FC2ブログ

2019-11

呉炳学画作品展の案内

 『架橋』の表紙を毎号飾っていただいている、呉先生の作品展があります。もっとも会場は広島県の三原市ですが・・・
 
 念のための案内です。

 とき 5月10日(土)~18日(日)
 会場 三原リージョンプラザ(電話0848-64-7555 JR三原駅より徒歩7分)
 入場無料

 磯貝はまだ決めていませんが、同行の人がいれば行きたいな、と思っています。
 行けそうな人いれば、連絡を。           磯貝治良

私の創作入門

   わたしの創作入門        磯貝治良

 ここに一編の詩があります。

  わたくしはうちがびんぼうであったので
  がっこうへいっておりません。
  だからじをぜんぜんしりませんでした。
  いま しきじがっきゅうでべんきょうして
  かなはだいたい、おぼえました。
  いままで、おいしゃへいってもうけつけで
  なまえをかいてもらっていましたが ためしに
  じぶんでかいてみました。
  かんごふさんが北代さんとよんでくれたので
  大へんうれしかった
  夕やけを見てもあまりうつくしいと
  おもわなかったけれど じをおぼえて
  ほんとうにうつくしいと思うように  
  なりました。みちをあるいておっても、
  かんばんにきをつけていて ならった
  じを見つけると大へんうれしく思います。
  すうじおぼえたのでスーパーやもくよういちへ
  ゆくのもたのしみになりました。
  また りょかんへいってもへやのばんごう
  をおぼえたので はじもかかなく
  なりました。 これからはがんばって、
  もっともっとべんきょうをしたいです。
  十年ながいきしたいです。

 これは被差別部落のある婦人が知人に宛てた手紙です。しかし「字を覚えてから夕やけがうつくしい」という題で、一編の詩として部落解放運動の中で読みつがれているものです。まさに、詩です。
 これが書かれたのはずいぶん前で、当時北代巴さんというその婦人はかなり年輩の人でした。部落差別と、それにともなう貧困のなかで小学校へ通うこともできず、文字を読むことも書くこともできなかった。人生の大半を過ぎてから、部落解放同盟がすすめている識字学級へ通って、文字をおぼえ、読み書きができるようになったのです。
 なんの工夫もない、素朴な詩です。しかし「夕やけを見てもあまりうつくしいと/思わなかったけれど じをおぼえて/ほんとうにうつくしいと思うように/なりました」というところを読んで、私は、心の底からゆさぶられるような、不思議な感動をおぼえます。
 文字を読み書きできないということは、闇の世界を生きているということでしょう。それは、生活に不便だというだけでなく、ひとが自然の感性をうばわれているということでしょう。夕やけを見て美しいと感じる感性、よろこびをよろこびとする心、それをうばわれていたということです。表現をうばわれるということは、ひとが〈人間の自然〉をうばわれるということです。
 北代さんは、文字をおぼえたとき、パッと、めくるめく光の世界へ生れ変わったのです。美しいものを美しいと感じる感性、憎むべきものを批判しうる感性をうばいかえしたのです。表現とはそういうものでしょう。
 ひとにとって、言葉による表現は、たんなる伝達機能ではなく、生きる感性の形成にとって、根源的なもの、ということです。表現とはそういうものでしょう。これは、言葉にかぎりませんが。
 この詩には、表現することによって、自分のなかで閉ざされていたものを発見し、外の世界を存在しなおさせ、それを他者に伝え、自分を、変革し、そうして生き直しをするという、-その一切が語られていると言えます。
 小説を書く、ということの原初のものが、ここにあります。


