎた長女をあたまに八人の子を食わせるのに、山林伐採の仕事では叶わなかったからだ。
 夫が闇ブローカーになって、税務署員が家のラジオだの古箪笥だのに差押さえの紙をべたべたと貼って帰ったのは序の口で、間もなく警察の手入れがはいるようになった。町の駐在が案内役になって、県警半田署の刑事が踏み込んでくる。事前に手入れの情報がはいるたび、しるしかきの材料である縄・菰を入れるはずのこも部屋や母屋の納戸に隠してある闇の反物を、すゑの実家である板山の家へ運んだ。それで難をのがれていたけれど、とうとう現物を押さえられた。
 「警察には望水楼で芸者まで呼んで飲み食いさせていたのに、裏切られたがん」
 闇屋仲間が寄って町の料亭でした接待も鼻ぐすりが効かなかった、と夫は悔しがった。
 夫は警察へ連れていかれ、名古屋の拘置所へ拘留された。面会には長女の和代が着替えなど持って行った。すゑは生れ育った板山村と嫁いで暮らす漁港の町いがいの土を踏んだことがない。列車やバスに乗ったことさえない。拘置所を訪ねるなど気の遠くなるような話だった。彼女はただひたすら不安な、いや恐怖に近い日日、夫の帰りを待つしかなかった。
 夫は結局、警察へ引かれていってから十日ほどで釈放され、罰金刑に処された。
 そうしてすゑは、警察への恐怖の観念に実体を与えられたのだった。
 警察を恐れる日日は、すゑからいっこうに去らない。家の庭さきに五、六台の自転車が並ぶと、彼女は居ても立ってもいられない心地だった。そういう日が月に一度めぐってきた。夫のブローカー仲間がそれぞれの家を持ち回って花札賭博を開くのだ。
 「警察は来(こ)やひん。たとえ見つかっても友だち同士の懇親だから、金のやりとりはないと言い張ればええ。心配はいらん」
 夫自身、道楽はなく賭け事など忌み嫌う性格だが、闇仲間との付き合いは断りきれない。それで毎度、すゑに言いふくめるのだが、彼女の気持は安らがない。花札賭博は昼前から夕暮れどきまで二階の部屋に閉じこもって開かれる。夫は子どもたちへの教育的影響を惧れて、その間、誰も二階へ上がらないよう命じるのだが、すゑの心配はそういうことではない。警察への発覚を惧れて、ひたすら怯えるのだ。終日、家のうちに秘密めいて陰鬱な空気がたちこめるのも、彼女には耐えがたいことだ。
 男達が顔を揃えると、すゑは彼らが乗ってきた自転車を一台一台、庭さきから便所小屋の裏手へ移し、家の前の道路からは見えないよう隠す。そして野良着に着替え、家のなかにくすぶる不安からのがれるように家を出る。
 すゑが心置きなく自分だけの世界にひたれる畑地は、鉄路を渡った平地(ひらち)に〇・五反、中学校のある台地のふもと高根に一反と〇・五反の二枚、駅舎に通じる引込線を道ひとつへだてた高根下に〇・五反が二枚。相当な面積のそれを、時に息子をともなって手伝わせることはあっても、ほとんで彼女一人で耕作する。もんぺ着に日本手拭いで姉さん被り、地下足袋の足もとも確固として鍬をふるうすゑの姿は、息子たちでさえ見惚れるほどだ。彼女が穫(と)った麦・甘薯・落花生・空豆・野菜の類は、食パンや麺類に交換され、家族の口を糊し、時に現金にも換えられて、暮らしの足しになる。
 すゑは野良仕事の合間には、畑地に隣り合わせた鶏屋の主人や「まつまやさん」のおばはんと雑談し、西陽の茜(あかね)色が薄暮に溶けて野良に夕べの風が渡る頃合い、農具を積んだリヤカーを引いて家にもどってくる。道道、足どりは重いが、便所の裏の自転車が消え、花札賭博の一日が何事もなく終ったことを知って、溜息とともに安堵するのだった。
 夫が危ない橋を渡って、すゑの心から不安の去る日はないけれど、お陰で家族が飢えることもなく、質素ながら漁港の町の人びとの暮らし並みほどの日日は過ごせた。すゑに心配の種があるとして、それはやはり子どもたちにかかわった。成長するにつれて、子どもたちは父親(すゑの夫)に反撥し、不仲が昂じるのに歩調を合わせるふうに行状が横道へ外(そ)れはじめた。反撥や非行が父親の小心な道徳観念に因(よ)るらしいと察しはついたが、彼女にどうすることもできない。母親のすゑにたいしては、子どもたちは甘え、懐(なつ)いて、口応えひとつすることもなかったけれど、彼女には父子の不仲を解消させる手立てなどなかった。ただ、おろおろと見守るほかにない。
 子どもを養育する過程で、すゑに格別の信条はなかった。体の奥底から自然に湧きでてくる愛情のおもむくまま、子どもたちを慈しんだにすぎない。板山村で育った頃に、畦の地中から雑草の根をひたしてひたひたと湧き出してくる湧水になじんだように。
 八人の子どもたちに行きわたるほどの食物(菓子とか果物)が備わっていなければ、他の子には内緒にして、そこにいる子に食べさせた。そんな贔屓が満遍なく行きわたるよう心がけた。彼女に養育の信条があるとしたら、平等に差別することだった。質素な暮しむきのなかで、それが八人の子どもに接する知恵だった。
 すゑが子どもを慈しむ仕方はつねに即物的だった。言説に頼ることはしない。学校へ持たせる弁当は、炊きあげた釜の麦の下の部分、つまり白飯を詰めて、そのあとで釜の麦と米を混ぜ合わせる――そういう仕方が彼女の愛情の手法だった。それは彼女の人生の手法でもあった。
 子どもたちが年年歳歳、長じても、すゑの手法と知恵に変りはなかった。目に見えての変化といえば、彼女の小用を足す仕方くらいだったろうか。
 屋外の小屋掛け便所には、小便器と大便器が隣合わせてある。小屋の入口には大人の胸ほどの高さの簡便な開き戸が付いているが、そこをはいってすぐの小便用には扉はない。だから外から少し覗くようにすれば小用を足す誰彼の半身から上が見える。娘たちは扉のある大便器のほうで小用も足すのだが、すゑは夫や息子たちと同じように小便器のほうで小用を足していた。便器のほうへ背をむけてこちらむきに立ち、着物の裾をさッとはしょって軽く腰を屈め、用を足すのだ。それは板山村で育った頃の習慣のまま。あるいは野良で放尿するのと変哲ない。すゑにとって至極、自然な振る舞いだった。子どもたちにも見慣れた風景にすぎず、違和感はなかった。それなのに彼女みずから四十年間の習慣に別れを告げたのは、三男・次郎が中学へはいる頃(それは長女・和代が二十歳になる頃)だったろうか。ある日、突然、思い立って小用の様式を近代式にあらためたというふうだったが、子どもたちへの、すゑの気遣いだったろう。
 糞尿が溜まるたび汲み取ってはリヤカーで畑へ運ぶ仕事は、小用を足す仕方が変わってからもすゑの役目に変わりなかった。

 わしの学校ぎらいが祟(たた)りなのかなん・・・・・・。
 すゑは、折にふれ自分を責め、胸を痛めた。子どもたちが成長するにつれ横道に外(そ)れるのが、いったいどうしてなのか腑に落ちないのに、責めは母親である自分が負わなくてはならないと思うのだった。
 八人の子の学齢の期間、すゑはほとんど学校へ顔を出したことがない。小学校の入学式・卒業式と運動会では校門をくぐったことはあるが、父母会とか保護者会に行った経験は一度もない。父母の代役はいつも長女の和代だった。すゑが横着をして長女をいかせるのではない。学校へ行けば書類に文字のひとつも書かせられるのではないかと、一字無識の彼女にはそれが怖かった。入学式や卒業式にはその心配はない。式のあいだ講堂に群れたよその母親のなかにまぎれて、わが子の姿を探していればよい。彼女の学校ぎらいは、ひとえに文字の読み書きに疎(うと)いせいだった。
 学校にたいする一種の恐怖は、「先生」にたいしてもすゑに恐れの観念を植えつけた。それは警察にたいするほどではなかったけれど、教師が家庭訪問に来たりすれば、彼女はろくすっぽ口もきかず、頭を下げるほか術を知らなかった。
 長男・宗徳はアジア太平洋戦争最後の年、名古屋の工業学校へすすんだが、ビリヤードにうつつを抜かしたりして、うやむやなまま学校をやめてしまった。近所の線香工場やカホリン工場で働くが長つづきせず、しるしかきの仕事を習おうとしても父親との不仲をつのらせるばかりで挙句、ヒロポン中毒に身を持ちくずした。母親すゑに手を上げることはなかったけれど、数日、家を空けて戻ってくるなり暴れることもあった。夫は長男を勘当した。すゑは長男の自堕落を責めようとしなかったけれど、勘当に異を唱えることはできなかった。ただ事の成りゆきにうろたえるばかり。ひたすら夫に従うこと――それがすゑの思い定めた、人生のきまりだった。
 家を出た長男は、横浜のクリーニング店で住み込み店員をしたり、危ない仕事に手を染めていたりしていたらしい。ある日、突然、長男と同棲している女性の母親を名のる人が五、六歳の女の子を連れて家に訪ねてきた。すゑは心臓の縮むおもいをしながらも、女の無心には応じなかった。夫は帰宅して一部始終を聞くと、無心を断ったことには触れず、女の連れていた子に小遣い銭をいくばくか与えたのが相手に隙を見せることだ、とすゑを詰(なじ)った。
 長男が名古屋に戻って鉄骨工場で堅気に働いている、と風の便りに知ったのは、家を出て五年ほどのちだった。さらに数年のち、長男の勘当はようやく解かれた。鉄骨工場の社長が口をきいて、長男の結婚式が漁港の町の神社で挙げられた日だった。十年近くすゑの胸にわだかまっていた辛気が溶けて、彼女は心底、安堵した。ただし、その安堵も束の間だった。
 次男の悟が二度目の家出をしたのは、長男の勘当が解かれた日から数日後。
 八人の子どもたちが病気らしい病気に罹ることなく育ったのはすゑの自慢であったが、唯一、次男の悟だけが脱腸と肋膜炎を病み、彼女を心配させた。悟が脱腸になったのは、小学校六年生の時。漁港の町の病院にかかってもはかばかしい効果がなく、すゑは町から知多半島を二十キロほど先へ行った富貴(ふき)の「お稲荷さん」へ次男を連れていくことにした。富貴の「お稲荷さん」が子どもの病に霊験あらたかとは、誰彼からともなく噂に聞き知っていたことだが、生まれ育った板山村と嫁いだ先の神崎いがいの土地へ足をはこんだことのないすゑにとって、不安が一杯の決心だった。それでも、息子の病を治さなくてはの一心が、彼女をつきうごかした。
 富貴の「お稲荷さん」へは、鉄道で終点の武豊まで行き、そこからバスを一回乗り継いで行く。往復にほとんど一日がかりの路程だったが、すゑは次男をともなって週に一回ずつ通った。次男の脱腸が不思議と治まったのは、通いはじめて二か月目くらいだったか。すゑは、「お稲荷さん」のお陰と心から信じた。
 次男の悟が肋膜炎に罹っていると知ったのは中学二年生の時。すゑは息子をともなって富貴の「お稲荷さん」へ祈願しようとしたが、息子が嫌がったので彼女一人、通った。息子は熱中していた野球部をやめ、運動一切を禁止されて、毎日、三度三度の食事に生卵一個ずつを飲んだりしているうち、肋膜炎の症状が消えた。そのときもすゑは、「お稲荷さん」のお陰と信じて疑わなかった。
 半田の商業高校へ進学すると、次男の悟はボクシング部にはいって、尾道市で開催された全国高校総合体育大会の県代表として参加するほどに、病気とは無縁になった。ところが、一年間通ったきりで高校を退学してしまった。すゑに理由はのみこめなかったが、学校とうまが合わなかったのだろう、と彼女は納得した。
 高校を中退すると、次男は隣町の織布工場に住み込んだが二年と勤まらず、家にもどった。父親(すゑの夫)との角逐はいっそう募って行状は荒れ、次男は家を飛び出した。最初の家出だった。夫は次男の家出に冷淡をよそおったが、すゑは胸を痛め、次男を連れて富貴の「お稲荷さん」へ祈願した日のことを夢に見たりした。
 次男の悟は、中学時代の同級生をたよって東京へ行き地下鉄工事の現場で働いたり、グラビア雑誌の販売員をしたすえ、北海道へ渡ったらしい。便りひとつなかったけれど、すゑは人伝てに消息を耳にした。次男が家にもどったのは、五年ほどのちだった。札幌で『国際画報』という雑誌の販売員をしていたらしく、神崎へ帰るとその縁故で販売所みたいなことを始めた。仕入れた雑誌を家の一間に積んで、病院などへ売り込むのだが、思い通りの業績が上がるはずもなく、雑誌社から仕入れた代金の払いは滞らせたまま、集金の金は酒と遊興に化けてしまう。間もなく、家の一間から雑誌は消えた。
 そうして次男の悟は二度目の家出をしたのだった。今度の家出は最初のそれよりうんと長かった。遊び仲間の朝鮮人の友人の父親が親方をしている飯場を訪ねて、信州の松本へ行き、林道工事の現場で働く。さらに別の土建の組をたよって新潟へ行き、直江津のケーブル架設工事や十日町の隧道工事などの現場を転転としたらしい。前の家出のとき同様、次男からは何の便りもなかったけれど、すゑは風の噂に知った。土地の名前を聞いてもそこが漁港の町からどれほど離れた、どの方向にある土地なのか、彼女にはまるで見当もつかず、すべてがおぼろな噂だった。それでも噂をたよりに息子の無事を祈ることはできた。次男が転転としているあいだに一度、一通の封書が家に舞い込んだ。それは裁判所からのもので、次男が起こした傷害事件の罰金の催促状らしかったが、夫の心痛ぶりを傍から見つめるばかりで、すゑには事の内容はおぼろでしかなかった。次男が家へ顔を出したのは、二度目の出奔から十年以上経っていた。
 ある日、次男の悟は突然あらわれて、すゑを驚かせた。次男は「タクシー」を待たせてあると言ったきり、すゑに印鑑を持たせて、有無を言わせず道路に停まっていたタクシーに乗せた。タクシーは二、三十分も走ったろうか、すゑが事の次第もわからないままただ怯えているうち、車から降ろされた。連れていかれたさきは、暴力団事務所とも金融業の事務所ともつかぬ部屋だった。部屋にいた初老の無表情な男が卓子の上に書類を二枚ひろげ、すゑの傍に立った次男が、書類に判子をつけ、という。すゑは口もきけず、胸を絞めつけられる思いで身を固くする。次男の声がしだいに荒ぶり、わが子のそれとも思えず恐怖がすゑをおそう。彼女は必死に耐えながら、打ちふるえる両方の手を握り合わせた。何かに祈る恰好になった。死んでも判を押してはいけない、夫に無断でそんなことはできない・・・・・・。そう自分に言いきかせながら耐えるすゑの脳裏を一瞬、ある思いが掠めた。わしがここで判子をついたら、悟をほんとうに悪い人間にしてしまう、ゆくゆくいつか先で悟は目を覚まして、親を踏んづけた責めをしょっていかなくてはならなくなる、そんなことにさせたくない・・・・・・。
 次男は結局、書類に捺印させることを諦め、すゑを家へ送り帰した。
 次男の悟はその日、家にあらわれるまえ、すでに名古屋あたりへもどっていたらしい。そのことがあってのちも、彼はやくざな暮しを数年つづけた。四十歳を過ぎて洗剤会社に勤め、ようやく生活が落ち着いた。
 息子四人のうち三男と四男はいずれも大学を卒業すると早くに結婚して家庭をもったこともあり、それほど悩ませられることはなかった。それでも三男の次郎が高校生の頃、兄たちを見倣ったわけでもないだろうけれど、喧嘩沙汰を起して傷害事件となり、家庭裁判所送りとなって、すゑをはらはらさせたことがある。
 戦争末期の空襲、夫の拘留、姑の仕打ち、息子たちのもたらす心痛――それらはすゑにとって手の施しようのない災難だった。事態にうろたえながら、ひたすら耐えて時の去るのを待つのが、すゑが思い定めた人生のきまりだった。
 四人の娘たちがそれぞれに、息子たちとはまた別の悩みの種を蒔いたときも、すゑは同じ流儀で事態をしのいだ。
 長女の和代は戦争が終って間もなく半田の女学校を卒業して、徒成町の織布工場主の家へ家事奉公に出たのだったが、たまたま母親すゑが過労のため数日、寝込むことがあって神崎へ呼びもどされた。住み込み奉公に入ってわずか一週間ほどでいとまをして、恥をかいた、と和代はのちのちすゑを詰ったけれど、そのまま家にとどまることになった。それから十年近く、和代はミシン一台を買って洋裁仕事で小遣い銭を稼ぎながら、家事を手伝い、父親の商売の用を足したり、学校嫌いのすゑに代って弟妹たちの学校参観に出席したり、と母親の役割をなかばこなした。
 気位が高く性格に派手なところのある長女・和代が、いくつかあった堅実な縁談を袖にして、五歳年下の男と駆け落ちしたのは三十歳の時。相手は行きつけのバーのバーテンダーだった。夫は、二度と家へは足を踏み入れさせない、と怒ったけれど、すゑに長女を詰(なじ)る気は起こらなかった。自分が文字を知らず他人との社交に小心なため、長女に母親の役割を担わせたのが人並みの結婚を損ねた、と負い目を感じていたからだ。
 長女の和代は伊勢湾台風が吹き荒れる夜、名古屋のアパートで長男を出産。間もなく、夫に去られた。スナック・バーのホステスをしながら男児を育てようとしたが叶わず、洋裁店の縫い子をしたあと、折よく家裁の調停委員をしていたオフィス・ビルのオーナーと出会った。そのビルの管理人に住み込み、かたわら洋裁仕事も続けながら、息子を育てた。長女の和代と神崎との関係が修復され、すゑの心にわだかまりつづけていた自責の念が晴れたのは、長女の息子(孫)が高校生になった頃だった。
 娘たちの結婚が曲がりくねってしまうのは、どうしてかなん・・・・・・。その問いはすゑの理解をこえるものであるけれど、訳もなく母親としての自分が受けるべき罰(ばつ)のような気もする。
 次女の美那子は独身の頃から、相手が会社の上司であったり、アルバイトでモデルをつとめるさきの画家であったり、妻子のある男との関係をくりかえした。ようやく見合い結婚をしたかとおもうと半年ともたず出奔。名古屋のキャバレーでホステスをするうち睦まじくなった客と結婚。男女二人の子を育てて結婚生活に破綻はなかったけれど、夫の仕事が安定せず、父親や兄妹たちに借金をしたまま返済を怠りつづけ、不義理がたたっていつからともなく肉親の交わりを絶ってしまった。
 三女の香梅は同僚とのあいだに結納を交わす寸前までいったのに、土壇場でそれを断り、会社に出入りの営業マンと結婚した。結婚すると夫は自立して電器店など開くが、不身持な性格が禍いして失敗をかさね、性格の几帳面な三女は息子と娘をひきとって離婚した。
 すゑは、そんな娘たちの厄が去る時をただ待ちながら、彼女の人生をつないだ。

 すゑが夫の目をぬすむようにして、こっそりと文字を習いはじめたのは、六十歳になったときだった。
 彼女の歯が一本一本抜けるのに似て、独立する子どもたちが一人また一人と神崎を離れた。気づいてみると、末娘(四女)るり一人が家に残った。豊橋の大学へ通いはじめた末娘るりは、間もなく学生運動とかいうものに熱中しはじめ、家に帰る日が間遠くなる。大学で対立する党派に拉致され軟禁されて(すゑはそんな事情は知るよしもなかったのだが)、末娘が一か月ほども帰宅しなかったときは、すゑの心配は尋常ではなかった。その末娘るりが、下宿をしたい、と言いだしたのは三年生の春。すゑの頭の中は真っ白になった。四十歳を過ぎて生み、ただ一人残った娘が、結婚するでもないのに家を出るという。子どもへの慈しみを唯一、人生の甲斐と思い定めてきたすゑにとって、腰も立たなくなるほどの衝撃だった。
 夫の力も借りて懸命に思いとどまらせようとしたけれど、るりの意思は固く、すがった藁を離すようにすゑは諦めた。諦めてしまえば、すゑはまた事態に耐えながらひたすら時を待つふうに、娘の帰る日を待つのだった。それでも、娘から届く手紙くらいは読めなくては、そしてこちらからも手紙を出したい、そう思い定めて一念発起、文字の読み書きを習いはじめたのだ。
 片仮名文字の八割方を理解できるにすぎないすゑにとって、一からの出発にちかい難業だった。末娘が幼い頃に見ていた絵本を押入れの行李の中から探しだし、絵と対照しながら文字の形と読み方を判断する。それを、夫が使い古した去年の卓上カレンダーの裏に鉛筆を舐め舐め書き取っては、覚えていく。夫のいないとき暇をみつけては、居間の座卓にしがみつくように背をまるめて鉛筆を運ぶのだが、夫が帰宅した気配を察すると、慌てて、座卓を離れ、カレンダー用紙と鉛筆を箪笥の抽斗に隠した。文字を習う自分の姿を夫に見られるのが、無性に恥ずかしかった。
 すゑが、平仮名ばかりの、句読点のない手紙を末娘るりの下宿へ出したのは、文字を習いはじめて十か月ほどのちだった。漁港の町の話し言葉を文字になぞっただけの、ハガキ一枚に満たない簡単な内容のものだったが、すゑは娘の友人か下宿の人に見られるのが憚られて、封書で送った。封筒の宛名をメモから写すのに、手紙の文面と同じくらいの時間がかかった。そうして数日後、娘から返事が届いたとき、すゑにその全部が読みきれたのではないが、彼女の喜びは生涯の記憶に残るほどのものだった。
 末娘るりが卒業して家へもどるまで、すゑは折をみては手紙を出しつづけた。文章に句点を付すことを覚え、「天気」「花」「家」などの漢字を文面に交えられるようになり、娘からの手紙も(それが仮名文字を主に書かれていたからでもあるが)あらかた読み取れるようにもなって、すゑはながく胸につもってきたおりが晴れるのを覚えた。文字の読み書きとは別の、何かもっと大きな自信さえ生まれるのが、すゑには不思議なことに思えた。

 すゑが神崎の家で完全に夫と二人きりの暮しになったのは、末娘るりが大学を卒業して学生時代の友人と結婚、家を出てのち、彼女が六十五歳の時からである。
 神崎へ嫁いで四十六年間、はじめて味合わされる空虚だった。子育てと家事と野良仕事――単調な日日の繰り返しなのに、その単調さにこそ充実を覚えてきた彼女には、足場を外されたような心許なさだった。あらためて始まる単調な日日はこれまでのそれとは似て非なるものにおもえ、なんとも気持の坐りがよくなかった。夫と二人暮らす家が年年、目に見えて老朽していくように、彼女のまわりのものみながゆっくりと、ひたすら滅びていく気がした。時におそわれるそんな寂寥感が、すゑを夫への献身にむかわせる。最後のよりどころのように。
 夫との関係が幸わせであったのかどうか、ふりかえっても、すゑにはよくわからない。夜のいとなみをふくめ、夫の優しさを実感して幸福感にひたった憶えは一度もない。思い出せば、夫の邪険がまず浮かぶ。
 夫が酒を飲むようになったのは、結婚後、十五年ほども経ってからだろうか。夫の父親(すゑの舅)は大酒を飲む人で、最後は泥酔したすえ便甕にはまって死んだ。夫が二十歳(はたち)になる頃だった。それで夫は禁酒を戒律のように守っていたのに、三十歳代後半、酷い不眠症に罹った。不眠症を癒すために飲みはじめたのだったが、以来、終生、酒を欠かすことのない人になった。悪い酒ではない。祭礼などでブローカー仲間の家に招かれ、したたか飲んでの帰路、自転車のハンドル操作を誤って田んぼへ落ちたりしたことはあったけれど、そんな失敗は稀だった。本職のしるしかきにもどってからは、家での適度な晩酌を唯一の愉しみとした。
 それでもときに夫が酒のいきおいで邪険な態度を示すのが、すゑには不快だった。酒のはいった夫が、縊死の方法を微に入り細をうがって解説する。紐は喉ふかく、両耳のうしろにしっかりと掛け・・・・・・と語りだすと、すゑはそれが老夫婦二人きりの暮しの侘しさをまぎらすための陰気な冗談と察しつつ、烈しい嫌悪を覚えた。それでも彼女は感情をなにかの形にあらわすことはせず我慢した。
 おもえば、夫の面前で怒りをあらわに示したのは、あのとき一度きりだ、とすゑは思う。便所小屋の裏にあった古便器を割った、あの時。いまも真偽は確かでないけれど、夫とブローカー仲間の寡婦との関係を勘繰って、夫がその女性を誉めそやすのにいたたまれず、そこにある古便器を鍬で叩き割ったのだ。発作に似たそんな行為のあとで、打ちひしがれるのはすゑのほうだった。嫉妬の闇深さに彼女は怯えた。
 そんなあれこれを思い出すたび、すゑは夫と彼女のあいだに得体の知れない理不尽を感じるのだが、結局、幸わせか否かはどうでもよいこと、二人で経てきた歳月という事実こそがすべてであり、信じられるのだ、すゑはそう思うことにしている。
 すゑは外出の折、子どもたちを育てた、古い乳母車を押して歩くことにした。乳母車を押して歩けば、不思議と気持の坐りがよくなる。曲がってきた腰の羞恥をそうしてまぎらわすこともできた。
 乳母車を押して歩く道は、もう上り坂もなく平坦でもない。下(くだ)っていくばかりの坂道のように、すゑにはおもえる。道の行きどまりが定かに見えているのではないが、滅びのほうへ下っていくばかりの坂道。
 夫と二人きりの日日にあって、すゑの唯一の生き甲斐は、子や孫らの家族が神崎を訪ねてくることだった。
 正月には、七つの家族(総勢二十七名)が一同に会するのは無理として、三が日のあいだには全部の顔をみられる。暮三十日から大晦日にかけて入念に仕込んだおせちで子や孫たちを持てなすとき、すゑの表情と所作は十歳ほど若返る。三が日のあいだ、枯れ木が青青と蘇るように、すゑの全身にいっとき精気が漲るのだ。
 ただひとつ辛気の種は、孫達に存分にお年玉を与えられないこと。孫たちへのお年玉は、夫が彼なりに奮発するけれど、すゑはすゑで孫たちの喜ぶ顔が見たい。それが侭ならないのは、彼女に自由の効く蓄えが乏しいからである。家計の管理は自分でするのが結婚以来、夫の流儀。相当な畑地を耕して麦、甘薯(さつまいも)、落花生など収穫していた頃は、余剰を近隣の人に売って多少の蓄えを得られたが、七十歳を過ぎたいまは、微々たる老齢福祉年金が唯一、彼女の自由になる金だ。
 家計にたいする夫の流儀は吝嗇のせいではない、子ども八人を育てる頃は必要に迫られてのことであったし、いまでは幾らかでも多くのものを残して死んでいきたいという夫なりに子らへの見栄があってのことにちがいない――すゑはそう思うことにしている。どのみちあちらの家へ持っていくことはできんのだ・・・・・・。
 神崎の祭礼は潮干祭という。五台の山車(だし)には、ひだの匠(町の者は左甚五郎と固有名詞で呼ぶ)の手になるという彫りものがあしらわれていて、県の指定文化財になっている。五台の山車を荒くれ男たちが掛け声もろとも泥まみれになって、海浜へ引き下ろす。江戸時代からつづく勇壮な祭りは、知多半島一円から名古屋あたりまで評判を呼び、小さな漁港の町はその日、賑わった。伊勢湾台風(一九五九年)と高度経済成長以後、護岸工事や干拓によって祭りの勇壮さは影をひそめたけれど、祭礼は耐えることなくつづいている。
 祭礼の日が近づくと、すゑは正月に負けず劣らず心が躍った。その日、七つの家族が顔を揃えるからだ。前日から箱ずし、巻ずし、ちらし寿司など昔ながらの手練で仕込む。串あさりの焙ったのなど神崎の土地柄ならではの馳走を準備する。祭の当日、仏壇のある八畳間に座卓を三つも並べて、それら馳走を所狭しと並べる。孫たちが、おばあちゃん、うまい、うまい、と声を上げ、息子娘たちが、やっぱり、祭は神崎だなん。かあちゃんの祭りずしが一番だなん、と誉めそやせば、夫と二人暮しの侘しさは晴れる。
 息子娘たちの酒宴が延延とつづき、乱暴な酒癖の次男が一悶着おこすのが常であったが、それさえも、満開の花がひと吹きの風に散るように去って、虚(うつ)ろな家に取り残されてみれば、一種なつかしくさえあった。
 あれほどに甲斐を覚えていた祭礼の仕度さえが億劫になったのは、八十歳を過ぎた頃だ。日日、夫の世話をするのが精いっぱいの自分が、すゑには焦れったく、情けなかった。
 それでも一五〇坪ほどの庭地に栽培する野菜や花の世話をするとき、彼女の体は幾分か若返る。おもえばすゑの老いは、何枚もあった畑を一枚一枚、手放し、野良仕事を離れる歩幅に合わせて、すすんできた。庭畑の世話もできなくなったら、おしまいだなん・・・・・・。すゑはそう思う。

 三昧のみえる山裾から村へとひろがる野良一面に、初夏の陽が降りそそいでいる。青青とした葉身の尖(さき)がキラキラ燦めいて、若稲のいっせいにそよぐのが、風たちの囁きのよう。その田のはるか、北の山あいから本村のほうへ抜ける野良の道を、白装束の人たちが行く。菅笠を冠り、手甲、脚絆に草鞋をはき、さんや袋を掛けて手には金剛杖をつき、一列に美しい線をなして行く。鈴の音さえが風にのってきこえてくるようだ。
 白装束の人たちが陽の光に溶けるように消えるまで、十七歳の娘は田の草採りの手を休め、見惚(と)れていた。
 すゑは老いの不安を覚えるたび、六十年余前のあの情景を思い出す。まだまだ自分の遍路姿を諦めてはいないつもりだが、とうてい夢は叶えられそうもない、と心の隅でささやく声がする。あれは七十歳になるまえだったか、近所のおりきさと二人、知多半島の札所を三個所ほどバスで巡ったことがあった。憧れの遍路旅とは似ても似つかないまがいもんの札所めぐりだった。夢がそんなふうに半端なまま途切れてしまうように、わしの人生も半端に終るのだろうか・・・・・・。体調への不安が、すゑを弱気にする。八人の娘息子を息災に育てたのが唯一の誇りであったけれど、子らの誰とも一つ屋根の下に暮せない老いの時をむかえてみれば、それさえ自信がゆらぐ。
 すゑが急に弱気になったのは、体調への不安のせいだった。腹部が異様に脹らんできて、しきりに疼痛を覚えるのに、神崎の医院へ通っても原因がはっきりしない。あてがわれた薬を四種類ほど服(の)んでも、いっこうに効果はあらわれない。夫は半田の市民病院で調べてもらうよう勧めるが、すゑは返事を濁してばかりいる。医者嫌いのせいばかりではない。精密検査を受けて、癌が見つかったらどうしよう・・・・・・。癌への怖れは、すゑが若い頃からの宿痾みたいなものだった。彼女の父母も兄たちも癌で逝き、彼女は癌は遺伝すると信じているからだ。
 「あーぁ、やだ、やだ」
 夫と二人、火鉢をはさんで、不意に大きな声で言うのが、すゑの口癖になった。夫は詰(なじ)ることはしない。詰れば、すゑがいっそう強く「あーぁ、やだ、やだ」と返すばかりだ。
 夫とすゑの関係が、攻守ところを変えはじめたのは、いつ頃からだったろう。夫への服従を人生の至上の掟としていたすゑが、老いとともに、夫に不服従の姿勢を示し、時に抵抗し、反抗に転ずる。夫は守勢に甘んずることに決心したふうなのだ。
 すゑも夫も、関係の変化に気づいていた。いまさら夫に楯突いてどうにかなるもんでもないわなん。遅すぎたで・・・・・・。すゑはそう思う。