 自己表現ということが言われます。自分のなかにねむって在るもの - 感情、心理、欲望、思惟、意識化のもの、それらをめざめさせ、新鮮な姿、形をあたえる。その過程と、言葉による(あるいはすべての身振り・音・継承による)達成を、自己表現と呼んでいます。
 私たちは、この自己表現という行為を通して自分を確かめる事ができる。内にあるものをとらえなおすことができます。未分明なものをはっきりと創り出すことができるかも知れません。
 自分のなかの不安、悲哀、憤り、歓喜、怠惰なもの、静謐なもの、激越なもの - それらを小説の型=スタイルのなかで表現する。あるいは、表現する過程で、それらのものを発見し、目に見えるものにしていきます。
 ですから、小説をつくることによって、人生を生きなおしているのだと、錯覚することさえあります。もしかしたら、錯覚ではなくて、小説をつくる行為は、時々刻々、自分を変えている行為かもしれません。
 私の周囲には小説を書いて「遺す」という考えの人が、結構、多くいます。そういう考えは、キライです。小説を書くことは、何かのあかしのモニュメントではなく、時々刻々、いまを生きる「一回かぎりの存在の仕方」だ、と思うからです。だから、活字にして発表するだけの目的で小説を書いた記憶がありません。発表する、しないのあてのないところで、衝迫にうながされて書く、といったぐあいです。
 ある作品を書いているとき、その以前に書いた作品が「遠い存在」になっていると感じることが、よくあります。そして、いま書いている作品を書きおえて次の作品を書き始めると、書き始めた作品とともに自分が「一回かぎりの存在の仕方」をしていると感じて、すぐ前の作品はもはや「遠い存在」になったと、またも感じてしまうのです。まことにやっかいなことですが、だから一つの作品に執着して傑作をつくるということができず、(才能もありません)、いたずらにダンボール箱に愚作の原稿がたまっていくというわけです。
 小説を書くとは、時々刻々の生き直しの行為だ、と思っています。
 そのことと、創作を自己表現の行為だと思っていることのあいだには、深い関係がありそうです。とりあえずいえば、自己表現の意識の強弱が、創作のモチーフを強烈なものにするか否かの決め手になりそうだからです。あとのことはおくとすれば、モチーフの強さが、他者(読者)をつきうごかす、いい作品の基本条件になるようです。
 小説をつくる場合、自分と題材との関係を、ぬきさしならぬものとしてとらえ、強烈な緊張関係をもつことが、作品化の前提です。あたりまえのことです。もちろん、この緊張関係というやつは、作品のスタイル=作風によって、なまなましく現れる場合もあれば、さりげなく、ときにはひょうきんに現れることもあり、一筋縄ではいきません。ともかく、面白そうな題材だからといって、たんに小説づくりのネタとして、いいかえれば、作者自身と題材との緊張関係をないがしろにした作品は、ダメです。題材主義という、あれです。
 ところが、自己表現という意識の強さが創作のモチーフの強さを左右するとはいえ、小説づくりは、自己のなかにあるものを表現するだけではすまないわけです。


 小説をつくることによって私たちは、もの・こと(事物)・ひと(他者)・社会・時代状況を、もう一度存在しなおさせようとします。見かけや固定概念によって仮死の状態にある、もの・ひと・社会をよみがえらせる、と言いかえてもよいでしょう。
 たとえば、道端におかれている石は、それ自体として、孤独に、厳然と存在しています。しかし、ひとにとっては、もしその石を見ないなら、石は存在しません。ひとにとっては、その石と関係することによって、はじめて石は存在します。作家は、ただ石を見て、関係するだけでなく、それを描き、もういちどまったく新しい姿・かたちにおいて存在させます。石を存在しなおさせるのです。私たちは日頃、なにげなく道端の石を見て、そのかぎりでは石との関係を持っています。すでに、日常のくらしのなかで小説を書くという態勢が始まっているのです。
 私たちは、石の形や光と影のコントラスト、置かれている位置などを観察して描きます。さらに、石の孤独な心や、いま置かれている場所へ来るにいたる来歴や、石が風景、風、ひとに語りかける言葉やらを、描いていきます。そのときに私たちが使うのが、脚色=デフォルメあるいはフィクションです。この場合の脚色あるいはフィクションは、つくりごとといえばそうですが、ウソというわけではないでしょう。いうならば、それは〈もう一つの現実〉としての石です。
 私たちは、言葉を発見し、イメージをつくりだし、方法を組み立て、そうして〈もう一つの現実〉を描きだすことによって、もの・こと・ひと・社会・時代状況を存在しなおさせるわけです。
 とはいっても、もの・こと・ひとはそれ自体として、時代状況もまたそれ自体として、自己を主張し、作家の主観とははなれて厳然と存在し、動いているわけで、「存在のしなおし」といっても、容易ではありません。
 「存在のしなおし」は、表現する主体=自分と、表現される客体=他者とが関係をむすぶことからはじまります。小説をつくる自分が〈世界〉と関係しなおし、〈世界〉を発見し、そこで人生を経験しなおす。個の生きかたから、広がりの生のほうへ出ていく。つまり、表現行為をもって〈世界〉へ参加する。あわよくば、そのプロセスを自分を変革する行為の過程とする。そこに、小説をつくることと私たちのあいだの、ねんごろな関係というものがあるでしょう。
 しかし、自己表現と〈世界〉への参加ということを言っただけでは、また「小説をつくるとはどういことか」を明らかにしたことにはなりません。そもそも、〈自己〉と〈世界〉とを截然と分ける、そんな二分法ほどバカげたものはありません。自己でない〈世界〉、世界でない〈自己〉は、土台からしてありえないわけです。

4 
 話が固くなってきました。ますます固くなりそうな、悪い予感がしますが、もう少しだけ固い話を聞いてください。後で実作体験を話します。
 小説をつくるとは、表現された自己と、参加という行為によって得られた世界とを、他者=読者に伝え、他者=読者にもいっしょに経験しなおしてもらうことでしょう。そこではじめて、なにものにも代えることのできない、小説固有のはたらきが生まれます。自己表現とか、世界への参加といったことは、なにも小説でしか不可能というわけではないでしょう。日記とか、ルポルタージュとか、実践活動とか、あります。それによって自分を表現し、他者に伝え、世界に参加することはできるかもしれません。
 しかし、自分を表現することによって、小説のなかの、もの・こと・ひと・社会・時代状況、さらに筋立て、主題の中に、自己を対象化する。その対象化によって、作者の経験を他者に伝えるだけではなく、共に経験させる - そこに小説が小説として成り立つ根拠があります。小説をつくることのダイゴ味があります。人生と世界を、他者とネットワークする楽しみ、「共生のたのしみ」です。
 小説のなかに表現された個=自分を、自分であると同時に、共有の〈ひと〉として他者に伝達する。伝達された自分を他者にも共有の〈ひと〉として他者に伝達する。伝達された自分を他者にも共有の〈ひと〉として - これを普遍性をもつ人間といったりしますが - 経験してもらう。あるいは共感をもって、あるいはおおいに反発して。
 このような対象化と共有とを可能にする操作と達成が、小説のリアリティと呼ばれるものでしょう。
 この場合、ひとの描き方、世界の描き方、そして両者の関係のとらえ方は、すでに了解されたもの、固定化したものであっては、いくら他者に経験されたとしても、経験の創造にはなりません。なれあい、八百長のたぐいです。〈もう一つの現実〉としての存在しなおされた世界が経験されていないからです。
 文章・文体にたいする批判として、また作品全体あるいは主題の追求の仕方にあいする批判として、「説明的」ということがよく言われます。文章・文体が通俗的・平板であったり、ひとの描き方が概念的であったり、事物や事件の捉え方が現象的であったり、ドラマトゥルギーが固定化していたり、そういうことを指して言われる批判です。
 小説をつくるとは、私たちが時々刻々、発見し、体験しなおし、とらえなおし、つくりなおし、ひとと世界(その関係)を変革していく行為の現場なのですが、それらの強弱、濃淡が、作品の文体、筋立て、構成、主題の運動性とふかくかかわっているようです。
 この存在しなおされる〈もう一つの現実〉としての生の現場を、私たちは、小説的時間・空間と呼んだりもして、それを作り出すことに四苦八苦しているわけです。