 すゑが半田の樅山医院に入院したのは、八十六歳の誕生日をむかえて数日後、腹部の苦痛にとうとう耐えられなくなってのことだった。検査の結果、胆管に結石のあることが判った。治療の効果は意外に早くあらわれて、数日のうちに腹部の膨張がひき、疝痛が治まり、黄疸も消えた。入院八日間で帰宅した。胆石の発見・治療の迅速・正確さによって、すゑは樅山医師を信頼した。
 胆石の症状が癒されたとはいえ、すゑの家事への復帰はとうてい叶わなかった。体力の衰えだけではなく、まだ体のどこかに病いが巣くっているのだろう、家に帰ってからも寝つくことが多く、そのうち床を離れられなくなった。九十歳の夫がなれぬ手つきで食事の支度をし、すゑの粥を作り、尿瓶の世話をした。それでも家事一般に手がまわるはずはなく、老いた家はいっそう暗鬱に、異臭につつまれた。
 もはや老父母二人きりの暮らしは至難となった。息子娘らが集まって、誰が神崎の家へはいるか話し合っても、老朽化したその家で両親の面倒を見ようという者はなく、急きょ高浜に建て売り二階家を買った。高浜は、神崎とは衣浦湾をへだてた、瓦造り町だった。離婚して娘と二人、安城の市営住宅に住んでいた三女・香梅が、新しい家で父母と一緒に暮らすことになった。神崎を去ることには、そこで九十年生きた夫、嫁いで七十年暮らしたすゑともに、淋しさを隠せなかったけれど、背に腹はかえられなかった。

 すゑがふたたび樅山医院に入院したのは、高浜の家へ移って翌年(よくどし)の春だった。高浜へ移ってからもすゑの体調はすぐれず、軽いめまい、微熱、腹部の違和感に悩まされ、一日おきほどに三女の車で樅山医院に通う日々だった。検査入院も数回、行った。そうして、ひたすら体の衰えと付き合ううち、樅山医師が再度の入院を促したのだった。
 すゑが、再度の入院をむずがることもなく、むしろみずから求めるふうに応諾したのは、彼女自身、体の異変を知っていたからだが、樅山医師への信頼に負うところも大きかった。老齢の樅山医師自身も数年まえ大きな病いを克服した人だったが、延命治療を疑い、安楽死を容認する思想の、キリスト者でもあった。すゑがそのことを知っていたかどうか、樅山医師の信条を肯定したかどうか、それはわからない。ただ、二度目の入院が最後の勤め、と彼女が腹に決めていたことは察せられる。
 「どうしてこんなことになってしまったのかなん」
 入院して、その言葉がすゑの口癖になってしまった。
 息子や娘たちが病院へ見舞いに訪れるたび、ごはんは食べたか、孫たちは元気か、と訊ね、目顔で病室の冷蔵庫を示しては、そこにパックの寿司かパンがあるはずだと言う。牛乳もあるでなん・・・・・・。そう言ったあとで、口癖が出るのだった。ベッドから離れることもならず、子らの世話を見られなくなったのを弁解するふうに。そして、悔しげに。
 「死んだら、板山の三昧へ葬ってほしい」
 それは夫と三女の香梅にしかもらさなかったけど、すゑがしばしば口にする言葉だった。三昧に葬ってほしいとは、彼女の生まれた村のしきたり通りに、土葬してほしいということだ。
 板山村では、人が死ぬと座棺に納め、それを四人の男が担いで北山の三昧まではこんで土葬した。その葬列が、灼熱の陽差しのなか、あるいは寒風の吹くなか、田の道をゆっくりゆっくり行くのだ。目印の木の根かたに、四方および深さ一・五メートルほどの穴が屈強な男たちによって掘られる。そこに埋められた座棺は、一年後に掘り出される。そのとき、死者の精分を吸った木の根蔓が座棺をとりまき、そのかたちのままにビッシリと張られている。掘り出された死者の亡骸は、あらためて本葬に付される。
 板山村のそんなしきたりは一九六〇年代初めまでつづいたけれど、いまは昔ばなしになっている。夫や三女がそれを言うと、
 「そうだったなん」
 すゑは素直に納得するが、数日すると、また同じことを夫と三女に頼んだ。
 夜、眠っているときも、昼間うつらうつらしているときも、すゑは現(うつつ)とも幻想ともつかない夢を見た。
 葬列の夢もよく見るが、無意識な執念のように見るのが、あの遍路たちが田の道を行く、まばゆい情景だった。すゑは夢のなかでさえ白装束の人たちを追いかけたくなるのだった。
 樅山医師が、夫と三女にすゑの病名を告げたのは、彼女が入院して一か月後だった。膵臓癌である。すゑにそれは知らされなかった。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ・・・・・・。あれ、顔の数がふえている。
 うっすらと磨硝子を透したような視界に映るそれを丹念に数えながら、すゑは気づく。時間はまだ少し残っている、そう思いながら、繰り返し数えてみる。さっきはよっつであった顔のかたちがふえている。さっきは数え間違えたのだろうか。そうではなく、いまは別の日に移り変っているのだろうか。ひとつ、ふたつ、みっつ、・・・・・・ななつ。あれ、また顔の数がふえている。きっと、数えるたび日が経っているのにちがいない。
 眠りとも現(うつつ)ともつかない、混濁した意識の往還を、往きつ戻りつしながら、すゑは思っている。
 往還の間合に苦痛が蘇る。背腹部をおそう、あの局部的な激痛とはちがう。痛みがうすらいでいるのかどうか、わからない。腹、背、胸、腕、首、脚、どこからあらわれるとも知れない痛みが、とらえどころなく、それなのに確実に、おそう。心が痛んでいるふうに、どこか深いところ、遠いところから、それはやってくる。こっちへ来い、こっちへ来い、とすゑを招くような痛みだ。
 手招きする痛みがぼんやりと形づくっている風景のなかに、すゑは白装束の列を見ている。
 病室の空気がかすかに揺らいだ。樅山医師が入ってきたにちがいない。混濁する意識を精一杯、払いのけて、すゑはそう感じる。
 先生、ありがとう。もうええでなん。
 この鼻のものも、胸に刺さったものも、もう外してください。すゑは骨と皮ばかりになった全身に力を込めて、言う。先生、もういいです、いま行かなくては、あのひとたちに追いつけなくなる・・・・・・。
 言いおえたのかどうか、潮の干くように意識が遠くなる。
 時が過ぎているのか、止まっているのか。それがわからないままに、ぼんやりと意識が蘇ってくる。磨硝子を透して、こちらの家とあちらの家をへだてる帳(とばり)のむこうで、誰彼が一言ずつすゑに話しかけている。まるで小学生が決められた順番通りに一人ずつ発言するふうに。
「おふくろ、がんばらなあかんが。もういっぺん、家へ帰るだで」
次男の悟の声だ。なにをまた、調子のいいことを・・・・・・。
「親不孝ばかりで・・・・・・」
殊勝に言いつのる長女和代の声が、そのあと聞きとれない。意識がふわりと空白にはいって、聴覚が薄らぐ。長男の宗徳がなにか話しかけているのに、聞きとることができない。長男のあとをひきとったのは、四男の冬樹か。その声が聞きとれないのは、ぼそりぼそりと話す四男の癖のせいではない。
 「ううう・・・・・・」
 不意に、嗚咽する声が耳にとどく。三女の香梅にちがいない。三女につられるふうに四女るりが嗚咽している。泣き喋りに何か話しているようだが、意識の空白に消える。
 帳(とばり)のむこうの顔かたちが、最前よりいっそうかすんで、蘇る。一人ひとりの顔を見分けられるわけもないのに、次女美那子の不在が妙に鮮明に、すゑの胸をよぎる。美那子はどうしとるかなん・・・・・・。それが唯一の心残りなふうに、すゑは胸のうちに呟く。
 「母(かあ)ちゃん、きっとおすゑさ物語を書くでなん」
 三男次郎の声だ。
 夫は・・・・・・。すゑが問いかけそうになったとき、七十年間、耳に馴(なじ)んだ声がとどく。
 「ながいあいだ、ご苦労だったなん」
 最期の声を聞きとどけたふに、すゑは帳のむこうにくるりと背を向けた。心急(せ)くふうに、田の道を行く行列を追う。
 みんな仲用ようやりやなん。
 首をめぐらす心持で、それだけ言うと、すゑは白装束の人びとの列へはいっていった。

 火田すゑ、一九九六年七月七日、七夕の日に歿。満八十七歳

「架橋」20 読む会という機会

   「読む会」という機会    
            李(イ) 潤(ユ) 一(ニル)

 昨春より「在日朝鮮人作家を読む会」に参加しているが、そこで先輩方の作品に対する読みの深さ、鋭さを目の当たりにする度、自分の読み方の甘さを思い知らされている。
 できるだけ深く読もうと心掛けてはいるのだが、未だ作品全体に対する自分の意見を持てるほどには読みこなせずにいる。しかし、これまでは知らずにいた読み方があるということを知ることができたのは幸運だと思う。
 また「読む会」で繰り広げられる対論に耳を傾ける度、自分が在日としていかに無知であるかを痛感している。時には実感として捉えきれないこともあるが、勉強になる事の方が圧倒的に多く、強い刺激を受けている。
 在日作家の作品を読み、作品に対する考えをまとめようとする過程が、また対論に参加することが、普段は忘れがちな在日としての自分を見つめ直す貴重な機会になっている。



「架橋」20 わたしの中のわたしたち

   わたしの中のわたしたち

                 北原(きたはら) 幸(さち)子(こ)


「ポリオの会」の人々

夫(つま)と二人キャベツ作りが楽しいと足萎えの君の笑みやわらかし

兄(あに)弟(おとうと)汝(なれ)皆ポリオとなりしより「世間」に泣きし両の肩小さし

ようやくに障害を真直ぐに見つめ得しととつとつと語る君は六十九歳

君が瞳(め)は暗き冬海の色なりき音立ててすれ違いゆく心悲しく

屈託のある体もて集い来て屈託のなき笑顔交わしつ夜が更けゆく

留(とど)められし身と心をば尋ねたきポリオの会は一面の野の花

聾唖を生きたFさんに

静寂の深きに在りし六十年(むととせ)に君聴き来しは人の心か

印刷の仕事に細く支えられし人間の誇り妻と娘と

「年賀状印刷」の紅白の幟はためきて師走の風に君の笑顔まぶしき

名は無くて市井に在りしつつましくいのち求めし彼岸花紅(あか)し

静寂の時空をともに歩み来し妻独りまわす黒き印刷機

「架橋」20 ”韓国演歌”などと、言わないでくれ

  “韓国演歌”などと、言わないでくれ

                  朴(パク) 燦(チャン) 鎬(ホ)

   (一)
昨年十二月五日、平壌(ピョンヤン)で韓国と北朝鮮の人気歌手が出演する「平和親善音楽会」が開かれた。韓国からはパティー・キム、李(イ)美(ミ)子(ジャ)らトップクラスの歌手が出演し、クリントン米大統領の異母弟でロック歌手のロジャー・クリントンが特別出演して話題となった。
 音楽関係の南北交流としては、一九九〇年に南北の国樂(ククアク)(民族音楽)関係者がソウルと平壌を往来し、「汎民族統一音楽会」を開いて以来九年ぶりのことである。今度の試みについては、政治の舞台での南北交流と共に、今後スムーズに進展することを願うのみである。
 ところで、この音楽会の開催を事前に報道した日本の某紙が、パティー・キムらを“演歌歌手”と記した。これは、私には見過ごせないことである。
 パティー・キムは、少女期に国楽の声楽ともいうべき唱(チャン)を学び、コンクールで優勝したこともある。また、『鳳仙花(ポンソンファ)』の歌唱で有名なソプラノ・金天(キムチョン)愛(エ)に声楽の基礎も学んでいる。二十歳の頃にポピュラー歌手に転向し、米軍キャンプ巡りの楽団で活躍した。一九六三年、米人興行師にスカウトされて渡米、実績を積んでTVの人気番組に出演するなど活躍し、ブロードウェイのミュージカルに出演するチャンスを掴みかけた。その矢先に母親が病に倒れ、悩んだ末に一時帰国したが、母国で大歓迎を受け、舞台やTVに出演しているうちに再渡米の機を逸した(一九六六年)。同年、やはり母親が倒れて日本から帰国していた、ジャズのテナーサックス奏者・吉屋潤(キルオクユン)と結婚、七年間の結婚生活中に『ソウル讃歌』『離(イ)別(ビョル)』を始め、主に吉屋潤作曲のポップス系の曲で多くのヒットを放ち、韓国を代表する歌手となった。
 以上の経歴から、パティー・キムを“演歌歌手”とするのは、全く当を得ていないことが判るだろう。

   (二)
 私は“韓国演歌”という表現を好まず、雑誌『ウリ生活』にそのことを寄稿したこともある。その理由を列挙してみよう。
 ①元来演歌は、明治十年代から(時世を批判し)自由民権思想を大衆に訴えるため、壮士が演舌の代わりにうたった歌である(『岩波国語辞典』第三版の「演歌・艶歌」①)。
 ②演歌は後に、①から転じて政治思想から離れ、バイオリンなどに合わせて演歌師が街頭でうたった歌をいうようになり、悲恋物がよくうたわれたので「艶歌」とも書くようになった。また演歌師は、街頭で人を集め新作の演歌をうたい、その歌詞の本を売った者をいう(同上「演歌・艶歌」②(イ)、「演歌師」①)。
 ③レコード、放送の出現に伴い、演歌師の活動の場が狭められていく。レコード、放送の初期には演歌師の作品も取り上げられたが、やがて専門の作詞・作曲家や歌手が登場し、“はやりうた”の新作発信者としての陰が薄くなるのである。(同上「演歌師」②に、「バイオリンなどを携えて盛り場を流し、客の求めにより流行歌を歌う職の者」とある。)
 ④レコードの普及により、“はやりうた”は“新民謡”“抒情小曲”“流行小唄”“流行歌”などと記されるようになるが、「流行ってもいない歌まで流行歌というのは不適切」との当局の指示により、“歌謡曲”という言葉が生み出される。
 ⑤戦後も歌謡曲という呼称が使われ、“演歌”という言葉は死語となる(『○○艶歌』といった類のレコードは発売)。一九六〇年頃までの歌謡曲のジャンル《抒情歌謡、ラジオ歌謡、青春もの、マドロスもの、日本調、股旅もの、映画主題歌など》に、“演歌調”があったかどうかは定かではないが、私の記憶には無い。(一九六九年刊行の『広辞苑・第二版』の「演歌」の項では、明治・大正時代の記述しかない。)
 ⑥一九六〇年代後半頃から、レコードの宣伝やマスコミなどに“演歌”という表現が目立つようになり(“演歌の星・藤圭子”など)、“演歌歌手”という言葉も登場して一般にも使われるようになっていく。(一九七九年刊行の前出『岩波国語辞典・第三版』の「演歌・艶歌」②(ロ)には、「昭和三十年代から、当世風の歌に対し、(イ)を思わせるような調子の歌謡曲」とある。)
 ⑦“演歌”は一九七〇年頃から、歌謡曲の大半のジャンルを包含していく(“演歌”という概念の肥大化)。同時に“艶歌”という言葉も復活し、“怨歌”“援歌”“円歌”など、言葉遊びに近い使われ方もされ、歌謡曲と演歌が並び称せられるという、不可解な現象も見られる。
 ⑧日帝時代、朝鮮でも演歌師と全く同様の職業が出現し(呼称は失念)、“演歌・艶歌”も翻訳してうたわれたが、朝鮮人の間では“唱(チャン)歌(ガ)”と呼ばれた(朝鮮の発音では、演歌は“연(ヨン)가(ガ)”で、艶歌は“염(ヨム)가(ガ)”)。日本のレコード資本の進出とともに、朝鮮人の創作曲も発売されるが、その呼称も“唱歌”に始まり、“抒情小曲”“流行小唄”“流行歌”“歌謡曲”など、日本におけると同様に記された。解放後、一九五〇年頃までに“大(テー)衆(ジュン)歌(カ)謡(ヨウ)”という呼称が登場し、一般化する。
 以上のように、現代日本で“演歌”という言葉が一般的に使われるようになったのは、近三十余年のことであり、韓国では、一部専門家や日本人を除いては使われなかった。(なお私は、以上の理由で、“流行歌”“歌謡曲”などといわれていた時代の日本の歌を、さかのぼって“演歌”と一括するのにも違和感を覚えるが、本題から外れるし、「余計なお世話だ」と反撥されかねないので触れない。)

   (三)
 解放前の朝鮮レコード界は、日本レコード会社の支店、営業所としてあった。純粋な朝鮮流行歌のレコードは、一九二八年末に映画劇『落花流水』が発売されるまでは無く、『枯れすすき(船頭小唄)』『籠の鳥』など、日本の歌が朝鮮語に翻訳されて発売され、流行している。
 何年か前、ある冊子に「中国東北部・延辺の朝鮮族の人に朝鮮の歌を所望したら、『船頭小唄』をうたいだしたので驚いた」といった内容の文章があったが、私の母親などは、『あゝそれなのに』が朝鮮の歌だといって譲らなかった。
 次に、日本の流行歌をそのまま導入することを批判した、解放前の文を紹介する。
 
  最近のレコード流行歌を見ると、大概が日本内地のものを翻訳し、曲もそのままつけて売りながら、曰く朝鮮流行歌だというのだから、これはその責任を持ったレコード各社文芸部の無能により生じる、ばかばかしくて不愉快なことです。目を閉じて阿吽式に、大衆を騙して利益だけ取ろうとするのだが、大衆は怜悧なのです。そういうことには騙されないでしょう。この点にレコード会社は猛省してほしい(一九三七年六月二十四日付東亜日報「投書函」)。

 当時、日本の歌が如何に多く出回っていたかが推察される。勿論、朝鮮人の手になる流行歌も作られたが、レコード会社自体が日本のレコード会社の支店、営業所だったこともあり、日本の歌に似た傾向の曲調が多かった。
 解放後、こういった歌を“倭(ウェ)色(セク)歌謡”といって排斥する動きが、何度もあった。その理由は、曲調が日本風であることと併せて、悲嘆調の歌が多く、朝鮮の民衆を無気力にさせ堕落させようとした、というものである。
 しかし、解放前の歌が庶民大衆に愛唱され、喜怒哀楽を共にしてきたのは事実だったし、解放直後の韓国社会は混沌として悲劇的で、悲嘆調の歌が好まれたのも已むを得なかっただろう。加えて、厳しく批判された歌謡作家側からの反発も生じ、結局、意のままにならなかった。
 日本風の曲調の歌は“トロット”と呼ばれて存続し、あるいは、いささか軽侮の意味をこめて“뽕(ポン)짝(チャク)”(北朝鮮では“クンチャク쿵(クン)짝(チャク)”)といわれた。日本でいうなら“ズンチャッ”といったところだ。
 日本風曲調からの脱皮を目指した“健全歌謡運動”の旗頭・黄(ファン)文(ムン)平(ピョン)氏は、「一九六五年に台湾に行った折、『韓国の歌は何故、日本の歌と同じ曲調ばかりなのか』と問われ、恥ずかしくて顔を上げられなかった。ポンチャクを全面否定する訳ではないが、そんな歌ばかり作っていては駄目ではないか」と私に語った(一九九八年八月。氏は『赤いマフラー』や李(イ)成(ソン)愛(エ)の『納沙布岬』の作曲者)。

   (四)
 現在の“演歌”という言葉が韓国に伝えられたのは、LP『熱唱/李成愛――演歌の源流を探る』が発売され、韓国でも話題となった一九七六年頃と思う。『カスマプゲ』が日本でヒットするとともに、日本の歌謡ファンの目が韓国歌謡にも向けられ、“韓国演歌”と呼ばれるようになった。同時に「演歌の源流は韓国にある」という、事実とは逆の説が流布されるようになった。この説は韓国人の自尊心をくすぐり、日本人にはもっともらしく信じられていた。
 一九七〇年代以降、韓国から多くの歌手が日本に進出しているが、日本では「韓国歌謡=演歌調」という図式が罷り通っているので、ポップス系の歌手にまで“演歌”をうたわせた。そのため、嫌気がさした歌手もいた程である。
 『黄色いシャツ』で有名な孫(ソン)夕(ソク)友(ウ)氏は、「日本のレコード関係者から韓国風の歌を作ってくれといわれ、張り切って民族風の歌を作ったら、こういうのではないという。彼らが望んだのは、“演歌”だった」と語った(一九八一年六月、東京の韓国YMCA。YMCAアジア青少年センター主催連続セミナー〈韓国歌謡あれこれ~韓国大衆歌謡六十年史~〉にて)。
 一般の韓国人は、当初“演歌”という言葉の意味が理解できなかったようだ。そのため、(韓国語で)発音が同じ漢字“恋(ヨン)歌(ガ)”を当てて報じた新聞もあった。
 その後、年を重ねて日本との交流が深まるにつれ、韓国でも“엔(エン)카(カ)”として知られるようになった。韓国人自ら“韓国の演歌”と口にすることもあるし、“倭色”を嫌悪する側でも、“ポンチャク”とともに“エンカ”という言葉を使っている。
 それでも私は、韓国歌謡を“韓国演歌”とするのを好まない。もともと韓国に“演歌”という言葉がなかったし、解放後の歌謡界は、日本とは別の道を歩んできたからだ。近三十余年間に日本で定着した呼称を、そのルールや類似性はともあれ、外国である韓国の歌に適用してほしくない。
 韓国のレコード歌謡が、日帝治下に源を発したことの痛みに思いを致し、大(テー)衆(ジュン)歌(カ)謡(ヨウ)(南北朝鮮で共用)あるいは韓国歌謡とすべきだ。


〈追記――“演歌”についての私見〉
 ♪あーなーたーだーけをー・・・・・・
 女性ファンの失神騒ぎで話題になったオックスの野口ヒデトが、グループ解散後“演歌歌手”として再デビューしたのは、何年前だったろうか。当時、テレビでその歌を聴いた私は、しばし唖然とした。「何だ、出だしがエルビス・プレスリーの『君はわが運命(ユー・アー・マイ・デスティニ)』そっくりじゃないか。演歌とは、一体何なのだ」。以来私は、演歌とは基本的に「世間や男女関係のしがらみを、浪曲や民謡などの唱法を加味して粘っこくうたう」歌だと考えるようになった。

「架橋」20 雨森芳州の悲しみ

     雨森芳洲の悲しみ

           賈(か) 島(とう) 憲(けん) 治(じ)

       1
享保十八年(一七三三)十四日、雨森芳洲の二男賛治は朝鮮方佐役を命ぜられた。賛治は松浦儀右衛門の養子となっていた。松浦儀右衛門が五年前の九月一日に病んで五十三歳で卒したので、賛治が松浦家を継いだのである。賛治は龍岡と号し二百石を対馬藩から給されている。芳洲は嫡男の顕之允が家業の儒者とならなかっただけに、息子の一人が自分の跡を継ぎ朝鮮方佐役となったのが嬉しかった。芳洲が陶山庄右衛門と共に朝鮮佐役に命じられたのは、今から三十五年前の元禄十一年(一六九一)であった。芳洲が三十一歳の時である。その当時はまだ朝鮮方という役所もなかった。芳洲は賛治が自分と同じ年齢で朝鮮佐役となったのも不思議な巡り合わせだと思った。
その日の昼下がりに、芳洲は賛治と一緒に朝鮮方佐役就任の報告に松浦儀右衛門の墓前に報告に出かけて行った。松浦が没した日、賛治は長崎へ唐語稽古に行っていたので、義父の松浦を葬ることが出来なかった。芳洲が替りに葬式を執行したのであった。菩提所は瑞泉院である。
瑞泉院の境内の後にある小山を上っていくと、松林が続いた中に、松浦儀右衛門の墓があった。松の木の枝に止まっていた烏の群が驚いたように、一斉にぎゃあ、ぎゃあ泣きながら飛び立った。芳洲は急な坂道に足がよろめき息切れがした。見上げると、近くの畑で百姓が枯草を燃やしているらしく白煙が上っているのが見えた。墓は松浦霞昭先生の墓と刻んである。霞昭が松浦儀右衛門の号であった。
賛治は霞昭の墓前の青竹の筒に黄色と白色の菊の花を挿し、阿迦桶の中の水を柄杓で何度もすくって墓の上にかけた。それから水を墓の前の茶碗に注いだ。ろうそくの火が風に吹かれてすぐに消えるので、何度も火をともし線香に火を付けた。やっと煙が立ちはじめた線香の束をもう一つの竹筒に立てた。芳洲が先に目をつむりながら合掌した。やがて目を開けるとおもむろに言った。
「これで、亡くなった霞昭殿もさぞかし一安心でござろう。おまえも生前は親孝行が出来なかったが、これからは養子として立派に親孝行できるという訳じゃ。孔子は三十にして立つと言われたが、人生三十歳は一生の道を左右する時じゃ。朝鮮佐役に対するおまえの姿勢でおまえの一生の在り方は決まる。大いに励めよ」
 しかし、霞昭の墓に参拝している賛治の眉の太い、あご骨の張った顔はさっきからなんだか暗く浮かぬ様子である。
 「賛治、何か心配事でもあるのか。朝鮮方佐役を仰せつかったことが気に染まぬか。実はおまえの拝命についてはあらかじめ家老より内々に私にも相談があり、了承はしておいたのじゃ」
 「いえ、義父の霞昭殿の跡継ぎになったからはいずれ朝鮮方佐役となることは覚悟しておりました。しかし、こんなに早く私にこの御役が回ってくるとは考えていませんでした」
 「二年前に朝鮮佐役の松本源左衛門殿と越常右衛門殿の二人が相次いで亡くなられ、添役一人のままでは藩は打ち捨てておかれなかったのじゃ」
 「亡き義父をはじめ、朝鮮方佐役を勤められた方々は次々早世なさるというよからぬ噂もあります」
 「なにをたわけたことを」
 「二年間も佐役不在で、添役の味木金蔵氏一人に朝鮮方を任せておいたのは、適任者がいないというよりも、佐役になりたい者がいなかったからでしょう」
 「朝鮮方佐役の務めは取り扱いが難しい。誰でもやれる務めではないのはおまえも承知していよう。朝鮮通交の歴史や仕来りを弁えていなくては御用を達することは出来ぬから、人選が難しかったのじゃろう」
 「難しい任務だからこそ、皆が朝鮮方佐役を臨むような待遇に改善すれば、適任の人材は集まります。今は御役を命ぜられれば御奉公の身ゆえ任に就きますが、長く務める意志がないので心が入らず、これでは佐役とは名ばかりになりませんか」
 「もしかしておまえはおのれが佐役となったのは当座のことと考えているのか。霞昭殿は生涯ずっと御役を務められたぞ」
 「いえ、佐役を続けるつもりです。続けるつもりですが、・・・・・・」
 賛治は眉間に皺を寄せて言いよどんだ。
 「兄上が父上の跡を継がなかった理由が今は私にはよく分かります。家業人の儒者となれば真文役だけでなく、いずれは朝鮮方佐役を命ぜられます。わが藩では儒者は侍より各段に格が下だと蔑む気風があるうえに、朝鮮方佐役は誰もが好まない役柄ですからね」
 「そうか。朝鮮方佐役は誰もが好まぬか」
 「朝鮮方佐役は表向きの役方と違い旅勤がないため、何年佐役を勤めても同じ待遇のまま。これでは仕事に身が入らないのは当然ではありませんか」
 「扶助がないので働く気にならぬか」
 「扶助があれば今よりももっと佐役になりたい者が出てくるはず。それに亡き霞昭殿も朝鮮方佐役の身分をもっと引き上げ、実際に大目付の継ぎにすれば家中の者が、佐役となる人を手本にして競って佐役になろうとすると言上なさったこともございました。肝心なことは朝鮮佐役の身分をもっと格上げすることです」
 「賛治、なるほど家中の者が誰も扶助を求めているのはそのとおりじゃ。わが藩のような貧乏藩では侍であっても借銀をせずに一日として暮らしていけぬだけに、少しでも重き扶助を求めたい気持ちは痛いほどよく分かる。しかしな、朝鮮方佐役という役柄は扶助があれば身が入るが、なければ身が入らぬというような利欲にとらわれた人物が務められるような御役ではない。学力は無論じゃが、何よりも人柄が正しく思慮ある人でなければ務まらぬぞ」
 芳洲は大きな眼をぎょろりとさせた。
 「朝鮮方佐役となった人は例えば、三、四年おきに京都、大坂、長崎の御代官に任命し、これまでの勤務年数を基準にして扶助を与えるべきです。父上が朝鮮方佐役となっておられた頃とは、時代が違うのです。父上のおっしゃるような人は一体どこにいましたか」
 「いや、いた。松浦霞昭殿も立派な人であったが、陶山庄右衛門殿がそうであった。彼のような人はもう二度と現れまい」
 芳洲は陶山の顔が急に目に浮かび、涙がにじんで来るのを感じた。陶山は昨年六月二十四日に没していた。彼は芳洲とともに朝鮮佐役となったのだが、それまでは対馬藩にはこの役はなかった。彼は就任して二年間しか朝鮮佐役を務めず、陶山に代わって松浦霞昭が朝鮮佐役となった。芳洲は今あらためて対馬藩にとってなくてはならぬ人物をなくしてしまったという深い悲しみを覚えた。