 話が前後してしまいましたが、これから私自身の創作体験の一端を話します。創作体験などと大げさなものではなく、小説を書くときの、わたしのクセです。
 わたしの場合、小説を書こうとする、初っぱなの動機=モチーフは、いきなり主題=テーマです。かならずそうだというわけではなく、人生の体験、見聞、事件、風景などが、直接の動機となることは、もちろんあります。しかし、題材や衝動によっていきなり書きはじめることはなく、題材、衝動からテーマを抽出し、あるいはそのテーマを頭の中のイメージ界に広げてみて、そのひろがりのなかで喚起されるものが、創作動機となります。
 動機にうながされて、小説のシチュエーション=状況設定をおこなうわけですが、そのときまず、テーマを追求するのにふさわしい、登場人物の像を形づくることからはじめます。人物の年齢、風姿、環境(職業、家族、社会的位置)といった外面的な要素と同時に、人物の性格、情念の明暗、思想の概略、社会とかかわる姿勢、そのあらわれとしての思惟、行動といった内面的な要素をつくっていきます。そうして、主要人物の全体の像が目に浮かび、ひろがるようにします。
 主要人物をつくっていくうちに、その人物をとりまく人物、あるいはその人物に対する対照的な人物があらわれてきます。主要人物の対象化と同時進行のかたちで、人物の群が設定されるわけです。群(むれ)の人物のなかからは、像がどんどんふくらんでいき、われこそは主人公、と主張しはじめる人物が生まれます。作中の主要人物が二人になり、時には三人になり、とふくらんでいきます。
 主要人物が複雑になって、それぞれが彼・彼女の筋書きを歩いていき、たがいにぶつかり、最後には決定的に対決する。この複数の、それぞれに対抗的な人物の設定は、小説の運動性、したがってテーマの浮き彫りと深化にとって、非常に重要です。とくに長いめの作品の場合、そうです。
 登場人物が設定されると、大ざっぱなものですが、筋立て=ストーリィを組み立て、筋立てのなかにはさみこむエピソード、転換シーン、情景などをアレコレ思案して、大体の構成=プロットを組み立てます。この筋立てから構成へいたる過程も、テーマをヨリ浮き彫りするもの、ヨリ深化させうるもの、という目的意識にそってなされます(もちろん、これは準備の段階でのことですが)。
 登場人物の設定の場合と同様、私の場合、構成も複数の重層構造によって組み立てられることが多いようです。平行し、牽制し、融合し、反発し、進展していくことがしばしばです。
 実作を例にとって話します。一九七五年に発表した、四一〇枚ほどの作品があります。小説Aとしましょう。
 私は一九三七年の生まれで、小学二年生で日本の敗戦をむかえ、少年期に戦後を体験し、青春期に一九六〇年の反安保闘争を体験し、二〇歳代を通じてベトナム反戦運動や「三里塚」を経験し、三〇代の初頭に七〇年安保を体験し、一九七〇年代中頃からこんにちにいたるまで、日韓民衆連帯運動や部落解放・反差別の運動、指紋押捺拒否闘争などにかかわってきた、そういう世代の人間です。
 小説Aが書かれた一九七〇年代中頃というのは、五〇年代から七〇年にかけての「政治的昂揚」がうしなわれ、一種の退潮期にあった時代です。「脱革命」の潮流が台頭するなかで「連合赤軍」が突出し、一方で、日本の高度経済成長がほぼ爛熟して、人間の精神にも社会の態様にも、さまざまな矛盾と荒廃がうみだされていた時代です。対外的には、アジア・第三世界にたいする経済侵略が、かつての「大東亜共栄圏構想」の様相を呈しはじめていた時代です。つまり、八〇年代の荒廃と矛盾をすでに予想させる時代でした。
 そこで私は、自分がそれなりにかかわってきた時代状況を、七〇年代なかばという時点で集約してみたいと思いました。時代状況だけでなく、私自身がいだいていた内面情況を描いてみたい。政治的退潮状況のなかでの、一人の人物の内景と行動を自己表現として、また時代への参加のありようとして、描きたいという動機がありました。
 私が選んだ題材は、孤立した少数の青年グループが、ある兵器工場をおそい、反戦ビラを撒いて兵器の製造に抗議するという事件です。これは実際にあった事件で、マスコミにも報道され、行動に参加した青年たち全員が逮捕されました。私自身、間接的にグループと関係していたのですが、テーマを際立たせるために、実際は一〇数人の行動であったのを五人の若者たちに脚色し、最後には、季節はずれのたった一人の叛乱というふうに極端化しました。たった一人の叛乱にいたる、主人公の内面風景の流れと、時代の背景とを、作品のシチュエーションにしたわけです。
 登場人物をつくります。核になる人物、たった一人の叛乱にたどりつく人物をつくります。むろん、私自身ではありませんが、いろんな面で私自身が投影されます。
 作品の詳しい筋書きは省きますが、たとえば小説のクライマックスで、主人公は自分の子供、赤んぼを背負って兵器工場の屋上に立ち、銃をかまえるのですが、その銃砲にはタマが入っていません。この作品にはいくつかの批評が書かれて、そのクライマックス場面の設定を、非暴力抵抗の精神と評してくれた批評家がいます。しかし、私がそういう設定にしたのは、季節はずれの状況での私自身の心象風景から抵抗のイメージをひきだすと、そうならざるをなかったということにすぎません。
 主人公の像ができると、主人公の存在に誘発されて、何人かの人物が生まれてきます。
 小説Aの場合、主人公に対峙する人物として、時代の状況や社会のしくみにたいし、主人公とは対照的にアナーキーな怨念をいだく少年が登場します。主人公とはポジとネガの関係です。中学を卒業すると、辺境の村から都会へ出てきて、タテの価値系列を秩序とする社会から排除された位置で生きている少年です。高度経済成長社会の秩序から遺棄された存在です。この少年が、主人公の「正義」にたいし異議申し立てをするわけです。主人公の「近代」の世界にたいし、「土俗」の世界から対立するわけです。この二人の人物の対立を、知識階級と民衆という構図で読解した批評もありましたが、少年は、主人公にたいして、分身あるいは影のごとくまつわりつき、耳もとでささやくメフィストヘレスになっていきます。主人公の世界をたえず異化する存在なわけです。
 困ったことに、この少年メフィストヘレスの像をふくらませていくうちにドンドン膨張して、主人公と身の丈が変わらない人物になってしまいます。少年もまた、私自身だったからでしょう。二人の人物は、双面のヤヌスのごとき、私の左右の貌だったのです。
 小説Aは、こうして二人の主人公を持って出発することになります。二人の人物の設定をもって、私は小説のなかで自己表現しうる条件を得た、というわけです。
 二人の主要人物を軸に、何人もの人物が誘発されていきます。さきの主人公の性格、思想、行動を際立たせ、そして作品のテーマを追うために、それぞれに異質な人物四人を設定し、これが、さきの主人公のグループを形成します。
 また、少年メフィストヘレスとは別の角度から主人公を撃つ存在として、沖縄出身の女性が登場します。主人公が兵器工場の屋上に立ったとき、人質みたいにして背負っていたのは、彼女とのあいだに生まれた赤んぼです。彼女は機動隊の催涙ガスを浴びて一時的に失明し、入院しています。彼女は失明することによって闇の世界にいるのですが、逆に、彼女には見えてくる世界があり、その透視力が、ヤマトンチューであり男である主人公の存在を撃つ、そういう場面を描きたかったのです。小説づくりの手段として失明を設定したのではないことは、言うまでもありません。カッコよくいえば、被差別からの逆攻をこころみたかったわけです。
 ほかにも、少年メフィストヘレスの恋人である少女なども登場人物として、生まれてきます。
 いずれにしても、対抗する二人の主要人物の像がほぼ等身大、等距離で私のなかに存在することによって、小説Aの構成=プロットを組み立てる足掛かりがつかめたわけです。二人の主要人物の、それぞれの筋立てを同時進行させ、対峙させる、その二重の構成によって、小説全体の時間と空間が成立したわけです。そして二人の人物、二つの時間と空間が、ひっぱりあい、ぶつかりあいしつつ、小説が動きだす磁場の到来を予感したとき、私の中で創作の意思がはじまります。

6.
 いままで話してきたことは、じつは原稿用紙にむかうまえの段階の話です。ノートの段階です。ノートをとりながら、あぁ、ようやく小説が書けるな、と理屈なしに実感できるまで、比較的のんびりと待つのです。
 ノートをとっていると、小説のなかで使いたいな、と思う場面=シーン、事件、挿話=エピソード、情景の描写、人物の性格や行動・夢・回想などが浮かんできます。それらは脈絡なく生れてくることが多いので、ノートしたり、素描したりしておきます。原稿用紙に向かってから、小説の進展につれてそれを活かすことになります。しかし実際には、小説の進展につれておのずと生れてきたもののほうがピーンとくるように思え、ノートしたものは色あせてみえたりして捨てることが多いのです。
 ここで、場面=シーン、事件、挿話=エピソード、人物の性格や行動・夢・回想・情景の描写といった、小説の主題・状況設定・筋立て・構想をつくるうえの要素、つまり小説づくりのさまざまな要素における、実体験と虚構の関係について、話しておきましょう。
 大体、実体験とフィクションが入り組んで、イメージがつくられます。厳密には、実体験とフィクションは、どこまでがどうといった区分けなどできません。小説のなかで描かれる場合、それらは融合してしまいます。実体験にもとずくものは脚色されますし、虚構されたものにも現実ごとが投影されます。虚構でも実体験でもデフォルメされたもの-そういう両義性を持たせたいと思っています。
 さきほど、小説Aのクライマックスで主人公が赤んぼを背負って兵器工場に立てこもろうとする場面について話しました。この赤んぼを背負う男のイメージには、私自身の体験がまぎれこんでいます。
 私は、当時としては早熟だったせいか、学生時代に子供ができました。六〇年安保闘争の最中です。そこで、学生集会や街頭デモに赤んぼをおぶっていくということがありました。また、ある日、共同生活者と喫茶店で待ち合わせの約束をしたのですが、六・一五の直前のことで会合の時間がながびき、数時間も約束の時刻に遅れてしまいました。私が駆けつけると、共同生活者はネンネコで子どもをおぶって、喫茶店の窓際の椅子に掛けていました。そのときの姿が、どういうわけか頭に焼きついて離れません。そんなこんなで、赤んぼをおぶった人間のイメージが、脚色されて、小説に出てきたのだと思います。
 体験と虚構について、しばらく話します。
 一九六八年に発表した、二五〇枚ほどの小説があります。少年院のことを書いた作品です。小説Bとしましょう。
 小説Bには三人の主要人物がいます。少年院に収容されている少年J、ヒューマニスティックな傾向の青年教官、その青年教官と対照する合理主義者のベテラン教官です。
 私はこの小説を書くまえ一週間ほどのあいだ、千葉県の印旛沼近くにある少年院で寝起きしました。友人がそこで教官をしていたのです。青年教官はその友人を、ベテラン教官はその折に接した、その道二〇年のKさんを、人物づくりのヒントにしました。そして少年Jは、私自身の少年期の反抗心みたいなものをモチーフにしました。
 私自身は、十八歳くらいまで、いわゆる硬派の“不良”で、十六歳のとき傷害事件をおこして家裁送りになったことはありますが、少年院へはいったことはありません。だから、作中で少年Jが脱走を企てたように少年院を脱走した経験があるわけではありません。具体的な設定のほとんどは、私にとってはフィクションです。
 小説Bが活字になったとき、友人とKさんに雑誌を送りました。二人の感想は、それぞれ、登場人物が自分をモデルにしたとは思えない、というものでした。当然のことです。私は私のテーマにそって、友人やKさんの<実相>を借りて、青年教官やベテラン教官といった人物の<虚相>を形象化したのですから。
 小説Bには、少年院の内部のしくみ、少年たちのあいだの掟、かれらの心性や行動、院生たちと教官あるいは院側との関係、そういった“実態”をかなり詳細に描きました。しかし、創作の意図はそういった方面にはなく、少年院という閉ざされた社会を、日本の社会の構造とダブル・イメージさせて描き、そこでのさまざまな人間の関係性を追ってみたいということだったのです。支配と被支配、抑圧と抵抗、その構図といってしまえば、短絡的すぎますが、まぁ、少年院のしくみとひとの行動を通して、そんなテーマを追ってみたということでしょうか。
 その意図=テーマに則して、少年Jも青年教官もベテラン教官も、登場する少年たちも「脚色」されているわけです。ただし、そういう一種メタファーを手法にした作品であったとしても、少年院という特殊、個別の社会の現実性は描き込まなくてはならないこと、言うまでもありません。人物の形象についても同じことが言えます。