       2
 昨年正月元旦の昼過ぎである。
 陶山庄右衛門の養子の作右衛門が芳洲の家を訪ねてきた。芳洲は早い年始回りであろうかと玄関先へ出た。互いに年賀の挨拶を交わしてみると、作右衛門が正月早々来たのは、実は病気療養中の義父庄右衛門の執筆をやめるように、あなたから一言忠告してくれという頼み事であった。芳洲は「ちょうど陶山氏に年賀野御挨拶したいと存じていたところじゃ。外出の支度をするから待っていてくれ」と言った。羽織を着、脇差を挿して玄関に出ると、嫡男鵬海の妻いとが羅紗の襟巻を持って来て、「お風邪をめされては困ります」と言い芳洲の首に巻きつけた。門まで来ると、孫の連太郎が飛び出て来て、「爺ちゃん、連太郎も行くので一緒に連れてって」と芳洲の羽織にひしとしがみついた。後からあわてて駆けて来たいとが「連太郎、いけません。お爺様は大切な御用です」と叱ると、連太郎は「嫌だ。爺ちゃんに付いて行くんだ」と駄々をこねて芳洲の足下にぺたりと座り込んでしまった。
 「そうか、そうか。爺ちゃんと一緒に行きたいか」
 「うん」
 「よし、陶山のお爺ちゃんの所へ参るのじゃが、それでもよいか」
 「うん、陶山の爺ちゃんの家なら行く」
 連太郎は嬉しそうにすぐに立ち上がり、芳洲のさし出す手にすがりついた。
 「この子はお爺ちゃん子ですからね」
 いとは連太郎の汚れた着物の尻を軽くはたきながら言った。
 三人は陶山の家へ向った。芳洲は新年を迎え、こうして孫の連太郎と手をつないで町を歩いていると、見上げた冷たく澄んだ正月の空がいつもと違う青空のように感じられた。
 「あっ、あそこに凧が上がってるよ」
 連太郎が指さす空に凧が三つ揚がっていた。
 陶山作右衛門の妻まつの案内で、三人が陶山の居間に入ると、布団の上に横たわっていた陶山は少し驚いた様子であった。陶山はおもむろに上半身を起した。
 「ほほう、連太郎殿も参られたか」
 連太郎は庄右衛門の前にきちんと座り、頭をぺこんと下げて言った。
 「明けましておめでとうございます」
 「明けましておめでとうござります。連太郎殿は今年でいくつになられたかの」
 「六歳になります」
 「そうか、そうか。爺ちゃんはな、何歳じゃと思うか」
 「七十歳でしょう」
 「どうしてじゃ」
 「だってうちの爺ちゃんは今年六十五歳とおっしゃったからです」
 「なるほどな。爺ちゃんは今年で七十六歳になったのじゃぞ」
 「うあ、うちの爺ちゃんよりも十一歳も年上なのですか。そんなふうに見えませんよ」
 「うれしいことを言ってくれるな。わしはな、連太郎殿ぐらいの年頃は風邪を引いたり熱が出たりして、いつも病気ばかりしておってな、医者からはこの子は四十歳まで生きられまいと言われたのじゃ。七十六歳まで生きられたのは天の助けじゃ。もういつ死んでも悔いはないわ。ごほん、ごほん、ごほん」
 陶山は急にせきこんだ。側にいた作右衛門があわてて懐紙を陶山に渡した。陶山は紙を口に当て、弱々しく痰を吐いた。
 「爺ちゃん、大丈夫ですか」
 連太郎が心配そうに陶山の顔をのぞきこんだ。陶山は「心配ない」と言って手をふった。
 「よいか、連太郎殿、何をやるにもまず身体が丈夫でなければならぬ。剣術の稽古もしておるか」
 「はい、学問よりも剣術の稽古の方が連太郎は好きです」
 「そうか、そうか。わしも剣術の稽古をして体が丈夫になったのじゃ」
 話しているうちに、陶山は突然にげーげーと喉を鳴らし激しく咳をした。
 「そうじゃ、まつ殿、連太郎殿にお見舞いにいただいたお菓子があったな。あれをさし上げなさい」
 「そうでした。おいしいお菓子がありますから、連太郎殿、さあ台所へ行きましょう」
 まつは連太郎を手招きして台所へ連れて行った。
 芳洲は言った。
 「横になって休んで下さい。御病気のところへ孫を連れて参り申し訳ない」
 「いやいや、子供が身近にいるだけで辛気臭い家の中が急に明るくなるわ」
 陶山は今は横向きになって背中を丸めていると、小さくしなびて大人ではなく子供の体みたいに見える。皮膚は青白く髪も眉毛も頬髭も真っ白である。左右の枕元には本が二十冊ほど積まれ、書きかけの紙が何十枚も重ねてあった。床の間には若い時から常住坐臥手離さずにいる脇差し長さ一尺七寸が置いてある。
 「農書の執筆に励んでおられると作右衛門殿から伺いましたが、今は何を書かれておられるのですか」
 「対馬藩の財政、農政について論じた受益談というものじゃ。この受益談は昨年九月いっぱいかけて草案し、この作右衛門に書き写させたのじゃ。ところが、後で言い落としたところがいっぱいあることに気付いてな。再び少しずつ書き加えておるのじゃ。年を取ると物忘れが激しくなっていかんわ。それに昨年の暮れからどうも病がますますひどくなって、すぐにくたびれる。よく眠れぬし、どういう訳か死ぬ夢をしばしば見る。手が震えて筆も持てぬから作右衛門をわずらわせて一句ずつ切って筆記させようとしても、声がたちまちかれるので話すこともままならぬ。なさけないことじゃ。もう先もないわ」
 「なにをおっしゃるのか。貴殿に死なれては対馬藩にとって大損失。何よりもこの芳洲が一番困ります。これまで事あるごとにいつも相談に乗ってきてもらいましたが、これからも庄右衛門殿のお知恵を拝借せねば立ち行きませんからな」
 陶山は「はっははは」と小さく笑った。
 「東五郎殿、こんな屍同然の身になってもおかしいものじゃね。目の前に死神がちらちら見えているのに、たとえば、貪欲、名声、我慢、嫉妬といった風情が一向に消えはしないのじゃ。むしろますます自分という煩悩の炎が燃えさかり、それからどうしても離れられぬ。陶山庄右衛門はまだここにちゃんと生きているぞという生の証しを、世間の人にわずかでも示したいという欲望があるのじゃ。わしが郡奉行をしていた頃に初めて気づいた。お国の百姓衆はついぞにっこり笑ったことがない。誰も彼もみな無表情で重苦しい顔つきをしておる。わしは参覲で何度も道中諸国の土地を見て来たが、お国ほど荒れた貧しい土地はない。笑わぬ百姓は米の穫れぬ過酷な土地に生まれついた習性じゃからかの。こうした百姓衆のために少しでも実益となることを言い残しておきたいという思いがいよいよ強くなっている。これは鳥の将に死なんとするに鳴くこと哀しということかの」
 陶山は大きな眼をぎょろりと芳洲に向け、大きく肩で息をした。また急に咳込み、口に紙をあて痰を吐き出した。
 「声が枯れるまで話すのは医者から止められていますのに」
 作右衛門が顔をしかめ、陶山のはだけた胸元の襟を合わせた。
 「なに、大丈夫じゃ。今、わしが死ぬに当たり、最後の願いは対馬の百姓衆をわずかでも微笑ませることじゃ。一年に一度の収穫の喜びを百姓衆が得られたら、これ以上の喜びはない。ごほん、ごほん」
 陶山は苦しそうに目を閉じ咳をした。
 「庄右衛門殿、御無理をなさっては折角の受益談を完成できませぬ。しばらく暖かい春が来るのを待ち、専ら心力気力を保養なさるのが肝要じゃ。桜の咲く季節になれば、自ら筆を取ることも出来るようになりましょう」
 「いや、もう桜なぞ見たくもないわ。それまで生きられまいて。お国で食糧を増産するには木庭作(焼畑)を停止して土地を効率よく利用するしか道はない。このことを百姓衆にどうしても知ってもらわねば。そのためには『受益談』の後に、もうひとつ『足食談』を書かねばなりませんのや」
 陶山は口のまわりに白いつばをつけ、声がかすれてしゃべりにくそうだった。芳洲は焦る陶山をなだめるように言った。
 「そんな無理をなさらずに。もう少し体もよくなられてからになさってはいかがじゃ」
 「芳洲殿のおっしゃるとおり、書くことをやめないと寿命を縮めます」
 作右衛門がすっかり困惑して言った。
 「わしにはもう時間がないのじゃ。書くことで死ぬなら、それも天寿。書かずに生きていてもしょうがない」
 陶山はまた長いひっかかるような咳をしはじめた。
 芳洲はこれ以上、陶山と話をしていてはかえって体に障ると思ったので、暇を告げた。しかし、陶山はまだまだ話足りない素振りを見せ、芳洲の手を強い力でつかみ離そうとしなかった。「また近いうちに訪ねて参ります」と言うと、陶山はやっと安心したのか名残り惜しそうに手を離した。
 陶山は立ち上がった芳洲を見上げてふと思い出したように言った。
 「東五郎殿、『たはれ草』は出来ましたかの。何とぞわしの生きているうちに読ませてくだされよ」
 『たはれ草』とは、陶山から子供たちにも読めるような、例えば自分の愛読書の『徒然草』のごときひらがな文の随筆を是非とも書いてほしいと随分と前から頼まれていたものである。
 「なにぶんにもかな文であるため、仮名遣いがよく存ぜず殊の外手こずっております。出来上がり次第、誰よりもまず尊公にお読みいただきたい」
 「そうか。わしに一番に読ませてくださるか。生きていれば、貴殿の『たはれ草』を読める楽しみもござるな」
 陶山の唇に微笑が浮かんだ。
 結局、芳洲の著述した随筆『たはれ草』は陶山氏の生前に間に合わず、読んでもらうことは出来なかった。
 陶山は『受益談』を書き、続いて『足食談』を書いた。さらに『読増田開拓記』を書き、その文末にこう書いた。
 「吾二十年以前より退休し、今年はすでに七十六歳になれるゆえ、世間の事を一切聞かず。安閑にして死を待つばかりなるべきに、農作の事に疾を力め書を著わせり。農政の行わるるは国家永久の道に在るべしと、自ら深く思い入りける故なり」と。
 六月二十四日の朝、陶山は前から歩行困難であったけれども、作右衛門がちょっと目を離したすきに自ら厠屋へ行こうとして転倒した。芳洲が急を聞いて陶山の家へかけつけた時には陶山は夜具の上に横たわり、」すでに意識が朦朧となっていた。ただしきりに「木庭作停止、木庭作停止」とうわごとを言い続けた。夜に入り、ついに意識が戻らずそのまま没した。
 陶山は朝鮮佐役の後に郡奉行となった。大概は、二、三年郡奉行をやってもっと高い地位へ就くことを願う者が多い中で、郡奉行を十年も続けた者は陶山ぐらいであった。陶山は「農業全書」十巻余りの中、大切な箇所を誰でも理解できるようにと「農業全書約言」という四十枚ばかりの書を八部作った。これを八郷七十余村の下知役へ送り、いつも百姓衆に読み聞かせてほしいと求めた。しかし、誰も読み聞かせる人はいなかった。郡奉行は読みさえしなかった。芳洲は「農業全書約言」が現在も読まれないまま埃をかぶっていることをよく知っていた。哀しいことに陶山の命を書けて執筆した多くの農政の提言は一顧だにされずにいる。芳洲は陶山の無念を思うと、いつもわれ知らず泣けてくる。
 陶山は百姓衆の不平不満を本当によく親切に腹も立てず根気強く聞いた。一度も怒りどなることがなかった。陶山は農政の主体が百姓自身であることを誰よりも深く承知していた。百姓がお上の命令や権力によって、思うがままになるなどとは金輪際思いもしなかった。なぜなら、百姓は表面ではたとえ命令や権力に従順なふりをしても、腹の底ではまるで反抗していることを見抜いていたからだ。百姓衆はお上が自分たちのために何かよいことをしてくれるなどとはついぞこれっぽっちも信じなかった。かえって自分たちをいじめ苦しめることばかりするのがお上だと思っていた。だからこそ、陶山が「木庭作停止」を言えば、木庭作は年貢を払わなくてもすむのに、木庭作から畑作に転換したらまた年貢を払わねばならないと考え、これに頑強に抵抗するのも無理はないと思った。しかし、それでも陶山は木庭作を停止しなければいつまで経っても、食糧の自給自足は図れないと粘り強く訴えた。陶山は朝鮮貿易が一時は莫大な利益をあげても、所詮中継貿易であるがゆえに、やがて不振となり衰退していくことを誰よりも早くから予測していた。それだけに、一刻も早く対馬の自給自足の体制の確立を図ろうと努めた。
 陶山の農政の根本は十年かけて猪を対馬島から駆逐した大事業にとどまらなかった。陶山にとって猪退治はむしろ農政改革の第一段階にすぎなかった。木庭作停止、年貢を定免制から検見制に改めること、同時に公役銀免除を断行すること。この三本が実現できなくては、対馬の農政が確立できないと陶山は信じていた。このことを人々に知らせるために、陶山は退休後、二十年間休む暇もなく農書を書き続けた。死ぬ直前に、陶山は作右衛門に「農政が見事達成したときに、初めてわが墓へ来て報告せよ」と遺言した。陶山の悲願はやはり見果てぬ夢にすぎなかったのか。それを思うと、芳洲はほとんど絶望的になる。農政がいまだ確立できないのは、死去した陶山庄右衛門ひとりの不幸ではない。対馬国にとって最大の不幸なのである。国家永久の道のない対馬島に未来はない。「三年の蓄えのない国は国その国にあらず」と陶山はこの言葉を口癖のように言っていた。芳洲は陶山ほどの憂国の士はもはや出ないだろうと思うと、今さらながら取りかえしのつかない人をなくした寂しさに深い溜息をついた。

       3
 芳洲と陶山がまだ朝鮮佐役という役職に就任する前である。元禄六年(一六九三)、芳洲は唐語稽古のため長崎に滞在していた。その時、竹島に出漁していた因幡国(島根県)の漁夫が漁撈中の朝鮮人二人を拘束し連れ帰るという事件が起こった。因幡国の藩主松平伯耆守は朝鮮人二人を長崎奉行所まで送って来た。幕府は対馬藩に対し、朝鮮人二人を送還し、朝鮮人が今後再び竹島へ来ぬように朝鮮側に連絡せよと命じた。対馬藩は多田与左衛門を参判使に任命したので、多田は阿比留惣兵衛と共に朝鮮人二人を伴い朝鮮へ向かった。
 ところが、これが日本と朝鮮の深刻な外交問題に発展した。驚いたことに、朝鮮側は貴国人がわが国境を審判したと非難し、日本の領土と考えていた竹島が朝鮮国の領土鬱陵島であると主張したのである。竹島は日本の地を去ること百六十四里にあるに対して、朝鮮の地よりは樹木磯まで見える程近くに存在する。即ち一島が二つの名をもち、日本はこれを竹島と呼び、朝鮮は鬱陵島と呼んでいる事実が判明した。
 竹島の漁業権をめぐる交渉は難航し、翌年四月に多田与左衛門と阿比留惣兵衛は再度釜山へ渡り交渉したが、これも不調に終った。元禄八年夏に多田与左衛門は再び陶山庄右衛門と謀って朝鮮と交渉した。しかし、これもまとまらず元禄八年秋、対馬藩主宗義真が幕府にこれまでの事情を報告し幕府の判断を仰ぐことになった。
 この間、藩主宗義真公と年寄中は竹島と鬱陵島は別の島であるとして朝鮮の言い分を認めず、竹島は日本の領土であるからこの交渉は日本側が十分に勝算があると大いに息巻いた。しかし、成宗十一年(一四八一)に朝鮮の成宗の命によって編纂された朝鮮の地理書『東国輿地勝覧』を見ても、間違いなく竹島、即ち鬱陵島は朝鮮の領有権のある島であった。
 芳洲は長崎で唐語稽古中であったが、朝鮮との交渉で対馬藩の主張をまとめた礼曹への返簡を作成するため、急いで帰国を命ぜられた。こうして芳洲は直接、朝鮮の役人とは交渉しなかったが、交渉の経過は一部始終知ることとなった。
 陶山は参覲交代で江戸へ行く前に、藩主義真公から殿中へわざわざ呼び出された。
 「おまえはまろとともに参覲で江戸へ呼ばれ、阿部豊後守様より竹島問題について意見を言上することになっているが、竹島は朝鮮の領土と言うつもりか」
 「恐れながら、日本が竹島という島は朝鮮の領土であることは明らかでございます」
 「庄右衛門、おまえは日本人か朝鮮人か、一体どちらだ。日本人なら竹島が日本の領土だとどうして言わぬか。いやしくもだ、お前の言うように竹島が昔から朝鮮名で鬱陵島であったとしてもだ。嘘も方便。日本国のためなら嘘もつかねばならぬ。日本人ならこれを日本のものにするように働くのが務めではないか。それなのに、竹島を朝鮮国のものと認めようというのは、一体どういう料簡か。おまえは日本国に対する忠節を尽くそうとは思わぬのか」
 「いいえ、それは忠節ではなく欲に目が眩んだということです」
 「なんだと」
 「竹島は日本側が付けた島名で、実は朝鮮の鬱陵島であることは調査により明白です。家中の者もこのことを前々から承知していた者も多くいます。わが対馬と朝鮮とは先祖代々から深いつながりをもち、われわれ対馬人が今日再び倭寇とならず、平和裡に生きながらえているのは、すべて朝鮮国からの絶えることない経済的な援助を受けてきたおかげです。その温かい御恩を忘却し、目先のことに心を奪われて人様の物を自分の物と無理無体に弁才をもって争い、これを奪うようなふるまいをすれば、かえって恥を末代までさらすことになります。こんなことをしても決して忠孝とは申せません。それこそが不義であり不仁に他なりません」
 「よいか、強権をもって勝ちを取るこそ朝鮮を制御する良策。力によってこちらの言い分を通させるのだ。これまでそのようにして成功してきたし、これからも力によって朝鮮が文句を言ってきても押さえつければ、それでこちらの勝ちだ」
 「なるほど文禄慶長の役の余威がありました頃は、刀を抜けばそんな無理も通りました。しかし、今では逆にこちらが丸腰の朝鮮人に奪い取られさんざんに打擲される始末。日本人が刀を抜いても朝鮮人は日本人を馬鹿にして少しも動じません。そのことにお気づきになられず、こちら側の交渉の仕方が手ぬるい、軟弱なぞと考え、昔みたいに朝鮮人を脅し叱りつければ勝ちを得られるなどと思われたら、大きな間違いでございます」
 「何を申すか。こちらには江戸という大きな後ろ盾がある。こちらが強く出れば朝鮮は万事従わぬはずはない」
 「朝鮮は大事小事によらず、将来を深く思慮する国風でございます。その勢いだけで日本が仕掛けては必ず敗けとなります。幕府の力を笠に着た外交は、かえって朝鮮の反発を招くばかりで、国交の断絶という最悪の事態にもなりかねません」
 「なに、国交の断絶だと。朝鮮のそんな脅しに対馬藩が臆するとでも思っているのか」
 「もしそんなことになれば、江戸は朝鮮貿易によって得をしている訳ではございませんから、少しも差し支えはございません。しかし、困るのは対馬藩です。朝鮮と貿易が出来なくなれば対馬は一日として立ち行きませぬ。朝鮮米が入らなくなれば、たちまち飢餓地獄となりましょう」
 「ええい、なんと恐ろしいことを申すか。竹島が朝鮮の島と決まり、日本から返されるようになったら口惜しくてたまらぬわ」
 阿部豊後守は江戸城へ陶山庄右衛門を呼び寄せ、彼の意見を詳細に聞き次のように判定した。
 竹島は対馬からはるかに遠く朝鮮からは近い。将来必ず密貿易が行われる恐れがあるから、幕府は竹島への往漁を禁止する。争いは小さなことから始まり、禍いは下賤の者たちより発生する。日本と朝鮮の両国百年の友好がますます厚くなることを切望するので、一島をめぐるような些細なことで争いはしないことこそ両国の美事であると。陶山の提言をそのまま幕府は受け入れたのである。
 芳洲は竹島問題の交渉過程を見ていて、藩主義真公をはじめ御年寄がすでに朝鮮出兵後の日本の余威がないにもかかわらず、それをまだ残っていると信じ、身勝手な言いかけが今もなお通用すると思っていることに呆れる思いであった。力の外交はもはや終ったことに気づかず、今まで通り力の外交で勝利できると単純に思い込んでいる藩のお歴々に、これからの外交は義によらなければ勝つことができぬと納得させることは並大抵なことではなかった。日本と朝鮮の公儀は、今後の外交が力の外交では一歩も立ち行かないことを現に十分に悟っているのに、対馬藩は相変わらず昔の戦国時代のままであった。陶山はこうした対馬藩の利に目が眩み、他国の島を日本のものと声高に言い立て詐術と腕力で強奪しようとする態度を不仁不義と批判したが、多くの者は陶山の論理がどう考えても腑に落ちなかった。陶山の言い分に反対していた藩主義真公をはじめ重臣たちが竹島を朝鮮の領土と渋々認めたのは、江戸幕府がそう明言したからであり、江戸表の厳命には対馬藩は一切異議を唱えられなかったからであった。
 義真公はあれほど竹島は日本の領土と固執し言い張っていたのに、幕府の判定が出るやたちまち「竹島のごとき小島は朝鮮にくれてやるわ。まろはいつまでも些細なことに拘り、あれこれ言わぬ人間じゃでな」と言った。陶山は自分の意見が万一幕府に認められなければ、そのときには切腹するつもりで、脇差長さ一尺七寸の刀を肌身離さず持ち歩いていた。これを知っていたのは、芳洲と加島兵助の二人だけであった。加島兵助は義真公に藩政改革の言上書を提出したため、怒りを買い、伊奈村に幽閉されていた。藩の重臣たちは陶山が阿部豊後守に余計なことを言ったから、竹島が朝鮮の島となり、そのため対馬から竹島へ漁に行けなくなってしまったとわざと陶山に聞こえがしに言って非難した。彼らは勢威弁才で強引に朝鮮国の島を奪い取って日本に引きつけたら、日本と朝鮮の間に将来大きな禍根となることが少しも予想できなかったのである。
 竹島問題が起こってから足掛け六年、幕府による裁下が元禄十一年(一六九八)に出てようやく事は終着した。解決がこれほどまでに長引いたのは、力によって外交に勝てるという頑迷固陋な態度を対馬藩が最後まで変えようとしなかったためであった。この竹島問題を注目していた各藩は、対馬藩の拙劣なやり方を日本の恥さらしだと眉をひそめ嘲笑した。

       4
 この年元禄十一年に竹島問題で苦汁をなめた対馬藩は、朝鮮問題に迅速に対応できるようにせねばならぬと、家老の支配の元に朝鮮佐役という新しい役職をつくった。藩は陶山と芳洲の二人を任命した。朝鮮佐役の仕事の困難さは、朝鮮国との外交折衝の難しさよりも朝鮮出兵後の余威が今もあると信じ、古い外交を取り続けようとする対馬藩の頭の古い重臣たちとの戦いであった。朝鮮出兵をした十九代義智公から二十代義成公までの頃は、確かにまだ朝鮮出兵の余威があったので、朝鮮人は日本人を恐れる傾向があった。そうして、義成公の中ごろから二十一代義真公の初め頃までは日本人を出来るだけ避ける雲行きであった。けれども、義真公中頃から後は、朝鮮人はむしろ日本人に狎れるような雰囲気となっていた。これまで下手に出ていた朝鮮人の方が上手になり、日本人が逆に下手になり攻守逆転する時勢であった。こうした朝鮮人の態度に対馬の侍は苛立ち、ちょっとしたことですぐに腹を立て朝鮮人に向かって刀を抜いた。
 芳洲が城中で藩士たちに「論語」の講義を少し早く終り、たまたま藩士五人と雑談している時であった。芳洲が「文禄慶長の役は両国の人民を殺害しただけの無名の師だ」と言うと、今まで歓談していた藩士たちが突然一斉に立ち上がり、みな目をむき、「江戸から来た青二才の儒者がえらそうに何をほざくか」と口から炎を吐かんばかりに息巻いた。中には腰の刀に手をかける者もいた。争いが始まったと言う知らせを受け、家老杉村采女がやって来て、怒る家臣をなだめてようやく事はおさまった。家老杉村采女は別室に芳洲を呼び寄せた。
 「東五郎殿、きみは文禄慶長の役は無名の師と言ったそうだが、いかなる料簡でそんなことを言ったのかね。朝鮮征伐の時、太閤殿下の命令で大勢出陣し、家中の者で誰か彼か使者を出していない者は一人もいない。そうした遺族にとって朝鮮征伐は無名の師などと言われたら、どんな気持になると思うか。いいかね、日本軍が明国へ入るのに朝鮮の道を借りたいと言ったのに、これを朝鮮が断ったから戦さになったのだ。もともと日本は朝鮮と戦うつもりは毛頭なかったのだ。君の言い分は朝鮮で戦死した者は犬死にというのも同然ではないか。藩士の神経を逆撫でするようなことは厳に謹んでもらわねば」
 「拙者の言わんとする事は、二度と朝鮮や中国と戦さをしてはならぬから言ったのです。今後も言い続けます」
 芳洲の言葉に家老杉本采女は、不機嫌に顔をしかめた。
 「君の発言は自分の命を縮めるようなものだ。家中にはそれでなくとも江戸から来た人間を旅人として快く思わぬ連中もいる。気が荒く喧嘩早い者が何をするか分からんよ」
 「御忠告有難くうけたまわりました。しかしながら、文禄慶長の役は無名の師と言うのをやめることは出来ません。もし拙者が殺されるのを恐れて口をとざしたら平生書を読んできた甲斐もないし、儒者たる資格もありません。言うべきことは言います」
 家老杉村采女は呆れるような顔で芳洲を見て、「とにかく、しばらくは言動を慎まれるのが身のためですよ」と念を押した。
 翌日の芳洲の講釈に出席する侍はもはや一人もいなくなった。芳洲は家中の者が朝鮮出兵が無名の師ということがまったく理解できないことを知った。強国が弱国を攻め取る。対馬藩ではこれが本音であり、交隣の道は誠心をもってするというのは、あくまで建前にすぎないことがはっきりと分かった。間もなく芳洲の自宅に差し出し人不明の手紙が何通か来た。そこには「朝鮮野郎」に日本人は負けるものか。父祖の恨みを晴らすために、いつでも朝鮮征伐をするぞ」「夜の外出は注意せよ。一人で歩かぬがおまえの身のためだ」「江戸から来た口舌の徒は対馬藩に用はない。即刻江戸へ帰るべし」などと書かれていた。
 「無名の師」発言の九日目であった。
 芳洲は明日藩主義真公にする講義の準備に手間取り、いつもよりだいぶ下城が遅くなった。空を見上げると、月は出ていなかった。小さな星がいっぱい瞬いていた。芳洲は今晩は久しぶりに中町の和泉屋で好きな酒を一杯飲もうと思った。府中港に注ぐ府中本川の上にかかる馬場先橋を通り、小学校前の小学橋を渡り武家屋敷を過ぎた頃である。今は確かに二人の侍が自分の後を付けてくるのがはっきり分かった。太平寺のカネが四ツ(午後十時)を撞いた。そのまま八幡宮の前にある遊月橋まで来ると、橋の中ほどあたりで欄干にもたれている二人が待ち構えていた。橋の上を往来する人もいなかった。ついに芳洲は橋の上で前と後ろの両方から挟み打ちに合う形になった。芳洲は四人に取り囲まれ、橋の欄干を背にしたまま言った。
 「物盗りか、それとも拙者を雨森東五郎と知っての狼藉を働くのか」
 芳洲は手に持っていた提灯を高くかかげ、その明かりで彼らの顔を見ようとした。彼らはみな黒い覆面をしていた。しかし姿形から対馬藩の若侍に違いなかった。彼らは押し黙ったまま、すばやく鞘を払った。暗闇の中に刀身がきらっと光った。
 「用があるなら、はっきり申せ」
 芳洲は叫びながらも、心の中で落ち着け、自分は刀を抜いてはならぬ。こちらが刀を抜けば彼らはここぞとばかり切りかかってくるぞと言い聞かせた。そう思った瞬間、正面に立つ者がたちまち芳洲の持つ提灯を袈裟懸けに切り落とした。橋の上に落ちた提灯の半分が赤い炎を出して燃え上がった。一瞬、その炎の明かりで四人の中の一人の目元にどこか見覚えがあった。自分の講義をいつも末席で無口におとなしく受講している若侍のように見えた。その男が叫んだ。
 「儒者は侍と違って刀の使い方も知らぬ臆病者か」
 殺気に満ちた険しい彼の眼の色に、芳洲は背筋に冷汗が流れるのを覚えた。
 やむなく芳洲が腰の刀に手をかけようとした時だった。八幡宮の方から誰か大声で叫びながら駆けて来る者がいる。
 「やめろ、やめろ。天下の公道で殺傷沙汰はならぬ。刀をおさめろ。それがしは小川新平という者だ」
 この声に、四人の侍はすぐさま刀を収め橋の反対側へ飛ぶように駆け去った。
 「怪我はありませんでしたか」
 息せき切って走って来た男の吐く息はひどく酒臭かった。
 「大丈夫です」
 「それはよかった。おお、これは雨森殿でしたか。それがしは小川新平と申します」
 芳洲は小川新平という名を聞き、彼が自分より禄高が七十石上の二百七十石取りの馬廻りの侍である事に思い当った。四人があわてて逃げ出したのは、弓射の名人である彼に自分たちの正体を見破られるのを恐れたのだ。
 「おかげさまで助かりました」
 「相手に心当たりはありますか」
 「いや、分かりません」
 「おそらくあなたの朝鮮出兵は無名の師という発言に腹を立てたのでしょう。どうせ本気であなたを斬るつもりはありませんよ」
 「そうでしょうか」
 「暗殺するつもりなら、腕の覚えのある者一人ですむはずです」
 「それにしても呆れました」
 「家中の者は口よりもすぐに手が出るような喧嘩早い連中ばかりですからね。こんな連中に儒学を教えるのは厭になられましたか」
 「いや、こちらが教えようとしても拙者の講義を聞きに来る者は誰もいませんよ」
 「それでは、それがしが受講しますから教えてくださいよ」
 「承知しました」
 芳洲はにっこり笑った。
 「雨森殿、あなたのような人が対馬藩へ参られたのが本当に嬉しいのです。藩を変えていくにはあなたのような人間が必要なのです。六年前に加島兵助氏が義真公に言上書を書いて藩政改革を求めました。しかし、これが藩主の逆鱗にふれ流刑となってからは、誰もが処罰を恐れ何も言わなくなりました。これでは藩はますます腐敗していくばかりです。陶山氏やあなたのように言うべきことを勇気をもって言える人がいてくれてこそ、対馬藩に希望があります。あなたの朝鮮出兵は無名の師という意見をそれがしは支持します。戦さをすれば双方とも塗炭の苦しみをなめます。二度とああした戦さはしてはなりません」
 芳洲は力強く励ましてくれた小川新兵の言葉が嬉しかった。
「実はあなたのことを妹のしのに話したら、妹もいたく感動しましてね。それに妹も小さい時に江戸屋敷にいたので、あなたから江戸の話も聞きたいと頼むのです。是非とも一度拙宅に遊びに来てくれませんか。妹が腕によりをかけて馳走をつくってお迎えしたいと言っています」
「それはかたじけない。うまい料理が食べられるのならどこへでも参ります」
「それは良かった。どうです。それがしさっきまで一人で酒を飲んでいたのですが、お近づきになれたしるしにこれから一献差し上げたいのですが」
「望むところです。喜んでお相伴にあずかります」
この時、芳洲は小川新平と出会った縁で彼の妹しのと二年後、祝言をあげるようになるとはまったく思いもしなかった。

       5
 元文元年(一七三六)三月五日、松浦賛治は長崎役に命じられ、来年に長崎へ赴任することになった。賛治が長崎役となることはあらかじめ芳洲に相談もなかった。朝鮮方佐役である賛治が長崎役をなぜ兼帯することになったのか。長崎役は誰でも成り手がいる。朝鮮方佐役二人が亡くなったので、しばらく味木金蔵が朝鮮方添役のまま一人で仕事をしていたのを、賛治が佐役の欠員を埋めてからまだ二年半しか経っていない。
 芳洲は賛治が前から朝鮮方佐役は居役であるため報酬が少ないので、長崎役のような扶助がある役にもつけるべきだと藩に上申していたことは知っていた。しかし、儒者が長崎役となるのは前例がない。賛治が自ら長崎役を願い出たのを藩が彼の願いを意外にも受け入れたのだ。さすがなくなった松浦霞昭氏の七光だ、いや芳洲がわが子可愛さに言上したから藩が渋々これを認めたのだという陰口が、芳洲の耳にも入って来た。芳洲は賛治が長崎役になることを父親の自分に相談すればきっと反対されると恐れ、一言も自分に言わなかったことに不快な思いがした。しかし、賛治は今は自分の息子であって息子ではなく、松浦家の人間だと芳洲は思い直したけれども、胸の蟠りは容易にとけなかった。賛治が朝鮮方佐役と長崎役とを兼帯できるなどと甘い考えをいだいているとすれば、それは大きな誤謬である。長崎役となれば、西国十四藩の長崎役同士の情報交換、長崎奉行からの指示を国元へ伝達すること、何よりも長崎湾に入る貿易品の調達に精力を注がねばならない。長崎役をしながら朝鮮方佐役として朝鮮との外交折衝は出来るはずもない。とすれば朝鮮方添役の味木金蔵氏ひとりに相当な負担がかかるのは明らかである。賛治は禄高二百石に対して味木氏は七十石。はたして自分が朝鮮佐役と長崎役を兼帯することを味木金蔵氏に事前に連絡していたのか。もしかしたら一言も話していなかったのではないかと芳洲は思った。芳洲は味木金蔵氏がこれまで不平不満も言わずこつこつ献身的に働く人物であることをよく知っていたので、もしそうだとすればあまりに賛治の態度は傲慢に思えてきた。
 いつだったか、賛治が「朝鮮と貿易をしていても、人参も木綿も年々品質が悪くなるばかりで商品として使い物にならない。これからは中国との貿易に藩の存亡がかかっている。落ち目の朝鮮などと付き合っていても得るものは少ない」と言ったことがある。芳洲はこの言葉を聞き捨てに出来なかった。
 「朝鮮貿易がめっきり衰退してきたのは事実じゃ。しかし、だからと言って急に手のひらを返すように朝鮮との交隣を蔑ろにしてよい訳じゃない。これまで対馬がいかに朝鮮貿易で莫大な利益をあげてきたか、おまえは分かっていぬようじゃが、今日対馬があるのは朝鮮国のおかげじゃ。おまえの言うようにまるで馬でも乗り換えるように朝鮮から清国へと乗り替る訳にはまいらぬ」
 「父上、私の言いたいことは藩に少しでも富をもたらすためには、長崎口でこそ商売の好機をつかまえるべきだということです。父上は事あるごとに朝鮮方佐役の私に倭館へ行け、倭館へ行けとおっしゃいます。しかし、今、倭館へ出かけて行って何を学べと言われるのですか。裁判であった父上と一緒に一年近く倭館に滞在していましたが、あの頃よりも倭館は一段とさびれ果てているそうです。肝腎の訳官たちさえ日本との貿易に見通しをもてないために、今では転業をする者が続出していると聞きます。そんな不景気な倭館へ行くよりも、長崎へ行く方が私には仕事のやり甲斐があるというものです。今、朝鮮への重要な輸出品は銅と水牛角です。これがなくては米と人参を手に入れられません。水牛角六千本を毎年供給できるようにしなければならないのです。私ならそれが出来ます」
 「いいか。朝鮮方は商売方とは違う。また日本向きの仕事とも違う。倭館へ何度も行ったことがあるとか、倭館で一代官を務めた経験があるとかで、その人間を朝鮮巧者と言っているが、それは違う。そんなことで朝鮮のことが分かったつもりなら、それは井の中の蛙と同じじゃ。おまえはわしと一度倭館へ確かに行ったことはある。しかし、それで何が分かったというのじゃ」
 「父上が裁判として朝鮮との交渉でいかに骨折られたかをこの目でしっかり見ました。あの時、父上が朝鮮人から米取り裁判と侮辱を受けるのが本当に悔しくてたまりませんでした。朝鮮は御買米一万六千俵を毎年対馬に送る約定なのに一万六千俵を越えた年がただの一度もありません。その不足分の米が三十年間に合わせても一万俵余りにもなっています。だからこちらが未収の分を要求すると、その分を毎年の一万六千俵の内から減らしたり、あるいは一万六千俵を未収分だと名付けて持って来たりして、あれやこれやと理由を付けいつまで経っても未収分を収めません。朝鮮人はわれわれを侮っているから、こんな仕打ちをするのです」
 「朝鮮は文禄慶長の役の後の余威を恐れて対馬に対して御送使、御買米などを許した。しかし、今、朝鮮の国内の経済はしぼみ一段の厳しい冷え込みに見舞われている。それだけにあちらの胸の内を言えば御買米を出来ればすっかりやめてしまいたいのじゃ。しかし、これをすぐにやめられてはこちらが大いに困る。じゃから、朝鮮から対馬への経済援助を中断させないことこそが、朝鮮方佐役の最も大切な仕事なのじゃ。そのためには、これまでの朝鮮と対馬の関係を前々からの記録を読むことで頭にしっかりたたき込んでおかねばならぬ。つまり、朝鮮の事情をよく知り、今まで対馬に与えてくれた義理も弁えることが何よりもまして大切なのじゃ。おまえみたいに眼の前の現象のみで判断して、全体を見極めず朝鮮人に反感をいだくようでは、これから朝鮮との交渉も一日も務まらぬぞ」
 「朝鮮人は平気で嘘をつきます。将軍家へ、献上する人参にも何の粉か分からないものを仕込んでいるので、訳官を呼んで悪人参だと注意すると、訳官はこれを嘗めて『人参は人参だ』と真顔で言う始末。『このようなよくない人参は受け取れない』と父上が繰り返し朝廷方をはじめ東萊府へ申し入れをしたけれども、少しも改まる気配はありませんでした。訳官たちが姦曲をなしていることは明らかです。父上は訳官たちを甘く見ておられます」
 芳洲は賛治からそう言われて、ああ、わが子まで藩の連中と同じことを言うのかと悲しくなった。芳洲は訳官をむやみに大切に扱うから、訳官がよけいに増長し不正不義を働いてもこれを黙認していると繰り返し言われつづけてきた。芳洲が日本と朝鮮との関係を円満に推進するには、訳官がどんなにお国にとって大切な存在であるかを繰り返し説けば説くほど、芳洲は訳官と馴れ合っているという声ばかり続くなる。こうした非難は朝鮮人の親しい訳官玄徳潤も同様に同国人から受けていたのだ。
 芳洲は倭館へ裁判として赴任していた享保十四年(一七二九)の粉雪の降る冬の日の夜のことを忘れてはいなかった。すでに他所で酒を飲み酔っぱらっていた訓導玄徳潤が酒瓶をもって裁判屋へ訊ねてきた日のことだ。彼は涙ながらに言った。
 「雨森さん、聞いてください。私は朝鮮では日本を贔屓にする者だと見なされています。みんなが口を合わせてこう言う。対馬から持ってくる品物が年々悪くなっているのを棚に上げ、わが国に対してはよい木綿を寄こせ、よい米を寄こせ、よい人参を寄こせと理不尽に要求する対馬藩に、どうして御前は唯々諾々と従うのか。そんなことをすれば、かえって朝鮮の百姓が苦しむことになるだけだ。われわれの先祖を虫けらのごとく殺戮した倭奴の子孫に恩恵を施さねばならぬ道理はどこにあるのか。壬辰・丁酉倭乱の怨みを忘れたのか。いいか、倭学訳官の仕事は朝廷に対する反逆と同じだとみんながこの私を詰問した。そこで、私ははっきり反論した。いいや、君たちの考えは正しくない。朝廷は真実、朝鮮と日本が平和の永続を祈念しておられる。衷心より両国の誠心の交わりを求めておられる。対馬島は山が多くわずかな土地も荒れていて、米が穫れないために飢えているのは歴史的な事実であり、わが国から米を送ってやらねば生存がかなわぬ島だ。善隣は慈愛があってこそはじめて出来ると。なんと心の温かい英祖国王陛下か。わが英祖国王殿下ほどすばらしい国王はおられない」
 玄徳潤訓導は感極まりさめざめと泣き出した。芳洲も目頭がかっと熱くなり、思わず泣き伏す玄徳潤訓導の肩に手をやった。