 小説Cについて話します。一九七四年に発表した作品です。
 そのなかで、主人公が、政治活動のため公安に追われている学生をかくまう話が出てきます。ベトナム反戦運動の頃、脱走アメリカ兵をかくまうことが運動の一環として行われました。私たちのグループでもその役割をつとめたことがあって、少年の面影が残るアメリカ兵を友人の家でかくまったことがあります。その脱走アメリカ兵と活動家学生がダブル・モチーフとなったわけです。しかし、アメリカ兵と学生の関係はモチーフの段階だけであって、作中に描かれた人物像は、まったく別のものになります。
 たとえば、主人公の家へ田舎から老母がやってきて、かくまわれている学生とのあいだに「友情」がめばえ、近代的なものになじめない老母の土着のにおいに、先鋭的な政治闘争によって公安から追われている活動家の心情の、ある部分がふれあっていくというふうになります。あるいは、私自身の心性の投影かもしれません。

 一九七七年に発表した、小説Dの場合は、こうです。
 この作品には、コジマはんという畸人が主人公として登場します。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』などで描いたユロージヴィ(宗教的畸人または神がかり行者)で、私のコンテクストのなかでいえば、トリックスター(道化)ということになります。
 コジマはんは、私が生れ育った知多半島の漁港のある町に現実にいたひとです。かれは、ヨレヨレにくたびれて垢にまみれているとはいえ、イギリス貴族のような服装をし、山高帽子をかぶり、ステッキを持っていました。
 日がな一日、海辺で日なたぼっこをしながら海鳥を眺めたり、町を徘徊して芥箱をあさったりします。東京テイコク大学をめざして勉強をしすぎたために、青年時代に気がふれてしまったのだ、と大人たちは言っていました。秀才の、エエトコの坊ちゃんだったというわけです。
 コジマはんは、聞きなれないコトバでよく歌をうたっていました。あれはドイツ語だげな、と、これも大人たちが言っていました。子どもたちは、ドイツ語(らしい)歌をうたいながらステッキふりふり威厳たっぷりに歩くコジマはんのあとを、ゾロゾロとついていきます。
 ここまでは、私が子どもの頃に出会ったコジマはんの現実の姿です。現実の姿を描きながら、私は、小説Dのなかでコジマはんの像を脚色し、イメージ・アップしようとたくらみます。私自身の好みとテーマに即して、トリックスターという文脈のなかでイメージ・アップするわけです。
 たとえば、コジマはんは異邦のコトバで歌をうたったり、ステッキのさきで芥箱をあさるだけでなく、ときには死んだ鼠をまるごと食べてみせたりするわけです。そして、歌をうたうときも、死んだ鼠を食べるときも、それは徹底して見せ物としてするのです。見物人とフィフティ・フィフティの関係にある道化の役廻りとして演じるわけです。だから、一つ演じるごとに、子どもたちにナニガシの報酬 ―- 一〇円玉であったり、サツマイモの干したのであったりを要求します。
 子どもたちは子どもたちでコジマはんを蔑み、残酷にたのしむわけですが、一方で、畏怖します。コジマはんがなにやら町の吉兆を支配しているかのように感じ、畏怖するのです。だから、コジマはんが住んでいる、昼でも暗く、倒れそうに傾いた、町境の一軒家が、ふしぎな魔力を秘めた家 ―- こちらの世界と、あちらの未知の世界をへだてる境い目の家、そんなふうに子どもたちの目には映るのです。
 現実のコジマはんと、小説のなかのコジマはんとのあいだには、ほかにもふんだんに脚色がなされますが、それは省略して、小説Dのタネ明かしをしましょう。
 コジマはんは、戦争中、徴兵忌避者だったのです。気がふれた振りをして徴兵を忌避してきたのです。もちろん、作品のなかでそのことを露骨に出しているわけではありません。コジマはんの姿をできるだけ具象的なイメージによって描こうとしました。コジマはんは戦争中のひとつの生き方、抵抗のかたちとして、そういう「演技」を選んだのです。戦争に敗れてから戦後もコジマはんは“きちげあそび”をやめなかったのです。 -― と、まぁ、私は小説のなかでコジマはんの人間像をそのように脚色したのです。その脚色のなかに、私なりの戦争と戦後にかかわるテーマを仮託したわけです。