       6
 賛治が将軍家へ献上する人参に仕込みがあってもこれを改められなかったのを憤ったのは、芳洲が裁判の時、倭館で起こった李判官の不正行為を指して言ったのだ。
 李判官は前々より不埒者の評判の男であった。先年公儀御用で所望し都から送られた二十斤の上人参を李判官が悪人参にすり替えたため、公儀の御用に役立たなかった。それ以後も送使別幅求請の人参を着服し、どうしても出さないので代官がかけ合い取り立てた。また家老古川図書が使いで倭館へ来た時も、宴席音物人参を横領しようとして都船主が李判官を叱責し、やっと無事に受け取ったこともあった。今度もまた李判官が不埒を働いたのである。
 芳洲は李判官を裁判屋へ呼んだ。目の前で李判官の持ってきた十三斤の別幅人参を机の上に陳列した。すでに代官たちによる品質検査で劣悪人参と判別された品である。
 芳洲は並べられた人参の粉を人指し指で少しずつ付けて、舌の先でなめてみた。
 「うっ、これはよくない」
 芳洲は思わず額の皺を深く刻みつぶやいた。これを聞いて、李判官は「ちえっ」と顔をしかめ舌打ちした。
 「この人参はよくないって。おかしいな。これは正真正銘人参ですよ。まあ、上人参とは言えないかもしれないが、それでも人参に変わりはありません。勿論、人参はいいに越したことはありませんがね。へ、へ、へ! でもね、こうした人参も手に入らなかったら困るのは対馬ではないですか」
 「いいや、この人参は人参ではなく、日本では偽薬と申します。もしも日本から渡す銀に鉛や銅を大分混ぜてこれは正真正銘の銀だと申したら、それでもあなたは喜んで受け取りますか。受け取らないでしょう。それと一緒です。こうした薬にもならぬ悪人参を売れば、江戸町奉行よりきついお咎めを受けねばなりません」
 「あなたたちは人参を江戸や大坂で買値の何倍も高い値段で売るから、人参を買った人から不平不満が出るのです。人参を買いたたこうとすれば、人参の仕込みが多くなるのは自然なことじゃありませんか。本当に仕込み人参を減らしたかったら、人参を正当な値段で買えばいい。それもせずに買い値と売り値の差額を大きくしてもうけようとするから揉め事が起きるのですよ」
 「李判官、買い値が安いから仕込みが多くなると言われるが、それはおかしい。対馬藩が人参を買いつける値段が高い低いに関係なく、いつでも仕込み物はある。むしろ人参が下値の時は仕込みは少なかったが、近頃は買い値が上がれば上がるほどますます仕込みが増えている。これ以上人参の買い値が上がれば、人参は日本ではまったく売れなくなってしまう。率直に申して、人参を買おうにもその銀が手に入らず幕府に借金して人参を買っている始末なのだ」
 「そもそも別幅人参はわが国王殿下より対馬藩への恩賜の物品です。この物品に対し品質の善悪を貴藩があれこれ言える筋合いの物ではない。有難く黙ってもらっておけばいいのです。それをあなたみたいに、これはよくない人参だと文句をつけて返却するとか、何年もその人参をもっていて、腐らせてだいなしにするなんて不届千万なことがどうして出来ますか」
 「別幅人参はこれまではお陰さまで最良品でした。ところが最近は偽人参同然の悪品になってきたから問題にするのです。わが藩にとって別幅人参は私貿易の人参と同様に、それこそ死活にかかわる大切な商品です。これは藩の財政の大半を占めるものであり、人参の良し悪しはただちに藩の収入に大きく影響します。まして江戸で売却する人参は幕府の厳しい監督を受けているだけに、人参の受け取りはとりわけ神経質にならざるを得ないのです」
 「雨森さん、あなたは依然に比べて人参が悪くなってきたとおっしゃるが、それは人参の需要が増えたために、乱獲と山地の開墾によって人参が穫れなくなったためです。朝鮮の百姓が人参を手に入れるためにどんなに苦労をしているか、知っていますか」
 「朝鮮の百姓にとって人参の負担がいかに大きいか、私は決して知らぬ訳ではない」
 「いいですか。人参はどこでも穫れるものじゃない。人参の産地は江原道、咸鋭道、平安道といった地方です。ここに住む百姓は人参を納めるために農事も放り出して山に入り採取して調達せねばなりません。なぜなら、人参を採取できないときは家族、親類ばかりか隣人まで獄につながれ、毎日鞭打たれるからです。この苦しみを逃れようと仕方なく人参を買って納めるために、百姓は牛を売り田畑を売り、妻子まで売らねばなりません。とうとう故郷を捨て流浪する百姓も出るありさまです。百姓の血と涙の結晶である人参に対して、日本人はどうしてけちをつけられるのですか。え、そうでしょう」
 「私は決してけちをつけている訳ではありません。朝鮮の百姓の皆さんのおかげで採取できた人参を服用して日本の多くの病人の命が助かっているのです。本当に有難いことです。しかし、人参の中に鉛や桔梗を入れたり、蜜を漬けて斤量を増やしたり、折れた人参を接着して一根としたり、小さい人参を合わせて大きな人参に見せたりしては、折角の朝鮮の百姓の涙ぐましい努力が水泡に帰すことになりませんか。こんなことをすればかえって朝鮮国の名を辱めるばかりですよ」
 「あのね、こうした人参であっても、これまでは代官方はそのまま何も言わずに受け取っておられたのです。それを、あなたが裁判役として参られてから、よい品に改めよとか、細工をさせないために人参を箱に入れよとか無理難題をおっしゃるものだから、われわれはとても迷惑をしているのです。あなたは物事の裏表があることを御存知ない。あなたは私を不埒な奴だとお思いでしょう。へ、へ、へ、しかしね、御国の代官方もそう思っているとお考えなら見当違いですよ。なるほどあなたの前ではこの私のことを悪く言うかもしれません。それは上役であるあなたの前だからです。御存知ですか。雨森さん、代官方は陰であなたを融通の聞かぬ朴念仁と言っていますよ」
 「代官方が私のことをどういおうが、一向に構わぬ。対馬藩の代官と役官が馴れ合いで仕事をしているとすれば、これを正すのが裁判の役目である。李判官、あなたがこれらの悪人参を好品に改めないならば、東萊へ訴えねばならぬ」
 「ふん、どうぞ御勝手に。あなたは私一人を科に合わせようなんて虫のいいことをお考えかもしれませんが、他の訳官たちも全員取調べを受けることになりますよ」
 「不届きの仕業をしていなければ、吟味を受けても困ることはないはずだ」
 「雨森さん、へ、へ、へ。あなたも人が悪いですね。あなたはよくご承知のはずでしょう。訳官の給金がいかに安いかを。そのために訳官が大なり小なり汚いことに手を染めざるを得ないことをね」
 「何を言いたいのか。わが藩にとって訳官が全員取り調べを受けても少しもかまわぬ」
 「ほほう、えらく強気ですね。実際に訳官が取り調べを受けたら、これまでの私曲が洗いざらい露顕しますよ。そんな具合になれば一番困るのは対馬藩でしょう」 
 「どうしてですか。不正を働く訳官が科に合えば、人参がよくなるからいいことではないですか」
 「たとえ人参がよくなったにせよ、対馬藩がこれまで訳官に頼んでしてもらったことが一部始終露顕すれば、これは両国の大問題に発展しますよ。へ、へ、へ」
 「はて、これはおかしなことを言うね。なにか対馬藩が訳官によくないことをしてもらっているとでも言うのかね」
 「いえね、対馬藩がたかが人参で強いて事を荒立てない方がお互いのためではありませんか。なぜって、お互いに脛に傷を持つ身だからです。日本の格言に『武士は相身互い』というのがあるでしょう」
 「それは脅迫ですか」
 「え、これが脅迫ですと。はっははは。まさか。これまでわれわれはさんざんあなたたち日本人の脅迫に泣かされてきました。そんなのに比べたらこれは脅迫であるもんですか。忠告、忠告ですよ。私を東萊へ告発する事はたやすいですが、後々のことまでよく考えてもらわねば必ず後悔することになります。日本に協力してきたために決棍ばかりか遠島、さらに処刑という仕打ちにあえば、今後いっさい訳官一人として日本のために働きませんよ。いい例が訓導玄徳潤ですよ。日本贔屓のあいつは二度まで決棍に合いました。決棍に合えば背中の皮膚はすべてはがれて一月は歩行出来ません。実際にびっこになった者もいます。断っておきますが、私が告発されたら次に玄徳潤が取調べを受ける事は間違いありません。あいつが日本の間諜であるという嫌疑は晴れていませんからね」
 「玄徳潤氏は身銭を切って誠心堂を改修したことで、朝廷からほめられた人ではないですか」
 「身銭ですって。は、は、は。とんだお笑い草だ。賄賂、賄賂、賄賂に決まっているじゃありませんか。徳潤はあれで悪事が出来ないような善人面をしていますが、私は誤魔化されません。あいつは朝鮮と対馬の両方の商人ともなじみが深いから、たくさんの金蔓をもっています。なんでもえらく金を貯め込んでいるとのことです。考えてもみてください。賄賂でなくて訳官の薄給でどうして誠心堂を修復できますか。それとも何ですか。対馬藩が陰で玄徳潤を操って、日本に都合のよい名の『誠心堂』を立てさせたのですか。あいつなら、喜んでお先棒をかつぐでしょうからね。あいつは所詮、対馬藩に買収された走狗にすぎませんよ」
 「なんてことを言うのだ。玄徳潤の名誉のためにも許せん。一体いかなる証拠をもって彼を対馬藩に買収された走狗と言うのか」
 「あれ、雨森さん、怒りましたね。それは玄徳潤への友情からですか。いいですよ。その証拠をあげましょう。対馬藩は毎年正月に『餅代』として訓導に銀千両を与え、訳官や上司吏に分配していますね。なんのために対馬藩は訳官たちに毎年金を配っているのですか。彼らの歓心を買うためでしょう。玄訓導が対馬のために犬馬の労を惜しまないのがこれによって明らかですよ」
 「そのことか。わが藩が毎年銀千両を訳官や上司吏に分配しているのは、今日昨日のことではなく、すでに二百年前より続いている慣習です。わが国のために働いてくれた人たちへのお礼として始まったものでしょう。私はこうした金を配る悪習はすみやかに廃止すべきだと言っているのです。正直申して、現在の対馬藩にとって毎年銀千両を用立てるのは並大抵ではありません。幕府から借金をしているうえにその返済もままなりません。それなのに、朝鮮に筋道の立たない金を給していると幕府に知れたら、藩はいかなる申し開きが出来ましょうか。重い処罰を受けるのは必定です。わが藩がそれを内密にして支給しているのは、これを止めれば訳官や上司吏の反発がこわいからです。止めたくても止められないのです。貴国がわが藩の代わりに銀千両をあなたたちに支給されれば、この問題はたちどころに解決できるのです」
 「はっきりと断っておきますが、私は対馬藩の金はいっさい受け取っていません。わが先祖を殺害された仇の金をどうして受け取れますか。それにたとえ仇の金でも一度恵んでもらえば、金をもらった側は人情の上でこれに報いようという心が起きるものですからね。対馬藩はそれが狙いでしょう。訳官は日本人と交際すれば金がいるからどうしてもこの金が拒否できないのです。しかし、朝鮮人が日本人に買収されることは断じて見逃すことは出来ない。私は訳官が対馬藩からこの金をもらうことを禁ずるように東萊へ申し立てます」
 「いいでしょう。訳官たちが対馬藩主が送る金はいらないとおっしゃるのなら、対馬へ赴き還付なさるがよろしい」
 「あなたは銀千両以外にも訓導や別差にも金を与えていますね」
 「それは賄賂というほどのものではないから、朝廷からお咎めを受けるはずもない。なかんずく彼ら二人はわが藩のためにふだんからいつもあれこれお世話になっているから、そのお礼にすぎません。わずかなものです」
 「はたしてそうですか。金をもらって国家の機密を流していると分かれば、これは決棍ぐらいではすみませんよ」
 「馬鹿な、私が玄訓導からどんな重要な国家機密を手に入れたというきか。いい加減なことを言わないでもらいたい」
 「あなたが『懲録』『攻事撮要』『輿地勝覧』それから『兵学指南』『通分館志』という本を求めておられますね。申維翰氏の著作『海游録』はすでにお読みでしょう。あなたがこの前の通信使に真文役として接待されたことが詳しく書かれています。この本はすでに大坂や江戸で出版されているかもしれませんね。こうした書籍は国法によって国外へ持ち出しは禁止されています。それなのに、あなたは玄訓導たちに頼んでこれらの書籍を買い求めておられますね。のみならず、朝鮮の地図も欲しがっておられますが、一体どういう料簡ですか」
 「書籍や地図については私が個人的に自分の金で買い集めようとしたもので、国法に違反すると言われれば諦めます。たとえ入手できてもこれを悪用しようとか、またこれを江戸や大坂の本屋に売りつけて出版して金もうけをしようとは毛頭考えてはおりませぬ。私としては隣国の者同士が書籍を通して理解し合うのはむしろよいことと存じます。同様な考えから、貴国もまたわが藩の通詞を通して日本の書物や地図を買い求めておられるのではないですか」
 「では、聞きますが、対馬藩が朝鮮人参の生根を何本か取り寄せようとしているのはどうなのですか。これまでも密かに人参の生根を将軍吉宗公に献上していることも分かっています。その手助けをしているのが訳官であることもね。あなたは人参の生根を国外へ持ち出すことは堅く禁じられていることを知らないとでもいうのですか。法を犯すようなことを訳官にそそのかしているのは対馬藩じゃないですか」
 「朝鮮人参を日本で自作自給しようとしているのは事実です。しかし、残念ながら成功しておりませんがね。あなたは生人参は国外へ持ち出すのは国法を犯すものだと言われる。しかし、人参が日本で栽培できるようになれば、これまで高値のあまり飲めなかった病人も飲めるようになり命が助かるのです。同様に、日本のサツマ芋も朝鮮へ渡り、広く栽培できれば多くの人が飢餓から救われるのです。お望みならば、わが藩はサツマ芋の種を喜んで提供し、サツマ芋の栽培法も伝授します。人参は自国の物産だからといって、これを日本に栽培させないという態度はまことに遺憾です」
 「それでは、あなたは自国の利益のためには、他国の法を犯してもよいというお考えですか。いやはや、まったく恐ろしい。あなたは一昨年、『交隣提醒』という書を藩主義誠公に対して書かれましたね」
 「李判官、あなたはどうしてそれを御存知なのですか」
 芳洲は自分がこれまでの対馬藩の朝鮮政策を批判し、将来の方針を提言した秘密文書『交隣提醒』がすでに朝鮮に渡っていることを知って、声が思わず震えた。
 「何を驚いているのですか。へ、へ、へ。あなたたちと同様に、私たちにもそちらの情報を提供してくれる日本人がいますからね。その中で「誠心の交わりとは互いに争わず欺かず」と書かれています。まことに名言です。大いに感銘を受けました。しかしね、口先だけの誠心の交わりなんてのは、誰だって言えますからね。あなたのように他国の法を守らない人に誠心を言う資格はありませんよ。玄訓導はあなたに丸め込まれて、日本を平和を愛する国だとすっかり信用しているようだが、私は騙されません。日本は虎狼の国だ。いざとなれば、雨森さん、あなたみたいな人が誰よりも真っ先に海を越えてこの国に攻め込んで来るのではありませんか。どんなに口先でうまいことを言っても狡賢い日本人を私は信用しませんからね」
 李判官は、からからと大きく笑った。
 芳洲は李判官を東萊府に告発しなければ今後とも別幅人参は改善されない。彼を告発すれば対馬藩も痛みを伴うが、ここで膿をすべて出す方が賢策だと主張した。けれども、藩家老たちは李判官を告発すれば、他の訳官まで取り調べを受けることになる。そうなったあかつきは対馬藩がこれまで彼らに頼んでやってもらったこと、出来れば知られたくない中央政府への裏工作の全貌が白日の下にさらされてしまうかもしれない。それでは、今後仕事がしにくくなる。訳官に藩のために引き続き働いてもらうには、李判官一人の不正人参のことでこちらから強いて事を仕掛けては決して得策ではない。ここは李判官の不正は目をつむった方がよいという意見も出た。
 しかし、対馬藩がやはりこのまま横着な李判官の行為に泣き寝入りしていては、こちらの足元を見られ、ますます李判官を増長させるばかりか、他の訳官の風儀もいよいよ悪くなり、畢竟両国の揉め事になると考えたので、李判官十三斤人参の件は東萊へ伝達することに決定した。対馬藩は厳罰を求めたが、結局李判官は倭館入館の差し止めの処分を受けたにすぎなかった。こうして、その後も求請別幅人参の品は改まることはなかった。
 この事件の一部始終を具に見て知っている賛治が李判官の傲慢不遜な態度を日本を侮るものだと考え、憤りを覚えた気持を芳洲は決して分からぬではなかった。
 賛治は芳洲とともに倭館から帰国してから、以前よりはしばしば朝鮮人を厳しく非難するようになった。
 「朝鮮人はわれわれをなめてかかっているのです。父上があれほど強く繰り返し朝廷へ人参の改善を申し込まれたのに、改まる様子は今もってありません。それどころか別幅人参はますます悪くなっています。あの時は李判官一人の仕業でしたが、今は他の訳官も見習い姦曲をなすありさまです。私が裁判であったら、不正人参はその場でただちに全部焼却してやります。こちらが強硬手段を取らなければ、彼らは付け上がるばかりです。談判では何年かかっても、この件は解決しないのは父上もお分かりでしょう。その上、父上が裁判として交渉されていた堂供送使の件についても、いまだ解決しておりません。先の朝鮮国王が堂供送使を対馬に派遣する事は許可され、その際に木綿一百同を持参して来ることを約束していたのに、これを何やかやと屁理屈をつけて言い逃れ実行を果たさない。一度約束しておいて現在になって出来ないというのは、誠信の交わりにおいてあってはならぬことです。父上が裁判として倭館へいかれてからも事態は少しも好転しておりません」
 「わしが裁判役として朝廷に申し入れたことが、ほとんど改善されていないことはいつも気にかかっていることじゃ。木綿や人参については悪い品質のものは受け取らないというこれまでの點退の方法しかない。だからといって、いつまで待っていてもよいものが倭館に入ってこず、こちらがついに根負けしてたとえよくない商品でもなくては商売が出来ないために止むを得ず、これを受け取らざるを得ないのが現状じゃ。けれども、時勢の移り変わりは水の流れと同じ。今は景気が非常に悪くなっているが、いつかはまた景気もよくなってくることもあろう。二十年も三十年も一様ではあるまい。大切な事は朝鮮のやり方は日本のやり方とは違うところをしっかり頭に入れておくことじゃ。日本のやり方がそのまま通用しない。昔、宗貞茂様、貞盛様が朝鮮国に対し武力を背景に厳然たる態度でこちらの言い分を通した時代とは違う。今の対馬藩にはそんな武力はない。お前には今の対馬藩のやり方はいかにも生ぬるく歯がゆいと見えようが、それでも粘り強くこちらの主張を力によって無理やり受け入れさせることは出来ぬのじゃ」
 賛治は不服そうな顔で唇をとがらせ歪めた。

       7
 元文二年(一七三七)二月十八日、芳洲はいよいよ来月に迫った賛治の長崎出発の前に賛治を自宅に呼び寄せた。芳洲は床の間の棚の奥から桐の箱に収めていた一枚の書を取り出し賛治に見せた。
 「おまえが朝鮮方佐役を兼帯しながら長崎役となって赴任するにあたり、ひとつ是非ともおまえにやってもらいたいことがある。これは長く箱に入れて保管していた李東郭という人の書じゃ。これにわしが識語を書いたので、これをおまえに裱装してもらいたい。なぜ裱装をよりによって長崎へ参る旅支度で忙しいおまえに頼むのか、おまえはいぶかしく思うじゃろう。わしがこれを頼むのは、おまえに誠信の交わりの意味を決して忘れてほしくないからじゃ。勿論、おまえは誠信の交わりの意味はすでに十分理解していると言うじゃろう。けれども、今一度この書を裱装することによって、誠信の意味を考えてもらいたいのじゃ。李東郭氏をおまえは覚えているか」
 「たしか正徳の通信使の一員として参られた方ですね」
 「さよう。おまえが会ったのはまだ十歳にもならぬ頃じゃったから、よくは記憶にないかもしれぬ。正徳元年から翌年にかけ日本へこられた通信使の製述官であった人じゃ。わしが『人と為りは忠厚詞章を善く』したと書いたように、後には安陵大守にまで出世された。帰国して翌年にわしが使いで倭館へ行った時、李東郭氏から書が届いた。『遥かに芳洲案下に寄す』というこの七言律詩じゃ。

 遥寄芳洲案下

 萬古傷心此別離 萬古心を傷ましむ此別離
 永嘉台外亦天涯 永嘉台外また天涯
 題詩輒使相思字 詩を題せばすなはち相思の字を使はし
 得酒先懐対酌時 酒を得ば先づ対酌の時を懐ふ
 欲寄遠書徒有衝 遠書を寄せんと欲すれども徒らに衝有り
 可堪良覿更無期 良覿に堪ふべきも更に期なし
 惟憐夜々東城月 惟だ憐む夜々東城の月
 来自扶桑海上枝 扶桑海上の枝より来たるを

 日本と朝鮮の間を海が隔てており、一度別れた後はお互いに会うことも消息を伝えるすべもない。たった一片の月が遠く離れたお互いの胸の内を照らしてくれるだけだという意味じゃろう。唐語の得意なおまえに詩の解釈は無用じゃったね」
 「父上は製述官の李東郭氏を尊敬しておられたのですね」
 「われわれは日本の海陸を旅し、寝食を共にした間に莫逆の友となった。彼はいつも酒を飲み出すと、宴席にいる者たちみんなに白髪の胡麻塩頭を振りながら、真顔でわしのことをこう言われたものじゃ。雨森君がもし日本ではなく、わが朝鮮に生まれていたならば、これほど冷遇されはしなかっただろう。日本が才能ある人物を貴く思わぬのは政治に欠陥があるからだ。科挙の制度のある朝鮮では必ず大夫となれるはずなのに、まことに惜しい。なぜ日本では雨森君を埋もれさせておくのか。これでは宝を道端に捨てるのと同じではないかと。いくら酒を飲んでも赤面しないわしが彼にそう言われるたびに、顔がたちまちかっと熱くなるのには本当に困ったものじゃ。享保の通信使が来られた時に、同じ製述官の申維翰氏に聞くと、李東郭氏は前年になくなったとのことであった。この詩を送ってもらってから指折り数えると、もう二十五年になる。歳月は人を待たずと言うが、いつそんなに時が経ったのか。今こうしてこの詩を見ると、昨日、今日のように懐かしい彼の顔がありありと浮かぶ。彼の生死を考えると肺腑をえぐられるような悲しみを覚える。李東郭氏はわしに劣らぬ酒豪であったが、朝まで酒を飲み語り合っても決して酔っぱらうことがなかったね。どうか、おまえも李東郭のような善隣友好の人物になってほしい。彼は決して朝鮮のことだけを考えるような人ではなく、わしのような者にも真心をもって深い友情を献げてくれた」
 「父上には多くの朝鮮の親友がおられる。彼らは別れた後にも父上のために詩を書いて送ってくる。羨ましいかぎりです。しかし、日本へ通信使としていく者を送る朝鮮人の激励の詩を読むと、これとはまた違う思いにとらわれます。彼らは誰も彼も日本を『蛮夷』と書き、『狡猾な蛮夷の情は交わると言うも信じ難い』とか、『文明は蛮夷を従えることが出来る』『蛮夷を徳化させよ』『忠信で蛮夷を従えよ』という詩句が多い。父上はこれをどうお考えですか。これが朝鮮人の本音ではないですか」
 「なるほど日本へ参ったことのない者は、今でもそういう見方をするのも過去に日本が朝鮮でしたことを考えれば無理はない。しかしな、日本へ参りわれわれと交際してみれば、決して日本人が野蛮人でないことを誰もが十分に知って帰ったはずじゃ。昔、朝鮮の申叔舟公が死ぬ際に、成宗国王に「言いたいことはないか」と訊ねられると、申叔舟公は「なにとぞ日本との親善をなくされることなかれ」と言われたが、これは朝鮮が日本との交隣を大切に思っているからじゃ。初めて通信使としてまいった朝鮮人は日本をもっぱら尚武の国と考えていたが、実際は文教が甚だ隆盛な国であることを知ってみんな驚いたほどじゃ。われわれが野蛮人でないことを示すことによって、はじめて彼らの考えを改めることができるのじゃ」
 「そうでしょうか。これまで朝鮮通信使が何度も日本に訪れていますが、朝鮮人の日本に対する見方が少しも変わったようには見えません。日本人は相変わらず軽蔑され欺かれつづけているように思います」
 どうしても納得できないという表情で見つめる賛治に芳洲は諭すように言った。
  「よいか、賛治、お互いに自分の国のために主張すべきことを主張するのはよい。しかし、胸の内には相互に猜疑心ではなく尊敬の念をもたねば言葉に誠実さがにじまないものじゃ。残念ながらおまえはまだ朝鮮に親しい友がいないようじゃが、長崎へ行ったら是非とも清国のよい友をつくることじゃ」
 「父上、ご安心下さい。私には以前に唐語稽古に行った時に知り合った清国の友人が何人かいますから。彼らは対馬藩のために働いてくれるはずですから」
 「そうか。それはよい。私が言うのは、わが藩にとって役立つ友達をつくれということではない。おまえがたとえ長崎役として清国人と付き合うにしても、利害が一致する友人ではなく信義をもって付き合える友人をつくれということなのじゃ」
 「まず利益よりも誠信が大切ということですか」
 芳洲は賛治のなげやりなもの言いにさびしく思った。
 三月九日、賛治は意気揚々と府中港から長崎へ出発して行った。