 一九七〇年に発表した、一二〇枚ほどの、いわゆる“連続射殺魔事件”の永山則夫をモチーフとした小説があります。小説Eとしましょう。
 この作品は、事件が起きて半年もたたないうちに書きあがっています。題材も作風も、ずいぶんおもたい小説ですが、ものに憑(つ)かれたように書きあげた記憶があります。たぶんそれは、主人公(作中では「彼」で一貫し、ほかにも固有名詞は全然、出てこない小説ですが)の生い立ちに、心象風景もふくめて、私自身のそれをかさねることがストレートにできたからだと思います。
 永山則夫の生い立ちと私の少年期の境遇が同じということではなく、「彼」があたえた衝撃にかさねて、挿話や場面に私自身の体験をダブル・イメージすることができた、ということです。
 「彼」が逃亡をつづける後半部分は、私自身の内にある飢えの情動を追うようにして書きました。したがって、小説Eでは、他者の、しかも私自身の体験とはまったくかけはなれた射殺事件を題材にしながら(その場面を具体的に描写するということはしませんでしたが)、細部の内容はほとんど私自身の実体験ともむすびついているという、凄絶な倒錯が起こっているのです。体験と虚構とは、そのように融合する場合もある、ということです。
 ともあれ、現実の体験と小説のなかのイメージとは、虚実入り乱れて、夢と記憶の関係がたびたびそういう錯覚をおこさせるように、どれが現実ごとで、どれが虚構であるのか、区別がつかなくなるものです。それが、<もう一つの現実>をつくるという小説の、想像のたのしみでしょう。

 さて、ここでみなさんにクイズを出します。いままで例にひいてきた小説を読んでくれている人がいるかと思います。小説AからEまでのタイトルはそれぞれ何でしょう。全問正解のかたにはジローの文学小屋の受講料をタダにします。ちなみにAからEまでの小説の題名をアト・ランダムに列挙すると、「流民伝」「銃声のほうへ」「きちげあそび」「文字のない標札」「迷彩の陰画」となります。