       8
 元文二年十二月六日、芳洲は訳官玄徳潤錦谷の訃音を倭館から飛船によってもたらされた。徳潤の長男の玄泰翼が手紙を書いてきたのだ。体も立派で顔つきも秀れ、思慮深い識見をもった玄徳潤が今はこの世にいないと思うと、急に体から力が抜けていく思いがした。享年六十二歳であった。自分よりも八歳も若かった。
 彼は十年間倭館に勤め、二度訓導に再任され倭館への支給米や送使米の賦課を減免して百姓に善政を施した。慶尚道の百姓は彼が訓導を辞するにあたり「待人以誠 接物以仁 功大関防 恵洽郷民」という文字を刻んだ碑を立てたほどだ。彼とは七年前に倭館で別れたのが最後だった。芳洲は玄徳潤の死の連絡を受けたその日、一日なすこともなく部屋に閉じこもり彼のことをぼんやり思った。
 倭館を去る前日の享保十四年十月一日の晩、芳洲は誠信堂へ出かけて行った。最後の夜は誠信堂で会って酒を飲みかわそうと玄徳潤と約束していたからである。
 玄徳潤は言った。
 「芳洲殿、これは別幅人参で不正を働いた李判官を弁護するつもりで言うのではありません。現在、倭館貿易が衰退の一途をたどっていますが、これは従来倭館で清国の物資を商っていた対馬の商人が長崎で買うようになったからです。二十年前には倭館を管理する東萊府は年間六百万両の倭銀を輸入しました。しかし、今では半分以下に落ち込んでいます。これからもまだまだ減っていくでしょう。また、これまで訳官は官銀が貸与されていたので、それを資本に商売も出来たのですが、朝廷はこれを認めなくなり清国の物資を仕入れてきて対馬の商人に販売できなくなったのです。だから、李判官のように上質の別幅人参を悪人参にすりかえるようなあさましいことも、平気でやる訳官も出てくるありさまです。
 私は誠信堂を改修しましたが、それで満足している訳ではありません。誠信堂が出来上がっても、これを利用する訳官がいなければなんにもならないからですよ。私が何よりも一番心配しているのは今後、訳官のなり手がいなくなることです。なるほどこれまでは燕行使に訳官として清国へ行き巨富を築いた者が何人かいます。蜜陽卞氏、東張氏、金海金氏、牛峯金氏などがそうです。しかし、倭銀が入らなくなっては燕行へ折角行く機会を得ても、もう金もうけは出来ません。訳官になれば、金持ちになれるという時代は終りました。それだけに今では優秀な人材はもう訳官になろうとしません。しかし、交隣の事を託せる人物が訳官にならなかったら、どうなりますか。ちょっとした言葉の行き違いから大きな誤解を生み、両国の争いにならないともかぎりません。両国の友誼は朝鮮の訳官と日本の通詞がいてこそ、心を通じ合わせることが出来ます。いままでは訳官であった親はわが子も訳官にしてきました。しかし、最近では訳官は魅力がないとしてむしろ医官になるように勧めている始末です。」
 ちびりちびりと一口ずつ酒をなめるように飲んでいた玄徳潤の顔はすっかり真赤であった。
 「私の長男の泰翼は私の跡を継ぎ倭学訳官になりました。ところが二男の泰璧は医官になりました。そのためか、兄弟の中で一番出来のよくなかった三男の泰心も医官になりたがったのです。私は二人とも医官になるのは許しませんでした。わが玄一族は代々訳官を多く輩出してきた家系であることを誇りにしてきたのだ。そのことを忘れておまえまでどうして医官になりたいのかと叱りました。泰心は倭奴はいや、失礼、日本人は嫌いだと言うのです。しかし、私は父親と同じ倭学訳官になれば、将来おまえにとって大きな有利だとなだめすかし、嫌がる泰心に倭学訳官になる勉強をさせました。それからは眠る間も惜しんで昼も夜も勉強に励みました。その結果、幸いに試験に合格して倭学訳官になりました。正直、どんなに嬉しかったことか。泰翼が合格した時よりも嬉しくてたまりませんでした。しかし、世の中思うようにいかないものですね。倭館へ来て一年目、泰心の精神がにわかに異常をきたしたのです。真夜中に泰心が突然起き出し、『倭奴が攻めて来る、倭奴が攻めて来る』と叫び回り、眠っている者を誰彼みさかいなしに叩き起すのです。また、ある冬の晩にはこんなことがありました。夜中に起き出した泰心は高い建物の屋根に上っていって、着物を脱ぎはじめ丸裸になりました。そうして、見上げているわたしたちの方に向かって、『朝鮮野郎、おれの長くて逞しい金玉をよく見ろ、朝鮮女はみんな強姦してやるからな』と言ってげらげら笑いました。これらはすべて泰心が日本語で言ったので、私は思わずぞっとしました。また、ある時は『倭奴に殺される』とわめき、刀を抜いてめったやたらに斬りかかったこともありました。あげくに泰心は自分の腹に刀を突き立てようとしましたので、みんなであわてて刀を取り上げ押さえ付けました。泰心は夜が白む頃になると、疲れが出たのか寝入り夕方過ぎまで目が覚めませんでした。目覚めても、自分の奇妙な夜中のふるまいを泰心は自分ではまったく覚えがないようでした。倭館に勤める医官に診せたところ、精神がおかしくなっているので、しばらくゆっくり静養させた方がよいと言われました。泰心が自らなりたがった医官にしてやれば、こうした病にかからなかったかもしれないと本当に後悔しました。泰心は今は故郷の川寧に戻っています。また元気になってこの倭館へ戻って働けるようになることを願っています」
 芳洲は大きくうなずいた。
 「私にもあなたと同じく、三人の息子がいますので子を持つ親の悩みはよく分かります。あなたは将来、倭学訳官になる者がいなくなるのを非常に心配なさっておられる。実は対馬でも事情はまったく一緒なのです。昔と違い、今は通詞になっても金もうけの出来る訳ではないから喜んで通詞になろうとしません。倭館貿易が繁盛していた頃は、対馬の商人は藩に命ぜられなくても朝鮮人と触れ合い、片言ながらも朝鮮語を用い、自分から朝鮮語を積極的に学んだものです。しかし、今は一生懸命に朝鮮語を学んでも、一体どんな得がありますか。こうした状況だからこそ、藩の力によって朝鮮語学校を造らねば、このままでは通詞がいなくなってしまうとあやぶみ、私は藩に働きかけねばならなかったのです。朝鮮語を話すのは、ただ商売のために必要なだけでなく、両国の友好を進めお互いを深く理解し合うためにも必要なのです。藩もようやく私の考えを分かってくれたので『韓語司』という名の朝鮮語学校の運営もはかどりはじめました。今度、私が倭館へ参るにあたり、二男の賛治、弟子の阿比留太郎八、大浦徳太郎と三名を同行したのは、彼らに朝鮮人と触れ合い朝鮮語を話せるようになってもらいたかったからです。私の跡継ぎとして両国の掛け橋となってくれる若者が一人でも二人でも増えてくれれば将来に希望をもてますからね。あなたの長男の泰翼氏、それから三男の泰心氏にも日本へ参られたらどうか拙宅へお立ち寄り下さるようにお伝え願います」
 「有難いことです。兄弟二人が日本へ行ける日が本当に来ることを望んでいます。今はあなたに書いてもらった『誠信堂之記』を恐れながら私が額に揮毫して、この堂に掲げることが出来たことが何よりも嬉しい。ここを訪れる後進たちにあなたの『誠信堂之記』を読ませ、誠信に基づいた交隣の道を大いに勧めていくつもりです。
 今宵はあなたと私との最後の晩です。お互いに年老いているので、これが今生のお別れになるかもしれません。そこで、お別れに際して是非ともお聞きしたいことがあります」
 玄徳潤は急に真剣な顔つきになった。
 「はて、改まってどんなことですか。遠慮せずに聞いてください」
 「まことに恐縮します。直接お聞きしたいことは、享保の通信使が訪日した際の京都の大仏寺での一件です」
 芳洲は先ほどまでのにこやかな笑いが消え急に顔面が青くなるのを自分でも感じた。玄徳潤はまじまじと芳洲を見つめた。
 「言いにくいことかもしれませんが、このことはあなたから本当のことをどうしてもうかがっておきたいのです。江戸で将軍とわが国王との国書交換も無事終り、帰国の途に着いた京都である事件は起こりました。わが通信使の三使は大仏寺は憎むべき豊臣秀吉の子秀頼の建てた願堂だから行くことは出来ぬと拒絶しましたね。ところが、あなたは大仏寺は徳川家光の願堂だと言われました。その証拠に『日本年代記』という書を持ち出し、彼らを説得しようとされました。けれども、大仏寺が豊臣秀頼の願堂であることは日本で販売されている『和漢三才図絵』にもちゃんと書かれています。紛れもない歴史的な事実です。それなのに、あなたは必死になって嘘をおっしゃった。それはなぜですか」
 「ああ、私にお尋ねになりたいことはやはりこのことでしたか。この件はあの時以来一日として私は忘れたことはありません。今も私の喉に突き刺さった骨なのです。あなたの言われたとおり、大仏寺が豊臣秀頼の願堂であることは寺島良安の『和漢三才図絵』に明記されているごとく誰もが知る事実です。それならば、そのような明々白々たる事実を朝鮮の三使に対してなぜ偽って言ったのかとお尋ねなのですね。
 正直に申します。まず朝鮮通信使の皆さんを接待する係として私が最も頭を痛め悩んだのは、三使を京都の大仏寺へ入れることでした。もし、私が三使に大仏寺が豊臣秀頼の願堂であることを率直に申せば、彼らは当然に大仏寺に断固として踏み入れないのは分かりきっていました。それをなんとしても避けようとして、私は黒を黒と言えず黒を白と言い張らねばならなかったのです。日本の子供でも知っている嘘を言い切らねばならなかった私を想像して下さい。厚顔無恥。あの時、あの場所で、私はその場逃れの真赤な嘘を顔色ひとつ変えず、大仏寺は豊臣秀頼の願堂ではなく徳川家光の願堂だと必死に言い張ったのです。そればかりか、私の言葉が全く信用されないことは最初から分かり切っていましたので、大仏寺に入ることを何としても嫌がる三使を説き伏せるために画策しておいたのです。大仏寺は徳川家光の願堂と書いてある『日本年代記』という本をあらかじめ用意しておいたのです。そうです。もうお分かりでしょう。『日本年代記』は私自身がそれらしく事前に捏造して書いておいたものです。こうして、私は嘘を貫くためにさらに嘘の上塗りをせねばならなかったのです。なんのためにか。すべては対馬藩のためにです。通信使の一行を大仏寺に必ず立ち寄らせよという徳川吉宗公の厳命に逆らえなかったからです。
 三使にもし真実を告げ大仏寺へ立ち寄らせなかったら、それは自分一人のみの責任ではなく、通信使の接待役である藩主宗義誠公が厳罰に処せられねばならなかったのです。あの時、従事官李邦彦殿は大仏寺に入ることを頑としてはねつけ、最後まで拒否されました。正使洪致申殿、副使黄璿氏の二人はやむなく大仏寺へお入りになりました。お二人は私の策略を知っておられながら、わざと知らないふりをして大仏寺にお入りになられたのでしょう。あの時、本心を申せば、お二人の前に土下座して頭を地につけ許しを請いたいとどんなに思ったか知れませんでした。しかし、私が策略を弄し三使を欺いたことは事実です。どんなに批難されてもこれを抗弁するすべはありません。私は耳塚のある大仏寺に入るのを嫌がる通信使の一行の意見を素直に聞き入れ、通信使の来日の度に恒例のごとく大仏寺に入れる幕府の悪意に満ちた奸計に、本当ならば異議を申し立て、これを撤回させねばならなかったのです。常日頃は朝鮮出兵は無名の師と言ってきたのに、幕府に対して耳塚は日本人の暴虐の印であるから、これを朝鮮人に見せるのは日本の恥辱に過ぎないと主張できなかったのです。私は策略を用い幕府側に立ち、無理やり耳塚を見せたおのれの愚劣さに責め苛まれてきました。
 朝鮮通信使の一行が無事に漢城へ到着したという知らせが府中に届いた時、私はこれでやっと死ぬことが出来ると思いました。なぜなら、たとえ藩のために虚言を弄したこととはいえ、儒者として信義を貫けなかった自分をどうしても許せなかったからです。誠信の交わりを唱えながら、実際には誠信を果たせなかった自分は明らかに万死に値すると思いました。しかし、私は死ねませんでした。友人の陶山庄右衛門殿がすでに私が自裁を考えていることを見抜いていたのです。陶山氏は病身でありながら、わざわざわが家へ出向いてこう言いました。
 『雨森殿、あなたが通信使の一行を大仏寺へ入れるにあたり随分と御苦労なさったことは他の者から聞きました。あなたはこのことで深く思い悩んでおられるにちがいないと存じ、こうして参りました。正直一筋のあなたが虚言を弄した苦しい胸の内は痛いほどよく分かります。だからと言って、今死んではなりませんぞ。あなたにはやらねばならぬことがありますからな。それは次の通信使の来日の際には大仏寺訪問の廃止を、藩主に対しては勿論、次の将軍に対しても言上することじゃ。これを必ず実現することがあなたの宿題じゃ。孔子曰く、過てば即ち改めるに憚ること勿れとあるように、わが国の過ちは速やかに改めることこそが善隣の友好の証しじゃぞ』と。
 私は陶山氏のこの言葉を聞き、次の朝鮮通信使の時まで生きて、大仏寺の訪問の廃止の宿題をなし遂げることを陶山氏に誓いました」
 芳洲はこれまで自分ひとり堪えに堪えてきた思いのたけを今は玄徳潤にすべて言い尽くしたという安らかな心持ちになり、目に涙があふれた。
 「さようですか。答えにくいことをよく答えてくださいました。次回の通信使の来日の際には、あなたが大仏寺訪問の廃止を必ず働きかけてくださると信じます。わが国もまたこの件について決して日本に妥協せず、あくまで廃止を求めるために幕府と粘り強く交渉することを約束します。秀吉の朝鮮出兵という不幸な出来事について、わが国の一部に怨みをいだいている者がいることは事実です。しかし、過去の歴史を厳粛に受け止めて、われわれは日本と仲良く善隣関係を強化していきたいのです。誠信の交わりをただの言葉だけにせず、真実誠意をもって交際できる両国の関係を築くために、お互いに腹蔵なく率直に言うべきところは言い合い、譲歩すべきところは譲歩せねばなりません。今後ともよろしくお願いします」
 玄徳潤も涙を流しながら言った。
 「いえいえ、こちらこそ。あなたたち朝鮮の友人のおかげで裁判の御役も務めてこられました。本当にかたじけないことでした。今宵かぎりでお別れですが、あなたが府中にお越しの節には、どうか拙宅へお訪ねいただきたい。待っていますよ」
 芳洲は涙をぬぐい、玄徳潤と握手した。
 玄徳潤はその後、嘉善大夫に栄進した。しかし、玄家の長男の徳潤は四人の弟の子息のために自分の俸給をすべて分け与えて援助していたので、いつも生活に困窮しているという噂は対馬へ来た訳官から芳洲は聞かされていた。それでも彼は玄家の子弟が訳官として活躍することを何よりも自分の大きな喜びとしていたので、文字通り赤貧洗うごとき暮らしも一向に意に介さなかったにちがいない。
 それからだいぶ経ってから、芳洲は玄徳潤が亡くなった時には家には蓄えもなく米一俵すらなかったという話を倭館から戻った通詞から聞いて驚いた。玄徳潤のような高潔無比の人物はまことに稀有であると芳洲はつくづく思った。
 倭館を去る前後に、玄徳潤は芳洲に三男泰心のことを語った。彼は気のふれた泰心の将来を深く悩み、「親は死ぬまでわが子の心配をせねばならないものですね」と笑いながら言った。幸いにして、泰心は養生の甲斐があって病気が治り、今は倭館へ戻り働いていると芳洲は知って、なんとしても一度泰心に会って話をしてみたいと思った。なぜ泰心のことがそれほど気になったのだろうか。それは芳洲自身が嫡男顕之允のことで長い間、思い悩みつづけた体験があったからである。

       9
 陶山作右衛門が府中の城下町で、五人連れの少年を見た。互いにふざけて相手を小突いたり、首をしめたりしながらも嬉しそうに笑いこそこそささやき合っている。みんなやたらにはしゃいでいる。彼らの中に顕之允がいることを作右衛門は見逃さなかった。彼らは府中の町中からはずれ久田浦に注ぐ久田川河口にある集落へと歩いていく。作右衛門は少年たちに見つからぬように後を付けていった。ある一軒の家の前で五人が立ち止まり、何か相談をしていたが、顕之允が最初に家の中へ入っていった。
 外にいる少年は家の中を見ようとあちこち家のすき間から一心にのぞきこみはじめた。口に手をあて、呆れたように見入っている者、雨戸をごとごと揺すってげらげら笑い出す者、「早くしろ」と言って叫ぶ者、よく見えるところを求めて動き回る者、それぞれが落ち着かなかった。やがて、中に入っていた顕之允がにやにや笑いながら嬉しそうに戸を開けて出てきた。待ち構えていた四人は押し合い競って中に入ろうとしたが、一番体の大きい一人が強引に中へ駆け込んだ。こうして後の三人もじれったそうに待っていたが、次から次と中へ入り、また出てきた。最後の少年が頭をかきながら恥ずかしそうに出てくると待っていた四人は一斉に彼の体をこずき回した。悲鳴をあげて逃げ回る一人を四人が追いかけた。そうして、彼らはまたふざけ笑いながら帰っていった。
 やがて、板戸を開けて外へ出てきたのは、三十歳は越えた背の高い大きな体の女であった。目がつりあがり浅黒い肌をしており、はだけた黄色のきものからは大きな乳房が見えた。尻はまた異様に逞しかった。作右衛門は近所の者に聞いたところ、二年前にこの女の夫が海へ出漁していて嵐に出会い行方不明になってから、残された二人の幼児を育てるため女は体を売っているとのことであった。客として城下の侍の子息が足しげく通ってくるということまで分かった。
 陶山は作右衛門からその話を聞いて苦い顔つきになった。十四歳の顕之允が学業を放棄し放蕩に走っているという噂を陶山はすでに耳にしていたのである。
 「それは感心せぬな。おそらく江戸詰めの芳洲殿は御存知あるまい」
 「多分そうでしょう」
 「はて、困ったな。鬼の居ぬ間に洗濯という訳でもあるまいが、このまま放ってもおかれまい。一度顕之允殿と話をしてみるから寄こしてくれまいか」
 翌日、顕之允は雨の中を陶山の家へ傘をさしてやって来た。顕之允はまるで女のような美しい顔をしていた。
 「雨の中、わざわざ呼び寄せて悪かったな。父上が旅に出ておられるので、随分と寂しいことであろう」
 「いいえ、父上が府中におられないのはいつものことですから、もう慣れています」
 「そうか。お役目繁多のために家にめったに帰れないことが多いからな。そのため、それがしに前々から芳洲殿より自分の留守中は子息たちの世話をしてもらいたいと頼まれているが、特別何も出来ぬのをまことに申し訳なく存じている。ところで藩の学校は行っているか」
 「授業はつまらないので、近頃は学校へは行っておりませぬ」
 「そうか。つまらぬか。学問は嫌いか」
 「嫌いではありませんが、学校の授業はああしろ、こうしろと押し付けてきて、息苦しくてたまりませぬ。父上から私のことを頼まれたとのことですが、今日私を呼ばれたのはいかなる御用ですか。遠慮なくおっしゃってください」
 「では、申そう」
 陶山は亡き漁師の妻のひでという名の女のところへ通っているのかと尋ねると、顕之允は一瞬白い顔を赤くしたが、悪びれることなくあっさりと認めた。
 顕之允は陶山に自分から聞いてほしかったかのようにしゃべりはじめた。
 「私は幼い時から父上に新井白石殿のような人物になれといつも口癖のように言われてきました。白石殿は小さい時から毎日昼間に行・草の字三千、夜には一千字を書く日課を立てて字の稽古をされた。だからおまえも白石殿を見習ってそうしなさいと。しかし、私は根気がないため何度試みても三日坊主で続かなかったのです。父上は白石殿を崇拝なさっているのです。いや、将軍の政治顧問となった白石殿が羨ましくてたまらないのです。私は白石殿にまだ会ったことがありませんが、父上が何かと言えばすぐに白石殿の名を出すたびに、ますます彼のことが嫌いになるのです」
 「そうか。新井白石殿が嫌いか。白石殿は全国星のごとくあまたいる儒者の中で、今最もときめいている儒者なのだがな」
 「そもそも儒者が嫌いなのです。私は儒者になりたくないのです。家業人の子は父親の跡を継ぐのは当り前になっています。しかし、所詮おのれがどんなに努力しても、父上のような人になれぬことはよく分かっています。母上はたとえ父上に劣るにせよ、私がもう少し年を取れば、それこそ三十や四十歳になれば、よその藩の中等下等ぐらいの儒者になれるだろうと言われます。また叔父さんの小川加賀右衛門様も父の跡を継ぐことこそ親孝行だとおっしゃいます。しかし、私と父上とは人間がまったく違うのです。私は父上や母上の思うとおりに操られて動く人形ではありません。両親の機嫌を取るように出来上がってはいないのです。大人たちは誰も彼もいつでも父親の芳洲殿にまけぬように勉強せよと決まって同じことを言います。一体どうしたら、この私が父上を越えられるというのですか。父親が雨森芳洲であることが、その子供である私にとってどんなに荷が重く辛いことであるか、他の者にはどうしても分からないでしょう。物心ついた頃から父はいつも留守がちで、たまに家に帰っても笑っている顔を見たことがありません。父上はいつも何かと戦っているようでした。幕府、朝鮮国、そして対馬藩とたえず争っているのでしょう。父上にとって親子の情よりも天下国家のことが大切なのだと子供ながら自分には分かっています。しかし、私は父上のように生きたくないのです」
 陶山は顕之允の言葉を聞き、彼が放蕩に走っているのは偉大な父親に対する虚勢ではないか。父親から学業を放棄していると非難されても学校へ行かず、自分の放蕩を続けているのは、父親に対する反発であり、自分は父親の思うとおりには決してならないという抵抗の意思表示であるように思えた。陶山には父親はその子にとって最大の強敵ではないかとさえ感じられた。
 「それでは、おまえはどう生きようというのか」
 「私は経書歴史を学び、立派な儒者になる気はまったくありません。自分の夢は詩人になることです」
 「詩人になりたいと。そのことは芳洲殿に話したのか」
 「いいえ、話せません。儒者にならずして詩人になるなどと申したら、父上がどんなに怒るか分かりません」
 「詩人として名を成すことは決して容易なことではない。もしおまえがその気ならそれがしが芳洲殿に話してやってもいいぞ」
 「いえいえやそれはやめてくだされ。父上に叱られてもかまいませぬが、私が儒者になることを夢見ている母上を悲しませたくはありません。このことは陶山様だから申し上げました。どうか、これは私と陶山様の二人だけの秘密にしておいてくだされ」
 陶山庄右衛門の父の玄育は他国者であったが対馬藩に儒医として仕えた。父の死後、庄右衛門も藩命で父親と同じ家業を仰せ付けられた。しかし、陶山は「自分はこの家業は務まりそうもないので、どうか知行を召し上げてください」と願い出たところ、藩はこれまでの陶山の奉公ぶりと人柄を見込んで家業を継がなくてもよいと許されたのだ。それだけに自分と同じような気持ちを抱く顕之允の苦しい胸中が痛いほどよく分かった。
 正徳三年(一七一三)閏五月、芳洲は将軍家宣公の逝去を告げる告訃参判使の都船主として半年間倭館に行っていたが、府中に帰ってくるとすぐに陶山の家に帰国の挨拶に行った。自分の留守中に、顕之允が夜遊びをし生活が乱れていると妻から聞かされた芳洲は、顕之允の将来について相談をした。陶山は参覲交代の際には顕之允を一度連れて行ってどこか江戸の塾へ入れ、しばらく学問修行をさせてみてはどうかと話した。芳洲は顕之允に自分の家業を継がせるには、自分の若い時と同様に学問修行させなければ、このままでは対馬という井の中の蛙になってしまうとかねてから思っていたので、陶山の提案を速やかに実行することにした。

       10
 正徳四年(一七一四)九月、幕府は対馬藩から朝鮮へ大量に銀が流出するのを阻む銀輸出抑制策を取ろうとしたので、芳洲は新井白石と論争するため江戸へ行かねばならなかった。芳洲はこの機会にと考え顕之允を同行した。顕之允は瀬戸内海を帆船で航行する途中、見る物、聞く物が珍しくて対馬と違う風俗や風景におどろき次々と漢詩を作った。
 芳洲は江戸へ到着すると、経済論争の相手である白石に顕之允の教育を頼もうとした。小川町に住む白石の大きな役宅へ顕之允を引き連れ、白石に顕之允が瀬戸内海の旅の途中で造ったいくつかの漢詩を見せた。白石は顕之允の漢詩を見ると、江戸城で見せる厳しい表情とは違って穏やかな笑みを浮かべた。
 「顕之允殿の詩は、私が若い時にお父上と対面してお父上の詩を始めて見せてもらった時のような懐かしい思いがする。必ずや将来、顕之允殿はお父上を越えなさるにちがいない」
 白石は顕之允の詩を称賛しながらも、顕之允の弟子入りは固辞した。
 「私にも是非とも弟子になりたいと自ら名乗って来る者もいる。また、あなたのように子息を連れて来て弟子入りを願う親もいる。残念ながら今、私は亡き先代の将軍家宣様のお子であられる将軍家継様にお仕えしている身であるため、弟子をとっても指導できる暇がまるでない。何よりも私が懸念するのは私がこうしてお上にお仕えしているうちはまだよいが、お役御免となった時は私の弟子となった人たちがその後一体どうなるかということだ。御子息が白石とつながりがあったとか、白石の弟子であったとかで、それが科となりかえって御子息の将来の出世の妨げにならぬともかぎらぬ。そうなっては御子息があまりにお気の毒だ。どうかこの点をよく汲み取られ顕之允殿の弟子入りについては平に御容赦願いたい」
 苦しそうに語る白石の額には深い横皺が四本刻まれていた。
 「顕之允はいずれは私の跡継ぎ対馬藩の儒者となる身ですから、そうした心配はまったく御無用でござる。なにとぞ入門を許可してくだされ」
 芳洲は執拗に白石に迫ったが、白石はさきほどまでの柔和な笑いはすっかり消えて厳しく蒼白い顔つきとなり、どうしても承諾しなかった。白石は「顕之允殿の入門の件はもうこれくらいにして、折角だから今宵は酒でも飲んでゆっくりしていってほしい」と再三勧めたが、芳洲はこれを断り顕之允とともに白石の邸宅を辞去した。芳洲は残念がったけれども、顕之允の方は父親と違ってほっと胸を撫で下ろした。顕之允はかねてより蘐園塾で学びたかったので、今ははっきりと「荻生徂徠先生の下で是非とも修行したい」と芳洲に懇願した。
 徂徠は初め柳沢吉保に仕え柳沢藩邸にいたが、そこを出て私宅を本橋茅場町に構え、「蘐園」と名付けていた。四十歳の時に最初の妻をなくした後、昨年佐々立慶の娘と再婚したのをきっかけに今は牛込に豪華な屋敷を造り住んでいた。年は芳洲より二歳上の四十九歳であった。この十月、『常憲院殿(徳川綱吉公)贈大相園公御実記』を完成した功を認められて、幕府より百石を加増されて五百石となっていた。
 十二月末、芳洲は徂徠の家へ顕之允を連れて行って入門を願った。
 「私の塾にも日本の各地から学生が来ていますが、対馬から入塾を求められたのは顕之允殿が初めてです。『朋あり。遠方より来る。亦楽しからずや』と孔子が言われたように、私の弟子になろうとはるばる千里も遠方からやって来られ、こんな楽しいことはありません。私には残念ながら、息子がおりません。芳洲殿には顕之允殿を筆頭に三人の男子がおられるとうかがいました。まことに羨ましいかぎりです。あなたのような人こそ福人と言うのでしょう。私のような未熟な者が高名な芳洲殿の御子を教育できるのはまことに光栄の至りです。顕之允殿を実のわが息子と思い喜んで面倒をみさせてもらいましょう」
 徂徠はあっさりと快諾した。顕之允は思わず欣喜雀躍したい心をおさえるのに苦労した。しじゅう満面笑みを浮かべ温厚なもの言いをする徂徠のあばた面をじっと見つめているうちに、顕之允はすっかり徂徠に心酔してしまった。
 「芳洲殿にお願いしたいことがあります。実は四年前の冬から、長崎の通詞であった岡島冠山殿を師匠にして、井伯明君、私の弟の北渓、それと私の三人で会を作り、五と十の日に順番に会合の場所を替え唐語稽古をしています。服装は平服で酒も出ませんが、あなたのように唐語の出来る人がもう一人参加してもらえば、唐語稽古はいっそうはかどります。江戸に滞在なさっている間だけでもよろしいから、どうか参加してくれませんか」
 「岡島殿ならば私もよく承知しています。たしか『肉蒲団』を愛読書にして朝夕念誦していました。彼の唐語は『肉蒲団』から出たと言っても過言ではありません」
 「さよう。われわれはその『肉蒲団』を教材にして学習しています」
 「おお、そうでしたか。それはいい」
 「私は初学の門生のために学問の法を定めた時に、まず唐語を勉強させることにしました。中国の俗語を教え、唐語を音読させ、それを日本の俗語に訳させて、下から上へと読む訓読は絶対にさせません。初めは細かい言葉の二字か三字で一固まりになるものから教えて、それから一書にまとまったものを読ませるのが最良の方法と考えています。なぜなら、学問をする者は最初の務めとして唐語を学び、その本来の面目を知らねばならないと思ったからです」
 「賛成です。私が初めて唐語を学んだのは二十四歳の時でしたが、その頃は音読が甚だ有益であると知っている人は、木下順庵先生ひとりでした。先生は私に唐語を音読できるように長崎へ行って学ぶように勧められたのです。日本式の下から上へ読む訓読では中国や朝鮮の漢文を理解するのは難しく音読によって初めて漢文の理解もできます。作文力を身に付けるにはあなたの言われる方法が最良です。また多くの唐語の本を読むのではなく、たとえば『水滸伝』のような一冊の小説を材料に、そこから重要な語を五字七字、あるいは三字四字を取り出し、毎日千遍読ませるのがよいと存じます。この学習方法は長崎の上野玄貞先生から教えてもらいました」
 「では、あなたは上野玄貞先生を御存知でしたか」
 「私が長崎で唐語を学んだ時の師匠です」
 「ほう、そうでしたか」
 「先生は惜しいことに先年亡くなりました」
 「実は三月ほど前、上野先生の門人で慧通という僧が長崎から私に会いに見えました。彼は上野先生が生前に私の文章を殊の外ほめておられたので、是非とも先生の遺稿集に序文を書いてほしいとおっしゃるのです。私は長崎に上野玄貞という優れた通詞がおられるとは承知していましたが、詳しくは知らなかったです。上野先生は私を御存知でしたのに、私は先生を知らなかったのは私の不明の至りです。恥ずかしく存じます。先生の詩文を一読していずれも珠玉のごとき作品ばかりでまったく驚きました。早速、序文を書いて先日長崎へ送りました」
 「それは有難いことです。上野先生はなくなる前に自分の詩文が世に残るのを嫌われ、すべての原稿を焼き捨てられました。弟子たちがそれをひどく悲しみ、散佚していたものを集めて遺稿集を編んだのです」
 「上野先生のような方はもっと世間に知られてもよかったのにそれもかないませんでした。まことに惜しいことです。さすがに唐語の通詞を五十年間なさっていただけに、上野先生の詩文は後世に伝わるに足る優れたものです」
 「私は上野先生に会いたくてそれこそ空を飛ぶように三度も長崎へ出かけて行ったのです」
 芳洲は自分をいつも励まし感激させてくれた上野先生を思い浮かべた。

       11
 芳洲が初めて上野玄貞先生に会ったのは、元禄九年(一六九六)長崎の唐人屋敷においてであった。白い鬚を生やした上野先生は冠をかぶり中国人の服を着て唐語を話すので、芳洲は他の師匠と同じ中国人とすっかり見間違えた。上野先生は中国人の海賊張強国と平戸の上野三郎左衛門の娘きちとの間に生まれた子であり、幼い時に清国へ父親とともに渡り、父親が死んだため母のいる日本へ一人戻って来たとの噂があった。唐通詞になる前は、長崎で漢籍の販売をしていて、全国の大名たちから本の注文を取り、莫大な利益をあげたとのことである。上野先生は丸山遊郭の「陶々亭」という遊女屋に寄宿していた。この「陶々亭」は上野先生の経営する店だという者もいたが、そうではなく小蛾という女将が実質的な経営者であり、これが上野先生の愛人だということであった。小蛾は小柄な女であったが、目が色っぽい女であった。
 上野先生は遊女たちの悩みごとを聞いたり、恋の相談に乗ったり、遊女同士の喧嘩の仲裁もした。若い時に医術を学んだこともあったので、遊女たちの病気も治した。芳洲は長崎へ来て間もなく唐人屋敷で学ぶ唐語稽古料があまりに高額であり、下宿代を払ったら漢籍も買えないので困っていた時に、上野先生は陶々亭なら食事の賄い代だけ出せばよいから陶々亭の女将に話をつけて寄宿できるようにしてくれた。唐人屋敷は以前より侍の出入りが禁止されているので、唐語稽古の時には唐人屋敷の前にある番所に刀を預け、髷も短髪にせねばならなかった。陶々亭の遊女たちはこうした短髪無刀の芳洲の姿を見て、てっきり新しい使用人が雇われたと思い、いろいろ仕事を言いつけた。長崎湾に向かって流れる谷川の水汲みが芳洲の毎朝の日課となった。
 芳洲は対馬藩の長崎役には南蛮寺の長屋に下宿していると届け出ていた。もし自分が遊女屋「陶々亭」に下宿していると知れたら、即刻立ち退きを命ぜられるにちがいなかったからである。
 当時、長崎では金持ちになるには唐通詞になるのが一番だと言われていた。しかし、上野先生は儲け話にはいっさい耳を貸さなかった。唐通詞であれば外国貿易によって中国と日本の商人の間をうまく斡旋してやるだけで、いくらでも大金をつかもうとすれば出来た。それなのに上野先生は唐語稽古料だけで十分満足していた。唐語稽古の弟子が盆暮れにお中元やお歳暮をもってくると、まるで汚らわしいものを見るようにして突き返した。中国から亡命してきた黄檗宗の禅僧や医者、武芸者などとは自分から付き合いを求めたりしなかった。むしろ彼らと接触するのを出来る限り避けた。もともと幕府の禁令を破っても平気な、かえって誇りとする気風が長崎の町人気質にはあった。しかし、上野先生は一度も長崎の番所から呼び出しを受けたことがなかった。上野先生は長崎の唐通詞の中には機会さえあれば江戸へ出て幕府の役人になって栄達しようと願う者が多くいたのに、まったく己の立身出世を願わなかった。そうしたことは何よりもつまらないことだと考えていた。
 上野先生は町よりも長崎の港町をめぐる山水が好きであった。
 「芳洲君、夕焼けに染まった海を見に行かないか」「芳洲君、夜明けの海を見に行かないか」夏の真っ盛りの日には「谷川の冷たい水を飲みに行かないか」「山の頂きの月や星を見に行かないか」と上野先生は言い稲佐岳の頂きに芳洲を誘った。その度に芳洲は上野先生に喜んでつき従った。稲佐岳の段々畑のあぜ道を登り頂きにやっと着くと、二人はいつも背中に汗をびっしょりかいた。山の頂きの岩の上に一緒に並んで腰を下ろすと、二人は下から吹き上げてくる海風に吹かれながら、絵のような美しい長崎の港町の風景をながめるのであった。稲佐岳の麓から海までびっしりと家並みが続く長崎の町。オランダの三色旗をかかげた出島、その左には唐人屋敷が見える。湾には三本マストのオランダ船が二隻、その向こうには唐船が四隻停泊していることもあった。はるか野母崎の突端と神崎岬の間に伊五島などの島々が見えた。
 春、夏、秋、冬の長崎の風景を上野先生と芳洲は飽きることなく眺めた。山には連翹、桃、梅、木蓮、桜、つつじ、杏、梨などの花が咲いた。上野先生は山へ行く時にはいつも酒碗と琴を芳洲にもたせた。上野先生は山頂では興に乗れば琴を奏でながら、自然の美しさをたたえる即興の漢詩を口ずさんだ。歌い疲れると、芳洲が持って来た酒碗を両手で捧げ持ち、実においしそうにごくごく飲んだ。そして手のひらで口を拭いながら「芳洲君、君も飲みたまえ」と言い酒碗を渡した。二人は続けて回し飲みをした。しばらく一服すると、上野先生はまた琴を奏で楽しそうに漢詩を朗々と響く歌声に山中の白い花と赤い花は開き、風に吹かれて谷川の人家にひらひらと花弁が散っていくのを見た時に、あまりの美しさに芳洲は思わず、上野先生が実は仙人であり、今にも白雲を呼び寄せ、ふわりと乗ってはてしない大空に飛翔しはじめるのではないかと目を疑ったほどであった。
 芳洲は対馬藩で自分の意見が通らず、何度も儒者をやめようと思ったことがあった。その度に、「芳洲君、儒者をやめたくなったらいつでも長崎へ来て通詞になりたまえ。人生寄するがごとし。何ぞ楽しまざる」という上野先生の言葉を思い出し、このまますぐさま長崎へ行き唐通詞として生きようという思いが早鐘のようにせわしく胸を打った。儒者としてあくせく働き、あれこれ思い悩む生活を潔く捨て、自分のごとき者でも上野先生のように生涯一通詞たる身分に甘んじ楽天的に生きられたら、それこそが人間の本当の幸福ではないかと思った。
 「芳洲君、唐話の稽古は一日も欠かさずやるように」
 今日までこの上野先生の教えを一日も忘れず芳洲が守りつづけてきたのは、いざとなればいつでも儒者をやめ長崎へ行き、一介の唐通詞となる覚悟であったからだ。

       12
 芳洲は徂徠が上野先生の遺稿集の序文を書いてくれたことを知り、江戸に滞在中は徂徠の誘いに応じ唐話の学習会に時間の許すかぎり出席する約束をした。貧乏で無名な時代には、朝晩下宿先の豆腐屋のおからばかり食べていたという苦労人であった徂徠ならば、わが息子顕之允を正しく導いてくれるにちがいないと信じた。
 しかし、芳洲の願いはかなえられなかった。蘐園社中に入塾を認められた顕之允は、平野金華、坂倉美仲、三渓らに大歓迎され毎晩のように吉原へ連れ出された。そうして、彼らに詩を作れ、詩を作れと酒を飲まされ酔っぱらった。顕之允は吉原の遊女を見て、「ああ、江戸にはこんな美しい女たちがいるのか」と驚いた。
 芳洲はやがて蘐園に学ぶ生徒が見苦しい身なりで蘐園塾に出入りしても師匠の徂徠から少しも注意されないし、「孔門子弟親しむこと父子の若し、皆古への道なり」として長幼の序をうるさく言わないし、師匠と門弟の間にも堅苦しい垣根を設けないのが徂徠の「師道」であることを知った。
 上野の桜がちらほら咲き始めた三月の初めであった。芳洲が顕之允に会うために徂徠宅を訪ねると徂徠も顕之允も不在であった。そこで、顕之允の帰りを夜まで待っていたが、その晩帰って来なかった。
 翌晩、再び行ってみた。掃除や洗濯の世話をしてもらっている婆さんに礼金を渡し、顕之允の暮らしぶりを尋ねて、実は顕之允が吉原に三日三晩も泊り込んでいることが分かってきた。婆さんは顕之允の行状をすべて話してくれた。
 「吉野楼のおいらん若紫にすっかりのぼせておられます。ここに来られた当初は真面目に勉強されていましたのに、悪い友達にそそのかされて今では勉強どころじゃありませんよ」
 念のため顕之允の衣箱を開いてみると、江戸へ来る時にそろえた着物は何も入っていなかった。
 芳洲は徂徠の家を出て、そのまま吉原へ向かった。吉原には遊女が三千人もいる。対馬藩士であれば、江戸へ来たら一人として吉原の遊女屋へ上がらない者はいない。いや、参覲で江戸へ来る者は吉原へ行くのが最大の楽しみであった。なぜなら、吉原には旅先の孤独を慰めてくれる美女とうまい酒があったからだ。侍は金がないのでろくな待遇を受けないけれども、金持ちの商人は吉原では殿様であった。遊女の一晩の花代は十三両とのことであったが、一体そんな金を顕之允はどこで用意できるのか、芳洲はどう考えても不思議でならなかった。
 碁盤の目のように整然と立ち並ぶ遊廓の家と家との間の通路にずらりと赤い提灯の明かりが煌々とまるで真昼のように輝いている。どこからも三味線や歌舞の音が聞こえる。芳洲は吉野楼の店がなかなか分からずあちこち人に尋ねて探し回った。ようやく探し出し、吉野楼のお店を格子ごしにのぞき込んだ。華やかであふれんばかりの色香を漂わせている十人の女が座布団の上に座っていた。華のつぼみのような紅の唇を開き白いきれいな歯を見せてほほえみ、それぞれがわが美しさを際立たせていた。通り過ぎの男たちは品定めをするために格子ごしに中の遊女に呼びかけている。
 芳洲は「若紫はいるか」と言うなり、店の土間へ入った。女将が出てきて「若紫には先客がいますから、しばらくお待ち下さい」と言った。芳洲は草履をすばやく脱ぎ、「あっ、お侍さま、どうかお待ちを」とあわてて前に立ちはだかる女将を押しのけ、二階への階段を上った。あちこち部屋をのぞき、奥の一部屋に本を寝転がって読んでいる顕之允を探し出した。
 芳洲の突然の出現に顕之允は驚いてたちまち本を放り出して起き上がった。しかし、顕之允は悪びれもせず芳洲にいきなり「若紫と一緒にさせてくれ」と言った。芳洲は思わず顕之允の右頬をびしっと強く打った。
 「一体、おまえは何のために江戸へ来たのか」
 顕之允は殴られても少しもひるまなかった。
 「若紫と一緒にしてくれなければ、若紫と心中する」とわめいた。
 芳洲は険しい形相でにらみつけた。
 女将とともに若紫が部屋に入って来た。芳洲は若紫の顔を見た。
 「おまえが若紫か」
 「父上、若紫は鷹匠佐治市兵衛の娘小夜です」
 「なに、小夜だと」
 芳洲はべっこうの櫛、飾りがたくさん付いたかんざしを何本もさし、白粉を塗り小さな唇に赤い紅をさした若い女をじっと見つめた。
 女は「雨森様、御無沙汰いたしております」と跪き深々とお辞儀をした。芳洲にはすぐには小夜の顔が思い浮かばなかった。
 芳洲は対馬藩の鷹匠であった佐治市兵衛をよく知っていた。朝鮮の鷹は海東青と言われ、日本の鷹よりも優秀なので、鷹狩りの好きな将軍家に献上品として欠くことの出来ないものであった。体格が大きく性質が豪胆な雌がよいとされた。鷹の雌は朝鮮人が深山に入り、岸壁に造った巣穴から獲ってきたものである。倭館に住む鷹匠がこれを開市大庁で購入して飼育し調教した。将軍家だけでなく、全国の諸大名は競って海東青を求め飼育している事を自慢した。
 正徳元年(一七一一)の通信使にあたり、朝鮮は将軍家への贈り物として朝鮮馬二匹とともに、鷹子十連を送ってきた。佐治市兵衛は鷹の護送のため、朝鮮の鷹匠に付き添い江戸へ上った。通信士が蒲刈の宿の泊まった夜のことである。
 佐治市兵衛は苦しい顔つきで芳洲に訴えた。
 「海東青が先ほど二羽死にました」
 「病気か」
 「他の鷹も雀や鳩を見せても啄みません。朝鮮の鷹匠は誰かが鷹に毒を食わせたといってわめいています。鷹は夜も番人がついているから誰も近付けないので、そんなはずはありません。このままでは次々に死んでしまいます。どうしたらいいでしょうか」
 芳洲は急いで、朝鮮通信使として随行してきた医官玄万奎を呼んで鷹の容態を見させた。玄万奎は薬を調合して鷹に飲ませた。しかし、その後も鷹の子は次々と病気にかかり江戸へ到着するまでに八羽が死んだ。このことをひどく苦にした佐治は通信使とともに対馬へ戻ったその夜、自宅で切腹した。佐治は海東青の相次ぐ死に対して責任を感じ自殺したのだ。佐治市兵衛の家には妻と二人の娘がいたが、佐治の死によって遺族は府中の役宅を去らねばならなかった。しばらくして、芳洲は佐治の遺族が京大坂へ流浪していったという噂を聞いたがどうすることも出来なかった。
 芳洲はこの事件によって朝鮮が海東青を将軍家などに献上するのはよいが、贈り物目録に鷹の数を記載されても、鷹は生物であり三ケ月間もの江戸への道中すべて無事に護送することは困難であるから、贈り物目録に鷹何連と明記することはやめるように老中へ進言せねばならないと考えた。
 顕之允は佐治の二人の娘小夜、真夜と幼い時から一緒に遊んだことがあった。芳洲は彼女たちが子供の頃、わが家へ遊びに来て、三人の息子たちと庭の木々の間や池の周りを蝉や蜻蛉をつかまえようと喜々として歓声をあげながら走り回っていたのをやっと思い出した。あの可愛らしかった小夜が今はおいらんになっているのだった。
 芳洲はじっとうつむいている小夜を見た。
 「御母上は健在か」
 「はい」
 小夜は顔を上げずに小声で言った。
 「お前はいつからこの仕事をしているのか」
 「一年ほどになります。父上が亡くなった後に多くの借金があったことが分かり、私と妹が身売りするよりすべがなかったのです」
 「では妹御もここにおられるのか」
 「いいえ、宮田楼におります」
 芳洲は自刃した佐治市兵衛の顔を思い浮かべ、後に残された二人の姉妹が苦界に身を落とさねばならなかった運命を、対馬藩は救うことが出来なかったという悔しさが急に胸の内にしのび込んで来た。芳洲は彼女たちが哀れで居たたまれない気持ちになって来た。今は牡丹の花のごとく匂い立つほど美しい小夜も、二年もすればたちまち容色が衰え始めると、吉原の遊廓にいることは出来ず地方の遊廓へ売り飛ばされ、やがては性病にかかり路傍にうち捨てられる運命であることを、芳洲は長崎の丸山遊廓で働く遊女たちの悲惨な最期を見てよく知っていた。芳州は遊女たちがわが身を売る辛さに耐えられず、刃物でのどを突いたり、海へ飛び込んだり、首をくくって死んだりしたのを何度見ただろう。けれども、中には幸運にも、金のある男に身請けされながら、一年もせぬうちに堅気な生活に飽きて自分から遊廓へ戻って来る女もいた。
 芳洲は懐から財布をつかみ出して、そのまま小夜に渡そうとしたが、小夜はどうしても受け取らなかった。そこで仕方なく女将の手に握らせた。
 「これは顕之允の花代だ。これでは足りないから後で使いの者に持たせよう。今夜は顕之允をこのまま連れて帰る」
 「嫌です。私はここにおります」
 顕之允は必死に叫んだ。
「何を、馬鹿なことを。頭を冷やせ。いつまでもここにおれるはずもない」
 芳洲は思わずどなった。
 「顕之允様、お父上の言われる通り今夜はもうお引取り下さい。若紫と遊ぶにはお金がいるのです。失礼ですが、あなたのようなお方が、ここは居続けるところではございません。あなたが若紫を独り占めなされば、それだけ若紫の稼ぎが減るばかり。この子を身請けできるだけの力もないくせに、いつまでも居すわられてはこちらは迷惑なのですよ。さっ、とっととお帰りなすってください」
 「な、なんだと」
 女将の言葉に怒る顕之允をなだめて若紫が言った。
 「若様、私のことはお忘れ下さい。あなたは将来のあるお方です。私のことはさっぱり忘れて、立派なお武家さまになってください。私を好いていてくださるのは嬉しいのですがもともとあなたと私とでは御身分が違います」
 「身分が違うって。男と女、それだけだ」
 「いいえ、あたしは卑しいおいらんの身です」
 「小夜、金のないこの私がやっぱり嫌いか」
 「若様は好きです。でも、あたしのような女にはもったいないお方です。短い間でしたが、たとえわずかでもあなたといい夢を見せてもらいました。それだけで本望なのです」
 若紫の両目から玉のような涙がこぼれ落ちた。若紫は思わず両手で目をおさえ、こみあげて来るむせび泣きを懸命にこらえた。
 「えい、若紫、なんだって泣くんだい。折角の美しい顔が台無しじゃないか。まあ、顕之允様もひどいね。うちの大事な若紫を泣かせるなんて。お金もないくせに、旦那面されたんじゃ大弱りさ」
 女将は眉をしかめ、それからにらみつけるように強い口調で言った。
 「愁嘆場はもうこれぐらいにしておくれ。さあ、顕之允様、お立ちあそばせ」
 顕之允は渋々立ち上がり、芳洲の後に続き、吉野楼からふらふらと出て来た。別れ際に若紫は顕之允に何か必死に言おうと顕之允の後を追い階段を駆け下りようとした。しかし、女将がいきなり若紫の頬をぱんと平手で打ったので、若紫は「あっ」と叫んで顔をおおうだけであった。
 その晩、芳洲は顕之允を対馬藩邸に連れて来て話をした。顕之允は今は酔いもすっかり醒めて蒼白い顔をしていた。
 「顕之允、江戸へお前を連れて来たのは放蕩をさせるためではない。学問をさせるためではないか。わしの少ない俸禄でおまえを江戸で学ばせるのは並大抵ではない。一体何のために江戸へ来たのかよく考えてみよ」
 「父上、私は小夜と夫婦になる約束をしたのです」
 「それは出来ぬ」
 「なぜですか。おいらんの小夜は雨森家の嫡男の嫁にふさわしくないからですか」
 「そうではない。いいか、おまえはまだ士官前の修行中の身ではないか。女にうつつをぬかしている場合か」
 「小夜は鷹匠であった対馬藩士の娘であることは父上もよく御存知のはず。どうか私の妻にして下さい。雨森芳洲の息子が吉原の遊里で体を売る女を娶ったとあっては恥となりますか」
 「いいか、おまえには対馬藩にとって将来儒者とならねばならぬ重い責任がある。おまえは今、女や酒に溺れていてはならぬのだ。おまえは幼なじみの小夜に同情しているだけなのだ」
 「いいえ、私は小夜を愛しています。家柄とか身分とか世間体などどうでもいいのです。私が雨森家の嫡男として生まれたがために、家業である儒者として生きるより他に許されない。それがどんなに私にとって息苦しいか、父上は御存知ない」
 「おまえが儒者という職分を重荷と考えていることは知っている。しかし、人はそれぞれが自分の職分を果たさねばならぬ。それぞれ家業人が自分の職分を嫌ったり逃げたりすれば、藩はどうなるか。おまえが儒者という職分を担おうとせず、誰かよそからお前の代わりをする人間をつれてくればよいというのか。自分は嫌だからといって他人に肩代わりさせるつもりか。それでは対馬藩はどうなる。対馬藩の将来はやはり対馬藩の者が担うべきではないか。雨森家の相続者である顕之允、おまえにわしの跡を継いでほしいのだ。学問に怠け、吉原で遊びほうけていて、それができるか」
 「父上は立派です。いつでも藩のことを先に考えておられる。何よりも対馬藩の安泰が大事。頭には私を二代目の儒者にしようという考えしかない。しかし、父親としてわが子の本当の姿を御存知ない。私には父上のような儒者となる能力はありません。私は吉原で遊びに耽っているのが性に合っているのです」
 「馬鹿なことを申すな。おまえはもっと自信をもて。おまえが本気になって学べば十分に儒者としてやっていく力はあるのだ。もっと冷静になって自分を見つめろ」
 芳洲は懸命に説得しようとしたが、顕之允は受け入れなかった。
 芳洲は顕之允の頭を冷やすために藩邸の一室で謹慎させた。二日目の晩に顕之允は部屋からこっそり抜け出ようとしたが、すぐに監視の者に見付けられ部屋に引き戻された。芳洲は厳しい調子で言った。
 「おまえが再び外出しようとすれば、次には座敷牢に入れねばならぬ」
 顕之允は「どうなと御随意に」と口をとがらせた。
 芳洲は顕之允の吉野楼での遊興費を用立てるために藩に借銀を頼み、やっとのことで得た金子を懐にし吉野楼へ向かった。行ってみると、驚いたことに若紫は吉野楼から忽然と姿を消していた。吉野楼の女将に聞くと、「若紫は前からひどく御執心なある豪商に急にあわただしく身請けされたのです。あの子もこれで幸せになりますよ」とにこにこと愛想笑いをして言った。けれども、若紫の朋輩たちはこれと違って「かわいそうに、若紫は京大坂の遊廓へ売られていきましたよ」と涙を流しながら話した。
 芳洲は若紫が顕之允の残っていた花代をすべて済まし吉野楼を去ったことを女将から聞かされた。芳洲は妹の真夜が富田楼でおいらんとなっていると若紫から聞いたのをふと思い出し出かけて行ったが、妹の真夜もすでにそこをやめていなかった。
 芳洲は藩邸へ戻り、このことを顕之允に話した。顕之允はわっと泣き出し畳の上にうつぶせになり、いつまでも泣きやまなかった。その後、謹慎を許され門外へ出ることとなった顕之允は、連日のごとく小夜の行方を求め血眼になって吉原のみならず江戸中の遊廓を探し回ったが、ついに小夜を発見できなかった。

       13
 芳洲は顕之允とともに徂徠の邸宅を訪ねた。
 「顕之允はやむを得ぬ事情のために、自分と共に対馬に戻ることになりました。わずか三ケ月の入塾生活ではありましたが、随分とお世話になりかたじけない」
 芳洲は深々と頭を下げた。徂徠は芳洲の横に無言のまま暗い顔つきで俯きになって座っている顕之允を見た。
 「こんなに早く御子息が帰郷なさるとは思いも到りませんでした。まことに失礼ですが、今まで通り授業料はいただがかなくとも結構ですから、御子息を私どもへ預けていただけませんか。喜んでお世話させてもらいますが」
 「いや、本当に有難いお話ですが、それはなりませぬ。これまで三ヶ月間授業料だけでなく食事の賄い代も出していただいたのに、これ以上あなたの御好意に甘える訳にはいきません。顕之允は対馬へ連れて帰ります」
 「さようか。まことに残念ですが、やむを得ません。それではお別れにあたり、御子息と二人だけでお話しをしたいのですが、お許し願えますか」
 芳洲はうなずき、その場を立った。顕之允はすばやく徂徠の膝元にすり寄った。
 「先生、私はここにとどまっていたいのです。なんとかして先生のお力でもう一度江戸に残して下さい。私はどうしても先生のお側にいたいのです」
 顕之允は今にも泣き出さんばかりに徂徠の袖にすがりついた。
 「あなたは江戸へ残りたいと言われる。しかし、お父上はこれを許さぬとおっしゃる。顕之允殿、忠孝の理を窮めるとは君忠義を尽くし、親に孝行をするということだ。君臣の間は道が合わなければ去ればよいけれども、父子の間は号泣しても従わねばならぬ。あなたは父の芳洲殿の言い付けに逆らってはなりませんぞ。お父上に誠を示せば必ずや分かってくださるであろう。決して親不孝のふるまいはなさるなよ」
 顕之允は自分が脱藩するつもりであることを徂徠先生にすっかり見抜かれていることを知って、思わず内心驚いた。顕之允は居ずまいを直した。
 「先生、分かりました。すべては私がふつつか者であるために故郷に帰ることになったのです。今回は父とともに帰国いたします。しかし、帰国すれば、江戸と対馬とでは千里も離れているのでお話ししたいことがあってもすぐにうかがえません。どうか、お言葉をいただきたく存じます」
 顕之允は徂徠の顔から目を離さずに訴えた。
 「家老の子は必ず家老となる。士の子は必ず士となる。君はいずれお父上の役柄を継ぎ対馬の向こうの朝鮮と対外折衝なさるであろう。隣国との折衝に当ってはいつも温厚和平でなければならぬ。そのためには『詩経』を学ぶのが一番である。『詩経』三百篇の詩は町の者も村の者も身分の高い者も低い者も田夫も若い女も詠んだ歌が集められている。これを読めば、心も自然と柔軟になり、道理にも行きわたり、世俗の習慣や地方の気風も理解できるようになる。自然に人情に通じ、高い位の人でも賤しい人のことが分かり、男であっても女の心持も分かり、また賢い人が愚鈍な人の気持ちを察することもできるようになる。だから、中国人は隣国に使者となった時、一人で交渉できるために『詩経』を学んだのだ。『詩経』の教えを実際に用いれば、隣国の者同士がたがいを理解し争いをすることなく、温かい春風のように穏やかに心がなごみ、両国のいかなる困難な問題も解決できるにちがいない。こうした後に、もし余力があればその時はじめて君は漢詩を作られるがよい。さすれば、君はさらに温厚和平な人となれよう。願わくば漢詩を書くことで不朽の名を得ようなぞと、ゆめお考えにならぬようになさい」
 「先生のお言葉、肝に深く銘じます。私は父とともに対馬に戻りますが、三年経ったら必ずまた先生の教えを直接受けるために江戸へ帰って参ります。それまでお会いできませんが、先生、お達者でいてください」
 「そうか、三年後にはまた江戸へ帰ってくるか。光陰流水の如し。三年はあっという間に経つ。三年経ったら再会できるのを今から楽しみにしているぞ」
 徂徠は眼にかすかな輝きが帯びて来た顕之允の顔を見た。
 しかし、顕之允は自分の願いも空しく三年経っても、江戸へ上ることは出来なかった。享保三年(一七一八)参覲で江戸に滞留していた芳洲は二男の徳之允(賛治)を学問稽古のために江戸へ呼び寄せた。顕之允も弟とともに是非とも江戸へ上りたいと何度も繰り返し懇願したが、芳洲はこれを決して許さなかった。徳之允は折角江戸行ったけれども、束脩を納められないためにどこの塾へも入れなかった。
 享保四年(一七一九)、吉宗公の将軍就任を祝賀し、朝鮮通信使が来日した。芳洲は一行と共に江戸へ行き、そして対馬へ戻って来た。
 芳洲は三人の息子を引き連れ、客館に宿泊している製述官申維翰に会わせた。詩の唱酬をするためであった。顕之允、徳之允、俊之允の三人は詩を詠み申維翰に見せた。申維翰はとりわけ顕之允の詩才を称賛した。
 「さすが雨森芳洲殿の息子殿の詩はすばらしい。まいりました」と言って笑った。
 顕之允はこの時、申維翰が自分の作った漢詩が見るに足りない漢詩であるからこそ、かえってほめたにちがいないとなぜかしらふと思った。改めて自分の漢詩を見つめてみると、なるほど漢詩を作る方式には従って漢詩の体裁はとっているけれども、自分の詩情の表出がいかにも不十分であると思われてきた。恐ろしいほど恥ずかしみを覚え、にわかにわが身がぶるぶる震えるのを感じた。今、はじめて父の芳洲が日頃よく話していた言葉を突然に思い出した。
 「朝鮮語を学びはじめた頃は、こちらが朝鮮語を使うと、朝鮮人は『うまいですね』と言ってほめる。さらに朝鮮語が上達すると、今度は『下手くそですね』とけなす。ついに朝鮮人と対等に話せるようになると『やっと朝鮮人になりましたね』と言うようになる」と。
 顕之允はこれまで自分の漢詩が褒めそやされてきたのは、ただ雨森芳洲の子であるからであったと知らされたような思いがした。蘐園塾の連中は私の漢詩を本当は父親の芳洲に作ってもらったのだろうと半分からかい、半分猜疑したが、もし父親が芳洲でなかったら、それこそ私の漢詩など実際に最初から見向きもしなかっただろう。申維翰殿は自分の漢詩を読み、どう見ても上等な詩ではないと一瞬に見抜いたと思い、背中に冷汗がどっと吹き出すのを感じた。江戸にいた頃、徂徠先生に自分の漢詩の添削をお願いした時に、「私が朱筆を入れれば、その時は君の漢詩ではなく私の漢詩となってしまう。どこまでも自分の手で詩句を練り完成するがよい」と徂徠先生はおっしゃり、たとえ語法に誤りがあっても、強いて直されなかった。これは、この私に本当は詩才がないことを徂徠先生はよく承知なさっていたからではないかと今になってやっと思い当たった。だからこそ、徂徠先生は「侍としての本分を果たすことをまず第一とするがよい。こうした後に、もし余力があればその時にはじめて漢詩を作るがよい」と念を押されたのだ。詩才もないのに詩人として名を成そうという私の思い上がりを暗に戒められたのである。その意味が今はっきり分かった。申維翰殿に文学の戦いを挑む前に、すでに自分は敗北したのだという念が顕之允の顔面を蒼白にした。これまで人々は寄ってたかって私の漢詩をほめちぎった。それはあさはかなお世辞であったのに、本当に自分は天才だ、天才詩人と思い込み、浮かれいい気になっていたのだ。称賛の言葉は実は揶揄の言葉であったのに、なんという馬鹿か。おだてられ、いい気になり、すっかりのぼせあがっていたのだ。みんな私を表ではほめていても陰では舌をへらへら出していたのだ。なんたる侮辱か。顕之允は思わずうなだれて、何も言えなかった。涙が出そうになった。
芳洲は顕之允のすっかりしょげ返っている様子をちらりと見て、製述官の申維翰に言った。
「詩の唱酬をしてくださり感謝します。わが息子たちは彼らなりに精いっぱいよい漢詩を作ろうとしていますが、なにぶんにも貴国と違い漢詩の成就は極めて難しい。あなたあにとってこの者たちの漢詩はあまりに朴拙であるためお笑いになったでしょう。しかし、彼らにとって千辛万苦、やっと出来た漢詩ですので、どうか優容してこの者たちを激励してくだされば幸甚です」
朝鮮の訳官がこれを申維翰に通訳した。
「これは決してお世辞を申したのではありません。雨森家の三兄弟が朝鮮国の私に友情を示すために、わざわざ私と詩の応酬をして詩をお見せ下さり感謝します。いずれの漢詩も若い皆さんの懇篤なお心づかいが行間ににじみ出ていて大いに感心しました。孔子も『後生畏るべし』と言っております。どうか、三兄弟が今後も試作にお励みくださるようにお願いします」
申維翰は三人に明るくにっこりと笑いかけた。徳之允と俊之允は申維翰に丁重に礼をしたが、顕之允は恥ずかしくてその場にいたたまれず、一礼もできず足早に立ち去った。これまでなんというつまらない漢詩を書きつづけてきたのか、自分の不甲斐なさに無性に腹が立ち悔しくてたまらなかったのだ。
その晩、顕之允は屈辱のあまり自殺を図った。しかし、府中湊を臨む立亀岩の上から暗い眼下の海へ向かって飛び込んだけれども死ねなかった。夜明け方、全身濡れ鼠になって家へ魂が抜けたようにふらふら帰って来た顕之允の姿をたまたま、厠屋へ行った時に芳洲は見た。芳洲は思わず「あっ」と息をのんだが、あえて何もたずねなかった。