7.
 話がずいぶんと遠まわりしてしまいました。そろそろ原稿用紙にむかいましょう。
 私の場合、原稿用紙にむかっても最初の一行が見つからなくて四苦八苦することがよくあります。なにしろ、導入部が勝負ですから。
 四苦八苦しているあいだに、小説の題名=タイトルを仮題として書くことにします(テーマの決まった依頼の評論やルポを書く場合も、大体、そうします。)。題名はテーマと深い関係がありますので、創作モチーフとテーマが同時発生することの多い私の場合は、比較的早い段階で題名が浮かびます。しかしそれは、書きすすんでいるうちに、書き終ったあとに、また推敲しているときに、変更がかさなり、三転四転することもしばしばあります。活字にするため原稿を手渡したあとで、さらに校正の段階で、変えることも、まれですが、あります。それでも、初っぱなに仮題を書き込むことはペンの勢いづけになります。
 文章が生まれてきます。コトバとコトバを組み合せて文章=センテンスをつくり、文章と文章を積み重ねて文体をつくっていきます。文体は、その小説の題材、主題、状況設定、登場人物の性格、作品の雰囲気などにふさわしいスタイルを、頭と指先に置いて、書きだすまえにおよその感じをつかんでおきます。
 図式的にいえば、テンポよく筋立てをはこぶ小説とか、現実の断面を鮮明なイメージで切りとりたい小説であれば、歯切れよさ、鋭利、簡潔、きらめき -― そういった文体を心がけます。登場人物の内面へふかく入っていこうとする小説とか、テーマ、あるいは人間と状況のかかわりを、重層的、追求的にとらえようとする小説であれば、粘りづよい、濃密な、重層的な構成をもった、そんな文体です。これも図式的なことにすぎませんが、前者は短編の、後者は長いめの作品の、文体といえるでしょう。
 しかし、こういうことはあまりアテにならないものです。文体というのは、書いているうちに、小説自体のほうから、あるいは登場人物のほうから、求めてくるものですから。それに、作者それぞれに身についた、持ち味の文体というものがあります。私の場合は、よくいえば構築的な文体、わるくいえばくだくだしい文体、と言われます。
 ただ、こういうことは言えます。AならAという小説を書くとき、初めは手さぐりで、調子が出ないものです。文体が停滞していて、冗漫になりがちです。スロースターターのボクサーの第一ラウンドみたいなものでしょうか。人物が動きだし、筋立てが展開しはじめるにつれて、文体も息づきはじめ、動きはじめ、リズムに乗ってきます。だから、私の場合、脱稿したあとで、導入部や前半部分を書きなおすことが多いのです。冗漫なところをバサバサ削ったり、薄っぺらなところを肉づけしたり、文章の眠っているところを起こしたり、表現が死んでいるところを生き返らせたり、文体に動感をもたせるようにするのです。
 文体が動きはじめ、小説の時間と空間が展開をはじめると、さまざまなイメージ、挿話、回想、夢、独白、対話、出来事、行動が、自然のいきおいで生まれてくるように感じます。すでにノートにとってある断片も活かされますが、それらが生命をもってくるのは、やはり作品を書きすすめているときです。そして、書きすすめているうちに生まれてきたものが、やっぱりリアリティをおぼえます。
 一編の小説を書き終えたとき、原稿用紙にむかうまえにノートしてあったシチュエーションや筋立て、プロットの構想が、大幅に変容することがあります。事前の構想からあふれだした作品ほど、いい作品になる、ということもしばしばです。作中の人物についてもしかり、事前のイメージからあふれだし、ふくらめばふくらむほど、魅力的になり、存在感を持ちます。
 小説をつくるとは、やはり、創造の現場ですね。作者はかれ(小説)自身の意思と力をひきだす、仲介人にすぎないのかもしれません。小説は、なにものにも束縛されず、かれ自身の意思と力で成り立つものではないでしょうか。
 私が小説を書くまえにノートをとるのは、私自身の創作意識と主題、方法を鮮明にし、小説自身の固有の意思と力をひきだすためです。つまり、私とかれの、かねあいです。

 最後に、推敲について話します。私の場合、最低二回は推敲します。一回目は、削除、挿入、場面の入れ替えなど、かなり大幅な推敲をします。書きかえ、といったほうがいいでしょう。あるページなどは書いた本人以外が読もうとしても読めないほどの原稿になります。大胆な推敲が必要です。
 2回目の推敲は精書のときで、誤字、脱字の修正、漢字、仮名、句読点、終止形の整備をします。書き終えてからの推敲のほかに、書きすすめている途中での書きなおしも、もちろんあります。
 推敲、手直しの場合、私が心がけていることは、脱稿したあと、出来るだけ月日を置いてから、することです。時間を置けば置くほど、作品と私自身との間に距離ができます。自分の作品を他者の目で読むことが出来るわけです。小説かきというのはナルシストが多いようなので、自作に思い入れすることなく、平静に向かいあうために、これは必要です。
 作者自身が、自分の小説にたいする批評家になるのです。

 そろそろ結論です。いい小説を書くための処方箋は? ありません。
 とにかく、滅法やたらと書いてみてください。描写なども余剰に書いて、消す。五〇枚ほどがふさわしい小説であれば、八〇枚、一〇〇枚と書いて、それを五〇枚に凝縮する。自分でボツにする作品をドシドシ大胆につくる。皆さん一人一人がお持ちの玉手箱から、すごい宝物が現われ出ないともかぎりません。
 文豪バルザックは、たくさんのボツ作品を書いて、恥ずかしいので、それを隠していたそうです。友人がなんとかバルザックの鼻をあかしてやろうと、かれのボツ作品を探し出して見せました。すると、バルザックは、こう、うそぶいたそうです。おれはそんな下手糞な小説を書いた覚えはない!
 最後に、いいコトバを紹介しましょう。ヘンリー・ミラーのコトバです。

  書いている -― それが大事なことだ。何を書いたかではなく、書くこと自体が大事なのだ。なぜなら、書くことはわたしの人生だからだ。書くという純粋な行為そのものが、もっとも大事なのだ。わたしが何を言うかは、さして重要ではない。書いたものはしばしば馬鹿げており、無意味で矛盾に満ちている。-― しかしそんなことは少しも気にならない。楽しかったか? 自分の中にあるものを表現したか?それが大事なのだ。それにむろん、わたしは自分の中に何があるかなど知らない。そこが実に大事な点だ。

 いかがですか。すこしは口直しになりましたか。

«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

磯貝治良

磯貝治良

「在日朝鮮人作家を読む会」へようこそ!