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 享保六年(一七二一)、顕之允は二十三歳となった。最近ではやくざとも付き合い賭博場へも通っていた。顕之允は父親の芳洲とめったに口を利くことはない。家の中にいても出来るだけ顔を合わせないようにしている。今では両親に対して「自分は父上の跡を継ぎ儒者となるつもりはない」とはっきりと言い張る。妻のしのは「なんとしても私の夢をかなえて儒者になっておくれ。それでなくてはおまえを育ててきた甲斐がない」と毎晩、顕之允の枕元に座り込み、泣きながら口説いた。しのの黒髪は心労のため急に白くなった。それでも顕之允は頑として聞き入れなかった。
 芳洲は陶山庄右衛門に顕之允を家業の儒者として務めさせるかどうか、相談に乗ってもらった。結論として、親の目から見ても朝鮮向きの用件を務める力がないことは明らかである以上、顕之允は儒者としてではなく、「身分相応」に藩士として召し出され、自分の死後は俸禄を半額に減らして支給してくださるように藩にお願いしようということになった。
 藩は嫡男の顕之允の家業御免を避け、顕之允はまだ二十三歳の若さだから、家業御免の願いは早すぎるとして芳洲に翻意させ顕之允に家業を継がせようとした。芳州は願書を繰り返し提出した。しかし、その度に藩はこれを付き返すので、ついに藩の重臣に信任の厚い陶山庄右衛門から口上書をしたためてもらうことにした。陶山は病気中ではあったが、「わしでお役に立つなら喜んで」と言い杉村采女、大浦忠左衛門の藩両家老宛に口上書を書いてくれた。
 「このまま落ち着かなくては顕之允は他国へ出ることを願わねばならないし、それも許されず顕之允の家業御免も許されないとあっては雨森家は断絶せねばなりません。家業人の嫡子が家業を継がないことはその例がないことはございません。東五郎の心中には知行半減を願い上げても減らされず、顕之允に家督を仰せ付けられるようになっては、今後家業を嫌います人がその禄を減らされることを望まないで、東五郎の真似をして願い出ることもあるかもしれません。そうなってはよくない発端を作ったことになり決して本意ではないので、せめて三十石でも減らしてくださらなくては東五郎は承知しません。論語に『匹夫も志を奪うべからざるなり』とあるように、人の志はお上の力でも無理やり奪われますことはよくないことですので、東五郎の願いどおりに仰せつけられたいことです。このような次第をはばかりなく詳しく御判断くだされば、私にとっても千万かたじけなく存じます。
 親が子を愛しますのは、貴賤上下、知愚賢不肖みな変わりなく同じでございます。東五郎の願いどおりに仰せつけられない時は、東五郎の死後のことが落ち着きません。東五郎の生存中に家業御免のこと、知行減少のことを願い上げどおりに仰せ付けられなくては、東五郎の死後になり願い上げどおりに顕之允に仰せ付けられるはずもありません。そのようにすると仰せつけられても、あるいは家業御免は許されなかったり、あるいは家業御免となっても二百三十石そのままとなったりしては、顕之允が父東五郎の志に背きお上の御命令を受け入れるはずもございません。私、朋友の頼みを聞いてかなえてやらずにはおられません。なかんずく東五郎からは学問の上で大恩を受けていますので、格別に心を尽さねばなりません」
 陶山右衛門の口上書によって、ついに杉村、大浦の両家老は顕之允の家業御免を認め、顕之允は享保七年、百八十石の馬廻の格で勤めることに決定した。ただし、現在は芳洲が奉公しているので、その間は顕之允は無禄である。
 これまで藩は執拗になんとかして芳洲に考え直させようとした。しかし、陶山は翻意を促すことはいっさい言わなかった。なぜなら、陶山は芳洲から顕之允の教育について今まで繰り返し何度も相談を受けていたし、顕之允のことで芳洲が前々から深く思い悩んでいることを誰よりもよく承知していたからだ。幸運なことに芳洲の願いどおりに、顕之允が家業を継がないで対馬藩に士として出仕できるようになったのは、ひとえに陶山氏のおかげであった。本当ならば顕之允が父の家業を継がない時は、他国を放浪する境遇となってもやむを得なかった。まして芳洲の本禄は二百石なので、家禄を半減となれば百石、あるいは三分の一の七十石となっても決して文句は言えない。それをわずか二十石を減らすだけで、百八十石の馬廻の格で出仕できることになったのだから、芳洲はどんなに有難かっただろう。
 芳洲は顕之允の家業御免が承認されて大いに安堵したが、一方ではこの件について家中の者がどんな陰口を言っているか決して知らない訳ではなかった。
 「芳洲は殿に講釈する立場を利用し、いつも殿にわがままを言っては、それを聞いてもらっている」
 「一体、江戸から来た連中は自分を何様だと思っているのか。『旅人』の癖に自分勝手なことを申し立て、かなえてもらおうなんてあまりに虫がよすぎる。家老たちが東五郎一人を特別扱いしすぎるから図に乗るのだ」
 「新井白石が将軍家継公の政治顧問であった時は、同じ木門の学友であった好から少しは役に立つかと思った。しかし、家老平田直右衛門とともに五年も江戸に滞在し新しい領地を求める交渉を幕府と進めたのに、とどのつまりは白石にうまく丸めこまれてしまった。それなのに、自分の失策も忘れ今でも自分でなくては対馬藩の儒者は務まらないと思っているのか。自惚れるのもいい加減にしろ」
 「顕之允は藩儒としてやっていくに足る学力はないのか。学問はそれほど不得手ではないというのに、これは世襲に甘んじているわれわれへの当てこすりか」
 芳洲の考えは違っていた。芳洲は遊び人の顕之允に家業を継がせ二百三十石をそのままの家禄としたならば、口では平生えらそうなことを言っていても芳洲もやはり人の子、他人には厳格なくせに身内には甘い親馬鹿にすぎないと一時そしられ中傷されただけですんだだろう。いくら顕之允みたいな道楽息子でもやがて年を取り分別も付けば、それなりにまともになるものさとして見過ごされただろう。芳洲はそうした世間の見方に従えなかった。なぜなら、顕之允は親の目から見て二百三十石をもらうほどの器量はないからこそ、家禄の減額を申し出たのだ。対馬藩のような貧弱な財政では少しの贅沢は許されない。実力もないのに親の俸禄をそのまま引き継ぐのは藩にとっては大きな損失である。まして対馬藩は他藩とは異なり、何よりもまず朝鮮のことをよく知り学ばねばならない。並みの儒者では対馬藩は務まらない。生まれつき秀才であり、学問が好きで、精励をいとわぬ気質、この三つの条件がそろっていてはじめて世間に知られるほどの儒者になることが出来る。たとえ親が優れた儒者であっても、その子がまたそうである保証もない。幕府に仕え大学頭になっている林家をはじめ、諸般の儒者を見ても親が有名であっても、その子が親に劣らぬほどの儒者になる例は十人に一人もいない。まして学問の伝統のない対馬藩はこれまで一角の儒者を育ててこなかった。だから、その場しのぎに藩が重い禄で他方から立派な学者を選んで召し抱えてきた。しかし、親が一代限りで役に立っても、その子に至り御用に立たなくてはなんのために親を他国から招いたか分からない。二代目、三代目と跡が続いてこそ学問の伝統が出来るものだ。
 父親がわが子の家業御免と禄高減額を申し出たことに対して、あれでは顕之允があまりにかわいそうだ、芳洲は情のこわい父親だ、息子の心を深く傷つけているのがどうして分からぬかと非難する。それは決して分からぬでもない。それでも、本人の顕之允にとっても藩にとってもこの方がましなのだ。儒者になるのにふさわしい人物は顕之允でなくとも対州に探せば必ずいるにちがいない。嫌がる息子に家業を継がせても、結局家業に身を入れなくては役に立つまい。日本全国、どの藩でも世の中に変化がなく家柄が定まっているので、人々の心に励みがなくなっている。これは儒者の子弟だけではない。医者の子弟でも同じだ。幕府の医官でも一代目は目覚しい働きをしても、二代目はたいてい役に立たない。なぜかと言えば、親たちは忙しいのでおのれの子供の教育をしている暇がない。子供は教育を受けなければ学問が上達しない。学問をさせるため塾に通わせるには供の者を付けねばならぬ。ところが俸禄が少ないため、その費用がまかなえず、ついつい子供は無学になる。そもそもわが息子の顕之允がよい例ではなか。二百三十石の家禄で三人の息子に教育を受けさせようと思えば、どうしても藩に借銀を願い出ねばならぬ。金さえあれば、顕之允をもっと早くから江戸で学ばせたし、もしかしたら家業御免というような不名誉なことに至らなかったかもしれぬ。その苦い悔恨がいつも心の底に重く澱のように沈んでいる。まして顕之允のように進んで儒者になろうとしない者が多くなれば、これから藩儒が一人もいなくなってしまうだろう。主君を盛り立てるか、盛り立てないかは優れた藩儒がいるか、いないかである。どうしても秀でた儒者が不可欠である。
 藩の学校はある。けれども、そこは藩士の子弟しか学べない。彼らを見ても、世の中が太平となり士風がゆるんだ現在、学問にひたすら真摯に取り組む気構えの若者は見当たらぬ。彼らは家老の子は家老、侍の子は侍の子という門閥世襲の中にぬくぬくと安住し、功を競う気概はすでに失せている。努力せずとも父親の家業を継ぎ大過なく暮らせば、食うに困らずそれで事足りとして安心しきっている。こうしただらけた現状を打破せねば、対馬藩がこれからの難局を乗り切れぬことは明らかだ。人材はもはや馬廻の者からではなく、町人の子弟の中にしかいないように芳洲は思えた。芳洲は生まれよりも人だとわが心に叫んだ。

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 芳洲は町人の子供たちの中に人材を見つけ出して儒者を育てねばならぬと思った。そこで、崇信庁という塾を自宅の離れに造り、藩士の子弟と共に学問の好きな町人の子弟を集めて講義を始めた。実際に彼らを教えてみて、侍の子供と比べて町人の子供の方が学問の取り組みがまるで違うのに驚いた。町人の子供たちは真剣で熱意をもって励む。分からないことはどんどん手を挙げて芳洲に質問するので、芳洲も教えるのがいつも楽しくてならない。藩士の子弟に四書五経の講義をしても、すぐに注意散漫となり横の者としゃべったり、居眠りをしたり、落書きをしたりする者が多い。町の子供たちは芳洲の話す一言一句を聞きもらすまいと目を輝かせて見つめている。彼らは予習、復習を少しも怠らない。中には芳洲に空き時間には朝鮮語や唐語を教えてくれとまで言う。芳洲はそうした子供たちが可愛くてたまらず、喜んで付き合った。
 彼らの中で早くから頭角を表したのは阿比留太郎八と大浦徳太郎の二人であった。阿比留太郎八は宝永三年(一七〇六)に俊之允と同年に生まれ、大浦徳太郎はその六年後に生まれた。彼らは対馬の「六十人中」の商人の子弟であったが、学問が好きで家にも帰らず崇信庁に泊り込んで学ぶまでになった。二人は競って芳洲の蔵書から本を次から次と借り出し夜を徹して読書した。芳洲は二人の勉強ぶりを見て、自分の跡継ぎは彼らが最も適任であると確信した。彼らを一角の儒者として一人立ち出来るようにするには早くても二十年の歳月はかかる。それまで二人が稽古扶持として藩から学問料筆墨料をもらい、さらに長崎で唐語稽古ができることを藩に認めてもらえるように、芳洲は二人の後盾となって盛り立ててやらねばならぬと決意していた。たとえ昔と違って藩財政が逼迫していても、藩が二人のために金を惜しんでいては優れた儒者にすることは出来ないのである。芳洲の願いにより、阿比留太郎八は十七歳の時に、そして大浦徳太郎は十四歳の時に毎年学問料黒米十五俵をもらえることになった。さらに享保十年には藩に願い出て、芳洲は二十歳の阿比留太郎八を長崎滞在中の二男賛治と共に唐語稽古ができるようにしただけではなく、十四歳の大浦徳太郎を自分が江戸へ参観に行くのに同行し学問稽古をさせた。その四年後、芳洲は裁判役として倭館へ行った際には、賛治とともに阿比留太郎八と大浦徳太郎を朝鮮筋のことを見習わせるために同伴した。
 こうした芳洲の熱心な推輓により、阿比留太郎八も大浦徳太郎も師匠の芳洲の期待に応えてますます勉学に身を入れ励んだ。藩士の家柄が定まり人心が寝入っている中で、身分の低い者から出た者は侍よりもはるかに才智があることを芳洲はよく知っていた。将軍綱吉公に仕えた側用人柳沢吉保、徳川家宣公とその子家継公に仕えた側用人間部詮房は能楽者であったが、彼らが幕閣の実力者となって出世したのは下から推挙してもらったことに恩義を感じ、主君のために働いたからである。阿比留太郎八や大浦徳太郎のように、たとえ一人でも二人でも町人の出自であっても賢才を登用してやれば、今までの家柄のみを大切にする風習が打破される。個人の才能を認めてやれば、その勢いによって残りの人々の励みの目標となり世の中が急に活気づくものだ。
 芳洲の願いは二人の学問料や筆墨料を藩に支給してもらうことだけではない。ゆくゆくは彼らを馬廻にしてもらうことであった。しかし、藩は門閥世襲の風習が打破されるのを恐れ、二人の人材登用をなかなか認めなかった。芳洲は二人の身分待遇を上げてくれることを何度も繰り返し藩に申し入れた。
 享保二十年(一七三五)十二月十二日、藩は三十歳の阿比留太郎八を大小姓に命じ、三人扶持とした。また大浦太郎は翌年より筆墨料銀五枚を賜ることになった。棧原の館から下城して崇信庁へ報告にきた二人に、芳洲は祝辞を述べた。
 「まずはめでたい。おまえたちの精進を藩が認めてくれたのじゃからな。しかし、これで決して満足してはならぬぞ。太郎八、おまえは次には馬廻とならねばならぬ。馬廻になれとわしが言うのは、出世を求めよということではない。大小姓ではたとえおまえがよい意見を申しても藩に採用してもらえぬばかりか、下の身分はよい意見も言えぬものじゃ。馬廻であってこそ、本気で政治に取り組むようになるからよい意見も言える。わしの生きている間はともかく、わしの死後におまえがどんなに精を出し身を入れて勤めても藩がおまえを取り立てず馬廻に召さなかったらやむをえまい。対馬にとどまらずにここを去れ。潔く藩士を辞し長崎へ行き唐通詞となるがよい。折角才智があり器量があるおまえの真価を見抜く目が藩にないのじゃから、おまえが対馬にいつまでもいては自分を殺すことになる。おまえの学力ならば必ず立派な唐通詞となれるじゃろう。そのためには毎日唐語の稽古を怠るな。おまえなら他国の藩から二百石で召し抱えようという誘いもあるじゃろう。しかし、他藩に出仕しようと願ってはならぬ。なぜなら、これまでおまえは他の者と違い藩より多くの稽古料をもらい学業を成就させてもらった御恩があるからじゃ」
 「分かりました。自分のような薬屋の子供が大小姓になれましたのもすべて先生のおかげです。今後とも先生の教えを守り学業に専念します」
 「よくぞ、申した。太郎八、お前の後には大浦徳太郎が続いていることを忘れてはならぬ。徳太郎、おまえは来年から褒賞として筆墨料五枚を毎年頂戴できることになった。よかったな、これから学問を続けていくには決して多い金子ではない。しかし、これを励みとして有難く頂戴しておくがよい。いいか、おまえも先輩の阿比留太郎八を見習い、一日も早く大小姓に命じられるように務めよ。おまえにも言っておく。もしどんなに精を出し身を入れても報われず馬廻に召されなければ、その時は対馬を去るがよい。才智ある者を新たに登用しない対馬藩には、きれいさっぱり未練を立ち大坂へ行って医者となれ。医者となり身を立てることがお前を生かす道じゃ。おまえも他藩から二百石で馬廻に召し抱えようという話が来ても、対馬藩の御恩を受けたからには、他藩に決して仕えてはならぬ。恩義を忘れる人間をわしは教育した覚えはないからな。もしもわしの言にそむく時は、わしの死んだ後に墓参りは一切無用じゃ」
 「先生、一日も早く大小姓として召されるように精進いたします。どうか今後とも御鞭撻をいただきたく存じます」
 「おまえの長崎行きについては、藩は金がないからわしについて唐語を学べばよいと渋っている。しかしな、唐語は中国人に直接学んでこそ習熟できるものじゃ。なんとしても、太郎八と同様におまえが長崎で唐語稽古ができるように藩に頼んでおくから、今からその準備を怠らずしっかりと勉学に励めよ」
 「有難いことです。唐語稽古は太郎八殿に少しずつ教えてもらっています」
 「そうか。毎日続けることじゃ。わしはおまえたちがいつか藩儒となってくれることが望みなのじゃ。わしの跡を継いでくれば、その時こそわしがこの対馬へやって来た甲斐がはじめてあったというもの。もはや家業人ゆえにその子どもに家業を修得させ継がせればよいという時代ではない。家柄が固まり、身分の低い者は立身の希望がもてぬ社会はよい社会ではない。まして今の世の中は金さえあれば何でも出来るという間違った風習がある。わしはどんな身分でも、どんなに貧しくても本人の器量次第で高官に昇れる世の中にしたいのじゃ。おまえたちの活躍によって少しでもいかなる者も希望のもてる対馬藩にしなければならぬ」
 芳洲は二人が立派に馬廻となり対馬藩の儒者になるまでは、生きてしっかり見届けなければならないと思った。

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元文三年(一七三八)、松浦賛治が長崎役として長崎へ行くのに伴い、大浦徳太郎はかねてからの念願の長崎での唐語稽古が藩からようやく許された。初め賛治に同行する予定であったが、大浦徳太郎は病気になったため遅れて五月十一日に出帆して行った。
 松浦賛治が長崎へ赴任してから一年も経たない十一月十三日、賛治は水牛角六千本の調達に成功したとして、藩から紗綾五反を褒賞として下されることになった。水牛角は武具や薬品として使われる朝鮮への輸出品として不可欠の物産である。水牛角はシャム・カンボジアなどの東南アジアで産出し、中国では稀なものである。だから、東南アジアまで行く船でなくてはこれを日本へ運んで来れない。ところが、こうした唐船や蘭船は最近では商売がうまく行かず、なかなか長崎へ入港しないため水牛角を毎年調達することが困難である。しかし、賛治はご奉公前に唐語稽古のため長崎に滞在していた縁から中国商人と親交を結んでいたおかげで、水牛角の調達が思いの外にうまく捗ったのである。
 芳洲は二本歯が抜けたため数日来続く歯痛で夜も眠れなかったが、賛治の名代として登城し藩主宗義如公から褒美を頂戴した。紗綾五反の受領が終ると、家老大浦忠左衛門が芳洲に話しかけてきた。
 「賛治殿を長崎役に任命するには当人からの熱心な申し出があったものの、正直申して大きな不安がござった。なにせ公貿易品の巧者瀧田六左衛門殿の後任であったからな。失礼ながらお父上の芳洲殿とは違って、これほどまで商売上手とは存ぜなんだ。わしも長崎役に賛治殿を抜擢して肩身が広いわ。これまでの長崎役と違い、賛治殿は唐語が堪能なだけに中国野商人と太いつながりが出来たようじゃ。おかげで藩としては水牛角の調達は一安心という訳ですわ」
 毎年水牛角の調達に頭を悩ませていた家老大浦忠左衛門はいかにも嬉しそうであった。
 「さよう。金もうけはとんと下手なわしと違い、利に聡い賛治は儒者よりも商人になった方がよかったかもしれませぬ。四年半も長崎で唐語稽古をさせてもらった恩返しが少しでも出来れば賛治も本望でしょう。わしとしては、一刻も早く長崎役を終えて帰国してほしいのじゃが」
 「朝鮮佐役でもある賛治殿が長崎役を兼任していることを、貴殿は気に揉んでおられるのですか。賛治殿からも今一人佐役の増員を求めておられたので、添役の味木金蔵殿を昇格させました。ですから心配はいりませんよ。味木殿は朝鮮方の勤務も長いので、一人でも十分やってくれるでしょう。これで賛治殿は心置きなく御役に精出してもらえるという訳ですわ」
 「これまでは朝鮮貿易と言えば、なんと言っても輸出品として丁銀が大半を占めており、丁銀がなくてはかなわなかった。宝永の貨幣改鋳の時には、対馬藩は品位の悪い宝永銀では朝鮮貿易が出来ぬとして幕府と交渉し慶長銀と同位の人参往古銀を鋳造する許可を得て、なんとか朝鮮へ輸出してきた。今まで幕府はいつも銀の輸出を制限し反対してきた。一昨年の元文元年にも幕府はまた貨幣改鋳を行ったね」
 「はい。丁銀の品位を享保銀の百分の八十から四十六の元文銀に切り下げました。このため、朝鮮国が元文銀を受け取らない時は、人参の日本国での売値は五割引き上げる代わりに朝鮮への人参代としては五割増、交易代としては九・九割増の元文銀を出せば、対馬藩のために人参往古銀を鋳造してやると言いました。これはあまりにひどい仕打ちではありませんか。幕府は対馬藩の息の根を止めようというのでしょうか」
 「さよう。問題は宝永の条件と異なり、元文銀と人参往古銀との引替の際の無歩が中止されたところにある。幕府から人参往古銀と交換するからと言って、交易代として九割余の高歩合増を求められても、肝腎の元文銀が確保できぬため対馬藩にとって到底引き替えられるはずもない。これでは朝鮮貿易を止めろというに等しいわ」
 「今はもはや丁銀よりも、水牛角が一本でも多く調達できなくては朝鮮貿易は成り立ちません。出来るならば、わが藩で毎年水牛角を六千本ずつ輸入できる唐船を調達できれば一番いいのだがな。それにしても、賛治殿は長崎奉行だけでなくオランダの商館長にも働きかけを強めておられるのには感心しました。二人への付け届けが必要だとして人参、朝鮮茶碗、また長崎の町年寄、大通詞との接待の増額も求めて来られましたよ」
 芳洲は突然に歯がずきずき痛みはじめるのを感じ、苦しい顔つきになった。
 長崎役として赴任する直前に、賛治はわざわざ衣類を京都で求め対馬へ搬送する途中、海水にかぶり着物が台無しになったので、藩に借銀を申し込んだことがあった。賛治は京都屋敷出入りの呉服屋から高価な着物を注文していたのだ。藩は朝鮮方の用銀を当て借銀を認めたが、芳洲はこうした賛治の態度を叱った。
 賛治は悪びれずに答えた。
 「父上は贅沢はしてはならぬと言われますが、対馬藩の長崎役がみすぼらしい恰好をしていれば、他藩の長崎役から馬鹿にされるだけではありませんよ。町役人のみならず町の商人、なかんずく清国の商人からもないがしろにされます。もしも彼らに対馬藩が貧しい藩だと思われたら誰が商売の話を持ってくるものですか。水牛角を大量に購入するには身だしなみが大切なのです。京でわざわざしつらえた着物を長崎役が着てこそ、商売もうまくいくのですからね」
 芳洲はその時思った。ああ、賛治が長崎役を長く続けたらよくない結果を招くだろう。儒者は商売人とは違うのだ。なるほど儒者は身だしなみが無頓着であってよいという訳ではない。だらしない恰好をせず、礼儀に適った身のこなしをしていればよいのだ。それを長崎役となるからといって、自分の俸禄でまかなえず借銀までして京都の呉服屋に高価な着物を買い身を飾るということは、果てしない奢りの始まりとなる。賛治が長崎役を続ければ、自然に華美栄耀を好む人間になるにちがいないと危惧の念をいだいたのである。
 芳洲は自分が唐語稽古のために長崎にいた経験があるので、長崎役がふだんいかなることをしていたかよく知っていた。西国十四藩の長崎役たちは美々しい着物をまとい諸般との情報収集を円滑にすると称しては茶屋での遊興を専らにしていた。そればかりか茶屋から遊所へ決まって繰り出すのが常であった。ある時、芳洲が寄宿しているとも知らず陶々亭に対馬藩の長崎役が、平戸藩、福岡藩、佐賀藩の長崎役と連れ立ってやって来て、賭け麻雀をやりはじめたことがあった。賭けに負けた者がその日の陶々亭の花代を全部支払うのであった。芳洲は彼らが来たことを知り、あわててその場から逃げ出さねばならなかった。おそらく今でも同じような「酒池肉林」の歓楽を貪っているに違いない。芳洲はそう思うと、賛治の藩への接待費の増額の請求はそうしたものに使われるのであろうかと疑われた。歯痛がいっこうにおさまらないので、ますます不機嫌が嵩じて来た。

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 顕之允が朝鮮御横目頭となり、倭館へ赴任して行ったのは、享保十七年(一七三二)六月十日、三十四歳の時であった。ところが、半年も経たないうちに突然に顕之允は病気にかかったのである。錐の先で突き刺すような激痛が両足を襲い、歩くことも出来なくなった。倭館に勤める対馬藩の医者に診てもらったし、朝鮮の医官にも鍼灸を施し、薬を調合してもらって飲んだけれども、痛みはいっこうに止まらなかった。ついに朝鮮御横目頭を辞し、翌年四月十五日に帰国せねばならなかった。のみならず、脚疾は治らないので、御番免除を願いでるまでになった。発病以来、すでに六年余り自宅で療養しているのに痼疾は癒える兆しはなかった。
 藩医古藤文庵から「足が腫れ麻痺して歩けないからと言って歩行しないのは、かえってよくない。出来るだけ散歩することが養生のひとつだ」と言われた。顕之允は医者の忠告に従い海辺や山や野原へ、毎日天気がよければ行く場所を変えて散歩した。夏の真っ盛りのかんかん照りの日にも戸外へ出て行った。野原で夕立に遭い、走り出すことも出来ず降りしきる雨にずぶ濡れになり、やっと近くの農家へ飛び込み雨宿りをさせてもらったこともある。鎮守の森に雷がすさまじい音を立てて落下していくのを見た。夕立が止んで行ってみると、一番背の高い樹齢百年を過ぎた巨木の檜に落雷が当り幹が裂けて大きな穴が空いていた。また、夏の昼下がりに一人で舟を漕ぎ出し魚釣りをした時には小鯛が何匹もかかった。魚釣りに飽きると、浜辺に船を着け舟の上で日傘をさし昼寝をした。目を覚ますと、いつの間にか満潮の波に乗せられ沖へ舟が流されていたこともあった。
 顕之允は医者から与えられた薬を飲んでも、脚の痛みは少しもおさまらなかった。ただ酒を飲んでいるときには脚の痛みは忘れられた。いつも酒を飲んで痛みを忘れたかった。しかし、酒を買う金もなかった。四十歳の髪はすでに白いものが目立った。老いが確実に近づいていた。病気になった当初は、なぜ自分がこんな難病に取り憑かれねばならないのか、どう考えても納得できなかった。若い時に顕之允は吉原で放蕩のあまりに花柳病を移されて今頃になって発病したのだと子細ありげな噂まで流れた。そうした噂を耳にした顕之允は早く治ろうとしても治らぬためにますます焦り、ちょっとしたことですぐに癇癪を起こし妻子にひどく当った。しかし、今では諦めとなった。友人も初めはよく見舞いに来てくれたが、療養生活が長引くと、めったに訪れなくなった。町でたまたま通りかかっても一礼するだけでもう話しかけて来なかった。友人はどんどん出世して行き、自分だけが取り残されたという思いがした。顕之允は散歩し夕焼けの海の美しさを誰かに語ろうとしても、共に眺める友人もなく一人黙って見つめるばかりであった。
 顕之允は竹杖を突き足を引きずりながら、八幡神宮の裏山の清水山に登った。ここは朝鮮出兵の時に、朝鮮側の攻撃を阻止するために、宗義智公が築城したと言われる山城が残っていた。松の木々に囲まれた一の丸、二の丸、三の丸跡に大きな石垣を積んだ城壁があった。子供の頃に兄弟三人でよく遊びに来た場所だ。春のある日、二番目の弟徳之允が石垣の透き間にひそんでいた蛇の尻尾をつかみ出して振り回し、ふざけて下の俊之允の首筋にのたくったことがあった。俊之允は火が付いたように泣き叫んだ。顕之允はしかたなくいつまでも泣きじゃくる俊之允を背負い山から下りて来たこともあった。また、「古城」という五言律詩を詠んだこともあった。
 望々連平野  望々たり平野に連なる
 高々対衆山  高々たり衆山に対す
 喬松廻紆鬱  喬松紆鬱を廻らし
 長水遠潺湲  長水遠く潺湲たり
 細雨人烟少  細雨人烟少なく
 晩風樵語閑  晩風樵語閑なり
 黄昏唯佇立  黄昏唯佇立す
 燐火棘榛間  燐火棘榛の間
 清水山の頂きにある一の丸跡の石垣に座ると、眼下に城下町や府中湊が一望できた。顕之允は白い帆船がゆっくりと沖へ出航して行くのを見ると、短かった江戸での生活がしばしば思い浮かんだ。深川の料理屋でよく酒を飲んだこと、隅田川に舟を浮かべ夏の打ち上げ花火を見たこと、上野で桜の花見をしたこと。あの頃は自分にはこれから詩人となるという夢が確かにあった。ただの対馬藩士として終るまい。必ず一角の詩人として天下に名を馳せたいという野心と情熱があった。その当時は実際に不思議なほど滾々とわき出る泉のごとく汲んでも汲んでも漢詩があふれ出た。十三歳の時に正徳の朝鮮通信使に製述官として来た李東郭公が自分の漢詩を読んで、「大人になった時が今から大いに楽しみだ」と激賞してくれたのが何よりの励みであったのだ。思えば、そえはちょうど今のわが子亀之允と同じ年頃だった。しかし、脚疾に悩む現在は病気の詩ばかりになってしまった。暗く憂鬱な詩になってしまった。漢詩は幼い時から書いて来たけれども、結局は生涯を賭けてこれくらいの漢詩しか書けなかったのかと思うと、たまらなく寂しかった。鵬海詩集一巻。雨森芳洲の長男として父親の生き方に反発し、父親を乗り越えようとしてそれもかなわず父親の家業も継げなかった放蕩息子。その自分が亀之允に残してやれるものがわずかこれだけだった。自分が死ねば自分の詩集はたちまち忘却されると思うと、おのれの人生があまりに空しく感じられた。あれほど詩作に執着してきたのに、天分がないために優れた詩を書き残せなかったのだと自ら認めざるを得ないことは悲しく辛いことであった。
 顕之允は小さい時に、父の芳洲から唐の李翰が選んだ『蒙求』を教わったことがあった。古書の中から子供の教訓話を集めたものである。顕之允はその中で「知音」という話が好きであった。伯牙という琴の名手と鍾子期という鑑賞家の話である。伯牙が高山に登った気持ちで弾ずると、子期は「いいな、山の高大なさまは秦山のようだ」と言った。今度は流水に向かっている気持ちで琴を弾ずると、子期は「いいなあ、水が盛んに流れるさまは江河のようだ」と言った。伯牙の思うところを子期は必ず言い当てた。鍾子期が死ぬと、伯牙は琴を破り弦を絶ち死ぬまで二度と琴を弾じなかった。なぜなら、琴を弾ずるに足りるものがいないと考えたからだ。顕之允は自分の真価を理解してくれる者をこれまで探してきたが、自分はついに発見できなかったのだと思った。
 顕之允はもう長く生きられないことを自分でもよく知っていた。けれども、もはやどうするすべもなかった。自分にもし鍾子期のような親友がいたなら、自分は必ず優れた詩を書いたにちがいないと思うことで自分を慰めた。せめて自分と同様に幼い時から一緒に詩を書いてきた弟たちが傍にいてくれれば、自分の心の内を話せて少しは憂愁も和み晴れやかになるのにと思った。しかし、弟たちは対馬にいなかった。徳之允は長崎に、俊之允は京都にいた。病気の自分をいたわってくれた二人の弟にもう一度会いたいと願った。もしかしたらこのまま会えないかもしれないという死の恐怖に深夜ふと襲われ、思わず冷たい蒲団を頭まで被り声を殺して忍び泣いた。徳之允も俊之允もそれぞれおのれの道をしっかり歩んでいる。この兄の失敗は繰り返すことはないだろう。兄として弟たちのために何もしてやれず、心配ばかりかけて死んでいかねばならない自分が惨めでまた眼に涙があふれた。

       18
 享保十六年(一七三一)、俊之允が医学修行のために京都へ行く時に、芳洲は剃髪した俊之允を玄徹と改名させた。
 「玄徹、おまえがよい医師になるにはよい医師に就いて学ばねばならぬ。京都に香川修庵という名医がおられる。彼は後藤良山殿に医を学んだ。後藤良山殿は『我れ儒たらんか伊藤仁斎に上たり難し、我れ僧たらんか隠元に兄たり難し』と言って医者になったという。良山殿は修庵殿を優れた人物と見抜き、堀川の古義堂塾へ入門させ伊藤仁斎老師の下で儒学を修めさせた。修庵殿は儒者としてではなく、医師となり生計を立てよという父親の遺言に従い医師となった。そうして古今の医書を読み、古来の医書の説くところを邪説妄論として退け、病気そのものに直接当って療治することを主張した。一家言を立て『聖道医術基本は一つにして二致無し』と提唱し、ついに堂を名付けて一本と号した。ここで学ぶ生徒数は四百人にも及ぶと聞く。是非ともおまえは一本堂塾へ入るがよい。本当ならば、おまえが医師として立身するためにもっと早く倭館か、京都へ医学修行させたかったのじゃが、どうしても遊学させる金子が用立てられないまま、いつの間にかおまえも二十六歳になってしまった。おそらく金持ちの医師の子息が多く学んでいるだろう。わしには金がないので蔵書を売り払ったが、それで足りるはずもない。そのため、止むなくおまえを綿服無僕で京都へ出さねばならぬ。世間では仏像は金箔で塗ってあってこそ、荘厳に見えて尊ばれると言う。医師もまた衣服を飾らないと尊敬されないという。しかしな、わしは大切なのは外面の飾りではなく、内面の美しさであると信ずる。じゃから、おまえは家が貧しいので供の者もいず見すぼらしい恰好をしているからといって自分を決して卑下せずに、志をしっかりもち医学に励んでくれ。大坂に住む友人の唐金梅所殿もおまえの面倒は出来るだけ見ようとまで言ってくれている。何か困ったことがあったら、唐金殿に相談すればきっと力になってくれよう」
 「私の学費を作るために、父上が折角長い年月をかけて買い集めてこられた貴重な蔵書まで売却してくださり、まことに申し訳ありません。私が医者になりましたあかつきには、必ず父上の蔵書を買い戻しますので、どうかそれまで待っていて下さい」
 玄徹はこう言って、笈一つ背負い単身京都へ上った。はじめ芳洲の姉の嫁ぎ先の洛東山双寺に厄介になり香川修庵の一本堂塾へ通った。その後は芳洲の親友の石河又新庵の家へ寄宿した。
 一本堂塾は全国から優れた医師志望の若者が集まる競争の激しい塾ではあったが、玄徹は対馬にいた時に藩医古藤文庵の下で医師の見習いをしていたおかげで、好成績を収めることが出来た。医一本を唱える香川修庵は当時、医者が巫(ふ)覡(げき)賤工の徒に伍せられているのを憤怒し、医師は昔の聖人賢人が身を修め、天下を治めんとして道を学び聖賢の跡を自ら追おうとしてこそ、名実とも医師たる資格があると考えていた。そのため、孔子、孟子の教えを医学を修めようとする学生に学ばせた。玄徹にとって幼い時から父親に学んだ儒学がここで大いに役立ち、師匠の香川修庵に優秀な学生として可愛がられた。玄徹は一本堂塾を卒業すると、石河又新庵の娘なつと結婚し町医者を開業した。
 芳洲は玄徹が京で町医者になった時に、大いに喜ぶとともに、半ば大いに不安も抱いた。生き馬の目を抜く京都の町ではたして医者としてやっていけるのかどうか心配でたまらなかったのだ。参覲の帰途、芳洲は京都で宿泊した際にわざわざ玄徹を宿へ呼び寄せて見ると、玄徹は対馬にいた頃は痩せてひょろひょろした青白い顔であったが、今は体も太り見るからに福々しいにこやかな町医者に変わっているのに正直驚いた。対馬藩から薬に朝鮮の名を着ける許可を得て朝鮮清心丸を自宅で販売しているおかげで、医者の稼業も順調に行っているとの話を芳洲は玄徹に聞き、まずは一安心した。
 玄徹が京都の土産品を持ってきたので、芳洲はそれを受け取り玄徹を見送った後のことである。宿屋「蔦屋」の六十過ぎの目の細い主人が芳洲に言った。
 「豊後の人ですが、この方が初めて京へ医者となる修行のために来られ、わが宿にたまたま泊まられた時荷、従僕も連れず破れ笠、欠け木履、とても見すぼらしいお姿でございました。話を伺いますと、医者となる塾に入門する学費しかないとのことで、実は宿銭もなく三日も食物を食べていないとのことでした。そこで宿代は出世払いということでお泊めしましたが、お人柄がとても大人しい人でした。この人ならきっと成功なさると思いました。その後、立派な医者となられました。今では多くの人から慕われ、京都で十本の指に入る有名なお医者になっておられます。人となりが言忠信、行篤敬と言えるのは他のいかなる飾りにもまさります。あなたのお子である玄徹様は富貴の家よりは貧家の病人の面倒をよく見られるので、町の評判もよろしく治療上手という人はいますが、下手だという人はございません。これからきっと繁盛なさるでしょう」
 芳洲は宿屋蔦屋の主人の言葉が本当に嬉しかった。自分は生涯何度繰り返し孤島から都へ出て暮らしたいと思ったことだろう。しかし、結局は対馬で骨を埋める境涯となってしまった。若き日に一度は医師になろうとして修行もしたが、途中で医者となる志を捨て儒者となっただけに、自分がなれなかった医者に息子の玄徹がなってくれたばかりか、京都のような大都で立派に生活していることが大きな誇りであった。
 蔦屋の主人の言ったことは間違いではなかった。
 元文三年(一七三八)四月十日の夜宵けであった。玄徹は妻かねが眠っている自分の体を振り動かすのでふと目を覚ますと、表の木戸を誰かが慌ただしく「ドン、ドン」と叩き続ける音がする。急病人が出たのだろうと玄徹が眠気眼をこすりながら、木戸を開けて見ると、島原で一、二番の大きな嵐山楼という遊廓の使用人の仙吉が立っていた。これまでも時々、客や遊女の急病だけでなく泥酔した客の介抱に呼び出されるので、顔見知りの男だ。仙吉はいつもと違い、「なんでも御身分の高いお方が急病になられたので、急いで来ておくれ」と叫んだ。玄徹は薬箱を持ち、仙吉の連れてきた轎に乗り嵐山楼へ向かった。
 島原は夜がだいぶ更けているので静かだった。それでも二つ三つ離れた遊廓で笑い声が聞こえた。玄徹が奥座敷へ通されると、夜具に病人が横たわり傍らに二人の侍が控えていた。行燈の明かりがわざと暗くしてあるので、玄徹は病人の容態をしっかり診るために明かりを大きくするように、病人の枕元に座っている老人に言った。老侍は燈芯の具合を直すと、行燈の光であたりがぱっと明るくなった。男は白い目をむき出し顔をゆがめて大きな口を魚のようにぱくぱく開け激しい呼吸をしている。派手な真紅の地に金糸で鶴の刺繍がしてある、掛け夜具の上に出ている男の白い手を取って脈を調べてみるまでもなく、心臓がひどく弱っているのは明らかであった。玄徹は男の浴衣の衿を広げ、発熱し汗だらけの胸を手拭いでふきながら、「何かお薬を飲まれましたか」と老侍に尋ねると、老侍は答えずもう一人の目つきの悪い中年の侍が一瞬にやりと笑った。
 「前より心の臓がお悪いようですね」
 玄徹が尋ねると、「そんなことは分かっておる。早く殿を楽にしてくださればいいのじゃ」と老侍が怒ったように叫んだ。
 「楽にしてあげるために、まずお飲みになったお薬を見せてくださらねば」
 玄徹が重ねて催促したので、老侍はしかたがないという顔つきで中年の侍に目で合図をしたので、中年の侍はあわてて薬を取りに唐紙障子を開けて出て行った。侍が持って来た薬の銀紙の包みを開け、玄徹はちょっと人差し指に粉末をつけてなめて見てすぐ分かった。強い催淫薬であった。中国の薬で「蘇合宝」といい、唐の玄宗皇帝が楊貴妃を愛するため作らせた秘薬とも言われるほどの日本ではめったに手に入らない強精剤であった。以前、兄の徳之允が長崎へ唐語稽古に行った際に、持ち帰った土産の中に家老への礼品として買って来た薬がこれであった。
 「こんな薬を飲ませれば病人のお命を奪うようなものですよ」
 玄徹の言葉に「なんじゃと」と老侍は驚きたちまち真っ青になった。そうして体をぶるぶる震わせて言った。
 「藩医が良薬と言って殿に飲ませたのじゃ。それに殿もこの薬はよく利くといって・・・・・・」
 玄徹は藩医と聞いて夜具に横たわっている病人が担当の身分の者と初めて知った。
 「その藩医はいかがしましたか」
 「あやつは本当に役立たずじゃ。酒を飲み過ぎて隣の座敷でいびきをかいて寝ておるわ」
 「呼吸が慌ただしく、このままでは死を待つばかりですので、お薬を飲ませます。甘草と黄芩の薬を飲ませれば眠りに入られますが、決して死ぬことはありませんので安心なさって下さい。あなたたちはお疲れでしょうからおやすみなさっても結構です。私が側にいますから」
 玄徹は額に油汗を浮かべ口をぱくぱくしている病人の半身を夜具から起こし薬を飲ませ、さらに急須で水を口に注いだ。病人はごほんと咳をして薬を吐き出しそうになったが、かろうじて飲み干した。
 病人が目を覚ましたのは、一日後であった。まるで夜中に大騒ぎしたことが嘘みたいに元気になったように見えた。側に控えている玄徹に気がつき、「おまえが助けてくれたのか。かたじけない」と言った。
 「お気分はいかがですか」
 「大丈夫じゃ。おまえのおかげで命拾いをしたぞ」
 「お殿様、あの薬は毒でございます」
 「馬鹿な。あの薬は蘇合宝というめでたい薬じゃ」
 「いえ、あの薬を飲み続ければ死にますぞ。なるほどまぐわいには役に立ちますけれども、その代わり五臓を苦しめ命まで取る働きをします。どうしてこんな薬を藩医が勧めるのですか」
 「わしが飲みたいと言うからじゃ。わしの言うことに逆らえば罰せられると思っているから、仕方なくあの薬を長崎で仕入れてくるのじゃ」
 「しかし、医者としてお殿様大切に思うなら、こうした薬は絶対に飲ませぬようにせねばなりません。私の見たところ、殿は心の臓だけでなく脚の方も江戸わずらいになっておられるようです。酒色をほしいままになさっては早死になさる結果となります」
 「そちははきはきとわしの容態をはっきりと申してくれた。藩医とはまるで違うな。藩医はわしが殿様だからと言って気兼ねしてわしの病状も言わぬし、薬の功罪もまったく教えぬ。そちこそがわしの体を一番に気づかい大切に思ってくれる医者だ。どうか、わしの藩の医者になってくれぬか。そちのような医者に治療してもらえれば、わしはもう一度健康な体に戻れるように思うのだ。是非ともわが人吉藩の藩医となってくれ」
 男は掛け布団から白い手を出したので、玄徹は強く手を握った。玄徹はこの時初めて傍にいた老侍から病人が肥後国(熊本県)人吉藩の藩主相良長在公であることを知らされた。参覲交代で江戸から人吉へ帰る途中、京都の島原で一晩遊んで急病となったのである。相良長在公は玄徹よりも三歳上の三十六歳であった。
 老侍は側用人田島玄蕃であった。彼は玄徹に書き付けを手渡した。それには雨森玄徹を人吉藩儒医として新知二百石で召し抱えるので、明年元文四年四月までに人吉の城下へ来てもらいたいと書かれていた。
 玄徹は病気がちの相良長在公の体を気づかい、人吉藩の大名行列に従い大坂まで見送った。長在公との別れの挨拶をした。
 「大名の御身ほど結構なことはございません。御養生よろしく長生きなさってください」
 「そちのような真実を申す忠義な医者はめったにいぬ。必ず約束通り人吉へ参れよ。待っておるからな。玄徹、わしには弟がいぬからおまえが藩医となってくれたので新しい弟が出来たようで嬉しいのじゃ」
 長在公はかすかに笑った。
 人吉藩の大名行列は六月に豊前国(福岡・大分県)に入ったが、大里駅で停まった。長い旅の疲労が加わり長在公の容態が急変したのだ。脚の浮腫が悪化して一歩も歩けず旅を続けられなくなったのである。このため、人吉から四人の医師が急いで呼び寄せられた。さらに小倉藩から一人、そして長崎からも一人医者が呼び付けられた。京都に住む玄徹の下にも長在公の危篤の知らせが入った。玄徹は急ぎ大坂から船に乗り広島まで行き、そこで六月二十五日に長在公が急逝したという知らせを受け取った。人吉藩からの手紙には豊前国大里へ来る必要はなくなったので引き返すように書かれており、玄徹は長在公の葬式に出席したかったけれども、諦めねばならなかった。
 長在公は肥後国大村の願成寺に葬られた。十月、あわただしく長在公の嫡男政太郎がわずか六歳で人吉藩藩主となった。玄徹は元文四年三月に人吉に赴き、正式に人吉藩の儒医となった。

       19
 元文四年(一七三九)四月十七日、顕之允が長い闘病生活に勝てずに没した。死ぬ直前まで「痛い、痛い」とわめき苦しみつづけた。毎夜のごとく号泣する父の呻き声に子の亀之允とくには恐れおののき、父の枕元にどうしても近づこうとしなかった。芳洲は今は何も言わなくなった安らかな顕之允の死に顔を見て、今日まで本当によく我慢しつづけた。やっとこれで楽になれてよかったなと思わずつぶやいた。
 賛治が長崎から大浦徳太郎と一緒に対馬の府中に戻って来たのは、顕之允の死没後十日目であった。顕之允危篤の知らせを受けて急ぎ長崎役の仕事を一段落付け帰国したのであった。賛治は長崎へ行っていたために、義父松浦儀右衛門の時も、そして今度の兄顕之允の時も死に目に会えなかったのである。賛治は芳洲の家へ来ると、そのまま兄の位牌が祀ってある仏壇の前に座った。仏壇に生前顕之允の好きだった長崎のカステラと琥珀糖を供え、位牌に向かって合掌した。賛治は美しい絹の黒色の羽織を着ていた。
 賛治はしばらくじっと目をつぶって仏壇の前に座っていたが、やがて大きな眼を見開いて芳洲に向き直った。
 「父上は兄上に冷たすぎました」
 この突然の賛治の言葉に、芳洲の皺の多い顔は一瞬ひきつった。
 「どういうことじゃ」
 「兄上の若い時に、父上が江戸から無理やり対馬へ引き戻さなければ、兄上はまだまだ健在だったかもしれませぬ。兄上は終生荻生徂徠先生を師として敬慕しつづけていました。自分が生きているうちに、もう一度再会したいといつも口癖のように言っていました。兄上は対馬にいなければ、死ぬことはなかったのです。心は対馬から脱出しようと願っているのに、身体は脱出することが出来ず、ついに心と身体が葛藤し責めぎ合い、ついに歩行も出来ぬ業病に取り憑かれてしまったのです。今から十年前になりますが、兄上が参覲御供使者番に命じられた日、どんなに喜ばれたことか。兄上は荻生徂徠先生に会うために参覲で江戸へ行ける日を願いつづけて来ました。しかし、自分が無禄の身分であるためいつも参覲御供に加えてもらえませんでした。それがやっと今度こそ江戸で荻生徂徠先生に再会できる。先生とお別れした時に、三年経ったら江戸へ必ず戻って参りますと約束していたのに、いつの間にか十二年間も過ぎてしまった。夜を徹して先生とお話ししたいことがいっぱいあると言っていました。しかし、兄上が江戸へ向かう途中、すぐに荻生徂徠先生が病没なさったことを知らされます。兄上は江戸へ到着したその日、荻生徂徠先生の墓前で跪きいつまでも泣き続けたそうです」
 「顕之允が荻生徂徠殿を師として尊敬していたことはわしもよく承知している。また江戸へ出たがっていたこともな。しかし、わしは徂徠殿を顕之允の師として認めることは出来なかった。まして顕之允は雨森家の嫡男として対馬を去ることは出来なかったのじゃ」
 「父上は兄上を雨森家のためにこの対馬島に閉じ込めたのです。兄上は江戸へ出て行きたかったけれども、その思いを押さえ、雨森家の家督を継ぐために懸命になって対馬藩士になろうと努めたのです。しかし、おのれの心の病のためにそれもかなわなかったのです」
 芳洲は顕之允が死ぬ間際に枕元で「父上のご期待にそえなくて無念です」と目にいっぱい涙をうかべながらつぶやいた言葉を思い出した。「こんな体となりなさけない。治療費ばかりかかっても一向によくならぬ。これでは生きていても甲斐がない。自分は早く死んだ方がましだ」と顕之允が何度も投げ遣りに言うのを、芳洲は「馬鹿なことを言うな。親よりも早死にすれば、それこそが親不孝というものじゃ。ゆっくり温泉にでも浸かって体を休めればきっと元の体になる。気長に養生するのじゃ」と励ました。顕之允の病気を治すために、京都にいる医者の玄徹の勧めで壱岐の湯の本温泉、さらに摂津の有馬温泉へも行かせた。玄徹は艾灸、熊胆、蕃椒などの薬を送って来た。高価な人参も飲ませた。それでも、顕之允の脚の病気は治らなかった。それは心の病いが賛治の言うように対馬から脱出したいという欲望と対馬に残らねばならないという諦念との相克がついに脚の病いとなったのかもしれなかった。顕之允は詩人として名を成そうとして失敗し、やむなく侍として生きようとして、これにも失敗したのだと芳洲は思った。自分がもっと早く隠居して家督を顕之允に継がせればよかったのか。いずれにせよ、顕之允は嫡男であるがゆえに思い悩み苦しんだのだ。雨森家の嫡男でなければ、もう少し自由に生きられたかもしれないと思うと、顕之允がたまらなく不憫でならなかった。
 「父上、私は兄上のように対馬で死ぬつもりはありません。私は対馬藩の朝鮮方佐役で終りたくはないのです。私も弟の玄徹のように対馬から出て行きたいのです」
 「おまえは対馬から出て、どこへ参ろうというのか、江戸ヘ上りたいというのか」
 「そうです。しかし、その前にもう一度長崎へ参りたいのです」
 「長崎から帰ってきたばかりなのに、おまえはまた長崎へ行きたいだと」
 「残念ながら唐語がまだまだ不十分ですから、中国人の師匠に就いて四十歳になるまでに唐語を完全に習熟したいのです」
 「一体、おまえは何を考えているのか、わしにはとんと合点がいかぬ。朝鮮方佐役という仕事が対馬藩にとっていかに大切な仕事か、分かっていぬようじゃな。おまえはこの仕事を成し遂げる務めがあるのじゃ。朝鮮方佐役という仕事を片手間の仕事と考えているが、それでは将来必ず大きな禍いを招くことになるぞ」
 「父上、私が唐語稽古のために長崎へ行くのは、やがては江戸へ出て徳川家に仕官するためです」 
 「徳川家へ仕官すると。そんなことは許されるはずもない。お前は対馬藩に恩義を受けて来た人間ではないか。恩義を忘れて、どうしてそんなことが出来ようか」
 「父上がかつて徳川家に仕官しようとしてかなえられなかった志を、息子の私が父上に代わり果たそうというのです。どうして父上は快く喜んでくださらないのですか。長崎奉行の萩原義雅様が江戸へ帰る時に一緒に来ないかとまでおっしゃってくださったのですよ」
 芳洲は得意になって語る賛治を見て、深い失望を覚えた。顕之允が没して喪も明けないうちに、二年ぶりに帰国した賛治は再びまた対馬を去ろうと考えている。朝鮮方佐役の任務はどうなるのか。一瞬目がかすんだ。藩主義如公に『大学』の講釈をしていると、急に声が涸れて喉が激しく痛くなる事がしばしばある。このままでは、もしかしたら声がまったく出なくなるのではないかという不安がある。のみならず、朝起きると耳鳴りがしてうるさく、眼の中に蚊のようなものが飛びわずらわしくて本が読めない。亀之允は十三歳なのに、こんなことでは亀之允が元服するまで生きられるだろうか。いや、生きねば。亀之允に雨森家の家督を相続させるためには、まだまだ隠居することもかなわぬ。何としても死ぬ訳にはいかぬ。芳洲は死んだ顕之允の分まで生きてもう一働きせねばならぬと思うのだった。

「架橋」20 会録

会    録

第254回(1999・6・27)金史良『光の中に』
             報告者・磯貝治良      参加者10 名
第255回( 7・25)李恢成『時代と人間の運命』対論篇
              報告者・卞元守       参加者10名
第256回( 8・22)金満里『生きることのはじまり』
             報告者・大泉幸子      参加者11名
第257回( 9・26)『架橋』19号合評会 PART1
             報告者・成康秀       参加者 11名
第258回(10・24)『架橋』19号合評会 PART2
             報告者・磯貝治良      参加者 6名
第259回(11・21)『架橋』19号合評会 PART3
             報告者・朴燦鎬       参加者 10名
第260回(12・23)一年をふりかえり2000年を望む望年会
                           参加者 10名
第261回(2000・1・23)李淳馹『もう一人の力道山』
             報告者・加藤 強      参加者 6名
第262回( 2・20)金蓮花『舞姫打鈴』
             報告者・李潤一       参加者 6名
第263回( 3・26)尹健次『日本国民論』
             報告者・磯貝治良      参加者 6名
第264回( 4・23)朴一『〈在日〉という生き方』
             報告者・聖哲       参加者 10名
第265回( 5・21)玄月『蔭の棲みか』
             報告者・間瀬昇       参加者 9名




「架橋」20 あとがき

   『架橋』20号まで

       ――あとがきを借りて

▼『架(か)橋(きょう)』今号は20号である。ふつう記念号というほどのものではない。それでも発行母体の在日朝鮮人作家を読む会が一九七七年十二月に発足して二十三年目、雑誌創刊からちょうど二十年目という短くはない道のりを経ての二〇号なのだから、「あとがき」を借りてふりかえっておく。さきに載せた「総目次」も同様の意図である。
 『架橋』の創刊は一九八〇年一月。誌名は、在日朝鮮人と日本人が協同して文学を創りだしていく、その架け橋に、という意味で、なかまの蔡孝(以下、敬称は省く)が命名した。
 創刊号の「あとがき」に蔡孝は書いている。「(略)ここに一つの解答がある。それは日本人同士、朝鮮人同士の、そして朝鮮人と日本人の違いの確認という事である。それは自己の立場や意識をより深く認識することにより、他者をもより深く認識しうるという、想像力の問題としてとらえるべきものでもある。在日朝鮮人の作品を読むということは私達自身を日常もろとも白日の下に晒け出し、その根底をも問い直すことを意味する。(略)このような作業は、ついに個人を超え、国を超えて、共有しうる何かを創造せざるを得なくなるだろう。私はそれを〈架橋〉と呼びたい。このパンフレットはそこに至る里程標である」(文中にある〈朝鮮人〉は朝鮮籍、韓国籍、日本籍取得者のすべてをふくむ〈在日〉の民族的総称である)
 右の文章に「パンフレット」とあるように『架橋』は当初、冊子形式で発行された。号を重ねるごとに質量を整えていくが、四号までは小説・詩などの「作品」はなく、權星子の短歌「命運憶う」11首(光州事件関連によって囚われた金大中氏をうたったもの)を除けば、ほとんどがエッセイ、随感の類だった。そんななかで鐘眞の李恢成作品論が唯一、まとまった評論だった。
鐘眞は在日朝鮮人作家を読む会(以下「読む会」)が発足して間もなくの一九七九年からほぼ十年間、在住する奈良県から毎月のように会に参加した。難儀な持病をかかえての名古屋通いだったが、創刊号によせたエッセイ「朝鮮人としての再発見」で吐露したように、内なる民族を探ね、発見するための旅だったにちがいない。そのあいだに、いずれも李恢成論である「傷だらけの構図――『死者が遺したもの』を読んで」「『見果てぬ夢』雑感ノート」1~4を書いた。後者は「雑感ノート」などと謙遜しているが、力作だ。のちに講談社文庫版『見果てぬ夢』に解説も書いた。
在日文芸誌『季刊 民涛』の立ち上げから終刊まで編集委員も努めた。一九九〇年代以降、健康上の理由もあって会とは疎遠になっているが、『架橋』にとってかけがえのない存在だ。筆者=磯貝個人にとっても、多くを教えられ、敬愛する友人である。
冊子時代の主な文章をピックアップすると――蔡太吉「独白」「金石範の小説に触れて」文学謙「喪失と脱自」安田寛子「さらさねばならないもの」藤本由紀子「私自身をとりもどすための」劉竜子「『見果てぬ夢』の中の女たち」、それに磯貝治良の『見果てぬ夢』評「〈民衆〉という陥穽」、『火縄銃のうた』論「抵抗史を継ぐ」などである。
前記の蔡太吉、文学謙はいずれも蔡孝のペンネーム。当時の彼らしいテレのあらわれだが、その後、蔡孝は風(プン)物(ムル)など民族楽器による表現にアイデンティティの方向を求め、グループ「ノリパン」を率いて活躍中である。『架橋』への登場は偶偶(たまたま)になっているが、「読む会」草創期以来の文学を語れる友人として、得がたい人だ。
「読む会」を入口にしてさまざまな活動へ飛び立っていく、それは会の持ち味になっている。
冊子時代は『架橋』のプロローグといった段階だった。参加者の意識は、文学的関心というより〈在日〉の場合、民族的アイデンティティを探ねる旅、日本人の場合、〈在日〉を鏡として自己確立を計る――ちょっと恰好つければ、そういう「実存的」な関心が勝っていて、たがいのまっとうな関係をつくりだすこと自体がいとなみの目的になっていた。磯貝が「読む会」発足から二年間ほどのこととして創刊号に書いた「会のあゆみ」は、その事情を語っている。
『架橋』が現在のような文芸雑誌の形式をとったのは、一九四八年四月発行の五号からである。とくに意識してこなかったけれど、以来、年一回の発行つまり年刊になっている。
この号から「作品」が登場する。それは読む=討論する活動から書く=創造する活動への変化を示している。端的にいって「文学」がやってきたということだろう。小説が磯貝治良「梁のゆくえ」劉竜子「夏」の二篇。それにアジア太平洋戦争で中国大陸へ出征した父親の手紙によって構成した記録長編の中山峯夫「農民兵士・父からの手紙」と醴泉(權星子)の紀行短歌「対馬万緑」28首があり、エッセイ類の掲載もひきつづく。
雑誌『架橋』の幸先はよく、「梁のゆくえ」が全国同人雑誌推薦作として同年の『文学界』八月号に転載された。
劉竜子がみずからの原風景として少女時代の経験を書いた「夏」は、生まれてはじめて書かれた習作であるが、その後「葉かげ」「紅いチマチョゴリ」「おとずれ」など立てつづけに発表。めきめきと創作の腕を上げた。十年ほど前「旅人宿酒(チュ)幕(マク)」という魅力的な居酒屋を開業して、「店と客が恋人」の日々に追われ、残念ながらペンを折っていたが、今号で十年余ぶりの復活だ。
小説についてふりかえっておこう。
六、七号に「野辺戯の日よ」「岬をめぐる旅」を書いた松本昭子は、ずいぶん以前に磯貝が催していたジローの文学小屋の「生徒」で、奔放で特異な作風が人気を呼んだ。八号に「南京虫のうた」を発表して以来、達者な作品で読ませている渡野玖美は、石川県山代温泉の人。在日朝鮮人とのあいだに生まれた三人の娘を孤軍奮闘、育て上げ、日本人と朝鮮人のはざまに生きた体験を主題にしている。遠路を「読む会」に参加することによってそれを書けるようになった、というのが彼女の弁。第一回日本海文学大賞の受賞者で、『金沢文学』の有力な書き手でもある。
渡野玖美は『架橋』に発表した作品も収める小説集『五里峠』(近代文芸社)『帰る道』(中日出版)も上梓している。単行本のはなしが出たついでに他のそれについても記しておこう。
賈島憲治の雨森芳洲シリーズの第一回「雨森芳洲の涙」が発表されたのが八号。「――憂鬱」「――孤独」「――苦悩」「――運命」と書きつがれて『雨森芳洲の涙』(風媒社)にまとめられた。賈島が本名の加藤建二で試みている韓国小説の翻訳(十五、十六号)も貴重な仕事だ。
磯貝治良は五号の「梁のゆくえ」以降、『架橋』には欠かさず小説を発表している。一九七〇年代以降、在日朝鮮人文学にかかわる評論をいろんな雑誌に書いて、『始原の光――在日朝鮮人文学論』(創樹社)『戦後日本文学のなかの朝鮮韓国』(大和書房)を出したりしたので、『架橋』に小説を発表しはじめた当初、小説も書くのかね、と不思議がる人(特に〈在日〉の知人)もいたけれど、じつはもともと小説を書いてきた人間なのだ(全然、自慢することではないけれど)。
ともかく磯貝が『架橋』に発表した作品を中心に編んだのが小説集『イルボネ チャンビョク』と長編小説『在日疾風純情伝』(いずれも風琳堂)である。『在日疾風純情伝』は九号以降に載せた連作・羽山先生シリーズに書き下ろしを加えてまとめたもの。
小説の新しい書き手が登場して誌上にちょっと新鮮味があらわれるのは十号から。そのハシリが当時、二十歳くらいだった津田悠司で「俺たちの旅」「さまよえるオランダ人」によってみずみずしい才能をみせた。会のメンバーであった金成美と結婚し、そのほうでも先鞭をつけたが、なぜか小説を書かなくなった。
若い世代といえば、文真弓が一四号から登場。会のメンバーから「学生さんですか」などと訊ねられたりしたが、三人の娘をもつ二十歳代の母親だった。「ふくろう」「ビー玉」「大潮」「空気だま」と発表した作品はいずれも短編だが、弾(はず)むような感性と文体のきらめきに注目すべきものがあって、三世世代の〈在日〉の内面をフレッシュに表現する。目下、充電中。
文真弓とともに小説欄の常連となったのが、申明均。一三号以来「サットンの誓い」「輝きの時」「成仏を願う男」「オモニの予言」「許されぬ者」「変々凡々」を発表して、巧まざるユーモアと諧謔が人生の哀楽を語る。
ほかに大阪在住の金成根「闇のゆくえ」(一一号)、全州李家の両班の末裔を自称する李淑子「パダンの丘」(一八号)、成眞澄「手」(九号)がある。李淑子の作風にはフランス文学ふうなしゃれた感覚があり、〈在日〉文学のあたらしい展開を期待させる。成眞澄は蔡孝、磯貝らとマダン劇グループ・マダンノリペ緑(ノク)豆(トウ)の活動もしたが、いまは遅咲きのオモニをしている。
柳基洙という人が「郭公の故郷」(一五号 翻訳)「パルチザンの愛」(一七号 日本語作品)の二篇を載せているが、この人は韓国の作家。会のメンバーである間瀬昇のソウル(当時京城)時代の医学校の学友という縁である。磯貝治良の小説について一つだけふれると、「漁港の町にて」(一六号)「青の季節」(一八号)「檻と草原」(一九号)は自伝的連作であり、幼年期から高校生時代までが書かれていて、さらにつづく。
以上、作品と人物アラカルトみたいな芸のない紹介になってしまったが、小説作品をふりかえってみた。二十年間、二十号を経たわりに書き手の顔ぶれが限られてしまっている。原則として、題材を朝鮮(人)と日本(人)のかかわりに限る(在日朝鮮人の書き手の場合は特に制約はない)、としているせいなのだが、老若を問わずあたらしい書き手の登場を待ち望んでいる。
詩についてふれてみよう。詩のジャンルは小説以上に稀少だ。
先鞭を付けたのは、愛知県立大学で朝鮮韓国語を教えている文重烈で、「詩5篇 歌詞3篇」(一一号)と「詩3篇」(一二号)。いずれも朝鮮語の原文に磯貝が日本語の訳文を付して、対訳形式で掲載した。これは『架橋』ならではの企画として特筆しておきたい。文重烈は貴重な問題提起である評論「民族主義と民主主義と」(一三号)も書いた。
ほかに詩では卞元守「雪解けの頃」(一八号)と「あおあらし」(一九号)があるきり。人間まるごと詩を作る人といった趣の卞元守は、会では古い仲間で磯貝にとってもかけがえのない親友(チング)。月に一回の例会のため岐阜から参加するのを「生きがい」(本人の弁)にしている彼が、ついに一八号で沈黙をやぶったのだ。『架橋』にとっては一種の「事件」といっていい。透明な言葉のイメージが特徴なのだが、散文的長詩「あおあらし」にはさらに民族の呼吸=リズムが横溢して、辛酸の題材なのに詩風は明るい。〈在日〉が様変わりするなか、純粋に民族を語り、ナショナル・アイデンティティを求めつづける詩人だ。
『架橋』は文芸雑誌なのだから、もっともっと詩を作る人が登場してほしい。
短歌のジャンルでは何人かが作品をよせている。
權星子(醴泉)についてはすでにふれたが、さらに吉岡卓が一五号に「赤とんぼとハルモニ」11首、梨花美代子が「韓国の地ふみたり」21首(一六号)「花大根の花の咲く」20首(一八号)「厳寒の中国国境地帯からの便り」12首(一九号)、今号の北原幸子「わたしの中のわたしたち」11首がある。
吉岡卓は車椅子で旺盛に活動する青年で、一五号の短歌は韓国を訪れた体験と旧日本軍慰安婦だったハルモニとの出会いをうたっている。梨花美代子はすでに歌人として長い経歴の人で朝鮮とのかかわりをまっこうからうたいつづける。サンフランシスコ講和条約以前に在日朝鮮人と結婚し、のちにさまざまな事情あって「無国籍」のまま外国人登録、指紋押捺を強要されたが拒否しつづけた。数年前、日本名で韓国に戸籍を得た。つまり韓国に日本式のあらたな姓をひとつ創造したのだ。年齢を感じさせない楚々たる風姿の人だが、稀有な人生に似て歌には硬質のテーマ性がある。
『架橋』はジャンルの序列化をしない。記録、紀行文、エッセイの類もたいせつにしている。蔡孝の訪韓記、同人雑誌『海』の主宰者でもある間瀬昇の村松武司にかかわる追憶の記録、津田真理子(岩田多万亀)の朝鮮との出会いをつづる文章、趙眞良のルーツ探訪のエッセイなど大切にしたい寄稿だ。
いまや『架橋』の名物になった朴燦鎬のエッセイが登場したのは九号。以来、毎号発表しつづけている。特に十九号の「すべての河は海へ流れる――韓国歌謡史番外・在日篇」は、他に類のない著書『韓国歌謡史』解放前編(晶文社)をもつ彼が、その続編として最近まで韓国のメディアにハングルで発表していた解放後編の番外として日本語で書き下ろしたもの。解放後(戦後)の在日韓国人民族運動のなかで歌われた歌謡を紹介して一〇〇枚をこえる力作だ。歌謡史にとどまらず、在日韓国青年運動の解放後史をも詳細に跡づけていて、じつに貴重な仕事だ。研究人肌の朴燦鎬は、ちょっと高級感があって無類に旨い焼肉を供する「長水苑」の店主でもある。
十八号に掲載された北原幸子の自分史「この人の世の片隅で」も一〇〇枚をはるかにこえて、なおかつ端正な文体と無駄のない構成で、磯貝が思索的自分史と銘打った。苦難の人生を情緒的に描く凡百のそれとは違うからだ。身体に障害をもつ女性が、さまざまな人との邂逅、書物との出会い(在日朝鮮人文学も大きな役割をもつ)を通して、社会との関係のなかで自己を確立していく。まさに負を担って存在するもののアイデンティティの旅が、思想形成の過程として表現されているのだ。自分史というジャンルであるにもかかわらず『文学界』の同人誌評や『新日本文学』の文学の水脈欄ほか多方面で高い評価を得たのは、この作品が文学の原質を示しているからだろう。
最後に一五号には、在日朝鮮人作家を読む会が二〇〇回をむかえたのによせて、メンバーの随感12篇と二〇〇回分の会録が載っていることを記しておく。
「あとがき」を借りて、ながったらしく冗漫な文章になってしまった。ここで今後の抱負とか課題を書けばひきしまるだろうけれど、それは好みではない。十年後どんな『架橋』になるか、それを愉しみにしていればいい。行きあたりばったり、出たとこ勝負、それがわたしの人生の手法なのだ。
▼今号には、劉竜子が十余年ぶりの登場。朝鮮戦争の時代を背景に〈在日〉少年の生の寸景を描いて、小さい小説ながら好篇だとおもう。賈島憲治の「雨森芳洲の悲しみ」(二〇〇枚)は、巻末に載る広告が示すように、以前まとめられた『雨森芳洲の涙』以来のシリーズ再登場である。磯貝の「すゑの話」は『架橋』にはそぐわない作柄だけれど、先年亡くなった母への記憶のために載せた。
 ほかのエッセイ、短歌も味わっていただきたい。
▼最後に昨年十二月の望年会でおこなった、恒例の「読む会」テキスト人気投票一九九九年版である。
①徐京植『子どもの涙』磯貝治良「檻と草原」(『架橋19号』)②金史良『光の中に』柳美里『ゴールドラッシュ』金満里『生きることのはじまり』③李恢成『時代と人間の運命・対論集』朴燦鎬「すべての河は海へ流れる」(『架橋19号』)津田真理子「わが継母」(同上)
                       磯貝治良

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